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2006 年9 月22 日

ライブドア刑事事件

 公判での証人尋問の報道によると、宮内被告は、会社の会議で堀江被告が「何でクロにできないの。他から売上つければ何とかなるでしょ」と発言して架空売上高計上による粉飾を指示したと証言したという。
 しかし、このような堀江被告の発言が事実だとしても、それが直ちに架空売上高計上による粉飾の指示に当たるのだろうか。経営者であれば、誰でも、これだけ儲かっている(売上が多いのか、資産が増えたのか、グループ会社の中のどの会社かもおいて、法律的会計的な話ではなく感覚的は話として、儲かっている)のに、それでも赤字だと言われたら、「何でクロにできないの」と問いかけるのは当然のことだろう。だからといって、それが架空売上高計上による粉飾の故意があるかどうかとはまた別問題だ。経営者たるものはそれが架空売上高計上による粉飾に当たることを知っておくべきだということは言えたとしても、実際にそのような会計上の知識がなければ、その知識がないことの過失を粉飾の故意と同視することはできない。赤信号を見落として交差点に進入した者に対して、見落としたことが悪いからそれは赤信号を無視して交差点に進入したのだということと同じだ。
 どうもこの事件は規範の問題(こうすべきだ)と事実の問題(こうだ)というのを混同しているような気がしてならない。それは今の刑事事件一般について言えることだが。


投稿者:ゆかわat 22 :52 | ビジネス | コメント(0 )

東京出張

三井住友銀行相手の金利スワップ取引解約についての調停事件があるので東京に出張した。日弁連会館横の簡裁・家裁合同庁舎だが、10時前はエレベーターがとても混んでいる。私のような田舎者がうかうかしていると取り残されて、最初のエレベーターには乗れないわ、次に来たエレベーターにもあやうく乗り損ねるところだった。エレベーターに乗るために待っていると、知っている顔の弁護士が3人もいた。意外と京都よりも多いのかもしれない。5階の調停総合センターに顔を出すと、その横が朝廷委員控え室になっている。大きな部屋が調停委員で満員だ。すごい。
 調停の内容はまた後日にご報告することとして、調停が終わってから東京地裁の刑事法廷の傍聴に行った。相変わらずの空港並みのセキュリティだ。最近は弁護士バッジをつけていないので、今日も、一般の人に混じって手荷物検査を受ける。

 傍聴した事件は、かつて事件を一緒に担当したことのある先生が当事者になっている破産法違反の刑事事件だ。事件の内容はよく分からないが、財産隠しの詐欺破産の共犯だということらしい。
 身に覚えがないのに、ある日突然事情聴取を受け、逮捕され、否認したら保釈も認められず、長期間にわたって勾留された。そんなに大した金額でもないのに、弁護士資格を剥奪され、刑事被告人となるような事件に、やむにやまれぬ事情もないのに、何の防御もせずに、丸投げするような形で関与するはずがないではないか、というのが被告人質問の趣旨だった。
 ライブドア事件もそうだし、かつての安田弁護士事件もそうだが、最近の刑事事件は、自分のした日常的な事件処理がある日突然違法と評価を受け、そのまま長期間にわたって逮捕勾留され、総てを失ってしまうということだ。それを覆すためには、安田先生のように、多くの人がボランティアとして多大の労力をつぎ込んで無罪を無理矢理国から勝ち取るしかない。それでも、総てが回復することはない。当事者主義の刑事裁判だというのであれば、遅くとも起訴されたら直ちに保釈されるべきだ。極めて理不尽だ。
 先だっても、本当はこわい家庭の医学のTVで鈴木宗男議員のことをやっていた。毎年かかさず人間ドックを受けていたが、逮捕勾留された年は人間ドックを受けることができなかった。そして、2年ぶりに人間ドックを受診したら、胃がんにかかっていたという。これなんかも、国家賠償ものではないのか。
 そんな理不尽の中で、それをはねとばすように、先生が昔のように大きな声で、法廷で裁判官に訴えている姿を見て、少しはほっとした。
 これを転落の人生と嘆くのか、それとも天から与えられ試練と課題だと思うのか。私としては、たとえそのときは全部失うとしても、新たに得られるものがあるはずだと思いたい。別れも事故もそれで喪失を嘆いていても何も始まらない。きっとそれは新たな転機の始まり、縁だと思う。別れることによって初めて新たな出会いに出会える。失うことによって初めてそれまで持ったことのない新たな宝物を得ることができる。そう思いたいものだ。

投稿者:ゆかわat 20 :32 | ビジネス | コメント(0 )

2006 年9 月21 日

非常勤裁判官激励座談会

昨日、大阪弁護士会で開かれた、今年10月から任官される非常勤裁判官の激励の座談会に出席してきた。
一応、近畿弁護士会連合会の主催なのだが、大阪弁護士会からの任官オンパレードだった。任官された方が異口同音に委員会の委員長や理事者に勧誘され口説かれたのが直接の動機だと語っていたのが印象的だった。
これから京都簡裁でご一緒することになる阿部弁護士も出席しておられた。「いつも調停では相手方はどう考えているのだろうか?と思っていたが、調停官になって、両方の考え方が聞けるのが楽しみだ」という趣旨の発言をしておられた。私も同感だ。代理人の立場からは、自分の依頼者の言い分しか聞けない。相手の言い分は相手方代理人または調停委員会からしか聞けない。ところが、調停官になると、両代理人から、さらには両当事者から直接話を聞ける。そこが調停官として腹ふくるる思いをしなくてよい特権だ。

