敵が負けても、味方が勝つとは限らない
昔から自民党と言う政党は好きではなかったが、ある意味「アンチジャイアンツ」のように「居なければならない」存在だったように思う。
ところが、民主党の現政権になってからは、殆ど存在自体が「邪魔者」それも形容詞として「純粋に」と付けたくなるような事になっていると思うのは、私だけだろうか。
増税反対、自分らだってその必要性を感じているのに、揚げ足取り的な発言や事態を針小棒大に叫びたてて「解散しろ」と言っている。
原発反対、自分らの政権の時に散々推進して回ったのに、想定外の事故があったら知らんぷりして、自分らの推進してきたことを棚の奥の方に締まってしまう発言は、憤慨を通り越して、噴飯物でしかない。
沖縄の米軍基地問題、「最低でも県外」と言った元総理も問題だが、かつては「お仲間」だったことや過去の経緯が次第にあからさまになってきているのに、「問題だ、問題だ」としか言えない発言に、何の真意が汲み取れるのだろうか。
挙句は、党大会に招いた来賓の挨拶中に、罵詈雑言と言える野次を飛ばすなどは、議員の風上と言うよりも「人として」の存在自体を疑わざるを得ない。
兎も角解散させれば、お鉢が自分のところへ回ってきて、味方が「勝つ」とでも思っているのであれば、とんだ「お門違い」であろう。
さりとて、翻ってみれば、そんな議員さんを選んだのは「私は彼の政党に一票も入れたことは無い」と言ったところで、他の政党の議員さんで負かそうとまでの努力をしなかった我々選挙民に、責任の「一端」どころではないものがあるのではないか。
今までもだが、過去を振り返っても仕様が無いので、これからの選挙には、微力ながらかもしれないが「無為無策、野次しか飛ばせない議員」を当選することだけは避けたいものである。
あぁーぁ、これだけ言ったら(書いたら)すっきりした。
仄々屋でもたまにはこれくらいのことはしてもいいだろう。
お耳やお目を汚したのであれば「馬鹿の与太話」て笑い飛ばしてもらって大いに結構である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :20
| 政治への注文
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座り小便で粗相
西洋の小噺で、男の親子が道路で立小便をしている時の会話、
父「なんだ情けないなあ、俺がお前のような頃には、手で持つなんてことは無くても充分に遠くまで飛ばせたもんなのに」
息子「ううん、手で持っていないと、顔に掛かっちゃうから仕方が無いんだよ」
多分女性の方には中々理解していただけないが(尤もこのブログを女性の方が読んでいることは考えにくいのだが)、見栄を含めて男性の方には少し羨望も含めて理解していただける小噺ではないだろうか。
朝一番のトイレでは、なるべく音を立てないようにとの配慮(自分勝手に思っているだけなのだが) から、座って小用を足すことにしている。
ところが、先日用を足し終わってからパジャマのズボンを上げると、後ろの部分がびっしょりと濡れていて、すぐに取り替えたのだが、便器の前に敷いてあるものもびっしょり濡れていた。
事態は自分で処理をして何とか事なきを得たのだが、原因を思い当たるまで暫く時間が掛かった。
便器と便座の前の部分には、僅かな隙間がある。
「小便までの命」の貴重な事象は、その隙間から放出された物だったようである。
だから、ズボンの後ろに当たり、落下して、敷物を汚したのであろう。
結果として見ている前の部分では気が付かなかったし、殆ど便器の中に入らなかったのであろう。
勿論現在では「顔に掛かる」ほどの元気さはないものの、男性としての朝の元気さの証明がされたようで、粗相を反省しながらも、なんだか楽しい気分になった。
まだまだ、そこそこの元気があることに感謝。
投稿者:つねちゃん
at 06 :55
| 健康
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新聞の「ただ見」を楽しむ
今までは「散発的」にやっていたことだが、今年からは「日課」としてやることにしたものの一つに「新聞を読む」と言うことを加えた。
勿論、宅配される購読紙は、母の逝去後、地方紙1紙だけにしたが、やはり意見に偏りがあるように思え、父が存命の時や在京暮らしのときなどに購読していた新聞をネットで読むようにしている。
ネット使用料やPCの使用料や電気代など細かいことを言えばキリが無いが、基本的には「無料」である。
昔、まだ子供の頃、紙芝居をよく見に行ったものだが、昆布やニッキなどを買わないで見ていると「ただ見は駄目」と追い払われた物である。
それがネットだと、堂々とできるのがある種愉快でもある。
