泉南石綿禍訴訟大阪高裁判決
大阪高裁(三浦潤裁判長)で、今日、元従業員・周辺住民の逆転敗訴判決が言い渡された。 新聞報道によると、大阪高裁は「新たな化学物質などを弊害が懸念されることを理由に規制を厳しくすれば、工業技術の発達や産業社会の発展を著しく阻害する」として規制の時期や内容は行政による高度に専門的な判断に委ねられているとして、国の規制には一応の合理性があり、規制権限の不行使は国賠法上違法とはいえないとした これまでの判例法理では、被侵害法益が生命、身体の安全にかかわるときは、国の規制権限の不行使を違法とすることが多く、地裁判決でも、旧じん肺法が成立した昭和60年までに国が規制権限を行使しなかったことを違法としたが、今回の判決では、その時点ではまだ産業発展を優先させた国の判断を是認したということになろう。せっかく、水俣病国賠訴訟で築き上げられてきた国民の生命・身体の安全を優先する考え方が、クロロキン網膜訴訟の水準にまで下がった感じがする。 ちなみに、三浦潤コートでは、開浄水場休止差止訴訟でも敗訴判決を受けて、現在、上告・上告受理申立中だ。東京高裁 土地区画整理法76条許可取消控訴事件
今日は、東京高裁に出張。土地区画整理の事件で、仮換地指定処分の取消を求めているが、従前地の上に商業施設が建設された。商業施設の建設に当たっては、建築確認のほかに土地区画整理法76条の許可がされている。商業施設が建築されたままでは仮換地指定処分の取消を受けても、現状回復ができない。そこで法76条許可の取消を求めた。地裁では、従前地の所有者には76条許可の取消を求める原告適格がないとされたので、控訴した。 今日は、その控訴審の第1回期日だ。 裁判所にはロースクールの学生が大挙して押し寄せてきている。私の事件の法廷にも多数ロースクール生が傍聴にきていた。相手方の弁護士のところにもエクスターンの学生が来ていた。 ところで、原告適格なしで1審却下判決の場合は、控訴審では原審への差し戻しを求めるのが控訴の趣旨となる。本件でもきっとそのように控訴の趣旨を訂正の上控訴状陳述となるだろうと思っていたら、裁判所は原判決取消、原処分取消を求める控訴状のまま控訴の趣旨の陳述を認めた。 これって、もしかして原処分取消の逆転勝訴判決が出るのかも。東京高裁は「神々の世界」だから何があるか分からない。期待していいのかな。 ロースクール生には今日の法廷のやりとりの意味が分かったかな。天竜川下り転覆事故
天竜川下り観光船の転覆事故を受けて、国土交通省近畿運輸局は保津川下りを運航する遊船企業組合に立ち入り検査に入り、乗員全員に救命胴衣を着用させるよう緊急指導をした。ところで、新聞記事によると、法は12歳以下の乗員に対してのみ救命具の着用を義務づけているばかりか、保津川下りの舟のようにエンジンを積んでない舟には乗客の救命胴衣着用の法律上の義務はないという。
しかし、川下りを規制する海上運送法及び同法施行規則をざっとみる限りは、法は救命胴衣の着用義務を明文では規定していない。
別の報道では、船舶職員法で12才未満のみ救命胴衣の着用を義務付け、それ以外は努力規定となっているとの記事もある。しかし、船舶職員法をざっと見る限りそのような規定はない。そもそも船舶職員法は船舶職員に関する法律だから、船舶の乗客に関する規定がなされているはずもない。
そうすると、考えられるのは、一般旅客定期航路事業者が国土交通大臣に届け出る安全管理規程の中で、事業者自身が輸送の安全を確保するための事業の実施に関する事項として自主的に定めたということだろうか。
新聞記事から推測すると、安全管理規程には国土交通省の定めるモデルがあるのであろうか。そして、安全管理規程に定めた以上は、それを遵守する義務があるということだろうか。
もし法の仕組みがこういうことであれば、緊急指導や立ち入り検査というのは、筋違いという感がする。
そもそも法は「法律の施行を確保するために必要があると認める場合」に限って立ち入り検査を認めているだけであるから、法が直接的に救命胴衣の着用義務について定めていない以上、立ち入り検査の根拠・必要性を欠くと思われる。
