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2015 年3 月31 日

一番ひどい仕打ちは「無視」

 政治家は、どんな批判を受けても「蛙の面に」の為体だ。
 これは与党ばかりでなく野党も同様である。
 どんな中傷をしても、「私はこれだけの人から選ばれた」という背景があるから、選んでいない人から何を言われても関係ないのであろう。
 マスコミなども同様な扱いである。
 こんな時に一番効果的なのか、マスコミも最近のネット情報でも「完全無視」を決めればいいのではないだろうか。
 今回の鳩山のお坊ちゃまについてもそうだろう。
 みんなが「あの人は無視の対象だよ」どこで何を言っても取り上げなければ、自然に滅亡していくのではないだろうか。
 そうでなくても、誰も見なければ、選ぶ人も順次減少していくことだろう。

投稿者:つねちゃん
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2015 年3 月30 日

歳かなぁ

 先月久しぶりに家族で焼肉屋へ行った。
 最後頃に「そうだ、豚足を食うのを忘れていた」ということで、油の塊のような豚足焼を美味しく一人で平らげた。
 別に「他人にはやらないよ」という意地悪な気持ちでは全くなく、誰も食べないのである。
 今までも何度も経験があるので、本当に「美味しく」頂いたのである。
 ところが、翌日はある集まりで泊りがけで出かける予定だったのだが、朝排便して、暫くしてから、今まで経験がないような痛みが背中の胃よりも少し上の横に帯状にきた。
 丁度指先を怪我して血が出た時のように、波状に痛みが来るのである。
 何が何だかわからない。
 日曜日のことだったので、当番医に出掛けた。
 10時頃に受け付けてもらって、血圧測定や採血してもらった後、CTでも調べてもらったが、午前中にはわからず、幸いにして、徐々に痛みは治まりつつあった。
 午後2時頃になってようやく血液検査の結果が出たというので、医師との面談になったのだが、中性脂肪が標準での最高値の4倍以上でこれが原因で、膵臓が悲鳴を上げているのだろうということだった。
 それにしても、瞬間的な負荷に耐えられなくなっているということは、やっぱり歳なのかなぁ。

投稿者:つねちゃん
at 07 :57 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月27 日

孫の「あゆみ」

 学年も三学期が終わり、トータルとしての「あゆみ」(昔の言い方だと「通信簿」)をもらってきて、通しで見せてもらった。
 私らが小学生時代の頃の昔のような5段階評価基準ではなく、3段階であり、孫の物には「1」はなく「C」というものも見えなかったので、あるのかどうか知らないけれど、総じていうならば、二人とも、特別な「可」もなく「不可」もないという所だろうか。
 生活態度や授業態度などについては、先生の細やかな目で見ていただいているようで、短い文章ながらも頑張っているようで頼もしい。
 下の子が1日だけ風邪で休んだが、上の子は皆出席である。
 4月からは上の子は最高学年の6年生で、下が4年生である。
 学業ばかりでなく、その学年に沿った活動でも頑張ってほしいと願うばかりである。
 

投稿者:つねちゃん
at 07 :54 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月26 日

「一日一禅」を読みながら

 今年から始めた「書き写し」の材料としての「一日一禅」という本が面白い。
 手に取った契機は「禅の公案」でも学習してみようか、という軽い気持ちからだった。
 ずいぶん昔「隻手の声」という公案を教えられて以来座右の銘の一つに加えてきただけだったので、その他にもいろいろとあるのだろうと思ったからである。
 今回の「面白さ」というのはそんな意図ではなく、臨済、黄檗、恵瓊など名前だけしか知らない高僧が登場する逸話である。
 「この人はこれだけ凄かった」というものも当然あるが、面白さは逆の逸話である。
 「この人だって昔はこの程度だったのだよ」というものである。
 お釈迦様は別として、生まれながらの高僧というものは当然居ないわけで、そういう意味で笑いながら楽しみ、でも名前が残っている、ということに感心しながらの楽しみである。 また、こんなに立派な人でもそんな時期があったのだ。
 そういう意味では現在の私も「これでいいのだ」と開き直ったり、得心したりもするのである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :14 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月25 日

