2013 年10 月10 日

将棋棋譜をトレースする楽しみ

 30代後半頃までは、将棋もそれなりに強かった。
 これは、まだ生まれた町内で、縁台将棋がそれなりに盛んだったころに、同級生はもとより、大人とでも平手で打って、勝率は決して良かった記憶はないが、それなりに戦えたと思っている。
 「三つ子の魂」ではないが、それ以来将棋を勉強したことなどなかったのだが、本社勤務になった時のある時期、将棋ブームが起こった。
 生来「内気で、陰気で、内向性」(自分ではそう言っていたから、本音ではない)の私は、「岡目八目」で、楽しんでいたのだが、ある時どうしても相手がいないとのことで引っ張り出された。
 その時のことはよく覚えていて、最初の一番は「まったく相手にならない」くらいに負かされてしまったのだが、短時間だったので「もう一番」とやると、ナント今度は逆にこちらが簡単に勝ってしまった。次の番が一番よく覚えているのだが「成金趣味」と言っていたが、どんどん歩がと金になって、意地悪い勝ち方をしてしまった。
 その後それも下火になり、忘れかけていたころに、大卒で研修を終えたのが入ってきて、また将棋を少しだけやることになっが、その人間が勉強好きで、最初は全く相手にならなかったのだが、3か月もしないうちに平手から連続負け続けることになり、相手が駒落ちというまでになってしまった。
 それからもう20年以上もたつが、いまだに新聞にっている将棋の棋譜をPCにコピーしながら楽しんでいる。
 特に解説欄にある「こうしていたら」というフレーズを共に再現してみることで、より一層楽しくなってくる。
 勿論プロの指し手だから、いちいち納得できてはいないのだが「なーるほど」ということがなんか「頭脳に刺激」を与えてくれているのでは、と思いながら楽しんでいる。

投稿者:つねちゃん
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2013 年7 月11 日

アマチュア無線を再開する

 明日のブログは「臨時休業」になります。(理由は興味があれば「追記」をご覧ください)

 在職中はさすがに出張先までハンディ機を持ってゆくことはなかった(同僚にはそんな奴もいたのだが)が、金沢までの通勤時には、モービル機を車に積んで、知人や見知らぬ人との交信をしながら、勿論安全運転にも気を付け乍ら、アマチュア無線を楽しんでいたので、無線局免許状の更新は滞りなく行っていた。
 随分以前になるが、今のように「旧コールサインの復活」という制度が無かった時に、全く新しい「JR9〇〇〇」というコールサインをもらい、しばらく続けていると「復活制度」ができたので、やはり高校生時代に取ったものに復活させることができた。
 今回は無線機は車に積んであったが、専ら「受信機」だったので、局免許状の期限が切れていたのだけれども「違法」ではなかった。
 で、先日から昔の申請書の写しなどを見乍ら手続きをしようとしたのだが、すでに「手書き」の物ではなく、オンラインでの申請が可能になったいたので、文字があまりきれいでないわが身としては、助かったのだが、10年ほども前の物と随分変わっていたのには面喰ってしまった。
 一番違っていたのは「電波形式」と「変調方式」の表現だった。
 兎も角何度か指摘を受けてようやく書類自体は整って申請準備を終えた。
 これだけ携帯が氾濫しているのに、相変わらずHAM人口はさほど減ってもいないようで、手続きにしばらくかかるだろうとのことだった。
 従事者免許は、基本的に「何でもできる」という「一級」を持っている。
 無線機自体は、周波数帯は1.9から1200MHzまで運用できるものを持っている。
 一般の「夏休み」には開局できるだろうが、さすがに暑いのでやらないだろうが、秋になり、涼しくなってから少しずつ再開してみようと思っている。
 雑音から抜け出して、インターネットに傾注していたのだが、もう一度「雑音の中に宝物を見つけに行きたい」と思っている。
 まずは整備せずに放置してあるアンテナの整備から始めなければならないのだが。
 それもこれも楽しみの一つである。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
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2013 年7 月9 日

