2016 年9 月30 日
2016 年9 月29 日
金木犀のいい香り
今年もこの季節が来たか、という例年の香りの一つがこれである。 2階の私の部屋の目の前にあるので、この季節がいつ頃からか楽しくなっている。 正直、若いころは「植物の臭い」というもの自体に全く関心が無く、むしろ「なんだこのトイレの臭いは」と嫌悪感が先に立つようなものだった。 それ以外にも薔薇や菊なども「嫌いな臭い」の一つだった。 勿論、みんなでいる時には、口調を合わせて「良い匂いだねぇ」とやっていたものだが、本音は全く正反対だった。 それがいつ頃からだろうか。 やはりリタイアしてからだったろう。 別に蓄膿症に代表される鼻炎などを患っていた訳ではなく、口でうまく言い表せなかったけれど、むしろ人一倍嗅覚には敏感だったと思う。 そうだなぁ、若い時に植物の臭いで「良いなぁ」と思ったのは、やっぱり「花見の時の桜」、梅干しを連想させる「梅」だったろうか。 いずれにしても「風流人」とはおおよそ縁のない場所にいたものだ。2016 年9 月28 日
デスクの上を俯瞰
孫が夏休みの宿題だったのか自由研究だったのかはよく知らないけれど、デジカメを借りに来て、自分の机の上の「整理前、整理後」の写真を撮ってきて、印刷してくれと言ってきた。 学校での評価がどうだったのかは聞いていないが、近くある「学習発表会」にはどこかに掲示されるという。 爺バカとしては先生の評価が気になる所である。 ところが、翻って、わが机の上を俯瞰してみると、どうにも雑然としているのが気になった。 まさに「負うた子に教えられ」という感覚に陥った。 よくよく見ると「し掛かり」が殆どである。 ということは、殆どが「中途半端」な状態だということだ。 これではいけない。 いろいろと事情はあるにしても「言い訳」にしかならないのである。 順次片付けようと手を付け始めるのだが、引っ越しや大掃除の時と同様に「そういえば」ということで引っかかってしまう。 反省頻りで今日もまた片付け作業が続く。2016 年9 月27 日
理詰めだと「当たり前」なのだが
久し振りに朝からすっきり晴れたから、5:30頃から散歩に出かけた。 我が家は少し高台にあるので、下の方はかなり濃い霧で視界が開けていなかったが、それもまた一つの私が感じる「美」であった。 半面、空を見上げると薄っすらとまだいくつかの星が見られ、月も見られて青空である。 気分は頗る良い。 でも、なんで下が霧なのに、という素朴な疑問がわいてくる。 でも、少し歩いて頭がすっきりして考えると、当たり前の理屈なのであることに気が付いた。 放射冷却で、空中の水分が下に下がり、それが霧になっているのだということに。 理詰めで考えると「当たり前」のことだけれど、ホンのひと時でも「良い」と感じられる自分が好きだ。2016 年9 月26 日
美を作る
家をリフォームした時に、未だ片付け切れていなかった両親の物が出てきた。 その中に生け花の「免状」が巻物としてあった。 流派は「古流」である。 元気な時に花器に向かって活けていた姿を思い出す。 その時に流派の名前を教わったが、全くどんなものか理解もしていなかった。 研修所時代に「茶道クラブ」に入った時、華道についても一般知識として教わったが、大多数の「草月流」が中心であった。 中学生の時の絵の先生が「花はそこに咲いている姿が一番綺麗」と言われたことを思い出す。 一般に言われる「雑草」も見方によってはすごく綺麗に見えるのは、リタイア後の散歩で身にしみてわかっているつもりだ。 でも、「愛でる」ことはできても「作る」ことはできないわが身を残念と言うよりも「こんな人がいても良いのではないか」と思うようにしている。2016 年9 月23 日
読書感想文
就寝前用として使っていた「江戸小咄商売往来」(興津要著 旺文社文庫発行)を読み終えた。 著者の落語などに関する本は以前にも数冊読んであるので、読み始めから最後まで楽しく読めた。 尤も「なるほど」と思うことばかりで、とても覚えるまでにはならない。 74種類の商いが紹介してあり、すべて覚えると、落語の聴き方や楽しみ方も広がるのだろうなぁ、と思いつつも、記憶力の弱さが残念である。 商いの名前を聞けば分かる(宝船売り、羅宇屋など)まではいかなくても「類推」はできるもの(地紙売り、紙帳売りなど)も多いが、さっぱり見当もつかないもの(定斎屋、とっかえべえなど)ものもあり、読んでいて楽しいこと請け合いである。 ISBN番号が振ってあるから、寄付することになるが、見掛けられたら一読をお勧めする。2016 年9 月21 日