機械(ビデオ)は万能じゃない

 民放の人には申し訳ないが、殆どのTV番組は「録画して観る」ことにしている。
 決して全てのコマーシャル映像(以下CFと書かせていただく)が嫌だからばかりではないのだが、かつてのような「へぇー」と思わせるようなCFに滅多に出会わないから飛ばしてみてしまう。
 最近は私のような人間が多いのだろうか、機械の方でも「スキップ」機能を備えているものもある。
 ところが、CF作成者も考えたのか、それとも放送局側の細工かわからないけれど、時々本編がCF扱いになったり、その逆だったりして、肝心の部分がスキップされてしまうことがある。
 だから「録画ではスキップさせない」ことにして、「再生時だけスキップさせる」ことにしている。
 先日も最後の肝心なところがスキップしてしまったので、改めてその部分だけを飛ばさないで見ることができた。
 CF作成者や放送局ばかりではなく、場合によっては機械のプログラムの不具合もあるだろう。
 そういう意味で「機械は万能ではない」という考えはまだまだもてないのが捨てられないのが現実である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :48 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月24 日

グーグルアースで少し前の景色を楽しむ

 時々TVニュースなどで紹介される世界の鳥瞰図としての地図を見ることがあるだろう。 TVで紹介されるものはほとんどが「今」を写しているようだが、一般のPCで見るものは必ずしもそうではない。
 でも、少し前に撮影された地図をあたかも鳥になったように気持で眺められるのは楽しい。
 昨年までは主要な場所だけしか見られなかった「ストリートビュー」という画像が最近かなり身近なところまでも見られるようになっている。
 ちなみに我が家も、まるで自宅前に立ったようにはっきりと見られる。
 これで危険な目に合うこともなく、世界中、かなりのところまで「擬似散歩」ができるようになった。
 未知の所へ行くのもいいが、かつて住んだり行ったところの「少し前」の景色を見て楽しむことができる。
 ちなみに私の場合、転勤で最初に住んだ藤沢市のアパート群は全く様相が変わっていたし、次の船橋市はアパート自体はそのままに近かったが、子供が通ったお医者さんや初めて行かせたお店などは全く無くなっていた。
 最初の単身赴任でお世話になった寮は20年以上も経った今もあまり変化が無かったので、懐かしさも一入だった。
 一度ご覧になってみてはいかがだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :43 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月23 日

にわか知識「ならぬ堪忍、するが堪忍」

 音読や書き写しに限らず、いろいろな本を「乱読」している。
そんな中で、標記のことわざに出会った。
果たして自分は「できる堪忍だけをして」いるだけで「ならぬ堪忍」をしているだろうか。
そんな中で「俺がこれだけ我慢してやっているのに」という慢心は無いだろうか。
在職中だって、突然会社を仮病で休んだり、部下を怒鳴り散らしたり、上司に不埒な言葉を吐いたりなどして、「それでも『この程度で我慢してやっているんだ』」とばかりに振舞っていたのではないだろうか。
そんなことを思うと、いまさらながらだが「汗顔の至り」である。
いつも紹介しているが、リタイアした後は、競争相手はいないので、かなり「できる堪忍」の範囲が増えただけで「ならぬ堪忍」をすることが少なくなっているのだろうが、それが果たして良い事なのかどうか、落ち着いて考えてみたい。

投稿者:つねちゃん
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2015 年3 月20 日

楽しく「一喜一憂」

 今年も(実は去年もだったのだが)体重の目標値を85Kgと設定して、それなりに努力しているが、なかなか減らないのが現実である。
 いやいや、真剣に減らそうとすれば、ジムへ通ったりすればよく、同級生にもそんな人が結構いる。
 決して非難するわけではないが、中には「そんなに効果がないのでは」という人も少なからず見かけると「果たしてどうなんだろうかなぁ」とも思ってしまう。
 その他にも、リタイア後「メタボリック」と言われてすぐにBMI標準値以下にしたことがあったので、それなりに真剣になればできないことは無いとも思っている。
 最も加齢を考えると、基礎代謝が減ってきているので簡単でないことは理解している。
 そんな中で体重だけではなく、血圧、血糖値、腹囲などを「記録」し続けている。
 以前何かで「記録するだけで」というのがあったことを思い出したからである。
 最初のころは「アッ、上がった、下がった」で本来の意味での「一喜一憂」に暮れていたのだが、最近は「楽しく数値を把握しよう」ということに気持ちを切り替えている。
 そうなると単に「憂う」ということではなく、昨日は散歩しなかったなぁ、とか、美味しさにまぎれて食い過ぎたなあとか思うように原因を楽しめる。
 在職時は品質管理、ということで数字を追いかけまわしたものだが、原因を追究するという意味では相通ずるものがあって、楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 08 :33 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月19 日