残り物で調理

 最近の私の「料理」は「味噌汁」だけは「家族のため」の物だが、それ以外はほとんど、いやいや、完全に「私の趣味」になっている。
 味噌汁は、小学4年生の孫は催促してくるほど好きだが、小学2年生の孫は、具が好みなのかそれ以外の要因があるのか分からないが、日によって飲む場合と飲まない場合がある。 「趣味の世界」だから極力経費を抑えることになるのだが、それがまた楽しみを倍加してくれるので嬉しい。
 従って、出来るだけ「残り物」や「端物」を使うことになる。
 この季節「冷しゃぶ」と言う料理が出てくることがある。しゃぶしゃぶの要領で自分の好みのたれをつけて美味しく食べる。
 これは家内と娘の作品であり、私は、昔のコマーシャルではないが「食べる人」に徹している。
 その翌朝には必ず「脂」が残っている。
 これを使うのであるが、得意の炒飯が多くなるけれど、それ以外にも「端物」の野菜炒めを私流に味付けをして仕上げると、ナントも美味しい。
 今ならインゲンの形の悪いもの、表面だけが虫食いになった茄子、曲がりに曲がった胡瓜等々、せっかく世話して仕方が悪かったのだろうけれど、美味しさはそんなに変わらないものだから、お詫びをしながらも感謝して食材にしている。
 何かの番組のパクリになるが、「残り物万歳!!!」である。
 以前にも似たような紹介をしたが、紫蘇やバジルの種は撒いてもとても消費できるものではない。
 そんな「残り種」はぜひ「若葉」を使ってみませんか。
 ティッシュペーパーに水を含ませて、状況にもよるけれど、2週間ほどすれば若くて綺麗な「本葉」が出てきます。
 その時点で収穫して、パスタや冷麦・ソーメンなどの冷麺に使ってみては如何ですか。
 目にも綺麗で、鮮やかな香りが楽しめますよ。

投稿者:つねちゃん
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2012 年11 月5 日

電子書籍

 リタイアして「サンデー毎日」の日を悠々自適とは行かないまでも、それなりに満足して、方々の皆様に感謝しながら生きている。
 そんな中で、やはり一番金がかからないのは「読書」と言う趣味だろう。
 勿論、新刊本を買い漁れば、湯水の如く金が必要だろうが、随分昔から「読みたいナァ」と思って買ったまま「積んどく」にしていたものが沢山ある。
 また、蛙の子は蛙で、父の残したものでも読みたいものがあるから、当分は読破に時間が掛かりそうだから、特別新刊などは必要ない。
 そんななか、読書週間は終わったけれど、先日あるアンケートで、電子書籍に関するものがあつた。
 一時期、私も随分昔の本だが、捨てられずに居て、「自炊」で電子書籍にしたことがある。
 私らが入手できる、普通の「書籍」に使われている「紙」は、残念ながらそんなに長持ちはしない。
 湿度が低いと、何年も掛からないうちにバラバラになってしまうし、逆に高いと捲れなくなってしまう。
 残念ながら、現実にそうなった本も沢山ある。
 だから、電子書籍には基本的に賛成なのだが、さりとて、紙媒体の書籍を全く廃止させるのには反対である。
 やはり「アナログ生活」と言うのは、決してノスタルジーだけではなく、人間本来の「無理のない」スタイルなのだろうから。
 両方を自分なりに上手く利用して、読書と言う趣味の生活を今後も楽しみたい。
 父の残した本で自分は読まないものは、ユネスコでの活用に少しでも役立てていただければ、と整理しながら送らせて頂いている。

投稿者:つねちゃん
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2012 年10 月18 日

お金に換算できない楽しみ

 ある朝の行動である。
 朝5:30から、帰りは9:30、釣果(僅か鱚3尾だけだが)を捌いて10:00。
 釣りに全く興味の無い人にとっては、餌代、ガソリン代などを考えると、とても合わない趣味だと笑われるだろうが、本人は至ってご満悦である。
 朝の海風を思い切り吸っての投げ釣り、普段使わないところの筋肉を伸ばして行う運動は、何よりにも増して楽しい。
 概して私の趣味は、他人様から言わせれば「時間とお金の無駄遣いのダブルヘッダー」と謗られよう。
 いやいや、それは何とも思わない、面と向かって言われても「そうだろうナァ」と臆面も無く答えられるだろうと思う。
 このブログでも、何度も書いたが、リタイア以降は「争う」ことは基本的に避けている。
 勿論、その元気も無くなって来ているし、勝っても負けても(勿論こんな状況だから負けることが圧倒的に多いのだが)特別気にもならない。
 達観とか諦観などという立派な言葉も、後になって気がつく言葉で、その時には「そうだよネェ」で済ませていることばかりである。(と本人は思っているが、場合によっては、その態度自体が気に喰わない、と思っていらっしゃる御仁もいると、後で他人から聞くことがある。
 話は元に戻って、ささやかな趣味を銭金で評価することはできないし、する気にもならないのは、何とも贅沢な話ではないか。
 晴れて気持ちに良い朝、海岸で形振り構わず、竿を振り、思い切り潮風で深呼吸し、時には周りに誰もいないことを確認して大声を出す。
 これを誰がどのように金銭換算しようが、私には萬金に代えがたい楽しみであることは言うに及ばない。