それに、これまで保津川下りでは天竜川のような事故もなし、保津川遊船企業組合の安全管理規程に疑義が生じたという事情もうかがえないのであるから、立ち入り検査の必要はないのではないか。
行政指導にしても、法律上それを行う要件は明示されていないとしても、処分と同様の事実上の効果・社会的制裁を伴うものであるから、それを行う必要性・相当性が求められるというべきだ。
規制立法にはその規制の必要性と相当性を支える立法事実が必要だ。行政指導も同様というべきだろう。今回の緊急指導の合理性を支える事実は一体何なのだろうか。よそで事故があったということがその立法事実になるのであろうか。
福島第二原発訴訟
自治実務セミナー2011年6月号に掲載された櫻井・学習院大学教授の「行政法講座55 福島第二原発訴訟」から紹介してみよう。原発訴訟の「真実」が明らかになるだろう。住民は原発訴訟で原発の安全性を主張する。住民は「施設の安全性を言葉の素直な意味として正面から問い、生身の人間として、日々の生活における自分や家族、隣人を思い描きながら施設は大丈夫なのかという問題を投げかける。」
それに対して、原子炉設置許可処分権者である国は、施設の安全確保につき第一次的な責任を負担するのは設置者であって、国は行政規制により安全の確保に間接的に機能することが要請されるにすぎないとして、法の定める安全審査をすれば足りるとする。
ここにおいて安全の意味のすれ違いが生じている。
これに対して裁判所は原子炉設置許可処分は専門技術的な裁量処分であるから、科学技術的問題について裁判官は全くの非専門家であり、訴訟には証拠収集上ないし心証形成上の制約があり、取消訴訟における裁判所の審理の本質に照らして、司法審査の範囲は狭くならざるを得ず、行政当局の判断を尊重せざるを得ないという。
原子炉設置許可処分における施設の安全性判断の責任は「お見合い」といわれる無責任状態が生じる。
結局、裁判所は「原発をやめるわけにはいかないだろうから研究を重ねて安全性を高めて原発を推進するほかないであろうなんて言いながら住民側の請求を棄却」するのである。
「判決は基本設計のみを対象として安全性があるというにすぎない。現実に建設され運転されている原発が安全性を有するかは別問題である。」
国民は裁判所に安全性を問うが、それに対して責任を持つ機関はどこにもないのが現実である。
最後に、櫻井教授の結びの発言を引用しておこう。
「裁判所に期待されるのは厳しい法律論であって、評論家みたいなコメントではない。裁判所が施設の安全性にかかわる技術論を法律問題として扱わない、あるいは扱えないのであれば、原発訴訟に実質的な意味はなく、それが法治国家における最後の手段でっはありえないことは指摘せざるを得ない。」
泊原発3号機営業運転
泊原発?号機が通常運転することになった。 もっとも、通常運転といっても、既にフル稼働で送電していたというのだから、今更「営業運転」といってもという気がする。 ところで、新聞記事によると、菅首相は記者団からの「十分安全か」との質問に対し「原子力安全委員会でもきちんとチェックしたと聞いている」と答えたという。 この原子力安全委員会でもきちんとチェックしたというのがくせ者だ。 要するに、官邸サイドとしては安全かどうか分からないということであり、かつ、最も重要なことは「安全だ」ということと「原子力安全委員会がきちんとチェックした」というのは全く別次元のことであるということだ。安全保証はまったくされていない。まやかしだ。投稿者:ゆかわat 17 :53 | ビジネス | コメント(0 )
土壌汚染国直轄で
16日の日経朝刊に、福島第?原発事故の放射性廃棄物の処理を国直轄で行う特別措置法案の骨子がまとめられたとの記事が載っていた。 しかし、国には手足がないのに、どうやってがれき処理をするのだろう。処理業者に委託するにしても、国がそのチェックをできるのだろうか。 しかし、最大の問題は、放射性廃棄物のがれき類の最終処分場の確保だ。どこに捨てるのか。住所決定権は誰にあるの?
