「使い切る」
一連のブログも、この回で一度締めさせていただきます。
長い間お付き合いいただき、誠に感謝感激で、厚くお礼申し上げます。
で、最後らしく、標記の題材にしました。
これは、たまたまタイミングが合ったわけで思いついたもので、以前から考えたものではありません。
自分流調理で得意なものに「炒飯」があることは、何度も紹介させていただきました。
一昨日作ったものは、まさに使い切りオンパレードでした。
その中でも、ヤッター、と快哉を叫んだものが、「梅干しの汁」です。
夏頃に買って、当初は「健康飲料」という訳ではないけれど「口中清掃」と「爽快感」での薄めて飲んでいました。
それが、和風炒飯の塩気、として使っていたものが「使い切った」のです。
それだけではなく、後継として母が残して昨年気が付いた梅干しの汁も絞りました。
梅干しとしては、見つけた時から、今年の我が家産のものと交互に味わっていたのですが、梅の実と紫蘇に漬かりきって、出すのが難しくなっていたところだったので、ちょうど「渡りに船」だったわけです。
キャベツの残りも使い切りました。これは中々難しいのですよ。葉の部分は普通なのですが、芯の部分は今まではほとんど捨ててしまっていたのですが、細かく刻んで、油に大蒜の味をつける最初の時から弱火で時間をかけて炒めると、ちゃんと「使い切り」できます。
ことほど然様に、物は使い切りると、無駄なく生ごみの減量にも効果的です。
尤も、美味しさで体重は増量傾向になりますのが、玉に瑕ですが。(^◇^)
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 09 :06
| 日記
| コメント(0 )
防寒はストーブより「着膨れ」
この辺ではまだ積雪はほとんどないが、その分逆に「寒さ」がかなりである。
灯油の値段などを気にすることもなく、いつも通りのお店に頼んで、400Lのタンクに一杯にしてもらう。
たぶんいつも通りにこの冬はあと3回ほどお願いすることになるだろう。
で、「何か工夫はないものか」と考えた。
思いついたのが「厚着」である。
外へ出るときにはそれなりに「見栄え」とまではいかないけれど、あまり「みっともない」格好はしたくないので、それなりに「伊達の薄着」を心がけるようにしているが、家にいる場合はストーブの温度を20度以下にして、その分「見栄え」などは全く気にせず「着膨れ」を楽しむことにした。
幸いというか、まだ在職中にいろいろと用意して、数度しか着ていないものが捨てずに(この辺が断捨離とは大いに違うのだが)「押入れの財宝」の如くある。
それらを引っ張り出してどんどん着重ねするのである。
確かに動作が緩慢になるのだが、別に気にすることもない。
尤も、そうしたからと言ってまったく「何もしない」という訳ではないので、何かしらの体を動かすことは必然的にある。
そうすると、段々に暖かくというか「暑く」なってくるので、順次脱いでゆくことになる。
そしてじっとしているとまた寒くなるので、脱いだものを着る、の繰り返しである。
暖房費をケチるということが目的ではなく、私なりの防寒方法である。
やってみると意外に楽しいこと請け合いであり、そうして完全に着古したものには、感謝して捨てることで、「断捨離」の一端につながると思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :40
| 健康
| コメント(0 )
望年会
今年初めて、平日の夕方から家内と二人だけの忘年会をホテル機能付きのスーパー銭湯で過ごした。
サウナ、露天風呂などで気分ばかりでなく体もほぐした。
銭湯貸与の着衣なので、どこも締め付けることもなく、自ずとゆったりする。
いつもより少しだけ高級なお酒と、寄せ鍋も一人前、そのほかにいくつかの驕りと思われるおつまみなどを二人でつつきあい、「今年よかったこと」を反芻しながら静かに、それでもほんわかと話しながら過ごした。
飲めや歌えやも楽しいけれど、こんな風に来年も望年会ができることを期待しようと言い合いながら楽しいひと時を過ごせたことに、家族を初めすべての人に感謝した。
ちなみに、家内の「良かったこと」の一番は「自分の時間がたっぷりと持てたこと」だった。
