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2010 年5 月28 日

漫然と生きるのも良いじゃないか

 例年この頃の恒例としている、「結婚記念日旅行」のため、31日と1日のブログはお休みさせていただきます。
 今年は「南九州」です。

 世間の目も大分我々「団塊の世代」に狙いをつけてきたのか、新聞広告などに健康食品や、各種の講座のものが増えてきたように思う。
 その殆どの謳い文句が「生涯現役、まだまだ元気で、学習することで脳が活性化、これからが本当に趣味を生かす年代」など等と、まぁ、感心するほどのキャッチコピーが並ぶ。
 そんな中に「精力(性力)アップ」と言うものがあり、思わず笑ってしまった。
 血圧を心配せずに、バイアグラなどを使って、マカと言う摩訶不思議な健康食品で一戦に及んで、十分満足して昇天なら本望かもしれないが、後遺症が残ったのでは現役の名が泣くのではないか。
 とは言うものの、言われていることは間違いがなく、「出来るならば私も」と言う気持ちを起こさせるものであるが、リタイア生活も7年を超えてくると、特別達観したわけではないが、このブログの趣旨である「ノホホン」「仄々」「徒然」でも良いじゃないかと「本当に」思うようになっている自分に苦笑いが浮かぶ。
 ボランティアなどで表彰を受けることなどで「名を揚げる」と言うことを目標にしている人もいる。
 それも良い事だと思うし、決して否定するものではない。
 でも、表題のように「漫然と生きている」と言うのも特別悪いことでもないのではないか。
 雨にも負けず、の最後の節を思い出しながら日々を過ごしたい。
 「〜 みんなにでくのぼーと呼ばれ/褒められもせず/苦にもされず/そういうものに/わたしは/なりたい」
 諸姉・諸兄はいかがだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :39 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月27 日

モンジュの運転再開に思う

 今ではもう時候と許してもらえるだろうが、在職中は担当者として、責任者として数々のトラブルを経験した。
 応急措置と関係者への説明/お詫び、(真の)原因追求のための各種調査と分析、再発防止策の検討と実現策の立案、上司や関係者等(場合によっては報道対応も)への説明と了承の取り付け、そして最も重要なことが「事後の細大漏らさずの報告」だった、と記憶する。
 もちろん自分ひとりで出来るわけではなく、チーム以外からそれなりの有識者にも加わってもらって「冷静な目」でのアドバイスも貰った。
 今回のモンジュの運転再開とは、その影響度合いからしても、較べるべき物ではないことは十分に承知しているが、上記のように私なりの経験からすると、最後の「事後細大漏らさずの報告」が最も重要だと思っている。
 対策を発表した時には「これで絶対に大丈夫だ(と思う)」としているはずだし、そうでなければ誰も許してくれないのだが、それで「事終われり」として失敗した例は数限りなく見ており、その場合に良く出るのが「嘘八百」の論理である。
 隠そうとするから、そのための嘘をつく、ところが嘘と言うものは、「上手の手から水が漏れる」の通り、必ず発覚する。
 そうするとそのための嘘をつくことになり、それが繰り返されて、結局誰にも信じてもらえなくなって破綻する例も数多く見てきた。
 起きたことについては「事実」なのだから、まずはそれを認めることから始まる。
 そのうえでPDCAの議論を何度も巡らして「事後次善の対策」を立てて継続して見つめ続けることであると思っている。
 モンジュに重大な事故があれば、少し離れているとは言え、こちらの影響も無視できないくらいになる。
 ぜひとも注意深く見つめて、細大漏らさず発表して対策を採ってもらいたいものである。
 人間のやることだから、どこかに必ず「抜け」があるのだ。
 それは誰かの過失ではなく、神のみぞ知るアドバイスと受け止めて。

投稿者:つねちゃん
at 06 :48 | お役所 | コメント(0 )