ねぇ、ご同輩

 村田英雄の歌で「皆の衆」というのがあり、「そうじゃないかえ(い)、皆の衆」という文句が頭に残っている。
 彼が歌ったのは年齢的にどれほどだったかは知らないけれど、最近そんな風に思うことが結構多くあるように感じる。
 私の場合、なかなか採用されないけれど新聞投書にぼやいてみたり、このブログなどもそうだけれど、適度な「捌け口」があるのだが、そうでない人は果たしてどうして鬱憤を晴らされているのだろうか。
 「物言わぬは腹膨るるが如し」であってはいけないと思う。
 余計なお世話、と言われるかもしれないが、本音で(尤も100%そうであれる訳ではないのだが〉話し合える環境をもってはけ口としてはどうだろうか。
 「王様の耳はロバの耳」を隠せなくなって穴を掘って怒鳴るよりも、「うんうん」と聞いてくれる友人を持ち、表題の通りの言葉で締めくくれれば、少なくとも「鬱屈」という状態にはならなかろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :43 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月18 日

定年か停年か

 同年輩で、役員ではないけれどまだ元気で現役を続けている人がいる。
 本音は「羨ましい」がさりとてそれはその人の持って生まれたものだから真似出来る訳でもないし、真似する気もないのだが、そんな人でもいずれは「ていねん」が来て仕事を離れる時が来る。
 私の場合は、勝手な理解だけれど、それなりに仕事の始末も終えて退職したので、「定年(齢)」が明文化されているかどうかは定かではないが、54歳で退職した。
 だから「停年」であろうと思っている。
 自信をもって「停めた」のである。
 他人様から決められたものではないし、リタイア後の飲み会の席で「あのままだったらもっと別の職場もあったのに」とも言われたが、正直なところ全く未練は無かった。
 できれば、若い時の「離職」ではなく、精一杯やった後で、自分で「停年」を決められるほうが良いのだと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
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2015 年3 月17 日

個人的な楽しみ

 隠すことではないけれど、なかなか分かってもらえない楽しみがある。
 別に淫靡な物ばかりではないけれど、「個人にしかわからない」ことはそれなりに楽しく、どんなところでもそれを思い出すたびに、思わず笑みがこぼれる。
 特別変な行動をしているわけではないと思うので、自分を注視している人はいないだろうけれど、もし万万が一第三者でそんな人がいたら、多分「そろそろこの人もおかしくなってきたか」と思うに違いない。
 でも、決して「世捨て人」ではないと思っているが、飄々と過ごして、毎日感謝しながら生きている凡人としてはそんな楽しみを持ちながら過ごしても許されるのではないだろうか。
 実はこの項を書き始めた時には「こんな」という実例を挙げようと思って書き始めたのだが、紹介するほどのことでもないと思って割愛した。
 人に迷惑を掛けない(生きていること自体が迷惑なら、それはぜひお許しいただきたいのだが)範囲で個人的な楽しみを「思い出し笑い」と共に過ごしていきたい。

投稿者:つねちゃん
at 08 :31 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月16 日

無線電力搬送に期待

 宇宙で発電し、無線で電力を地球へ送るという構想が随分以前から研究されていると聞いている。
 50年以上も前だが、工業高校の電気科で学んだから、それはそれで最初のころから付かず離れず的な興味を持っている。
 それはそれでいいのだが、最近思うようになったのは、発電の部分ではなく「電力搬送」「配電」の部分である。
 電力の「部分分社化」と言われるが、それにはあまり興味がなく、最近の携帯やタブレットなどについてである。
 映像をはじめとした動画が見られるようになると、どうしても電力が必要になる。
 残念ながら電池の大容量小型化はそれについて行っていないのが現状だとすれば「電力搬送」の研究と実用化をもっと早めてくれることを祈っている。
 同時に悪用の防止も必要不可欠なのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月13 日