そのうちにこれも有料になるのだろう(でなければ新聞社の人たちの給料の出所が広告宣伝だけで賄わなければならなくなるから、存続が難しくなるだろう)が、今は幸いに一部の新聞をのぞいて無料で購読できる。
起こった事象については各社大同小異であるが、その解説の違いが面白い。
物事は「良いに悪しきは付き物」とは、よく言われるが、同じ記事でも新聞の書き方が微妙に違うことを発見できた時は、なんとも楽しい限りである。
原発、北朝鮮、景気動向などなど自分の考え方と違っていると、昔は「なんと言うことを言うのだろう」と欺瞞の念を持ったものだが、今は「なるほど、そういう見方もあるのか」と感心して楽しんでいる。
最も顕著に現れるのは「社説」であるが、この文章で各社共通していえるのは「硬い文章」だと言うことである。
それに反して(必ずしも反してはいないこともあるが)各社の「コラム」欄は気軽に読める。
読み方にも寄るが、4紙を読みきるのに掛かる時間は、私の場合で約1時間である。
「暇なら(誰も買ってくれないけれど)売るほどある」自由人であるから、その中の1時間が楽しく過ごせることに、今日も感謝して、一日が始まる。
投稿者:つねちゃん
at 08 :21
| 学習
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長長靴
リタイア後始めた畑仕事だが、今までは父の残した物や息子が残した物があったので、足のサイズが殆ど同じだったこともあり、幸いにして穴が空いて水が漏るような事も無かったので、随分と重宝して履いていた。
いわゆる、畑仕事への履物投資は全く無かったのである。
ところが、流石に年月が経っているので、最近最後の物が靴底から水が滲みるようになった。
でももう1月下旬だし、節分も近いから、買わずに置こうと思っていたのだが、まだ雪が降るとの予報から、「私の物」として始めて「長長靴」を買った。
これは畑仕事への投資、と言うよりも「生活必需品」である。
じつは、長靴自体は以前にも買ったのだが、この目的は防犯や交通安全の街頭指導などで雨天の時に立つ場合の物である。
だから「実用本位」と言うよりも「見てくれ優先」であった。
それを買う前には、随分前に飼ったものが、使った後の手入れが悪いこともあったが、やはり経年劣化で全く艶が無くなると共に、あちらこちら拭いても取れない汚れがあったので、見っとも無いこと夥しかったので、やはり恥ずかしさが先に立ってのものだった。
さて、実用本位の長長靴を買うためにホームセンターへ行ったのだが、なんと1000円未満の物から数千円するものまで並んでいる。
果てさて、一体どれが良いのだろうか、全く判断が付かない。
結局、大体殆どの方が沿うであろうと思うが、オリンピックの採点方式と同様に最高点(価格)の物と、最低点のものは外して、「中の下」くらいのものにした。
一つだけ「これは良い」と思ったのは「防菌、防臭」の物である。
昔ほど新陳代謝が盛んではないのかもしれないが、やはり足の臭いは自分でも嫌なものだし、ましてやそれを脱いで他人様の家に上がる機会があるとすれば、必要な機能であろう。
さて、「安物買いの〜」になるだろうか、それとも「良い物を買った」ことになるだろうか、半年くらいをめどに判断することになろう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :44
| 日記
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自分の名前
リタイアしてから、再開した「愛読書」は、漫画雑誌の「ビッグ・コミック・オリジナル」である。
「博多っ子純情」や「じゃりんこチエ」など、その昔に関する話は、また別の機会にして
今回思いついたテーマは、20日に発売になった最新号からである。
最新の「三丁目の夕日」で、女の子が、宿題に「自分の名前」の由来を聞いて作文すると言う話題だった。
内容は、著作権にも関わるから、詳述は避けるが、改めて「自分の名前」について考えてみた。
かつて、出張族だった私は、各地のホテルや旅館に泊まり、大概は酔って帰ったのだが、必ずすることの一つに「自分と同姓同名の人」が居ないか、電話帳で繰ってみることだった。
残念ながら、長い間見つからなかった。
リタイアして、相当経ってから、一通のメールが届いた。
内容は「畑の土質」についての質問だった。
園芸高校は卒業していたが、もとよりそんなことは知る訳もなかったので、丁寧に異人である事をお伝えしたのだが、ネットで調べると、確かに、漢字上は「同姓同名」の人で、地質に詳しい人がいらっしゃることを知った。
しかしながら「読み方」は違っていたので、果たしてこの場合「同姓同名」と言えるかどうか疑問である。
