技術の進歩徘徊を追跡(7/25に掲載された)
認知症による徘徊が問題になっている。
父も夕食が終わってから「会社へ行く」と言って出かけ、祖母の実家付近を徘徊していた。
軍隊で鍛え、身長が177cmもあったから、とても母や家内では止められず、リタイア後、しばらく付き添って出かけたことがある。
最初は適当に話を合わせていたが、それもだんだんひどくなって付き合いきれなくなったと言うのが本音で、決してほめられたことではない。
私の場合は携帯を持たせたが、忘れるのか嫌なのかほとんど役に立たなかった。
最近はウェアラブルコンピュータの技術が目覚ましい進歩を遂げている。
きちんと追跡できるような方法を考えて、安価に誰でも使えるようになことを期待したい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :13
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左右の手で書き写しを(6/10に掲載された)
朝の日課の一つに、左右の手で「書き写し」をやっている。
書いて覚えるのが目的でなく、昔から字が恥になるくらいの悪筆だったので、ワープロの走りが出た時に飛びついた。
それ以来、ほとんどすべての文章を機械に頼っていたせいで、リタイア後、孫に字を教える際、満足に字を書く事ができなくなったのがショックだった。
そのリハビリと左手での書き取りはボケ防止である。
机にはデスクマットが敷いてあり、冬場の長袖を着ている時は都合が良いのだが、半袖になるとべたべたくっついてしまう。
そこで、家内にタオルで「うでぬき」を作ってもらった。
非常に便利である。
こんなことでも季節の移ろいを感じられることが幸せである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :10
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楽しいこと繰り返そう(6/16に掲載された)
両親を無事に見送り、息子夫婦に孫一人、娘夫婦に孫二人、メタボリックながらも表面上は特別支障もなく、家内も含めてわずかだけれど、ささやかな奉仕活動もしている。
そして、44回目の結婚記念日を無事に迎えられたことに家族だけでなく、地域社会の人々に感謝したい。
「今」をはじめとして、楽しいことばかりを作りだそうとしている。
畑の作物が順調で、庭の花がきれいに咲いている。
公園の新緑がきれいで、散歩をすると「フィトンチッド」をたっぷりと吸うことができる。
旅行会社の都合で記念日旅行は1カ月延びたが、今年は北海道である。
まだ自分の足で歩ける楽しみである。
さぁ、また45回目に向けて、楽しいことを繰り返していこう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :42
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イチゴ収穫楽しみ続く(5/26に掲載された)
今まで何度も挑戦したイチゴだが、肥料が足りなかったり、天候や気温が芳しくなかったりで、小さなものしかできなかった。
反省を込めて、昨年から今年にかけてたっぷり目の肥料も施したせいか、今年は見事に白い花がたくさん咲いてきた。
咲く時期が一定ではないのは、まだ土が改善されていないからかもしれないから、まだまだ改善の余地ありで、それがまた楽しみでもある。
そんな中、最初に咲いた花が大きな実をつけてきた。
赤くなると、タヌキなどに収穫されてしまうので、防獣ネットで覆っておいた。
先日ようやくピンポン玉くらいの大きくて真っ赤なイチゴが1個だけ収穫できた。
神棚に上げて感謝して、2人の孫が喜んで半分ずつ おいしそうに食べてくれた。
これこそが家庭園芸の楽しみである。
時間を待てばまだ10個くらいは収穫できそうなので楽しみもまだ終わらない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :27
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「溜めない」必要性を感じ(5/11に掲載された)
御案内の通り、今日から「年末年始休暇」としてオリジナルテーマではなく「新聞投稿して採用されたもの」の転記とさせていただきます。
先日、思わぬ時に血圧が上がることに気が付いた。
高血圧の診断を受けてから、投薬治療を受けながらも自分でも毎日血圧測定をしている。 ところが、先日160と言う数値に出くわしたので慌てた。
原因を考えると、おしっこを我慢して測っていることだった。
ちなみに、今朝も似たような場面だったので、排便後に測ると、案の定安定値に下がった。
健康面から考えるとできるだけ「溜めない」ということの必要性を感じた。
投稿者:つねちゃん
at 06 :33
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翌年の目標 その3 メンタル
さて、今年も今日が「官庁の御用納め」の日である。
