2018 年10 月31 日
2018 年10 月30 日
これも怪我の功名か
怪我の発生から4週間たって、ようやく拘束ベルトから解放された。 勿論先生の「予定よりも少し早く筋肉が繋がりつつあるようだから」と言う判定の結果である。 だからと言って、すべて回復という訳では勿論無く「右手は『前へ倣え』の角度より30度ほど外側までは良いけれど、それ以上はまだ不安定だから、三角巾は外さないように、当然運転はまだ無理」ということである。 でも、家でビデオとPC相手では、やはり身体全体が鈍ってしまい、ちょっとした動作がぎこちないのが自分でもわかる。 自然と「散歩」を中心にして足腰を鍛えるようにした。 これが、現在のところ「功名」につながっていると思っている。 前後から自動車の音が聞こえると、必ず止まってやり過ごす。 道路は、姿勢が悪くならない程度に「下を見て歩く」。 側溝などにかかっている鉄やコンクリートの蓋などは、極力上を歩かない。 信号は、幼稚園児と同様に「右見て、左見て」を励行する。 先日も踏切を渡ろうとして、一旦踏切の棒(これを「遮断桿」と言うって知っていましたか、新しい知識です)が上がり切って、車をやり過ごしている間にまた警報機が鳴り出したので、迷うことなく一歩下がりました。 ともかく「慎重になった」ということです。 完全回復した後もそうであってほしいと願うばかりです。 出来るかなぁ。( ^)o(^ )2018 年10 月29 日
Chrome-PC
入院生活では、やはり通常に比べて「何もしない」時間があり、それなりにいろいろと考えていたことがある。 その中の一つに、随分お世話になったwindows XPのノートパソコンがあり、これを以前に「ネット端末」としてのchrome−PCとして使おうと思って、中途半端になっていたことを思い出した。 つい先日も、ふと「ニッチタイム」があって、それを思い出したので、準備とやり方のお浚いをしてみた。 そして、ほぼ準備も完了して、まずは、ネット接続は侵入者が怖いのでしないけれど、まだ使えるので、いつでも復元できるようにとイメージバックアップを取ろうとして、つまづいた。 イメージバックアップ用のソフトはフリーソフトで評判がいいものを使うことにしたのだが、インストール中にネット接続を要求してくる。 作成国が私としてはあまり信用していない国だったので、別の物を使うことにした。 で、やり方のお浚いをもう一度調べると、chrome−PCの「評価」のページが目についた。 結果からして「これは駄目だ」と思ってしまった。 ネット接続ができないPCの悲しさは病院で経験したので、殊更今からまたこの経験をするのが嫌になったからである。 技術者だった頃の意気込みは殆ど無くなった。2018 年10 月27 日
番外編 退院後
ともかく無事に「長期休暇」が取れたことに、すべての人に感謝である。 もちろんこれで身体が元に戻った訳では無く、断裂した筋肉が自然に繋がるまでは、できるだけ右腕を外側に広げないようにということで、拘束ベルトは外せない。 これが意外に難しいから、どうしてもふとしたことでついつい動いてしまう。 本人としては「そんなに痛くない」から余り気にしていないのだが、傍で見ている家内からすれば、「また動かした」と叱責の嵐である。 でも、自業自得で負った怪我なので、基本的には、言葉が重なるが「全ての人に感謝」であるとともに、「まだ生きていて良いらしい」と思ったことである。 退院後、人づてで聞いたという悪友から電話があったが、「50cmから落ちて死ぬ奴もいるのだから」と言われると、まさに「生かされている」と思った方が良いのだろう。 痛い思いや生活に支障をきたすことが無く、このような長期休暇を取ってみてはいかがだろうか、と思っている。 と同時に「いつまでも若くは無いのだぞ」と注意されている声も聞こえてくる。 また、この間、看護師さんや主治医さんなどとの話でも、軽口を交えながらも「常に前向き」だったことは、自分でも良かったと思っている。 あと1週間ほどで多分筋肉が繋がるだろうから、その後しばらくはリハビリがあるけれど、徐々に回復するだろう、という前向きな気持ちで注意しながらも「生きていなくていいよ」と言われるまでは「日日是好日」と構えて行こう。2018 年10 月26 日
