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2011 年1 月31 日

音読の勧め

 今年から何冊かの本を「一日の朝出来るだけの量」を決めて音読している。
 それで気がついたのだが、読点まで短いものもあれば、長いものもあるのだが、息を吐き出しながら読むのである。
 当然読点に着いたら、短く息を吸って、又吐きながら読み続ける。
 これが「腹式呼吸」になっている事である。
 今までも腹式呼吸は何度もチャレンジして、いつの間にか忘れてしまっているのだったがね最近(昨年のいつごろからだったろうか思い出せないが)時々思い出したときにやるようにしている。
 今の季節はベッドで目が覚めてもなかなか起き出せないので、その時に、のんびりと風呂に入った時になど、まことに不真面目ながらやっていた。
 ところが、音読をやっていて気がついたら、知らず知らずのうちにやっている(もしくはそれに近い行動を取っている)ことに気がついたのである。
 そんなことだから、気をつけてやろうとすると、文章が長かったりして息が続かなかったり、短いから、息継ぎをせずに複数フレーズを読んでしまうことがあるのだが、むしろこれは「意識し過ぎ」の結果だと気がついた。
 最近は大分慣れたので、1節を読み終えた後で気がつき(勿論図っている訳ではないが)どれだけだったろうかと思ってみるのも楽しい気分になってくる。
 朝から隣の部屋でまだ寝ている孫などに聞こえるほど大きな声を出す訳ではないが、それでもしっかりと声を出して読んで、自然の腹式呼吸が出来ることが楽しい。
 直接健康に寄与する訳でも無いだろうが、鰯の頭も信心から、的なものでも良かろう。
 少なくとも健康に悪い事ではないし、お金も掛からないのだから、今後も「無意識に」続けてみたいと思っている。
 少しだけ気がつくのは、長い文章の場合腹筋を活用して続ける事がある、これもまた楽しい気分で「おっ、やっているな」と言う楽しみに繋がる。

投稿者:つねちゃん
at 10 :41 | 健康 | コメント(0 )

2011 年1 月28 日

ものは使い道を誤らないで

 適材適所とは言うが、なかなか出来るものではない事を身をもって知った。
 昨年まで大活躍してくれていた、除雪用スコップはプラスチック製で、刃先が金属でコーティングされているものだった。
 今年は今までとは大分積雪も多く、何度かの除雪作業中にその金属がはがれてしまって、新しくアルミ製のものを買った。
 そこで、何でこんなに擦り切れるところにこんな薄い金属がついているのだろうかと、最初は「不良品ではないのか」と思ったのだが、相手を悪く思う前に、自分は果たして正しかったのだろうかと考えてみると、その金属板のコーティングは、決して圧雪をこそげとる目的ではないのではないかと気がついた。
 圧雪はやはり鉄かアルミほどの強さがあるものではないと、こそげ起こすことはできないし、無理してやってもその使用期間を短縮するだけのものだろう。
 私の雪の観測は差ほどではないけれど、今回の雪は何段階かに分かれた層で成り立っている。
 全て一日で降った雪でも、除雪中にママさんダンプが通ったところと、私ら人間が歩いた所では、硬さがまるで違っている。
 また、融雪装置の水が僅かでも沁みこんでいる所でも、そのままの所と人間が踏んだ所、自動車によって出来た圧雪のところでは、まるで違っている。
 プラスチック製のスコップでそれらに全て対処するのはやはり困難なのである。
 で、アルミ製のスコップを便利に多用しているのだが、当初思ったほど重くは無いので、除雪作業も結構捗るのが愉快でもある。
 また、幸いにして山の雪解け水が流れる溝が家の前にあるので、そこへ雪を入れ込んでいるのだが、これは溝の幅が限られており、プラは駄目、アルミもほんの少しで駄目なのだが、昔からの鉄製のものは丁度のサイズで溝の奥まで押し込む事ができる。
 かくして、今年の我が家の除雪作業には雪質とその使用目的で3丁のスコップが大活躍である。