母の介護が終わったと思ったら、まだまだ孫に手がかかり、好きな手芸などにも十分な時間が取れなかったのが、これからはたっぷりと取れそうだと前向きに語ってくれた。
また、私の「良かったこと」の一番は「こうして元気で家内(あんた)と望年会ができていること」だと言ったら、笑われたが、それがまた良いと思った。
いやなことを忘れる忘年会よりも、今年の「良いこと」に感謝して、来年に希望をつなぐ「望年会」も楽しく健康的ではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
| 健康
| コメント(0 )
質素だけど大好物
考えてみれば、よほど貧乏根性が染み付いてしまっているのだなぁ、とつくづくこのブログを書くにあたって思ってしまった。
先日の夕食に大好物のおかずが出た。
一つは、つみれ揚げである。
つみれは買ってきたものだが、それに人参、牛蒡、葱などを混ぜて少し味をつけて油で揚げるものである。
たぶんカロリー的には、油が少し心配だけれど、気にするものではないのではないか。
また、血圧的に言っても、追加で醤油などをかけないから、塩分をあまり気にすることもない。
つぎは、蒟蒻や大根、人参、牛蒡(上記と同様であるが)のたっぷり入ったトン汁である。
それに刻み葱をたっぷりと入れて、唐辛子も辛いほうのものを入れて食べる。
(我が家には3種類の唐辛子がある)
そして、最後が、大根の皮を厚めに剥いたものを金平仕立てにするものである。
鰹出汁の元と唐辛子を入れ、少し甘辛く味付けをしてある。
どうだろう、加工品以外はほとんど「旬のもの」であり、価格的にも安価である。
たったこれだけ、と驚かれる方もいらっしゃるだろうが、このほかにも、大根の葉のうち柔らかい部分は「ヨゴシ」としても活用している。
すべてお金で計算する訳ではないが、質素なものばかりである。
これに干鰯がつけば、私にとっては「豪勢、極まりなし」である。
やっぱり「貧乏性」のおかげか。
在職中はそれなりの給料を貰っていたから、世間相場でいう「贅沢品」を「高級店」で摂ったこともあったが、今思うとやはり落ち着かなかったなぁ。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 07 :55
| 健康
| コメント(0 )
書き取りが遅くなった
3日に掲載したものの後日談である。
あれ以来、トメ、ハネ、ハライなどに気を付けつつ、書き取りをやっているが、やはり60年近く慣れ親しんできたものはなかなか治らない。
それでも「孫に負けるな」と自分に言い聞かせて「落ち着けばお前だって一人前」とばかり一字一字を「落ち着いて」書いている。
ところが、どうしても出てきてしまうのは、持病の一つである「時間貧乏性」である。
今まで3つの書き取りには、約10分くらい必要だったのだが、それが先日気が付いたら20分近くもかかっているのである。
朝起きての早朝の作業だが、やはり10分の延長はどこかでカバーしなければならない。
残念ながら、現時点でまだそのリカバリー対策が確立されておらず、ウロウロしてしまっているのが実情である。
それでも、トメ、ハネ、ハライについては少しずつだけれども実績が上がってきていて、「無意識」のうちに書いていることに気が付くと、なんだか無性に嬉しくなってくる。
先日の「道徳的行動」ではないが、気がついて「エッ」という感じでの嬉しさと楽しさである。
これは、意外に楽しい。
お金もかからず、指先運動でボケ防止にもなり、お金に代えがたい楽しみがあるのだから。
そろそろ、来年の目標も考えなければならないが、これも候補の一つにしたいものである。
まだまだ「やりたいこと」があるというのは、精神的に「若い」ことの証でもあろう、これが沈没することになるかもしれないのだが、それこそ「無意識」のうちにできていられれば良いと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 08 :48
| 健康
| コメント(0 )
いよいよ最終章です
今日から明日にかけて、家内と二人だけの忘年会へ行ってきます。
