2016 年3 月29 日
2016 年3 月28 日
人工知能はやはり「人工」
MSがTwitterに投じたAIマシンは「ヒトラーは間違っていなかった」と判断したと言うことで、即刻その世界からリタイアさせたと言う。 AIについては直接研究した訳ではなかったが、技術的な興味とたまたま所属していた部門でそのチームがあって、部門のスタッフをやっていたこともあり、いろいろと勉強させてもらった。 それはさておき、今回のことで、認識を改めて確信した。 AIは「人工」であるということだ。 「人によって作られた」ものなのである。 最近はネットで調べたり繰り返して人間ができる以上の学習をして知識を積み上げることで、話題を呼んでいるがいずれにしても「人工」なのである。 昔ある上司と酒席で話していて意気投合したのは「コンピュータは『クリエイト』はできない」ということだった。 これからもその基本だけは忘れないように「人工機械」と付き合っていきたいものである。2016 年3 月25 日
孫の卒業
保育園、小学校を卒園・卒業して、ようやく4月からは電車賃も「大人料金」になる。 最後の成績はすべての教科で「3(最高点)」である。 日々見ているとそんなに大人びた様子も見えず、「まだ子供だなぁ」と思っているが、着るものや履物、見るテレビ番組などはやはりそれなりの成長であり、ナントも嬉しい限りである。 特別なことが出来なくても、平均で良い(本音を言うと、それより僅かだけ上が望ましいのだが)。 学校への距離的には小学校が一番遠く、その手前に保育園、そして、今度は教室がどこになるか分からないけれど、いずれにしても5分とかからない距離である。 誘惑が無いと言う点では良いけれど、それがために友達との良い意味での「道草」が無くなり、仲間はずれが心配である。 いつまでも精神的、身体的にも「正しいことは正しく、間違ったことはしない」と言うことで育ってもらいたい、と願うばかりの爺バカである。2016 年3 月24 日
排尿スタイル
家での排尿スタイルについては、過去に紹介したように、ほとんどの場合「座って」することにしている。 そんな時にもう一つの要領がある。 それはできるだけ「気を抜く」と言うことである。 当然難しいことではなく、少し上を向いて口を半開きにするだけである。 立って排尿する場合は、決してお勧めしないけれど、便器を汚すのはしようが無いとしても、それ以外の場所を飛沫で汚してはやはり拙かろう。 それで、座ってする場合にだけ「気を抜く」ことをやってごらんになっては如何だろうか。 時間にしてそんなにかかる訳ではないけれど、ほんのしばらくだけでも「ホッ」と出来ること請け合いである。 しかし、一つだけご注意するとすれば、筒先はやはり下方に向けることである。 この歳になっていつもではないけれど、あらぬ元気が出て予想外の所に筒先が向かっては、「ホッ」どころの話ではなくなるから。2016 年3 月23 日
知らない言葉も学習
今までは、それなりに育ってきたITの世界の「知らない言葉」については、嫌悪感などなく(批判は持っていたが)調べて完全ではないながらも理解するようにしてきた。 ところが、その反面で、新しい言葉と言うかカタカナ言葉については、嫌悪感が先に立って、覚えるよりも「日本語で言い替える」という努力と言うか反骨心の方が高かった。 でも、つい先日から気が付いたのだが、それも疲れるから「受け入れよう」と言う気持ちになった。 まだまだ「積極的」とまではいかないけれど、「言葉は生きている」と言うことを自分に言い聞かせている。 でも、そんな中で「本来の意味」「どこの国の言葉」は調べるようにしている。 それが私なりの「楽しい学習」である。2016 年3 月22 日
ささやかな変化を楽しむ
リタイアしてしばらくたった人の口癖の一つに「毎日毎日同じことばかりして過ごしている」と言うのがある。 実は私も、リタイアした後数カ月で父を見送り、その後は母の認知症などの対応で、支援は十分に受けられたが、いわゆる「自宅介護」だったので、結構変化があったから、その口癖は出なかった。 ところが、そんな母も見送ると、結局そうなった。 で「これではいけない」と思って始めたのが「ささやかな変化発見」である。 そんな風に思って、昨日と今日の変化を注意深く考えてみると、まずは寝る時刻、起きる時刻が違っていないか。 新聞には「新たに聞く」ことが載っているから、それは当然違う。 排便や排尿はしたか。 朝食に限らず、食事は何をどれくらい食べたか。 おかずや味噌汁の具は何だったか。たぶん昨日と同じということは無かろう。 天気はどうか、同じでも気温はどうか。温かくなったか寒くなったか。 こんな風に、今までは「ただぼんやり」と過ごしていて気が付かなかったことに変化を見つけてみた。 リタイアする少し前に、新採の教育を任されて、その一つのキーワードに「気付き」と言うのがあった。 正にそれと同様に「気付き」を探してみる。 それが一つの癖になると、ナントも楽しいことになってくるのは、多分3カ月もかからないだろう。2016 年3 月18 日