2010 年5 月26 日

林檎の花が咲いた

 猫の額とは言わないが、元宅地だったところを苦労も楽しみとばかり耕して、素人野菜栽培をしているが、三方を囲まれているような土地なので、台風の被害と言うものは殆どない。
 それで人に勧められて、一昨年二種類の林檎の木を植えた。
 その一つに今年漸く3つだけだが花が咲いた。
 実際にこんなに間近で見たことは初めてだったので、矢張り素直に嬉しい。
 もちろん「食べる」為にはその一つだけを残してあとは摘み取るのが筋だろうが、今年は初めてということもあり、そのままにしておいて、小さな実がもしも出来たら風呂にでも浮かべて林檎風呂でも愉しもうと思っている。
 でも、これで来年はもう一つの木にも花が期待でき、来年から本格的になるのではないかと期待にワクワクである。
 もっとも、浮かれてばかりはいられないようで、本格的にやるときには殺虫剤と消毒剤を定期的に散布しなければならないとも聞いているので、本音は少しがっかりなのである。
 「そんなことなら最初に言ってくれよー」と言うのが現時点での悩みだろうか。
 でも、幾つか花が咲き、幾つかの実が取れるようになれば、薬剤散布も楽しみになってくるのだろうと思うと、それで帳消しになるのだろう。
 今年は昨年20個ばかり取れた栗が相当期待できそうなので、順番に楽しみが増えるのが期待である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :49 | 園芸 | コメント(0 )

2010 年5 月25 日

調べて知ることは愉しい

 最近少し「凝り性」的になっていることに、「調べる」と言うことがある。
 もちろん何度も書いたが、生来の「時間貧乏性」なので、そんなに時間的なゆとりがある事はないのだが、そこが「凝り」と言うものの魔力だろうか。
 いろんなものの「書き写し」を継続してやっていると、より一層拍車が掛かってきているようである。
 「判ったつもり」でいたことが「待てよ」と言う気持ちで辞書を引いてみると、矢張り思っていたことと違っていたり、それ以外の意味があったり、またはその起源等が書かれていると、その項目も調べることになる。
 まるで子供の「なぜなぜ問答」を辞書を相手にしているようなもので、「もう止めようよ」と思いながらも惹きつけられてしまっている自分を第三者的に微笑んで見ている自分がいるような気がして、それはそれで愉しい気分になるので、止められない一因であるようだ。
 今でも持っている(と言うことはあまり使っていないと言うことの証明になるので、お恥ずかしい次第だが)が、高校生の時に買った「英英辞典」もその時に英語について興味を持ったことが発端だったろうか。
 調べて、その時は「知った」ことになるのだが、翌日になると「そんなことがあったっけ」と言う具合に忘れてしまっているのが常であるところが凡人の凡人たる所以であろうか。
 でも、面白いもので、ひょんなときに記憶がむしろ鮮明に蘇って、自分でも驚くことがあるから「病み付き」になってしまうのだろう。
 そんなに高価なものでなくても良いが、ぜひ辞書を一冊「座右の銘」に加えてはいかが
だろうか。
 そして、ポカンとした時間があったら、闇雲にページを開いてある言葉から辿ってみる
のも愉しいと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :53 | 学習 | コメント(0 )

2010 年5 月24 日

繕いもの

 足マッサージ器の足を包む部分の接着部分を家内の指導で繕った。
 以前にも繕ったのだが、その時は左足の内側部分で、今回は右足の外側部分であり、その繕い方が家内は「基本的には同じ」と言うが、私にとってはいずれも初めての経験であり、とても「同じ」とは思えない方法だった。
 それにしても、この器械は足の怪我が治ってしばらくして医師から勧められて購入したものだが、自発的に購入したものではなかったので、少し楽になると使わなくなってしまっていたものである。
 だから、購入後もう10年近くなるので、減価償却的には十分償却されているのだろうが、実際に使っているのはここ2年くらいだろうか。
 でも、殆ど毎日使っているので、そういう意味でも「十分に元は取った」と言う気分である。
 だから、新調しても良いようなものだが、改めて買うと矢張りリタイアした身にとっては高価なもので、費用対効果を考えると二の足が出ない。
 で、例によって「出来る範囲内で」繕って使うことになるのだが、前述の通り自分で繕ったものを使うと、何かしら愛着が湧いてくる。
 何でもそうだろうが、いまだにHAMを始めて最初に買った受信機(9R59)は受信感度こそ悪くなったものの、「完動品」であり、捨てるに捨てられない。
 思えばこれも、電源部の真空管を半導体に取り替えて繕い、高周波部分の真空管も、まだ当時は出張族だったので、東京へ行った時に秋葉原で買い求めたものである。
 元々手先が器用な方ではないのだが、それでも「繕う」事は「原理を知る」と言う楽しさがあり、その殆どは「繕うつもり」で「動かなくなった」のだが、それでも今はねじを巻いていないので動かないが、柱時計はねじさえ巻けばしっかり動作して、正時を告げる鐘が「ボーン、ボーン」としっかり鳴るのである。
 これは私が繕った少ない完動品である。