私の名前は、父がどこかのお坊さん(多分当時の門徒寺だろうが)に頼んで付けて貰ったのだと聞いた記憶がある。
「『常』に『充』ちていて欲しい」と言う意味だろうと、自分勝手に思っているが、今は大分減ったが、下の字が「光」と書かれる場合が多かった。
機会あるごとに「俺はまだ『光っては居ない(頭髪は白髪なりにフサフサある)』」と言って訂正を求めてきた、と言うより一つの話のきっかけにしたものである。
父は「利一」と言うが、ある人がそれを知って「昔は武士の出ですか」と聞かれた。
父系の先祖や母系の先祖にも「武士」と言うのは聞いていないので、何故かと逆に質問すると、父の上の字と、私の上の字をくっつけると、かつてのこの辺の有能な大名の名前になるから、と言うことだった。
幸か不幸か、苗字が「前田」ではないのだが。
いつまでも「常に充ちて」居たいものであると願いつつ、そんな名をつけてくれた両親や地域の人々に感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :51
| 日記
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下駄を履く
家で履く履物には、今の季節、長靴は雪道にとっての作業には欠かせなく、少し天気が良ければカジュアルな靴と言うことになる。
ところが、玄関に少しだけ出る場合には、靴なども面倒くさく、今までは「ツッカケ」と呼ばれる履物を履いていた。
父がまだ存命中は、当然自分の物を履いていたのだが、他界して自分の物がへたれる(この言葉は標準語なのだろうか)と、まだ丈夫そうだった父の物を使い、それがへたれると、下駄箱の中を探り出して、長い間使っていなかったものを片端から引き出して使っていた。
そんな中で、最近(と言っても年末近くからだが)使い出した「下駄」がある。
父の使っていたものだが、材質は桐で、足先にはカバーが付いている上等の品である。
下駄を自分の物として履いていたのは、多分中学生になった頃までだろうが、その当時は「厚葉」と言われていたもので、歯の長さは多分2−3cmくらいではなかったろうか。
多少乱暴(中学生としてはそれが通常だったのだが)に履いても、めったに壊れる物ではなかった。
当時の中学校は、当然木造で、運動する時くらいだけ「運動靴」に履き替えたもので、常時はそのままだった。
だから、当然「ガラガラ」と賑やかな音を立てていたものである。
話を戻して、玄関に新聞を取りに出る数歩、戸を開けて空気を入れ替える時の数歩だけしか使わない高級下駄だが、歯は薄く、その分コンクリートの床との間で、高い音が賑やかである。
でも、そんな下駄がなんだか懐かしく感じられて、楽しい。
この歳になって「春よ来い」の歌ではないが、ミィーチャンの気持ちに少しだけなれるのも楽しい。
まだまだ、両親の遺品の整理が付いていないが、下駄の類はまだありそうで、春になったら本当に「外履き」としても活用してみようか。
父の遺品に改めて感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
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迷惑メール
PCを使い始めたきっかけは、以前にも書いたと思うが「悪筆からの逃避」であった。
それが大分経って、仕事柄もあるが、周りの人が「電子メール」を使うことが「当たり前」になった時期(実は当時、仕事として「推進役」を命じられたのであるから)から、今の若い人が携帯をそのために手放すことができなくなったように、必需品になった。
それはリタイアした今でも、かつての同僚や同級生などとのやり取りが続いているし、メールマガジンと言うのも結構愛読している。
そんなように、毎日30通くらいの「有益メール」が届き、一つの楽しみになっている。 ところが、「良いに悪しきは付き物」のように、「迷惑メール」も随分と多く届く。
以前のメーラーでは、一つ一つ判断してなるべくなら受信しないように対策を施してきたのだが、メーラーを変えたら、その殆どが「迷惑メール」に振り分けられるので、随分と楽になっている。
そのアルゴリズムはどうなのか技術的な興味はあるが、今のところ追求する気持ちは無い。
いつもは、全く気にせずに「×」マークをクリックするだけにしていたのだが、有益件数よりも多くの件数が振り分けられているので、危なくない程度に(それ位は心得ているつもりである)一つ一つ見てみることにした。
半分以上が「性的なお誘いメール」であり、それ以外は「バイアグラ的な押し売りメール」である。
よくもまぁ、毎日ご苦労されているものである。ある意味で敬意すら払いたいくらいである。