と言うことで、すでに案内の通り「オリジナルブログ」は今年の分は今日でお仕舞となります。
順序が逆になりますが、今年もお付き合いいただき、誠にありがとうございました。 来年が皆様方を始め、世界中のすべての人々にとって、戦争や虐めなどが一切無くなり、みんなが仲良く、恙なく平穏な日々が送れることをお祈りいたします。
で、最後の目標項目は、なかなか「定量目標」を定めにくい「メンタル」な事柄です。
でも、基本的にこれは「感謝」に尽きると思っています。
在職中に仕事の性質がガラリと変わったことがあります。
今までは「お客様にメリットを提供して、その対価をいただく」と言うのが資本主義的な「働き甲斐」だったのですが、「社内システム」を担当するようになり、組織もそのようなところになりました。
その時、部下に「あなたたちの『お客様』は誰か」と聞きますと「みんなおんなじ会社の人だから、特別『お客様』はいない」という意見を聞きました。
そこで怒鳴り散らしたことがありました。
宮本武蔵を著した吉川栄治の言葉だと聞いていますが「我以外皆わが師」と同じで、同じ社内の人でも一人一人が「お客様」なのだ、と諭しました。
そのしばらく後で、尊敬する上司が「これからのシステム作りは「Give and Take」ではなく「Give and Give and Give」なのだ」と言われたことに意を強くしました。
良く「飲み合った上司」だったので、その後も親しく交流させていただきましが、基本的にどんな仕事をしていても「感謝」の気持ちが無ければならない。
それが回りまわって「おこぼれ」としてお給金が頂ける、のだと。
リタイアしてだんだん自分にとっての『お客様』が見えなくなりつつありますが、「我以外皆わがお客様」と言う気持ちを持ち、人ばかりではなく、自然環境などについても常に「感謝」の気持ちを持ち続けたいと思っています。
そういう意味で、朝起きた時に感謝、夜寝る前に感謝を始め、日に必ず10回以上「感謝という言葉を」発していきたいと思っています。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
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翌年の目標 その2 ビヘイビア
行動指針としての来年の目標の基本は、「『後で』と言う時はない」と言うことになろうか。
このことは「言うは易き、行うは難き」と言うのがどうしても正しくて、なかなか実践できないのだが、「あれもこれも」と言うことではなく、「気が付いたら付け加えていく」と言うことで臨みたいと思っている。
「禁煙」と同様に、今まで何度でもやってきて、何度も失敗したことだから、私の性分としての「メモ魔」をうまく使って、心の中ででも具体的に口に出してでも「後で」と言う言葉を思いついたらそのことをメモして積み重ねよう。
年間目標を100項目くらいにしてみようか。
もう一つは「慌てるな、ゆっくりやれば自然と落ち着いて考えられる(行動できる)」と言うことにしたいと思っている。
在職中は全く逆で「即決即断」を旨としてきたし、そのように指導もしてきた。
勿論そのためには「直情的」なことは慎み、「常に新技術や動向を十分に把握咀嚼しておく」と言うことが必要不可欠だった。
でも、リタイアして10数年、もう「誰かと競う」と言うことはないのだから、ゆっくりと、むしろ「緩慢に」とでも言っていいような行動にしようと思っている。
具体的に思いつくのは「書き写し」だが、升目いっぱいに丁寧に文字を書きながら行うということだ。
例えば「一」と言う漢字を升目一杯に書いてそれが「様になっている」と言うように。
一休禅師の逸話だったかどうか忘れたが、長い紙に「何か一言」と請われて書いた文字が「し」と言う一文字だったというのを思い出す。
そこまでではなくても、落語の「粗忽の釘」に出てくるような「落ち着き」を身につけたいものである。
「落ち着けば、お前さんだって一人前なんだから」。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
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翌年の目標 その1
今日から3日間は、来年の目標設定に対する基本的考え方を整理しておきたい。
先ずは、今年からの継続案件であろう。
体重は75Kgを3月までに実現し、年内はプラスマイナス2Kgに抑えたい。
今日現在(最近この体重を維持しているが、目標達成にはなっていない)で、体重が78.8である。
身長が177cmなので、世間的にはBMIとして25.15となっていて、特別「肥満体」と言う指摘を受けるほどではないのは理解しているが、かつて25にしたことがある。 ある時の忘年会で温泉に行った時に大きな鏡に映った自分の姿を見て悄然としたことがあるので、75が自分にとって適当なのでその数値にしたい。
腹囲についても85はメタボのギリギリだが、そちらからの目標ではなく「昔のズボンが無理なく穿ける」ことが目標である。
このように「フィジカル」的な目標を3個にして、毎月「目標の達成度とできなかった時の反省と修正」を我が身に課して行きたい。
