貧乏人は麦を食え、という宰相がいた
(明日から旅行に行くので28日に書かせていただきました)
過日新設なった北陸新幹線で、御開帳で賑わう長野への旅を楽しんだ。
最後になって、高岡から石動まで、快速タイプの「ライナー」という電車に乗るときに、通常の切符を購入して時間近くになって何か赤い文字で書いてあるのを注意して読むと、指定席券が必要だとのことである。
駅員に聞くと「窓口で売っている」とのことだが、自動機では売っていない。
さらに聞くと「窓口だよ」というので、少し並んで待っていると、出てきた職員が新しい窓口を開いて「定期券の人とあいの風鉄道の人は受け付けます」という。
ライナー券は当然あいの風だと思ったので並んで待ったけれど、後から来た人が別の窓口に直接並ぼうとされるので「私が先に待っている」と言うことで少し気まずいことになってしまった。
まだ間もない事だからある意味しようがないとは思うけれど、いろんな学習をしたのだから、もう少しスムースに事を運んでほしかったなぁ、と思った。
投稿者:つねちゃん
at 19 :57
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恒久平和を世界のトップに聞いてみたい
残念なこととに、世界中で「我が国が一番いいことをやっている」と主張されるトップがいらっしゃるようだ。
どうも、時々変遷することを考えると、「我が国が」ではなく、「私が」になっているようである。
昔のことを言うのではなく「今秩序ある限りにおいて」と言う定義で「世界平和」とは何か、と言うことを本音として聞いてみたいものである。
トップの人気、国民からの信頼などなど、いろんなことがあるかもしれないが、少しの領土を取るために自国民だけでなく、相手国の人の人命を奪うことが平和になるのだろうか。 江戸時代から明治になった時に「仇討禁止令」が出たと聞いている。
いったいどの時点からか知らないけれど、それと同様なことがなぜできないのだろうか。 そのために「相手が」ではなく、「自国が何をどうすればいいのか」を考えるべきではないだろうか、と考えるのは、あまりにも世間知らずと言うことだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :24
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カラオケが嫌いなわけじゃないけれど
何かの機会にお酒が入ると、自然な流れの様にカラオケ大会然とした様子になってくる。 正直なところ人前で歌うのは、自分の下手さを知っているから嫌いで、誰と言うことなく下手な歌を聞かされ、手を打ったり合いの手を入れたり、拍手したりを強制されるのが嫌いである。
それでも「歌を歌う」ことは好きである。
そんな歌の中に「わが人生に悔いなし」がある。
それを真似て、ずいぶん以前の父の日に今では厄も越えた、当時小学生だった息子からもらった鏡が見つかった。
デスクの前に吊るしておくのに手頃な大きさで、少し前から「鏡に向かって笑顔」をやっている。
必ずしもの行動ではないけれど、時折ふっと鏡の中の自分の顔がこちらを見ている。
変な顔もあるし、情けない顔もあるが、見た瞬間に笑うのである。
当然向こうも笑ってくれる。
別段健康にいいわけではないだうけれど、自然と心が和んでくるから、楽しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :34
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BMI26.0は「太り過ぎ」か
先日測ったら体重が81.6だった。
体重は基本的に毎日起きて直ぐに測っているのだが、ここの所この数値が続くので、正直かなりめげている。
身長は177cmと変わっていないので、よく言われる「肥満指数」としてのBMIは26.0と言うことになる。
腹筋運動やそのほかの運動も欠かさずしているが、山菜や野菜などが美味しく、なかなか食事の減量にまでは行かないのが現実。
でも、果たして「太り過ぎ」なのだろうか。
今年の末までには75Kgにしたいと思っているのだが、目標がだんだん遠くなる。
これを書いたのは連休のお休みをいただく前だった。
今朝の体重は79.8と若干改善されていて、BMIとしては25.5である。
特別なことをしたわけではないのだが、ここ1週間ほど79台が続いているから、今年の目標にわずかずつ近づいているのかも。
投稿者:つねちゃん
at 06 :06
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「川は流れる」という歌が好きだ
