2019 年2 月28 日
2019 年2 月27 日
太陽が眩しい
何時もの様に、朝のルーチンとして「書き写し」をしている。 これだけだと、ブログに書くほどのことは全くと言っていいほど無いのだが、今朝は久しぶりと言うか、今季初めてのと言う「眩しさ」に出会った。 私のデスクはほぼ真東に向いている2階にあるのだが、正面に立山連峰がその雄大な姿を見せてくれている。 今朝はその姿が「素晴らしい光景」を見せてくれたのである。 文章が巧くないのは、申し訳ないが、太陽が出る前は、ピンクとオレンジが混ざったような色で、「朝焼け」が目に優しい。 そう言えば、朝焼けは「だんだん天気が悪くなると言っていたなぁ」等と思って数行書いているうちに、朝日が僅かに出てくる時には、私の大好きな「茜色」になり、そして「日の出」は眩しくてたまらないくらいである。 思わず、手を合わせ、昨日までのお礼と今日も良い日であることを祈る。 そして多分数十秒だと思うけれど、経つうちに眩しくて直視できないくらいになり、カーテン越しに見ることにした。 毎年、何度かこの景色に逢うのだが、今年は今日が初めてだった。2019 年2 月26 日
自分に見合ったスパルタ教育を
昨年からいろいろなスポーツの研修場所で、体罰を伴った「パワハラ」事件が発覚されている。 残念ながら、その多くが「曖昧模糊」とした解決になっているのは、スポーツ門外漢の私には「本当にこれで良いのだろうか」と言う気がしてならない。 それはともかく、沈静化してきていることだけは間違いないとのことなので、一安心である。 それと同時に、やはり「自己によるスパルタ教育」と言うのは必要なのではないだろうか。 残念ながら「人は易きに流る」と言うのは、間違いのない事実であることは、スポーツに限らず言えることだ。 だからこそ、「耐えられるギリギリ」まで自分にストレスを加味して、色々な難題に取り組んでいくことが必要だろう。 その上で「たまには休憩」と言う事があって、あのカーリングの選手たちが頑張ったのではないだろうか。2019 年2 月25 日
自分を褒めたい
かつてのオリンピックのマラソンで「自分で自分を褒めてあげたい」と言う言葉を発した選手がいらした。 私が褒めたいのは、そんなに立派なことではないのだが、最近読んでいる「ブッダの教え 一日一話」では、盛んに「怒るな」と言うフレーズが続ていてる。 いつもここで書いているが、私の「音読」の目的は「滑舌を認識する」ことがメインなので、内容についてはあまり気に留めていないのだが、先日家内に、わが家から見て「カラスの巣」にしかなっていない5本くらいの木を、僅か2日前に切って終われたことについて、「とうとうやって終われてスッキリしたねぇ」と言うと「何時のことを言っているの」とさも1週間以上も経ってのことをボケたのかと言うような言葉で叱責されてしまった。 確かに気が付くのが遅かったのかもしれないが、何もそこまで口汚く罵るほどのことでもなかろう、と思い、怒ろうと思った時に、「怒るな」だったなぁ、と気が付いたことである。 夕方には、家内も少し気が付いたのか、平常に戻ったけれど、怒らなかった自分を褒めたい。2019 年2 月22 日
フェイクリップサービスに淡い期待
相手が自分と違う意見を持っていると見るや「それはフェイクだ」と怒鳴り散らす大統領から、「拉致問題についてはしっかりと伝えておくよ」と言う全く意味のないそれこそフェイクなリップサービスに、「してやったり」と最近で言う「どや顔」で得意満面な我が国の総理大臣。 今まで、何度このような「空証文」で高い代償を払わされてきたのかまるでお気づきでない。 使い古しの軍備を買わされ、思いやり予算は言われるがまま等々。 挙句に「言うことを聞かないと関税を上げるぞ」と脅されても「へらへら笑い顔」で諾否をはっきりさせない。 かつての総理で「あなた方と私は違うんだ」と言われた方がいたが、どちらが正しいのか、これだけ続くとまるで国民は「煙の中」である。 尤も、その煙を作っているのが、有権者の国民なのだから、私ひとりが力んでみたところで・・・。 いやいや、諦めないで言いたいことは言い続けなければ。2019 年2 月21 日
