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2009 年12 月31 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その8)

 行政の約束に拘束力があるのかという局面でよく引き合いにだされるのが、「確約の法理」と「信義則」である。

 村の工場誘致政策の下で工場建設の準備を進めていたところ、村長選挙により誘致反対派の村長が当選し、工場建設がかなわなくなった事件で、当事者間に形成された信頼関係を不当に破壊するものとして村の損害賠償責任を認めた最高裁56年1月27日判決が有名だ。この事案では工場進出を予定していた者と村との間で契約が成立していないことが前提であって、それであっても当事者の信頼には法的保護が与えられるべきであるとされた。

 ここには、当事者の関係がどこまで深まれば契約が成立したと言えるのか、という問題がまずある。契約の成立の問題だから、法治行政原理とは直接の関係はないが、契約の方式・手続が地方自治法や各自治体の条例・財務規則等で規律されているため、契約の要式性や自治体財政規律の観点の制限のハードルが高いことがその前提となっている。そのため契約が成立したとまでは言えない場合であっても、一定の場合には当事者の信頼を法的に保護すべきだとする理屈である。

 当事者の行政に対する信頼の法的保護のレベルとしては、事後的な損害賠償だけにとどまるものではないだろう。
 
 開地区の場合は、市長が開地区住民に、「市が、責任を持って、末代に至るまで、地下水を供給する。水源が枯れたらその近くに新たに井戸をほって供給する」と約束したのであり、その市長の確約に答える形で、市議会が自己水源として開浄水場を建設することを承認したのである。その代わりに、開地区住民は市水道への切替、すなわち市と給水契約を締結することを承諾した。

 これは、宇治市と開地区住民との間で、開浄水場を建設・維持して、地下水を供給するという契約が成立したというべきだ。契約の要式性といえども、給水契約書面に水源・浄水場・供給期間を明記しなければ契約としての効力を生じないという法令の定めはない。
 もしこれを契約と言わないとしても、開地区住民の信頼は法的保護に値すると言うべきであり、その信頼は特段の事情がない限り、保護されなければならない。
 kamogawa



投稿者:ゆかわat 23 :52 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月27 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その7)

 判決の最大の問題点のその2は、行政が住民に対する約束を守らなくてよいのか(行政は住民に対してした約束に拘束されないのか)ということである。

 約束は守らなければならない。これは最も一般的で重要な市民社会のルールである。行政にとっても同じである。
 よく対比されるのは、政権政党の選挙時のマニフェストや公約である。マニフェストや公約は国民に対する約束だと言われるが、それを守らなくても、債務不履行で損害賠償または履行強制の判決が言い渡されることはない。それはマニフェストや公約は、国民に対する「政治的」約束であり、不履行の場合の責任は「政治的責任」であるからである。
 それでは、開地区における市長や市議会の約束は、これと同じく政治的約束に過ぎないのか。

 政治的約束であって政治的責任しか問われないのか、それとも法的約束、すなわち契約として法的責任を問われるのかのメルクマールは、内容の抽象性、特定性等指摘されているが、一番大きなポイントは、その内容の実現を裁判所が強制できるのか(要するに、不履行の場合に、裁判所がその履行を命じたり、損害賠償を認めたりできるのか)、そうするのが適切か、そのことについて当事者間に意思の合致があるかどうかであろう。

 マニフェストが政治的約束にすぎないとされるのは、その内容が抽象的で特定できないということではなく、裁判所が内閣や政権政党に対して履行強制や損害賠償を命じることが三権分立に反するからだ。
それでは、開地区の場合はどうか。

 昭和50年台、当時の宇治市長は、住民に対して「三者三様負担案」(日産車体は浄水場用地を提供し、市は浄水場を建設し、住民は一定の費用負担をする)を提示し、繰り返し「市が末代にわたるまで責任を持って地下水を供給する」と明言し、その旨議事録に残された。
 市議会も、市長の意向を了承し、住民からの開簡易水道存続請願を満場一致で採択し、開地区住民に給水するための開浄水場建設予算を承認した。
 他方、住民は、市長提案の「三者三様負担」を了承し、開簡易水道存続の要求を取り下げ、市水道に切り替えるための費用負担増額(加入金・工事費の支払い、水道料金の増額)を受け入れた。

