2017 年6 月30 日
2017 年6 月29 日
まだ寒い
先日暑い日が続いたので、冬用の布団シーツやカバーなどを全て夏用に切り替えた。 仕舞うにあたってと、今から世話になるものに丁寧に布団クリーナーで清掃するのが、数年前からの我が家の家族の個々人の一仕事である。 直接間接的に肌に触れるものだから、やはり慎重にしないと、結果としてわが身に跳ね返ってくる。 寝る時には、かつての米国女優のM・Mとは比べ物にならないが、周りに蚊取り効果があるそこそこいい香りがするスプレーを振りかけて、準備万端である。 ところが、その日から夜の気温が下がり、タオルケット1枚だけでは寒くて何度も起きてしまい、結局丑三ッ時頃に片づけた布団を引き出し、ようやく5時頃まで熟睡できた。 一時の「暑い」は「まだ寒い」のである。2017 年6 月28 日
偽ニュースチェック団体に期待と不安
先日「偽ニュース知恵就く団体」という組織が発足するという記事が目についた。 アメリカの大統領や、何でもかんでも「テロまがい」の行為は「我々が画策した」という事も、「偽ニュース」になるのだろうと素人考えながら思うから、果たして本当のニュースはどれだ、と叫びたくもなる。 昔からの大新聞でも、現総理の片棒を担ぎ、それが私のような素人が考えても「それがどうした」といいようなニュースが流れると、その新聞に載っている記事自体が「偽ではないか」と思いたくなっている。 さりとて、この団体が、どこかの組織が後ろ盾なったりして、ニュースを「嘘」でなくとも「曲解」させるようになると、それもまた困りものである。 結局は自分で調べて判断するしかないのだろう。2017 年6 月27 日
感謝の強要
決して仏教関係の本を読んだり、書き写したりしたからではないと思うけれど、やはり還暦を過ぎたあたりから、基本的に「人と競う」ということをしなくなったり、する必要が無くなったことが一つの原因だと思うが、すべてのことに感謝する、という姿勢が身についてきたように思う。 年に一度程度、勿論不定期だけれど、ラジオに登場することがある。 何かの抽選に当たったときである。 その時にラジオネームが「中幸年(中位の幸せな人、という意味)」である。 何度か目に登場した時に、アナウンサーから「最近幸せだと思ったことは何ですか」と聞かれた。 考えてから出た言葉ではなく、即座に「今生きていることに感謝することだ」と答えた。 自分でも驚くくらい咄嗟に出た言葉だった。 それをやっているからとて、何か特別なご利益がある訳ではない。 だから人に「感謝しながら生きていなさいよ」というような「感謝の強要」はするつもりもないししたくない。 あくまでも、自然に出てこそ本当の感謝の気持ちなのだろうと思っている。2017 年6 月26 日
同期会
年に一度の、会社時代の研修所での、北陸出身者だけに閉じた同期会が行われた。 20代前半、というよりも入学した年の5月に21歳になったばかりの頃である。 同期生の中では一番年下の私も古希を迎えたのだから、さすがに「50年前に戻って」というほどの元気はなく、酒量もかなり減っているのは事実である。 それでも、「から」が付く元気だけは健在であることは同慶の至りだった。 今年は体調不良で欠席する人が3人で、9名の参加だった。 今までに逝去した人が3人で、開始に当たっては、改めて冥福を祈った。 健康麻雀ではなく、煙草もお酒もありという麻雀を楽しんで、宴会。 いつもはそれで酒量が既定量になるので、カラオケ会場では、最初から眠っているのだった。 だけど、なぜか今年は自分でも「下手だなぁ」と思いながらも10曲近く歌って、最後まで正気でいた。 勿論部屋に戻ったら「バタンキュー」状態だったが、楽しいひと時だったことに感謝。2017 年6 月23 日
私は「正常」なのだろうか