やり過ぎに注意
こどものころの私は「引っ込み思案、対面恐怖症に赤面症」と、兎角人前に出るのが苦手だった。 高校生の中頃からだろうか、それが全く反転してしまった。 血液型で言うなら「A型の典型的な変化」ということのようだ。 少し長じて、それまで大嫌いだったお酒の味と酔い加減を感じることから「お調子者」と言われるようになった。 在職中は、トータルとしてはそれが良い意味で活躍の場を作ったりしていたと思う。 結果として、他人からの引き立てもあり、上位職にまでなった。 それまでは良いのだが、リタイアして、極力それを抑えようとしていたのだが、メッキが剥がれるようになってしまっている。 いわゆる「やり過ぎ」なのである。 お酒の場では、最近そんなでもない(と思っている)のだが、その反動として「自分のやること」についてそれが現れているような気がしてならない。 多分殆どの場合、他人様に迷惑はかけていないと思うのだが。 一つの分かり易い例は「散歩は30分以内で切り上げよう」ということだ。 これからもそうなるが、あちらこちらに綺麗な花(一般には雑草と言われる様なものを含めて)が咲いているのである。 そこで「まだ大丈夫」という気持ちになって花に誘われて、気が付いたら60分以上も過ぎていて、帰ってのリカバリーにとんだ苦労をすることが多いのだ。 嗚呼、やっぱりお調子者だなぁ。2016 年9 月20 日
鰈の縁側
肉か魚かどちらにする、と聞かれれば、よほどゲテモノの魚以外は即座に「魚」と答えられるほど魚が好きだ。 いろんな魚の中、または調理方法の中でも、一番好きなのは「鰈の塩焼き」である。 そして、その中でも最も好きなのが「縁側」である。 尤も、だからと言ってうんちくを語るほどの知識も持ち合わせていないのだけれど、なぜか好きなのである。 そんな物って誰にも一つくらいはあるだろう。 最近も美味しく食べたのだが、ふと気が付いた。 「果たしていつまでこの小骨を残さず食べられるだろうか」ということにである。 消化できなくてではないけれど、歯医者にも通っている。 こちらは「加齢のせい」だと言われているが、洒落にもならない。 対策としては「今までよりよく噛む」ということなのだが、スーダラ節のごとくである。 「わかっちゃいるけど、止められない」反省。2016 年9 月16 日
トイレは綺麗が気持ち良い
私の掃除当番は毎週月曜日である。 持ち場は決まっていて、その中にトイレがある。 トイレメーカーからのアドバイスで、中性洗剤を使って、手水部分から便器の内外を洗い、洗剤部分を拭き取り、流せる除菌シートで拭き上げて終わるのだが、特に便器の内側を丁寧に洗う。 時には便がこびりついたこともあるが、使い古した歯ブラシを使って完全にこそげ落として、そのうえで全体を拭きあげる。 そうすると、そんなに経っていないときに、見事に綺麗な便器を自分でも使うことができて、頗る気持ちが良い。 会社を辞めてしばらくしてから誘われて「トイレを掃除する会」と言うのに2年くらい参加していたが、孫の保育園送迎などの関係で辞めてしまったけれど、その時の考え方が身についているのだろうか。 悪くはない気分である。2016 年9 月15 日
熟年離婚
自分とはおよそ関係が無いと思っていたが、会社の研修所時代の同僚が「熟年離婚」したと聞いた。 近くに住んでいる訳ではないので、細かい事情は皆目解らないから、とやかくは言えない。 そんなことから、意外に身近、場合によっては自分の身にも降りかかってくるのではないかと、少し身近に心配になってくる。 演歌の歌詞ではないが「好き合って一緒になった仲じゃないか」という事態だったけれども、時が経つうちにはだんだん相手の嫌な面も見えてくるのだろう。 よく言われるように、年が経てば目を半分閉じて見る、ということが必要になってくるのではないだろうか。 相手の悪い所が見えるということは、逆に相手も自分の嫌な面が見えてきているということだろう。 完全無欠の人間なんていないのだから、「お互いさま」である。 そう思えば、これまで一緒にいたのだから、これからも、と思える。2016 年9 月14 日