意識して順を違えてみる楽しみ

 在職中に全職場で「ISO資格取得」というスローガンのもとの活動があり、職位と担当がそんなことだったので、リーダー格になってしまった。
 「良いルールの下に行われた作業から生れ出るものは良い製品である。日々齟齬があればフィードバックしてより一層良くなるルール作りに努めるべき」というような趣旨であった。
 最初のうちはそれなりに納得してルール作りとフィードバックの仕組みも確立し、目出度く資格取得した。
 ところが、だんだん理解していくうちに「どうも本来の技術を持っていないものが作り上げた勝手な資格」ということに気が付いた。
 それは兎も角、ISOでは決して許されないことだが、「自分で勝手に順序を変えてみよう」という楽しみ方の提言である。
 さりとて、ズボンの上からパンツを穿くというような奇抜なことをやると、年齢から「あの人もそろそろ来るものが来たか」と疑われるからそんなことではない。
 朝起きてパジャマを着替える時にはたいていの場合一人でやることだろう。
 私の今までは、上を脱いで、シャツを着て、その上のものを着てから、下のものを脱ぎ、パンツ、ズボンと穿いている。
 これを逆にしてみるのである。
 下半身から着替えて上半身に移る。
 何時もは右足から入れるものを左足から入れてみる。
 等々、やって見られることは意外と多いものである。
 そんなことをやっていると、多分脳の活性化にもつながるのではないか、それに結構楽しい変化が得られる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :47 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月12 日

読書法

 音読ばかりではないけれど、結構本は読んでいる方だと思う。
 でも、ずいぶん長い間「本当に?!」と思いながら読んでいた。
 決して「良い読書法」だとは思わなかったしすぐに「それならお前はどう思うのだ」との自問が出てきて、答えられないことが殆どだったから、「反論のない反対は『ケチ付け』だけだ」と思っていたからでもある。
 このことが身に着いたのは、子供のころの貸本屋時代ではなく、多分中学生時代からではなかったろうか。
 会社に入って、良くも悪しくも「コンピュータの黎明期」になって、何冊もある分厚い取扱説明書を読まなければならなかった時代があった。
 その時には口にこそ出さなかったが、「本当かい?」という疑問符が多く出たものだった。
 でも、この分野ではこれが正解だったと今でも思っている。
 黎明期と言うだけあって、どんどん変更情報が出てくるのだから、凝り固まっていては仕事にならなかったからである。
 リタイアした今、宗教関係の本が4割くらいを占めるだろうが、この癖は治っていない。 でも、今朝良い箴言に出会った。
 寺田虎彦の言葉「一を読んで十を疑い、百を考えることが必要」と。
 読書法としては間違っていなかったようである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :19 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月11 日

良い事を「してやっている」という傲慢さ

 児童の下校時間に合わせて、防犯などの意味で時々街頭指導に立ってもう10年を越している。
 最初は、そういう声かけに呼応して参加していたのだが、長く続けていると「自分は良い事を慈善活動としてやっている」という傲慢さが出てきているようだ。
 先日、小学校と中学校が同時刻に下校になったようで、迎えに来る車も多くなり、いつになく交差点が混雑した。
 そんな中、あるご老人が道の真ん中を歩いておられ、車の渋滞が起こったので、声をかけて腕を引いたところ、すごい力で振り払われた。
 それでも何とか道の際を歩いてもらって事なきを得たのだが、正直腹の虫がおさまらなかった。
 でも、一日おいて考えてみると、私にも上記のような「傲慢さ」があったのではないかと反省することにした。
 まだまだ、人生修業が未熟である。