ずいぶん昔に流行り、好きな歌の一つだった表題の歌は、確か沖縄出身の仲宗根美樹が歌ったものだった。
姓から来る感覚でそう思っていたら、とんでもない東京都出身だと調べて分かった。
それは兎も角、最近の書き写しの「一日一禅」の中で似たような公案が出ていたので思い出したことがある。
「川は流れない」のである。
「川の水は流れるが、決して川自体が流れることはない」。
そうなのだ、美空ひばりの好きな歌の一つで、下手ながらカラオケなどで歌うときに選ぶ「川の流れのように」でも「川は流れていないくて、川の水が流れるように」である。
つまらないことを思い出すものだが、禅ではこのようなことにもきちんと理解したうえで物事を見つめるべきだという示唆だったのだろう。
以前この様なことを思ったのは「哲学概論」を学んだ時ではなかったろうか。
本質を見つめる、ということが必要な時があり、その必要な本質は各自で見つけるしかないのだろうが。
だからと言って懐メロだけれど、標記の歌が嫌いになる訳では決してない。
投稿者:つねちゃん
at 07 :57
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一日一禅の中から
「知らずは最も親切なり」
在職中は仕事のこととはほとんど片時も忘れなかった。
だから当然のこと期日と目標、そのための対策など、いくつも「知らなければ」という宿命に包まれていた。
「これが管理職の辛い所だが、これも給料のうち」と自分に言い聞かせていた。
ところが、この公案を聴いて「そうなんだ、特別何も知らずにいることも親切なことなのだ」と勝手に思った。
勝手ついでに思ったことは「禅」というものの「公案」というものの理解は、そうではないと思いながらも「人それぞれなのではないか」ということである。
いつか読んだ節の中にも、修行中ではあるが、後年名をはせた禅僧が、一介の老婆の言葉に驚き、悟ったという話があった。
偉い偉い禅僧の話には、当然それなりに人を納得させることはあるのだろうが、果たして私のような凡人にすべてが理解できるわけではないだろう。
この本を書き写しながらも学習して、一つでも「そうだなぁ」と思うことで良しとしよう。
これこそが凡人の凡人たる所以だと、勝手に理解して。
投稿者:つねちゃん
at 09 :00
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「寝ころび音読」のススメ
毎朝および最近は就寝前にも「音読」をやっている。
加齢のせいではないかもしれないが、リタイアしてからは余り「口角泡を飛ばす」とか、ましてや余程のことがない限り「声を届かせて号令する」などと言う機会は減っている。 PC講習会でも人それぞれへの対応だから、大声でみんなに伝えるような形式はとっていないので、どうしても「ボソボソ」ということになる。
それを今から防止するつもりでの私なりの方法である。
ところが、先日「エッ」と驚いたことがある。
早朝から、ある加盟団体の動員要請があり、清掃奉仕に出掛け、帰宅後ベッドに寝ながら新聞の音読をしたのだが、うまく「滑舌」が回らないことに気が付いた。
ここまで書いていて「滑舌」の言葉の意味を確認しようと電子辞書を調べたが載っていなかった。
アナログ辞書の「漢語林」にも「大辞林」にも載っていない。
ネットで調べると「放送業界特有の言葉」だとあったが、意味は間違っていないし、これを書いているPCでも一発で出た。
話を元に戻して、音読は基本的にデスクで椅子に座って姿勢よくやっているのだが、これも重力のせいか、加齢による口内筋肉の緩みのせいだろうか。
それからは今まで「黙読」だったベッドでの新聞も、できるだけ「音読」するようにしている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :06
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音読の一つにあった
音読の中に、今日の脂肪減量のヒントというのがある。
ある日のヒントは「肉よりも魚介類を中心に」であった。
私はどちらかというとこちらが大好物である。
烏賊や蛸も良いとある。
貝類は殆どすべてが好物である。
勿論生きた赤貝、というものはかつては一番の好物だったが、残念ながら今では気持ちが先行で、身体が付いて行かない。
どうも、これ以上書くと、話が本題からずれて行ってしまいそうなので、楽しいけれど怖い。
魚と言っても、品不足のクロマグロや高級魚となりつつあるウナギなどを無理に食べるほどの器量も経済力もないから、土光敏夫に倣うわけではないけれど、時折朝食に供する目刺しが大の好物である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