読書感想文
朝の音読で使っていた本「白道燃ゆ」(高森顕徹 著 浄土真宗親鸞会 刊 昭和49年発行 価格不明)を読み終えた。 この本の真意は、例によって「宗教の本」だから、私如きに分かるはずもないのだが、関心を惹くところ、反発を覚えるところ、そこまではなぁ、と思うところ、結果として「なぁーんだ」と言うところが、「読み物」としては大変面白く、それなりの感覚を持ちながら飽きることなく読めたことだろう。 この本を何故父が求めたのか(場合によっては与えられたのかもしれないが)分からない。 この本が指摘しているほどに宗教に熱心だったとは思えない。 確かに大正の人間だったから、私ほど宗教やお寺さんとの付き合いに淡泊だったとは思わないけれど、一般論としての付き合いや行事は教えてもらったような気がするだけだ。 けれど、それは「父が」と言うことではなく、中学時代まで過ごした町内のいろんな人からの影響だったように思う。 この人が書かれた本に出合うことはたぶんないだろうけれど、刊行社が発行する本はたぶん似たり依ったりではないだろうか。 「読み物」としては一読の価値はあると思う。2016 年3 月17 日
春山菜の天婦羅
天気が良くなったので、ドライブでもと家内を誘ったが「こんな日なら蕗の薹がまだあるかも」と言うので、近くの小高い山へ行ってみた。 下の方は流石に開ききったものばかりだったけれど、上の方にはまだ本当に蕾状態の物がたくさんあった。 夕食には帰る途中に買って来た鰯以外はすべて春野菜の天婦羅が大盛りに出された。 蕗の薹が大人には5個ずつその他に蓮根、人参、サツマイモ、ゴボウ、ヤーコンなど。 本当は晩酌でお酒も付けば言うことなしだが、孫の手前は何かイベントの時しかやらないことになっている。 それでも十分に美味しかった、自然の恵みと家内と娘などの細工に感謝。2016 年3 月16 日
コメンテーターも身辺調査が必要
テレビ朝日の古館一郎がメインの司会を務める番組は批判もしながら全体的には好きな系統番組なので、長い間家内と一緒に飲みながら見ている。 いつのころからか経営コンサルタントと称する人が登場して、様々なコメントを披露なさっていたのだが、何故か言わんとしているところに迫力を感じられなかった。 今日定期診療で病院へ行き、待つ間に全国紙を見ていて「経歴詐称」が報じられていた。 そして、帰宅後ネットニュースではほとんど何処もが取り上げていて、現番組や新番組への出場停止だと報じられている。 ニュース番組ではよく「新大臣の身辺調査」と言っているが、自分たちが直接選べるコメンテーターをまず身辺調査すべきではなかろうか。 在職時よく聞かされて、自分の信条の一つにもしていた「脚下照顧」と言う言葉を思い出す。2016 年3 月15 日
読書感想文
就寝前読書として使っていた本を読み終えた。 「法話集 宿業の大地にたちて」西元宗助 著 百華苑 発行 昭和49年である。 正直なところ「難解の本」だった。 師は僧職にあって幼い子供を亡くされたとのことである。 文章上では決してそれを強調されている訳ではないのだが、読んでいる私にとっては、「こんな話が出るのは、やはりあのことが裏にあるのだろうか」と思ってしまい、本来私が期待した「法話」と言うものからどこかへ飛んでしまうような気がしたからかも知れない。 仰っていることは一つ一つ「解るような気がする」のだが、残念ながら「心に響いてこない」のである。 勿論原因は私の方にあるのだろうが、結果だから仕様がない。 たぶんこのブログの読者の方がこの方に遭遇されることはないだろうが、万が一出会って感想をお持ちになったら「こんな意味だよ」と教えて頂けるとありがたい。 父の遺したいろんな本には当然こんなものもあるのは先刻承知なのである。 今晩からの後継には、少し仏教から離れた「父親から我が子に送る70の言葉」と言うものにした。 これは息子や娘に私が送ろうと言う意味ではなく、「父の遺した本=言葉」と言う意味で読み進めてみたい。2016 年3 月14 日