投稿者:つねちゃん
at 07 :48 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月10 日

誰しも人生に成功したい

 新しく音読の対象に加えた宗教系の本(父の遺品となれば。どうしてもこの手の本が多くなる)に出ていた言葉である。
 「人生の成功」とは著者は何を言っていらっしゃるのか、これから読み続けて行けばある意味理解もできるのかもしれないが、リタイアした現時点で「成功を目指す」という気持ちが殆ど無い、というよりも「今生きて居る」ことが成功そもののような気がするからである。
 第一線でプロジェクトマネージャとして同時に複数のプロジェクトを担当していた時には、各々「到達目標」が明確で(明確にして)一定品質である程度の利益も上げながら期日までにはきっちり完遂させる、事が出来たら「成功」だった。
 残念ながら現在の生活の中でその設定は無いし、むしろ設定したくないというのが本音である。
 だからと言って、凡人の凡人たる所以で、欲しい物やりたい事がまだまだある。
 だからと言って、それが出来ない、得られないからと言って「失敗」だとすることは無かろうと思うからである。
 偉ぶって言うわけでもないし、諦観から言うのでもないが、夜寝る時に「今日も一日有り難う」と言って寝られるのが私の「成功」である。

投稿者:つねちゃん
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2015 年3 月9 日

ある意味「開き直ろう」

 まだ前期高齢者になって少ししか経っていないのだが、やはりかつてよりも「物忘れ」が多くなってきているようだ。
 帽子、眼鏡などを始め、今年の行動目標の一つに「使ったら元に戻す」を掲げているのだが、残念である。
 でもしかし、忘れた残念さを長引かせないようにしている。
 ある意味で「忘れることも芸の内」ということにしたからである。
 決して言い逃れではなく、「悩んでも出てこない」からである。
 私の場合、多分に後で出てくることがあるけれど、忘れてそんなに困るほどのものではないからである。
 さりとて、忘れることを是としているわけではなく、それなりの防止策をやっている。
 その一つが「部屋を出る時にはこれを持って行こう」ということがあるが、部屋の出入り口の目につくところに置いておくことがある。
 これは結構効果的である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :39 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月6 日

外書

 畑などの一般的には「雑草」と呼ばれるのに、昭和天皇の言葉の影響もあるだろうが、なんだか「雑」で片づけられるのが気に食わなくて、少なくともこのブログと日記には「雑草」という言葉は極力使わないようにしている。
 代わりの使っているのが、釣りの「外道(目的外の釣果)」という言葉をもじって、「外草」である。
 これ自体は私独自の「造語」だと思っていたら、書き写しの「禅」に関する本の中に、「外書」という言葉が出てきた。
 デジタル辞書「漢字源」、アナログ辞書「漢語林」にも出ていないから、禅の世界の造語なのかもしれない。
 簡単な解説には「仏教以外の書物」となっている。
 勿論一般論としての「禅」は入門程度は理解していたが、こんな言葉があるのを初めて知って、思わぬ自分の造語と似ていることに少し感激した。
 でも、先日もかつての同僚や同級生などと話していると「昔とずいぶん違って、お坊さんのようなことを言うなぁ」と言われた。
 努力などしているわけではなく、それだけかつての私が貪欲だったということだろう、反省。

投稿者:つねちゃん
at 07 :56 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月5 日

何時までも若くないことが身に染みた

 先日久しぶりに家族そろって焼き鳥屋で夕食を楽しくとった。
 孫はジュースで、私と家内は日本酒、娘夫婦は車を持って帰らなければならないのでソフトドリンクと、銘々好き好きなものを飲む。
 色々な種類の焼き鳥も銘々好きなものを選んで注文する。
 最後の頃になって「そうだ、あれを忘れていた」ということで私が頼んだのは「豚足」である。
 殆ど脂の塊なのだが、結構お酒にあって美味しいと思う。
 豚足を食べた最初のことは「追記蘭」に書かせていただくが、少し前までの私の定番だった。
 ところが、翌日の朝に異常がおこった。
 背中の腰よりも少し上の部分が帯状に「押し付けられたような痛み」が走り、「少し楽にしていれば治るだろう」と高を括っていたのだが、波状的に痛みが襲い、そのインターバルが短くなり、痛みもどんどん大きくなってきた。
 日曜日のことで、何時も掛かっている病院は休診で、当番医へ出かけた。
 CTスキャンでも特別な所見はなく、午後になったの血液検査の結果で「中性脂肪過多」ということであった。
 ナント通常の許容値の4倍以上だった。
 そのため膵臓が悲鳴を上げている結果だろうとの診察だった。
 その頃になると、痛みも少し軽く、インターバルも長くなってきたので、投薬もなし、ということになった。
 帰って過去の検査結果を見たけれど、10年以上前に上限値を少しオーバー、その少し後に下限値を少しオーバーということで、1か月に1度定期診察で結果をもらっているが、指摘された覚えが殆ど無い事だった。
 ということは、膵臓の単位時間当たりの消化能力が減少してきての悲鳴だったのだろう。
 そこで、表題の通りの反省になった。なんだこれくらい、若い時はもっと○○だった、ということは言わないようにしようではないか、ご同輩。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 08 :22 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月4 日

