2017 年2 月28 日
2017 年2 月27 日
総理大臣に面会できた
最近、何かあると「総理大臣に面会した」という記事が目につくようになったと思うのは、私だけだろうか。 失礼な話だとは思うけれども、会った双方は、相手がどんなことを言うか予め分かっているのに、涙を流したとか、感激したとかと大仰に記事になる。 でも、その後日談は、殆どお目にかかることはない。 もちろん、具体的な行動につながることは殆どなかろう。 某市の長たる方が、外国での地震遭遇で亡くなられた方に対して「自分で好きで行ったのじゃないの」という発言は個人的には許されないと思うけれど、田舎の猿芝居のような場面をもっともらしく報道する記事には、正直反吐が出そうである。 素直に見れば「ただのガス抜きと、あわよくば人気取りだけ」だったと思うのだが。2017 年2 月24 日
講習会になっていない
今までにも何度か紹介したが、町内の有志から乞われてPC講習会をやってもう7年余り経つ。 最初の頃は、それなりに自分で問題を探してきたり、漫然とWordやExcelを最初から教えてほしい、またともかく最初からという方もいらした。 それがこれだけ時間が経てば、みんなそれなりに知識も付けられている。 年齢ばかりではないと思うが、やはり次回まで記憶が持続しない方もいらっしゃるが、それでも感心なことは「どうしてもこれをやりたい」という気持ちがあることである。 最近は、誰かが持ち込んできた疑問を「それは私も知りたい」ということから、少しずつ知識を増やされていることである。 また、そうでない時には、黙々とゲームを楽しんだり、ネットの検索を楽しんだりされていて、「講習会なの?」というようなときもあるが、それはそれで良いと思っている。 時々、最近のIT業界の情報でAIやIoTなどの情報も伝てはいるが、興味は人それぞれである。 こんな「講習会らしくない講習会」を和やかに長く続けたいものである。2017 年2 月23 日
面白い手
健康麻将は楽しい。 今までは、本音を言えば「勝つこと」だけが目的だったので、インチキはしたことはないが、ひたすら「勝つために」に主眼を置いていた。 ところが、現在の私の場合、脳活という意識でやっている健康麻将は「手作りの楽しさ」がまず第一に来る。 平和でも1枚変わればタンヤオになる場合があるし、2枚変われば三色になる場合があると、急がずゆっくりと待つ。 そんな中で、先日面白い手になった。 変則4面待ち、という手である。 索子が5,5,5,6,7とあり、萬子が4,5,6,6,6で一面子はタンヤオで構成されている手である。 3万がドラであった。 聴牌してすぐに立直、一発でドラ3万を自模り裏ドラが載って跳満。 麻雀をご存じない方には分からないだろうけれども、在職中のにも似たような手に一度だけお目にかかったものである。 役満と称される手は最近上がっていないが、偶にはこんな手も、十分に楽しませてくれる。2017 年2 月22 日
ビデオ録画の画質
便利さの鈍ら、の為せる業であるが、先日いつものように録画予約をしようとしたら、内蔵の装置はもちろん外付け装置とブルーレイディスクも「容量が足りません」と出て予約ができなかった。 仕方なく、興味の薄いものは見ずに消してしまったのだが、今後のことも考えて、何か方法が無いかとマニュアルを見た。 標準だと「最高画質」で録画するようになっているのだが、画質を落とせば容量が少なくなるという「当たり前」のことに気が付いた。 そこで「映像を見たい」番組以外は「標準画質」にすることにした。 そうすることによって、どうにか今週の予約は収めることができたが、これからも漫然と予約するのではなく、番組によって画質を適宜変更してやることに、今更ながら気が付き励行したいものだと思った。2017 年2 月21 日
「何でも自動」は考え物
我が家にはトイレが2か所あるが、一つは用便後手動で水を流す方式で、もう一つは用便後適当な時間をおいて自動で水が流れる方式である。 ところが、人間は昔からいわれるように「水は低きに流れ、人は怠惰に流れる」で、どうしても楽な方に慣れてしまう。 世の中の自動トイレがどれくらいの割合になっているかは知る由もないが、確かに便利ではあるが、人としての「常識」に欠ける方向に向かっているのではないだろうか、と心配になってくる。 子供の頃に、トイレが終わった後、戸をしっかり締めないと「ケツ拭かず」と叱られたものである。 それを助長するような「自動」は果たしてこのままで良いのかどうか、少し不安になってくる。 もちろん、自動で流れる方も「手動」にする方法が用意されているのだから、ハンディキャップを持っていないうちは「手動」にしておくべきではないだろうか。2017 年2 月20 日
やっぱり少数で飲むのが楽しい