とんだところで学習
野球賭博については、選手自身は被害者なのだろう。 それはさておき、最近のテレビは画像が鮮明になったことから、文字も必然的に細かい所までが見えるようになった。 過日家内から「賭博の睹の字は『者』に点があるの」と聞かれた。 我が家では孫からも「漢字もの知り」と思われているので、聞いたのだろうが、「えっ」であった。 「点はないもの」とばかり思っていたので、そのように答えたのだが、「それにしてもTVでよく使われている」と言う。 夕食前に自分の持っている電子辞書で調べると、「貝偏に点付きの者」は見当たらず、「目偏」にあったから、その間違いだろうと答えておいたのだが、間違い訂正も流れなかったので、翌日改めて調べてみた。 アナログ辞書「漢語林」には逆に「貝偏に点の無い者」はでていなくて「点あり」だけだった。 辞書ではなかなか解り辛かろうけれど、ネットで調べて「へぇー」と思った、楽しい学習になった。 興味があれば調べてごらんになってはいかが。2016 年3 月11 日
少し憂鬱な季節
この時期少し憂鬱になる。 高校入試問題が新聞に掲載されるのである。 50年以上前のことになるが、団塊の世代を象徴する言葉に「どこへ行っても狭き門」と言うのがあったと記憶する。 さほど勉強好きではなかったので、この歳になっても「試験」と言うとどうしても身構えてしまう。 で、何とかそれを克服しようと今年の問題に取り組んでみるのが毎年の習慣になっていて、チャレンジするのだが、新しい知識を要するようなものは別として、だんだん成績が落ちて行くのである。 それが何とも言えず憂鬱なのである。 孫も今年から中学生、後3年近くでこのような試験を受けるのだろう。 果たしてそれまで自分が互角になるかどうか、今のところは全く自信がない。2016 年3 月10 日
物を言え
相変わらず仏教関連の本を音読している。 その中で「わが意を得たり」と言う言葉に遭遇した。 蓮如上人の言葉だと紹介されているが「物を言え」と言う言葉である。 新入社員の時に課内会議である議論になった。 同期入社の友人とぼそぼそと話していると、先輩から「意見があるのなら大きな声で言え」と叱られた。 以来、リタイアするまで肝に銘じ、部下にもしっかりと伝えてきたつもりである。 仕事の上では新入社員の新鮮な意見が必要な時も大いにあるのだ。 「沈黙は金」などと言う時代は遥か彼方の過去でしかない。 でも、蓮如上人と言う方が言われていたと言うことは、そのまた前であろう。 共通しているのではないかと言うのは、蓮如時代では「凡人」に対して、現在では「新人」に対してである。 どちらも十分な知識を持たない人間に対してであろう。 古希を迎える年になっても物は言っていくつもりである。 時々、いやいや私のようなお調子者はいつもであろうが---その都度反省しながらも、言うことだけは言い続けて行きたい。 ちなみに、冒頭の会議の後に「お前らの言うことは一見正しい。だけど、その正論を先輩が知らないと思ったか。『知っているけれどそれは現実的にはできない』ことを知っているから言わないのだ」と諭された。 だから、いつまでも深い記憶として残っているのだと、その先輩にはいまだに感謝している。2016 年3 月9 日
スポーツファンは
スポーツについてはほとんどの物は「しない」けれど好きである。 でも、なぜかリアルタイムで応援しながら見ていると、応援した人が負けてしまうので、結果が分かったもののハイライトシーンを見て楽しむのが数年来の癖になっている。 ところが、最近の応援報道がどうも違って見えるのは、やはりそれほど好きでないことの証しなのだろうか。 2位になった、3位になった、銀メダルだ、銅メダルだと本来喜ぶべきはずの報道がなぜか「なぜあそこでこうしなかったのか」という非難の方が重くなっていはしないか。 金メダルや1位になって当然、とでもいうような報道である。 選手の誰もが2位で良い、3位で良い、入賞すればいいとは思っていないはずだろう。 それなのにいろいろな事情で果たせなくもそれに準じる成績を出したことを大いに褒めるべきではないだろうか。 こんな事ばかりだと選手が委縮してしまい、結果として「贔屓のひき倒し」にならないだろうか、とそれが心配である。 いつまでも「精一杯努力している選手」を応援したいスポーツ音痴なのだが。2016 年3 月8 日
