2017 年5 月31 日
2017 年5 月30 日
結婚記念日
47回目の結婚記念日を迎えた。 息子からのメールでは「2020年は金婚式だね」とあり、自分のことながら「へぇー」と感心している。 血圧の心配は、夫婦ともどもで、私はその他に血糖値が少し心配で服薬中であるが、幸いに今すぐどうということもないので、上手く行けば、夫婦そろって迎えられるのではないかと楽しみである。 オリンピックよりも、こちらの方が早く迎えることになるが、海外旅行に行く気もないし、先日の古希の祝いと同様に、孫子と一緒に楽しいひと時を過ごせればいいと思っている。 さしづめ、今日の夕食は家内と二人でささやかに楽しむ予定である。2017 年5 月29 日
読書感想文
このブログでも「読み齧り」ということで、何度か利用させていただいた、「自警録 心のもちかた」(新渡戸稲造著 講談社学術文庫刊)である。 読み始めたのが昨年の10月中旬からだから、7カ月近くかかって読み終えたことになる。 正直なところ「分かったようでわからない。所々『良い事だ』と思っている点が、その章なりを読み終える頃には、どうも理解が違っているようだ」と思ったことが何度もある。 そういう意味で過去の「読み齧り」も著者の意図と違っているかもしれないが、勝手ながら「過去は振り返らない」ということにさせて頂く。 でも、明治の人で、なかなか文章も理解できないけれど、敢えて一読をお勧めする。 私の基本的な姿勢は、読書のみならず、過去の勉強でも、現在の学習でもそうだけれど、「100を聞いて(読んで)1を知る」である。 そんな意味で「自分に都合の良い所」だけを「しっかりと」受け止めればいいのではないだろうか。 そういう意味で、無責任で言う訳ではないが、読んだ人にはいくつかの「自分にとっていい所」は必ず発見できる本である。2017 年5 月26 日
つまらないこと
歳とともにではないだろうが、自分でも「なんてつまらないことを思うのだろう」ということはないだろうか。 つまらないことだから、一々書き留めることも無いのだが、ここ数日、何故か結構頻繁に起こるので、最初は煩わしく思っていたのだが、楽しんで見ることにした。 勿論ほとんど「すぐに忘れる」程度のことだから、一つだけしか思い出さないのだが。 なぜか突然「コペンハーゲン」という地名が浮かんできた。 勿論行ったことはないし、元々「地理」という学問は弱く、今でも家内に「方向音痴」を指摘されるくらいなのだが、「フト」なのである。 これからが楽しみである。 何故そんな言葉が出てきたのかを探る。 自分でも思うが、よっぽど暇だったのだろうなぁ。 ということは、殆ど「やるべきこと」をやり遂げてリラックスしていたということだろう。 思い当たったのは、新聞のどこかに「昔懐かしいコッペパン」という小さな記事だったからである。 それから今度は、はっきりと「そうだったなぁ」と暫く楽しい連想が始まった。 これがボケ防止になるかどうかは別だけれど、少なくとも精神的なリラックスにはなるのだろう。2017 年5 月25 日
テロ法案もさることながら
酷い言い方だと理解しながらも、野党もこぞって成立させた「テロ法案」。 残念ながら、野党の「国民の大多数が反対している」、パフォーマンスかも知れないが国会前のデモ、も結果としては何らの成果もなかった。 そこへ持って来て、はるか遠くのイギリスで自爆テロが発生。 賛成派は「だから必要なのだ」と言っている。 正直なところ、これに賛成はしないまでも、野党やデモにもあまり与したくない。 それよりも、今回のことで、防衛大臣や法務大臣の答弁の仕方は、ある野党議員が言っていたように「二人羽織り」の如くだらしないものだった。 そのだらしなさを目の当たりにして「任命責任を問われるのが嫌さに目を背けている総理大臣や与党の政治屋」は、いったい何を考えているのだろうか。 むしろそんな人をこそ、国民の力で「リコール」するべきなのではないだろうか。 演説などには参加するつもりはないが、リコールには一票を投じたい。2017 年5 月24 日
まえがき、あとがき、書評
もともと「せっかち」な性格は、なかなか治るものではないようだが、「本を読む」ということにおいてもどうもその癖は治っていないようである。 書き写しや音読については、何度か紹介しているが、「本を買う」ときには「チラッ」とだけまえがきや書評に目を「通す」ことはあるが、いきなり、パラパラとめくって、そこに書いてある「内容」と「書き方」を見て買うのが常である。 それ以外に、「まえがき」「あとがき」「書評」を読むことは殆ど無かった。 いや、現時点でもそうである。 それになぜ気が付いたかというと、やはり「書き写し」の効用だろうか。 まえがきは「どんなつもりで書き始め、すんなりと書き納められたのだろうか」。 あとがきは「まだ書き足りないこともあったのか、完全に完結なのだろうか」。 書評は「こんな見方をすべきだったのか、私とは少し違うなあ」などと思えることである。 これからは、そんなことを思いながら「隅々まで」味わいたいものである。2017 年5 月23 日