元々お酒が好きだから、在職中も「人付き合い」ということで、いろんな「飲み会」に参加した。 リタイアしても、「参加する」ことは殆ど欠かしていないが、だんだん沢山の人との会には足が遠のきつつある。 それというのも、話題があちらこちらでテンデンバラバラになっているからで、残念ながらそれについていけないからであろう。 もちろんこれは私個人の問題だから、他人様にとってはどうでもいいことだが、そんなことお構いなしに「お誘い」がかかる。 先日、高校の同級生5人の少数での飲み会があった。 これは楽しかった。 たしかに、話題が点々と移るのだが、全員がそれについて行くのである。 だから「置いてきぼり」になることはないし、無理せずについて行け、呵々大笑で過ごすことができた。 大人数も良いが、こんな少人数での飲み会も、この歳になると楽しい。2017 年2 月17 日
本を読むのが好きだ
ある新聞(ネットの無料読者だから、特定することはしない)の記事を読んでいて、ある高名な作家(私でも知っているという人だから高名なのだろう)は、幼少時に「本ばかり読んでいると肺病になる、外で遊んで来い」と読書を抑制されたそうだ。 子供の頃、親を初め大人から「駄目だ」と言われるとやりたくなる思いは、誰でも多かれ少なかれお持ちだろう。 我が家は、私が小5まで「貸本屋」をやっていた。 だから、昼は外で遊ぶが、夜は布団の中に本を持ち込んで結構多く読んでいたものである。 おかげで良かったことは「漢字が読めるようになったこと=国語の成績が勉強もしないのに理解できたこと」だった。 もちろん、悪いことも幾つもあった。 今でも引き続いているのは「げなし(富山弁だと思います。興味があれば調べてみてください。決して「良い意味の言葉」ではありませんが)な性格」だろう。 当時は、結構「エロ本」なども紛れ込んでいたものである。 もちろん、当時言われた「カストリ雑誌」などは流石に無かったが、際どいものは結構あった。 それを床の中に持ち込むと、元気旺盛な体の持ち主だから、やることは決まっている。 今はそんな本も大体卒業したというか、ネットでそれよりもすごいものがビデオで流れるから、全体的に興味が削がれている。 でも「本好き」は治らない。2017 年2 月16 日
学習
昨年からいろいろな物を「学習」することにしている。 一つ一つを紹介することはしないけれども、この歳になると「よーし、調子が出てきた」ということになると、どんどん章を進めようという気持ちになる。 そして、ホッと一息ついて、お茶でも飲んで「明日もまたこの調子でやるぞ」ということで、今日は終わりにする。 ところが、翌日は「昨日あれだけ覚えて納得したのに」ということになり、結局昨日の反芻ということになる。 それならまだいいが、何かの都合で、翌日出来ないとなると、次の日には「何をやっていたのだったっけ」ということになり、元の木阿弥状態になってしまい、それが重なると「やーメタ」になってしまう。 それをしないためには「今日はこの章や節だけ」ということにするのが私のやり方だ。 調子が良かったら、何度か繰り返せば、一日や二日抜けたって、相当覚えている。2017 年2 月15 日
今更ながら気が付いたIMEの高度化
これを書いている時にも、既に「無意識」に使っているIMEだけれど、その変換能力の高さに、今更ながら気が付いた。 最近の「時事用語」などもかなり高度に反映してくれる。 また、「これじゃ無かったよ」というので「変換」キーを押すと今まではその文字以降については範囲を広げてくれたのだが、最近は「少し遡った範囲」にまで広げて「これではございませんか」と示してくれるのである。 以前は「時事用語」などは一文字一文字変換させて、それを登録しておく、という細工が必要だった。 以前にも紹介したと思うが、私が「ワープロ」(この言葉もすでに死語か)を最初に使ったのは昭和57年だった。 元来「字が下手」だったから、その前にも和文タイプも習ったことがある。 最初のそれは、未だ市販製品ではなく、「実験段階」のものだった。 そこで改めてネットで調べると、19878年(昭和53年)に東芝が開発したことになっている。 正に東芝製のものだった。(電電公社が共同研究だったのかもしれない) 幅2m、奥行き1mくらいのデスク一杯に、「鎮座」していた。 漢字にすべきところは▼▼で括って文字列を並べていくものだった。 当然、その都度変換である。 それと比べること自体がナンセンスだということは十分分かっているのだが、そんな経験をするからこそ、現在の凄さが分かる。 最先端技術では「思っただけでも文字になる」ということも研究されていると聞く。 どこまでついていけるかなぁ。 半面「指先で脳活」ということで、毎朝、左右両手での書き写しは欠かしていない。2017 年2 月14 日
お雛様の雪洞