投稿者:つねちゃん
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2012 年3 月26 日

絵はセンス

 専門家的なことは一切判らないながらも、少しその勉強をした家内の指導により「好きな物を『綺麗だなぁ』と思いながら見るだけで良い」と言う言葉に促されて、有名無名に拘らず、色々な画展に時折足を運んでいる。
 尤も、その大半は家内の「アッシー君」(もうこの言葉も「死語」の世界だろうか)がメインの目的だったりするのだが。
 でも、素人ながら、『綺麗だなぁ』と感じる物は、やはり少しばかりの入場料を払っても充分に価値あるものである。
 最近になって、徐々に「ハッピーリタイアメント」としての同輩と会って話す機会が増えてきつつある。
 そんな中で、「のんびりと絵筆と戯れたい」と言う人が居る。
 時折、誘われるのだが、残念で申し訳ないが、「私には『書くセンス』と言う物が完全に欠如しているから」とお断りしている。
 全くの「食わず嫌い」ではないのである。
 単身赴任のときに、小さな(人に覗き込まれるのが嫌いで、ましてや批評などは聞く気にならないので)スケッチブックを持って、散歩の時に『綺麗だなぁ』と思うような風景に遭遇するたびに、4Bくらいの鉛筆で書いてみたりしたものである。
 ところが、散歩から1週間ほどして、また出かけようかとスケッチブックを出して、以前書いたものを見ると、途端に「破って捨てる」と言う行動を惹起せしめるような物が書かれているのである。
 多分こんな気持ちは中々理解してもらえないだろうが、間違いなく、それを何度か繰り返して(この辺が自分でも不思議なのだが、気が付いたらまた書いているのであり、そしてまた破っているのである:単なる暇つぶしだったのかもしれない)いた。
 それ以来「絵は見るもので、書くセンスは必要ない」と思うようになっている。

投稿者:つねちゃん
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2012 年3 月1 日

パチンコは「博打」じゃなくて「娯楽」

 趣味の一つで「止めた」と宣言した後、なんだか自分でも「知らないうち」に始めている物に、パチンコがある。
 今までのそれは、金銭的にも景品的にも、何より精神的に「博打」そのものだった。
 ところが、最近になって気が付いたのは、いつでも「この辺で止めて置くか」と言うことが出来るようになったことである。
 一つには「1パチ」と言う物が多く出現してきたことがあり、どれだけ玉を出したところで、換金は元にならないのが常だからでもある。
 だから「まだ確変中ですよ」と言われても「疲れたから」とが「時間が無いから」と簡単に止められる。
 で、ようやく「娯楽」と思えるようになってきたのである。
 最近良く見られるパチンコ台には、「ただ揃えて稼ぐ」式のものではなく、「当たる」までの演出と当たってからのストーリー展開に興味が沸くものも出てきている。
 もうあまり置いている店は少なくなったが、韓流ドラマで評判を呼んだ「冬ソナ」では、4時間余りかけて全ストーリーを読みきったことがあり、たくさんの演出にも出会えることが出来たのは、全く「娯楽の極地」だった。
 また、歴史的に前後するかもしれないが、仕事人、隠密捕り物帖、黄門ちゃま、などが「ストーリーを楽しむ」的なものだったし、最近また新しい機種として出てきたが「花満開」は演出が楽しめる物である。
 さりとて、「博打」に熱を上げていた頃ほどは通っていないので、最近の物はあまり知らない。
 「熱く」ならないで「気軽な娯楽」と心がけて楽しんではどうだろうか。

 昨日散歩の途中トイレ休憩に立ち寄って、トイレ借り賃、として弾いたところ、とんでもない派手な演出に遭遇し、結果として1万円あまり「お返し」を頂くことになった。
 でも、こんなことで味を占めるほど若くは無いので、今まで通りのペースで「娯楽」を長く楽しみたい。