で、最近は、その機能があるので、あまり「迷惑」と思わず、「フフゥーン」と小馬鹿に出来るようになっている。
いやいや、そんな性的なものに興味がなくなったのでは決して無い。
機会があれば、と、虎視眈々と狙っているのだが、身に合ったことに遭遇しないだけである。
まだまだそう思えることと、機能的には衰えていないことに感謝。
投稿者:つねちゃん
at 06 :35
| 日記
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番付表に無い方言
毎月診察を受けに行く病院の待合場所に、富山県の方言が相撲の番付表のごとくに掲示してある。
富山は、「呉山」(呉羽山のこと)で東と西に大きく分かれているのだが、仕事の関係で20年近くこちらに住まいしていなかったとは言うものの、6割くらいしか判らない言葉がある。
それを繰り返し眺めながら、一つ一つ覚え行くのも楽しみである。
前回は判らなかった物が、今回は素直に理解できる物があると、実に楽しい。
このような番付表は、全国あちらこちらにあるようだが、他の地方の物は「覚える」と言う気持ちにならず、一過性の楽しみで、まるでバスガイドさんの楽しい話を聞く如きである。
ところが、そんな中で、思いついた言葉があるのだが、番付表を隅から隅まで見渡しても見つからなかった。
その言葉とは、「げなし」である。
子供と言うよりも餓鬼の頃に覚えた言葉で、語感から推察されるように、決して上品な言葉ではない。
私自身の思い出だから、間違っているかもしれないが、現在の標準語で言えば「助平」と言う意味だったろうと思う。
それから考えると、主に男性に言う蔑称で「芸がない」と言う「芸無し」が鈍った物ではなかろうか。
男性で、無学文盲とは言わないまでも、大好きな落語に出てくる人物のように、取り立てた芸を持たない男性。
そうなると、考えるのは、本能のひとつの、下の方ばかりになるからではなかろうか。
この時点でまだ、ネット検索はしていないが、富山の地方だけの方言なのだろうか、などと考えると、楽しみも増える。
こんなことを能天気に考えている、自分が「げなし」なのかも知れないが、それはそれで感謝するほどの気持ちになる。
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
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不信心者の「南無阿弥陀仏」
特別信心が深い訳でもなく、神様には「苦しい時の」で、ずぅーーーっと通して来た。
最近になって気が付くのだが、毎朝(ご飯を炊いた日だけだが)仏壇に「お仏供さん」をあげ、蝋燭に火を灯して、線香を燻らして(この表現が結構好きである)、仏花の水を代えるのが「日課」になっている。
これは、多分父が亡くなってからの事だったろう。
このときに、多分子供の頃からの「習い性」だろうが、口から出るのは「南無阿弥陀仏」と言う言葉である。
確かに、今まで「書き写し」と言うことで、仏教関係の物を手本としていたが、それだって「信心から」のことではなく、「偶々」そこに適当な手本があったから、なのであって、信心とは遠い掛け離れがあるのだと、むしろそちらこそ「信じていた」くらいである。
でも、習い性も「門前の小僧」なのだろうか、自然と口を付いて出ると言うことは、何がしか「信心」とやらに近づいているのかもしれない。
伊達正宗だったか、別の人だったかの本で読んだが、偉いお坊さんに「これだけのことをしたのだから、何がしかの見返りがあって然るべきだが」と尋ねたのに対するお坊さんの答えが「無」だったと聞く。
上記のことに気が付いてから、無理やりかもしれないが、思ったのは、それが南無阿弥陀仏だろうが、アーメンだろうが、「唱えられる」と言うことは「生きている」と言う証なのだから、それをこそが「見返り」と思うことにしている。
だって、彼岸に行って良い思いをしていたところで、唱える(と言う能動的な)ことはなく、唱えられる(と言う受動的なこと)だけなのだろう。
さすれば、能動的なことが出来る「今」に感謝しながら一日、一時、一秒を過ごせばいいのではないか、と。
うんうん、仄々ではないけれど、これも一興だろう。
投稿者:つねちゃん
at 08 :59
| 日記
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ありがとうを貯金
先日の新聞投稿に、この趣旨の投稿があった。
「ありがとう」の気持ちをどんどん貯金しておいて、必要に応じて「小出しに使おう」という趣旨だと理解した。
それはそれで「なるほど」と思えるのだが、奇しくも私の今年の目標に「日々感謝しよう」というのを挙げている。
そういう意味から、私はむしろ「ありがとうを浪費しよう」と思っている。
