2016 年5 月31 日
2016 年5 月30 日
薔薇園
友人が開いている薔薇園で駐車場の整理の応援を頼まれた。 今までは「広報部員」と言うことで、広報用のビラを持参され、必要部数を同級生を中心に配布して、その他の知人にも広報を依頼しつつ配布する協力だった。 今回は朝9時から16時くらいまでの実働協力だったので、空いた時間に今までよりも時間をかけて薔薇をはじめいろいろな花を見て回ることになった。 そこで改めて感じたのは「同じ種類の薔薇でも、僅かずつ違うこと」だった。 日の当たり加減なのか、虫のつく具合なのか、それともそのほかの要因があるのか、正直良く分からないけれど、明らかに今まで「買った薔薇ほど均一」ではないと言うことだった。 はっきりした絵の薔薇とも少し違う。 殆どの場合「輪郭」がはっきりしていないのである。 金子みすずではないけれど「みんな違って、みんな良い」を実感した。 人間だって花(薔薇ばかりではない)だって同じだろう。2016 年5 月27 日
認知症の始まりか
昨日まで間違いなく使っていた「お掃除コロコロ」が突然視界から無くなってしまった。 思い当たる所をしらみつぶしに探してみたが、どうにも見つからない。 私の部屋は孫を初めとして誰もが自由に出入りできて、それなりに便利な道具が揃っているので、悪気はないだろうけれど、持って行ってそのまま、という状況が今までも散見された。 また「便利だけれど常に使うものではない」と言うものもあるので、無くなったこと自体を自分も忘れていることがあり、ある時「へぇー、爺ちゃんと同じものを持っているんだ」と言うと「これ爺ちゃんの物、返さなくてごめんなさい」と言われると、笑って許すしかない。 今度もそうかと疑心暗鬼になり「そのうち出てくるさ」と何とか別の方法で対処していた。 ところが、ひょんなところから見つかった。 なぁーに、自分がたまたまそこへ置き忘れただけなのである。 両親ともに人生の終わりごろには程度の差こそあれ認知症だったことを思えば、「蛙の子は蛙」でそろそろ古希の声も聞けば、ある程度は覚悟しなければならない。 「七度探して人を疑え」をしっかりと肝に銘じよう。2016 年5 月26 日
同級会
リタイア後、特別目覚めた訳ではないけれど、ある意味では強制的にかもしれないが、園芸作業をやることになり、それならば今までやったことの無いことだから、あまり詰め込み教育ではない学校へ行こうと言うことで、最初はオープンカレッジと言うことで、数回通い、基本的には「園芸の楽しさ」と言うものを教わった。 それならもう少しと言うことで、今度は一応入学試験(倍率は1.9倍だった)を受けて合格して「専攻科」と言う学年になって2年間通った。 尤も毎日ではなく、1週間に一日と言うものである。 それについては何度か紹介したので割愛するが、先日有志での同級会を行った。 ところが、五体満足の人は少なく、逝去された人が3人、大病を経験された方、自損事故で瀕死の状態だった(現在は健康体)方、つい先日けがをされた方と言う風にいろいろな出来事を経過されていることに驚いた。 でも、アルコール制限などがあるにしても、楽しい団らんでひと時を過ごせたことが嬉しかった。 私のメタボなどは出る幕もなかった。2016 年5 月25 日
読書感想文
「読書の時間」を設定して、時々忘れたり、意識してサボったり、雑用に紛れて覚えてはいたのにやれなかったりで、ずいぶん予定よりも長くかかってしまいました。 「宿業の大地にたちて 西元宗助著 百華苑刊」。 結論から言うと「私の理解しようとする心がまだまだ未熟」だったせいでしょうが、さっぱり「法話」として理解できない内容でした。 なんだか在家出身のお坊様が、愚痴とも、独り言ともしか思えない内容だと思ったからです。 父が何歳の時か分かりませんが、佛青創立40周年記念の時に「寄贈」とされているものですが、以前にカバーと中身が違っていて、そちらには「母への寄贈」とあったので、同じ時に夫婦して講演会に参加して購入したのではないかと思います。 いずれにしても、現在の私にとっては「難解」の一言でしかありません。 最後の最後に対談形式で話されている内容に、宗派ごとに教育してその宗派だけを詰め込もうとしている、ということが出てきました。 これには同感で、だから若い人には敬遠されてしまうのだと思いました。 さりとて「どうすればいい」と聞かれても残念ながら答えが出せないのが私の現状です。 批判ではなく、あくまでも「感想文」ですから、ご容赦願いたい。2016 年5 月24 日