投稿者:つねちゃん
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2011 年12 月19 日

映画はやっぱり劇場で

 映画を観るのは基本的に「大好き」である。
 しかしながら、やっぱり「時間貧乏性」なのだろうが、観る時には「構えて」観なければならず、その間は没頭しなければ、今度は「(お金)貧乏性」と言う顔が出てきて、しっかり観なければ折角お金を払っているのだから、と言うことになり、自分自身混乱してしまう。
 で、先日家内と久し振りに「邦画」を観に行った。
 今まで家内と一緒に見るのは「ハリーポッター」だけだったように思うが、それも「字幕物」だった。
 別に英語が堪能な訳ではないが、なんだか吹き替え版だと、一つの「緊張感」と言う物が削がれてしまっている様な気がするからである。
 TVで放映される時には、勿論吹き替え版で観るのだが、原語版で見た記憶がその裏打ちをしてくれるので、緊張感を思い出すので、それはそれで楽しい。
 話を本題に戻して、題名は「Railways」。
 富山地方鉄道が舞台であり、矢張り地元の人間としては親近感を覚える。
 個人的には、自分が退職したときのことが思い出され、どうしても涙腺が緩んでしまった。
 私なりの理解でしかないのだが、線路は2本で意味を為し役に立つ。1本になってしまっては、鉄屑でしかない。さりとて、その2本がクロスすることなく、寄り添って生きていかなければならないし、それが幸福なのだろう。
 しかしながら、時には左右に分かれてそれぞれの役に立ち、それが過ぎればまた寄り添って役に立つ。
 英語にした一つの理由は、最後の「s」ではなかろうか。
 線路はお互いに繋がってはいるのだけれど、各々複数の「線路」が各々の「行(生)き方」をしているのだろう。それで複数なのではないか。
 それにしても、矢張り映画は劇場で、映像の迫力と音響の迫力で観るべきだろう。
 TV放映は、その思い出を持って反芻する、と言う意味では楽しいのであるが、逆順になってはお互いにつまらないのではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
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2011 年11 月21 日

巡り会えたチャンス

 私自身は、家庭でのインターネット導入は結構早かった、と思っている。
 仕事で、インターネットと言う技術を知らなければならない事情もあったのだが、当時は単身赴任という事情もあって、公私混同が激しく、寮に帰っても「何か使える技術が無いものか」とネット上を下手な英語を駆使しつつ、探し回ったものである。
 とくに、当時の通信速度は2400bpsと言うようなものであり、ともかく最初はつなぎっぱなしで見ていたけれど、電話料の請求書を見て慌てて「見るのは後、まずはダウンロード」と言う具合だった。
 そんな中で、勿論仕事を離れてのんびりと使っていたのが、ネットの懸賞や学習になるクイズや懸賞つきのものなどだった。
 当時はネット利用者と言う人が少なかったのだろう、焼酎や缶ビール(尤も私自身はあまりビールを飲まないのだが)簡単なアクセサリーやクーポンや割引券などが結構高確率で当たった。
 自宅に戻ってからは、ISDNを初めとする高速回線などは、その技術的学習も兼ねて早速に導入したものである。

 趣旨が外れてしまったが、今でもかなり多くの会社がプレゼントなどの提供をしてくれている。
 それは「探す」と言う必要が無いくらい巡り合うものである。
 かつてほど当選率は良くないけれど、それでも巡り会ったチャンスには、出来るだけ挑んでみたいと思っている。
 挑むことによって溜まるポイントで思わぬ景品が当たったりするのも決して夢ではない。
 怪しげなものには手を出さないけれど、それなりに有名な会社などのものは、当選確率こそ低いけれど、結構良い景品が並んでいる。
 秋の夜長、のんびりとそんな「チャンスに巡り合う」と言うグータラ生活も楽しいのではないだろうか。
 ちなみに、全く意識しなかったのだが、今日11月21日は「インターネットの日」だそうである。