 判決は、53年覚書には地下水を供給するとか、何時まで開浄水場を存続させるとかの記載がないというが、詭弁である。宇治市は末代に至るまで、すなわち永久に、地下水を水源とする水を供給することを約束したのである。
 しかも、この約束は、部長や課長という、権原のない、担当者限りで約束したものではなく、宇治市を代表する権原のある市長が約束したのであり、その約束を市議会も了承したのである。この点においても、「三者三様負担合意」「や「53年覚書」は単なる市長の確約にとどまるものではない。宇治市の意思決定機関がした正式な約束である。
 開地区住民はその約束に対し、市と給水契約をし、加入金・工事費の支払いと水道料金の増額を受け入れたのである。また、これを受けて、宇治市は加入金・工事費予納金の受入につき条例の規定とは異なる「超法規的」取扱いをした。これも住民との「約束」を履行するためである。
     (「追記」に続く)

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投稿者:ゆかわat 14 :15 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月25 日

深夜の高速

 24日は、土地区画整理法に基づく仮換地指定処分取消訴訟事件、違法な建築物除却執行に対する損害賠償請求事件、法76条に基づく建築行為許可処分取消訴訟事件の弁論のためにさいたま地裁まで出頭した。

 他の用事もあり、深夜、車で向かうことにした。深夜の高速道路は、大型貨物自動車と大型バスばかりだ。それは別に構わないが、リミッター装着車が大半(確かリミッターは全車装着義務があったように思うが)なので、走行車線も追越車線も、どちらも時速90kmの大型車が長蛇の列をなしている。少々走行車線が空いても、誰も走行車線に戻らず、追越車線をそのまま走り続けるので、こちらも京都から東京までずっと90km前後で走るはめとなった。これはいらつく。思わず、その長蛇の列が切れたときに思い切り速度を上げるが、すぐにまた次の長蛇ののろい列につくことになる。

 時速90kmのリミッターの根拠は何なのだろう。どうしてこれが100kmではいけないのだろう。せめて100kmにしてくれれば、もう少しスムーズに移動できることになるのに。

 ふと考える。もしこれを訴訟で争うとしたら、どんな訴訟になるのだろう。高速道路での大型自動車の制限速度の指定を争うのか。リミッター装着義務を争うことになるのか。どちらも一般処分で、しかも仮に名宛人を想定できたとしても大型自動車の所有者・使用者又は運転者だから、普通自動車の運転者である私には抗告訴訟での争いようがないのか。損害賠償についても、私の受ける不利益は反射的なものにすぎないから、法的保護に値しないとして認められる余地がないのか。しかし、これを訴訟で争えないとすると、こんな交通ルールに関する係争は、およそ選挙のテーマにもならないから、投票箱と民主政の過程で是正することも期待できない。
 こんなことでも考えて、いらだつ気持ちを抑えていたら、ようやく明け方には目的地に到着した。Rei091031



投稿者:ゆかわat 23 :41 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月22 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その6)

 水道の利用関係と類似するものとして、公共下水道の利用関係がある。
 下水道法が公共下水道の利用関係をどのように規律しているかというと、公共下水道の供用が開始されると、当該公共下水道の排水区域内の土地の所有者等は必要な排水設備を設置する義務が発生し、下水道を使用するときは使用開始の届出を公共下水道管理者にすると、下水道の使用の事実に基づき下水道法及び条例の規定を根拠として当然に公共下水道の使用料支払義務が発生するものとされる(たとえば、大阪地裁H20.10.1判決・判例地方自治322.43)。下水道法には「契約」を予定した条文はない。
 水道の利用関係もこれと同じに規律することも可能であったが、水道法は、水道の利用関係は「給水契約」によることとした。
 
 どうして法律が上水道と下水道の利用関係をこのように違うように規律したかというと、下水道の利用関係は公衆衛生の観点から一律に処理するのが適当であるのに対して、水道の利用関係は当該地域の事情や需用者の意向に応じてきめ細かい対応を可能とするためである。水道法は、一律ではない、多様な行政サービスに対して需用者が水道料という対価を支払うこととしたのである。

 判決のいうように、水道法が水道事業者は需用者に対して水道水質基準に適合する水を供給するだけの一律の一般的供給義務を負うというのであれば、それは「給水契約」によることなく、下水道の利用関係のように、水道の使用の事実だけに基づいて使用料が発生するとすれば足りたのである。判決は水道利用関係を下水道の利用関係と同視するという誤りを犯した。判決は、水道法が下水道法のような規律をしなかったのは何故かを全く見落としたのである。

投稿者:ゆかわat 22 :57 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月20 日

九州大学法科大学院訪問記

 上田国広先生(もう20年も前のことになるのだろうか、日弁連の刑事弁護センターでご一緒したご縁だ。名誉なことに、先生は私のことを刑事弁護士だと思っておられたのかな。当時と比べて少しおやせになっていた。自分はお腹が成長したが。)、木佐茂男先生(いわずとしれた行政法・地方自治法の教授。私の勝手な理解では、日本で二人だけいる弁護士業務を行う行政法研究者の一人。もうお一方は阿部先生。)のお取りはからいで、九州大学法科大学院と九州リーガルクリニック法律事務所を訪ねた。