目標を立てたのは、昨年末だが、奇しくも今年の御神籤には「感謝の心が湧いた時、身も心も明るくなる」という「大吉」だった。
無神論者に近い私だが、都合の良い事だけは信じる身勝手で、今年はこの方針で行こうと思っている。
このブログもそうだが、今のところ必ずどこかに「感謝」と言う言葉を入れている。
日記についてもそうである。
「感謝」と言うのは言葉に出して言うには少し硬すぎるので「さり気なく、飽くまでもさり気なく」、小声でもいいから「ありがとう」と言う事にしている。
随分以前にも書いたような気がするが、先ず一日の始めに「今日も生きていてありがとう」とこれは声に出して言ってみることである。
なぁーに、一度言ってしまえば、後は次々に出てくるものである。
最初の一歩は、二歩目の数倍以上の苦労がある、でも、それさえ過ぎてしまえば、後は楽なものだ、と言う趣旨の言葉を聞いたことがある。
それを聴いた(読んだ)ときに、私ながらに付け加えたのは「惰性でも良い、時々忘れても良いから、続けよう、『継続は力なり』と言うではないか」だった。
これを書いている今朝から今までも、少なくとも8回は言っている。
こうした「ノホホン」文章を書けること自体に感謝、これを読んで下さっている人にも感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :17
| 日記
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密入国
これを書くときに北朝鮮の情勢がどのように変化しているか、全く変化がないのかは計りかねるが、長男さんも次男さんも日本の「ディズニーランド」が大好きなようで、たびたび密入国をされていたとか。
果たして50億円で、戦わない「戦闘機」を買っているより、もっと密入国防止に金をつぎ込んでしっかりすべきではないのだろうか。
もう大分前になるが、その後韓国の大統領になられた方が、誰一人知られずに入国され、誰一人知られずに拉致され、新聞報道によって知らされる(書き方が少し極端だが、当時の私の記憶ではそのように残っている)という事件が起こった。
まだ若かったから、仕事仲間のうちの「飲み会話」だったけれど、喧々囂々、侃々諤々(読めるかなぁ?「けんけんごうごう、かんかんがくがく」です。最近は「喧々諤々」と誤用されているようですが、そのうち「一所懸命、一生懸命」と同様に、当たり前のように使われるのでしょうかねぇ)議論して、少し回りの人たちも引きずり込んだようになったのですが、最後には「そんな警察が悪い、イヤイヤそんな警察を選んだ役人が悪い、イヤイヤ、そんな役人を任命したやつが悪い、イヤイヤ、そんな人間を当選させた我々が悪い」と言うように「鼠の嫁取り」のような話で、賑やかに解散したことを思い出します。
諸姉・諸兄は果たしてどこに原因があるとお思いでしょうか。
いずれにしても、こればかりではなく「本当に必要なところにお金を使う」という認識が国民の大多数と違っているのではないでしょうか。
主権在民、とは言うものの、選挙の度に「私利私欲」に陥ってしまうのが、主権者たる我々でもあるのです。
でも、少しずつ変わって来ている様に思いますよ。
今の政治屋さんは「年寄りが投票率が高いから、年寄り向きの政治」と思っていらっしゃるようですが、それももう破綻の時期が見えているのではないでしょうか。
こんなことを言っても、どこかの国のように逮捕されないことには、それなりに感謝する次第ですが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
| 政治への注文
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筆が進む時、進まない時
このブログもそうだし、新聞への投稿でもそうなのだが、書くテーマは押し付けられたものではなく、自由勝手気ままなのに、全く思い浮かぶテーマが無かったりすることがある。 また、事前に思いついたことなのに、「確かにこのテーマは思いついた記憶はあるのだけれど、何がきっかけだったか思い出せない」と言うことで、筆が進む時とそうでない時がある。
いったん「進まない」と言うことになると、焦るせいだろうが、なお更進まなくなってしまう。
正直、脂汗が出るほど焦りまくることもあるのである。
で、そんな時の解決策は「ヤァーメタ」である。
先ずPCからも離れ、携帯電話やメモ帳などからも意識的に自分を隔離してしまうのである。
現在の一番の気分解消方法は、定期的に放送される「落語」番組である。
そんな時のために、落語の録画は結構永く撮ってある。
反対に、山本リンダ(大分古いなぁ)ではないけれど「どうにも止まらない」と言うことがある。