投稿者:つねちゃん
at 12 :49 | 日記 | コメント(0 )

2011 年1 月27 日

日本の神話

 2週間に一度、孫と一緒に図書館へ行くのが定例行事になっている。  私自身は父の残した沢山の本のうち興味のあるものだけでもまだ沢山残っているので、余り借りたりはしないのだが、とは言うものの、孫の待ち時間に色々な本を見て歩くのは決して嫌いではない。  先日もそんな「ブラ見」で見つけたのが、まんが「日本の神話」という本だった。  戦後生まれなので、まともに神話などを聞く機会もなかったし、ましてやそれを教訓として教えられる事は無かったので、「そんなものがあるそうだ」と言うくらいにしか思っていなかった。  確かにもイザナギ、イザナギや因幡の白兎の大黒様(大国主命)、天岩戸の天照大神などは断片的に聞いたりしてはいるものの、それが連係だって繋がる事はまず持ってなかった。  で、「漫画なら子供にも少しは判る様に書いてあるのだろう」と思って借りてきた。  ちょうど母がショートスティに出かける機会もあり、久し振りに家内と最近流行のスーパー銭湯へ行き、のんびりとする時間もあったので、湯上りの身体を大広間で大いに伸ばしながら、決して「神話を読む」と言う姿勢ではない、座布団を並べて横になると言う姿勢で読んでみた。  ところが、決して筆者が悪い訳では無いだろうが、難解な事この上ないものだった。  色々な神様が登場してくるのは良いとしても、生まれてすぐの子供に子供が出来たりして、系図的にはとてもあらわしきれるものでは無いだろうし、ましてや今流で言うところの従兄弟はハトコ、又従兄弟などの関係では到底表せることなど出来ないのでは無いだろうか。  其処へ持ってきて、ロシア文学よりも覚えられない名前がどんどん出てくるに至っては、とても理解できるものではなかった。  とはいえ、少しだけそんなテーマに触れられた事が楽しかった。

投稿者:つねちゃん
at 10 :06 | 子育て | コメント(0 )

2011 年1 月26 日

「言っているくせに出来てないじゃないか」

 諸姉・諸兄にはそんなことは無いのかもしれないが、私はこんな言葉を良く聞く方である。
 言い訳にしかならないとは思うのだが、「言っている事」と言うのは「抜けなくやっているよ」と言う事ではなく、現在余りにも出来ていないから、言ってやろうとしているので、出来てなくて当たり前なのです。
 いわば「有言実行」で努めようとしているのに、その途中経過だけを見て判断してもらう事は無いと思うのです。
 それも特に「今年の目標」などと掲げた事については、まだ一月も経っていないのに、なんてことを言うのだろう、と憤慨してしまいます。
 と、昨年までは思っていました。
 でも、今年は考え方を変えました。
 「人を揶揄する人が、私の言っている事を出来ている訳ではない。自分に出来ないのだから、人を揶揄することで、『出来ない人間』の同族に引き込もう、と思っているのだ」と。
 そう考えると、自分が惨めになるよりも、そう言っている人が可哀想になってくる。
 なぁーに、私は私のペースで行くだけで、よしんぱ(こちらのほうが多いのだが)目標が達成できなくても、それはそれで反省と課題を洗い出し(実はこれが結構楽しいのです。一種の「職業病」かもしれませんが。品質管理ということをやっていたせいで「何故何故百回」と原因を追求していく事が、一つの癖になっている)原因を解決してゆけば、次回は達成できるのだから。
 最初から「不可能」と言う事は、まずもって無いのだが「したくない」ことは当然あり、そうでないものの幾つかを「言っている事」(有言)し、目標にしよう。
 まだ今年は始まって間が無いのだし、思い立ったが吉日と言う事もある。
 どんどん言葉に出して言い、行って見ようでは無いだろうか、と思う毎日が楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :12 | 日記 | コメント(0 )