娘が生まれた時に買ったものだから、もう40年以上我が家に滞在されている。 最近は二人の孫娘もその日までには自分たちで段を組み立て、毛氈を掛けて飾りつけを行う。 そんなふうにして大事に飾られている。 幸いなことに、人形様や調度品についても、これといった不具合は見当たらない。 ところが、一番上の段にある「雪洞」がその不安定な形から、随分前から、「寄りかかり飾り」になっていた。 なるべく目立たないところから、絆創膏貼りなどをして、写真に撮るときにはそんなに見っともなくは無いのだが、現物を見るとやはり「見るに堪えない」ことになっている。 そこで手先が器用で物作りが得意な家内が腰を上げた。 私は必要なものを調達するために、少し遠いホームセンター(近くには残念ながら品ぞろえが無いのである)まで「アッシー君」(この言葉ももう死語になったなぁ)でのお手伝いだけである。 現在最後の仕上げ段階であるが、決して「見っともなくない、玄人はだし」の品物だと思っている。2017 年2 月13 日
windowsvistaのPC
先日から、随分楽しい時間を過ごした。 現在家族(娘と孫二人)で共同で使っているWindows10のパソコンを購入する前に使っていたものが表題のものだった。 Windows10が出る前に7、8.1とあったけれど、それはノート用にということで、先に使っていたが、UI(ユーザーインターフェース)が従来のものと大分変わっていたので、デスクトップは変えなかった(この時点で頭の孫娘はそれなりに使い方を覚えていた)のだが、突然画面が真っ暗になる症状が出て、それが頻発するようになった。 そうなると、やはり困るので、娘も多少は協力してくれるというので、新調した。 当然Windows10である。 今年4月にはVistaのMSサポートが切れるというので、「駄目元」で再起させてみたのである。 それから何とか元あったデータを退避することができ、「買った時の状態に戻す」ことから始めたのだが、SPは3になっており、挙句に最近の状態になっていないので、IEが7のままで、9でないと機能しない部分が多かった。 ネットで調べたり、MSへの質問をしたりで、散々手古摺ったけれど、つい2日前に「完全回復」した。 画面真っ暗の原因は、必ずしも定かではないけれど、どうも「内部の帯電」のようである。 電源コードなどすべてを抜いて1−2日放置しているとずいぶん長い間使えるので、ボード関係ではなさそうである。 電源コードはアース付きのもので「必ずアースを取ってください」とあるが、それを無視していた報いであろう。 冬場はどうしても帯電するような素材の服を着ているので、アースについてはゆっくり考えながら対応していきたい。 久方ぶりに「技術者」の片鱗を楽しんだ。2017 年2 月10 日
寝る前はブクブク
夕方になって「あーぁ、今日も一日それなりにやることはやったなぁ」という満足感に浸って、内風呂にゆったりと入り、体も心も癒され、温かくなれる一時が心地良い。 今までは、体が火照っているから、その後は、一応「冬用」というパジャマに体を包んで過ごすのだが、最近はやはり「寄る年波」ということだろうか、すぐに冷えてしまうのが身に沁みるようになった。 待てよ、そう言えば、過去にそんな時のために買ったものがあるよなぁ、と思い出して、ゴソゴソと探し出してみる。 あるある、分厚いネックウォーマー、内部がモコモコの生地で作られた洋風褞袍(どてら)そして圧巻は「家で履く防寒靴」である。 そして、これは家で被ると、娘から「家では止めたら」と言われるが、毛糸の帽子である。 これに身を包むと、足先から頭までホッカホカである。 とてもこれで外出はできないけれど、よしんば人が訪ねてきても、そんなに見っともなくはない(思っている)。 寒ももう少しだけれど、これで風邪ひきなどは無いようにしたいものである。 もちろん、寝る時にはすべてを脱ぎ捨てて、パジャマだけになる。 まさか「シャネルの5番」で身を包むことはできない。2017 年2 月9 日
天下りとはとんでもない言い方
文科省が「天下りあっせん」で槍玉に挙がっている。 問い詰めている方も、される方も、本音は「何を今更、鬼の首を取ったように」ということではなかろうか。 だから「慇懃無礼に答弁しておき、最終的には『蜥蜴の尻尾切り』にすればいいさ。 なぁーに、尻尾になった人にもしかるべき「天下り」を用意してあるから」ということだろう。 私もそれなりに大きな会社に30余年勤務していたが、在職中から「上司の言うことが素直に聴けない」という性格だったからだろうか、予告もなしに辞めたからだったろうか分らないが、「天下り」という声は一つも聞こえてこなかった。 古事記などに見られる「天孫降臨」に出てくるように、「官庁」に勤めた人は「神様」ではあるまいし「天」ほど尊いものだとは決して思わないのだが。2017 年2 月8 日
