2016 年11 月30 日
2016 年11 月29 日
気になった言葉
就寝前読書で見つけた「気になった言葉」である。諸姉・諸兄はどのように感じられるか分からないけれど、私は、たぶん趣旨とは違うだろうけれど、「一つでも減らせる努力をしたい」と思った。 仙?和尚六歌仙の歌とある。句点は原文に倣った、区切りは私の勝手である。できるだけ現代語に近くしたつもり。 「皺が寄る 黒子ができる 腰曲がる 頭は禿げる 髪白くなる、手は震える 足は蹌踉めく 歯は抜ける 耳は聞こえず 目は遠くなる、身に添うは 頭巾・襟巻・杖・眼鏡 湯湯婆(湯たんぽだと理解した)・温石・手便・孫の手、くどくなる 気短になる 愚痴になる 出しゃばりになりたがる 世話を焼きたがる、聞きたがる 死にとうもなる 淋しがる、又しても同じ話に孫褒める 達者自慢に 人嫌がる」 はてさて、どれだけ回避できるだろうか。 甚だ疑問ではあるが、一つの座右にして、何かに触れて見て見よう。2016 年11 月25 日
身近で起こったニセ電話詐欺
いつものようにPC講習会に出かけた時のことである。 その家のご主人が電話に出られて、特別耳をそばだてていた訳ではなく、むしろ一人の方のプリンターの調子が悪くて、色々と試行錯誤している最中だったのだが、なぜか電話の内容がおかしいので「どこからの電話ですか」と声を掛けると「市役所から」だという。 それにしてはかつての町名を確認していたりしておかしいので、そこにいた人が揃って「どこのだれか名前を確認した方が良い」ということになった。 ご主人は「○○課の△△と言っている」と信じておられる様なので「確認してから電話する」と対応してもらった。 そんな声が向こうにも通じたのだろうか、電話はそれで切れてしまった。 改めてその課の名乗った名前で確認すると「そんな人はいない」ということだった。 結果として、何らの被害も無かった訳だが、話や警察からのメールで知ってはいたが、余りにも近くで起こったことに驚いた。2016 年11 月24 日
引用
朝の音読で2冊の本を使っていることは、以前にもお伝えした。 ところが、今朝の項で、面白いことに気が付いた。 『自警録』は新渡戸稲造の著だが、その中で氏は「良く引用するものに『菜根譚』がある」と述べている。 まだ私はこの節で述べられている『菜根譚』の項には接していないが、なんだか楽しくなってきた。 勿論新渡戸氏の足元にも及ばないし、くらぶべくもない私だけれど、同じようなことを辿っているということがである。 読書に限らず、学習、いやいや、人生という道を歩んでいる中に置いてこんなことに出会えること自体が楽しい限りである。 元々の音読の目的は「滑舌が悪くならないように」ということで始めたのだから、人生訓を身に付けようというのは二の次以降であるが、こんな楽しい余禄があるのに今更ながら気が付いた。2016 年11 月22 日
偶々見かけたこと
韓国大統領が、余りにも「人任せ」だったことが指摘されて大変なことになっている。 そんな折、今朝の音読で見かけたことが、とてもピッタリだなぁ、と思った。 一つは『菜根譚』の「下の方から見れば、物事がよくわかる」というもの。 もう一つは先日ラジオ放送で聴いた落語「羅宇屋」である。 いずれも立場こそ違え、「上から目線」でものを言ったり考えたりすることを戒めたり笑ったりである。 時期は過ぎたが、今年は不漁で高価だった、私の好物の一つの秋刀魚がある。 在職中は、私も少なからず「上から目線」だったこともあったことは意識して、その都度反省していたものである。 かと言って、何時も下から目線だけでは判断が間違うこともないではない。 「ト」の字をどちらに付けるか、難しいものである。2016 年11 月21 日
休眠預金
ずいぶん昔、金融関係のシステムに従事していた時に学んだ言葉に久しぶりに出会った。 「休眠口座」である。 一定期間取引が無い口座に対する処置の事だが、今回出会ったのは「休眠しているお金を公共なものに使おう」というものだった。 在職時、勤務場所が金沢だったこともあり、その地に本店がある銀行を使っていたが、僅かな額を残してそのままになっていた。 僅かとはいえ、年金暮らしの身にとっては1カ月の小遣い程度が通帳に残っていた。 むざむざ公共に使われるよりも、やはり我が身で使いたいと思い、さっそく解約してきた。 数年間で数円の利息が付いていたが、それでも貴重なお金である。 これで1か月分の小遣いのボーナスが貰えたような気分になった。 一度棚卸してお調べになっては如何だろうか。 期待はできないが、わずかでも利息が付いていれば儲けものである。2016 年11 月18 日