投稿者:つねちゃん
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2011 年9 月27 日

PC修復 その1

 リタイアしてからの私にとってPCは「趣味」の世界のものである。
 購入日付が2005年になっているが、買って間もなくまだ技術者としての感覚があったのか、リカバリーというよりは、「自分の思ったように」という意味で、再構築が目的の再インストールをした。
 それからもう約6年になって、今度はいろいろなガーベージ(垢)が溜まってきたことがあり、動作もなんだか遅くなってきたし、あるソフトの更新をしようとして、なかなか上手くいかず、ヘルプデスクに問い合わせると、「Cドライブに空きが2GB必要です」という答えで、調べると、なんと400MBくらいしかない。
 で、一念発起でこのブログをお休みさせていた炊いている3連休に挑戦してみた。
 使用状況を良く考えてみると、Dドライブにはそんなに多くの容量が必要なくなっている(以前はデジカメの画像をよく保存していたのだが、別のPCでデジタルビデオと一緒に管理するようにしたので)ので、パーティションも切り直し、今からいろいろなソフトの更新が必要になってくるし、当然必要な容量も増えることだろうからと、Cドライブの割り当てを多くした。
 バックアップも完全にとチェックシートも作りながら取り掛かった。
 でも、終わってみたら、やっぱり凡人の凡人たる所以で、所々復活できないことがめだっいる。
 そこで、反省しながら原因を思い返してみると、判った事は「慣れている(はず)、以前にもやったから大丈夫(のはず)」というものばかりで失敗しているのである。
 正直、これには参った。
 でも、残念がってばかりでは、私の嫌いな「後ろ向き」になってしまうので、一つ一つを記録して、今後何年後になるのか、もしくはすぐにその機会が来るのか判らないけれど、その時のためにしっかりとした「再発防止策」としておきたいものである。
 これで、ほんの少しだけれど「前向き」になるだろう。

投稿者:つねちゃん
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2011 年8 月18 日

ボツ投稿 1/5 No.2

 物覚えが悪くなったからと言う訳ではないが、家のあちらこちらにチラシの裏を利用したメモ用紙と筆記用具を配置した。
 事実を記録するのは勿論だが、その時に「気づいた事」を忘れないようにするためである。 従来の散歩中のメモ用具としてのことを家にいる間にも拡張したのであるが、細かな事でも結構「気づき」というものはある。
 勿論良い事ばかりではないし、後になって残す意味が全く無いものもあるが、そこはチラシという事もあり、どんどん取捨選択出来る。
 100のうち一つでも有効なものがあればそれで十分なのである。
 日記の題材、投稿の題材などになる期待があるし、まだまだ投句するほどにならないが、時には川柳らしきものになる事もある。
 指先を動かす事で能のためにもなろうし、漢字を思い出すきっかけにもなり、余りお金も掛けずに楽しく学習できる。

投稿者:つねちゃん
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2011 年8 月17 日

ボツ投稿 1/5 No.1

 音楽は基本的にジャンルを問わず好きである。
 なかでも、自分でふとした時に口をついて出るのは、演歌の一節である。
 そういう意味で、今回も紅白歌合戦を楽しんだのだが、馴染みの演歌歌手の年齢と新ジャンルの歌手たちの年齢の差が気に掛かった。
 また、歌っている歌も馴染みではあるものの、全く新鮮味が感じられない。
 演歌に新曲がないのかというと、決してそうではないのは、時折付き合いで行くカラオケなどで気に入った演歌を聞くことがあることから判る。
 演歌の世界でも、どんどん若い人が出てくれればと願うのは無理な事だろうか。
 紅白に常連として出場される、大御所と言われる人たちが、若い人たちの出場のハードルになっているのであれば、ぜひとも改めて欲しいものである。
 そんなことをしていると、結局自分たちの時代を窄めてしまうのでは無いだろうか。
 その世界の難しい事は判らないけれど、われわれ演歌愛好家も大きな応援は出来ないとしても、CDなどを買ったりして、若い演歌歌手へのささやかな応援をしてあげる必要があるのでは無いだろうか。
 いつまでも楽しく感情を入れて楽しめる演歌が続いてくれるように。