これこそが在職中部下にも自分にも言い聞かせた「PDCA」である。
こんな風に考えれば、「常に前向き」でいられるだろう。
さて、もう一つは何にしようか、1月2日には確立して紙に書き、目につく至る所に張り出しておこう。
確立した時点でまた改めてご紹介したい。
皆さんも項目は別にして「前向きな目標設定」をして楽しまれてはいかがでしょうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :21
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今年の目標の達成状況と反省
今年の目標として、年初に次の項目を設定した。
以下、各項目についての成果と反省を述べさせていただいて、休日明けの「来年の目標」設定に反映したい。
体重の75Kg。年初79.8が今朝時点で78.8。
これではまるで落第点であることを反省。
勿論来年も継続するが、減食を本格的に考えることにしたい。
勿論「無理せず」が根本であるが、幸い一度に少しでも、満足感が得られていることは実験済みだから、来年末には「目標達成」を報告できるだろう。
また、動機づけを「昔の服が着られる様に」にしたい。
腹囲の85cm。
最大値99が今朝時点で93。
目標には到底及ばないけれど、一定の成果があったこととを自覚している。
これも継続で、体重と同じ動機づけとしたい。
トイレは座って。これは80%以上は達成している。
今後は「習慣」として継続できそうである。
実際にやって見られてはどうだろうか、「茎の雫」が気のつかないうちに「老臭」になっていないかが少しだけわかるような気がしますよ。
使ったものは元へ戻す。
これはほぼ及第点になっていると思っている。
「後で(やる)」は基本的にやらないことである。
「直ぐ(やる)」と物が一定の所に常にあるから、結果的に効率化になる。
わからないことは即調べる。
これは多分100%達成。
それを残してやっていると気持ち悪くなっいる。
勿論「覚える」は基本的にやっていないので、その代わりに「何度でも調べる」ことにしている。
漢字の書き順に気を付ける。これも上記と同様にほぼ100%達成している。
継続だけれど目標とはせず、習慣づけ。
このように整理すると、どうだろうか、僅かだけれど「達成感」が味わえたような気持になり、未達のものも「後ろ向き」ではなく、来年へ向かっての目標になるから「前向き」になるだろう。
それが少しだけ「老化予防」になると思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
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読者の皆さんに感謝
かなり私なりの独善的な「幸福論」は如何だったでしょうか。
「気に食わない」と思いながらもお読みいただいたことに感謝します。
今月に限らず、いやいや徐々に削除しつつある最初のシリーズのブログについても、「異論・反論」を沢山お持ちの方がいらっしゃるのだろうと、確信しています。
「若造が」と言う方も「変な年寄り」と言う方もいらっしゃるでしょう。
それが当然なのです。
どこかの国じゃないけれど「俺の言ったことはすべて正しく、反論するやつは」と信長的な意見をお持ちのようでは困るでしょう。
尤も、今回の選挙では見事にそうなりかねない結果になりましたが。
このブログへの書き込みは殆ど無いので、読者の方には届きませんが、オフの場で、いろいろな意見をいただくことがあります。
勿論反論も含めてです。
年賀状の季節ですが「読んでいるよ」と言う嬉しい一言もいただきます。
「声なき読者」も意外な所にいらっしゃるのだなぁ、と感心したり、感激したりしています。
そんな訳で、幸福論の最終としては「読者の皆さんへの感謝」で閉じたいと思っています。
今年の大晦日も家内と二人で過ごしますが、寸前までふくれっ面していても、除夜の鐘を聞く時(ほとんどの場合TVからですが)には「今年もいろいろとありがとうございました」と挨拶を交わして、大晦日恒例の「瞬きしていると見逃す」ほどの短いクロスランドの花火を見て、新年を寿ぎ、就寝する予定です。
「終わり良ければすべて良し」と言うことで、長らくお付き合いいただき「有り難うございました」。
まだ年末まで少しずつ書きます、お邪魔でなければ覗いてみてください。
投稿者:つねちゃん
at 08 :48
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すべてのことに感謝
いろいろと書いてきたが、結局は初めに戻るようだが「今、生きている」ことが最小かもしれないが、最大の幸せなのではないだろうか。
そういう私だって「なんでこんなに苦労しながら生きていなければならないのだろう」と思ったことが一度ならずあったのが本音である。
単身赴任の時、愚痴をこぼす相手もいない。
出張時「明日までに責任のある結論をもってこい」と言われた時。
「お前じゃだめだ、別の人間を充ててくれ」などなど。
お客様や上司ばかりではなく、部下や同僚に対しても似たり寄ったりのことがあった。