従って、明日のブログはお休みさせていただきます。
「最終章」といったところで、2000件を超えたこのブログの一連の終わりということで、今後は、本来の「のほほん」「徒然」で、不定期のアップにするつもりです。
「気が向いて」「あいつまだ生きているかな」と思われたときに、覗いてみてください。
更新日付までは、少なくとも生きているわけで、「書くだけの気力と体力と、わずかな資金があって、生きていそうだ」と思っていただければ幸いです。
振り返ってみることは「恥ずかしいこと」や「みっともないこと」が多いので、あまり得意ではないが、スタートは2005年2月28日になっている。
なんでこんな日だったのかは、あまり記憶にないが「思い立ったが吉日」とばかりの勢いで始めたのだろう。
それにしても、自分ながらによく続いたものだと今更ながら思う。
「日々雑感」ということで、丁度「徒然草」を「読んでみようか」という軽い気持ちで始めたころだったと思い、恐れ多いけれど「これくらいなら自分にも書けそうだ」とのぼせ上り、「まぁ、気がついた時だけ書けばいいや」となり、そのうちに続けていないと何か忘れ物をしたような気になったものである。
中には、無知蒙昧の身の程も知らずに、およそ「仄々」から外れて世間に怒ってみたりもしているが、何とも「穴があったら入れたい」(どうしても助平心が抜けないなぁ)と思うことも屡だった。
このブログ上では、声なき読者の方々からも、直接「読んでいるよ」といわれると、恥ずかしいやら照れるやらで、これもまた一つの楽しい刺激だった。
年末は今まで通り28日が土曜日なので、27日まで続けようと思っています。
あと数日ですが、ご笑覧いただければ幸いです。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 健康
| コメント(0 )
「このくらい」で落ち着こう
今年の目標の一つに「人生は四苦八苦と心得る」というのがあり、すべてのついて「この程度」と思えば自然に感謝できる、と書いた。
この年もそろそろ締めくくりの時期だが、最近になってほかの目標は「まぁまぁ及第点、かな?」と思うほどだが、これだけは、もちろん「満点」ではないにしても、ほとんど「十分満足」の域に達したのではないかと思っている。
一つ一つを挙げ連ねてみても、たぶん、読者の諸姉・諸兄は「何だそんなこと」と思われるだろうから、開陳することはないけれど、自分としてはかなり満足している。
明日と明後日は、家内と二人だけの忘年会ということで、ホテル付スーパー銭湯でひと時を過ごそうと思っているが、それができることだけでも嬉しいことである。
もちろん豪華ホテルでの豪華食事というわけではなく、お酒だって「飲みなれたものより少しだけ良いもの」というだけのことである。
年金生活者としては、これだけでも十分幸せである、と思っている。
もちろん、決して「良いこと」ばかりだったわけではない。
振り返って悪いことを思い出すつもりは全くない。
それをやったことで、何が良いことがあろうか。人によっては「再度繰り返さないことの反省になる」といわれるだろうが、苦い思いをしてまでもやる気はない。
また、いつまでも「良いことが再び」などとも思っていない。
そういう意味で、良いことも悪いことも「このくらい」で落ち着いたと考えることはどうだろうか。
あと2週間ほどだが、一日一日をそのような気分で過ごし、大晦日には「今年も無事に一年が過ごせたね」で終われれば、これ以上の幸せはなかろう。
投稿者:つねちゃん
at 07 :37
| 健康
| コメント(0 )
一番怖がっているのは
北朝鮮のことについては、今まであまり興味がなかったが、自分の義理とはいえ叔父さんを処分した、ということには、さすがに驚いた。
これを人権問題だとする意見は別として、少し違う見方をするというのはどうだろうか。
今まで、議論し、同調もしていた叔父さんとの間が、誰かの讒言か噂話などで、「あいつは許せん」ということになってしまっての決断だったのではないか。
となれば、今後も別の人の「囁き」で紆余曲折するのではないだろうか。
ということであるとするならば、周りの人よりも誰よりも、一番怖がっているのは、本人自身ではないだろうか。