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政治屋への罰則
相変わらず野党及びその腰ぎんちゃく的な政党や党に属さない政治屋が跋扈している。
そして、勝手なことを言い触らしたり、スタンドプレー的な行動をする輩も多く目に余る状態である。
やはりここは「超党派」的な活動として、マスコミを含めて、そんな政治屋に徹底的な罰則を与えることが必要なのではないだろうか。
軽微な罰金や、禁錮、などの軽いものではなく「徹底的な無視」であろう。
投稿者:つねちゃん
at 07 :51
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それもこれも
いろんな場面でこんなセリフに出会う。
この後に続くのは「お前のためを思って」というので、大体の場合は「お涙ちょうだい」という風になり、そんなに酷くないエンドを迎えるのが常ではないだろうか。
でも、よく考えると「みんな自分のため」というエゴが見えてくるのが現実ではないだろうか。
あくまでも私の場合だが「いろんな健康法を試して挑戦しているが、それもこれも『毎日おいしいお酒を飲むため』だ」と言うのが本音である。
異論反論はあるだろうけれども、美味しくお酒が飲めるということを考えれば、さほどエゴばかりではない。
自分は勿論だけれど、家族全員が健康でいなければ、美味しくないだろうし、何よりも借金まみれで飲んでも美味しくはないだろう。
隣近所との諍いがあっても、無視ばかりされていても等々、美味しくなくなるような要因がないということは、それだけで幸せなのではないか。
「人のため」と思っていながら、実はそのほとんどすべてが「自分のため」なのではないかと思うと、何も人から感謝などされなくても、それはそれでいいのではないか、と肩の力が抜ける。
投稿者:つねちゃん
at 06 :14
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釣果がないことをなぜ「ボウズ」と言うのか
子供のころは川釣りだったけれど、就職して子供が生まれて本社勤務になった頃に住んだのが藤沢だった。
上司に誘われて、自転車で行けるところだったので、今で言う湘南海岸へ海釣りに行ったのが、釣りの再開だった。
冬場で、当時はまだそんなにサーファーがいる時期ではなく、子供に目を配りながらも自由に浜からの投げ釣りを楽しんだ。
釣れたのは「コノシロ」と言う一般の人にはあまり評判がいいものではなかったようだが、寿司屋では「こはだ」と言われているものらしく、当時は魚の細工が苦手だった家内と、悪戦苦闘しながら、どうにか酢締めで美味しくいただいた。
それからも行ったのだが、正直中々釣果が得られないというのが実情だった。
「なぁーに、スポーツフィッシングだよ」と自分に言い訳をしながら、適度なスポーツになることは間違いが無く、気晴らしにもなっていた。
最近も車で30分ばかりの所へ時折行くが、残念ながら「ボウズ」ばかりが続いている。 で、表題に戻るのだが、なぜ「ボウズ」と言うのかに気が付いて、ネットで調べると、「(ボウズ)坊主は殺生をしない」からだという。
つまらない事だけれど、「わかった」と言う気持ちは大小にかかわらず楽しい事である。 これからも「エッ」と思ったことは調べて「わかった」と言う楽しみを肌身で感じたい生活を続けたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :13
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楽しい民話
以前の「御伽草子」に加えて、父の蔵書の中にあった「民話(全6冊)」を読み始めている。
まだ途中だけれど、各地の方言が大体わかる程度にいい訳されて載っている。
中には聞いたり読んだりした話もあるが、その殆どは「初耳」だから何とも楽しい。
勿論「楽しい」ばかりではなく「怖い」話もあり「天罰」的な話もあるので、それなりに興味をそそる。
それにしても、内容的にはとても「子供に話せる内容」ではないものもある。
「怖い」からではなく「エロチックとしか言いようがない」ものだからだ。
でも、よく考えてみれば、浦島太郎だって、それ以外もそうだけれど、昔のままではやはり幼児・児童には話せなかったものが、色々と吟味されて伝わってきているのだと思うと、その途中で苦労された方々の知恵に、今更ながら頭が下がる思いがする。
投稿者:つねちゃん
at 06 :03
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相手を恨むより自分を称賛しよう