昨年のあるときが一番凄かったのではないだろうか。
兎も角投稿ネタが、最初のメモには3つだけだったのだが、書いているうちに倍の7つにまでなった。
それはそれで偶にあることなのだが、驚いたのは、最後に採用されたのは20日も過ぎてからだったが、7件の全てが採用されたことだった。
それに加えて、いつもは大体添削されるのだが、その時は殆ど添削されていないことだったのである。
一般的に「気分が乗る」と言うことがあるが、正にそんな気分だったのである。
そんなことは何年に一度か、あれが最後だったのかもしれないが、兎も角、書いていること自体が「愉快」なのである。
そんな気分に時たまではあるが、浸れることに、感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 09 :13
| 日記
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略字を書かなくなった
今年も相変わらず「書き取り」を続けている。
書き取りの効用については何度か書かせてもらったが、今回もその一環である。
今までの手書きでは「門構え」「雨冠」や「馬」の下の4点などを初めとして、およそ「スピード第一」と言うことで略字を出来るだけ沢山使っていた。
書き写しで、仏教系、論語などをやっていると、難しい漢字や、現代ではこのように書くなどの漢字が出現する。
流石に旧字をそのまま書くのは意識して止めているが、無意識に略字は書かなくなっていた。
雨冠は、正しく「雨」を書くし、門構えも同様に正しく書くように、気が付かないうちになっていたのである。
馬偏などについても、かつては、「ちょん」「すー」のように書いていたような気がするが、正しく四つの点を書いている。
勿論、これで「綺麗な漢字が書けた」などとは全く思っていない。
いや、むしろ「読めるけど下手だなぁ」と言うような感じがするのではなかろうか。
今年は、これに加えて「下手でも他人様が読めるような字を書く」と言うことに努めている。
これは、右手での書き取りは勿論だが、昨年から始めた「左手での書き取り」についても、同様である。
昨年までは「なぁーに、手・指の運動だから」と思っていたが、矢張り少しずつ書ける様になると、孫の学習と同様に「もう少し人が見て判るように」と言う気持ちになるのは、歳をとっても「欲」があるのは、まだまだ成長過程にあると思って、楽しくなってくる。
勿論、書いたものは、読み返して、すぐに「クシャクシャ、ポイ」でゴミ箱に行くので、他人様が見ることはない。
そんな思いをしながら、手・指の運動だけでない楽しみが今日も行えることに感謝している毎日である。
あっ、そうそう、今年から「日曜日は休み」にした。
投稿者:つねちゃん
at 08 :25
| 学習
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「間違っていないこと」が「正しい」事だとは限らない
現在正に裁判中の、かつての大物代議士も「俺の感覚では間違ったことはしていない」とのた(うち?)まわっておられるそうだが、それとは別の契機でこのテーマを思いついたのである。
こんな言葉は、結構耳にされるのではないだろうか、と同時に、自分では全く意識せずに「俺は間違ったことをしていない」と言っているのではないだろうか。
表題と同じだが、あえて書くが「間違っていない」と言うのはそういっている自分の独り善がりの見解であって、一般的な常識に合わせて「正しい事とは限らない」と思うことも結構良くある話ではないか。
相変わらず、余談になるが「独り善がり」と言う言葉は中々最近の人には理解されないようで、解説すると「マスターベーションだよ」と言うと、「いやらしい」と言う言葉と同時に性的な興味を示す目になっていることがある。
話を本題に戻して、いやいや、「独り善がり」とも考え合わせてみると、結構「自分勝手」な理屈を捏ね回していることが、勿論私もそうだが、殆どの人にあるのではないだろうか。
政治屋を含めて、色々な世界の有名人が「これ見よがし」に一般的には「慈善事業」を行っているのを見ると、なんだか自分の嫌な面を見せ付けられているかのような苦い思いをすることは無いだろうか。
それならが、昨年末にもあったと言うが「タイガーマスク」のような活動を「継続的に」続ければいいのではないだろうか。
かつて義賊として活躍し、TVでも人気を博した「鼠小僧治郎吉」のように俺は悪い事はしちゃいねぇよ」と金満家から盗んだ金を困っている人たちにばら撒く事に例えると、金満家は「人の良い土建屋」で、困った人は「(自分の)いうことを聞かない政治屋」だとすれば、やっぱり「秘書のやったこと」「俺は何も知らない」で、「俺の常識では悪いことはやっていない」となるのだろうか。