2011 年1 月25 日

資格取得の目標は立てない

 在職中は、会社の方針でもあったし、私自身もそう思っていたこともあったので、自分自身はもとより、部下にも積極的に「資格取得」を勧めていた。
 会社方針は「情報処理」に関する資格取得であり、取得資格によっては一時金が支給されると言う特典もついていた。
 私は「必ずしもそれでなくても良いよ」と言う風に部下を指導していた。
 それから暫く経ってから、本格的な考課が始まって、その中には分野を問わずに自分の努力の評価と言う項目があったので、あながち方針が違ってはいなかったのだろうと思っている。
 私自身は、情報処理については2度目で合格した「オンライン」と言う資格を50少し前に取り、リタイアする2年ほど前に趣味の世界ではあるが「1級アマチュア無線技師」の資格も取ったから、「魁より始めよ」と言う意味ではそれなりに自信をもっていた。
 リタイアしてからも、漢検を初めとして、長い間の目標だった「電検(特別分野以外の人には判らないだろうから、解説は省きます)」という資格に向けて学習をしていた。
 漢検は、例の事件があったので、学習だけにしたし、その他も「資格をとったら仕事が降るかのごとく来る」と言うような宣伝には、嫌気がさしてきたから、止める事にして「学習」だけにした。
 同年代の人でリタイアした人ともソロソロ会う機会も多くなり、大抵の人はリタイアしてすぐに「前からやってみたかったのだよ」と言いながら資格取得にがんばっていることを話題にするようにして、それをやっていない私には「幾つになっても目標設定は必要だよ」と言う様になっていた。
 それが暫くして会って見ると、勿論全員ではないけれど「資格は取ったのだけれど、お金がもらえる仕事にはならない」とこぼしている。
 大体は「技術屋」での人間が多いので、営業などは殆どやったことは無い。
 だから、資格取得に使った費用は「勉強代」だったことにして、ボランティアでやってみたら、と言っている。
 お金になるような資格というものは、あるのだろうが、それには、技術や知識だけではなく「営業」というスキルが必要欠くべからざる事であることを十分に考えておかなければならない。
 とは言え、色々興味のあることには、自分で学習は継続したいと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 09 :02 | 学習 | コメント(0 )

2011 年1 月24 日

JR東日本のシステム障害

 30数年間コンピュータシステムの設計・建設・品質管理という仕事に携わっていた経験からすると、今回の事件(決して事故ではないと思っている)はものすごく考えさせられるものだった。
 「思った以上に変更が多くなった」と言うのは、表面的なものではあるだろうし、一般の人に説明するには「もっともらしく、納得してもらえそう」なものではあるだろうが、ある程度の技術者からすれば、論外の理由だろう。
 其処には「リスクシミュレーション」的な視点も無く、まず何よりも「影響範囲の見定め」がなされていなかったのでは無いだろうか。
 私だけではなく、黎明期に携わった人間には「当然過ぎるほど当然の視点」が欠如していたからだろう。
 なぜそんな事態に至ったのかと言う事を考えると、システムを作る人の多くは「パソコン坊や」と当時揶揄していた「それなりのプログラムが書ける人」という程度のスキルでしかなく、それを管理する人の多くが、生産性という言葉の元で「以下に原価を安くして利益を上げるか」ということに没頭していたからでは無いだろうか。
 品質の良いプログラムを極力低廉な価格で作り上げる、というのは、確かに必要な事ではあるのだが、それは「プログラム」の世界だけで通用するもので、「システム」ということになると、それだけでは全く不足なのである。
 それほど技術者のレベルが低くなったのは、システム投資を抑えすぎたからではないのか。
 俗に「必要経費」という言葉があるが、リスクマネジメントや品質管理という仕事に携わる人は「オーバーヘッド」と言われて、何も事故などがなければ「文句言い」「ただ飯食らい」と囁かれるのだが、今回の事件ではそれが蔑ろにされていたのだろうと思うのは、決して私だけではないと思う。
 直接経費を抑えるのは勿論必要だけれど、間接経費は必要に応じて認めるようにしなければ、今度のような事件は後を絶たず、低能な「パソコン坊や」ばかりで、作られたプログラムばかりになり、とてもシステムとして機能しないものばかりを作る事になろう。
 それこそ、安物買いの銭失い、であり、台頭目覚しいインドの技術者に席巻されてしまうだろうことを危惧するばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 07 :42 | 子育て | コメント(0 )

