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2018 年6 月28 日

知財仲裁機関東京に

今朝の日経朝刊に、特許侵害など国際的知財紛争を専門的に解決する仲裁機関が9月に開設される、1年以内の解決を目指す、裁判に比べて短期間で解決できることで企業の負担は軽くなるという。

でも、本当かな。早く解決するためには、原告も被告も早い準備が必要となる。早い準備ができるのであれば、今だって早く解決する。特急の準備をさせるのであれば、弁護士に支払う費用はその分高くなる。

仲裁の早期解決のメリットは、控訴、上告が認められないから。今だって控訴しないのであれば早く解決できるだろう。

アメリカから特許裁判所の元長官を呼ぶという。人だけで解決するなら今でもそういう専門家を入れればいいんだし、そういう専門家を呼ぶのは当事者の費用負担になるから、結局、依頼者に跳ね返ってくる。

結局、早い解決というのは、高くて、まずいかもしれないということではないのか。


投稿者:ゆかわat 17 :54 | ビジネス | コメント(0 )

2018 年6 月9 日

東京女児放置死事件

虐待されても「ママゆるして」に島田キャスター思わず涙 結愛ちゃんは救えた命
https://www.fnn.jp/posts/00321330HDK
誠に可哀そうすぎる事件で、亡くなった女の子の遺したメッセージは涙なしでは読めない。親なのにどうしてそのメッセージを受け止められなかったのか。人じゃない、親じゃないと思ってしまう。

しかし、ふと立ち止まって考えてみる。このメッセージの全文を公表したのは警察だ。警視庁は両親による悪質な犯行を裏付けるうえで重要な証拠と判断し、女の子が記したメモの公開に踏み切ったという。これは、親の犯行を印象付ける警察のメッセージ、そして親の反省・自白を迫るメッセージではないのか。

むしろ、私たちは、このメッセージをどうして親が真摯に受け止めなかったの、その理由は何かを考えるべきではないのか。この日記の文章だけがあったのではなくそれは日記の一部なのではないのか。親にまた嘘ばかり書いてと思わせた、何かがあるのではないのか。そこには、この親子の生活史があるのではないのか。それを抜きにして、このメッセージだけ切り出して、被疑者を親でもない極悪非道者と見るのは、誤りではないか。

反対の視点から、この親の視点からみたら何が見えてくるだろう。しつけと虐待がそれほど敢然と区別して判断できるものか。女の子が今日も外で泣いていたら、近所の人は、虐待されていると思うだろう。でも、そこには親子の約束事があり、親子のこれまでの生活史があるのではないか。
また、おばあちゃんが夜外でわめいて家に入れてくれと叫んでいたら誰でも虐待だと思うだろう。しかし、そのおばあちゃんが痴呆で、人にかまってほしいためにざわと大げさにふるまっていたらどうだろうか。
ちっちゃい女の子も、痴呆のおばあちゃんも、その証言は全面的に信用できないのに、児童虐待・高齢者虐待は、そのおそれがあれば、一時保護がされ、さらには犯罪となる。おそれのないことの立証は不可能だ。

そこに、メディアはこの東京の事件のように亡くなれば、やれ親が悪いだの、児相の責任だのとニュースにする。しかし、人が死ななければ、誤った児相の措置に対しては何も報道しない。いきおい、児相や警察も、マスコミに叩かれるのが嫌だから、犯罪予防を旗印に、どんどん家庭の中に入り込んでくる。子供が死んだら叩かれるけど、間違って一時保護しても褒められこそすれ、メディアからパッシングされることもない。
どんどんそんな社会になっていくのではないのか。
むしろ、この事件は、この犯罪は、児相と警視庁が創り出したものではないのか。
そんな目で検証することも必要なのではないか。家庭と行政と警察のすみ分けをもう一度よく考えてみる必要がある。

投稿者:ゆかわat 00 :23 | ビジネス | コメント(0 )

2018 年6 月5 日

森友文書改ざん調査報告書

正式名称は「森友学園案件に係る決裁文書改ざん等に関する調査報告書」。その全文は以下で確認することができる。

https://www.mof.go.jp/public_relations/statement/other/20180604chousahoukoku.pdf


しかし、財務省は、今後の対策として電子決済への移行を加速するというが、電子決裁は、決裁完了により文書内容が確定すること、更新履歴が残り、誰が、どのように文書管理に関与したのかが明確になるところに意義があるのに、報告書では、電子決裁完了後の文書更新は当然の前提とされており、さらには、修正の経緯や決裁権者が了解していたかどうかの事後検証が困難な場合があることが指摘されており、その打開策として、決裁完了後に修正が必要な場合は決裁を取り直すという。しかし、これは全く文書管理・電子決裁を理解しないもので、話にならない。