テレビを見ていた
町内の報恩講での、講和の中の話である。 ある門徒さんの所へ行った時にそこのお婆さんとの会話。 「一日何をして過ごしとったがいね」「テレビ見とったちゃ」「テレビでどんな番組見とったがいね」「なぁーん、テレビ見とったがいちゃ」。 少し富山弁が入っているけれど、これくらいならご理解いただけるだろう。 この講話を聴いている約30人ほどの中で、即座に笑った人はわずか数人であったのにも驚いた。 暫くしてから多くの方が笑われたけれど、最後まで分からなかった人もおられた。 そこで思ったのだが、私も「テレビを見ていなかっただろうか」ということにである。 少し昔「BGV」という言葉があったのをご存じだろうか。 「BGM」なら皆さんご存じだろうが、それと同様に「Back Ground Video」の略で、日本語に訳すと「背景画像」とでもなるのだろうか。 私もリタイア後「ビデオ鑑賞」で過ごす時間が多くなっている。 「見たい番組」を録画して、楽しく見て過ごすので「テレビを見ていた」ということにはなっていないと思うが、これからはしっかりと「番組内容を見ていた」と言える様にしたいものである。2019 年2 月20 日
バイトテロ
ある記事で読んだ「かつては私も同様なことをやっていたのに」というバイトテロについてである。 どのように読んでみても、犯人擁護論としか読めなかったのは私の理解能力が劣っている所為だろうか。 私自身は中学生時代から高校時代まで、いろいろなアルバイトを経験した。 幸いにして、売った個数と残った個数を調べれば、はっきりとするので、売上金をごまかしたりできることも無かった。 横着して手抜きなどをしようとすれば、親方の目がしっかりと光っているので、後で叱られることが怖くてできなかった。 記事を書かれた人は、拡散が早すぎることが「テロ」の原因のように表現されているが、早かろうが遅かろうが、「悪いことは悪い事」としっかりと罰を受ける必要があるだろう。2019 年2 月19 日
ほうじ茶でデトックス
先日、珍しく、生護美捨て以外は一歩も外出しない日があった。 学習や作業やビデオ鑑賞と、家の中でやることはたくさんあったので、飽きることなく、やりたいことを書き出して、同じことが連続してしまわないように、順繰りにやって行くと、気持ちが良いほど消化できた。 そんな中で、やはり飲み物は朝沸かした「ほうじ茶」である。 ポットに入れて保温したものを時々、少しずつ飲むのだが、これがナントも心地良い。 ご存じのように、お茶には「利尿作用」があるので、当然のことながら、何度もトイレに行くことになるのだが、それが適度なタイミングだったので、煩わしいとは思わなかった。 これでこそ、自然の「デトックス」になるのではないかと、一人で楽しく微笑んでしまった。2019 年2 月18 日
形骸化
始めた時には、それなりに「意志」をもって始めたことだけれど、それが何年も続くと、どうしても「形骸化」してしまっていることに気が付かれることは無いだろうか。 毎朝、毎晩、食事前に仏壇と神棚にお参りする。 両親や二男の月命日にはお寺さんにお参りに来ていただき、正信偈などをお坊さんに付いて口の中で呟きながらお参りする。 仏壇には、毎朝お仏供さんを上げ、仏花の水を取り替える。 神棚の榊については、日曜日と水曜日に榊を水で清めて水を取り替える。 起きた時には感謝カレンダーの昨日に丸印を付ける、等々。 細かいことを数え上げればまだあるだろうが、そのほとんどが「何のため」ということをその都度思い直しているだろうか、というとに気が付いた。 改めて「感謝と畏怖」について考えながらの行動だと意識したい。2019 年2 月15 日
無駄にせず
