2016 年2 月29 日
2016 年2 月26 日
読書感想文
就寝前読書で読み終えた「日本の民話」4 民衆の英雄である。 正直、本来鈍ら者の私には「やったね」という話が多い。 平生からの英雄活動ではなく、平々凡々というよりは、もう少し程度が低いと思われる主人公が登場してくる。 当然みんなからは、良く思われていないし、よく言われておらず、親からも少し敬遠されてしまうのである。 ところが、なかなか誰も対処できないような課題が出現した時に、やおらあり得ないほどの能力を発揮するという筋立てである。 最近の「アリの団体」と同じようなことだと思ったりする。 どちらばかりでは駄目だけれど、やはりどこかに「遊び」と言う「ゆとり」が無いと全体としての能力の発揮という訳にはいかないのかもしれない。 されども、「民衆はその能力に応じて働けば、同じ生活が保障できる」と言うような共産主義的なことには同調できない。 それは、私自身が「鈍らの怠け癖」があるからである。 決して英雄になりたいとも思わないけれど。2016 年2 月25 日
読書感想文
今回は、朝の音読で使ったものである。 「本」と呼べるかどうかの定義はさておいて、たぶん在職中に何かの雑誌(例えば、時々買っていた「プレジデント」とかだろうが、記憶が定かで無い)の付録としてあったものではないだろうか。 「自らの手で人生をコントロールする 5つの方法 すてきな人生を得るためのポイント」(ジョセフ・マーフィー・ワンランクアップ研究会 著・刊)である。 趣旨を浅学非才な私が言うのは忍びないけれど、趣旨には大いに賛同する。 要は「潜在意識に具体的な要望をインプットすることにより、効果が表れる」と言うものである。 その方法論が書いてある。 だけど、著者も書いているが、インプットしようとすると「どうせ叶わないから」と言うネガティブなインプットが一緒どころか要望よりも大きなレベルでインプットされてしまうから、なかなか実現できないと言うのが現実である。 この本を読んだ時だったかどうか記憶にないが「全社にLANを張ろう」と企画した。 会社は全国、津々浦々にある。 そこに「Local Area Network」である。 どこが「Local」なんだとかなりの人から馬鹿にされた。 顛末は別として、それが実現したのである。 単身赴任中だったから、幸いにして(家内と子供には悪いが)プライベートに邪魔が入ることは少なかった。 実現させるには、それだけの「意識」が必要である。 でも、参考になるから、ぜひ探して一読されてみればいかがだろうか。 無断転載を禁ず、とあるからこれくらいの紹介しかできない。2016 年2 月24 日
政治の世界は相手批判
政治屋に「反省」を求めることは、ずいぶん昔に諦めた。 在職中に組合の役員を務めた時には、当時の社会党の議員さん、管理職になってある意味強制的に党員にされたときに討論会の後の懇親会で妙に馬が合ってざっくばらん的に話した現与党の議員さんなど、主にお酒が入った席での会話で「えっ、こんな考えを持っている人が議員」と驚いたものである。 まだ30台になってすぐ位だったろう。 だから昨今の議員さんの不埒な行動には正直そんなに驚かない。 ところが、少し前に与野党逆転した時、そして今またその再来が囁かれている時の現与党さんの発言はなりふり構わずの相手批判である。 その最たるものが「野合」である。 あたかも「自分たちはそんなことをしない」とでも言っているようで、噴飯ものである。 「党」と言っているが「なぁーに、金で繋がっているだけ」(当時の酒の席での某議員さんの発言)と言うのが実態だと言うことはほとんどの選挙民が知っているのにである。 ではなぜ当選するのか、と問えば「選挙民も金で繋がっているのだから」。 批判ばかりではなく、本当の意味での政治論で戦って欲しいものだが。 八百屋で鮮魚を求めるが如しか。2016 年2 月23 日
アリの集団