読み齧り
養生訓からの読み齧りである。 「酒は微酔、花は半開き」である。 何でも「とことんやってやろう」というのが、在職中の一つの私なりの方針だった。 だから、「酒を飲むのなら徹底的に酔いつぶれるほど飲め」だったし、「花は桜木人は武士」ということで時効だろうけれど、今でも時々やる動作だから「時効」というのは当てはまらないかもしれないが、桜の花見の時には手の届く所の枝をゆすって、無理やり花びらを盃に落とし込み、「春爛漫」を楽しむことがあり、「やはり桜はパッと咲いて、パッと散るのが信条」とばかりの行動をする。 でも、後者は前述のごとく「今でも時々やる」が、前者はできるだけそうありたい、と思うようになっている。 勿論、残念ながら、興が乗ってくると「酒無くてなんでこの世の花見かな」などと訳の分からないことをほざきながら、暫くしたらだらしなく酔いつぶれているのが現実である。 今年もまた研修所時代の同期生との飲み会が来月に予定されている。 肝に銘じる、つもりだけだが、この言葉を思い出すように努力してみよう。2017 年5 月22 日
やっぱり「維持」が大事
子供らから「古希の祝い」ということで、いつもは比較的低料金の、チェーンのホテルを利用して宿代を節約して家内と旅を楽しんでいるのだが、今回はそれなりに昔からの名門のホテルだった。 食事は夕食も朝食もそんなに変化は感じられなかったので、何が違うのだろうと、最初はほとんど分からなかった。 部屋は、確かに家内と二人だけでは広すぎたけれど、それが違いだとは思われず、館内施設についてもほとんど差が感じられなかった。 ところが、やはり何かが違うのである。 そして気が付いたのは「小さな綻び」が私にはほとんど見えなかったことである。 一概に比較などはできないけれど、トイレの床に剥がれはないか。 水栓から水がポツリポツリと零れていないか。 トイレは短い時間だけれど、排せつ以外には特に何かしなければならないことはないので、勢い当たりを見回すことになる。 そんな時、細かいことを見つけるものである。 それが今回のホテルでは私には見つけられなかったことである。 たぶん「些細なこと」でも、きっちりと維持されていることが大事なのではあるまいか。 もちろんホテルだけではなく、我が身の周りでも気を付けたいものである。2017 年5 月19 日
書き写しの効用
何度かこの項目では紹介したように思うが、忘れたからまた書かせてもらう。 色々な本を「教材」として使っているので、複雑な幹事は印刷の精度からか虫眼鏡を使っても判然としない場合があり、電子辞書のお世話になる。 これは文字の大きさが拡大できるので、非常に重宝である。 いやいや、今日は「ひらがな」のことについてである。 結論から言えば漢字と同じようなことになるが、最後の「とめ」「はね」「はらい」となるのだろうか。 ひらがなにそのようなものがあるかどうかは知らないが、例えば「あ」と言うひらがなの、最後はきっちりと丸くなっているだろうか。 最初の縦棒のとめの位置と、ほぼ同等の位置まで書けているだろうか。 「れ」と「わ」はどうだろうか。 最近そんなことに気が付いて書いていると、意外とずぼらな自分に気が付き苦笑している。2017 年5 月18 日
読書感想文
このブログでも何度か「読み齧り」として紹介した出典である、「菜根譚」(中国古典百言百話1 吉田豊著 PHP文庫刊)を読み終えた。 残念ながら、現在の中国の報道されることを見聞きしても、一つとしてこの話に合っていると信じがたいが、それはともかく自分自身に当てはめて、それなりに心打たれることも多くあった。 父の遺した本で、多分私が十分に保存に気を付けなかったからだろうが、所々のページが湿気で紙が捩れている所があるが、読む分には一向に差し支えない。 読み始めは昨年の10月からで、約8カ月近くかかって読み終えた。 200話だから、「お休み」があっても大体は毎日読んだことになる。 世知辛い世の中ではあるが、ぜひ一度読んで見られることをお勧めする。 この本は、その後「朝の左手書き写し」の材料にしている。 もう一度目を通したいがためである。2017 年5 月17 日
こんな日知っていましたか