一部について、料理番を任されているところがあるのだが、食材については「勿体無い」という言葉の如く、出来るだけ端材も使うようにして、僅かだけれど「護美運動」に協力しているつもりで自己満足している。 食材だけでなく、わが家は殆どがIHだから、電気料の無駄にも気を使っている。 それはともかく、以前作った投稿集の作成のためにB5版の用紙を1束買ってあったが、結局はA4判にしたので、その殆どが余ってしまった。 残ったものを無駄にしないために、PCで両面に原稿用紙を印刷し、つい先日ようやく残らず「書き写し用」として使い切ってしまった。 一つの充実した達成感である。 少し細かく言うと、WordではB5版の用紙にウィザードで原稿用紙を印刷しようとしてもできない。 そこで、ルビ行等の幅もカットアンドトライでExcelで独自に作成したものである。 この後は裏白折り込みチラシをA4に切って普通に原稿用紙を印刷して使っている。追記をみる
2019 年2 月14 日
そこそこで良しとしよう
在職中の仕事では、決して許されなかった「そこそこで良し」だけれど、リタイアしてもう20年近くになる今日この頃は、むしろ積極的に「そこそこで良し」と自分に言い聞かせている自分に気が付いた。 いわゆる「妥協」である。 在職中は「思っていても、決して口外するな」とそれが一つのストレスになり、単身赴任という環境もあってか、酒や麻雀、ギャンブルなどでお金を使いながらも「憂さ」を晴らしていた。 幸いにして「身を持ち崩す」というほどのめり込まなかったのは、離れていた家族からの時々の連絡や、上司、同僚、部下とお客様に恵まれていたからだろうと、今更ながら感謝している。 「そこそこで良し」の効用は、いろんな所にある。 昨日書いた「負けるものか」では決してなく、「及第点なら十分。二番だっていいじゃないか」である。 でも、決してこれは実戦で頑張っている人に伝えることではない、いやむしろそうであって貰っては困るのである。2019 年2 月13 日
負けるものか
かつて人がサボった時に、良く言い聞かせていたことに「水は低きに流れ、人は怠惰に落ちる」という言葉がある。 正確かどうかは別にして、必ずしも「性悪説」を取る訳では無く、むしろ「仕事の出来は性悪説で見ろ、人そのものは性善説で見ろ」と言い続けてきた。 先日も、同級生と話していた時に「どうしても、加齢とともにそうなるのだが、怠惰な自分に負けそう」という話題になった。 他人様に色々な面で負けることは、正直この頃はあまり気にならにいというか、その時には「口惜しい」と思うことは凡人の故当然あるが、「後を引かない」という事である。 今までは「あの時こうやっていれば」とかをウジウジと暫く考え続けて自分が嫌になったものだが、それが殆ど無くなっている。 でもしかし、「怠惰に落ちる」という自分に負けることにだけはなりたくないと思っている。 勿論それでも負けることはあるが、その時は「なぜ負けたのだろう」とウジウジではなく「どうしたら勝つことができるだろうか」と前向きに楽しく後を引かせている。2019 年2 月12 日
同じ投稿が採用されていた
勿論別の新聞にであるが、投稿者の名前は覚えていないが、内容は全く同じで「微笑ましい」情報である。 私もかつて地方紙2紙に投稿していたが、同趣旨の物は決して投稿しない様に十分な気を付けていた。 その為の一つの基準としては、「一つは微笑ましいものだけ」「もう一つは、生意気かもしれないが、政治的なものや生活の知恵」的なものにした。 私の知っている限りでは、同趣旨の物は無かったと思っている。 何故その様にしたかというと、当時はまだ母が少し認知症はあったけれど、昔から取っていた地方紙をどこまで分かっていたかは別にして、偶に採用される私の投稿で私の名前は分かるらしく、施設へ行っていても、私のことがそれで話題になるのが嬉しかったと言っていたからである。 母の逝去とともに、その地方紙の購読は辞めたので、今の1紙だけにしたのであるから、もし万が一内容がダブっても新聞社の方で採用しないから、その心配だけは無くなっている。 だから、怒りも微笑みも生意気な知恵も混在している。2019 年2 月8 日
新聞の読み方が遅くなった