まったく次元を異にするが、在職中同僚の課長がノイローゼになり出社拒否症という事態に陥った。
なぜか私にその対応が回ってきたが、こちらとしてはそんなことなどまるで関係がないと思われていたのだろう。
単身赴任中で、無理やり陽気に振る舞い、細かいことは「笑い飛ばす」ことで自己解決してきた内心などは、誰も忖度してくれないし、口に出して訴えたところで「冗談だろう」と言われてしまう(実際にそんなことがあった)のだったから回ってきたのだろう。
だいぶん良くなった頃に、彼から聞いたことが今回のことに少しだけ通ずるような気がする。
「果たして僕がやってきたことは正しかったのだろうか、それにまったく自信がなくなってしまった」ということだった。
いくつかのお隣さんばかりでなく、トップとしては常に彼と同様な心配をしながら行動してほしいものである。
決して「私がやっていることは、常に正しい」と思うだけだと、相手には「粛清」という手段しか見えなくならないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :16
| 日記
| コメント(0 )
武者小路実篤の言葉
昔から、武者小路実篤の絵に描かれている言葉は、私なりの理解だが、けっこう好きだった。
いやいや、過去形でなく、現在も好きである。
「日々是好日」などはまさにそうで、極楽蜻蛉と言われようと「毎日が平和で感謝」の私にとっては、まさに「座右の銘」の一つだと思っている。
ところが、最近になって「えっ、これってこんな風に読んだらどうなのだろうか」という言葉に巡り合った。
「よく味はう者の血とならん」というフレーズである。
今までも目にし、口にしてきた言葉だが、素直な気持ちで読めば、「誰かが懇請して作ってくれて野菜や果物などは、粗末に食べるのではなく、味わって食べてこそ、食べた人の血肉になるのだ」ということで、物への感謝と無駄にしない様にという教えだろう。
ところが、歳とって天邪鬼の気持ちがせり出してきたのか、「味わわない者にとっては血肉にならないということか」と変な読み方をしてしまう。
間違いなく「曲解」なのだということは分っているのだけれど、つまらないツッコミが芽生えてくる。
もちろんだからと言って感謝もせず、無駄にしている訳ではなく、大根はなるべく葉付きのものを買ってきて、ほとんど全てを食べきることにしている。
正しく、というか素直に読む読み方と、少し穿って読む読み方を心得ていなければ、最近の色々な法律も「鵜呑み」にさせられてしまいそうである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :25
| 健康
| コメント(0 )
道徳的行動
書くネタに困った場合に、よく使わさせていただく本がある。
以前にも何度か引用させていただいたが、ずいぶん昔(昭和24年)に発行された「修養三百六十五日:島影盟著)である。
多分父の購入だったのだろうが、当時の父は三十二歳だから、その年齢の時にこのような本を読んでいたのかと思うと、改めて父の恩というか遺伝子に感謝したくなる。
祖父は父が十何歳かの時に亡くなっているので、祖父のものでないことは確かである。
今日のネタは、自分にも当てはまるものと、最近音読で気が付いたことである。
「これは『道徳的行為だ』と思ってやる行為はまだ身についていない」ということである。
出典は「パスカル」のようだ。
努力によってなされる道徳的行動は、道徳ではなく、平常に行われる行動がそうであってこそ、本当の道徳である、とのことである。
児童の下校時の防犯街頭指導、交通安全週間の割り当てによる街頭指導、朝の味噌汁づくり、毎週の家の掃除などなど、細かいことばかりだが、まだ「意識している行動」である。
大いに反省すべきことである。
最初は、「努力して行っていること」が「習慣化」され、そののち「当たり前」になってこそなのだろう。
そういう意味で「当たり前のことを当たり前にやる」ということが如何に難しいか今更ながら気が付いた。
尤も、それができた暁は「仏」なのであって、まだまだ修行僧の時は「菩薩」なのだろうか。足許にも及ばない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