団体の2割くらいは「怠け組」だとのことである。 残念ながら、現在ばかりではないけれど、第一線で働く人にはやはりそうであって欲しくはない。 例え、疲れた人のリリーフとして頑張って、団体としてはその方が長続きするからといっても、私はやはり賛成できない。 しかしながら、個人としては脳の使い方はそれで行ってはどうか。 私は、かなりそれに近いことをやってきた。 就業時間中でも、2割は仕事以外のことを考えていたと思う。 だからと言って、そんな時に仕事のことで割り込みが入ったからといっても、決してそれに執着することなく、すぐに切り替えられたので、たぶん誰にも気が付かれなかったのではないだろうか。 そのおかげだと思うけれど、ひどい時には4つの兼務、都内と関東地域に4か所のデスク、金沢に2か所のデスク、その癖あちらこちらへの出張命令で、苦手な飛行機も使って飛んで歩いていた。 息子や娘の進学などは家内に任せっぱなしの単身赴任だったけれど、何とかノイローゼにならなくて過ごせたのだと思う。 できる範囲で、すぐに仕事モードに戻れる訓練をしながら楽しんでみてはどうだろうか。2016 年2 月22 日
漢字の細かい所が容認
書き写しを続けてもう10年以上になる。 私の動機は非常にヘンテコである。 中学から高校まで「お前の字は字ではなく恥だ」と言われるほど下手な字だった。 だけど国語の成績がさほど悪くなかったのは、貸本屋をしていたせいで、本は片っ端から読んでいたので、下手ながらも字は読めたし書けたのだからだろう。 そんな私が職場に入って大分経ってから(それまでは日誌くらいしか書く必要が無かったから)企画立案しなければならなくなった。 苦手だったのだが、文明の利器が出現した。 今で言うワープロである。 今と比べるとその操作性については天と地ほどの差があったけれど、書き直しが容易にできるのである。 それ以来機械はいろいろ変わってきたが、思う存分に使いこなしてきた。 そしてリタイア、日記を書こうにも手が思うように動かない。 それで始めたのである。 今回の「細かいことは気にしない」は福音ではあるけれど、分からなければ辞書やネットで調べてようやくここまで来ている。 お役所が容認したからといって必ずしも従う必要はないのだから、今の姿勢を続けてゆこうと思っている。2016 年2 月19 日
臨時休業
昨日から中学の同級生の男性ばかりの飲み会で出かけていましたので、今日はお休みさせていただきます。2016 年2 月18 日
見るとむかつく顔
言いたい放題だけど、最近TVで見かけるとすぐにチャンネルを変える人の顔ってありませんか。 安倍晋三、アサド、朴クネ、トランプ、習近平、金正恩などなど。 それだけ歳を取って短気になったということでしょうかねぇ。 それにしても、よくイケシャァシャァと無責任な発言を繰り返すものだと、思ってしまうのです。 勿論それなりの主義主張はあるのでしょうが、とても私には受け入れられないのです。 だからこちらが逃避行をするしかないのです。 在職中は私だってそれなりに好き勝手な口を利いてきましたが、これほどまでではなかったような気がするのですよ。 勿論影響力は比べ物にならないでしょうが、それだけに怖いと思ってしまうのです。 単なるボヤキでしかありませんがね。2016 年2 月17 日
一週間
「一週間」と言う歌がある。 リタイアして10余年。 大体パターンが決まってきたので、詰まらないだろうけれども紹介しておこう。 月曜日は、掃除がある。 2か所あるトイレのうち2階の1か所が受け持ちであり、勿論洋式トイレだけれど、こびりつきなどもあり、丁寧に洗う。 第一月曜日には、20枚ある戸の桟や、敷居と鴨居の上なども掃除する。 そして、生ゴミ捨て。 10時からの学習と3時からの読書は今年になってから始めた習慣で、現在まだ続いている。 そうそう、時間がダブるが、3時からは下校児童の見守りもある。 火曜日は家内のパート先への送迎、水曜日は4週間おきに定期診察と学習と読書、木曜日は第一は中学同級生との楽しいおしゃべり会と家内のパート先への送迎。 金曜日も学習と読書に家内のお供で買い物に出かける。 土曜日は今のところフリーにしてあるが、幸か不幸か完全フリーになったことはない。 日曜日は1週間分の半数と来週の予定立てである。 これに毎日のルーチンとしては、家事に限ると味噌汁作りと自分の朝食作りがある。 ラッキーリタイアメントもこれだけあると、ハッピーである。2016 年2 月16 日
AIやロボットに出来ない仕事