食べ物 サンチュ
休み前に「失敗ではないけれど」で紹介したサンチュだが、その後順調に育って、ほとんど毎日のように食べても追いつかない位で「嬉しい悲鳴」である。 貰い手が無く、ビニポットに鉢揚げしただけの物も、元気に葉を伸ばし「どうぞ召し上がってください」といわんばかりである。 それにしても50を超える鉢があり、その他に余ったプランターに定植したもの、余った(夏野菜用に空けておいたのだが)露地に定植したものまであるから、大豊作状態である。 ところが、孫を含めて全員が好きなもので、かなり大量に収穫してきても二日で平らげてしまってくれる。 これは作った我が身としては収穫と消費への感謝でダブル「嬉しい」である。 そこへもってきて、貰っていただいた方から「随分重宝している」との声を掛けられると、ダブルからトリプルへ昇格である。 自分が食べるだけではなく、他人様に食べてもらって幸せになる、というのは素晴らしいことだ。 かつて仏教関係の本で読んだ逸話にあつた「天国と地獄 ちょっとした違い」と言う話を思い出した。2016 年5 月23 日
米ぬかを食べる
以前もこのブログで同じタイトルを使ったような気がするが、今回はダイエットなどの目的ではなく、調味料や媒介としての材料としてである。 我が家でも一頃ブームだった「精米後のご飯」を食べることが少なくなった。 それだけぬかが貴重になったのだが、同時に家族はそんなに食べなくなったので、私の自由裁量になっている。 これを食べていると、なんだか確かに便通が良くなったような気がするので、毎食ではないけれど楽しみながら食べている。 そんな中で得意レパートリーの「炒飯」に混ぜることである。 具材にもよるが、素人料理でどうしても「パラパラ感」に乏しいものになる。 そんな時にぬかを混ぜると、適度に水分を吸収して、即座にパラパラ感が出てくる。 沢山は要らないから、食用のぬかを少し常備されては如何だろうか。 美味しいかどうかは主観だから、あくまでも私の自覚である。2016 年5 月20 日
東京スカイツリー
昨日の続いての旅行ネタであるが、東京スカイツリーへ行ってきた。 地下鉄駅から順路案内に従って「ともかく早く行く」をメイン目的として、途中のお店などには目もくれず、まっしぐらである。 どうにか「ここが最後尾です」という案内に辿り着き、それから切符を買い、エレベーターに乗るまで約40分。 話には聞いていたが、4基のエレベーターがあり、順が回ってきて乗ったのが「冬景色」だった。 家内が「一番つまらない景色」と言っていたが、冬だから仕方が無かろうと思っていた。 高速だけれど殆ど揺れを感じさせない。 天気が良かったことに加えて「待った甲斐」があった夕方で、夕日の景色が素晴らしかった。 展望フロアを一回りしてからさらにその上へ登り、360度のパノラマを楽しんだ。 正直方向音痴の地金が出て、どこがどこだか良く分からなかったけれど、景色の素晴らしさだけで十分な価値があった。 下りのエレベータは江戸切子を使った花火の景色が綺麗で家内も感激していた。 切子細工のグラスはずいぶん以前に実演販売で買ったものを愛用している。 下に降りて見上げると折よく出た半月とともにトップまでをカメラに収めることができた。 素晴らしいひと時だったことに感謝。2016 年5 月19 日
お上りさん