| 学習
| コメント(0 )
即席露天風呂
時々「スーパー銭湯」へ行く。
内風呂と違うのは、やはり湯量の関係だそうで、沢山のお湯だと自分一人くらい入っても温度が下がることなどないというのがその一つの理由らしい。
よく行くところには、炭酸風呂、ジェット噴流風呂、寝ていられる風呂、座っていられる風呂、薬湯、サウナ風呂そして露天風呂がある。
諸姉・諸兄はどんな種類のお風呂に入られるだろうか。
私は寝ていられるのと座っていられるところは、まれにしか使わないが、そのほかは殆ど一通り以上は浸かることにしている。
昔は入った時から息苦しくなってくるのでサウナ風呂が苦手だった。それがある時、同僚と一緒に入り、技術論に花が咲き、気が付いたら5分以上も入っていて、すっきりした経験から苦手意識が消えた。
話を元に戻して、そんな中で最も好きなのが、少し温めの露天風呂である。
頭寒足熱ならぬ、図鑑体熱で、どれだけ入っていても上せることもないし、もちろん息苦しくなることなどない。
それが気が付けば内風呂でも可能だと、今更ながら気が付いた。
石鹸やシャンプーなどの化学薬品が入った体洗剤で洗うことは、この歳になるとあまり効果的でなく、むしろ弊害もあると聞き、それらを使うのは大体月に一度くらいである。
ほかの時は白湯をタオルにつけてゆっくりと洗うだけだ。
だから、勢い湯船に浸かっている時間が長くなる。
ラジオやオーディオを聞きながらだが、先日窓が少し開いていて、そこから適度な風が吹き込んであたかも露天風呂気分になったのがきっかけである。
湯室が冷めない程度と湯船に使っている時だけ窓を開けて、即席露天風呂を楽しんでいる。
ウトウトする前に上がらないと、水死という事態になりかねないから、オーディオの音を少し大きくしながら、健康的に入浴を楽しんでいる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
| 健康
| コメント(0 )
新しい鉛筆
折込チラシの裏などを使って「書き写し」を行っていることは、何度か紹介した。
その時に使う筆記具としては、紙質に合わせて、ボールペン、万年筆(在職時ほとんど使わなかったデスクペン)そしてまだ使える長さの鉛筆である。
父の残した分や息子、私自身が使い残したものである。
短くなっても長さを補正する器具を使って、5cm以下になるまで使った結果、ようやく先日すべて使い切った。
短くなったものは、断捨離の精神よろしく「捨てるべきもの」なのだが、なんだか可愛くて抽斗の奥にしまっておいてある。(この辺が軟弱だなぁ)
ということで、何十年ぶりかで「真新しい鉛筆」を下した。
まるで数十年ぶりかで味わう小学生気分である。
上二行は同じことを言っているが、芭蕉が松島を詠じたかのごとく、言うに言われぬ気持なのである。
ホールペンは何本も使い切ったし、シャープの芯も何度となく使い切ったけれど、それとはまったく違った感情である。
ボキャブラリーが少ないので、適切な表現ができないのがなんとももどかしい。
尤も、これも父が残したものである。
5本が箱に入って残っていたのである。
これも感謝しながら、5cm以下になるまで大切に使おう。
紙質がそろそろ鉛筆が使えないものになるので、来年まで十分に使えそうである。
楽しいなぁーーー。
投稿者:つねちゃん
at 09 :20
| 日記
| コメント(0 )
葱が上出来
今年は大好物の野菜のうち、葱が大豊作である。
今までは、苗が売り出されたころから畑の準備をして、十分な土の据え置きをしないで植えていたことも原因だったのだろうが、どうしても十分に成長せず、おまけに植え付けた本数のうち、約半分くらいしか「食用」にならなかった。
勿論、せっかちな性格で「この辺でいいだろう、これ以上は成長しないだろうから」と薬味にしかならない程度で収穫したこともあるのだろう。
ところが、今年は「種から育てた」のである。
今までも何度か挑戦したし、自分なりにストローを使って育苗を試みたことがあったが、結局はその時期になって「苗の購入」ということになってしまっていた。
