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2011 年7 月29 日

転載ブログ 5/8投稿  5/24掲載

 小さな幸せを数えたい

 人にはできて自分ができないことを悲観してしまいがちの毎日だ。
 自分の「不幸」はすぐに見つけることが出来るのだが、自分の「幸福」にはなかなか気が付かないものである。
 在職時の研修で「3分間で相手の良いところを出来るだけ探してそれを伝える。それが終わったら、自分のいいところを出来るだけ探して「気付き」を求める」と言うのがあった。 最初に気が付く事は文句を言いながらだけれども「生きている」と言うことだった。
 そのことを思い出しながら、自分の「幸福」を挙げてみると、かなり多く出てくる。
 確かに世の中、景気の良い話はないし、震災を初めとして焼肉屋では食中毒から死者まで出るし、政治も思ったように効果を上げていないというように、「不幸」を挙げ連ねる事は簡単だが、それよりも、自分の「幸福探し」をしたほうが楽しいのではないだろうか。
 小さなことでも「幸福」と思えば、わずかかもしれないが、それを人に分けて上げられるのではないだろうかと思った。

投稿者:つねちゃん
at 06 :18 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月28 日

転載ブログ 5/1投稿  5/7掲載

朝は音楽で目覚め
 ここ2ヶ月ほど前から、朝はクラシック音楽で目が覚めるようにオーディオをセットしている。
 従来のCDでは長くても1時間程度だったのだが、1枚のCDにいろいろなジャンルの音楽を新記録形式にパソコンで細工して、約3時間は連続演奏が可能にようにした。
 また、演奏方式を「ランダム演奏」に設定しているので、オーケストラが鳴ったかと思えば、次はマーチだったり、バレエ音楽だったりと、なんとも楽しい限りで、毎朝気持ちよく目が覚める。
 音楽の楽しみ方としては、邪道なのかもしれないが、随分昔に買った100枚のCDなどから、自分の好きな音楽だけを抜き出して自分用のCDを作成して楽しんでいる。
 朝は声が入らないものばかりを選んでいるが、カーオーディオ用には演歌や懐メロなど一緒に歌えるような曲を選んでいる。

投稿者:つねちゃん
at 08 :57 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月27 日

転載ブログ 5/1投稿  5/10掲載

 45年後の同窓会
 高岡工芸高校を卒業してから45年でのクラス会が開かれた。
 今回は母校の校章が変わったこと、男子生徒の制服が「学ラン」から「ブレザータイプ」になり、ネクタイ着用になったことなど、大きく転換したとの報告が事務局からあり、「へぇー」と驚くばかりだった。
 電気科を卒業した事もあり、今回の福島第一原発事故などについて、恩師を含めてそれぞれ知っている範囲での話題も多かったのは、まだまだ向学心が旺盛と言うところだろうか。 45年ぶりに会う顔も数人いて、最初は近況報告などだったが、次第に昔話になり、二次会を含めて楽しく過ごす事が出来た。
 残念ながら9名の逝去者もいたが、現役で頑張っている人、ハッピーリタイアを楽しいんでいる人も多く、話題に事欠かなかった。
 幸いにして、話題が「持病の陳列」という話にはならなかった。
 次回は50年という節目にる。参加者も多くなることだろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 日記 | コメント(0 )

2011 年7 月26 日

転載ブログ 3/13投稿  3/20掲載

 腹立たしい発言
 東日本大震災に関する政治家の発言にいまさらながら腹立たしさを覚える。
 最大野党は「わが党には災害に対する経験豊富な人材が多くいる。それから見れば今の体たらくはなんとも歯がゆい状況である」と声高に叫ぶ。
 それなら大連立をと言えば、今の与党にはくみせない、とおっしゃる。
 与党からも「俺なら打つ手はいくらでも考えつく」と言う意見が出る。
 いずれの発言も裏返せば「俺に全て任せれば、うまくいくのに、なぜいつまでも政権にしがみついているのだ」と言っているのだろう。
 果たして正論なのか。
 すべて党利党略、自派自略のためだけの「空論」ではないのだろうか。
 いくらでも打つ手があるのであれば、正々堂々と提案すればいいはずだ。
 党利党略、自派自略以前に「国民のため」の具体的対策や提案こそが今求められているのではないのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月25 日