このテーマを思いついたのは、何も既にボケが始まったのではないかと感じたからではない。 だからと言って、それが全く意識が無いわけではなく、身体的には、時々ぼんやりすることはある。 それよりも強く感じたのは、このブログや投書を書いている時にである。 自分としては、少なくとも表面上だけは「正常な神経を持っている」と思いながら、徒然を楽しんでいるつもりなのだが、本当に第三者が読んで「こいつ、何を言っているのだ」「論理が支離滅裂ではないか」などと思われているのではないだろうか、と思ったからである。 いや、それは「苦にしている」訳では決してなく、それに気が付いていないでやっていることが「正常」なのだろうかと、ふと疑問に思ったからである。 中学生時代までは「赤面症」に始まる「対人恐怖症」に近いと思っていた自分だけれど、高校時代は完全に払拭して、就職してからは「一言居士」になっていたことは自負している。 でも、それだからと言って「正常」を証明するものではない。 決して悩んでいる訳ではないが、少しでも物理的に体調を崩した時に、そんな気持ちが頭を上げてくる。 諸姉諸兄におかれてはそんなことは無いだろうか。2017 年6 月22 日
賄い料理
在職期間中、通算で約7年ほど「単身生活」を過ごした。 最初は長女の出産の時で、「まぁ、半年くらいだから何とでもなる」という気持ちで、むしろ身重の家内と2歳の長男を「喜んで」実家へ帰した時だった。 時代はちょうどオイルショックの時で、色々な苦労の中で、それなりに自分流の「賄い料理」を作る楽しさを覚えた。 基本は「食物の無駄を出さない、でき限り使い切る」を旨とした。 すると、当然失敗もあったが、だんだん上手になってきた。 昨日はこんな味だったから、今日は変えてみよう。 休日には「目新しい食材はないか」ということで、住まいが藤沢だったことから、横浜まで足を延ばして、中華街で店員さんに「食べ方」を教えてもらいながら、恐る恐る作ったこともある。 最近では「人参の皮」が良い食材である。2017 年6 月21 日
そろそろPCクーラーの季節
どうも素人考えだけれど、ここ北陸では、今日から「梅雨入り」のようである。 この時期に取り出すのが「PCクーラー」である。 ノートパソコンの下において、USB給電でファンを回して、少しばかりだけれどもPC自体を冷却して、安定的な動作、というよりもモワーッと出てくる温風の嫌な感じを少しでも和らげるためである。 しかしながら、むき出しのファンのために、少しばかり音が気になるのだが、そんな時はスイッチを切ればよく、例えば席を離れる時にスイッチを入れ、作業中は切れば済む話である。 加齢とともに「そんな細かいこと面倒臭い」という御仁もいらっしゃるだろうが、ボケ防止という点から「面倒くさい細々としたことを、面倒臭がらずに」が必要ではないだろうか。2017 年6 月20 日
ひらがなを正確に書く
書き写しも、始めてもう15年くらい経つ。 慣れというのは「両刃の刃」であるということに、最近ようやく気が付いた。 ずいぶん以前に紹介した、孫の学習参観で「聞く」と言う漢字の中の「耳」は「突き出ていない」というのがあった。 それと同様に「書き慣れた文字」をよく考えて見直してみると、意外に「なれ(慣れ)の果て」ということになっている。 「け」「た」「な」「は」をきちんと「突き出て」書いているかということにである。 勿論本人は「突き出して書いている」と思って筆を運んでいる「つもり」なのだが、後でよく見ると「はっきり突き出ているか」と言われると心許ないこととに気が付いた。 漢字を書く時には、筆順が分からないものは、ほとんどの場合後でネットで調べて確認するのだが、ひらがなはまずそうしない。 「はっきり突き出して」書くと思った以上に時間が掛かってしまっているけれど、正しいひらがなを書く、ということにも注意を払いたい。2017 年6 月19 日
聞きかじり