ようやく退院
主治医の言い方としては、「これでもう何時退院してもいいんだけれど。家にいても病院にいても、拘束してじっとしているだけで、何にも変わらないのだから」とのことだったが、家内は運転ができないので、土曜日に娘が運転する車で移動したいという要望で、少し伸ばしてもらった。 幸い、土曜日は主治医は土曜日当番なので、家内共々話が聞けるということだったので、そんなに迷惑では無かったようである。 家内が一番聞きたかったのは、「お酒は大丈夫か」と「辛いものは大丈夫か」ということだったのである。 果たして、直接その質問を主治医にしたのだが、「お酒は日本酒にして5合近く飲むんですよ」「辛いものは並の辛さの物では無いのですよ」と念を押していたが、どちらも先生は「影響ありません」ということで、当人としては「それ見たことか」と口には出さなかったけれど、ホッと胸をなでおろす。 帰りは、私のリクエストで、大蒜たっぷりのラー油たっぷりのバターラーメンと餃子セット、にしてもらった。 翌日になっての体重が驚いた。 76.8である。 あれだけ何カ月も玉葱ヨーグルトなどで効果が出なかったのに、僅か11日間の病院食でこんなに効果が出るのかと。 痛い思いは、決してしたくないが、ダイエット入院、ということであれば、そんな方法もあるのではないだろうか。 ずる賢いかもしれないが、投書ネタにして見よう。2018 年10 月25 日
入院中(5) 院内散歩
これは、退屈しのぎではなく、私なりのリハビリだった。 最初は、点滴袋をぶら下げた台車と共にだったけれど、台車を頼りにするほど足腰は弱っていなかったから、それが良かった。 尤も、その頃に、女性の看護師さんの介添え付きで、最初の入浴があったのだが、その時に見ると、右側の腰の部分、足は両太腿の部分、脛の部分などの何カ所かに、明らかに打ち身や擦過傷という痕跡が残っていた。 これじゃ「どこか痛くないですか」と聞かれても当たり前だったということに、この時初めて気が付いた。 台車付きの院内散歩は2日間だけで、点滴も1日朝の一度だけになったので、その後は自力歩行での散歩になった。 ただし、なるべく平日の朝は外来者が待っているところは歩くのをやめた。 どこで誰が見ているか分かったものではなく、その度に自分の恥を晒すのはやはり気まずかったから。 入院中に台風が2と二度通過したが、幸い北陸地方としては然程の被害もなく、我が家の心配も殆ど無かったので、気軽にリハビリ散歩を楽しめた。 でも、始めた時には、台車の頼りになるほどでは無かったけれど、やはりそれなりに歩くのが少し辛くて、部屋に戻ると、ついウトウトとしてしまった。2018 年10 月24 日
入院中(4) 図書室の利用
退屈しのぎのもう一つは、図書室があったことに気が付いたからである。 何せ、入院したのが木曜日の夕方で、図書室に気が付いたのは土曜日なのだが、ボランティアの方の協力で運用されているので、土、日曜日は閉館だったから、借りられたのは、月曜日の回診が終わってからの10時過ぎだった。 1回に5冊まで借りられるので、11冊のセットものの漫画にした。 最初の5冊は一気に読んでしまい、閉館前の3時過ぎに次の5冊を借りた。 こんな経験は、いつかやったよなぁ、と思い出してみると、私が小学5年生くらいまで、我が家は「貸本屋」をやっていたのだった。 親の目をごまかして、寝る前に2冊ほどの本を寝床に持ち込んで、それを見てから寝たのが一つの癖になっていたことだった。 60年近く前の記憶が、懐かしく思い出された。 部屋は個室だったが、9時には「消灯」というルールになっていたので、ベッドランプのみを点けて、ラジオもイヤホンで聞きながら、10時過ぎまで読んでから寝た。 おかげで、朝はそんなに早く起きることなくゆっくりと寝られた。 お酒も飲んでいないのでトイレにそんなに何回も起きることが無かったから。2018 年10 月23 日