俺がこれだけ良いと思ってやっているのに、相手は全く同調してくれない、ということはリタイアした今でも毎日のようにある。
でも、よく考えてみれば「良い」の尺度が違うのだろう。
これを無理に合わさせようとすれば、どこかの国の活動の様に、最も恐れるべき「戦争」という事態になる。
何もすべてのことに「やらせてもらっている、有難いことだ、合掌」と唱えるお坊さんほどは望まないけれど、「自分が良いと思ったこと」をしているそんな自分を自分で称賛しようではないか。
勿論傍に迷惑にならないように。
そうすれば、別に誰彼から賞賛を期待してやっているわけではないのだから、相手が同調してくれようが関係ない。
無理なく、やれる範囲で、やれる時に、が本来のボランティア活動だと思うのだが。
最近は何かそれに類するようなことをやると「これもやって」と言う声がかかるので、極力目立たないように、それでも自分を称賛しながら続けている。
投稿者:つねちゃん
at 09 :21
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志ん生落語
ふと思い出したのが、志ん生落語の一節である。
外で飲んで酔って帰った亭主が「もう一杯飲ませろ」というストーリーで、おかみさんが言うセリフ「もう『お寝なさい』」と言うのに対しての亭主の答えが「まだお寝ない」というものである。
落語の面白さ、というのは、人から教えられるものでは決してないと思っているが、でも「私はこう思う」と言うよりは、お経の文句ではないけれど「如是我聞」ということはやはり言ってみたくなる。
この前段に付く噺は、噺家によって様々だが、後段は決まっているのだが、これもまた噺家によってクスグリ処が違うように思える。
亭主が思いつく肴の残りを指摘するが「頂きました」とおかみさんが言うので、結果としておでんを買いに行こうとするのだが、それまではおかみさんにいろいろと文句で言いつけるのだが、出掛けたと思ったら、惚気になる件である。
これがないと、冒頭の「お寝ない」が生きてこない気がする。
亭主は結局古女房にでも愛して愛されている光景がまざまざと浮かんでくるのは、私だけではなかろう。
これを書いていて、思い出したのが、夫婦喧嘩の後で「出て行け」と亭主が言う、おかみさんが精一杯の化粧をして出ていこうとすると『表からはみっともない、裏からだと夜逃げのようだ」と文句を言う。
「出ていく所が無いじゃないか」と言うと「出て行けないなら出ていくな」と。
お後が宜しいようで。
投稿者:つねちゃん
at 06 :28
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色々と用意しておいて「空振り」になってもいいじゃないか
加齢のせいばかりではないが、昔は「出たとこ勝負」とばかり勢いに任せて「行き当たりばったり」で対応してきた。
幸いにして、運が良かった、としか言いようがないが、かなりの部分それで成功してきたと思っている。
勿論ここでは紹介できないほど「恥ずかしい」とか「大失態」というようなこともあり、差し引きすると果たしてどうなんだろうか。
結果的には、同期入社、同様な社内学歴で、トップではもちろんないけれど、そこそこ上位の職位に成れたのだから、プラスだったのだろう。
今回紹介するのは、自慢ではなく、むしろ「大失態」に類することを思い出すことから思いついたテーマである。
「経験は人を育てる」という言葉があるが、成功経験ではあまり人を育てることとはないのではないか。
むしろ有頂天にさせてしまうのが大半であろう。
でも、失敗経験と言うのは間違いなく人を育てる。
「同じようなことをやれば『必ず失敗する』という経験」は絶対に同じことをしないようにしよう、ということになるからだろう。
勿論凡人は「咽喉元過ぎれば」で同じ失敗を繰り返すことが多いから、必ずではないが。
そんなせいか、予定が立ったらいろいろと準備しておくことが多くなった。
尤も、自分のことではあまりないのだが、いろいろな場面で「幹事」的な役が回ってくると、「あれもどうだ、これもどうだ」と本来の小心者の正体を現す。
最初のうちは「もうどっち道当てが外れるから」と諦めたこともあったけれど、よく考えれば「頭の体操」になっていて、些細なことで人から感心されていたとのことも聞けば、まだまだ止めるわけにはいかないし「小さな親切、大きなお世話」と言われようと、空振りになってもいいからいろんな準備をしておきたい。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :45
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