少し前から、表記のような記事を見掛けるようになっている。 総称して2045年問題ともいわれている。 リタイアしているから、誰も現在の私のような生活をロボットやAI技術を駆使してやろうとは思わないだろう。 ということは、このブログのような文章を書くことも、彼らにはできないだろう。 大量データから、何らかの規則性を導き出し、それを新しいデータで試行錯誤やフィードバックを繰り返して何らかの結論を導き出すことはできるだろが、徒然なるままに、書く文章などできる訳が無いのだ。 それを思うと「自分にしかできない」仕事と言うものはいくらでもあるのではないか。 なにも2045年問題などで悩む必要などない。2016 年2 月15 日
読書感想文
「読書の時間」を設定して、最初になるが、読み切った本の紹介である。 「信仰に入る道」(河崎 顕了 著 破塵閣書房 刊)と言う本である。 発行が昭和13年、定価が80銭である。 正直、リタイアして仏教関係の本はほとんどが父の遺したものだけれど、数冊に終わらない位の量を読んだり、書き写したりした。 でも、いつかこのコーナーで書いたように「解らないから面白い」と言う感覚だったし、この本を読んだから解ったというものでもない。 でもしかし、少しだけ「仏教で救われる」と言うことの意味に近づいたような感じが持てた。 現世は「四苦八苦」の世界だから、そこで何か良くなるものではない、むしろそこを乗り越えながら信心を積み重ねて、生きてゆき、果ては浄土と言うところへ導かれるのだと説いている。 著者の考えが持てるほどでは決してないけれど、「現世で救われる」と言うことではないことが分かって、なんだか少しだけスッキリしたようになったのも、読んだ価値があるというものだ。2016 年2 月12 日
孫が手作りのチョコ
今年中学生になる頭と同じく5年生になる「内の外孫」に年長さんになる「外の内孫」が揃ってチョコレートとクッキー作りを楽しんでいた。 まだ「本命」や「義理」と言う言葉は知っていても意味まで分かっているのかどうか、爺としては知る由もないが、楽しくやっていることにはもちろん異論をさしはさむ気持ちが無く、微笑ましいだけである。 禅や仏教関係の本を書き写したり音読したりしているせいか「今が良ければ全て良し」的な感覚を素直に持てる。 ある意味では「退廃的」と指摘されるかもしれないが、指摘する人は人である。 これが私の「泰然自若」であると例によって嘯いている自分を見ている自分がいる。2016 年2 月10 日
やっぱり女性大臣は駄目か
総務大臣が、自党や政府の言うことを批判する放送局には電波の停止を罰則とする、と発言しているとの報道である。 男性ばかりが良いという訳ではないけれど、少なくとも男性の発言には「場当たり」と言うものが少ないのではななかろうか。 女性の重用と言うことについては決して異論をさしはさむ気が無いし、むしろどんどん進めるべきだと思っているが、こんなことを見せつけられると、どうにも腑に落ちない。 今までもほとんどがそうだったと思うのは私だけだろうか。 任命責任がある総理も短い期間で大変だろうけれど、時間をかけてでもしっかりとした人を見出さないといつまでたっても「看板」でしかなくなるのではないだろうか。 これを新聞投書にするのはやはり少なからず度胸が要るから、ブログにした。2016 年2 月9 日
電話の応対
18歳から当時の電電公社に勤務し、職場は転々としたが、電話応対については、ことあるごとに注意された。 「ベルは3回鳴る内に出ろ」「10回鳴らしても出なければ留守と思って切れ(他人様に「この家は留守ですよ」と伝えないためにも)」「電話は誰が受けているかはっきり名乗れ」などなどである。 ところが、現在はいろいろな事情で「(受けた時に)名乗る」ことは基本的にしていない。 しかしながら、掛けた時には必ず自分は誰だと名乗ることはしているつもりである。 先日、友人に電話して「戻られたら折り返しお願いします」と奥様に伝えた。 掛かってきた電話が「○○だけど」だったのにはやはり驚いた。 あなたの電話だけを待っている訳ではないのだ。 せめて住所や「先ほど電話いただいた」と言うような「前置詞」があって欲しい。 自分が立派な対応をしているとばかりは思っていないが、反面教師として自戒項目にしておこう。2016 年2 月8 日
コロコロ掃除機