入院中(3) インターネット利用
PCの利用については、一つのやり方を覚えた。 朝食前にネットが使える売店の近くへ行き、ネットニュースの内のトップページをダウンロードしてくる。 そして、メールもダウンロードしてくる。 これで、食後の時間をラジオを聴きながらゆっくりとニュースを楽しむことができた。 マウスの操作は「左利きのための設定」を行うことで、特に問題なくすぐに慣れた。 これを昼食時と夕食時そして20時には見舞客が帰られるので、その頃とダウンロードしてくるようにした。 日記は、残念ながら右手が固定されているので書けないので、口述筆記をこの機会に何とか使えないだろうか、ということで、いろいろと試してみた。 ところが、これもある程度まで行くと、それ以降はネット接続が必要になってくるので、十分とまではいかなくなったが、単語だけなら、そんなに誤解のない様に聞きとってくれるので、それなりに重宝していた。 家にいての、就寝前の読書も「滑舌の確認」という目的があったので、それにも合っているから、正直大分退屈しのぎにはなった。 尤も、少し動かせるようになってからは、やはり無理のない範囲で右手を使うので、疎遠になってしまったのだが。2018 年10 月22 日
入院中(2) 看護師さんの甲斐甲斐しさに感謝
前回も書いたが、検査や点滴などだけではなく、汗をかいていた場合は、体を拭ってくださり、洗顔も思うようにできないので、蒸しタオルを下さり、ともかく、文字通り「痒い所に手が届く」ような甲斐甲斐しさに頭が下がりっぱなしである。 また、当然のことながら夜勤などもあるので、毎日同じ人ではないので、当日の朝に、2名で対応してくださるので、A5版のラミネート加工された用紙に読みやすく大きな文字で書いて来てくださり、「今日は私たちが対応させていただきます」と挨拶されるのも、感じが良かった。 私は努めて、そんな看護師さんに少しでも迷惑を掛けないように、食器を洗うことまではしなかったけれど、在職中に「次工程は自工程」ということを常に旨において、できる所は無理のない範囲でしてきたつもりである。 でも、多分まだまだ「手のかかるクライアントだったのだろうなぁ」と思いながら。2018 年10 月19 日
入院中(1) ともかく検査
ともかく午後から待望のラジオが届き、PCも届いたので、ベッドで起き上がれる時にはPCを使ってゲームなどをするのだが、家では「オンラインが当たり前」なのだが、最近のPCはそれが前提での動作になっているので、途中で結局使えなくなってしまうので、ローカルで出来るゲームくらいしか使えない。 それはともかく、起きる前に点滴の追加と一緒に血圧、血糖値、血中酸素の検査がある。 それが食後2時間くらいだろうかにまた来られる。 昼食前と食後2時間程度、そして夕食の前後にも同様に、ともかく検査の連続である。 でも、暫くして多分そうだろうと思ったのは、検査も勿論必要なデータ収集だったろうが、特に私の場合、ひょっとして頭も打っていないだろうか、それが原因で言語障害が出ていないだろうか、というのも点検の一つの要素だったのかもしれない。 ともかく、会話も同じようであるが、天候や暦などいろいろと多彩な話題で飽きさせないようにしてくださるので、体の調子は勿論だけれども、精神的にもゆったりと過ごすことができの多は、ずいぶん助かった。 就寝前には、必ず感謝したものである。2018 年10 月18 日
入院生活の始まり