また、佐川理財局長が単独で、国会や会計検査院への対応に際して、応接記録の廃棄や決裁文書の改ざんの方向性を決定付けたというのに、その処分が停職3か月というのは不当に軽すぎる。
公文書管理の根幹を否定し、会計検査院にも文書の提出を拒否し、しかも、自ら廃棄を指示しながら国会では「確認したところ、近畿財務局と森友学園の交渉の記録はなかった」と故意に虚偽の答弁を行っているのであるから、明らかに偽証罪にも該当するのであって、その責任は極めて重い。

この機会に、すべての決裁は電子決裁とし、決裁後の修正はできないシステムとし、文書の更新履歴はすべて保存し、永久保存とすべきでる。紙媒体の記録ではないから、文書管理の物理的制限はない。そうすれば、後の裁判での検証も可能となる。

投稿者:ゆかわat 06 :55 | ビジネス | コメント(0 )

2018 年6 月3 日

民事裁判手続きのIT化(2)

訴訟のIT化というのは、書面の提出を書面で行わなくてもいい制度とか、毎回法廷に重い記録を持って行かなくてもいい制度、法廷に行きたい人は行けばいい制度というものではない。
訴訟のペーパーレス化、つまり、訴訟関係者が全員裁判所に行って直接顔を合わせて口頭で審理するのではなく、顔を合わせることなくネットを通して弁論も証拠調べも行い記録も裁判所で一元的に管理する民事訴訟制度を作ろうというものです。
そこでは、書面が優先します。したがって、書証がそろい、ストーリーも単純な、大企業・行政優位の訴訟進行となります。
それに対して、行政訴訟や国賠訴訟は、書面になっている通知書の効力を争い、役人の作る報告書や復命書は真実が記載されていないといって争うのですから、基本的にIT化にはなじみません。
そうすると、行政訴訟・国賠訴訟は、当事者が弁護士を付けずに行う本人訴訟と同様、大多数とは違う例外扱いです。例外扱いが個別審理を意味するものではないことは、現在の本人訴訟に対する裁判所の取扱いを見ても一目瞭然です。世の中の流れに乗れない迷惑もの扱いです。

そもそも改正民訴(現行民訴)は、それまでの五月雨式の書面(記録)中心主義の裁判を、口頭主義によって事案・争点・証拠について訴訟関係者の認識の共有を図り、当事者の納得のできる紛争解決を目指すものでした。訴訟のIT化はそれを否定するものです。
ネットでの法律相談は便利ですが、依頼者の顔も見えず、本当は何を問題にしたいのかも分からず、当事者も顔が見えないので(顔が見えないことをいいことに?)感情的になりがちで、人と人とのコミュニケーション(能力)の欠如したやり取りになりがちです。訴訟のIT化はそのようなコミュニケーション抜きの訴訟となるものです。

IT化推進論者は、IT化は民訴の口頭主義・弁論主義・公開主義との調整を図って行うと言いますが、それは口頭主義等にIT化を合わせるのではなく、IT化を進めるのに合わせて口頭主義等の意味合いを見直そうというものにほかなりません。
原理原則至上主義ではありませんが、その持つ意味をよく考えるべきです。

そして、もっともIT化に消極的であった法務省や行政が、今、IT化に乗り出してくるとすれば、それが面倒な行政訴訟や国賠を「効率的に」処理できるからです。

その辺をよく見極めないで、今の時代の流れの中でIT化には反対できないだろうとか、便利になるからいいじゃないかといって賛成するのは間違いです。よく見極めた上で賛否を決めるべきです。
ましてや、国際標準だからと言って賛成するのは大間違いです。国際標準がいいのであれば、日本語の日本の法律による裁判はやめて、英語による英米法システムに変えるべきでしょう。司法手続きは、その国の文化・システムに沿うものでなければならず、国際標準だからという議論は妥当しません。

投稿者:ゆかわat 08 :10 | ビジネス | コメント(0 )

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