ネットの騙し商法

 ネットでの騙し商法被害が増えていると聞く。
 今ではやっていないが、昔の同僚がリタイア後、当時流行りだった「無店舗商店」をネット上で始めた。
 最初のうちは順風満帆とまではいかないけれど、OBを交えた飲み会などには結構足しげく出かけてきていたし、サラリーマンでは知り得ないような面白い話も聞くことができた。 ところがしばらくしてから「あれはもう止めたよ」と言ってきた。
 似たような相手が出てきて「あなたの所も大丈夫か」という猜疑心にあふれた質問攻めにあったので、彼としてはプライドを傷つけられたことからだと言っていた。
 その時の彼の言葉を思い出す「自分一人で『うちはこうじゃない』と言っていても駄目なのは分かっているのだが、順調な人はそんなことには耳を貸そうとしない。駄目になってから後悔しても遅いのだけれど」と。

投稿者:つねちゃん
at 07 :55 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月3 日

文房具が面白い

 日経系のメルマガを購読していることもあり、ほんの時々だけれど「新しい文房具」が紹介されることがある。
 先月買ったのは、LEDスクリーンから発せられるブルーライトを防御するメガネ、ということで100均で買った。
 確かにブルーが弱くなるのだろう、少し赤っぽい画面になったので、多少は効果があるのだろう。
 それ以来、使っている。
 今日はそれがテーマではなく、シャープペンだ。
 今はまだ父が残した使いさしの鉛筆(書き写しでずいぶん使っているのだが、まだある)などと、私が現職時代にまとめ買いしたものも残っているので、それが終わるまでは必要ではないのだが、さほど高くないものなので、趣味の一環として買っている。
 昨年末に買ったのは「絶対折れない」というものだった。
 元来筆圧が高くて、シャープはそれが嫌だからあまり使わなかったのだが、便利なことだけは理解していたので、買った。
 普通の鉛筆を2本使い切った(まだ残ってはいるのだが)タイミングで切り替えて現在に至って居る。
 本日買ったのは「字の太さが変わらないもの」というものだった。
 多分もうしばらくすると、両方を兼ね備えたものが出るのだろうけれど「趣味の一環」として楽しみたい。

投稿者:つねちゃん
at 08 :19 | 健康 | コメント(0 )

2015 年3 月2 日

高杉晋作の辞世

 「面白きこともなき世を 面白く 住みなすものは 心なりけり」というのを書き写しの教本で知った。
 尤も、高杉晋作は「上の句」を言っただけで、最期を看取った一人が「下の句」を継いだとある。
 教本にはたくさんの「名言・名句」が出ているが、正直なところ「教科書的」だったり、如何にも「教訓とすべし」的だったりすると「はい、そうですか」と「聞き置く」だけになるものが私にとっては多い。
 そんな中でピックアップと言うか、琴線に触れたのがこれであった。
 人生を、面白くするのもそうでなくするのも人それぞれではないだろうか。
 できれば「前向き」で「面白く感ずる」ことに努めたい。
 勿論そんなことばかりではないことが圧倒的に多い現実であることは理解しているし実感もしているのだが、好きな歌の文句の一つに「上を向いたら果てがない、下を向いたらきりがない」というのがある。
 そんなことだったのではなかろうか。
 そして下の句は「それをどうするかはあなたが決めるのですよ」と言ってくれていて、励ましなのか諦めなのか、どちらにしても「前向きに生きなさいね」と言っていると思ったからである。
 できるだけそうありたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 11 :11 | 健康 | コメント(0 )

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