 土曜日だというのに、ロースクールは学生や先生方であふれかえっていた。学生の熱気や雰囲気は、私の奉職する京都産業大学と変わらないのに、どうして司法試験合格者数がそんなに違うのかな。ちなみに、施設面だけは、山の上にあって町中から離れ上り下りがきついことを除けば、京都産業大学の方がはるかに充実しているように見えた(上田先生・木佐先生ごめんなさい)。

 リーガルクリニック法律事務所は、ロースクール附属とは言え、弁護士法人として独立している。ただ、所属弁護士6名は、全員ロースクール専任教授であり、上田先生以外は研究活動が専業だ。今のところ、ロースクールのリーガルクリニックを担当するのがメインのようだが、実務と研究の架け橋として、研究者教員が弁護士業務を通していろんな研究実践をしたり、実務家教員が弁護士業務に大学の研究活動を応用したりと、いろんな新しい取組ができそうだ。いわば京都大学再生医科学研究所のように、医学と工学の融合、研究・治験・臨床・応用の融合のようなものだ、と勝手に解釈して納得していた。 marie211121



投稿者:ゆかわat 09 :10 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月19 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その5)

 平成16年行訴法改正の前後から、最高裁は、少しずつではあるが、従来の行政法判例を見直し、国民の権利利益の救済のために足を踏み出しつつある。ところが、それに対し、地裁は、一方で国民の権利利益をさらに一歩踏み出す判決もあるが、依然として旧態のまま亀の冬ごもり状態にある。

 この度、横浜市が保育所を民営化するために保育所を廃止する条例を制定したことについて当該保育所で保育を受けていた児童又はその保護者が当該条例の取消し等を求めた取消訴訟において、最高裁は、平成21年11月26日判決で、条例の制定行為につき抗告訴訟の対象となる行政処分に該当するとの判断を示した。同判決は、その理由付けにおいて、「特定の保育所で現に保育を受けている児童及びその保護者は、保育の実施期間が満了するまでの間は当該保育所における保育を受けることを期待し得る法的地位を有する」旨判示した。

 保育所の設置根拠たる児童福祉法も、水道法と同じく、児童及びその保護者に特定の保育所で保育を受ける権利を保障するという明文を有していない。それどころか、児童福祉法は、市町村の責務として、保護者の労働又は疾病等の事由により保育に欠ける児童に対して保育を実施する義務を認めているのみであって(保育は権利としてではなく、恩恵的に「措置」として行われる)、児童に特定の保育所における保育を受ける権利を保障する構造を持っていない。
 しかし、上記最判は、児童福祉法が平成9年改正において、児童の保護者が入所を希望する保育所等を記載した申込書を提出して申込みをしたときはやむを得ない事由があるときを除きその児童を当該保育所において保育しなければならないという制度を採用した(このことを評して、保育の実施は契約に基づくものに変更されたと説明されている。「社会保障法[第4版]」295頁、有斐閣)ことを根拠に、児童及びその保護者と市町村との間に契約類似の関係があることを媒介として、特定の保育所で現に保育を受けている児童及びその保護者に当該保育所における保育を受けることを期待し得る法的地位を認めた。

 そうすると、もともと措置方式ではなく契約方式を採用している給水事業については、需用者の権利をより保障しているものと理解されるのであって、水道事業者にどの浄水場の水を供給するかの自由があるのではなく(需用者には水の選択について何の権利も認められないのではなく)、需用者が特定の浄水場の水を選択したと見られる場合には、特定の浄水場の水の供給を受ける権利が認められるものと言うべきである。

ところが、判決は、「保育所の利用関係が、保護者の選択に基づき特定の保育所を定めて設定されるものであるのに対して、本件においては、水道法の解釈上、給水契約が、特定の給水施設を定めて設定されるとは解されない」として、原告らに開浄水場からの給水を受けることを期待し得る法的地位を認めることはできないとした。

最高裁判決と比べて、何と保守的な判断であろうか。
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投稿者:ゆかわat 07 :30 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月16 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その4)