実は今年も、「もうこんなマッチ棒にならないくらいのものは育つわけがない」と思いながらも、ある意味「放置」していて、気がついた時に「そうだ液肥をやろう」などと何とも不熱心な園芸作業だったのだが、やはり人間のなすことなどは、お天道様からすれば「何をやっているの?」と笑われることだったのだろう、ある時期気が付いてみると、しっかりとマッチ棒くらいの太さになり、背丈も鉛筆くらいに成長していた。
まだまだマーケットには売り出されていなくて、それから友人から分けてもらった藁と、籾殻を使っての畝作りから、十分な期間が取れたので、マーケットに出たころに慎重に植えつけた。
先日「余った苗」を植え付けたところから収穫した。
収穫しているときは「やはりマーケットに出でいるものとはずいぶん小さいな」と思ったが、台所で整理すると家内が「この前買ったものより数段見事だ」と言ってくれたので、自信を持った。
まだまだ本格的な畝には本数にすればたぶん100本近い葱が育っている。
今年は自産自消で味わえそうである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :54
| 園芸
| コメント(0 )
鼾より「屁
この時期は忘年会シーズンである。
在職中とは違って、回数もだいぶん減ったが、それでもその雰囲気というの今でもは好きである。
在職中は半分が「その日帰り」で半分が「お泊り」だった。
話題が反れそうなので、本題に戻って話を進める。
先日今季第一回の忘年会がお泊りであった。
昔は鼾をずいぶん言われたが、最近はそちらはそれほど言われなくなったのは、諦められたのか、それともそれほどの馬力がなくなったのだろうか。
それよりもむしろ朝の起き掛けに出る「屁」である。
丁寧に言うと「おなら」である。
鼾は自分の意識外の時に出るので、他人様はともかく、自分としては多分「快適」なのだろうが、屁はそんな訳にいかない。
どうしても意識して出すことになるのだが、対外は雑魚寝状態だから、どこに相手の顔があるかわからず、それだけに遠慮してしまう。
ところが、出るものが出したい時に出ないというのは、それがおなかの中で還流するのか、堪えているとだんだん辛くなってくる。
さりとて、まだ朝が明けきっていないし、まだ少し酔いが残っていそうで、足元もおぼつかず、小用を足すほど溜まってもいないので、屁のためだけに出ていくのも面倒である。
辛いのと迷惑をかけてもいけないのとの鬩ぎあいである。
意を決して外へ出て遠慮なく出せた時には、量の如何を問わず「すっきり爽やか」である。
これが決して健康にいいとは思わないが、なるべく出口のほうに寝て、早く外へ出られるようにしたいものである、と毎回思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 07 :58
| 健康
| コメント(0 )
お経は面白い
リタイアして父を見送り、それから数年後に母を見送った。
父の亡き後は、一家の主として、今まで全くと言っていいほど顧みなかった「お寺さん」との付き合いが始まった。
だからと言って、特別信心深くなったわけではない。
書き写しや音読を始めた時に、真っ先にとりついたのが、在職中にも一つのブームになった「般若心経」だった。
お風呂でのCDを聞きながらの「読経」も何度か経験して、一時期諳(そら)んじることもできた。
ある時、我が家の宗派とは一線を画すのだと知り、しばらくまったく別の分野の本に勤(いそ)しんで、遠ざかっていたが、少し飽きたこともあり、今度は家の宗派にも沿うものとして、「正信偈」に取り組んだ。
これも書き取りや音読、風呂や散歩中のデジタルオーディオプレーヤーを使っての読経を通じて諳んじることができるまでになった。
で、それも2年ほど続けて飽きてきたので、また宗教と離別になった。
先月から、また舞い戻って、今度というか、現在は「観無量寿経」に取り組んでいる。
こう書くと、内容が分かったかのように聞こえるかもしれないが、自信を持って言えるのは「全く解らない」のである。
でも、なんというか「飽きが来ない読物」であることは確かなような気がする。
