1月の仕事
年が明けて、調停官の執務も終わり、ロースクールの授業も終わり、ようやくたまった仕事を片づけられると思っていたら、何のことはない、富山で民事再生申立を受けることになった。週に2度以上のペースで富山まで通う。
そう言えば、東京にいたとき、会社更生申立や任意整理事件の手伝いをするために、よく静岡や東北に通ったことを思い出す。その日その日で新たな展開があり、それに柔軟に対応しなければならない。従業員であったり、取引先であったり、金融機関であったり、目の前にいる人たちのいろんな思い・思惑をぶつけられて、それに精一杯答えていく。自分を試されていることに、心地よい緊張を感じたりした。倒産の織りなす人間模様に自分がどうかかわれるのか。自分がかかわることで倒産に巻き込まれた人たちの顔が柔和になっていくのを見るときが、一番、弁護士としてうれしい瞬間だ。
投稿者:ゆかわat 21 :21
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開浄水場休止差止訴訟
京都府宇治市に開(ひらき)浄水場という水道施設がある。地下水を水源とする浄水施設だ。宇治市では、それを休止して天ヶ瀬ダムを水源とする府営水道に切り替える計画だ。その理由は、原水の水質悪化と浄水場が老朽化していて更新費がかかることだとされている。それに対して、地元住民は開浄水場休止に反対して訴訟提起に踏み切った。
住民の言い分は次のとおりだ。
原水の水質悪化というが、それはもう何年も前からのことなのに、それを今まで黙っておいて、いきなり休止の理由とするのはおかしい。
水質悪化というが、浄水後の水質は水道法の水質基準をクリアしている。原水の水質を問題にするのなら、府営水道だって同じだ。
更新費がかかるというが、つい最近エアレーション装置を設置したばかりじゃないか。それに古い施設は他にもいくつもある。どうして開浄水場だけ休止するというのか。
そもそも開浄水場は簡易水道事業として始まったものを住民の力で宇治市に移管してこれまで維持してきたものだ。それを住民に黙って廃止を決めて、それを議会に報告して承認を得たから、休止だというのはおかしい。
地域住民が一番怒っているのは、最後の点だ。飲み水をどうするか、飲み水の水質に問題があるとしたらそれをどうするのが良いのか、そのことに一番利害関係のある住民の意向を聞き、住民とともに結論を出すのが行政・政治のあり方なのに、それを無視して、行政と議会だけで先に廃止ありきを決めるという「決め方」に地域住民は反発しているのだ。
しかも、宇治市を何を血迷ったのか、地域住民が休止差し止めの訴訟・仮処分を提起したのに、その直後に休止の実力行使に出た。どうして住民が訴訟まで踏み切ったということを正面から受け止められないのか。どうして法廷で分かり合えるように説明しようとしないのか。どうしてもう休止と決めたから、後は時期の問題だけで、休止の差止めを求める住民の声を聞こうとしないのか。
行政の選択肢としては、最悪のカードを切ったとしか思えない。議会で決めたから、議会で予算の承認を得たから年度内にそれを執行する、おそらくそう考えて休止の実力行使に出たのだろう。確かに行政としてそれは「正解」だ。しかし、それは行政の中でしか通用しない「行政の論理」でしかすぎない。その「行政の論理」が住民の反発を招いているということを理解しない最悪の選択だ。
訴訟は法的話し合いをする場だ。それなのに、喧嘩の場、勝ち負けを決める場としか理解していない。旧態依然とした訴訟観には愕然とする。
「行政の常識」は「民衆の非常識」ということに早く気づいて欲しいものだ。
投稿者:ゆかわat 22 :32
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ブレイブ・ストーリー
子供と一緒に「ブレイブ・ストーリー」というアニメ映画を見た。題名を直訳すると「勇者の物語」「勇気の物語」。予告編では「運命を変えるんだ」という下りを強調していた。自分の運命を変える勇気の物語、と思って見てたら、とても重い課題(小学生にとっての親の離婚であったり、親の無理心中であったりする)を扱い、とてもブラック・シニカルな面もある映画だった。