ところが、最近は、両当事者の言い分を聞いた上で、なお腹ふくるる思いをすることがよくある。双方の言い分が全く違うときに、相手方の言い分をそのまま他方当事者に伝えて良いものかどうか。同席調停、あるいは当事者自身による解決の援助という考え方もあるぐらいだから、そのまま伝えるのが良いのだろうということは理解できるのだが、果たして本当にそうだろうか。かえって感情的になりはしないか。かえって本件の事案の本質から離れることになりはしないか。そんなことを恐れてちゅうちょすることが多くなった。とりわけ、医療事件や建築瑕疵事件のように専門的知見を必要とする事件で、専門委員の意見を聞いたときに、そのような思いを強く持ってしまう。当事者はこの点に気づいてないようだが、本件のポイントはここにあるのではないか、そんなことを評議の場で感じることがあるのだ。
 調停の場は、訴訟のように双方当事者から主張立証を受け、判決をするための心証を持つべき場ではない。主張もざくっとしたもので、双方の主張をかみ合わせるわけではなく、反対尋問をしたわけでもない供述を前提に、一専門委員の見解をベースに形成される調停の場の心証は極めて暫定的なものであるだけに、それを当事者にぶつけるのも気が引ける。当事者間の対立のみならず、当事者と調停委員会との対立を生む契機となりはしないか。

そう思うと逆に、事案の対決点ではなく、事件を見る目を変えさせて、あるいはもっと高所から事件を眺めさせて、歩み寄ることができないか。医療事件であれば、医療ミスがあったかどうかではなく、その結果が生じたことは確かなのだから、それに対する慰謝の措置がとれないか。建築瑕疵の事件であれば、それが瑕疵であったかどうかはともかく、欠陥現象があるのは確かだから、それをどのように補修するのか、あるいは補修費用として幾ら支払うかということを考えられないか。そんなことを調停では考えている。そうすると、意外と当事者はそれに応じてくれて調停が成立することも多いのだが、逆に、こちらとしては本当はどうだったのだろうか、ミスはなかったのだろうか、ということが気がかりになって、かえって腹ふくるるのである。

投稿者:ゆかわat 22 :23 | ビジネス | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2006 年9 月2 日

カブトムシ

7月頃だろうか、竜王のあたりの道の駅に寄ったときに、農産物に紛れて、アトラスオオカブトの幼虫が箱入りで売っていた。幼虫がペアで1200円というから、とても安いので、子供にせがまれるままに買った。
それ以来、何時孵るかなと思っていたが、もう夏が終わってしまった。来年か、と思って、幼虫の入っている箱の上にかぶせていた段ボール箱をはずすと、あらら、幼虫の箱の横にメスカブトがいる。なんでこんなところに、カブトムシの飼育箱から逃げ出したカブトムシがいるのだろうと不思議に思った。待てよ、もしかしてアトラスオオカブトのメスかも。でも、見ても、日本のカブトムシのメスとサイズも変わらないし、格好も変わらないような気がする。それで、子供を呼んで、図鑑を見たら、確かに日本のカブトムシは前足が短いが、アトラスのメスは前足が長い。それで、この箱の外にいるメスカブトを見たら、あらら、前足が長い。夏が終わってからさなぎから成虫になったんだ。京都でも、夜になると、もう肌寒い。それでだろうか、アトラスのメスも動かない。それで、良いのか悪いのか分からないが、日本カブトムシの飼育箱の中に入れてやった。そうしたら、ちょっと飛んでみたりした後、すぐに土の中に潜っていった。それを見た高知帰りのオスカブトムシもアトラスを追いかけて土の中に潜っていった。夏の終わりのアバンチュール(あまり色気もないが)。

投稿者:ゆかわat 00 :42 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

最高裁長官あいさつ

裁判所時報や最高裁のホームページに、平成18年7月に開催された長官所長会同での最高裁長官あいさつが掲載されている。その中でふと気がついたのが、「司法の役割」についての言及である。

長官あいさつでは、「司法の役割」について、「複雑な社会的利害を調整し、安定と発展をもたらす基盤」ととらえられていた。今度、時間があったら、改めて調べてみたいが、従来、司法の役割は、国民の権利義務の確定であるとか、社会秩序の維持とか、社会正義の実現と人権擁護であるとか、そんな枠組みの中でとらえられてきたと思う。
これらの従来の枠組みは、たとえば権利義務の枠組みでとらえると、権利を有する者とそれを侵害する者、義務を有するのにそれを守らない者というものが想定されている。社会秩序の維持にしても、社会正義の実現にしても、そこには社会秩序とそれを乱す者、社会正義とそれをふみにじる者が想定されている。いわば、善と悪の二元論だ。

それに対して、長官あいさつには、そのような言葉への言及は一切ない。「利害の調整」という枠組みには、いずれの利害が善で悪かという理解ではなく、いずれの利害も正しいものという理解がある。いわば価値相対論だ。
刑事司法までもが「複雑な社会的利害を調整」する機能の中でとらえられているのだろうか。それとも、刑事司法は、司法の役割の中で後退したのだろうか。いずれにしても、隔世の感がある。

司法の役割がこのように「社会的利害の調整」にあるとすれば、裁判所が事実を認定して法を適用する(裁判をする)のが司法の唯一の役割ではなく、いかに和解・調停・仲裁・裁判の手法を駆使して法的紛争を解決するのが司法にとって最も重要な課題だということになろう。それとともに、裁判所のみならず、裁判外紛争解決手段(ADR)も、裁判所と同じくらい重要な役割を担ってくることになろう。
民事調停官も役割重大だ。

投稿者:ゆかわat 00 :32 | ビジネス | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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