2011 年1 月21 日

溜め息はつかないように

 昨年からの「やらないでおこう」の項目の中に「愚痴は言わない」と言うのがある。
 同じことを思う場合でも、出来るだけ前向きに言い方を変える様にしている。
 しかしながら、直接自分のことについてはそれが出来ても、政治や国際情勢ということになると、全く手が届かない(いやいや、政治のまだ参政権と主権在民なので、全く閉ざされている訳ではないと思うのだが)ので、結局「愚痴」になってつい口を出てしまう事もある。
 もう一つは、表題の「溜め息」である。
 私自身も時には他人様に聞こえよがしについている事は無いとは言えないが、そのためにも「ものを言う前にひとまず口から出る言葉を反芻してみる」と言う事は気持ちとして持っているのだが、自分の気がつかないところでは出ているのかもしれない。
 でも、せめて人前ではつかないようにしたいものである。
 時には、それが「得意技」のように、これ見よがしに私の前でする人がいるが、そんなときは無視を決め込むに限る。
 溜め息と言うのは、寝言やうわ言のようなものだと思うことにしている。
 余談になるが、入社して暫くして上司と宿泊を伴う出張に行き、仕事も終えて、明日の準備も整えてから「寝酒」と言う事になった。
 程よく寝入った頃に、隣で寝ている(昔の事で旅館だったので、布団が並べて敷いてある)上司から何か言われている気がしたので「どうしましょうか」と聞くと、それなりに尤もらしい事を言っているので、少し畏まって相手をしていたのだが、どうも途中からおかしいことに気がつき、トイレ(勿論共同である)へ行くと賄いの方で話し声がしたので、覗くと小母さん方が「寝酒」の最中だったので仲間に入れてもらった。
 そして部屋へ戻ると、件の上司は就寝中だったので、ほっと胸をなでおろした事があつた。
 事ほど左様に、溜め息は「聞き流す」に限るのである。
 そんなことにならないように、自分を引き締めていたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :15 | 健康 | コメント(0 )

2011 年1 月20 日

掃除の意味

 諸姉・諸兄に置かれても、いろいろな意味で「掃除」と言う作業をなされる事があるだろう。
 単身赴任時代には、僅か6畳間くらいの部屋でも、精々で2週に一度、嫌々ながらやっていて、半年に一度家内が来たりすると、見るに見兼ねてだろうが、隅々まで綺麗に掃除してくれたもので、自分には適性がないや、と嘯いていたものである。
 リタイアして2年目くらいから、受け持ち分担として家の2階部分の掃除を自発的に担当した。
 最初は、決して意地悪ではなかったろうが、掃除の後を家内が見て徹底した駄目出しをされて「やっぱり適性が無いのだ」と思いつつも、自分から言い出した手前勝手に放棄する訳にも行かない。
 それが、2年位前からだろうか、掃除の意義を考えるようになってからは、殆ど駄目出しを受ける事が無くなった。
 掃除とは、自分が見て「汚いなぁ」と思うところを他の人に同じ思いをさせないこと、と思うようになったからだろうか。
 裏返して言うと、綺麗な所は他人にもぜひ見てもらいたいと言う事になろう。
 こう考えると、桜の名所を初めとして「何処其処は綺麗だったよ」と言う事になり、そんな経験は誰もがお持ちでは無いだろうか。
 決して自分が綺麗に加担していなくても、そんなところでは、無意識は致し方ないとしても、積極的に汚したりはしないだろう。
 根っこはそれと同じで、決して「見て見て、こんなに綺麗になったよ」と言うのではなく、少なくとも「汚いなぁ」と思えたり見えたりする所は綺麗にしておく、と言う事になろう。
 それが、私が考える「掃除の意義」であると思っている。
 そんな風に思うと「分担してやっている作業」とか「仕方無しにやっている作業」などとは思わないから、苦労でもなんでもなくなる。
 尤も、相変わらずの「逃げ口上」は「それには気がつかなかった」と言う事である。
 自分に見えない汚い所は、気がつかずにいるのは当然である。
 でも、駄目出しされたら気分よく綺麗にして、次からは其処も見るようにしていくことで、綺麗の範囲が広がってゆく。
 それが誰に見られなくても、十分満足である。