よしんば家族と一緒でも、そんなことを説明しても何らの解決にはならないことは分かりきっているので、内に籠るばかりである。
「死のう」などとはそれだけの度胸もなかったので、もっぱら「酒」に逃れた。
石原裕次郎の「わが人生に悔いはない」の「鏡に向かって乾杯を」とか、河島英伍の「時代遅れの男でありたい」の「酒場の隅に置いて行く」とかと言う状況を自分で作り出し、「酒で忘れました」と「蛙の面に小便」を決め込んだこともあった。
それがどんなひどい罵声を浴びようともである。
リタイアしたから言うわけではないが、そうして「生き恥を晒し乍ら生き永らえた」と言うことが結果として「良かった」ことだと思っている。
そんなことを思い出しながら、「来し方」を反芻してみると、罵声を浴びせた人も含めて「みんな自分を育ててくれた」と思えるようになっている。
そういう意味から考えれば、表題の通り「すべてに感謝」である。
まだまだ「終わり良ければ」と言うほど終わりは(自分には)見えていないが、そのように日々思っていれば、毎日、その時が感謝のし通しであろう。
今月の「幸福論」は明日で終わります。
今年の定期ブログは26日までとし、来週の数日は今年の目標の反省と来年の目標について書かせていただく予定です。
29日から1月5日までは「採用された投書」でお茶を濁させていただきます。
投稿者:つねちゃん
at 08 :32
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何時感謝するか
表題への続き言葉は、今流行りで私も大好きな「今でしょっ」ですよね。
いろいろと感謝する「相手」を述べてきましたが、それじゃ「何時」感謝するのだろうか。
これは確かずいぶん以前にも同様なことを書かせていただいたと思うのだが、自分自身への確認と言う意味でも述べさせていただきます。
結論から言ったほうが早いと思いますが「その都度」でしょう。
人に何かをして頂いた時も当然そうでしょうが、人に何かをしてあげられた時も同様に感謝すべきでしょう。
仏教的なことはまだ十分に理解できていませんが「施餓鬼」と言う言葉があるようです。
「餓鬼に施しを与える」と言うことのようで、お釈迦様は飢えて子を持つ虎にその身を呈したという逸話があるようです。
それほどのことまでしなくても、例えば人から道を尋ねられた、ということに教えてあげられるということは、見様によっては有り難いことではないでしょうか。
最近は昔の言葉の意味も違うように解釈されて、それが通用するようにも言われますが、「情けは人の為ならず」がそのいい例でしょう。
人に物を教えてあげられたことが、巡り巡って、場合によっては数倍と言うことで我が身に帰ってくることが「無いとも言えない」のですから、「してあげられた」と言うことはそれだけ自分の帰ってくる徳を授けられる種が撒けた、と感じれば、幸せだと思えませんか。
日課の一つとして、朝起きた時、自分だけに聞こえる小さな声でも構いませんから「今日起きられて有り難うございます」と言ってみてはいかがですか。
また、寝る時にも「今日も大過なく過ごさせていただき、有り難うございます」と言ってみましょう。
少なくとも、それを言っている間は「幸福」なのですから。
投稿者:つねちゃん
at 06 :42
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年賀状のやり取りができる幸せ
昨日から年賀状の受付が始まった。
今年は、年賀葉書を出すのは今のところの予定では81枚である。
年々少なくしていくようにしている。
だからと言って、年賀の挨拶自体を少なくしているのでは決してなく、「葉書」が「メール」に代わりつつあるのである。
だから賀状の減少につれて、年賀メールが増えて行っている。
残念ながら、お世話になった上司や年齢が上の同僚の中には訃報が届くこともあるが、それはそれで致し方ないと冥福を祈るばかりである。
そんな訳で、葉書とメールでのお付き合いは120人くらいで、総量としてはあまり変わっていない。
現実的な付き合い以来何十年も顔を合わせていない人もいるが、お互いに「年に一度」の近況を報告し合っている。
また、新年早々に会うことになっている人にも年賀の挨拶をする人も多い。
そんなこんなで「在職中の虚礼廃止」も構わずに行っている。
ここで、絶対に「やってはいけない」ことを自分に課しているのは、リタイア後のやり取りについてである。
「こちらが出したのに来ない」ことを恨まない、ことである。
当たり前の話だが、これが人によっては腹が立つことは、在職中は正直かなりあった。
腹が立つのと同時に「どうしたのだろう」と心配する人もいるので、余計な心配をすることもあった。
葉書をメールにして、本人もメールで帰ってくる人が、なぜか葉書できたりすると、やはり心配してしまう。
文章上は「こちらも元気でやっている ことしもよろしく」とあるのだが、腹を立てたり、心配したりしないで、今年も来年も恙無いことを祈るばかりである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :37
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孫がいる幸せ