10数年ぶりで東京へ行ってきた。 「昔取った杵柄」と言うことで電車などで迷うことは無かろうと高をくくっていたが、豈図らんや初日の途中から完全に「お上りさん」になってしまった。 大江戸線を初めとして東京から疎遠になる少し前に出来た地下鉄は名前を知っているだけで、どこを通っているのかさっぱり解らないばかりか、混乱の元にしかならなかった。 考えを切り替えて「多分これだろうな」と思っても素直に駅員さんに聞くことにした。 東京メトロと都営線も分けずに「ここへ行きたいけれどどうすればいいですか」と確認した。 どこの駅でも丁寧に教えてくださった。 路線図的には「少し遠回りではないか」という表情をしたのだろうか、それを見て「この方が乗り換えホームも近くですし、乗り換えても一駅ですよ」と言う具合である。 田舎ではそんな混乱はないけれど、そこまで親切な案内ができるだろうか。 我が身を振り返ると赤面してしまう。2016 年5 月18 日
加齢を楽しむ
先日畑の作業をしていて、今までは「当たり前」でやっていた作業でふとしたことから翻筋斗(もんどり)打ってしまった。 幸い草刈の後だったので、刈って適当に枯れた草の上だったのと、やはり中学時代と研修所時代の「柔道の受け身」が知らずのうちに体が覚えてくれていたのか、背中や腕などには全く痛みは残らなかった。 ところが、右足の脹脛(ふくらはぎ)が当たった所には、どうも草刈の時に置いた木が積んであったようで、強(したた)かに打ってしまった。 立って歩けないと言うほどのことはなかったものの、仏壇の前での正座は流石にその日と次の日とできなかった。 誰のせいでもなく自分自身が起こしたことなので腹を立てる訳にも行かない。 3日目の今日は痛いながらも正座はできる様にまで回復した。 悔しいと思ったけれど、考え直して「これだけで済んでよかった」と思うようにした。2016 年5 月17 日
「思い出」と「想い出」
諸姉諸兄は区別して使っておられるでしょうか。 つい先日まで私は殆ど「(かな漢字変換で)出てきた言葉」を無意識に使っていました。 ところが、書き写しをしているとこれらのほかに「おもいで」と言う平仮名も使われています。 勿論著者が各々違う本なので、どのように使い分けされているのかを確かめる術もありませんし、そこまでもしたくないのですが。 で、調べてみました。 「大辞林」には「思い出」が表に出ていて「想い出」とも書くとあります。 電子辞書の「広辞苑」には同列表記です。 さすがに平仮名は特別な意味が見出せませんでした。 ネットでも探してみましたが、さほどの違いが述べられていませんでした。 で、これからは英語の「See」と「Watch」の違いだとして使うことにしたいと思います。 もう一つの意味合いとしては「単に以前の記憶を反芻する」と言うのは「思い出」として、それを楽しい(残念ながら悲しいも)感情を伴って反芻することを「想い出」と使う様にしようと思う。2016 年5 月13 日
向かってくる機関車
明日から所用で東京へ行ってきます。 月曜日はお休みさせていただきます。 在職中のある研修で私を評する言葉に出会った。 「向かってくる機関車の如し」と言うものである。 内実は「自分の能力などの低さを馬力で押し通そうとしている」ことだった。 その人とはそれまで仕事上でも色々な場面で議論もし、口角泡を飛ばしたこともあったが、その後は一杯飲んでの「仲の良い付き合い」をしていたのだが、数人のグループの中で言われたのは間違いなくショックだった。 しかしながら、その後は以前よりも深く議論などができる仲になった。 運よく実績が認められて、上級職に就いたが、高卒と言う僻みで「何としてでも頑張らなければ」と言う気持ちがあったのだろう。 現代のどこかの国でもいらっしゃるようである。 そんな人にも「仲の良い付き合いでものが言える人が居られれば」と思うのだが。2016 年5 月12 日
孫の笑顔が一番のプレゼント
先日69回目の誕生日を迎え、孫からも嬉しいプレゼントをもらった。 そしてその数日後、孫も11歳の誕生日を迎えた。 朝いつものように口漱ぎ液を含んで作業をしてから孫と顔を合わせたが、言葉を発することができず、孫も変な顔をしていたので、心配になった。 すぐに口を漱いでから「お誕生日おめでとう」と言うと、元気な声で「ありがとう」と満面の笑顔で答えてくれた。 これこそが爺の最大の喜びである。 いつまでも声をかけてやることができて、笑顔での返事をもらえるようでありたい。2016 年5 月11 日
褒められる
