今朝の日経新聞から
環境問題、地方自治問題という視点で新聞を見ると、今朝の紙面にも、
6月に大阪で開催予定のG20では「環境汚染の原因である海洋プラスチックごみの排出削減策を議論する。」
とあるし、
「関西電力は26日に発表した中期経営計画で、再生可能エネルギーを2030年代までに国内外で200万キロワット以上開発するとの目標を掲げた。低炭素社会の実現に向け、太陽光や水力など非化石電気を強化する。」
という。世の中、環境問題を語れないと生きていけないようになってきている。
また、「大機小機」では「地域の力を高めるには」と題して、ソーシャルキャピタルの出番を強調している。
「(ソーシャルキャピタルとは)コミュニティにおける人間関係を再構築することで地域力や社会の結束力を再生しようとする発想で、言い換えれば、共助の領域を広げて、限界にきている公助をカバーしようとする考え方である。」
「地域内の絆が強まることで、人口が減少する中でも地域力を高め、国内総生産だけでは測れない豊かさと幸福感を生み出せる。それが東京一極集中の是正にもつながるのではないか。」
という。行政=公助の限界から共助を拡大しようというのであれば、行政の公権力行使の権力性も弱めていくべきだろう。何でもかんでも「お上」の発想は、限界に来ているのだから捨てるべきだ。共助を拡大しつつ、それで「お上」の発想を維持しようとするのは誤りだ。
投稿者:ゆかわat 23 :14
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ESG投資(その2)
3月16日付日経新聞朝刊のESG投資関係のもう1本の記事は
市場点描 温暖化ガスと増収率に関連性
と題するレポート。
「SMBC日興証券は「熱くなる温暖化ー環境と企業価値の基礎分析」としたリポートで、企業の温暖化ガスの排出量と業績の先行きに深い関連性があると指摘した。これまでESG投資ではG=ガバメントが重視される傾向が強かったが、今後はE=環境への取り組み度合いも重要な要素になりそうだ。」「(直近のデータを分析したところ)温暖化ガスの排出が多いほど増収率が低い結果となった。こうした傾向は、温暖化ガスの排出量の開示が始まった2007年ごろには見られなかった現象だという。米電力大手のPG&Eがカリフォルニア州で発生した山火事が原因で破産申請に追い込まれるなど、市場では環境への関心が高まっている。」
という。環境法は、これからの企業人・官僚の必須単位となりそうだ。
投稿者:ゆかわat 21 :42
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ESG投資
今朝の日経新聞に、ESG投資関係の記事が2本載っていた。
1本は、「駆ける投資家魂 ESG投資良き圧力に」
ニューラル代表夫馬氏の紹介記事として、
「投資の軸が変わり始めている。とにかく利益を稼ぐ企業が選ばれる時代は終わり、環境・社会・企業統治に配慮した経営を評価するESG投資の流れが加速する。」
「ESGはすでに世界の投資のメガトレンドになっている。」
「企業は対応が遅れれば、機関投資家などが投資を手控えするダイベストメント(投資撤退)のリスクが高まる。」
「ESGの潮流を知らないと経営判断を誤るリスクがある。例えば、総合商社は以前、積極的に石炭関連事業に投資していた。だが世界で「脱石炭」の流れが進むなか、三菱商事と三井物産は発電用石炭の鉱山権益の売却を決めた。」
「夫馬はESGはボランティア的に取り組むものでは全くなく、経営の永続のために不可欠な要素だと力を込める。ESG投資のうねりが日本企業を目覚めさせ、世界で戦うための「良き圧力」になることを願っている。」
という。利益よりも、E=環境、S=社会、G=統治を重視して企業経営を行うべき時代になった。否、昔からそれが経営目標であったが、投資家からは評価されなかったのが今は、それが投資家から評価されるようになったということだ。そうしないと、投資が集まらないというのだから、法律家や学者が声を張り上げるより、よほど絶大な効果がある。
投稿者:ゆかわat 10 :17
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法科大学院教員研究交流集会公法系分科会
今日は、日弁連で法科大学院教員交流集会。
せっかく斎藤浩先生にコーディネーターしてもらったのに、行訴センターと執行部の内輪の会議になった。