投稿者:つねちゃん
at 08 :49 | 日記 | コメント(0 )

2011 年1 月19 日

食べキリン運動に自主参加

 実はこのテーマは新聞投書したテーマと同じになった。
 このように「同時想定」と言う事は余り無いのだし、あっても意識的にブログか投稿かに分けているのだが、今回は例外である。
 ということで、採用されたものを掲載させていただく。

 自作大根を食べきる
 いつまでたっても、格好の良い大根はできないが、新鮮さだけがとりえということに満足している。黄変した葉以外は、ヨゴシにして食べ、おでんや煮物にする部分は泥を洗ってから、少し厚く皮をむいて、金平やそのまま刻んでかつお節などを振り掛けサラダ感覚で食べる。尻尾の部分は細かく刻んで味噌汁の実などの隠れ材料として食べる。県が推奨している「食べキリン」の趣旨に賛同して、ニンジンなども同様にして無駄なく食べ切っている。工夫次第で生ごみはかなり減らせるという実感が楽しい。

 勿論投稿文には、これに付随したところも多かったのだが、こう整理されてみると、趣旨はあっているので文句などは全く無い。

 1月4日に掲載され、その後特に女性の知人から「あの投書、全くそのとおりだわ。今度そんなテーマで料理を教えて」と言われたが、勿論低調にお断りした。
 私のは私流の味付けと食感であり、他人様に教えられるものではないし、たとえ教えても、美味しいと言われる自信は全く無い。

投稿者:つねちゃん
at 08 :35 | グルメ | コメント(0 )

2011 年1 月18 日

年賀状話題 その2

 年賀状は「虚礼」だったのだろうか。
 在職中は「虚礼廃止」と言う事で、部下にきつく抑制していたのだが・・・。
 昨日の話題と少し違って、電電公社と言う組織で長い間働いていたせいかも知れないが、ある程度のポジションになると、いわゆる「業者」からまず始めは年賀状が届く。
 前年に名刺交換をしただけという人からでも届くので、殆ど記憶に無いのだが、確かに名刺は貰っているので会ったのであろう。
 こんなものは全くの虚礼である、と断言していた。
 仕事がある程度煮詰まってきて、年に何度も会う事になると、さすがに「居霊」とばかりは言っておれなくなるのだが、大概の場合仕事始めの時には直接挨拶に来られるので、やっぱりこれも「虚礼」だと判断しており、勿論返事など書く事も無かった。
 困るのは、前述のとおり部下にきつく言っているにもかかわらず、同じ職場(尤も何度か紹介したように、仕事始めのときには居ない職場も何箇所かあったのだが)の部下から届く年賀状である。
 最初の頃は影に呼んで「今後はしないように」と叱るのだが、なかなか無くならなかったのにはかなり閉口してしまった。
 それでも、メールという文化が全職員に行き渡ると、さすがに同部署からのものはメールに変わったりしたものの、殆ど姿を消してしまった。
 リタイアして、相当経つが、損得無く付き合っていた部下や上司、業者の人などからはいまだに年賀状が届く。
 何度かは断ったのだが、「気持ちです、その節のご恩は」などと言われると、それ以上断るのも大人気ないのかと思いながら、懐かしさも相まって授受している。
 こうまでなると、一概に「虚礼」とまでは言えないのでは無いだろうか、という気持ちにもなってくる。
 そうなると、まだ年金が頂ける年でもないので、「失礼にならない程度に、経費削減」を考えなければならない。
 一昨年、かつての上司から「今後は全て電子年賀状にするから」と言われたのだが、その数年前に電子メールのある人には試みていた。
 ところが、まだ機が熟していなかったせいもあるかもしれないが、一向に同意してもらえなかった。
 今年は、ソロソロ良いだろうという事で、40名余りにお願いしたら、快く同意してもらえたので、順次切り替えてゆくつもりである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :47 | 日記 | コメント(0 )