大阪市と八尾市にまたがるマンションに入居した住民Xが八尾市に住民登録を受けたため、それを不服として大阪市に転入届を提出したところ、不受理処分を受けた事件(大阪地裁平23年6月24日判例集未搭載)がある。
Xとしては、大阪市には敬老優待乗車証があるが、八尾市にはそのような制度がないので、固定資産税も大阪市に納付しているので、大阪市から敬老優待乗車証の交付を受けたいというのが一番切実な理由だった。
大阪地裁は、Xの居宅住戸は八尾市側にあり、その面積の大部分が八尾市側にあるから、Xの住所は八尾市にあると認められるので、大阪市が転入届を不受理処分としたのは違法ではないし、住所が大阪市にない以上、大阪市の実施要綱に住所要件があるのであるから、交付要件に該当しないので、敬老優待乗車証の交付を受けうる地位にあるとは認められないとしてXの請求を棄却した。
しかし、この判断には以下の通り疑義がある。
1.本件不受理処分の違法性について
本件マンションのように、建物が二つの行政区画にまたがって建っている場合、その生活の本拠は大阪市にも八尾市にもいずれにも生活の本拠があるということになるのか、それとも生活の本拠は客観的にいずれかに定まるという前提に立つのか。
この点は、生活の本拠は客観的にいずれかに定まるとする原審の立場が正当であると思われる。
しかし、生活の本拠が客観的に一つに定まるということと、それを行政上の区域割のどこに認められるかということとは別ではないか。すなわち、本件では生活の本拠が複数の行政上の区域にまたがって存在するときに、その生活の本拠をどこの行政上の区域にあると観るべきか、あるいはどこの行政上の区域にあるとみるのが妥当かというのが最大の争点である。
ところで、この点、原審は、生活の本拠は行政上の区域のどこか一つに決めるべきだという前提に立っているが、はたしてそれが妥当か。生活の本拠が複数の行政上の区域にまたがって存在している以上、その生活の本拠をそれぞれの行政上の区域にあるものと考えるのが自然であって、それは生活の本拠は一つであることと何ら反するものではない。
したがって、Xは大阪市民でもあるし、八尾市民でもあるというべきではないか。但し、それが二重の権利を意味するものではないので、投票権や社会保障上の地位等はいずれか一つに決定される必要があるし、逆に、そういう性質の権利利益でない限り、Xはいずれの権利も享有することができるし、その裏返しとして義務も負うと考えられる。
もし生活の本拠はいずれかの行政上の区域に決定されなければならないとしても、本件でされたように、大阪市長と八尾市長の協議ないしその認定のみによって住所がいずれかが決定されるというのは、生活の本拠を決定する主体が住民であることを無視した考え方であって正当ではない。住所決定の自由が住民の憲法上の権利である(憲法22条1項居住の自由)ことに照らせば、住所の決定に当たっても、住民の選択権ないしは少なくとも住所決定に当たっての手続参加権なり意向聴取の機会は与えられるべきである。したがって、行政主体の長の協議に基づいて行政主体が住民の住所を認定したというのは、当該住民の意向すら聴取していない点において明らかに違法である。
2.敬老優待乗車証の交付を受けうる地位について
原審は敬老優待乗車証の交付を受けうる地位は住所(Xが大阪市民であるかどうか)によって決定されるとして簡単に棄却した。これは、先の地位は住所の効果であると考えるものである。
しかし、敬老優待乗車証の交付の法的性質は、大阪市と住民との間の公の施設の利用料金に係る契約である。住民であることによって当然に交付されるものではない。
高根町給水条例事件最高裁判決の趣旨に照らせば、住民に準じる地位にある者に対しての公の施設の利用は平等に取り扱われなければならない。
しかるに、原審のように、大阪市民でないことのみを理由として、大阪市民に準じる地位にある住民について、大阪市民と明らかに異なる取扱いをすることは憲法上の平等原則並びに地方自治法及び地歩公営企業法に反するものであるから、そのような取扱いを定める大阪市実施要綱は違法であり、またそのような取扱いも違法である。したがって、原告が敬老優待乗車証の交付を申請したときは大阪市はXが大阪市民ではないという理由のみでその交付を拒否することは違法である。
投稿者:ゆかわat 23 :43 | ビジネス | コメント(0 )
ロビン・フッド
秋の夜長ならぬ、京の夏の暑くて寝苦しい夜中に、ビデオでロビン・フッドを観た。自分の知っている(と思っていた)、榊原郁恵の歌のイメージとは、良い意味でも悪い意味でもほど遠い映画だった。映画の中のロビン・フッドは、国王に忠誠を誓い、村を略奪から守り、イギリスをフランスから守ったのに、最後は国王からアウトロー扱いされた弓の名手として描かれていた。
その生き様には非常に惹かれる。特にrise and rise until lamb to the lion.(繰り返し立ち上がれ。子羊が獅子となるまで。)という言葉には強く共感した。「連戦連敗の弁護士」女優竹下景子のお父さん弁護士の姿と重なる。私も最後までそうありたいと願うものだ。
ひぐらし
台風が過ぎ去ってからここ何日か、朝晩がめっきり涼しくなった。窓を開けていると、寒いぐらいだ。そのためだろうか、先ほど、急に窓の外からひぐらしの鳴く声が聞こえてきた。
1匹だけ、京の夜に鳴くひぐらしは、一層涼感を味あわせてくれる。