ゲン担ぎと言うこともあるが、偶には良いことも書いてあるので、もうずいぶん前から「暦」というものを買って、毎日「今日はどんな日かな」と思って寝ぼけ眼のまま読んでいる。 大体はあんまり高い物は買わないのだが、今年はなぜか1500円もするものを買った。 その中に昨日の5月16日に書いてあるのが「性交禁忌の日」と言うもので、初めて目にする日だった。 諸姉諸兄はとうにご存じだったかも知れませんが、初めて古希を迎えた(当たり前だが)私には「ドキドキする」記述だった。 早速ネットで調べてみた。 結果から言うと、昔の農家を初めとした庶民は、夕飯の時はぼんやりとした灯りを点けて食べるが、それが終わったら「寝る」だけが楽しみだった。 「寝ながらできる楽しみ」というえば決まってくる。 そんなことから「し過ぎは駄目よ」ということで、庚申日のある日をそのように定めたのだとある。 勿論昔の暦、に基づくものだから、現代暦とは違った日だろうけれど、そんな日があっても良いのだろう。 尤も、この歳になると「言われなくても」という日が続いている。2017 年5 月16 日
またまたの読書感想文
今度は、「おもしろ 日本語ものしり事典」(佐伯誠一著 にちぶん文庫刊)である。 これも父の持っていたもので、昨年7月末から先日までの約1年弱の付き合いだった。 毎朝の左手での書き写しの材料だった。 ボケ防止と右脳訓練としての「書き写し」が目的だから、内容はあまり覚えていない。 でも、だからこそかもしれないが、「思わぬ発見」があると嬉しいものである。 勿論全てを紹介できるわけではないが、一つ二つ揚げてみる。 最近は歳とともにめっぽう弱くなったが、好きなことは変わらないお酒。 酒飲みのことを「飲み手」と言うことの由来は、ご存じの通り「金鉱掘り」の仲間から出た言葉で、ぎっちょの人は分からないけれど、大概の人は「鑿(のみ)」を左手で持つから来た、と言うこと。 では「上戸」と「下戸」はどうだろうか。 かつての租税制度でお酒が飲めたり飲めなかったりが起り。 「ヘベレケ」はカタカナで書くのが正解。 ギリシャの美人(多分そうだったのだろう)女神がお酌すると、ついつい酔いつぶれるまで飲んでしまう。 「へーぺーのお酌」=ヘーベーエリケーテから。 どうもお粗末様でした。2017 年5 月15 日
自分で決めた退職
現在プータローの身で、今更「退職」と言うのもおかしな話だが、リタイアして、父を見送ってから始めた、小学生(途中から時間が合えば中学生も対象になったが)の登下校時の交差点事故などが無いようにと街角にその時間に立ち始めた。 まだ、県下でも「見守り隊」などと言われる前だったように記憶するが、富山市当たりではすでにそのような活動があって、それをTVか何かで見ことから始めたのかもしれない。 年齢的には55歳になっていた。 「70歳まで元気でいれば続けたいものだ」と漠然と考えて、PCのスケジュールにも書き込んでいたのだが、以来15年間、とうとうと言うか、幸いにというか、満年齢の古希まで続けることができた。 自分への表彰である。 尤も、最後頃には健康麻雀とダブったりして、サボることも多くなったのだが。 それで「退職を」決めた。 グリーンのジャンパーを着用し、「ポンピー」と言う差し棒をもって、多分殆ど感謝等されることが無かったろうが、自己満足だった。 黄色いランドセルカバーをかけた子が、中学生になり、高校になった時「どこの高校」と聞くと奇しくもわが母校だったことも楽しい思い出である。 これは退職させてもらったが、まだ年に4度の交通安全の当番がある。 「消え去る」訳では決してない。2017 年5 月12 日
ありがとう
キッチンに掛けられている「箴言カレンダー」で目にする言葉である。 「言っても言われてもうれしい言葉」と続く。 このブログでも、たびたび紹介したが、古希を迎えてやはり毎朝目が覚めた時に、毎晩寝る前に他人様に聞かせる言葉としてではなく、自分に言う様に「唱える」とは違うのだろうけれども、自分にはきちんと聞こえる言葉として口に出すものである。 勿論、気に入らないことがある日も正直なところ「無くはない」。 でも、それに対しても、主に寝る時だけれど「これだけの感覚を持てるということは、しっかりと生きているということだ。 それを彼(彼女)が気付かせてくれたのだろう」と思えば、少なくとも憤懣やるかたなしという感覚で寝るよりは、穏やかに寝られると思っている。 もちろん聖人君子ではないのだから、それで収まらないこともあるのも事実である。 でも、少なくとも心のうちでは、事あるごとに呟きたい言葉である。 このブログを書いている時も「誰かが読んでくれている」ことに「ありがとう」。2017 年5 月11 日
読み齧り