投稿者:つねちゃん
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2011 年7 月13 日

鉛筆とボールペン

 毎朝の書き写しには、裏が白い折込チラシのうち、艶のある紙には鉛筆では書けない(うまく乗らない)ので、専らボールペンを使ってきた。
 鉛筆が載る用紙はプリンタの試し印刷などに重宝していたので、どちらにしても無駄は無い。
 ところが、そろそろ気温も高くなり、ボールペンのインクも熱に弱いようで、出すぎるような時節になった。
 正直、これまで何年もボールペンを使っていたのだが、今までの物は数年前以上に買った物(父の残した物を含めて)だったので、そんなことには遭遇しなかった。
 また、在職時は、ほとんど冷房が完備したところで書き物をしていたし、また、自分が作成する物はほとんどPCを使っていたので、ボールペンを使うと言うのは、他人様の作成した物に「朱」を入れる時くらいだったろう。(なんとも偉そうな事を言っているなぁ、と思いながら書いているが、現実そうだったのである)
 ところが、それらを全て使い果たして、現在使用しているものは、昨年末に10本まとめて買った物である。
 都合よくというか、折り込みチラシの紙質が、艶のあるものが少なくなったこともあって、必然的に鉛筆が乗り易い用紙にならざるを得ないような状況でもあった。
 こんなことから、季節によって、筆記用具も適不適があることを始めて知った事が、なぜだか楽しい発見である。
 付け足しになるが(何もそこまでしてこの欄を埋める必要は無いのだが、ある試験の時に「筆記欄はなるべく埋めろ」と言われたのがいまだに身に沁みている様である)、ボールペンと言うのか無重力の状況では使えないのだと聞いたことがある。ペン先のボールが粘着性のあるインクをその回転力で取り出しているのだと思っていたのだが、重力の作用があるとは思えなかった。すぐに寝転んでやってみたら、書けなくなったので実感して楽しく思った記憶が蘇る。

投稿者:つねちゃん
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2011 年7 月6 日

美空ひばりの最終ステージ

 林檎忌と言う言葉を御存知だろうか。
 歌手は沢山いらっしゃるが、その中で最もと言っても過言ではなく私の好きな歌手「美空ひばり」の忌日である。
 今年もその時期がやってきて、TV局は大なり小なりその特番を組んでくれる。
 ファンの一人としては、ひばりのパチンコ台ではないけれど「待ってましたぁ」と言うほど嬉しい。
 で、そのほとんどの番組でのフィナーレは、東京ドームで行われた最後のショーである。
 正直、毎年このシーンで涙が出てくるのである。
 もう既に何度も見ているのだが、何度見ても、涙が出てくる。
 特に最後の花道を観客に応えながら、精一杯の笑顔を見せて、最後まで歩く姿に対しては「もう歩かないで、もう休んで」と言う気持ちになる。
 彼女としては、「これが自分の生きる道」と言う事で、最後の花道を飾っているのだろうが、一ファンとしては、細々とでも良いから、もっと自分を大切にして、長く生きていて欲しい、と願うからの涙であろう。
 何度か紹介したが、カラオケ嫌いの私でも、気が付くと口から出ている歌は、圧倒的に彼女の歌が多い。
 佐渡情話のような物、カッパブギのような物、股旅物、初代三人娘の物などなど、どれをとっても「好きな唄」である。
 特集番組は兎も角長いので、録画しながら、何度にも分けてみるのだが、一シリーズ(大概複数の局でやるので、幾つかの番組を一通りと言う意味で)終わると「もう来年は見ないで置こう、少なくとも涙は流さないで置こう」と言う気持ちになるのだが、結局林檎忌の季節になるとどうしても録画番組に組み込んでしまう自分が何だか楽しい。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月24 日

渥美清

 確か、いやいや間違いなく、随分昔だけれど買ったCDが、長い間見つからなかったのだが、色々と身辺整理しているとヒョット出てきてくれた。
 渥美清のCDである。
 没後何年になるか判らないけれど、最近は殆ど見つけることが出来ない代物だったので、ワクワク気分である。
 幸いにして、全曲が無事に再生できたので、早速デジタル録音して残した。
 でも、一つ残念だったのは、「あったはずだが」と思っていた「浅草の唄」が入っていなかった。
 昔のTVバラエティ番組で関敬六、谷幹一と一緒に愉快に歌っていたのが楽しかったのだが(夢で会いましょうだったかも)。
 調べてみると、本来の歌は藤山一郎が歌っていたと始めて知った。
 勿論最も好きで多くの人に愛された「男はつらいよ」の同名主題歌がトップに来るのだけれど、私個人としては、最も感情が入り、歌っている時についつい涙が出て困るのは「泣いてたまるか」と言う唄である。
 「俺が泣いてもなんにも出ない」と言うところは、何度唄っても、声が震えてしまうのである。
 多分このCDを買った場所は、新橋駅の地下鉄への連絡路だったと思うのだが、その当時、具体的には思い出せないけれど、何か仕事上などでそんなことがあつたのではなかろうか。
 でも、終わってみれば全て「素晴らしかった事」「楽しかった事」としか思い出さないから素敵である。
 ジャケットには、フーテンの寅の姿ではなく「見返り愚人」としてのしの写真が載せられている。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
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2011 年2 月23 日