大規模化に賛成 3/5投稿 3/15掲載

 全国農業協同組合中央会(JA全中)が「水田規模の拡大に前向き」との記事を読んだ。
 私は「コメ好き人間」の消費者だから、生産者の方々の苦労はなかなか分からないが、環太平洋連携協定(TPP)などの問題については、心配と期待がある。
 一般論として、後継者問題なども考え合わせれば、大規模化というのは対策の一つだと思われ、賛成だ。
 コメ離れも言われているが、米粉パンのように「米の加工品」が若い人の間で評判を得てきているとも聞く。
 「コメはコメで大好き」という人間にとっても、魅力ある加工品には興味がある。
 いろいろな課題が残されているとは思うが、最近の冷凍などの保存技術を加え、加工食品にも販路を見出してはどうだろう。
 「安心・安全」であれば、海外製品に席巻される事はなく「たまに外国製品も食べてみようか」というような具合になるのではないだろうか。
 輸出という道も開けるだろう。
 全中が率先してやる事に大いに同意したい。

投稿者:つねちゃん
at 07 :53 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月22 日

ビジョンあるのか 2/25に北日本新聞に掲載された

 わが国では野党が「解散総選挙で民意を問え」と現政権の崩壊を目指しているのが常だったが、今は与党内部で政権を壊そうという動きがあ。
 なんだか「崩壊させる事」が目的化しているようだ。
 悪政をしている政権を嫌々ながら保持しろとは言わないが、崩壊させた後のビジョンを果たしてお持ちなのだろうか、と疑いたくなる。
 一時期「スクラップ・アンド・ビルド」と言う言葉がもてはやされ、旧式のシステムはいったん廃棄(スクラップ)して、新たな技法などを使って作り直す(ビルド)べきだと言う論理だった。
 確かに、昔に作られ手直しばかりを加えたシステムは、最新式の技法に劣るところがあったのは事実だ。
 されど、知識の集大成の生産物だったのも事実である。
 整理をしながら、進んでいかないと、スクラップばかりの連続になり、決して「国民のことを思った」ものにはならない。
 「崩壊させた」事が尊いのではなく、「よりよい政権をつくり上げた」という結果こそ重要だ。

 2/19投稿した物です。
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投稿者:つねちゃん
at 09 :33 | 政治への注文 | コメント(0 )

2011 年7 月20 日

左手で書いてみると 富山新聞への投書

2/10に投稿した物が3/1に採用された

 脳の活性化、と言うよりもボケ防止対策と思い、左手の手習いをやり始めて2週間ほどになる。
 大きな升目をプリンターで印刷して、いろは48文字を丁寧に書いてみて驚いたことがある。
 「ま」「ほ」の上下の線はどちらを長く書いているだろうか。
 「さ」「き」の下の払いと言うものとはきちんとつなげて書いているだろうか。
 長い間、利き手の右で書いているうちは気にもならなかったことだが、あらためて意識して書くと、まだまだぎこちないけれど、少なくとも「ま」の字だけは今までより少し格好良くなった様に思う。
 手習いで楽しみを見つけたことが嬉しい。
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投稿者:つねちゃん
at 11 :20 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月19 日

投稿ネタ 左義長

富山新聞への投稿(1/15投稿、2/8に採用された)

縁起物燃やせる素材に

 先日、わが地区でも左義長を行い、少しだけだが手伝わせていただいた。
 昨年、家で祈願された供物も持ち寄られたのだが、皆さんミカンは外し、金属製の鈴なども外されていたのだったのだが、お宮さんから頂いた破魔矢や縁起物に、一部まだビニール製のものがあり、申し訳ないけれど持ち帰っていただいた。
 縁起物にも雪による濡れなどの防止や、色彩の鮮やかさの為という理由はあるのだろうが、それぞれ家を守ってきたのだから、バラバラにすることなく、左義長に感謝して燃やせるような部品に対する配慮をぜひともお願いしたいものである。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :56 | 子育て | コメント(0 )