「孫」と言う人種は、家族とは一味違う人種ではないだろうか、決して偏見などではなく、よく言われる「目の中に入れても痛くない」と言う可愛さからだろう。
自分の血が1/4入っていると思えば尚更だけど、他人様によってはいろいろな縁で必ずしもそうでないこともあるだろうが、それでも多分「孫」と言う存在は特別なのだと思う。 残念ながら、そうではない事件や孫から蒙るような事件もあるが、仄々や徒然精神からは敢えてそれを見ないようにしよう。
最近の「少子化」と言うことから、同級生や年齢の近い人には「孫」がいる人が(昔と比べて、という前置きはあるが)かなり少ないように思う。
そのくせ「お前んところは孫がいるからなぁ」と羨ましがられる。
そんな時は、素直に「そうなんだよ、可愛いよっ」と言うことにしている。(^◇^)
特に「爺」としては、無責任にそう思う。
さりとて、世の「母親」や「婆様」が言うように「爺」だって甘やかしてばかりではないのですよ。
そこは仕事をはじめとして生きてきた経験から「何でも叱りつけて躾ければいい」という場面ばかりではなかったから、相手がいくら若くて弱小であっても、できるだけ「自尊心」を傷つけないように、細心の注意を払いながら「駄目なものは駄目」程度にしているだけなのですよ。
勿論「それくらいは大目に見てもいいじゃないか」と言う甘やかしがあることを否定するものではありませんが。
どちらにしても、「孫がいる」と言う幸せ感は持ってみて初めて分かるものだと思います。
今からでも遅くはありません、精子や卵子が元気な息子や娘に「早く結婚して孫の顔を見せてくれ」と頼んではいかがでしょうか。
よく言うじゃありませんか「一人口は喰えなくても、二人口は喰える」と。
三人口になればできるだけ「爺婆」が支援してやればいいじゃないでしょうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :20
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一病息災の幸せ
一般的には「無病息災」と言うのが通例であるが、私はなぜか20代のころからこちらの言葉の方が好きだ。
幼少時には「健康優良児」と言うことで表彰も受けたと聞くし、その後3歳の時に「小児疫痢」と言う病気になり、生死の境を迷って、今は亡き両親や祖母にまで世話になったと聞く。
その後は「病抜け」のように、ほとんど病気らしいことには遭遇しなかったので、それが糸を引いているとは思わないのだが。
課長職になったある時に、部下のお母さんの不幸に遭遇し、お父さんとの話に「やっぱり人間無病息災が一番やちゃ」と言われ、若いこともあったのだが「それは違うでしょう」と場も弁えず議論したことを、自分の至らなさに今でも苦々しく思い出す。
でも、やはり「無病」だと「慢心」が顔を出す。
だからちょっとした異変でも「何でもないさ」と見過ごしてしまうことになり、気が付いたら大変なことになっていた、ということは枚挙にいとまがないくらいである。
私はそういう意味も含めて、昔から「臆病者」だった。
だからいまでも「これは大変な病気(もしくはその前兆)ではないだろうか」と思うこととが多い。
そんな私でも、「なんともないさ」と思ってしまうことがあり、それを他人様から指摘されると、「そんなことはないさ」という反論が咽喉から出そうになる。
そこを「グッ」と抑えるのだが、最近はそれがそんなに苦痛にならなくなってきている。
「そうかも知れないなぁ」と思うようにして、できる限り(この辺が横着なのだが)自省したり、定期診察の時に医師に相談することにしている。
そんな心配をしながらも、毎日大過なく過ごせている、ということはやはり幸福なのだろう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
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趣味が楽しめる幸せ
「趣味」と言っても、最近はネット情報を活用したものなどがあり、その関係の世界に長い間いたからこそ「どこからが趣味でどこからが仕事、または単なる遊び」と言うのが分からなくなっている。
と言うほどに趣味の種類が多いので、果たしてそれが「楽しみ」=「幸せ」になるかどうかは分からないけれど、ここではやはりこの年齢に相応したように、昔ながらの「趣味」と言うことにしよう。
最近はほとんど「発信」することはないが、一時期は「King of hobby」といわれたアマチュア無線はずいぶん長い間の趣味である。
資格も最高の「一級」を持っているからいろんなことをやろうと思えばできるのだが、残念ながら高所作業が必要になるアンテナ細工が昔ほどできなくて、最近はもっぱら「受信」だけになっている。
やはりこの季節では難しいけれど「釣り」だろうか。
結果が、ボウズでもいいのである。
私の場合は投げ釣りなので、あまり普段使わない筋肉を伸ばすだけでも気持ちがいい。
また、度々ブログでも取り上げている「園芸」である。
これも形は全く問わない。
収穫できたものへの感謝とそれを味わえるのが楽しい。
