「良いことが起きます」という運勢
来週から少し早くて長いGWを頂くので、5月11日の再開までお休みさせていただきます。
時々いくつかの運勢のその大半で「今日は良い事が起こります」という、断定ではないけれど「Fortune Teller」的なものに出会うことがある。
やはり正直嬉しい。
でも、決して過度な期待は持たないようにしている。
むしろ期待しないで、万一そんなことに遭遇すれば、それこそ喜びの度合いも倍加するだろうから。
新聞の運勢、暦で自分の本命星の運勢、メルマガで届くもの、ブックマークしていつも見るページの運勢などである。
本当に稀にこれらすべてで「良い事があります」となることがある。
出会い、金運、仕事運、ラブ運などが出ているが、リタイア後しばらくは「人付き合いが大切」と誘われたり自分で「これ良さそうかも」と加入したりするミニ団体活動もあったが、それも長いもので5年近くもやっていると、やはりまだ年齢的に若い時に入ったからか、いろいろと役目を仰せつかることがあり、全体が見えてくると、残念ながら「アラ」が見えてくるので殆どやめてしまった。
だから「出会い」もそんなにある訳がない、金運もパチンコは、幸か不幸か今までのように「勝負事」としてやることは殆ど無くなったし、宝くじも年末ジャンボだけにしたから、タイミングが合うことはない。
仕事もラブもほど遠い環境である。
そんな訳だから、期待しようもないし、もしこんな時に変な電話で勧誘などされると、猶更疑ってしまう。
でも、ことさらに「良いこと」が無くとも、寝る前に「今日も大過なく過ごせた」ということに感謝できることが幸せである。
投稿者:つねちゃん
at 11 :41
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生ごみイーターから良い匂いが
3台目の生ごみ処理器を使ってもう3年以上になる。
最初はバクテリアで腐食させる方式のものだったけれど、現在のは電熱で強制的に乾燥粉砕させる方式のものである。
最初のバクテリア方式は確かに(完全ではないが)殆ど匂いが外に漏れなかったので、それなりに満足していたたのだが、結局室内で使うわけではなく、多少の匂いはそんなに「嫌な」ものではなかった。
それよりも、約半年に1度バクテリアの元となるものを入れ替えなければならず、それがかなり大変だった。
現在のものは熱で乾燥させるもので、それなりに匂いはするが、外に設置してあるので気になるものではない。
むしろ、最近になって気が付いたのだが、材料によっては本当に「良い匂い」がするのである。
今朝気が付いたのは、昨日我が家産の原木椎茸(孫がGS活動の一環で貰ってきたもの)のうち、虫食いで残念ながら捨てざるを得ないものを入れた後のことである。
何とも椎茸のいい匂いがした。
投稿者:つねちゃん
at 06 :05
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せめてその日くらいは
色々な箴言やおすすめ情報を好んで読んでいる。
でも、なかなかそれをいつもいつも心に「銘じて」置く訳にもいかないのは、加齢のせいばかりでもなかろうが、実際にはすぐに忘れてしまう。
で、考えた横着な方法は「せめて一日だけでも覚えておこう」という方法である。
こう思うだけで、快適な一日が過ごせ、思い出した時に「ああそうだった」とすれば、箴言やおすすめ情報が無駄にならずに済むし、寝る前に日課としてやっている「今日も一日良い日だった」の中にも思い出せば「良かった」ことの一つの数え上げられるから、気分良く寝られるというものである。
忘れたからと言って「忘れるくらい全体が良い日だったのだ」と思えばいいのである。
現役中はそんなこと思いもしなかったが、歳ばかりではないけれど「別に張り合う人もいないし、必要もない」という風に思えば、少なくとも「後ろ向き」ではなかろう。
積極的健康法、とは言わないまでも、少しお勧めの方法ではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :18
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こんな男に誰がした
懐メロを好んだのは、まだ「流行歌」だった頃だろうが、菊池章子が歌う「星の流れに」の中の「こんな女に誰がした」という歌詞が好きだった。
でも、まだ小学生くらいだったから、多分意味も分からず歌っていたのだろう。
何度か紹介したが、貸本屋をやっていたので付録の歌本で歌詞はよく覚えた。
それはそれとして、リタイア後は、まさに「ぬれ落ち葉」状態である。
家内に「世間知らず」と言われるのはまだ理解できるが、最近は子供からもそのように言われることがある。
少なくとも子供の年齢以上に「大人」をやっているのだが。
数十年前に好きだった前記の歌詞を「こんな男に誰がした」と呟いてみたくなる。
いやいや、結局「自分がした」というのに帰結するのは分かってはいるのだが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
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まとめて払うか、一回ずつ払うかの問題ではない
そこそこ経験も知識もあると思っているのだが、もちろん万能ではないので、メーカーに問い合わせることもある。
先日、どうしても理解できず、ネットで調べても的確な回答がないので、メーカーのヘルプデスクへ電話で問い合わせた。
対応してくださったのは女性で、最初は差し障りのない応答だったのだが、だんだん「ご契約をいただくとより的確な対応ができますよ」と言う。