「ちょうどよい」
高校時代の恩師の随想集を朝の音読に加えた。その中で、表題の「詩」だろうかに遭遇した。 全文を引用させていただく。 ちょうどよい 松川五郎松 お前はお前でちょうどよい。 顔も体も名前も姓も お前にそれはちょうどよい。 貧も富も親も子も 息子の嫁もその孫もそれはお前にちょうどよい。 幸も不幸も喜びも悲しみさえもちょうどよい。 歩いたお前の人生は悪くもなければ良くもない。 お前にとってちょうどよい。 地獄へ行こうと極楽へ行こうと 行ったところがちょうどよい。 うぬぼれる要もなく卑下する要もなく 上もなければ下もない。 死ぬ月日さえもちょうどよい。 仏さまと二人連れの人生 ちょうどよくはないはずがない。南無阿弥陀仏 恩師はお坊さんとの兼業教師で、英語の先生であり、当時のPOPSにも精通されており、片ぐるしい講義ばかりでなく、適度にウィットを含んだ含蓄のある講義で大好きだった。 本を買ったのはもう大分前だったが「積んどく」でそのままになっていた。 卒業後50年近くたって「何か音読の本が無いか」と探して出てきたのも、この詩に出会わせるためだったのかもしれない。 改めて恩を感じる世代になったことに感謝する。2016 年9 月13 日
読書感想文
毎朝の音読の一つに「醒酔笑」(安楽庵策伝 宮尾與男 訳注 講談社学術文庫 刊)という本を使ってきて、先日読み終えた。 もともと落語が好きで、いくつかの落語の元々のネタがこの本を参考にしていると聞いていた。 ところが、どうしても分厚いので、なかなか手が出なかったのである。 でも約1年ほど前に、たまたま時間的にも気分的にも余裕が出た時に「読んでみようか」と言うことになった(した)のである。 最初のうちは頑張り心が勝っていたので、古文的な表現もなんとなく読みこなしてきたのだが、最後頃にはかなりへばってしまった、というのが本音である。 でも、言わんとしていることが楽しいので、300話余りを読み切った。 策伝という人物はこの本でしか知らないけれど、可笑し味を覚える傾向が、いくつかに偏っていることであったろうか。 特にそれが嫌味にならないので、これなら落語好きな人にも受けるのだろうと感じた。 でも、やっぱり「古文嫌い」の私の性格は治らず、これからはもう少し砕けたものにしたい。2016 年9 月12 日
紫はやはり「高貴」
毎朝の恒例行動の一つに「線香炊き」がある。 「焚き」と言うほど濛々と焚くわけでは決してないが、さりとて「ほんのりと匂う」と言うほど上品なものではない。 100均で4色の線香を買ってきて、ランダムに焚いている。 暑いこの季節もやはりふんわりとした匂いが近くにあるのは、気分を休めてくれる。 今までは「今月はこの色」と決めていたのだが、もう1年ほど前から「ランダムに取り出して」という風に変えている。 色と臭いは「緑」は「抹茶」、「ピンク」は「桜」、「茶色」は「白檀」そして「紫」は「ラベンダー」と言うことになっている。 取り出すコップには、始める時には各色80本入れて、手探りで取り出しているので、選んでいる訳ではないのだが、少なくなってくると、一応ランダムなのだが、どうしても視線が行ってしまう。 そんな時はどうしても意識してしまい、「紫は高貴な色」と聖徳太子時代ではないけれど後に取っておくことになってしまっている自分に気が付き、楽しくなってくる。 そんなことも楽しみの一つである。2016 年9 月9 日
最後まで使い切る