 判決は、「開地区以外に居住する住民と異なった待遇を受ける権利を発生させるに認めるに足りる事情はない」(21頁)と言って原告らの請求を退けた。

 しかし、開地区住民は、他の地域の住民と異なる待遇を求めたことは一度もない。
 現在飲んでいる水をそのまま供給して欲しいと言っているだけだ。
 開地区住民は、昭和53年、開簡易水道の存続を求めていたのをやめて、開簡易水道をそのまま継続することを選択しても良かったのに、市長が開浄水場の水を市が責任を持って末代に至るまで供給すると確約したから、わざわざそれまでよりも高い市水道料と、今まで負担することのなかった加入金・工事費を負担して、市水道への切替えを承諾したのである。
 開地区住民は、開浄水場の水の供給を受けるために、水道料金の対価を支払っている。その対価として、これまで通りの水の供給をし続けて欲しいと求めているだけなのである。それがどうして「開地区以外に居住する住民と異なった待遇を受ける権利を求める」ことになるのであろうか。

 その基本は、私たちは「契約」の履行を求めているのに対し、裁判所は、それを「水道法」に基づく一般的権利義務を超える価値を求めていると見ているところにある。

投稿者:ゆかわat 18 :40 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月14 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その3)

 判決が水道法を理解していないことを2度にわたって述べた。それ故か、私たちの主張も理解していない。

 判決は、当事者の主張を整理し、それが認められるかどうかを証拠と弁論に基づいて判断する。したがって、当事者の主張が正確に理解できていなければまともな判断ができるはずがない。ところが、水道法の理解ができていないと、私たちの主張も理解できないことになる。

 私たちは、原告と被告宇治市との間の給水契約の内容として宇治市には開浄水場の水を供給する義務があると主張した。それを基礎づける事実として、原告は戦前から開簡易水道から水の供給を受けてきたこと、原告らは開簡易水道の存続を求めて宇治市と交渉を続けていたこと、宇治市長が原告らに末代にわたって市の責任で開の水を供給すると確約したために原告らは開簡易水道を廃止して宇治市水道に切り替えることに合意したこと、それを53年覚書にまとめたこと、等を主張した。

 ところが、判決は、原告の主張として「53年覚書により原告らと被告宇治市との間で原告が開簡易水道の水源から地下水の供給を受けることを権利内容とする合意がなされた」と整理した。

 私たちの主張と判決の整理する原告の主張とは、似ているようで、全く異なる。私たちの主張は給水契約の内容を問題にしている。判決のように53年覚書によって特別の義務が宇治市に発生したなどと主張しているのではない。

 結局、判決は、水道事業の内容を決するのが「給水契約」であることを理解しておらず、給水契約の内容は水道法によって一般的な水の供給にとどまると誤解しているために原告の主張は、給水契約の外側にある例外的な特段の事情の主張であると整理したのである。
 これは、原告が土俵は丸いと主張しているのに、原告の主張は土俵は四角いというものだとこじつけて、土俵は丸いから原告の主張は認められないと言うようなものだ。

投稿者:ゆかわat 23 :08 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月13 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その2)

 前回、地裁判決は水道道の解釈を誤っていることを指摘した。
 今回は、水道法の解釈に関連して、裁判所は全く水道法を理解していない(誤っているのではなく、理解していない)ことを指摘してみよう。

 判決文には、「53年覚書に基づいて被告(宇治市)が開浄水場の用水の供給義務を負ったとの主張について」との見出しの下に、「53年覚書に基づいて、被告(宇治市)が個人原告らに対して開浄水場の用水の供給義務を負ったということはできない。」(20頁)という下りがある。他にも「開浄水場の用水を供給する義務」という言い回しが出てくる。
 しかし、私たちは「開浄水場の用水を供給する義務が被告にある」などという主張はしたことはない。私たちは「開浄水場の水」を供給し続けて欲しいと主張しているのであって、「開浄水場の用水」を供給して欲しいなどと主張したことはない。
 「水」と言おうが、「用水」と言おうが、違いはないと思われるかもしれないが、決定的に違うのである。なぜなら、そもそも、「用水」という用語は、水道法では「水道用水供給事業」にしか出てこない。水道用水供給事業とは「水道により、水道事業者に対してその用水を供給する事業」をいう。すなわち、京都府営水道がそれである。要するに、市町村が需用者に供給する水の用に供する水を「用水」というのである。したがって、開地区住民が宇治市から供給を受けている開浄水場で浄水した水は、水道法では「水」であって、「用水」ではない。開地区住民は、府営水=用水ではなく、自己水である開浄水場の水の供給を求めているのだから、その意味でも、開地区住民が「用水の供給を求めている」と言うのは、大間違いである。

 いかにも水道法を知っているかのような顔をして、いかにも「用水」という用語を私たちが使ったかのようにして、しかもいかにも水道法上私たちの主張が認められないかのように言いつくろって、原告の請求を棄却する。しかし、裁判所は水道法を全く理解もしていないのに、知ったかぶりをしているのがいかにも原告代理人であるかのように見せかけている。これは判決という形を悪用した、官僚裁判官による国家的詐欺である。