誤解しないように

 何度も行っているが、私の「筆遊び」は確かに般若心経や正信偈と言うような、一見「お経」のようなものを書き写しているが、気持ちは決して「写経」と言うような信心深いものではない。
 確かに、昨年末には「600回達成」などとここにも書き、新聞の投書も採用されたし、コース変更をした今でも空で唱えられるようにはなったのだが、残念ながらと言うべきかそれほどの信心心は生まれていないと思っている。
 尤も、そんな風に思っていること事態が、本当の信心になっているのかもしれないが、それを悟るだけには至っていないと言う気持ちであり、「足許にも及ばない」どころか、遥かに隔たった所にいると言う気持ちである。
 それはそれとして、まず「書き写し」を始めた動機を最近自戒を込めて思い出すようにしている。
 昭和45年位から、本格的にコンピュータの仕事を始めて、50年ころから、当時は今とは想像を絶するほどの使い勝手が悪い物だったが、ワードプロセッサーという機械を使って上申書などを作った。
 使い勝手よりも、それまで「ミミズののたくり」のような文字で書いていたものが、綺麗な活字で印刷され、修正の容易さとそれを繰り返しても「書き直しの後」など全く無い綺麗なものになった。
 それから40年近く「タイプ文化」に毒されていて、「手書き」と言うものと隔離していた事に気がついて、「これではいけない」と思い始めたのがきっかけだったのだ。
 だから「綺麗でなくても良い、丁寧に文字を書く」と言う事が本来の目的だったのである。
 何も手本がなくては、心許無い、ということで、選んだのがたまたま、在職中の一時期流行った般若心経だったというだけなのである。
 最近新しく加えた種目に「能の事典」と言うものがある。
 演目の梗概を判りやすく解説したものである。
 今年はまだ宗教色から抜け出せないが、徐々にいろんな分野を加えて、基本を忘れないようにしたいものである。
 「ま」「ほ」「れ」「わ」「を」「さ」「き」その他にも「気をつけて丁寧に」書き続けたいと思いながら。

投稿者:つねちゃん
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2011 年2 月7 日

パチンコは止められたようだ

 毎日のように入ってくるチラシで、多いのがパチンコのものだが、最近は全く興味がなくなってしまった。
 一時期は新規に建物が建つと、殆どパチンコ屋と言う時期があったのは、多分此方のほう(富山県呉西地区)ばかりではなかったろう。
 禁煙と同じように「これでこそ止めよう」と思ったことは何度もあったが、結局は「舌の根も乾かぬうち」に少し小銭が入ったりすると、脆くも崩れてしまったので、1ヶ月も継続する事はなかった。
 しかしながら、昨年末から約1ヶ月、この間臨時収入もあったのだが、パチンコへ行く、と言う気持ちが全くなかったのは、自分でも面白いくらいである。
 それまでは、いろんな運勢を見ても「今日のラッキーナンバー」に必ず注目して、それを頼りに台を選んだりもしたくらいに、「趣味」の大きな部分を占めていたものである。
 まだ継続期間が1ヶ月余りなのだから、完全に「止められた」訳では無いだろうが、TVもその手の番組の録画は止めてしまって、誘惑のネタは極力排除しているのが、余り意識せずに出来ている。
 ところが、ここに来て気がついたのだが、娯楽費が減ったのはいいが、刺激が少なくなったことが加齢に対して良いのかどうかはまだ疑問である。
 加齢というのが全ての契機ではないとは思うが、在職中から比べれば、良くも悪しくも「刺激」から遠ざかっている。
 そうなるとやはりこれは危ない事になるだろう。
 これから春になり、行動範囲も広がるから、そこで又新たな刺激のネタを見つけるのが、今から楽しみである。
 果たして、「チョイ悪親父」的な刺激が見つかるかどうか。
 見つからなかったら、と言うような否定的な考えは持たずに「犬も歩けば」で偶発的にでも見つかることを念じながら「ホッツキ歩き」を楽しんでみたい。