先日も書いたが「内容が分からないから面白い」ので、それに加えて「飽きが来ない」というものであれば、1冊の文庫本でずいぶん楽しむことができそうである。
こんな調子だから、とても「信心」とは仲良くなれそうにない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :41
| 興味あること
| コメント(0 )
「難読後の由来」の音読を終えて
朝起きて、幾つかの本の音読を続けていて、今回表記の本の音読が終わった。
本の内容は「えっ、こんな言葉が読めない人がいるの、とか、へぇー、こんな言葉にはこんな由来があったのか、とか、なんという読み方をするのだろう、一つ一つの漢字の意味はどうなんだろう、と電子辞書を繰りながら読み進めるのも楽しみの一つである。
そんなことから、以前にも紹介したように「自分って、どんなに『もの知らず』だったのだろう」と思うことがしばしばである。
この本に限らずだが、「知っているようで、知らない」ことがあまりにも多いのに気が付くと、かつては「なんと俺は馬鹿なんだろう」という感情に陥ることが多かったが、最近は「なんと気づかせていただいて有難いことか」と素直に思えるようになっている自分に気づくことがなんとも楽しい。
在職中は、落語の「薬缶」ではないが、ある地位になると「それはそうだね」とかと「知ったかぶり」をしていて、後でもう一歩調べ進めて、後日「そういえば、この前のあれには、こんなこともあるんだってね」などと嘯いていた自分を今恥ずかしく思い出す。
先日も、孫から夕食の時に「アーメン、ってどんな意味?」と聞かれ、家内も母親である娘も答えられなくて、こちらに回ってきた。
宗教というものや仏教というものにはまだそんなに理解がないことだから、母が亡くなった時のことは覚えているだろからと「お参りするときに『なむあみだぶつ』と言っただろう。その時の「なむ」に当たるキリスト教の言葉だよ。」と教えた。
分かったのかどうか分からないけれど、それ以後の質問はなかったので、正直ホッと胸を撫で下ろしたが、当たらずとも遠からずではないだろか。
音読もこんな効果があるのが、なんだか楽しくなったのと、まだまだ突っ込まれたら答えられないなぁ、と知識の足りなさを実感した。
それもまた楽しである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :51
| 健康
| コメント(0 )
漢字を改めて学習
ここでも何度か紹介したが、小さいころから漢字ばかりでなく、文字が下手(汚い)で、職場で和文タイプライターが導入された時には、真っ先に取り組み、たぶん日本で最初ではないかと思うワープロが登場した時にも、我先に活用させてもらった。
だから、「文字が下手」はそれで随分と回避することができた。
リタイア後、「手で文字を書けない」ことにがっくりした。
それで一念発起して、もう書き取りも10年以上続けていて、それなりに「書く楽しさ」も分かってきていたつもりだった。
孫が学校で「漢字大会」があるというので、その練習シートを作ってくれと持ってきた。
B4版の用紙なのでそのままコピーができず、得意のExcelでシートを作成して渡した。
小学2年生のものは「フゥーン」という感じだったが、小学4年生のものは送り仮名つきのもので、作った後で、私も手書きでやってみて、孫娘に見せると、「私の先生だったらこれではすべてダメだと思う」との評価に愕然とした。
漢字の基本である、ハライ、トメ、ハネという基本が全くダメだというのである。
10年以上も続けてきた「書き取り」は何だったのだろう。
でも、そこで思い直した。歳をとっても前向きなのである。
ならば、孫と競わないまでも同じようになれるようにしよう。
残念ながら「先生」を求める訳にもいかないが、そこは使い慣れたインターネットで、書き順や基本を明示してくれるサイトも知っている。
一文字一文字、遅くてもせめて孫に「これなら合格点」と言われるように同じ漢字シートで練習したいと思っている。
もちろん2年生の分も含めて。
また楽しい学習のネタが増えた。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
| 学習
| コメント(0 )