練り歯磨きを最後まで使い切った。 そんなことは当たり前ではないか、と言われそうだが、諸姉・諸兄はどのようにして「最後まで」使われているだろうか。 私の場合はこうだ。 チューブ式だから、普通に絞って出なくなったら、逆さに振り回して出す。 それで出なくなったら、次には半分くらいの所で横に切る。 底の部分にこびりついたもので数回は使えるほどの量である。 そして最後は、口の部分を歯ブラシで順次掻き取ると、10回分くらいは十分に使えるくらいの量になる。 そしてそして、最後の最後は、口金(最近金ではないが)の部分に1回分くらいが残っている。 これを底の方(切り口)に口を当てて「吹き出す」のである。 これでも、正直なところ取り去れない量はあると思われるが、残念ながら私の場合はここまでである。 その後は綺麗に水洗いして「プラスチックごみ」に出す。 年金暮らしでケチケチ精神は勿論だけれど、こんな風な処で頭を使っても脳活の一つになるのではないか。2016 年9 月8 日
読書感想文
朝の音読の中で「運のいい人 悪い人 運が運を呼ぶ発想原理とは何か」(中山 正和著 PHP出版)を読み終えた。 読み終えてから、裏表紙にある「著者概略」を読んで驚いた。 父が買った本なので、生年が大正2年は、さほど驚かないが、旧制四高卒とある。 山梨県生まれだから、同郷という訳ではないが、隣県の金沢大学である。 そして、電電公社通信研究所を経ておられる。 そういう意味では、私の大先輩と言うことである。 その後「日本楽器製造」と言う会社に勤務されているから、ずいぶん昔に習った「音響工学」の雄だったのではないだろうか。 話を本来の「感想文」に戻す。 私は70年近く生きてきていて、色々紆余曲折はあったけれど、どちらかと言うと「運がいい人」に分類されるのではないだろうか。 「それなりにその時その時に頑張ってきた」という自負はあるものの、やはり「運」だったのだろう。 これからこの類の本を読まれる方に、変な先入観を与えるのは良くないと思うから、触りだけにしておくが、本をめくってすぐ目に付くところに買いとあることを紹介しておく。 「運」を良くする5つの方法。 ? 莫妄想---考えても仕方がないことは考えるな ? 現場主義 --- 五感で経験が直観力を高める ? 無念無想 --- 考えるタネがなくなるまで考えた後にインスピレーションが起きる ? 直観を自覚する --- 「色即是空」を体験すると「運」をコントロールできる ? いま此処に生きる --- 宇宙との一体感を持つ。 さて、貴方にはできるでしょうか。 勿論私ができたという訳ではない。2016 年9 月7 日
読書感想文
毎朝の書き写しで使っていた「使っていながら知らない日本語 語源 part2 面白すぎる雑学知識」(日本語倶楽部編 青春出版社 刊)を使い切った。 偶々もう一つの書き写しネタ本が「仏教の言葉」と言うものだったので、時々対比して読むことができて「ためになった」と言うよりも「面白かった」と言う方が勝っていた。 この本自体は父が遺したもので、これに限らずいろんな分野(日本史、天皇、園芸、鉄道(国鉄職員だったからかも)、健康法等々)で「雑学」と題された本が大分処分(寄贈)したが、それでも私がまだ読みたいと思ったものがかなりある。 本題に入るが、如何に「知らないで使っている日本語が多いか」だった。 冒頭が「あなた任せのあなたとは誰のこと」と言うものである。 これは前述の「仏教の言葉」にも出てくるのだが、阿弥陀様である。 いわゆる「他力本願」なのである。 諸姉・諸兄は御存じだったろうが、私には初めてだった。 こんな風に数えはしなかったけれど、数多くが載っている。 Part1というものは残念ながら残っていないが、見かけたら購入してでも読んでみたいものである。2016 年9 月6 日
改めて自分に言い聞かせる「継続は力なり」
毎朝励行している運動がある。 ポピュラーなものとしては、腹筋15回、スクワット30回などだが、色々な本で読んで「気軽にできるもので効果がありそうなもの」を選んでやっているものに「目玉運動」(縦、横、斜め)があるし「お腹凹ませ」30秒と言うものもある。 目に見えて効果があるものではないが、自分としては僅かな効果があると信じてやっている。 「信じるものは救われる」「鰯の頭も信心から」という所か。 でも、これを続けてもう5−6年は経っている。 進行と言う意味で考えれば、毎日0.0001(Kgかcm)だとしてもそれはそれで良いのである。 ここで辞めてしまっては今までの経過に対して失礼でもあろう。 「愚公山を移す」と言うこともある。 やっぱり「継続は力なり」であろう。2016 年9 月5 日