以前にも別の人だったけれど対応してくださって、結果として解決できなかったことがあったけれど、言葉は別として「契約しないとこんなことしか対応できません」とのことである。
「こんなこと」というのは事情を説明している中で私がトライしたことと同じなのである。
「その度の支払い(契約)よりも、年間契約だと1回当たりの金額を考えるとお得ですよ」と言うが、そんなに何度もトラブルような製品を出しているのか、と逆に聞きたくなる。
ヘルプデスクの苦労もある意味で知っているし、そこでも採算が必要だということも理解しているつもりだが、それにしても「契約がまず先」というのでは、この会社自体の姿勢を疑ってしまう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :32
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数値に影響されている
従来からメタボリックと言うことから体重、腹囲、血圧(ついでに測れるので心拍)を測って記録していた。
糖尿病もあって、新薬の治験者になった時に頂いた測定器で、週2回の血糖値、昨年末から「睡眠時無呼吸症候群」ということで、睡眠時間も測るような環境になっている。
勿論測ったからには記録も欠かしていない。
何度か紹介したが、在職時「品質管理」という仕事に長くいたせいか、数値を見ると「分析」したくなる。
こうなると一つの「職業病」的になってしまうので、なるべくそうならないようにと心しているのだが。
良い意味、前向きな気持ちで「一喜一憂」はお勧めだけれど、どうも職業病的になると「何か血管を見つけて改善しなければ」という少し後ろ向きになってしまうように、数値に影響を受けている。
こんな自分を俯瞰するのも一つの楽しみである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :34
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やっぱり「行う前に行うことを書き出す」
在職時はやっぱり「まずやる」ことが多かったが、それで成功したこともあるが、思わぬ失敗、というか「抜け」があって、墓穴を掘るまでではなかったものの、苦い思いをしたことが度々だった。
それでも、幸いにして「仕事を追いかけていた(いられた)」から何とか傍から見ると評価され、人事上もそれなりだったのだろう。
でも、今はだれから評価されるわけでもなく、追いかけるほどの仕事もないので、悪く言う「のんべんだらり」よく言うと「悠悠自適」な生活である。
これこそが幸せの一つなのだろう。
そんな最近だけれど、「今日やること、やりたいこと」などを思いついた時に紙だったり、携帯でのメモ、音声登録だったり、いろんな方法で「書く」ことが多くなった。
それを行動する前に一緒にしてから、優先順位と言うものではないけれど、場所だったりなどでまとめてからやり始め、できたことは消去していくと、面白いほど達成感を感ずる。 勿論いろんな理由でできずに残るものもあるが、それが明日の行動にできるから、加齢による「物忘れ防止」に役立っいる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :12
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孫姉妹の競り合い
今年から上は6年生、下は4年生である。
1週間だけだが、隣の1年生の「お迎え」が最上級生の6年生の仕事である。
ところが、近所付き合いと言うことで妹の方が「今日は私が行く」と主張して口げんかになり、意志が強い下の方に負けて「そんならこれからはあんたが何でもやってよ」というと、流石に荷が重いと思ったのか「一緒に行こう」ということになり、仲良く迎えに行った。
同性で、2年しか離れておらず、どうも性格もかなり違うようなので、このこと以外にも「競り合う」ということが度々ある。
爺から見れば「何でも可愛い」ことだから、余程エスカレートしない場合には「放っておき、微笑ましく見守っている」のが常套である。
勿論何事に限らずというわけではなく、雨が降って特別友達との約束もない場合には、仲良くゲームをしたり、今朝などは登校前に妹の髪を整えたりしている。
なんとも可愛いと思うのは「爺馬鹿」のせいだろうが。
これもまた楽し、である。
投稿者:つねちゃん
at 07 :51
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思わず出る「チャンネル取って」
ずいぶん昔になるが「チャンネル争い」というのがあって経験している。
どうもこの言葉は現在ではほとんど使われなくなっている、というのは我が家だけなのだろうか。
別に「争う」と言うつもりはなく、各々必要な番組は録画して見ているので、よほどのことがない限り争うことはない。
表記の「取って」というのも今までは阿吽の呼吸と言うか通じていた(と私自身が思っていただけなのかもしれないが)のだが、先日少し離れた孫の席の前にリモコンがあったので、その言葉を発したのだが、孫は「誰に何を言っているのだろう」というような表情で理解できていない。
最近はあまり怒ったり怒鳴ったりしなくなった私だが、苛々し乍ら3度ほど繰り返したところで、家内が取ってくれた。
ところが「これはリモコン」と念を押されてしまった。
そうなのだ、チャンネルではなくリモコンなのである。
言いたくないけれど「昭和は遠くなりにけり」なのだろうか。