 原告は用水路の水を飲みたいなどと言ったことは一度もない。

 判決全文は12月12日判決批判(その1)の末尾添付ファイルを見てください。

投稿者:ゆかわat 00 :02 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月12 日

開浄水場休止差止請求事件京都地裁判決批判(その1)

 判決の誤りの一つは、水道法の解釈の誤りである。
 判決は、水道法は、水道事業者は給水契約を締結した水道利用者に対して、法5条の要件を備えた施設から、法4条の水質の水を供給する一般的義務を負うのみで、法、施行令及び施行規則の条文をみても給水施設や水質を特定すべきことを定めた条項はないから、特段の事情がない限り、水道事業者は特定の施設や特定の水質の水の供給義務を負わないとした。

 しかしながら、これは水道法の解釈を誤っている。水道法は、水道事業の枠組を決めたものであって、給水契約の内容を定めたものではない。すなわち、水道法は、水道事業の内容を一律に法によって決めることをせずに、個別需用者と水道事業者との契約(それも、下水道とは異なり、私法上の契約である)によることとした。水道法が水道の供給を契約によることとしたのは、水道事業が、行政サービスの中にあっても、住民票の交付事務のように定型的画一的なものではなく、物の売り買いの性質を有する、それも地下水の豊富な地域もあれば、自己水源が全くないところもあれば、琵琶湖のような大きな湖沼やダム水がある地域もあって、地域それぞれで水事情が異なるため、法に定めることによってサービスの内容を画一的に決定するのではなく、水道事業者と需用者との取り決めによってその地域の実情に応じて柔軟にサービス内容を決定することを企図したからである。
 但し、水道事業は人の生命と健康に関わるものであって、ライフラインを構成するものであるために、水道事業者として従うべき最低の遵守事項を定めた。それが法4条、5条等に規定する事項である。したがって、水道法は、法に定める以外の内容を給水サービスの中に取り込むことを禁止しているのではない。

 したがって、判決がいうように「法、施行令及び施行規則の条文をみても給水施設や水質を特定すべきことを定めた条項はないから、特段の事情がない限り、水道事業者は特定の施設や特定の水質の水の供給義務を負わない」のではなく、「法、施行令及び施行規則に明らかに反する場合でない限り、水道事業者と需用者が特定の施設や特定の水質の水の供給を給水契約の内容とすることは何ら禁止されることはない」のである。「条項がない」から「できない」のではなく、「条項に反しない」限り「自由にできる」のである。
 判決は水道法の解釈を全く逆さまに行った。
判決全文は以下のPDFをクリックしてください。
1764b2433baad3e5.pdf

投稿者:ゆかわat 00 :12 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年12 月9 日

宇治市開浄水場休止差止請求事件不当敗訴判決

 宇治市が平成19年になって突如、原水の水質悪化(トリクロロエチレン・テトラクロロエチレンの濃度が環境基準値を超えている)を理由として開浄水場の休止を決定したのに対して、開浄水場から水の供給を受けている開地区住民は、平成20年1月16日、京都地方裁判所に対し、宇治市を被告として、開浄水場の休止の差止めを求めて訴えを提起した(原告団433名)。
 その判決が本日、京都地方裁判所第2民事部(吉川裁判長)で言い渡された。
 
 判決の内容は、水道法は水道事業者に対して水を供給すべき一般的義務を課しているのみであり、地方公営企業法も経済的効率の観点から事業の見直しを認めているから、開浄水場の水を供給すべき特段の事情がない限り、原告らに開浄水場の水の供給を受ける権利は認められないところ、宇治市長の確約にしても、昭和53年覚書にしても、時期、水源の種別、浄水場を特定するものではないから、特段の事情は認められないとして、原告らの請求を棄却した。

 しかしながら、この判決は、水道法の旧来的な解釈の枠を出ず、事業者のみの視点に立って、飲み水への関心が高まっている中、需用者の権利を全く認めないものであって、かつ、開地区住民と宇治市との歴史的経緯にも全く理解を示さない、極めて不当な判決である。
 住民はこの敗訴判決を乗り越えて、開浄水場の存続を求めて、即日控訴した。

 本日、判決直後に開かれた開地区住民の判決集会では、住民は敗訴判決を受けて意気消沈するどころか、ますます意気軒昂であり、開浄水場の存続を勝ち取るまでこの運動を続ける決意と熱気で満ちあふれていた。

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投稿者:ゆかわat 17 :09 | ビジネス | コメント(1 )

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