2011 年1 月17 日

年賀状話題 その1

 昨年暮れからの年賀状差し出し、今年になってからの訃報による寒中見舞いなどを頂いたものを含めて、大体年賀状の整理が整った。
 そこで気がついたのだが、在職中から見ると、県外との年賀状のやり取りが大分少なく、県内や近県のものが多くなってきている。
 ちなみに、私は過去の年賀状は殆どスキャナーを利用して画像を残しており、あと3年で十二支が一巡する。
 また、取り纏めてはいないものの、記録が残る過去からのやり取りについては、Excelに記録している。
 だから、その気になれば、誰からいつどんなイメージのものがもらえたか、が検索できるようになっている。
 勿論本来の目的はそんなことではなく、何かの機会に会う事が想定される場合に慶弔の話題の手がかりにと思ってのことだった。
 話を本題に戻して、ちなみにリタイアする前前年の県内とそれ以外の比率を見ると、7:3くらいになってる。
 これを考えると、やっぱり仕事上の打算が優先していたのだろう。
 リタイアしてもう8年になるが、まだ在職中からの(年賀状だけになったけれど)付き合いが途切れておらず、近況を書かれていると、その姿が髣髴と浮かんでくるほどの親しい間柄であるのが楽しい。
 もっとも、もう何年か前に久し振りに会う機会があり、上京したのだが、良くも悪くもその面貌の変化に驚くと共に、判らなかったので大変な失礼をした覚えがある。
 私自身はかなり以前からの白髪で、少しは髪が細くなり、疎らにはなったものの、当時の面影がまだ十分に残っていると言われて「成長しないのだなぁ」と喜んだり悲しんだりしたものである。
 これからの比率を気にする心算も無いし、今年から約40通を電子年賀状に切り替えた。
 今年から僅かかもしれないが、年金が貰える様だけれど、やはり50円の賀状は少なくして定額料金のネット利用を進めたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :27 | 日記 | コメント(0 )

2011 年1 月14 日

ブラックリストかホワイトリストか

 特別「常連」というほどではないのだが、よく行く店で特別扱いされる事があると思うのは気のせいだろうか。
 思いつくことは、何がしかの「注文」を出している事ではなかったろうか。
 現役時代には、いくつかのホテルグループの会員だったので、宿泊するたびにポイントが溜まり、何がしかの特典にありつけることがあった。
 そんな時にも「支配人へのお便り」という類の封筒が置いてあったりしたので、気づいた事を書き留めて投函したりするのが、一つの「癖」のようになっていた。
 何もないので、書くことが無い、という事は、むしろ「絶賛」に値するものであり、そのときには(余り無かったが)「素晴らしい環境を有難う御座いました」と書くだけでいいのである。
 先日のブログでも書いたが、当時の第一ホテルでもこれはあった。
 そんな訳で、出来るだけお店への苦情や注文などは大いに書いたほうが良い。
 先日も「メモリデバイスはどこにありますか」と聞いて、教えてもらった所には目的のものが無く、少し外れた所にあったのだが、私の聞き方がまずかった事が判った。
 品物をカウンターへ持ってゆくと、教えて下さった店員さんが「違った所をお教えして申し訳ありませんでした」と言われるので、大いに恐縮してしまった。
 勿論、その時に付いて来た「社長行きアンケート」にも感謝の言葉を添えて出しておいた。
 これはあちらこちらのお店で体験する事である。
 ホワイトかブラックかどちらに載っているのか判らないが、決して「クレーマー」ではない心算である。
 他のお客様にも、同じ間違いを再発して、嫌な気持ちを持って貰わないで、末永くその店が継続してくれる事を望むからである。
 再発防止、と言う言葉は在職中品質管理というみんなから嫌がられる仕事をしていたので、ミミタコ以上に使った言葉だが、一つの職業病になっているのかもしれない。
 でも、そうだとしてもこれは直す気にはならない、もちろん余禄を期待してとは毛頭思っていない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :15 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年1 月13 日