時には「生産者しか味わえない」ものが食べられるのも楽しい。
例えば「新鮮この上ない摘まみ菜」である。
似たようなものはスーパーの地産地消のコーナーにもあるが、新鮮さと言う意味ではやはり違うと思っている。
この線上にあるのが「調理」である。
これは、在職中の単身赴任時代から、幾多の失敗を踏まえて「自分だけの味(得に辛いものになるのだが)」を現在も極めるべく奮闘中である。
つい先日も、家内や娘などの待望していた「精米機」が入手できた。
私は米の方ではなく、むしろ「糠」の利用法が楽しみである。
初めての糠は同量の「ゆかり(赤紫蘇を乾燥させ塩を加えて粉末にしたふりかけ)」と一緒に炒った糠を混ぜた。
糠臭くは全くなく、健康にもいいというから、これに我が家産の唐辛子を加えて私独自のふりかけにしている。
あまりお金を掛けず、精神的にも物理的にも健康に寄与するという趣味は最高である。
これが「幸せ」でなくてどうしようか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :37
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時折の旅行ができる幸せ
今年もつい先日、家内との望年旅行ができた。
例年行っている結婚記念日旅行は、今年は道北旅行で、現地の人には申し訳ないけれど、その地方が豪雨被害の出た後であり、利尻、礼文の島々が海岸線からも現地でも素晴らしい天候に恵まれた旅行だった。
家内との旅行で決まったものはこの二つだが、町内仲間では年末に出掛ける忘年・研修旅行と言うこともある。
今年は何とか参加人数を増やしたいとの事務局で考えた「日帰り」だったけれど、それなりに楽しく過ごすことができた。
このように「安・近・短」を含めて様々な旅行に出掛けられている。
これ自体素晴らしいことと常に感謝している。
最も身近な旅行は「買い物ツアー」でなかろうか。
これは大体家内とではあるが、日常の品物を車で買い物に行くことである。
「そんなの旅行じゃない」と謗られるかもしれないが、私としてはれっきとした旅行なのである。
市内の場合もあれば、隣接市の時もあるし、物がはっきりとしていて、そこにしかなかったり、そこが愛用の店だったりすると、隣県までも出かける。
そのために保険を掛けたりなどは勿論しないけれど、よく言うように「玄関を出てから、玄関に入るまで」が旅行なのだと思っている。
主に車の場合が多いので、帰宅して車庫に入れて玄関に入るときに「ありがとう」と自然に感謝の言葉が出る。
「そんなことは幸福でもなんでもなく当たり前」だと言う方も多いと思う。
事実、在勤中は、車での通勤が主であり、そんなことは思ったりもしなかった。
でも、今は「なんにでも感謝、感謝し続ける」ことこそが大切だと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :30
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友達や近所付き合いができる幸せ
在職中は、最初の二年間は「交代勤務」とし言うことで、「宿直・宿明」と言うことで、二日分働いたので、その日中は家にいた。
当然同級生はその間働きに出ていて家に居る者はいない。
また、近所の人からも「何をしているんだろう」と母が聞かれたそうである。
それも面倒になり、少なくとも宿明の日には、金沢などへ出かけていたものだ。
だから、就職してから日曜や祝日も関係ない交代勤務だったから、近所の友達との付き合いは殆ど無くなった。
2年間の東京での研修所時代から、その後3年間金沢で在籍して勤務したのだが、勤務地が富山で、職務の関係上半分以上が出張で、その後本社勤務と言うことで在職中の半分以上を過ごした。
だから、「近所の友達」と言う人との付き合いはかなり限定されたものだった。
ところが、同級生より少し早くリタイアしてからは、懐かしがられた訳では決してないだろうが、付き合いがどんどん増えてきた。
研修所時代の友達とは、2年に一度の同窓会があり、高校時代の同級生は約3か月に一度、中学時代の同級生とは半年の一度お酒を交えた「何でも喋ろう会」。
町内と言う近所の方々とはいろいろなイベントで年に数回の懇親会などがある。
そういう付き合いができるというのは、何にもまして幸せである。
元来お酒好きで、そのために現在でもいろいろなヘマを性懲りもなくやったりしているが、何とも幸せである。
おしゃべりするネタもそこそこあり、何にもましてお酒が飲めて、特別ドクターストップがかかるほどの節食や、好き嫌いなどもほとんどないので、美味しくいただけるものばかりである。
これを「幸せ」と言わずにいられようか、という所である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :17
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家族がいる幸せ
素直に「家族」がいる幸せを感じよう。
家族は、当たり前にいる時には空気みたいにほとんど何も感じないかもしれないし、場合によっては「居ない方がすっきりする」などと思うこともあるかもしれない。