 最近の政治は何だか「取り繕っている」と言う風に思えてしまうのだが、しっかりと「繕って」一歩ずつでも良い方向に持って行って欲しいものである。
 もっとも、その政治家を選んでいる我々にも一端の責任は当然あるのだが。

投稿者:つねちゃん
at 07 :57 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月21 日

選挙は「団体戦」より「個人戦」で

 このタイトルを思いついた日の、新聞の記事に「団体票が動く」とあったが、もう
そろそろそんな時代ではないのではないか。
 団体戦でやると、その団体に所属している「個人」と言う立場が、殆どの場合「無視」
されてしまい、結局「誰が言ったか判らない」様な意見統一が図られ、結果として「同
床異夢」の感が否めなくなってくる。
 それでも「一般会員」であれば、「俺一人の造反くらい」と言うことで、反対票を投
じたり、他候補へ鞍替えすることは知られないうちに逃れられるだろうが、その会の役
員ともなれば、そんな訳にもいかなくなって、結局個人的な意見は抑えられてしまうの
ではないか。
 言い逃れになってしまうが、私もリタイア後、幾つかの会の「執行部側」になったこ
とがあるが、全て1期のみで退任させてもらっている。
 退任を辞退させる(継続して欲しいという意味で)論理としては「余人をもって代え
がたし」と言うのが通説で、場合によっては「今度この表彰対象にするから」と言う露
骨なものまであったのには、開いた口がふさがらなかった。
 話を本題に戻して、選挙と言うものは矢張り「個人」の意思で候補者を選び、投票す
るのが本来なのではないか、いや、混沌とした今だからこそ、主権在民(個人)として
、個々に選ぶべきではないかと強く思う。
 その結果としてタレントを選ぶ人も居ようし、二世三世の議員を選ぶ人もいよう。
 一時期はやった「勝手連」と言うような活動を個人でする人も出てこよう。
 それでこそ、選ばれた人は「選良」と言う意識で、自分の公約を果たすのに精一杯に
なるのではないだろうか。
 それは、選んでくれた人への「便宜供与」と言うのではなく、流行の龍馬の如く
「国を憂いて」活躍してくれることに繋がらないだろうか。
 「龍馬伝」はあくまでも「小説」なので至る所でデフォルメされているようで、観て
いないが、その精神を汲んで投票に当たって欲しいものである。
 もちろん、候補者もそのつもりで「一所懸命」になってやって欲しい。
 あれも金、これも金、などと言うどっちつかずの考え方では、当選したとしても結局
「員数の駒」としてしか扱われず、浦島太郎の歌ではないが「戻ってみればこわ如何に
(怖い蟹)」と言うことになるのは、火を見るより明らかだと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :25 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年5 月20 日

「工場見学」という番組が面白い

 TV番組は殆どビデオ録画してみることにしており、毎週金曜日に新聞折込されている番組表とケーブルテレビの番組表で、次週の番組予約をするのに愉しい時間を過ごしている。 今度の連休中には、孫も実家に帰っており、いつもよりもゆっくりと番組表と愉しんだ。 そんな中で、表題の番組が子供向け番組なのだが、内容が非常に興味を引くものである事を発見した。
 以来「病み付き」状態で視聴している。
 日本の番組でも時々同様なものがクイズとして出されているのだが、こちらは「定期的」なので、より一層楽しくなってくる。
 原材料から、想像も付かないような製品が作られることに新鮮な驚きと興味が沸いてくる。
 また、その過程において「良くこんな機械を作るものだ」と感心したりするのも愉しい。
 番組作成スタッフのご苦労もあるのだろうが、最近のエコブームにも遅れない様に、原材料も無駄なく再利用されていることも驚くばかりである。
 また、2ヶ国語放送をしているのだが、時々だけど英語で聞いてみると結構平易な言葉で言っているので、それもまた愉しい。
 今年小学校に入ったばかりの孫に見せるのにはまだ早いのかもしれないが、英語教育が推進されそうな、今からならば最初から英語の視聴で見せるのも面白いかもしれない。
 爺の夢で、結果として「英語嫌い」になるかもしれないから、慎重に事を運ばなければならないのだが、番組視聴だけでなく、そんなことも愉しい気持ちにさせてくれるのが嬉しい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :08 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年5 月19 日