書き写しなどで「温故」をしているつもりが「知新」には無頓着だったことを大いに反省しなければ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :26
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「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と申しますが
桜もほぼ満開で、こちらの桜祭りも我が家の花見も楽しいうちに終わりを迎えている。
この時期よく聞く言葉が、表記の言葉である。
でも、残念ながら12月頃に降った湿度をたっぷりと含んだ雪で、桜ばかりではないけれど、かなりの被害も出ていた。
これはやはり残念ながら「切る」という処置をとるしかないようで、業者の方が切ったのだろうが、運ぶのに少し時間がかかったのか天候の具合か知らないけれど、道端に少しの間積んであった。
切られた枝には、健気にも、いくつもの蕾が付いている。
数本を拾ってきて、我が家のベランダの水鉢に差しておいたら、公園の物より数日前に見事に満開になった。
桜は切り口が虫害などで傷むので、その対処をしておけば、しっかりとするのだから、乱れた枝はやはり切ったほうがよいようである。
梅も切り様で、今年伸びた枝には実が付かないと聞く。
だったらやはり実の着く枝の邪魔にならないように最小限で切って、枝ぶりも鑑賞するようにしたいと思っている。
尤も、これがセンスの持ちようで、なかなか「様になる」ようにならず「切れない」のが悩みである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :34
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宗教は「勧誘」はあるが「強制」は無い
何度か紹介したけれど、音読と書き取りでは、宗教関係の本がどうしても多くなっている。
父の蔵書もあるが、般若心経や正法眼蔵そして現在やっている「南無阿弥陀仏は人を変えられるか」「一日一禅」をはじめとして、自分で買ったものもある。
また、世界的に見れば、詳しくはないけれど、宗教による戦争なども残念ながらあちらこちらで発生している。
戦争の方は分からないけれど、読んだり書き写したりしているものの中に、時々「こうであらねばならぬ」的な表現があると、どうしても馴染めず、音読や書き写しはするものの、一過性で殆ど記憶に残らない。
嫌悪感が先に立つからだろう。
法律にもあるように「信仰の自由」は保証されているのだが、時々訪問される人の中には「これを信じないといけない」的な発言をされる方もいらっしゃるが、やはり「勧誘」は良いけれど、脅迫的な強制は本当の信心ではなく「盲信」でしかなかろう。
投稿者:つねちゃん
at 05 :56
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直ぐにやる
今では大半の人がご存じだろう、現在のドラッグストアの「マツモトキヨシ」の創業者は、松戸市長を務められて「すぐやる課」を作られた人だということを。
私も在職時代から、それに肖ろうとそれなりに努力してきたのだが、なかなか組織としての動きにはつながらなかった。
で、リタイアして個人として、できるだけそうありたいと思って、今年の目標にも掲げている。
そのうちの一環で、最近気が付いたことだが「些細な間違いでもすぐ直す」ということだ。
簡単なようで意外と実行できないのが現実である。
と同時に「直せない事ならまず謝ろう」特別人に謝らなくても良い事だったら「忘れてしまおう」である。
何時までも尾を引くことが多分決していいことではないのだから。
「失敗だったなぁ」と思ったらメモしておいて「失敗ノート」に書いておこう。
後で読み返して楽しくなること請け合いである。
投稿者:つねちゃん
at 07 :53
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家内とケンカしない
リタイアしてもう14年になる。
最初のうちはやはり家庭では小児以下の知識しかないので、近所の人のことなどは初めて知ることが多かった。
でも、それももうこれだけ経つと、それなりに付き合いがあり、世間もある程度見えてきていると思っている。
家内ともお互いにそれなりの歳だから、自分では気が付かない「物忘れ」がある。
女性の本来持つ性格かもしれないが、良く言うように「鬼の首を取ったかのごとくヒテスリック」に指摘する。
まるで「勝ち鬨」を挙げるがごとしである。
それも「主婦」としての職業病だろうと、平身低頭しているばかりである。
でも、考えてみると、私が同様に見つけて、ヒステリックではないにしても指摘したらどうなるのだろうか。
そう思うだけで怖くなってしまう。
「弱きものよ、汝の名は『亭主』」でよかろう。
家庭円満の一つの秘訣であろう。
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
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単身赴任的な生活のススメ
私自身は2期で足かけ7年の単身赴任生活を経験した。
幸い平日の朝夕食は賄いがあったので、ずいぶんお世話になったので感謝しているが、週休二日だったので、金曜日の夕食から日曜日の夕食までは自炊する。
約8畳ほどの部屋だけれど、当然掃除はしなければならない。
簡単な炊事ができるほどのシンクが供えてあったので、そこも掃除の対象である。