投稿者:つねちゃん
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2010 年12 月20 日

CDなどの音楽の「ランダムプレイ」の面白さ

 基本的に音楽であれば、分野を問わずに好きである。
 車を新しくしたときに、オーディオ装置が今までとは違っていて、自分で作ったCDやUSBも聴ける様になった。
 今までは、最大6枚のCDをセットして、好みに応じて選択してそのアーティストや分野のものばかりを聴く(勿論その内容全てが終われば自然と次のCDを演奏するようにはなっているのだが)ことになっていた。
 過去のカセットテープの時代は「順送り」しか出来なかったのだが、CDになるとそれ以外に「自分の好みの順」をセットする機能があることは知っていた。
 しかしながら「好みの順と言われても」と言う事で、結局は「ランダムプレイ」を選択するだけだった。
 ところが自作のCDやUSBにおける「ランダムプレイ」は収録曲数も格段に多くなると同時に、いろんな分野も混在しての「ランダムプレイ」が楽しめるようになっている。
 そうなると又違った世界を体験できる。
 今叙情かを聞いていた、次はクラシック、そして好きな歌手(島倉千代子、美空ひばり、都はるみ、天童よしみなど)の歌声で一人の時は大きな声でカラオケ状態も楽しみ、一転して民謡ののどかな祝い歌などを、と言うような具合である。
 「なんといい加減な」と言われることも承知であるが、時にはそんな「イージーリスニング」的な世界も格別楽しいものである。
 勿論特定の分野(フォルダー)を選択して楽しむことも出来るし、その間でのランダムプレイも出来るのだが、時には上記のような楽しみがあり、ぜひとも諸姉・諸兄にも味わってもらいたいものだと思う。
 短い時間で頭を切り替えて、それを楽しむ、という事は僅かではあるだろうが、脳の活性化にもつながるのでは無いだろうか。
 騙されたと思って一度お試しになってはいかがだろうか。

投稿者:つねちゃん
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2010 年9 月15 日

斜陽産業

 本当のところ果たしてそうなのか判らないが、言われると「そうかも知れないなぁ」という事がある。
 今回のテーマもそんな中の一つである。
 一時期は「何兆円産業」といわれてきたパチンコ業界もいまや斜陽産業になりつつあるという噂がネットで知らされた。
 つい先日、私も長い間趣味の一つだったパチンコをきっぱり辞めてしまった後だっただけに、「さもありなん」と思ったものである。
 思えば「立てばパチンコ」の時代から「開け開けチューリップ」、フィーバーが現れた時代は仕事に熱中していたので、暫く縁遠かったが、ストーリー物や歌手物が現れた頃からまたかなりはまってしまった。
 水戸黄門、大江戸捜査網、美空ひばり、天童よしみなどを愉しんだ。
 その中でも圧巻だったのは「冬のソナタ」と「必殺仕事人」だったろうか。
 二つとも一通り最後までやる事が出来たので、儲かってはいないが満足している。
 辞めた原因の大きなものは「刺激を感じなくなった」からである。
 同時にTVのパチンコ番組の予約も取り消してしまったから、もう始まることもあるまい、タバコを辞めた時と同じような気分で無理は無さそうである。
 斜陽産業かもしれないと思ったのは、ホールの状況である。
 従来の4パチ(1個が4円)のコーナーには新しい台が多く並んでいるのに、ガラーンとしていて、1パチ(最近は0.5パチというものにも出会った)などのコーナーには空き台を探さなければならないほど込んでいる。
 これでは勝っても負けても店の維持費などを考えると採算が合わなくなり、大規模チェーン店以外は消えてしまう状況が顕著である。
 そうなると競争相手が居なくなり、自然消滅という事になるのだろう。
 それはまだ良いのだが、その後の広大な敷地が「ゴーストタウン化」するのが哀しい。
 個人的にはまた新しい趣味を探すのが楽しみである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :23 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年7 月30 日

本当に「欲しい」物がない 採用された

 毎週分厚い家電製品のチラシが舞い込んで、それなりに楽しくペーパーショッピングを楽しんでいる。
 ところが「これが欲しい」と言うようなものには中々出会わない。
 確かに「あると便利」と言う商品ばかりが並んでいるのだが、購買欲を呼び起こすまでにはならないのは、何故なのだろうと考えてみた。
 ラジオ番組は結構良く聴くほうだと思っているが、ビデオのような予約録音機能が豊富に無い。
 コンパクトにする必要からだろうが、無骨な指では細かいツマミやスイッチなどが操作し難い。
 3文字の英文字には大分慣れたとは言え、新しい機能を表現するのに相変わらず意味不明の英文字が並んでいるのでは、矢張り手が出なくなってしまう。
 多分、技術的にはそんなに難しい事ではないのだろうから、もっと消費者側に立った物を作って欲しいと願うのは私だけではなかろう。
 購買意欲が沸かない物を如何に安くしてもらっても、見るだけショッピングで終わってしまう。

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投稿者:つねちゃん
at 08 :08 | 趣味 | コメント(0 )

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