般若心経から学んだこと

 以前にも紹介したが、私の場合、「写経」と言うルールに則っていないので、飽くまでも「指先運動としての書き写し」でしかないのだが、意識してのサボりや完全に亡失という事があったので、2年余りも掛けて年末の12月28日に600回の書き写しを終えて、一応これについては終了する事にした。
 それでも「門前の小僧」的な知識はついたようで、それなりの理解をご披露させていただき、一驚に供しようと思う。
 経が唱えている「無」にはなかなか入れませんでしたが、今後何かの折にそんな思いに触れることもあるかと思います。
 お経、と言うものの真意を測ることは、とても出来るものではないと思うのは、お釈迦様と言う一人の人が言った事でも、時を経る毎にいろんな宗派ができることからも納得できるので、飽くまでも「私なり」の理解でしかないのです。
 600回までに、私なりに理解したことは「こだわらない」事だと思っています。
 「何に」と言う疑問があるでしょうが「自分の素直な心」にということでしょう。
 決して、いつもいつも「素直」であれる訳ではありませんし、その自信もありませんが、「気が付いた時」だけでもいいだろうと思っています。
 かつて、信頼する上司から「お前は素直過ぎる」という言葉と、大分経ってから「もう少し素直に考えろ」と言う指摘を受けた事があり、以前の指摘を言うと「それはそれで良いのかも知れない」と言われた事があります。
 企業戦士として、素直だったり、そうで無かったりというのはTPOの問題であり、そういう意味で自分との考えが番うのは「それも良し」と考えるべきなんだろう、と言うことで、その晩はおごりで鱈腹飲ませていただきました。
 今はそれ以上に「自分の尺度」ではなく、お釈迦様ほどではないにしても「天の尺度」に合わせて素直になれればなぁ、と言う思いです。
 「不垢不浄」と言う節がありますが、「綺麗(浄)だ、汚(垢)い」と言うのは人間の勝手な思いであり、以前にも紹介したと思いますが「オオイヌノフグリ」と言う植物があります。
 これを綺麗だとか汚いとか、こんな名前をつけているのは、人間の傲慢さからくるものでしょう。
 この植物としては、好きな時に花開き、好きなときにお休みしているだけなのです。
 綺麗だな、と思う時はそれで良いとしても、汚いなぁ、と思うときに少しこんな思いをしてみてはどうでしょうか。
 尤も、どの道「門前の小僧」でしかありませんが。

 新年になって、宗教からなかなか離れられず、今度は「正信偈」というものの書き写しをしています。
 勿論この他にも論語など幾種類かの書き写しをしながら「指先運動でのボケ防止」も合わせて行っています。
 おいおい「門前の小僧」としての紹介をさせていただきましょう。

投稿者:つねちゃん
at 09 :14 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年1 月12 日