いやいや、私だって、かつても今でも時々そんな風に思うことが無いとは言えない。
しかしながら、本当にいなくなってみると、何とも寂しい気持ちになるのである。
何かの都合でいつもいる娘や娘婿などが、出掛けていると、何か本当に「忘れ物」をしたように感じてしまう。
両親を見送った時もそうであった。
ずいぶん昔にTVドラマで見た「認知症(確か当時は「痴呆症」と言っていたと思うが)で亡くなった父親が、ある日の朝食時に新聞を読みながら今までの定位置に当り前のように座っている」という設定のシーンがあったが、まさにそんなことが無いかなぁ、などととんでもないことを思ったこともある。
実際にあったらどんな態度になるかわからないけれど、何かそのドラマの作者の気持ちがわかるような気持ちになる。
母の時は失敬かもしれないが、酷く頑張りながら、最後には「もう頑張らなくて良いよ」と送ったので、出てくることはなんだか想定できない。
そんなことを思うと、口喧嘩などはなんだか「当たり前」にしているようだが、もしその相手がいなくなってしまったら、と思うととてもたまらない。
そういう意味で「居る幸せ」を毎日感じて感謝していたいものである。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 14 :39
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「食」における幸せ その2
昨日は朝から目にゴミが入ったせいか眼球に傷がついているとのことで、殆ど一日ダウン状態でした。
「食」の最後の楽しみは「自然を味わう」ことです。
さすがにこの時期は自然に生えているもので食べられるものは皆無と言ってもいいくらいでしょう。
間違っても、他人様がお作りになっているものをくすねてはいけません。
春になると、いろんなものが生えてきます。
視野の狭い私が言うのもおかしいかもしれませんが、蕨はそこそこの量収穫出来て食べられます。
また、土筆を食べられたことがありますか、味付け次第ですが美味しいですよ。
雪解け間近の頃に「野蕗」が出てきます。
挑戦された方もいらっしゃるのではないでしょうか。
でも、私が聞くと「皮を剥かなければならないので面倒くさい」と言う男性が多かった。
雪解け時期のものは皮など剥かなくてもそのまま食べられます。
私が一番好きな食べ方は、2-3cmに切って、醤油ベースで炒り煮のようにするものです。
唐辛子などで辛味を付けるとご飯にのせても美味しいし、お酒のつまみにもなります。
タラの芽と言うものも基本的に「野生」なので、主に天婦羅でいただきます。
夏少し前には「野いちご」と言う野生種でもプックリと大きな実が収穫できることがあります。
秋口になると「木通」が実ります。
昔は子供が中心に取ったものですが、最近の子供はたくさん美味しいものがあるので、見向きもしませんから、昔の「秘密の場所」にはまだたくさん実っています。
尤も、そこへたどり着くまでがこの歳になると大変なのですが。
ことほど左様に「お金を掛けなくても」多分殆ど無農薬の自然の恵みに対する感謝は幸せ以外の何物でもありますまい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :04
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今日の分は明日に
朝起きた時から、右目が痛くて、どうしようもなく、考えがまとまりません。
病院へも行き、しばらく安静にしているので、明日には治るでしょうから、今日の分は明日書かせていただきます。
投稿者:つねちゃん
at 09 :16
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「食」における幸せ その1
「食」で感じる幸せは、なんといっても「自分が取れないものが食べられる」と言うことだろう。
リタイア後少しばかりだけれど、家庭菜園をやり、季節ごとの野菜などを残念ながら「無農薬」とは言えないけれど、「減農薬」で育て、新鮮に収穫して、形の不揃いはあっても美味しく食べている。
また、昔から好きで、最近は殆ど海だけだけれど、釣りも楽しみ、時折希望していた以上に釣れることがあり、これも楽しみである。
でも、私だけではなく、ほとんどすべての人が、とても「自給自足」などできるものではない。
そんな意味で「他人様が採って、他人様がなるべく新鮮なまま運んで、高いか安いかは財布と相談の上だが、購入できる」と言うことはやはり有り難く幸せである。
そんな中で時折珍しい地方の野菜や外国のものなども入手できることもある。
「美味しい物を、鱈腹食べる」と言うことには程遠いかもしれないが、身の丈に合った美味しさを味わえる幸せに、口に運ぶたび、常に感謝したいものであるし、それがほとんど毎日できる幸せは、ナントも楽しいではないだろうか。
「金を払っているのだから」と言えても、野菜なら種から育苗、虫取り、追肥、日光・水の管理、収穫の力仕事、洗って出荷、等々たくさんの仕事がある。勿論お金も必要だが、そればかりではないことに感謝したい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :01