私の掃除当番は、毎月曜日である。 当然のごとく、電気掃除機で行うのだが、昨年のいつ頃からだったろうか、どうしても取れないゴミが目につき気になるようになった。 そのほとんどが「髪の毛」である。 孫も毎朝頭を梳かしてから出かけるから、本来の割り当て場所以外だけれど洗面所や脱衣室にも落ちている。 そこで以前は、机の上専用に消しゴムの滓などで使っていたコロコロ掃除機を使うようにした。 使ってみて、どんどん取れるので実に気持ちが良い。 今では我が家のあちこちに配置してある。 特にトイレなどは小用でも座ってすることにしていることから、意外と目につくことがある。 気がついても、髪の毛はなかなか素手では掴み辛い。 そんな時「スッ」と転がすだけで気分が良くなる。 小さなところからやってみては如何でしょうか。 高価なものではないので駄目元で。2016 年2 月5 日
豆まき
今年も孫二人と各部屋ごとに大きな声で「豆まき」をした。 三人でまき終ったら「拾えー!」と言う号令で、袋入りのまいたものを拾い集め、次の部屋に移動するのである。 そこでまた、の繰り返しである。 今年少し変わったのは、どうしても「拾い残し」があり、大分経ってからひょっこり出てくるので、豆ばっかりでは出てきた時に味気が無いということから、半分は同じ袋入りの「マシュマロ」にしたことである。 案の定、まき始めの量と、まき終っての量には相当差があり、その差はかくれんぼうをしているのだろう。 豆はそれなりの意味があるのだが、マシュマロにはそんな意味などなかろうから、信心とはかけ離れたイベントになっている。 それでも少しの間孫と楽しめたことに感謝である。 今年頭の孫は中学生になる。 来年も同じように爺と遊んでくれるだろうか。 成長の楽しみと少し爺離れの寂しさが混じる。2016 年2 月4 日
読書感想文
就寝前読書で続けてきた本である。 「腸スッキリ!」健康法(藤田紘一郎著 PHP文庫)。 この本は、ずいぶん久しぶりに本屋さんの棚から私を読んでいる本だった。 減量は目標の一つで、常に頭から離れていないことがあったのだろうことと、そんなことからTV番組表からも「快便」につながる番組を選んで見ていたことがダブっての結果だろう。 かなりの項目を網羅されているので、そのすべてを実行する訳にも行かないし出来ないものもあるので、適当なつまみ食い的に楽しんだ。 いや、今現在も続けているものがある。 これから適当なタイミングを見て項目を入れ替えようと思っている。 基本的には「食べながら痩せる」と言うことを目標にしているので、そういう意味で私と合っている。 でも、このような本を書くときにはしようがないのだろうが「専門用語」が出てくることが私にとっては悩みである。 「オメガ3系の油」「トランス脂肪酸」「オリゴ糖」などはすでに一般用語になっているのだろうが、物覚えの悪い私にとっては苦手な項目である。 でもまぁ、参考にしながら楽しくスッキリ腸を目指したい。2016 年2 月3 日
味噌汁当番
朝食の味噌汁当番は大体定着して私になった。 時間がかなり迫っている時以外は、二人の孫に具材を示して「飲む」と聞く。 なぜか頭の孫はたいてい肯定で、下の孫は否定である。 でも、爺は必ず二人に聞くのである。 決して「飲まなければだめだよ」とか「飲んだ方がこれだけ良いことがあるよ」などと言うことはなく、素直に聞いて納得し、その通りにする。 「少しだけ」と言う量に関する答えがあることも、具材の多少についての注文があることもある。 人に自慢できるほどの物ではないから、決して無理強いはしない。 爺ができるのはこの程度の「公平さ」と自認している。 でも、やっぱり二人が飲んでくれて「美味しかった」と言われるのが嬉しい。2016 年2 月2 日
似た漢字
形が似ていても、全く違った意味の漢字と言うものは、結構あるものだ。 ネットで調べると確かにそれなりに網羅されているが、中にはかなりマニアックなものも混じっているので、別の世界だなと思ってしまう。 だから、体験的に思いついたり、書き写しや読書をしていて見つけたものを書き出している。 そのうちにはそれなりの量になるかもしれないが、今のところはまだまだだが、面白いから「道半ば」だけれど、紹介する。 きっかけは結構多くの人が気が付かれている「(果物の)柿」と「こけら[残念ながらここで表記はできないようなので、各自興味があったらお調べください](落としなどと使われる)」である。 「苦(労)」と「菩(薩)」も似ていないだろうか。 「毛(髪)」と「手(腕)」、「好(き)」と「嫌(い)」も。 つまらない話であるのは間違いないが、そんなことを思いながらいろんな本を読むのも適度なオアシスとなるだろう。 この下書きを書いた後「粟」と「栗」も見つかった。2016 年2 月1 日