音読で発見
毎朝の音読で「ごり押し」という言葉があった。 この言葉の由来は知っていたが、解説の中での発見である。 少し余談になるが「ゴリ」という魚は、金沢の名物の一つである。 「ゴリの佃煮」と言うのは、本来魚にはどんな魚でも目が無いくらい好きな私だが、お酒を飲まない時(付き合いは別として、20歳までほとんど飲まなかったし、嫌いだった)にはご飯に乗せて食べるし、お酒を飲むようになってからはお腹の負担にならずに、それでいてしっかりとしたつまみになったものである。 それだけ当時は安くて美味いものだった。 本題に戻して、その魚の解説の中で「カジカやヨシノボリと同じ」という件があった。 カジカは「鰍」で姿も味も知っている。 ところが「ヨシノボリ」というものは初めて聞く言葉だった。 確か同じ名前の力士が昔いたような記憶だけである。 早速調べてみた。 電子辞書によると、ハゼ科ヨシノボリ族の淡水魚だとあり、カラー写真も出ている。 成程よく似ているが、何とヨシノボリの方言がゴリだとの解説もある。 こんな発見があるから、学習は楽しい。2016 年11 月17 日
菜根譚
少し前にもふれたが、朝の音読の一つに、表記がある。 まだまだ30項ほどしか読んでいないが、思うところがある。 結論から言えば「若くて一線にいる企業戦士」には読んでほしくない、ということだ。 読み方もいろいろとあろうけれども、私はそう思う。 在職中は、ある程度の立場になって言うことの一つに、 「君たちはアクセルを目いっぱい踏み込んで事に当たって欲しい。必要だと思ったらブレーキは私が踏むから、それまでは目いっぱい頑張ってくれ」というものがあった。 これは、今のブラック企業のようなものではなく、 「攻めるところは遠慮なく攻めて突き進んでほしい」という意味であった、と私は今でも思っている。 片やで 「自分が汗をかくのではなく、機械に汗をかかせろ。自分がかく汗は『脳』にかかせろ」というものだった。 そんな考えの片鱗を今でも持っているから、若い人は変な精神修養は必要ないと思っている。2016 年11 月16 日
散歩だけでも
家では、先日も紹介したが、起きがけに幾つかの「布団の中運動」をしたり、起き上がってからも腹筋とスクワットを初めとした幾つかの運動を日課としている。 最近、目標にはなかなか到達しないけれど、少なくとも、減少傾向もしくは維持傾向にあるのも、それが一つの要因かと満足している。 日課ではないけれど、天気も良く、特別なイベントが無くて加えて気分が良い場合に限って早朝散歩を楽しんでいる。 そんな中で、気が付いたのだが「正確に歩くだけで結構健康に寄与する」のではないかと思っている。 幾つもあるけれども、最近「気付いて」行おうとしているのに「足裏全体で歩く」ということである。 案外と意識していないのだが、かかとから着地して、最後は指先で地を蹴る、のである。 出来れば、靴はなるべく底が薄くて、地面の凹凸が足裏で感じられるものの方が良い。 強弱はあるかもしれないが、こちらの方が比較的安いので懐にも良い。 意識せずにやる場合と、できれば「強く意識して」やるのとは、結構違いがあると思っている。 健康の寄与具合はまだ分からないのだが。2016 年11 月15 日
目の訓練
朝のベッドの中での運動に「目玉を動かす」と言うのをもう3年ほど前からやっている。 だからと言って、私の「近眼、老眼、乱視」が分かるほど良くなるわけではないが、まぁ、悪くはなっていないのだろうと「鰯の頭」的な日課である。 ここ数カ月前から、新聞はまださすがにできないけれど(一時期はやっていたのだが、結構疲れるので止めている)、パソコンのニュースやメールなどは「目玉を動かす」ことで読むように努めている。 最初は、慣れないせいもあるのだろうが、結構疲れるとともに気が滅入る。 でも、何でもそうだろうが、その時期を過ぎると「楽しくなってくる」のである。 最初は意識して目玉を動かすのだが、慣れてくると顔を動かさずに自然と目が文字を追っていることに気が付く。 そうなると、人間欲なもので「もっと横幅を広く見られないか」と思うようになる。 楽しく、わずかな健康を心がけたいものである。2016 年11 月14 日