葉物野菜の冬越し
昨年から「まだ小さいから」と思って、収穫は先延ばしにしてきた葉物野菜である。 正直、今までは「虫の巣」になるから育てない、と言っていたのだが、「冬越しならそんなことはないよ」と言われて、偶々畝が空いていたので、キャベツと白菜を3株ずつ植え付けた。 小さいながらも、それなりに育っていたので、雪が積もる少し前に白菜は紐で縛っておいた。 先日、天気が良くて栗の木の剪定をやった時には、2株残っていた白菜が大きく育っていたし、キャベツは小さいながらもしっかりとした丸になっていたのである。 期待は大きくなっていた。 ところが、二日後の雨の後、見に行ったら、ナントキャベツも白菜も真ん中の一番美味しそうなところが「ガボッ」とくりぬいた様に食べられていた。 熊ではないと思うけれど、狸かハクビシンか何かわからないけれど、さぞかし美味しかっただろうなぁ。2017 年2 月7 日
三寒四温
今までは、というより、今からもしばらくの間は、といった方が良かろうが、ストーブはタイマーで起きる少し前に点火するようにセットしていて、布団の中と大差ないようになってから起きる様にしていた。 布団の中での運動をして「血の巡り」を少しだけ良くしてから、起きて軽運動をするのだが、その時もストーブは欠かせない。 ところが、先日、いつものように運動をしていると汗ばんできた。 この季節「汗ばむ」ということは、その後「冷える」につながり、風邪の元になりかねない。 ということで、すぐに消して運動を続けた。 ところが、それでも薄っすらと汗ばんだので、表記の言葉を実感として想い出したのである。 加齢とともに体感温度には気を付けるようにしているが、今年の目標の一つの「面倒くさがらない」で、着替えを励行しよう。 それにしても「もうすぐ、ハールですねぇ」という好きな歌のフレーズが、自然に口をついて出てくる。2017 年2 月6 日
豆まき
今年から頭の孫娘が中学生になったので、ひょっとしたらもう豆まきなどしないのではないかと心配だった。 頭がやらないと、変な反抗心で、下の孫娘も同調するのが常だから、昨年までの楽しい思い出だったかな、と思っていた。 もうそろそろ夕食かなと思って、周りの整理を始めた頃に「爺ちゃん豆まきしよう」と二人して言いに来てくれた。 やっぱり爺としては、楽しく嬉しい時である。 各部屋で、大きな声で「福は内」といい、小さな声で「鬼は外」と言いながらまき、手持ちが無くなったら「拾えー」という号令で拾い集めるのである。 それを繰り返すが、当然のことながら、だんだんまく数が少なくなってくる。 それでも、最後は玄関で、此処だけは大きな声で「鬼は外」と叫んでまいて終わり。 今年も福が来てくれ、あまりひどくない程度の鬼も来てくれることを祈るばかりである。2017 年2 月3 日
好きな物でも正しいとは限らない
先日読んだ「自警録」からの受け売りである。 「自分が好きなことを彼がやっている」から自分にとってそれは「良いこと」。 逆に「自分はそれは好きになれない」から、それは「悪いこと」ということにも異論がある。 何も米国の大統領の行動ばかりではなく、身近な所に、沢山そんなことがあるのではないだろうか。 与野党の論争もそうだし、町内会でも、いやいや、友人同士でもそのようなことはあるだろう。 著者は「婦人子供に限らず、大人(男性の成人を指しているのだろうが、世に言う『立派な人』も揶揄を含めて言っているのではないだろうか:中島の考え)においても同じことがある」と書いている。 『自警録』だから著者自身にも思い当たることがあるから「自ら警める」と言っているのだろう。 時々、思い出して「自警」したいことである。2017 年2 月2 日
線香の種類を変えた
昨日の続きではないけれど、毎朝起きてやっていることに「線香を灯す」ということがある。 これは以前にも紹介したと思うが、昨年は4種類の線香をなるべく等分の本数をコップに入れて、ランダムに取り出して1本ずつの香りを楽しんでいたのだが、今年からは「月別」にすることとにした。 1月は「白檀」にしていた。 2月は「ラベンダー」にした。 特別意味があってやっている訳ではないが、一つの楽しみである。 聞香というほどのことは知らないし、そのためにお金を掛ける気になど全くならない。 でも、それが自然の香りではなく、香料によるものだとは知っていても、気が付けば「その香り」が漂っている、という雰囲気は決して悪いものではない。 ラベンダーの花言葉でも調べて自分なりの理屈をつけてみようか。 ちなみに、花言葉は「あなたを待っています」「期待」「私に答えてください」」「沈黙」「繊細」「清潔」「優美」「許しあう愛」「疑い」「不信」だとか。 はてさて貴方はどれを選びますか。2017 年2 月1 日