主人公が変えたいと思う自分の運命とは、失った家族を取り戻すこと。
そのために最後に自分自身と闘うのだが、自分に勝利しても、得るものは自分の命と引き換えでしかなかった。
最後に、主人公が運命の女神に願うことは、自分の運命を変えることではなく、自分の運命を受け入れること。
人生には喜びや幸福と同じだけ悲しみや不幸があるが、その度に運命の女神に頼んで運命を変えることはできない、運命を受け入れて明日の人生を生きること。真の勇者とは自分の運命を受け入れる勇気を持つ者だというのがこの映画のメッセージだった。
映像はとてもきれいで、TVゲームの感覚で楽しめる映画だし、大人にとってもとても考えさせられる良い映画だと思った。
投稿者:ゆかわat 22 :13
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民事調停官の任期を終えて
京都簡易裁判所での民事調停官の4年の執務も25日で終わった。長いようで短い4年間だった。
調停官は調停事件における調停主任であり、裁判官と同じ権限を有している。鑑定採用決定や鑑定人尋問をしたり、未決勾留されている申立人の事件では刑事法廷を使わせていただいたこともあった。1週間に1日裁判官室で執務して、多くの調停事件を扱うことで自分自身、いろんな経験をした。
何よりも良かったことは、京都の街中のことをよく知れたこと。京都生まれ、京都育ちでありながら、学生のときから外に出て、しかも司法修習も京都でしておらず、弁護士業務も京都外での時間の方が長く、しかも事件は世の中に多数あっても私の所に来るのはそのうちのほんのわずかだから、京街中のことをほとんど知らないことに気づいた。それが、事件を通して、また調停委員を通していろんなことを教わった。京街中の再発見、京街人の再発見は何よりも楽しかった。
次に良かったことは、事件の双方当事者から本音の話を直接聞けて、事件の全体像がつかめたこと。弁護士の仕事は一方当事者からの説明しか聞けず、相手方当事者の話は相手方代理人を通して間接的に聞ける程度だ。自ずと事件の全体像の把握が困難だ。その点、最初から双方から直接話を聞けるのは、事件の全体像を理解する上ではとても役立った。以前、民事訴訟の改善方策として、私は代理人による準備書面の交換よりも、釈明処分として早期の本人審尋がよいと意見を言ったことがある(しかし、誰からも支持されなかった。おそらくは、弁護士業務を前提に考えれば、弁護士の頭上を通り越して直接裁判所が心証をとろうとすることに危惧感を感じたのだろう。)が、まさにそれを地で行ったという感じだった。
そして、最後に、その結果として、事件の落ち着きどころが見えるようになったこと。事件の全体像が把握でき、かつ、双方当事者の言い分の食い違い(争点)の立証の見込みがある程度予想できることから、この辺で双方和解するのが一番妥当ではないかというのがよく見えた。
もっとも、調停では、双方が歩み寄って合意しないと成立しないから、どうしても声の大きい方に傾かざるを得なかったのは、調停の限界でもあり、悲しいところでもあった。
それに加えて、弁護士業務を進めるに当たって、事件の落ち着きどころが最初から見えるというのは、あまりよいことではない側面がある。というのは、事件の落ち着きどころが見えると言うことは、依頼者の言い分を全面的に信用しないことにつながる。これは依頼者との信頼関係をこれから作ろうという時点では、あまりよくない。また、着手金ももらいにくいし、金額も低くなる。
いずれにしても、調停というのは、紛争を安いコストで迅速に解決するにはとても適切な制度だということに気づいた。申し訳ないが、福井にいたときは、調停は、家事調停のように必要的前置の場合と建築紛争以外は、利用したことがなかった。どうしても調停委員の出来不出来に結果が比例するからだ。しかし、京都クラスの地裁本庁にある簡裁であれば、調停委員はとても質がよいから、使い勝手がいい。これが、実は調停官になっての一番の収穫だったのかもしれない。
投稿者:ゆかわat 00 :54
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