トランプ大統領になって
素人の、滅茶苦茶穿った見方だから、笑い話にすらならないだろう。 彼の言ったことは多分悉く破たんするのではないだろうか。 その結果、どこかの国の「こうすべきではなかった」ということと同様に、反省が先に立ち、リコールまがいの事態が起きる。 オバマ時代の政治の取り巻きは、彼の政治の素人感覚についてゆけず、多分殆どが離れるだろう。 そうなると国際間のやり取りも悉く崩れるのではないだろうか。 いわゆる「内も外も」という状態になるだろう。 そんな時を虎視眈々と狙っているのが、ロシアと中国だろう。 今回のメールの件でもロシアが絡んでいるとの報道もあり、中国はハッキングで忍び込んでくるのではないだろうか。 そうなると、「アメリカの傘の下」に居るわが国だって、翻弄されることになりかねない。 これだけは心配するしかない。2016 年11 月11 日
梅ジャムが美味しい
今年はそれなりに多くの梅の実が取れた。 我が家では「梅酒」ではなく「梅シロップ」として家内が作成し、孫たちも含めて私以外が好んで飲んでいる。 例年、その「滓」である梅の実をジャムとして活用しているようであるが、甘いものはあまり得意でなく、ましてや「仄甘い」ものは嫌いな私であり、全く興味が無かった。 先日「今年は砂糖の加減が拙かったのか、余り甘くできなかった」と言っていたので、それなら、お酒のつまみに少し舐めてみようかと恐る恐る舐めたのだが、これが結構美味しいと感じた。 早速翌日から昔で言う「クラッカー」というものに乗せてつまみに加わったのだが、美味しく味わうことができた。 勿論砂糖がそれなりに入っているので、食べ過ぎは糖尿で罹っている身には駄目だけれど、限度を決めて食べるには程よいものである。 仄甘いから孫たちにはあまり評判が良くないようで、暫くは「お酒の時の友達」になってくれそうである。 来年はどうなるか分からないが。2016 年11 月10 日
まだまだ素人
園芸高校まで行って、それなりに習ったつもり(試験は無かったけれど、自分でも恥ずかしいくらい物覚えが悪かったから、試験があったら多分赤点続きだったろうが) だけれど、先日天気も良かったので、父の時代からあった農機具を点検しようと棚卸した。 その中に鍬と同じ形だけれど、先が3本に分かれているものがあった。 これはたぶん聞いていた「スキ」というものだろうと勝手に判断して、錆をグラインダーなどで、できるだけ落として錆落とし材を塗りつけておいたが、さてどんな風に使うものか分からなかったので、「スキ」という単語で調べてみたが、該当の物が出てこない。 さんざん悩んだ末に「鍬の変種かもしれない」と探すとビンゴ!!!。 備中鍬と言うものだった。 我が家の畑は、以前にも紹介したかと思うが、元々は宅地であり、それを父の時代に無理やり畑にしたようで、今でも不用意に深く掘ると、途端に瓦礫にぶつかってしまう。 それはいいとしても、この備中鍬と言うものは、我が家にはうってつけの粘土質の畑に効率的だとあった。 父も悩んだのか知っていたのか分からないが、上手く錆を落として、感謝して使わせてもらおう。2016 年11 月9 日
咄嗟に思いつく言葉も飲み込む
先日中学時代の何人かで話す機会があった。 特別珍しいことではなく、毎月一度はある機会である。 そんな時、中学時代には同じ組になったこともなく、勿論特別な付き合いが無かった女性が「もう男は関係ない、シッシッ」と言ったことである。 咄嗟に思いついた言葉が「そんなあんたを抱く気になる男自体がいないだろう」というものだった。 が、当然その言葉は飲み込んでしまった。 もしその言葉がみんなに聞こえたら、と思うと今でもゾッとする。 たぶんそれまでの賑やかで和んだ雰囲気が瓦解するだけでは済まなくなっただろう。 これは男女関係だけでなく、いろんなところで起こる(った)事態である。 特別女性だけを言う気持ちは毛頭ないが、やはり「口は禍の元」と「人の振り見て我が振り見直せ」を肝に銘じたい。2016 年11 月8 日
4年後の自分