ナビを買い替えた
先日中学校時代の同級生の飲み会があり、ナビがあるから大丈夫と友達2人を乗せて出かけた。 ところが、目的地は示してくれるのだが、新しい道ができているのに更新していない(出来ない)ので、途中で分からなくなり、3人で「時間もまだあるから」とどうにか目的地までに遅れることもなく到着した。 これが契機でナビを買い替えた。 前の物は後で付けたものだったのでオーディオなどは別だったが、今回はそれも勿論テレビや録画したものも見られるようになっている。 まだ取り付けて数日なので最低限の機能だけは分かるけれど、それ以外はこれから学習である。 学習するネタがまた増えたのが楽しいが、パソコンと同様に、フル機能のうち多分60%くらいしか使わないのではないだろうか。 それでも学習はそれなりに楽しい。2016 年3 月7 日
就寝前のラジオ
軽音楽を中心に就寝前には音楽を掛けながら寝る習慣は、もう10年以上も続けてきた。 また、ある本にはそれが良いともあったので、安心していたのである。 ところが、痩せないのは睡眠不足が一つの要因だと書いてあったので、数日前から思い切って寝る時には切ることにした。 最初の数日はやはりなかなか寝付かれなかった。 でも「これが自然」と思い始めてからは何とか眠れるようになっている。 痩身の効果についてはまだ分からないけれど、途中のトイレは寝る前のお酒のせいで仕方ないとしても、トータルとしての睡眠時間は長くなりつつあるようである。2016 年3 月4 日
ひな祭り
ささやかだけれど、昨晩皆いろいろなイベントで忙しい中だったけれど、ひな祭りを行った。 ちらし寿司に潮汁。 最近二人の孫が好きになった刺身も用意して、大人は少しのお酒を、未成年の孫はお好みのジュースで乾杯。 今年も無事に楽しくひな祭りを祝えられることに感謝しながら、短い時間談笑して過ごした。 頭の孫は今年から中学生になる。 いつまでこれが続けられるだろうか。 爺の勝手な望みは、白酒ではなく、本物の酒を飲みながらひな祭りを祝えることである。 下の孫もと言うことになると、もう8年近くかかるけれど、まだ70代であるから、それまでは元気で飲み続けられるようにしたいものである。 外の内孫とということになると、10年以上かかるけれど、それでもやっぱり一緒に飲みたいなぁ。2016 年3 月3 日
米国選挙劇の観客
どなたが大統領になられるか、いろいろな下馬評が飛んでいるが、正直「演劇」を見ているような感覚しか持てない。 一方では我が国に相当の責任を分担しろと仰っているし、他方では今まで通り仲良くやっていこうね、と言っている様だけれど、思いやり予算などはいつまでもここままで誠意のだろうか。 どちらも全面的な「味方」という訳にはいかないようで、それでいて、経済・外交に無知な私としては、憤慨のしようが無いのである。 だから「無責任な観客」と言う感覚しかない。 片や我が国の国会中継を見ていても、何を言われてもエヘラェヘラと笑っている与党の面々、野党も答えが分かっているような質問を繰り返して、答えられると「ハイ、それまでよ」と言う体たらくである。 こちらは無責任な観客という訳にはいかないだろうが、選挙という手段しかないので、その時を虎視眈々と忘れないように狙っておきたい。2016 年3 月2 日
読者を知らない
この件は一度ここでも書いたように思うが、また新たな読者の出現と言うか意識させられたので、書かせてもらう。 まぁ、一つの自慢話になるから、興味がない人は読まなくてもいいだろう。 先日ある会に誘われて、出掛けた。 そんな時に自己紹介することになったのは当然だったのだが、名前を言った途端に、ひそひそ話が聞こえてきた。 後で聞くと「あの」という二つ名前で呼ばれた。 「あの投書を良くしておられる人ですか」と言われた。 これからはお世辞だろうけれど、褒められることしきりだった。 そして、昨日からの久し振りの同級会で、飲んだ時に「おいあの意見はなぁ」と酒の肴にされたことである。 それに加えて、時々読んでいるよ、とこのブログのことも上げられたのには赤面だった。 このブログのタイトルにもしているように「徒然なるままに」が信条なので、何を言われてもあまり気にならないけれど、褒められるのはやっぱり照れてしまう。 お調子者なので、せいぜい木に登らないような豚でありたい。 そういえば、どこかの国で「亥年」は「豚年」だとするところがあるとも聞いたが。2016 年3 月1 日