毎朝の「書き写し」の材料として『仏教のことば 早わかり事典」がある。 何度か紹介したが、書き写しの目的は、脳トレと言うかボケ防止のために「指先を動かす」のが主目的であり、写している内容については二の次である。 特に、今までも多分これからも「手頃」なので(こう書くと全く無信心のように聞こえて、仏教関係の人から非難されそうだけれど)仏教関係の本によるところが大きいだろう。 話を本筋に戻して、先日「地獄」ということについての節があった。 子供の頃、近くのお寺さんなどで、正確な名前は覚えていないが、「地獄曼荼羅」というような数枚の掛け軸で地獄の模様が描かれており、お坊さんが解説しておられて何度か聞きに言った覚えがある。 今回の節はそれを短い文章にしてあるものだ。 「娑婆にいた時の行状でこんな目に遭うぞ」という戒めなのだろうが、絵解きの時は絵に惹きつけられていてそんなに怖い思いはしなかったように思うが、短い文章ながらも「書き写し」ていると怖さが伝わってくる。 地獄にはこのようなものがある。 どれでも罪状に問われるような気がする。 八熱地獄 ?等活地獄?黒縄地獄?衆合地獄?叫喚地獄?大叫喚地獄?焦熱地獄 ?大焦熱地獄?無間地獄 八寒地獄 ?アブダ地獄?ニラブダ地獄?アタタ地獄?アババ地獄?フフバ地獄 ?ウバラ地獄?パドマ地獄?マカパドマ地獄2017 年6 月16 日
「銃後」
先月から仲間に入れて頂いた「写真で見るわが町の歴史」という講座で、母の遺品を整理していた時に出てきた「銃後」という書物。 そのまま置いていたのではいけないと思い、プリンターのスキャナー機能で読み取りデジタル化しておいた。 先日それを講座に持ってゆき、披露させてもらった。 題字が「林銑十郎」と言う人の揮毫で、一時期は総理大臣までなさった人だと、講座の人から教わった。 発行が昭和14年とあったので、母が嫁いできたのが昭和16年ころだったはずで、祖母の遺品だったのだろう。 そこには当時の町の様子や公園の様子などが写されており、やはり一人で持っているよりはお役に立てたのだと、祖母と母に感謝している。2017 年6 月15 日
「天の邪鬼」的な見方は楽しい
必ずしも反論を唱える訳ではないし、素直に「良かった」「悪いことだ」という気持ちはあるのだが、その一方で、「そんなことばかりではないのではないか」という天の邪鬼的な考えが過ぎることがある。 こんなことを一つの「楽しみ」という風に思って見ると、結構楽しく考えたりすることができる。 人それぞれだろうが、最近の「脳トレ」的にはお勧めの方法であろう。 簡単なたとえは、身の回りにいくつでもある。 「薔薇が綺麗だ」と言えば「綺麗な花には棘がある」となる。 これは確かタレントで気象予報士の資格を持つ人(個人的には好きなタレントではないので、特に具体名は書かない)が「良い天気が続く」とは言うべきではない、と言ったのにはもろ手を挙げて賛成である。 「良い天気=晴天=降雨がない=旱魃の心配がある=農作業者には酷い天気」という論理である。 何も「風が吹けば桶屋が儲かる」というような論理ではないが、偶にはこんな発想をして見てはいかがだろうか。2017 年6 月14 日
よく考えて麻雀を打つ人
健康麻雀での出来事である。 在職中は、ある意味「マージャンの打ち方で人柄が分かる」という感覚はあり、結構それが当たっていたことがあった。 正直、人事のお手伝いをさせて頂いていた頃、思ったままを直接反映することはなかった(と思っている)が、面談して「あなたの性格にはこんな面が無いか」とあくまでも「楽しく」話したことがあり、本人の了解も得て反映したことがある。 ところが、それでも「勝負の世界」だったから、どちらかというと「勝負」の方に力点があった。 今は「勝負」は二の次三の次で「楽しく」が真っ先である。 そんな中で思うことがある。 必ずしも「常勝」ではないのだが、傍から見ていて「何を考えているのだろう」と思う打ち方をする人がいる。 私は「リズムで打つ」方だからなかなか理解できない。2017 年6 月13 日
ブログネタより投書ネタ