朝食時にTVを見ながらというのはあまり習慣としてしていない。 ところが、先日孫が見ていたままになっていて、登校の準備のために誰も見ていなかったので、NHKに切り替えて見ながらの食事になった。 そんな訳だから、このコーナーをご覧になった方も多いのではないか。 2020年にあなたはどんな風になっているか、というインタビューである。 オリンピックが開催される年だけれど、運動音痴の私にはそれはあまり関係ない。 で、解説される方が、当然のごとく「目標を持っていることが大事」と言われている。 そんなことは分かっている。 まぁ、TVに向かって怒ってもしようがないので、一つのきっかけとして自問してみることにした。 勿論ここで何かの目標が立ったり、具体的な行動が起こる訳ではないが、暫くはぼんやりした時に考えるネタになるだろう。 リタイアした時は、両親の介護がまず最優先だったが、父を送り、母も送ってからは、「これで悠々自適だ」と思ってアマチュア無線もやり直そうか、釣り三昧もいいかな、できれば家内と旅行に、等などが目標だったような気がしていた。 しかしながら、来年の古希を目当てに考えてみようか。 論語には「七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰えず(七十才で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなく)」とある。 果たしてできるかどうかは・・・。2016 年11 月7 日
自警録から
朝の音読の後継として選んだのが、新渡戸稲造の「自警録」と洪自誠の「菜根譚」である。 未だそんなに読み進んでいる訳ではないが、先日、一つの刺激として心に残った言葉があった。 勿論、どちらも優れた言葉が並んでいるのだが、「なるほど」「それもそうだなぁ」「それはそうだが、自分にはできないなぁ」などと一通りの感慨を持っているのだが、この言葉は、今更ながらだけれど、改めて自分を顧みる言葉として残ったのである。 「負けて退く人を弱しと思うなよ 知恵の力の強き故なり」という言葉である。 新渡戸稲造の言葉ではなく、高杉晋作の言葉だという。 在職中は「向かってくる機関車」と綽名された自分だけれど、退く人を見て「勝った勝った」と快哉を叫んでいたのではなかったろうか。 今更反省しても遅いのだが、今からでもこのような場合「本当に買ったのか、相手はもっと知恵があって『無用な争いを避けた』だけだったのではないか」と思うようにしたいものである。2016 年11 月4 日
孫の投書デビュー
先日「爺ちゃん、これに載せてもらうにはどうすればいい?」と中一の頭の孫娘が聞いてきた。 私が投書している欄にである。 基本的には小さな文字で書いてある「投稿要領」を解説してやり、私の方法についてはPCでやっていて、途中で書き換えができるなどと説明してやると、下書きを持っていたようで、ちょうど私が園芸作業で空いたので譲ってやった。 内容については、やはりもう中一だから検閲などは一切せずに、任せた。 それが採用されていた。 主旨は自分の反抗期と父の優しさについてであり、細かいことは除けばうまい具合にまとまっていた。 尤も原文がどうだかは知らないし、新聞社の方でも添削されたのだろうが。 でも、正直爺馬鹿としては喜び際もなし、である。 これで100%だけれど、これからも投書することになれば、不採用の物が多くなろうから、打率は当然下がる。 それでもめげずに、原文を保存しておくような方法を伝えて、拙い所などを反省するようにしてやりたい。2016 年11 月2 日
断・捨・離の一つに手を付ける
そろそろ合い物から冬物に着るものを入れ替える時期になってきた。 確かに「まだ着れる」というものがまだまだたくさんあるのだが、ボタンが揃いの物が無くなった、目立たないところだけれど、自分としては気になる所に取れないシミがある、等など。 この機会に捨てようと思う。 断捨離は中々「踏ん切り」が付かないけれど、考え方を少し変えて「これ古着で買うかい」と自分に問うてみることではないだろうか。 落語の「道具屋」ほど酷くはないけれど、そんな風に思って見ると、意外に踏ん切りがつくものである。 それと、一緒に「似た新しいものがあるじゃないか」ということだろう。 別に流行りなどではなく、色合いや使い勝手で似たような古いものは、確かに郷愁はあるかもしれないが、ここが「踏ん張りどころ」だろう。 諸姉諸兄もやって見られては如何だろうか。2016 年11 月1 日