「金が仇の世の中だ、どうか仇に巡り合いたい」とは言うが、そんな金に巡り合わないことを「幸せだ」と小市民の一人は考えるのである。
感謝、感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :12
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物を「作る」だけでは「売れない」
リタイアして暫く経ってから、友人の勧めで「物作り工場」に勤務したことがある。
何しろ新興企業だから、少人数で「作る」ことは勿論「梱包」や「出荷」を初めとして全てのことをやらなければならないことになった。
「作る」と言う工程だけでも「生産管理」と言えば言葉は簡単だが、その内容は、音湿度調整(空調管理)、清掃や害虫対策と駆除など、それらに関する対外調整もあり、何事も疎かに出来ないのである。
そんな中でも「作れば売れる」と思っていたのだが、ある時「この品物を置いていただけませんか」と売り込みに行ったら「うちは6掛けだが良いかい?」と言われた。
在職中に初めてシステム販売に行った時に「この世界半値八掛けが常識」と言われたことがあり、「6掛け」と言う言葉自体には然程驚かなかったが、この時実感として初めて「何でだろう」と言う疑問が沸き起こった物である。
その仕事自体は1年足らずで退職した(首になった)のだが、このテーマを思いついた昨年末になって、ようやく気が付いた。
不景気ながらも、年末は商店街やデパートでは、商戦華やかである。
クリスマスが終われば、お正月、こちらの地方では天神様に関する商品も所狭しと並んでいる。
勿論新聞には毎日のように分厚い折込チラシが入っている。
で、ハッと気が付いたのである。
実際の物の値段よりもこれらのための経費が馬鹿にならないのであろう、と。
勿論人件費だってそうだが、飾り付けの品物も決して安くは無いだろう。
新聞に折り込んでもらうチラシだって、デザイン料から印刷費用、販売店への依頼料などが嵩張り、場合によっては(私もかつて新聞配達のアルバイトをしたが)量が増えれば重くなるので、その分のお手当ても必要だろう。
そんなことを考え合わせると、6掛けはむしろ良心的なのではないだろうか。
「籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」。
例えが適切かどうかは別として、今朝の朝食が食べられるのも、皆「他人様」の尽力による物だと思えば、価格は兎も角、一つ一つに感謝したい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :28
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1番とそれ以外
遅ればせながら、2012年を無事迎えられたことをお喜び申し上げます。
孫の休みと一緒に「長い冬休み」を頂きました。
どうか今年も、末永くお付き合いいただきますよう、お願いいたします。
昨年私の気を引いた話題に「京」があります。
処理速度が「世界一」になったコンピュータですね。
かつてある国会議員さんが「一番じゃなければ駄目なんですか、二番じゃ駄目なんですか」と指摘されたことでも話題性を高らしめたものでした。
私自身は、在職中のホンの一時期だけ「一番」になったことがあります。
短い期間でしたが「一番になる」と二番以降の人とは大いに違うことがあります。
二番以降の人は「必要な情報やデータなどありとあらゆる事柄を『自ら集めなければならない』」のです。
でも、一番だったら、勿論集める努力は継続するのですが、その努力した以上の情報が「寄ってくる」のです。
また、「こんな情報があるのだけれど、どう思うか」と言うようなヒントも自然に集まってきます。
だから、どんどん二番以降の人との差が大きくなっていくのです。
「なんでも一番」と言うのは欲が深すぎて、得てして失敗の憂き目を見るのでしょうが、「一時期、何かで、一番」と言う体験は非常に貴重だと思いますよ。
今は、そんなものになる気持ちは全く無くなり、このブログの心情である「徒然」「仄々」を楽しんでいますが、考え様によっては、こんな生活を感謝しながら楽しんでいる、と言うことが「一番の幸せ」ではなかろうか、とも思うのです。
勿論、これには「競争相手」は居ませんから、誰からも文句をつけられることも無いのです。
今年も、この「一番の幸せ」を味わい、毎日感謝しながら過ごしたいと思っています。
投稿者:つねちゃん
at 08 :15
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