子供の頃親や親せきのおじさん、近所のおじさんなどの「大人の男」にはなぜか「褒められた」と言う記憶がない。 決して周りに「褒める人間がいない」と言うことではなく、僻みではなかったろうが、私以外には結構褒めていたのである。 獅子舞祭の踊り子も4,5年生の2回努めた。 決して人よりも上手に踊れたわけではないけれど、同じ踊り子と比較してそんなに下手ではなかったと思っていたのにである。 特に親や親せきからはそうだったように思う。 最近になって、色々な本を読んでいて、直接ではないけれど、本当に「フト」思ったことがある。 「褒めることはむしろ無責任なのではないか」と言うことに。 自分の子供はそんなに手放しで褒めたことは記憶に乏しいが、孫は良く褒めている。 隣や近所の子(孫相当の年齢)や防犯や交通安全で登下校する子供にも気さくに声をかけて褒めている自分に気が付いたからだろう。 一時期「褒められて伸びる子」と言うのがあったが、そうでなかった当時の親や大人の男性に対して、今更乍らだけれど「厳しい目で見つめてくれていてありがとう」と思う。 勿論「当然そうすること」ができていない場合は、こっぴどく叱られたりコツンとやられた記憶もある。2016 年5 月10 日
「常」と言う状態
書き写しをしている中で「非常に」と言う言葉に遭遇した。 「仏教のことば 早わかり事典」主婦と生活社刊 宗教文化研究所所長 ひろ ちさや 監修。 読むと言うか書き写すと言うかまでは「大変なことなのだ」と現在の九州地震のような「常でないこと」だと理解していた。 短い文章の解説なのだが、最後の所で「では『常』と言う状態は何か」ということが書いてある。 実は私の名前にもこの字が使われているので、気をつけて読んでみた。 本のタイトル通りに「仏教の」と言うことだから、一般用語として以外の解説である。 永遠不滅の生命を持った状態、理想が実現されている状態、ということである。 正直、現時点でどちらも合っていないどころか、程遠い状態である。 私の名前は父ばかりではなく、当時の門徒寺の住職がつけたのだと聞いている。 当然父も納得してのことだったのだろう。 遅ればせながらだけれど、せめて勝てないまでも名前負けだけはしないように今からでも精進したいものだ。 早速『座右の銘』に加えた。2016 年5 月9 日
サボったけれど、挫折するよりも
言い訳にしかならないけれど、月またがりや自治会の役員などの関係で実行すること以外に考えなければならないことで、頭の中が随分混乱していた。 その結果として「ルーチン行動」の幾つかを「等閑(なおざり)」にしていた。 予定表に「未消化」で残っていた。 今までなら「出来なかったからしようがない」と勝手な整理をしてきたが、今回はそれをやめた。 1回当たりの消化量は少なくしても、ともかく「継続する」ことが必要だと自分に言い聞かせて、ようやくどうにか消化できた。 そうすることによって、なんだか「達成感」とは違ったいい感じになった。 これからは「溜める」ことが無い様にしながらも、どうしようもなくなった時にはこの方法で消火しようと思う。2016 年5 月8 日
有権者自身が自分の意見を(2016/1/19に採用された)
新年を迎えて国会議員の先生方は、与野党ともに意気軒高の様子である。 それはそれで結構だけれど、時折、今年から有権者になる若い世代のアンケートなどを見聞きすると、なんだか「他人事」のような気持がする。 いろいろな使い道の税金、憲法の改正問題、TPP等の外交問題などなど、みんな自分に跳ね返ってくることなのだ。 政治は国会と言う特定の舞台だけの議員と言う演技者だけによるものではないと気付いてもらわなければない。 そのためには私を含めて現在の有権者が当事者としての自分の意見をもって手本を示すことが不可欠だろう。 主人公はあくまでも自分自身なのだから。追記をみる
2016 年5 月7 日
お笑い番組見て楽しく(2016/1/11に採用された)