麻酔が効いていたのは、多分深夜の2時くらいまでだったのではないだろうか。 トイレがしたくなったのだが、まだ体を動かせる状態でなく、気が付いたら膀胱までパイプが入っていたようで、気持ちだけが先行しているようだったので、そのままにしておいた。 それでも気はしっかり起きてしまっているので、ウトウトとしながらだけれども、朝までの時間の長いこと、長いこと。 確か5時頃に看護師さんが来られて、点滴の追加と血圧などの測定に来られ、例によって「手の痺れは無いか、指先は動くか、気分は悪くないか」などの冗談なども交えた会話をして、去られる。 次は7時少し前に「お茶を淹れておきます」と別の看護師さんが来られた。 7時半頃だったろうか、「食事です」と持ってこられて、家内が用意してくれていた箸とスプーン、フォークなどで食べようとしたが、さすがにまだ右手は、固定されていることもあり、食べられないので、左手とスプーンでお腹が空いていたこともあり、TVを見ながら僅かな時間で完食。 空きっ腹には適度なご馳走だった。 デザートにグループフルーツと、牛乳が付いていた。 「飢餓は最高の調味料」ということを実感として分かった。 テレビはカードを家内が買ってきてくれていたので見ることはできたが、視覚が奪われるのはやはり辛いので、ニュースの時くらいだけにして、初日は午後から家内が持って来てくれたラジオが来るまで、ベッドで何もすることが無く、ウトウト、これじゃだめだが、それ以外することが無かった。 ここで思ったことは「70年生きて来ての長期休暇だ」と開き直るのを忘れなかった。2018 年10 月17 日
手術本番
ともかく諸準備が整ったのだろうが、最後に「麻酔担当」の女性の医師から「全身麻酔で行います」と言われて「そのまま麻酔が解けないということはありませんか」と聞いて「今まで10数年やっていますが、そんなことは経験がありません」とにこやかに答えられたので、それですっかり安心した。 手術室までは、映画やドラマに良く出てくるシーンで、病院の廊下をストレッチャーに上向きに乗せられて、視界に入るのは、蛍光灯の灯具が流れているシーンだった。 因みに、パチンコ「冬のソナタ」でこのシーンが出てくると「特確」ということで、当たりは間近のサインだった。 エレベータで移動して、手術室の入り口まではしっかりと覚えていた。 気が付くと、手術は完全に終わっていたようで、もう一度ICU・HCU室に戻っていた。 そこで手術後に家内と娘の顔を確認できたので、正直「まだ生きていた」と思うとともに「まだ生きておれよ」と言われているような気がした。 それからしばらくして、個室の病室(これは色々聞かれている時に「最初はみっともないことがあるかもしれないから個室で」と頼んでおいたものである)に通されて、麻酔の効き目が残っていたせいか、お粥の夕食を食べてから寝てしまった。2018 年10 月16 日
体にメスを入れる
待たされてから通されたのは「ICU・HCU」室だった。 ICUは、前にも言ったけれど、医療システムに携わっていた時の一般用語で知っていた「集中治療室 Intensive Care Unit)で知っていたが、HCUと言う言葉は知らなかった。 翌日になって覚えていたので、携帯の電子辞書で調べると、出ておらず、その翌日持って来てもらったPCで売店の傍でだけネットにつながるということで調べると、High Care Unit(高度治療室)ということだった。 大きな部屋で、多分10数人が収容できて、この時も空いているベッドは少なかったようである。 ともかく、ここでも「手の痺れ」「意識のはっきりさ」などと血圧などの測定が矢継ぎ早にだけれど的確に行われそれも短時間に複数回行われた。 手術をする事に決まったようで、その手順なども相談されていたようだけれど、ここまで来たら「お任せします」と言うしかないので、そちらの方にはあまり興味が無かった。 それよりも「今まで手術をしたことがありますか」と若い女性の看護師さんに聞かれて「はい、一度だけ」と応えて「どんな手術ですか」との返事に少し困った。 実は20代に「パイプカット」の手術を受けたのがこれまでで唯一だったのだ。 ところが、これがうまく伝わらない。 結局「男性の不妊手術」と何とか納得したのか、それとも諦められたのか分からないが、少なくとも和やかな雰囲気の中で時間が過ぎて行った。2018 年10 月15 日