「ナンマンダブツ」と「南無阿弥陀仏」

 お寺さんとの付き合いは、父の葬儀以降「仕方なし」に行ってきたのだが、それまでは「父母の役目」と言うことで、月忌参りには殆ど顔を出したことがない。
 次男の月忌参りも、家内にまかせっきりで殆どご無沙汰だった。
 リタイア後は、父と次男の月忌参りには殆ど欠かさずに仏壇に手を合わせている。
 また、般若心経の写しから初めて、御文の書き写しをしている所為か、まだまだ「門前の小僧」には程遠いくらいでしかないが、「お経」と言うものにも少しずつ興味が沸いてきている自分に気が付いた。
 今までは何気なく、お寺さんが唱える通り「ナンマンダブツ」と唱えてきていたのが、御文の内容までは中々理解できないまでも、各々に意味があると説かれていることを書き写しているうちに、正確に「南無阿弥陀仏」と唱えている自分に気が付いた。
 理解不足のままで意味を解説するのはおこがましいし、誤解も多々あるだろうから解説などはしないが、その当時に「より判り易く」と言う趣旨で書かれた物らしく、現代語でも理解できるところがあり、この「六字」の意味が何度か解説されているのを書き写していると、従来の「ナンマンダブツ」が無意味のような気がしてきているこの頃である。
 朝晩のお参りは欠かさないのだが、時折孫が膝に乗ってきて、一緒にお参りするのだが、孫も今までの読経の唱え方と違うことに気が付いたようで、しきりに「何で」と尋ねるが、残念ながら「こう代えたの」としか説明が出来ない。
 もちろんこれでご利益が変わろうはずもないのだが、朧気ながらでも「意味を判って」唱えるのと、判らないままに口伝で唱えるのとでは、唱えている自分に対する納得が違ってくるような気がする。
 そんなことを思いながら、お寺さんの読経を聞いていると、どうも両方をうまく使い分けられているようであるが、使い分けの基準と言うものを機会があったら聞いてみようと思っているが、一笑に付されてしまうような気がして、中々実行できていない。

投稿者:つねちゃん
at 06 :43 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年5 月18 日

63歳かぁ

 連休のど真ん中の5月2日に無事に63回目の誕生日を迎えました。
 孫たちは実家に帰っており、母と家内と3人だけでお祝いをしましたが、孫たちからのプレゼントは一杯あったので、十分に幸せでした。
 よく言われるように、まだ若かった頃には「63歳」と言うと完全に「老僕」としか意識していなかったのですが、実際に自分がその歳になってみると「まだまだ」と言う気持ちだけは無くなっていないようです。
 さりとて、このブログでも何度か書いた様な気がしますが「生涯現役」と言うほどの意識や競争心はなく「漫然とでも『生きている』」と言う気持ちで十分なのです。
 先日のブログでも書いたように「生きているって素晴らしい」ことなのです。
 メタボリック症候群のど真ん中で、薬漬けとまでは言わないけれど、きちんと定期的に診断も受け薬を服用して、表面的には「大丈夫」と言う状態を維持して、ミニ博打の競馬やパチンコに一喜一憂して、花の種を蒔いてたくさん育てば「ご自由にどうぞ」ともらって行って貰ったり、形は不恰好でも「新鮮さだけが撮り得」と言う野菜栽培も愉しみ、時節には近くの山で蕨や筍なども収穫して、等々と小さな幸せを味わいながら過ごしていることに、誰からも後ろ指を指されることはないでしょう。
 好きな言葉に「四十、五十は洟垂れ小僧、六十七十は花盛り」と言うのがうろ覚えですが記憶にあります。
 他人様に余り迷惑を掛けない程度に、花盛りとまでは派手にならないように、それでいて自分なりには「小さな幸せを針小棒大に勘違いして」気分だけは愉しく過ごして行きたいと思っています。
 病気や「症候群」であっても、生きている事が、現役そのもの、生きていれば酒も飲めるし、愉しいこともあるだろう。
 まだまだ「折り返し点」を僅かに過ぎたばかりである、120歳までにはまだ相当あるぞ。
 うろ覚えでは悪いので、上記の言葉をネットで調べてみました。
 「八十でお迎えが来たなら、百まで待てと追い返せ」だとの事。
 私なら、百二十まで、と言いたいのだが。  呵呵大笑。