連休中も「音読」は欠かしていませんでした。 やはり「お休み中」という(サンデー毎日の生活者が「何を言うか」との指摘は覚悟しながらも)気分的にリラックスしていたせいか、読んでいる内容がなんだか素直に受け入れられるような気がしました。 今回は、以前にも一説紹介したと思いますが「自警録」(新渡戸稲造著)からです。 「第26章 理想の実現は何処」の「2項 理想はどこまで行っても達せられぬ」です。 冒頭に、カーライルの、次の言葉を引用しています。 「如何なる卑しい者と言えども決してこれに絶対的満足を与えることはできない」。 在職中のある時期、いろいろな人から「理想を目指し、それを達成しろ」というような訓示などを受けたのは、団塊の世代の私たちだけではなかったでしょうし、現在でも似た様なことが繰り返されているのではないかと思います。 新渡戸氏は、もしくはカーライルはこれに反論しているのではないかと思ったくらいです。 でも、行を読み進めていくうちに「そうだよなぁ」と思うようになったのです。 むしろそうでなくてはならないのだと思うようになったのです。 家康の言葉として残されている言葉に「停滞は後退である」というのがあり、好きな言葉の一つです。 理想を実現した、として停滞していたのでは、後退でしかないのです。 実現した直ぐ後から、新しい理想が湧いてくるのです。 そうでなければならないのです。 だから「いつまでたっても達せられることは無いのです」。 リタイアしてサンデー毎日でも、気持ちだけはこうありたいと思っています。2017 年5 月10 日
紙の再々利用
書き写し用にと、裏が白紙のチラシなどの紙に原稿用紙フォーマットを印刷して、有効利用している。 資源的に果たして「有効かどうか」は正直全く問題にしていない。 インク代だって只ではないのだから、経済的にも分からない。 それはさておいて、今までは、そうして両面使った紙は、その後シュレッダーにかけて生ごみの下に敷いたりして活用していた。 これは結構便利で、ゴミ箱の下の汚れなどは殆ど吸収してくれている。 最近、これにもう一つの利用方法が追加された。 銀杏を毎朝数粒ずつ食べているのだが、殻付きのものは既に消化してしまっていて、現在は殻をむいて冷凍したものを食べている。 今まではダイレクトメールなどの空き封筒を使っていたのだが、それもそろそろ底が尽き、書き写しで使った用紙で折り紙ゴミ箱を作って、それでレンジにかけて使うのである。 封筒は素材にもよるのだろうが「熱ムラ」が出来てしまうのだが、これは「青天井」だから全くそれが無い。 自分だけの得意技である。2017 年5 月9 日
読書感想文
「ことばのおもしろ雑学事典」(Qライターズクラブ・編著 西東社刊)という本である。 これは間違いなく父が買っていた本だが、1989年(平成元年(昭和64年))発行となっているから、すぐに買っていたとしても81歳のときに買った本ということになる。 84歳で亡くなっていて、認知症として気が付いたのはその2年くらい前だと家内から聞いている(単身赴任だったり、出張続きだったりして、家のことには殆ど無頓着だったことを今更ながら詫びるしかないのだが) ので、それまでは読んでいたのだろう、所々にその「跡」が見られる。 勿論、すべて読んだのかと言われるとどうもそうでもないようで、その「跡」も見られるところがある。 ともかく、雑学関係の本を読み漁っていたようであるが、タイトルにある様に「おもしろ」と言うだけあって、読み飽きない面白さがある本だった。 もちろん、何かのネタにしよう、というつもりで読むと、覚えた先から忘れる年齢になっているので、1年近くも掛けて読む継続力も無かったろう。 本文を紹介する訳にはいかないだろうから、章のタイトルだけを紹介してその面白さを想起してみてほしい。 消費税が3%の時代で1000円未満の本だから、今買うとしてもそんなに高価な本ではなかろう。 尤も、私自身は古本として寄贈するつもりである。 1. 動物と植物にまつわるオモシロことば 「にべもない」の「にぺ」って、何のこと? 2. 商売とお金にまつわるウハウハことば 本当の「割勘」は、損をすることもある!! 3. 顔と身体にまつわるナルホドことば 玄人はだしっていうけど、玄人が裸足で何するの? 4. ギャンブルと犯罪にまつわるドキドキことば 「ゲンをかつぐ」の「ゲン」って、いったい何のこと? 5. 色と数字にまつわるイロイロことば 「青二才」って、魚の呼び名のことだった!? 6. 人情と生きざまにまつわるウンチクことば 「あさましい」と「さもしい」は、どう違う? 7. 酒とグルメにまつわるオイシイことば 懐石料理と会席料理は、どう違う? 8. 地名と人名にまつわるオヤオヤことば 出世の関門である「登竜門」って、どこにある門? 9. 男と女、SEXにまつわるニヤニヤことば 女性の若い愛人をどうして「ツバメ」というの? 10. 暮らしと風習にまつわるワケシリことば 「ズボン」の語源についての珍説!!2017 年5 月8 日