After You という気持ちを持とう

 最初の米国出張へ出掛ける時、上司から教えて貰ったのがこのフレーズだった。
 このことの事前の訓練的なものは、東京への出張時に、これも上司から言われて「会社から支給される宿泊費よりも安い宿に泊まって、僅かの金を浮かせるよりも、逆に上乗せしてより上級の宿に泊まって、いろんな人との交流を心がけるようにすべき」と諭された事があった。
 具体的には、新橋の第一ホテルを良く使った記憶がある。
 勿論、其処ではそんな言葉を発する機会などなかった(いや、あったかも知れないのだが、口から出なかったのだろう)。
 でも、米国出張で使ったホテルはニューヨークでは30数階建てのもの、目的地のダラスでは40数階のホテルである。
 こうなると、当然の如くに外国人(いやいや自分が外国人なのだ)とエレベータでの乗り合わせの機会がある。
 ニューヨークでその機会が突然訪れた。
 途中の階で女性が乗り込んできて「ハァーイ」と言うので、こちらは「ハイ」と答えるばかりである。
 で、にこやかに何か話しかけてきたのだが、どうも「どこ(の国)から?」と聞いているようだったので、「ジャパン」と答えるだけである。
 でも、たぶん顔が引き攣りながらも作り笑顔で過ごし、1階に着いたときそんなに意識せずにこの言葉が出た。
 「After You Madam」と教えてもらったのに咄嗟に追加したのが良かったのか、「Thank you」と微笑んで出て行かれた。
 その後、気がつくとあちらこちらから汗が出ていた、と言うのが本当である。
 でも、その後は物怖じせずに言葉が出たし、それにつれて少しばかりのたどたどしい会話も出来るようになった。
 北朝鮮は言うに及ばすだが、中国やロシアにも少しはこんな気持ちを持って欲しいと思う半面で、日本政府には「そればっかり言わないで」という気持ちにもなる。
 でも、個人的には常に「After You」という気持ちを常に持ち、態度に表して行きたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :26 | 子育て | コメント(0 )

2011 年1 月11 日

忘れると言う事は、決して悪い事ばかりではない

 皆様新年明けましておめでとうございます。
 今年が皆様にとって、より一層よき年になるようにお祈りいたします。

 と言う事で、今日は鏡開きです。
 14日には左義長があり、本格的に松が取れるようになります。
 2日と3日、それに9日は家内の友人の、通夜や葬式に参列しました。
 まだ「おくり人」になれることを思いながらも冥福を祈りました。

 本題に戻って、年末から年始に掛けてかなりの量の広告やチラシが目に付くのだが、その中に「物忘れはボケの始まり、だからこの処方を」と言うのが目に付いた。
 PCの講習を頼まれてやっているが、「なぁーん、聞いてもその時だけで、すぐ忘れてしもうチャ」と言う言葉が頻繁に出てくる。
 私自身も若い頃から「健全な健忘症」を自負していたので、時々紹介した「メモ魔」になったのだが、その時に思ったことは(何かの本で読んだ事だろうが)「なぁーに、忘れるからその(脳みその)空いた分に新しいことが記憶されるのだ」と嘯いていた。
 そんな新陳代謝を、幸いにして実地体験を伴って行えたので、「忘れて困った」と思う暇が無い位に「どんどん覚えて、どんどん忘れる」と言う事が「良い事」と自認する様になった。
 勿論試験などでは「記憶力」が試されるから、50歳を超えて挑戦した「アマチュア無線技師1級」では、記憶カードを使ったのだが。
 しかし、このように「忘れて覚える」と言う事を繰り返せば、知識と言うものはそのうちに「澱(おり)」のように積み重なって忘れられなくなる」のである。
 このことは、若い時よりもむしろシニア世代以降の人により良い効果をもたらすのではないかと思っている。
 玉磨かざれば光なし、とか、忘れる事を「悪い事」と思うのではなく、知識の新陳代謝として磨いているのだ、と思えばずっと前向きだろう。
 勿論、そして身につけた知識は、どんどん使う事によって「知恵」となるのだから、間違いを気にせずに使って知恵に昇華させよう。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 08 :28 | 健康 | コメント(0 )

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