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月17 日

病気治療と健康維持

 世の中には色々な健康法が蔓延しており、私自身も大袈裟ではないものを幾つか「愉しみながら」試している。
 「愉しみながら」だから、殆どのものは長くは継続していないのだが、それでも毎朝のアルカリ水を飲むことや、唐辛子を中心に大蒜、和布などを粉末にした特製ふりかけなどはそろそろ「健康」と言う意味から遠のいて「美味」として味わっている。
 そんな中、最近「本当か」と言うような宣伝が新聞などに載っているのに驚いた。
 いい加減な週刊誌(買うことはなく、外食のラーメン屋などにおいてある代物)の宣伝ではなく、全国紙にも載っているのに驚いたが、果たしてその宣伝を載せる規準と言うものはあるのだろうかと疑いたくなってくる。
 曰く、「癌の発症が抑えられる」とか、「高血圧が驚異的に低下し、改善した」など等枚挙に暇がないくらいである。
 で、私もメタボリックのど真ん中なので、診察に行ったときに先生に雑談として聞いてみたが、一笑に付されてしまった。
 基本的には、病気の治療はお医者様に頼るけれど、健康は自分で管理するもので、生病法は大怪我の元であろう。
 突然の病気などには難しいだろうが、高血圧や糖尿と言うのは、まさに長い間付き合ってきた「生活習慣」によるものだと思うと、薬は飲みながらも、石原裕次郎の「わが人生に悔いなし」の文句が口をついて出てくる。
 長い間付き合ってきた結果なのだから、直すにしてもそれ相当の期間を掛けて改善してゆくつもりであり、急激に直そうとすれば、逆に急激に悪化することも考えられ、ハイリスクハイリターンであろう。
 わが身で愉しみながら、実験的な食物を愉しむのは許されるとしても、生病法的なハイリスクハイリターンには組したくないものである。
 そうそう、ギネスからはトップの座を明け渡したものの、我が家栽培のハバネロはまだまだ重宝して私の味覚を愉しませてくれている。
 健康的なのか、それとも。。。

投稿者:つねちゃん
at 10 :05 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月14 日

どこかで誰かが抽選している

 在職中は、出張族だったこともあり、行くところでその地区特有の宝くじを目にすると、必ずと言って良いほど買っていた。
 リタイア後は、頻度は少なくなったが、それでもジャンボと名の付く宝くじは買っている。
 先日から発売になったものも、いつも買う場所(高額当選金が出たことはないので、その分列に並ぶ必要もなくユッタリと買えるので安心の場所と、これこそ地元振興の一助になっていると信じている)で買った。
 ロト6なる数字を当てるものは一度だけ買った事があるが、それで終わっている。
 今までの当選金の最高額は、リタイア後2年してからの5万円だったが、それまでは就職した年の1万円だった。
 5万円は孫や家内へのプレゼントと外食を中心に消えたが、就職当時の1万円は、職場の連中との「飲み会」に消えてしまったのだが、当時の給料が2万円弱だった時だから、感覚的には1万円のほうが相当大きな価値があったと思う。
 それはとにかく、宝くじだって「博打」には違いがないのだから、胴元は必ず儲かり、買っている我々は必ず損をすると言う仕組みになってることは変わらない。
 最近「仕分け」と言うことで宝くじ協会にも天下りで美味しい汁を吸っている輩については確かに腹立ちを覚える。
 本題に話を戻して、基本的にロト何とかと言うように「自分で番号を選ぶ」と言う方式のものには殆ど興味がない。
 「どこか知らないところで知らない人が番号を選んでいて、たまたまその番号の券を自分が持っていた」と言うような偶然性が私の宝くじの楽しみである。
 それでこそ「夢」なのであると信じている。
 夢は儚く、虚ろなものである。
 だからこそ、もし万万が一「3億円」などと言う当選金が舞い込んだら、1億円だけは自分で使う(使える)としても2億円は個人消費には使わないであろうと思っている。
 夢は「石動城」を建てることなのだが、いつまでもの夢であっても、思うだけで愉しくなってくるので、それで十分に満足である。
 ちなみに、宝くじの「期待値」と言うのは数学的には「全く期待できない値」だと言うことは、理屈として知っている。
 どこかの誰かさん、石動城の建設に力を貸してくれませんか。 (^。^)