足し算と引き算
入院日記の合間に、本来の徒然的な感覚を挟ませていただきます。 入院中は勿論「禁酒」生活である。 「美味しくお酒を飲むために」糖尿と長い付き合いをし、血圧の薬も飲んでもう10数年が経っているわが身にとっては、ナントも辛い日々だった。 病院食は、血圧を高める様な塩分も調製されていて、血糖値を高めるような物もほとんど出ない。 「これもほんの一時期」だと思えばこそ、辛抱も出来たのである。 その間「口卑し」で、何か口にしていないと堪らず、結局市販のお茶を飲むことになる。 だから、その分水分を取っているので個室で誰に気兼ねもなく排尿ができた。 退院して、入院前のように、日本酒1杯とウィスキー2杯にしたのだが、その日本酒が切れてしまったので、ウィスキーだけになったら、夜間の排尿の回数が増えた。 日本酒には利尿作用があると聞いているが、ウィスキーは水割りだからまともに水分を取っている。 利尿作用と水分で適度に回数が減っていたのに、昨日はまた回数が増えた。 酒飲みの勝手な言い分だとは承知しながらも、自分で勝手に買いに行けない期間がまだしばらく続くので、買って来てもらえる日まで辛抱強く待とう。2018 年10 月12 日
「うちじゃ手に負えない」(2)
次に行ったのは、市で最も大きな総合病院である。 ここでは、時間外だったこともあり、「急患」扱いである。 事前処置室へ通されて、盛んに聞かれたのは「手の痺れはあるか」「意識がはっきりしているか」ということだったが、その間にも血圧、血糖値、血中酸素などの測定が行われる。 ここでも意識ははっきりしており、血圧の最初が199で、2回目が209だったことは、今でも覚えている。 気が動顛しているせいだろうということで、それ自体は特別気に掛けていられなかったようである。 また、その間に「やはりうちでも処置できない」ということで、砺波地区で一番大きな病院へ受け入れ可能か、暫定措置としてはどうすればいいかを、問い合わせてもらっていた。 どうも素人ながら判断すると「単に切れただけではなく、切れた筋肉などが内側にめり込んでしまっているから、その措置をどうするか」ということだったようだ。 結局、受け入れてもらえることになり、ここでは、全体の消毒が丹念に行われ、今度はタクシーで家内と砺波総合病院へ行く。 ここでも、時間外診療窓口でしばらく待ってから、いよいよ「執刀」ということになった。 次回は15日になります。 まあ、現在生きてこの文章を書いているので、決してシリアスなことではないので「へぇー、そうだったのか」的な感覚で読んでもらえることを期待します。2018 年10 月11 日
「うちじゃ手に負えない」(1)
内科病院には、月に一度定期診察に通っているのだが、外科病院にはもう何年もかかっていなかったので、「かかりつけ医者」と言うのは無いに等しい状況だったが、さりとて通っている内科病院へ運んでもらう訳にも行かないと思ったので、多分10年以上も前に罹った外科病院へ運んでもらった。 救急車で乗りつけた訳では無いので「急患扱い」はされずに、診察順を待つしかなかったのだが、付き添ってくださった隣の奥さんが、看護師さんになんか早く見てもらう様に声を掛けてくださったのが、奏を効してか、何人かを待たせて対応してくださった。 医師は見るなり「これはうちじゃ対応しようが無い」との一言である。 