今までは「少し興味のある記事が多かったなぁ」と思っても45分で読み終えていたのだが、最近は50分でも足りなくなっているような気がする。 特別難解な文字が出現しているとも思えないので、やはり高齢化していて、頭の廻り方が遅くなっているのだろうか。 いつも言うように、それ自体は「順調に歳を重ねられている幸せ」だと思えばいいのである。 でも、目が文字を追うのが遅くなっているのだとすれば、ずいぶん昔に「速読法」をそれなりに学習したことがあるので、その中の一つで「頭を動かさずに『俯瞰する』」という方法も訓練して見ようか。 それなら、無理なく出来るし少しは効果が出るかもしれない。2019 年2 月7 日
孫の高校入試への送り
今日は孫の私立高校の入学試験で、当中学校からはそんなに受験生が多くないので、バスなどの配備がなく「自己解決」ということになり、娘夫婦は平日でもあるので、勤務となり、爺である私に送って行くように頼まれた。 それはナントもないのだが、やはりきょう昨日の内から「験担ぎ」として帰宅して車庫に入れる時に「明日は前進で出られるように」と言う願いを込めてバックで入れておいた。 現代の女子高生には、言っても感謝も何もないと思うが、ささやかな爺の願いである。 また、お礼を言って欲しいとも思わずにやることに、私の思いやりがある。 いやいや、自己満足だけなのである。 結果としてその高校へ行くかどうかは、分からないが、「入学試験」ということであれば、やはり「合格」してほしい。2019 年2 月6 日
暖冬に感謝すべきか
私の日記帳は、以前にも何度か紹介したが、一画面で最大過去2年分の同日の記録が見えるようにできるものである。 昨年の今日のタイトルが「腰の高さまでの大雪」と言うものだった。 内容はさておき、今年はそれに比べて、現在までは、ナントも心地良い「冬」を迎えて、暦の上だけれども「春」を迎えている。 綺麗な雪景色から、まだまだ小さいが、所々に「蕗の薹」を見ることができる。 用心のために、昨年駄目になった「ママさんダンプ」という大型のスコップを買っておいたが、一度だけしか使っていないのも、楽しい思いである。 米国では、異常寒波に、大統領が「地球温暖化はやっぱり嘘だった」とのたまっているという馬鹿げた言葉が伝わってきている。 禅の言葉だというが、良寛禅師の言葉として聞いている「死ぬ時には死ぬがよかろう」というほど、「諦観」という境地には程遠いが、これも運命、と思えば全てのことが「良いこと」と思った方が前向きだろう。2019 年2 月5 日
蛙の面に小便
厚労省だけでは無くなった、各種統計での不正が続々出てきている。 担当大臣は「遺憾に思う」だけで、特別変わりはしないことは、本人も該当者も「分かり切っている」という様子である。 大臣は「関係者を『処分』する」と勢いが良いが、訓告や戒告、僅かばかりの減給などは、今までの例からしても「蛙の面に小便」ほど効果しか無いことは、いう方も言わる方も先刻ご承知で、「ハイハイ」というところだろう。 原因は分かっている。 「これ以上酷いことになったら、洗いざらいぶちまけますよ」という脅し文句が何時でも使えるからだろう。 それは処分該当者だけではなく、その当時の部下や同僚なども一緒に敵に回すことになるからだろう。 すまじきものは「腰かけ大臣」というところか。2019 年2 月4 日
落ち着いてイヤホンで聞く
昔から、ウォークマンやそれに類るものは、「常に」という程耳にして愛用していた。 未だにそれほど得意な英会話ではないけれど、ずいぶん昔に買ったレコードの教材を、テープにして、次はCDにして、そして最後はメモリーカードにして聞いて学習したものである。 勿論「学習」は時間を決めてしか行わなかったから、とても自慢できるほどでは無い。 だけれど、やはり同様にレコード音源とエァーチェックで集めた、音源による音楽を聴くことが多かった。 さすがに仕事中はそうでもなかったけれど、出張族ということから、移動中はまさに「コンサートホール」にいる気分だった。 だけど、両耳で聞いていて外部音が聞こえなかったのが原因の事故を聞いた時から、かならず「片耳」でしか聴かなくなった。 もうずいぶん昔の話である。 先日、風呂場に最近のメモリーに入れた音源で、久し振りに両耳で聴いた。 やはり外部音を遮断しての音楽は良いものである。 でも、これからは「音楽を聴きながら眠って溺死しない」様に気を付けなければならない。2019 年2 月1 日