投稿者:つねちゃん
at 08 :42 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年5 月13 日

お酒が飲めるって愉しい

 先日「生きているっだけで愉しい」と言う趣旨を書かせていただいたが、今回のことはそれと似ていて、私の頭の中では少しばかり違う観点である。
 先日何かのTV番組で、その番組自体は見る気がなかったのだが、ビデオの切り替え時にフト目に止まり、興味を持って見たのである。
 趣旨はこんなところだったろうか。
 最近、若い人のお酒離れが進んでいるという。
 その理由として、「なぜ辛い、苦いお酒を無理して飲まなければならないのか」というのがあると聞いて驚いた。
 私も、今でこそ盛りを過ぎたものの、それでも多分まだ人一倍(ん?数倍が正しいのかもしれないなぁ(笑い))多く飲むので、そんなことを言っても誰も信じてくれないだろうが、長男として父が所要で出席できないような席に名代として出席させられ、今ほど「未成年者への酒」が厳しくなかった頃に、飲まされたものだった。
 日本酒は確かに「辛い」、ビールは「苦い」代物で、決して自分から好んで飲む気にはならなかったものである。
 18歳で会社員となり、新入社員歓迎会では、大いに飲まされたのだが、「飲まなくても良い」手法を親戚連中から仕込まれていたので、同期入社の中で反吐を吐くものがいたけれど介抱に回るほうだった。
 それが20歳過ぎまで続いたのだが、その後は「浴びる」ほど飲むようになり、まるで「鯨飲馬食」の体で見っとも無いことも数多く経験した。
 それ故に、飲む人のことも飲まない人の事も判るつもりだが、上記の論にはとても賛成できない。
 水戸光圀の遺訓にもあるが「苦は楽の種、楽は苦の種」である。
 もっとも、光圀は同時に「慾と色と酒は敵と知るべし」とも言っているので、お酒の上での苦と楽を言っているのではないようだが、なぁーに、自分の良い様に解釈すればいいのである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :29 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月12 日

ハイブリッド車かEVか

 わが愛車も来年が車検である。
 購入先は親戚筋にあたるところなので、車を使い始めて以来、整備一切をお願いしているので、価格はどうか良く判らないけれど、何よりも安心感があるのがいいと思っている。
 昨年「カーナビを付けたいのだが」と今では会長職になっている人に相談すると、何時乗り換えるつもりなのかと聞かれ、今度の車検の時を考えていると話すと、「それならそれまで待ったほうが純正で高機能のものが出現しているから待ったほうが良い」と言われた。
 こんな商売気が少ないので、気軽に相談できるのである。
 で、そろそろ買い替えのための勉強もしなければならないと思うこの頃だけど、プリウスに代表されるハイブリッド車が良いのか、価格の問題はあるが、家庭用のコンセントで充電できる電気自動車(EV)が良いのか愉しく迷っている。
 高校は電気科で一応「自動車一般」と言う課目も学習したのだが、当時は全く覚える気が無かったので、殆ど無知であり、運転免許を取ったときには、法規だけの試験だったので、全くと言って良いほど自動車機械音痴である私には、いまさら構造などを覚える必要もないし、興味も無い。
 もっとも、余談だけれど、古いラジオや電気回路的な「メカ」についてはいまどきのLSI似るなるとまったく手が出ず、論理だけの世界だけど、半田ごてを持って弄り回すのは今でも興味津々である。
 車についてはそんな私だから、「便利さ」「燃費の良さ」などの純粋なドライバーとしての選択眼しかないので、もう暫くは愉しく迷って、色々なところへ行って体験もしてみたいと思っている。
 次回に買う車を何年運転するかは別にして、兎も角私にとって「最後の車」になることだけは確かだろう。
 7年乗って70歳で免許返納するか、もう少し乗ってもみじマークになったら返納するか、これも今からの愉しみである。
 カーナビは小型で「歩行モード」付きの物をすでに買って、重宝している。