公法系分科会のテーマは、公法、特に行政法の司法試験問題のあり方を平成30年の試験問題を例にとって議論することとアメリカカナダのロースクールと司法試験の関係を参考にすること。
私は次のような意見を述べた。
アメリカのようにロースクール教育がしっかりしているところはロースクール卒業したら基本的な実務家としての能力は養成できているので、司法試験は簡単なものでよい。特にアメリカの司法試験が資格試験ということを考えればなおのこと。
しかし、日本ではロースクール教育の歴史が浅く、ロースクール教育がしっかり確立されていない。そもそも日本の大学は入るは難く出るのは容易。アメリカと出発点が全く違う。そのためか、厳正な成績評価もできない。学生も教員も、ロースクールの出発点であった、実務と研究の架橋なんてどこ吹く風か、どうやって司法試験合格に合格するかしか目が行かない。
それであれば、司法試験があるべき法科大学院教育の頂上を示すしかない。
それが平成30年の試験問題は、法律と条例の関係も、提訴すべき訴訟も予め示されていて、明示された論点に答えるだけの7合目か8合目の問題しか出されていない。予備試験問題に至っては、予備校で覚えてきた処分性の論証フォームを吐き出すだけの3合目の問題になっている。平成29年の予備試験の問題のように、平成26年7月判決をどれだけ事案も全文も読んで理解しているかを問う問題からは、大幅な後退だ。それではだめだ。
どういう法的手段をとるか、法律と条例の関係をどう考えるか、基本判例の射程をどう考えるか、なんてそんな難しい問題出したら採点できないかもしれないが、しかし、採点の都合で試験問題のレベルを決めるのは本末転倒だ。
逆に、そういう本質的な、基本的な問題を出さずに、問題文の誘導に乗って要領よく答案を書くことだけを問う簡単な問題にするから、どんどん自分の頭で考える受験生が減り、受験生の答案の質が下がっていくのだ。
極論かな。
投稿者:ゆかわat 20 :03
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大機小機「すまじきものは・・・」
3月2日日経新聞朝刊大機小機「すまじきものは・・・」から。
かつて我が国には「高級官僚」なるものがいた。(略)「主として政策の企画立案等の高度の知識、技術又は経験を必要とする業務に従事する係員」として国の隅々までを見渡し、明治以降の我が国の繁栄の原動力となった。政治家にも、彼らに広い裁量権を与えつつ最後の責任をのみ込むだけの器を備える者たちがいた。高級官僚は、その専門知識の高さのみならず品位と矜持が求められ、社会的尊敬を集めていた。
それがどうしたことか、今や連日テレビに映し出されるのは、統計不正問題に携わったとおぼしき厚生労働省や官邸の幹部公務員に対する詰問の風景である。国家公務員の最高位である事務次官に対する処分も相次ぐ。(略)一体いつからこうなってしまったのだろうか。
原因は、官邸主導の行き過ぎによる、官僚を細かく管理するマイクロマネジメントではないか。官僚らは、自分たちの裁量権の範囲だと思っていた事柄でも、後から官邸から批判されるのを恐れるようになった。あらかじめ官邸の意向を探ることに腐心する忖度する文化をつくり上げ「器の小さな役人」に成り下がった。一方で、官邸との関係が近い官僚は「官邸が、官邸が」を連発して権力を振るい、「なんでもカンテイ団」と揶揄される。(略)
統計不正のような事件は本来なら、しかるべき職位にある官僚がその職責に対する高い誇りと責任感を持って職務にあたっていれば、起こりえなかったはずである。本質的な問題は、政府の「組織文化」の弱体化である。
民間企業では、その組織文化が衰えると不正が頻発し、破綻に至る。日本政府には「すまじきものは宮仕え」の組織文化に傾いてもらいたくないものだ。
誠にその通りだ。
ただし、この指摘の中で欠けているものがある。それは官僚の問題を取り上げる、メディアの姿勢・切り出し方だ。今の時代は、余裕・ゆとりがなくなり、皆が自分より「上」の者を引きずりおろして、自分を相対的に高く見せようとしているように感じてしかたない。皆がそのようなスケープゴートを探している。そして、スケープゴートにされた者は、ある一部をだけを切り出して、全体との整合性を無視して、面白おかしく揶揄し、型・枠にはめられてしまう。そう、昔の辱めの「マスク」のように。「器の小さな役人」のイメージもその一つではないか。
投稿者:ゆかわat 10 :06
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