結局、市内の大病院へ紹介状を認めてくださるのを待って、折よく娘が家内を連れて来てくれたので、隣の奥さんには、感謝しながら、私の車を家に届けて帰ってもらうことにした。 後でいろいろな人が言うには、「救急車を呼べばよかったのに」とのことだったが、私自身は、前にも言った通り「自意識希薄」だったので「まだ耐えられる」と思っていたから、自分の車で大丈夫だと思っていたことと、大病院へ紹介状もなしに行くと、料金が高くつく、と現金なことを思っていたからしようがない。 でも、結果としては、ずいぶん昔に病院関係のシステムをやっていて、病院の関係者の方とも談話したことがあったので、良かったのだと思っている。2018 年10 月10 日
自意識が薄い怪我(2)
結果は、御想像の通り、三脚の一番上ではなかったけれど、一段下から小枝に手を伸ばし、右手で腰に付けた鋸を出した途端に、小枝が折れて、三脚が左側へ倒れてしまい、当然私もうつ伏せ状態で地面にそのまま落下した。 変なもので、視界ははっきりしていたのだが、瞬間に「頭は打っていない」と理解した。 身体のあちらこちらが痛いのだが、これは当然ということにして、ともかく気が付くだけの身の回りの物を一方に片づけて、自宅へ帰ろうとすると、たまたま隣の奥さんが庭の手入れをされていて、慌てて駆けつけてくださった。 「いや、大したことは無いですから」と言ったのだが「そこからそんなに血が出ている」と言われて、初めて右脇が血で真っ赤になっており、赤紫の塊と、白い肉らしきものが飛び出していた。 それでも、何とか左手で押し込んで、なおかつ家に歩いて帰ろうとしている自分がいた。 隣の奥さんが家内を呼びに行ってくれて、家内が来た時に、一瞬だけれど、家内の身体から力が抜けたような気がした。 それでもともかく肩を抱いて貰って家に行こうとすると(家内は運転ができないので)隣の奥さんが私の車で送ってい行く、と言われたので甘えることにして、後部シートに乗っけてもらってかかりつけという訳では無いけれど、何度かお世話になった外科の病院へ行った。 この間、意識だけはしっかりとしていたのが、どうも「怪我に対する自意識希薄」と言う状態だった。2018 年10 月9 日
自意識が薄い怪我(1)
夕方までは、いつもやっていることとイベント的にはほとんど変わりなく、畑への陽ざしが陰り始める4時頃から「さて、園芸作業を始めるか」ということで、それなりの格好に着替えて出掛けました。 今日のメインは、今年大豊作だった栗も、そろそろ終末期を迎えていたので、地面への陽ざしを遮っていた枝を切って、冬野菜用の畝にたっぷりの陽ざしを与えることが主目的です。 手が届く所の枝は今までも何本か切って、茸の菌を植え付けられるほどの太さの物は丁寧に小枝を切り落として、それなりの場所へ置いておきました。 だから、今度は安全ベルトも用意して、しっかりと身体を太い幹に括り付けてからやるつもりでした。 でも、本来の「怠け者」根性が出て、「これなら脚立に上って切れそうだ」と言う事が事の発端でした。 賢明な諸姉諸兄ならこの後は想像通りですが、それは明日に書かせていただきます。2018 年10 月8 日
番外編
9月26日の夕方から10月6日の午後まで入院していました。 暫くは「入院日記」的につづらせていただきます。 決して「闘病記」的にはなっていませんし、当の本人自身が「病気と闘った」などとは全く思っていなかったものですから、70数年で10日間程度の「休暇」だったと思っていました。 だからこそ、楽しく、いろいろな「未経験」なことに出会って、少しずつだけれど、今更ながらの発見を楽しみました。 それらを、このブログの精神「仄々」「徒然」に綴らせていただきす。 明日から始まりますが、全く何にも感じなかったこともあり、一日に沢山感じたこともあるので、順不同は当然ながら、途中には「日日雑感」的に入院とは関係ない話題に飛ぶこともあることを、ご承知おきください。2018 年10 月2 日