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「住」における幸せ
「食」に関するものはたくさんあるので、順を変更させていただく。
夏の季節には、藪蚊の心配はあるとしても、薄物1枚あればどこででも野宿ができるものである。
現に中学生時代に自転車で能登半島を回った時がそうだった。
ところが、この季節になるととてもそんなことなどできる訳がない。
と言うことから「夜露をしのぐ」と言う最低条件の「住環境」が必要不可欠になってくる。
でも、自分の住環境はどうだろうか。
戸外との境が戸や扉1枚の玄関先で寝ることはないだろうし、部屋でも板の間にそのまま座ることはなく、カーペットとか座布団とかが敷かれているのではないだろうか。 この季節だから、暖房施設として温風ヒーターなども完備されているのではないだろうか。
ちなみに我が家では、ここ数年「炬燵」と良いものは全く使用していない。
どうしても「炬燵守(カタツムリをもじってそう言う)」になってしまい、一度入ると出るのが億劫になってしまうからである。
寝る時には敷布団の上には温かい敷物を置き、掛け布団の下には毛布とひたすら「風邪をひかないように」と言うことになっているのではないだろうか。
そんなに恵まれた「住」環境があるのである。
これを幸せと言わずして何をこの上望むことがあるだろうか。
勿論素材的には「上には上」があるのは理解できるし、巨万の富があればそれも可能だろうが、だからと言ってそれができないことを「不幸だ」と悩むよりは数倍「幸せ」と思えるだろう。
ちなみに、ずいぶん昔、新宿で今で言う「ホームレス」と言う環境を数回経験したことがある。
春先から夏までの間だっが、春とはいえ、まだ夜は寒かった。
先輩格の人に「新聞を拾ってきて、シャツの下に入れて寝ろ」と指導(?)されたことがあったが、とても暖かかったことを思い出す。
夏になるとやはり蚊などの虫に苛まれて止めたが、それを経験しているからこそ「住」環境の有り難さが分かる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
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「衣」における幸せ
師走に入り、雨の予報が続いていて、週末からは雪が降るとの予報になっています。
夏とは当然着るものが大きく変わってきていますし、枚数が多くもなっています。
女性と違って、下着ももちろんですが、そんなに立派なものを身に着けることはありません。
ただ、武士ではありませんが、世の中何時、何が災いするか分からないので、下着だけは毎日取り換えるようにしています。
そして、外出するときには、少し前に若い人の間で流行った、ボロボロをこれ見よがしに身に着けることなどはなく、少なくても綻びがそのままになったようなものを着ることはない様に気を付けていますし、気が付かない所にそれがあったり、シミがあったりした場合は、気が付いた時点で恥ずかしくなってしまいます。
ことほど左様に季節に応じた「衣料」を身に付けられることが幸せの一つの要因でしょう。
季節や気温ばかりでなく、自分が感じる尺度で、寒ければ寒いなりに、暑ければ暑いなりに「着る」と言うことができるのは、なんといっても幸せの基本でしょう。
そんなの当り前じゃないか、と言われる方もいらっしゃるでしょうが、世の中には寒くても満足に着るものが無い、と言う人は少なくはないのです。
それを思えば・・・・。
今日は気温が1桁だとの予報です。
精一杯着て暖かくしておかなければ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :18
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師走では「幸福論」
今日から今年最後の月が始まりました。
世の中に何が好きな言葉かと問われると「終わり良ければ総て良し」と言う言葉だと思っています。
どんなに辛い事でも、気軽に言える事ばかりではないことは十分に承知しながらも「咽喉元過ぎれば」と言うことで、終わってみると「あんなことがあったけど、でも今の自分がある」と言うことで、小さいかもしれないけれど加山雄三の歌の文句じゃないけれど「幸せだなぁ」と思えるのではないでしょうか。
ということで、今月は今年の締めくくりと言うことで、大それたことと理解しつつも、凡人の「幸福論」で締めさせていただきたいと思います。
ある時ラジオ番組に当選して、私のラジオネームが「中幸年」だとしていましたので、アナウンサーの方から「近頃何か良いことがありましたか」と問われて、とっさに答えたのが「今生きていること」でした。
そうなんです、はじめから結論じみた言い方になりますが、「今生きている」ことこそが幸せなのだと私は信じて感謝しつつ生きています。
投稿者:つねちゃん
at 06 :18
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