ブログにはあまり「時事問題」は書かないように努めているのだが、季節的なものは別にして、普遍的な話題は探すのが難しくなってきているのが実情である。 それに反して、投書のネタは実に次から次へと出てくる、というが発生している。 新聞、ネットニュースだけではなく、いろんなメディアから「これもどうか、こんなこともあるよ」ということが引きも切らずである。 昨日のネタもそれであった。 でも、正直なところ、政治的な話題、米国、英国、北朝鮮、中国、韓国などの外国での出来事などはブログネタにしたくはない。 基本的な「のほほん、徒然」という感覚で行きたいと思っているからで、余りにも殺伐としすぎるからである。 その方針に則って、日々アンテナを高くしていきたいものである。2017 年6 月12 日
楽しい記事
ネットで見たのだが、「ちょうちん殺しのガード」というのを聞いたことがおありだろうか。 ここ小矢部でも、随分前になるが「ガード下で車が水没」という事故があって、ガードの高さを調節したのではなく、道路に注意を示す表示がされたので、大雨の場合にはそこを通らないようにしているおかげで事故が無いという状況である。 話が逸れたが、問題のガードは、東京である。 地下鉄の泉岳寺駅からほど近い所に、高さ1.5mのガードがある。 人は通るし、タクシーも通り、歩道との間にはガードレールもある場所である。 仕事でその近くを通る時に、上司から教えてもらい、驚いた。 私は身長が177cm(幸い加齢による縮小はない)なので、当然通常の姿勢では通れず、かなり窮屈な格好で通らなければならないのだが、なんだか楽しい気分であった。 名前の由来は「ちょうちん付きのタクシー」が通ろうとして、ちょうちんを壊してしまったという所かららしい。 近くへ行かれた時に時間があれば「いつか消えゆく名所」ということで行かれてみてはどうだろうか。 高輪大木戸跡、という標識があったはずだが。2017 年6 月9 日
ネットで炎上
最近「ネットで炎上」という表現をたびたび見ることがある。 偶には大新聞でも見かけて「本当にこの人たちは事実をしっかり見ているのだろうか」と首をかしげることがある。 というのは、もう大分前になるが、当時興味があった件で、アクセスしてみたのだが、確かに短期間で投稿が多いのだが、どうも「似たような人」が多く登場している。 私が匿名で一言意見を言うと、その反響がすごいのだが、多数の人からではなく、限られた特定の人からのコメントが多かった。 ということは、「特定の人が煽っているのだ」と理解したので、それ以来「見ること」はあっても、投稿することはしていない。 なんだか底が見えたような「空騒ぎ」のようで、何も「炎上」などと言うほどのことは余程でない限りないのではないか。 良い意味でも、悪い意味でもだが。2017 年6 月8 日
政治屋の発言
今回の加計学園の与党や官僚の発言、不謹慎だけれど、面白い。 「そんなものは無かった」とは言っていないのである。 万が一隠すのに不手際があって、「あった」ことが露見した場合「嘘をついた」ということになるからである。 政治屋の「嘘」は今更驚くことは無いのだが、これが新聞やテレビなどのメディアで報道されると、近い都議選を初めとした、政治屋の一番気になる「選挙」に大きく影響するからだ。 それからすれば、総理や官房長官の首などは簡単に切れるだろう。 かつて、総務省対応という監察に対応したことがある。 私自身のテーマについては、素直に答えるだけで、何ら問題は無かったのだが、別の所でいくつか問題が指摘され、その対応にてんやわんやだった。 その時に「技術屋」は前線から退けられ、「事務屋」が対応して、指摘は最小限に収めることができた。 その後の打ち上げで、よく麻雀のカモにしていた事務屋から聞いた時の「コツ」が今回の要領だったことを思い出す。2017 年6 月7 日
孔雀サボテンが花盛り