今年も元日からはあまりしかつめらしい番組を見るのを避け、お笑い番組を中心に見て過ごした。 時間がダブっているものは録画して見た。 大好きな落語をはじめ、漫才、一人芸、吉本の舞台、左甚五郎の講談などなど。 いつもなら時間の貧乏性で早送りにして見るのだが、そのままの速さで見た。 世の中、国外ばかりではなく、国内でも残念ながら耳目をそむけたくなるような話題があるが、幸いにして自分の身の回りにないことに感謝して、無邪気に笑って過ごせた。2016 年5 月6 日
感激をもって見ている番組(2015/12/28に採用された)
NHKのEテレで放送されている番組「ピタゴラスイッチ」をご存じだろうか。 前に「大人の」と言う文字が付くことがあって、今まではそれだけを見ていたのだが、小学生の孫が見ているのをそばで見て「これはいつも見てみたい」と思うようになった。 10月末ころから録画して欠かさず見ている。 いろいろと大人の理屈で解釈することもあるだろうが、そんなことは全くお構いなしで、素直に「へぇー、こうなるんだ」と一種の感激をもって見ている。 還暦とは、ある意味「幼児に戻る」ことではないだろうか。 すると私は8歳で小学生だろう。 素直な気持ちでご覧になってみてはいかがだろうか。 ぜひお勧めしたい番組である。2016 年5 月5 日
子供の夢を壊さずに(2015/12/21に採用された)
ラジオは「ながら族」にとっては至極便利だ。 カクテルパーティ効果で興味がある話題には耳が傾くし、軽音楽などには気分も癒やされる。 聞き流すだけでもニュースにはそれなりの意見も持つ。 今月になってCMの内容はクリスマスプレゼントに関するものが多くなった。 ところが「プレゼントはパパに買ってもらおうね」と言うことがはっきりとされているのには驚いた。 「パパに頼む」と「パパがサンタさんに連絡してプレゼントが届く」と言うことであれば、サンタさんの存在と言う夢を子供が見るだろう。 良い子にしていようと言う気持ちも芽生え、保育園や幼稚園での教えとも合うのではないだろうか。 子供の夢を壊すことが無いようにお願いしたいものである。2016 年5 月4 日
ささやかながら電飾の飾り付け(2015/12/16に採用された)
リタイアして、いい意味でのタガが外れた自由な身になってみると、結構自慢できる話があるものだ。 この季節、わが家でもささやかながらイルミネーションを飾り付けた。 名所の一つのクロスランドおやべに家族で見に行った。 さすがに規模が違うのに驚いた。 孫たちも大喜びである。ぜひともいろんな所から見に来てもらいたい。 神戸ルミナリエなど、上を見ればきりがないが、身近に素晴らしいものがあるのだから、みんなに自慢したい。 見るだけならもちろん無料で、間違いなく目の保養にはなるのだから。2016 年5 月3 日
夢を見ながら当選発表待つ(2015/12/8に採用された)
以前は「ジャンボ」と聞くと賞金の大小にかかわらず買ってきた。 ここ最近は年末ジャンボだけしか買っていない。 もちろん1等賞金は欲しいが、最近は年に一度の「夢見」ということで、当選発表までのひと時を楽しんでいる。 今年は前後賞合わせると10億円ということである。 半月ほどは「あれにも使おう、これにも使おう」とたくさんの夢が見られる。 たっぷりと楽しんでから、今度は「心配」という楽しみにふけってみるのも一つである。 一瞬にして使うことはできないのだから、銀行に頼るにも保管の心配が出てくる。 生きている間にすべて使いきれるかも疑問だ。 遺産としての先が心配になる。 そんな悲喜こもごもの楽しみをしながら当選発表を待っていよう。2016 年5 月2 日
パソコンのデータ消去を(2015/11/26に採用された)
最近いろんなところで「パソコン無料回収」とののぼりを見掛けたり、宣伝されているのを聞いたりする。 かつては川原や雑木林に不法投棄されていたものを見ているので、不法投棄よりは良い事なのだろう。 ただし、重要なデータを消去しておくのは、自分を守るために必要なことである。 「たいしたデータは入っていないよ」と言う方もいらっしゃるが、詐欺をする者などから見れば垂ぜんの的だったりする。 時間は少しかかるけれど、完全に消せる無料のソフトがあるから、ぜひそれを使うことをお勧めします。2016 年5 月1 日