投稿者:つねちゃん
at 09 :21 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年5 月11 日

利き腕じゃない腕を使ってみる

 脳の活性化という項目に「利き腕じゃない方を使ってやってみる」と言うのがあり、思いついた事を思いついた時に(この辺がなんかいい加減だなぁ)やってみている。
 そんな中で、一つだけ「恒常的」になっているのが、ノートパソコンのマウス操作である。
 このGW中に気がついて「どれくらいの速度差があるのだろうか」と言うことに興味が沸き、初心者用にお勧めする、マウス操作用ソフトで測ってみた。
 やっているうちに、やはり真剣になる所為か、倍近くの差が出た。
 また、左手でやるほうも真剣になる所為で、ミスが多くなり、それが速度にも大いに影響したようである。
 でも、こんなことでも良いから、今後も「非利き腕」をなるべく使うようにしたい。
 いまさら脳の活性化をして何かを得ようと言うのではなく、折角装備されている左右の脳を、今まで使っていなかったことへのお詫びの意味も込めて少しだけだろうが、働かせて上げたいものだと思っている。
 でも、上記のマウス操作とは違って、これを続けている所為かどうかわからないが、感覚的なものに対する感性というのが、どうも今までと少しずつ違ってきていることに気が付く時があり、それはそれで愉しい思いである。
 今までの我が家の家系で「左利き」と言う人がいたとは聞いたことが無いが、下の孫が唯一左利きである。
 母親である娘も家内も矯正しようと言う気持ちは現時点ではなく、本人も自分が違うことに全く頓着していないので、これはこれで良しとしておこうと私も思っている。
 もう少し大きくなったら、左利き特有の事態が発生するかもしれないが、その時に驚くことが無いように、また、できることであればそれを見習うようにして疎外感を抱かせないように、少しずつ左手を使うようにしたいものである。
 もっとも、その頃には「爺ちゃん、こっちへ来ないで」と言われそうだけれど。

投稿者:つねちゃん
at 08 :12 | 健康 | コメント(0 )

2010 年5 月10 日

生きているって素晴らしい

 リタイアして、毎日殆どストレスを感じることが無い日を暮らしているのだが、最近流行の「ツィッター」ではないけれど、ブツブツとした呟きが出てくるのは、矢張りある程度年の所為かもしれない。
 でも、耐えられるほどのストレスはむしろ「頑張らねば、頑張れば何とかなるさ」という気持ちも持てるので、健康にも良いのだろうと思っている。
 それでも、時々は「こんな人生って本当に良いのだろうか」と思う(決して「悩む」ほどにはならない)ことがある。
 歌の文句じゃ無いけれど、そんな時にはタイトルの言葉を「自分に聞こえる」様に口に出して言ってみる。
 そして、ついでに「今居る事の素晴らしさ」を揚げ連ねてみるのである。
 最初は「そんなことを言ったって、嫌なことばかりしか思いつかない」と言うことにもなりがちであるのは、私も何度も経験済みだから、最初から上手く行く筈が無いのは覚悟してからやってみてください。
 良くあることで、この話をすると聞いていた人から言われることが、たとえば「遣りたい事があるのだけれど、お金(時間)が無いからできない」と言う悲観ばかりである。
 それを聞くと、逆にこちらの思う壺なのである。
 「ホラ、そんな悩みを持てることが素晴らしいことではありませんか。もし、家族に重病の人がいたら、そんなことなど思えないでしょう。」と答えるようにしている。
 私自身は家内の助力もあって、現在のところ、幸いにして「借金地獄」と言うことにはなっていないので、その手の質問については答えを持ち合わせていないのだが「悩める」事自体が「素晴らしい」と思うことも必要なのではないだろうか。
 いずれにしても「生きている」からこそ持てる悩みなのではないか。
 このテーマは、よく落語の枕などで使われるものだが、騙されたつもりで何度か繰り返していると、良い意味での「癖」になり、愉しくなってくる。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 10 :16 | 健康 | コメント(0 )

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