随分前に友人からもらった「孔雀サボテン」が、どんどん大きくなってきたので、鉢分けして現在は3鉢になっている。 もっとも、これでも長く伸びたものは感謝しながら随分整理したのだが。 一昨年に、ようやくそのうちの一つの鉢に、見事な花が咲いた。 ピンクの大きな花の中に白い蕊(しべ)が綺麗な放射状に見える。 ベランダ内だけで育てていたのだが、「箱入り娘」状態で、3日間楽しませてくれた。 昨年は3鉢で4つの綺麗な花になったので、塀際に並べて、散歩する人にも楽しんでもらった。 ところが、それが今年は20個近い花になったのである。 大ぶりな花がそれだけ咲くのだから、綺麗で見事なのは良いのだが、茎に当たる部分が折れないかと心配だったが、ようやくそれぞれの寿命を終えて、後2個だけがまだ綺麗に咲いている。 ベランダに取り込んで、お礼肥えをして、また来年綺麗な花を咲かせてくれるように、大切に育ててゆきたいものである。2017 年6 月6 日
一所懸命
最近はどちらの使い方も、漢字表記でも正解となると、先日何かの番組で聞いた。 「言葉は生きている」だから、私はそれでも十分いいと思っている。 それにあたって思うのは、私は常に「一所懸命」だったと思っている。 決して「一生懸命」ではなかったとも思っている。 以前にも紹介したと思っているが、転勤族であり、出張族の一員だった経験から、一つ一つのことに「一生懸命」ではさすがに身が持たなかったろうと思う。 その代わり、と言っては違うかもしれないが、少なくとも「其処にいた時」はそのことだけを考えて務めていたと思っているから「一所懸命」だったのではないだろうか。 そのことは「出張」で全国を飛び歩いていたときも「其処」が「一所」だったわけである。 たとえそれがわずか30分くらいの会議だったとしてもである。 また、横着と言われるかもしれないが、移動時間も同様に「其処」だったわけで、一つの工程(電車が代われば別工程)では「一つのこと」しか考えなかった。 それで時間が余れば、到着までの時間をゆっくりと寝て過ごした。 勿論「今日の仕事は完了」ということになれば、「一所懸命に飲んだ」。2017 年6 月5 日
正々堂々
新大関の言葉に、自分の胸に手を当てて「正々堂々と精進しているか」を常日頃は難しいだろうけれども、時々は思い出したい言葉だと気づかさせてくれた。 人から正面切って言われると「当然そうしている」と言うだろうが、自問自答においてはどうだろうか。 リタイア後15年を過ぎた今、日ごろを思って見ると、少なくとも在職中よりは「正々堂々」としていると思っているのは、自己満足なのだろうか。 少なくとも、某事務次官のような「柵」は一切なくなっているのだから、好きなことには「参加させていただく」し、嫌になったら「辞めさせていただく」ということも自由に言えるようになっているし、そうしている。 リタイアして初めて、今回古希を迎えたのを機に「卒業」させて頂いたことが幾つかあるが、それだって誰からも「当てにされていなかった」のだろうが、引き留められる煩わしさが無かった。 新大関とは違うかもしれないが、私なりに「正々堂々」であったと思っている。 勿論、卒業だけではなく、新しく参加させていただいた「新講座」もあるのだから。 それについては「ピカピカの一年生」が楽しめそうである。2017 年6 月2 日
「起きる」ために「寝る」
ずいぶん昔に誰かから聞いた言葉だったように思うが、正確に(記憶があいまいだからどこまで正確かは分からないが)言うと「明日『起きる』ために、今日『寝る』」だったと思う。 当時は、何を馬鹿なことを言っているのだろう、と思っていたが、この歳になってみると、なんだか朧気ながら意味が分かった来ているような気がする。 最近何かイベントなどが無いと、夕食時にお酒を飲むことは少なくなり、9時過ぎから家内とドラマを見て、その後の報道番組を見ながら、今日あった出来事のトピックス的な話をしながら、決められた量を飲むことが通例である。 だから「飲み過ぎ」というようなことは滅多になく、その後30分ほど「就寝前読書」をしてから寝るのだが、いつもこのように思いながら寝ている訳ではない。 でも、やはり「このまま眠り続けることはないだろうなぁ」という不安は皆無ではない。 そんな時に、自分に言い聞かせるように「呟く」のである。 そこから「明日起こる良いこと」を思いながら寝ると、少しは安眠できるような気がする。2017 年6 月1 日