ベッドではなかったので万年床にしておく訳にもいかず、毎日布団の上げ下げは必須だったし、洗濯に関することもやる必要があった。
「狭いながらも楽しい我が家」を実感するためにはそれなりに「家事」が必要だったのである。
平均寿命を考えると、男性の方が早世するようだけれど、こればかりは何とも言えない。 そんな恵まれている間に「擬似単身赴任」を経験してみてはどうだろうか。
奥様の苦労がわかり、一層感謝の気持ちが深まり、それなりに頭の体操にもなるというものだ。
当然奥方から見れば、小児以下かも知れないが、そのアドバイスは喜んで受けようではないか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :04
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男の料理は意外性
市の「男性の料理教室」というのに何度か誘われて通った。
でも、結局「既定の作り方を女性からの指導に沿って作る」というのがお決まりだった。 で、結局すべての回数を通わずに終わってしまった。
今まではなぜだか、自分でも分からなかったのだが、最近になって気が付いた。
そこに「意外性」が無いからだろう。
料理に慣れた、などとはまだまだ言えないけれど、味噌汁作りはほとんど私の専門になったようで、孫なども時々「爺ちゃんの方が美味しい」と言ってくれるまでになっいる。
そうなると、家内によく言われるように「代わり映えしない」ということになってしまう。
そうなのだ、その「代わり映え」が男性の料理には必要不可欠なのだ。
例えば、即席味噌汁を作る場合、どのようにするだろうか。
お湯を薬缶で沸かすか、鍋で温めるか、温度はどれくらいか、入れ物は木製のお椀か、丼か、茶碗か。
でも、お湯ではなく、お茶で入れたらどんな味になるだろうか。
お茶だって、焙じ茶、煎茶、紅茶などいろいろだろう。
さりとて抹茶で入れることまでは思いつかないだろうけれど。
そのようにまるでサバイバル的な物であってほしいのである。
尤もそうなると教える人がいなくなるだろうから、課題はあるが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :11
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ニュース番組もお笑い番組
今回のテレビ朝日の騒動や、NHK会長発言、与党の選挙時における圧力など、今まではそれなりに「公平」だと思って見ていたニュース番組も、結局は一部の演出家の「お笑い番組」と同じだったのだと理解した。
在職中は、よほど興味があるものしか注目しなかったが、リタイアしてから少したって感じたのが「アンケート調査」の不思議だった。
また、選挙の出口調査で生ならまだいいが、夕方などの「編集済み」のものなどは、その局の意志が表れているようで、どうにも可笑しい。
変だなぁ、と思い続けていたが、今回の騒動でかなり「大本営発表」だということが解った。
戦後生まれだから、直接は知らないけれど、そのうち「すすめ一億火の玉だ」という号令がかかるのかもしれない。
その伏線が「八紘一宇」だったりするのではないか。
前期高齢者の我々が召し出されることはないだろうが、孫の世代でもあってほしくないものだ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43
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昨日と似たような
こちらではまだ、桜が咲かないけれど、もう1週間もすれば満開に近くなるだろう。
この時節に思い出す言葉の一つに、昨日紹介した「勧酒」もあるけれど、西行の句にある「願わくば 花の下にて 春死なむ この如月の 望月の頃」だろうか。
これも私の勝手な解釈だけれど、
「この時期に花を愛でられて美味しいお酒をみんなと飲めるということは、
まだまだ死ぬことはないだろう。
今年もこの機会を迎え、過ごすことができたのは、
まだ来年までは
『死ななくても良いよ』と言われているのだ。
精一杯のことをして、人に感謝しつつ、来年を迎えよう」
と思っている。
なぁーに「酒飲みに特別な理由などないのだから」と笑われることを承知の上でのご説である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :06
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「さよならだけが人生さ」
これはある詩の一節であるのはご存じだろうが、意味を間違えてとらえている方がかなり多い。
実は私も昔からの酒好きで、この一節はずいぶん昔から「ああ無情」というような意味で理解していたのだが、30歳頃だったろうか、詩の全部に遭遇する機会があり、逆の意味で感激したものである。
詩の題は「勧酒」。
井伏鱒二の訳によると「この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」。
どうでしょうか「明日は別れることになるが、どうか喜んでなみなみと注ぎ勧める酒を飲んで呉れ 花に嵐がある如く 人生には別れることがあるのが 極々自然のことなのだ (だから喜んで自然を受け入れようではないか)」と私は思ったのです。
正しい理解かどうかは分かりませんが、何度も転勤などで新しい職場やメンバーと別れてきましたが、その度にこの言葉で酔いしれたものです。
投稿者:つねちゃん
at 08 :39
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