貸すと借る
音読していて気が付いたことだが、「借る」と言う言葉と漢字が出てきたので、「貸る」とどんな違いがあるのだろうと思って調べてみた。 最近ではもっぱら電子辞書のお世話になっているのだが、やはり朝まだ完全に覚め切っていない身体と頭では分厚い紙の辞書を引く気にならない。 ところが「かる」には「借る」しか出ておらず、「かす」には「貸す」しか出ていない。 意味はほとんど同じで「渡す側」と「受ける側」の違いのようである。 「借る」は通常「借りる」と使うようである。 知っている人には「何を今更」と思われ鼻先で笑われるのだろうが、私にとっては、納得できる内容だった。 たぶん実際の文章で間違って使ったような記憶はないが、改めて「今後は間違えないぞ」と思うばかりである。 「なんだあいつは、色々と文章を書いているくせに、こんな単純な間違いをして。そろそろボケが始まったか」と言われないように。2016 年9 月4 日
本を寄付する (7/5に投稿)
断捨離はなかなかうまくいかないけれど、そんな中でも徐々にやっているのは「読み終わった本」を寄付することである。 一応「かつてこんな本を読んだ」と言うことの想い出のためにパソコンで記録してから寄付している。 比較的新しい本はISBN番号を入れれば、本のタイトルや著者、発行者はもとよりその概要なりをネットから取り出せるので、簡単に整理できる。 ところがその番号が無いものなどはそれに即した情報を入れなければならない。 そんなことをしているうちに「これはもう一度読み直してみよう」と言う本が出てくる。 そんな作業をしているのも「読書」の楽しみの一つである。 今日で「長い夏休み」は終わりました。 採用された投書と、されなかったものと比較されることはあまりないでしょうが、私なりに謙虚に、というか、採用判断する側に立ってみれば、何かわかる様な気がします。 でも、それはそれ、気が付いた時に、気が付いたことを、気の向くままに文章にして投書する、という気持ちは持ち続けたいと思っています。 たとえそれが、少しは他人様に「目障り」になろうともです。 在職中は、それは基本的に「許されないこと」でしたが、ハッピーリタイアメントも10余年経過したら、「物言わざるは腹膨るるが如し」で、精神的にも肉体的にも不健康でしょうから。 明日から、取り立てて珍しい話題ではありませんが、今まで通りお付き合いいただければ幸いです。 かつての同僚で、一時期部下だった同級生が無くなりました。 読者の皆様も健康にはより一層お気をつけて頂き、ともに健康寿命を永らえたいものです。2016 年9 月3 日
歩きスマホの事故(7/4に投稿)
スマホ初心者だから、今までは「スマホ乍ら事故」と言うのは、全く理解できなかった。 ガラケーでもメールを受信することはあっても、それに返信するときは、必ずどこかに座ってからでないと文字の打ち込みも上手く行かなかったし、その前に文章作りも難しかった。 ましてや、性能が良いものではなかったので、携帯でインターネットを見ることなどほとんどできなかったしやる気も起こらなかった。 スマホを手にしてみると、なるほどと理解できるとともに、果たしてこれで良いのだろうかと思っている。 新聞投書もブログも下手は下手なりに考えながらやっているので、とても「ながら」で書いたりすることはできない。2016 年9 月2 日
暦に感謝してめくる (7/2に投稿)
今年も半年が過ぎて、月捲りのカレンダーの枚数も半分になった。 私の身近にはいくつかのカレンダーがある。 デスクには「日めくり」があり、2カ月に1枚の物と各月の物がある。 めくる時に必ず「感謝と祈る」ことに決めている。 ささやかなことだけれど「一月大層なこともなく過ごさせていただいたこと、新しい月も大過なく過ごせますように」とである。 何気なく過ごしているけれど、細かく言えば「一瞬一瞬」の積み重ねだろう。 その一つの区切りとしてのカレンダーである。 今月も無事に1枚めくることができたことに、素直に感謝をささげたい。2016 年9 月1 日