2011 年7 月15 日

女性とは「論理」で口論してはいけない

 タイトルを見て「そんなことはない」と思われる男性も数多くいらっしゃる事だろうし、「それは貴方がまだ未熟者だから」と言う指摘をされる男性も多かろう、また公的にはそれが正論であろう。
 ましてや女性の読者(時折指摘を受ける方もおられるが、そんなに数は多く無いだろうけれど)は、「怒り心頭に発す」という勢いで憤られるのではないだろうか。
 それを敢えて覚悟の上で、書かせてもらうけれど、やっぱりタイトルは正しいと思う。
 決して「女性蔑視」で言うわけではないが、勝っても負けても損を蒙るのは男性側である。
 私だって、ビジネス上で、対等の立場で女性を交えた議論をした経験も持ち合わせているし、その時には全くと言って良いほどそんなことは考えなかった。
 それは、あくまでも「公的な議論」だったからである。
 しかしながら、その議論が終わって、打ち上げとばかりに懇親会の席になると、議論の延長戦のテーマなら「公の継続」となりそんなことはないのだが、全くフリーなテーマになって、少し議論が高じると、すぐにその場から逃げる事にしていた。
 たとえば私の最も好きな「お酒」の話題にしたところで、「楽しい会話」の時間のうちは本当に楽しく過ごせるのだが、銘酒、酒類の話題になるともう駄目である。
 日本酒の場合、原料米のどれだけをそぎ落とすか、とか、水はどこそこの水、だとかの話題になり、結局「私はあそこの物が好きだ」と言う程度で収まればいいのだが、次に出てくるのが「批判」になると、適当な言い訳で逃げ出す。
 何故ならば、如何に論理的に話そうとしても、議論が高じると(最もそれが男性同士なら楽しくて溜まらないのだが)女性はヒステリックになってしまう場合が多いのである。
 勿論これは、あくまでも私自身の感想であるから、それを押し付ける気になど毛頭無い。

 近しい女性になると、そのスピードと度合いが高くなるようである。
 このブログは幸い「最も近しい女性」は読んでいないので、これで叱られる事も無いだろうから、大丈夫だろう。
 努々(読めますか)伝わる事が無いように。

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投稿者:つねちゃん
at 08 :07 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年7 月14 日

治験、って知っていますか

 突然ですが、明後日から少し早い「夏休み」とさせていただきます。

 めでたいのかどうか判らないけれど、初めてこのような対象者に選ばれました。
 新薬の発売前の最終段階の「治療実験」と言う言葉の略なのでしょう。
 薬の目的は「血糖値を安全に下げる」と言う物です。
 前回の診察時に先生(医師)から参加の意向を聞かれたので、快諾しておいたのだが、今月の診察の後で、直接その担当の方にお会いして、色々と詳細に付いて聞き、サインもして了解したのである。
 ただ、最初のうちは今まで飲んでいた薬の効果を一旦キャンセルさせるために、約2ヶ月間血糖値を下げる薬を服用しないため、血糖値が上がる事になると言う。
 今回のHbA1cは漸く6.2まで下がっていたのに、それが少し残念だったが、新薬のためと言う事であれば、なんら吝かではない。
 この実験期間は1年間であるので、長丁場だから、楽しく「自分を見つめる」と言う気持ちのほうが楽しかろう。
 基本的には週3回の血糖値測定が義務付けられるのだが、そのための器具や材料などは支給されるので、日記をつけるようなもので然程苦になるとは思えないし、以前「そんな器具が欲しいなぁ」と思っていた物が、期間終了後にはいただけるというのも、打算的な嬉しさだった。
 さて、早速翌日から朝食前に測定してみた。最初は器具の使い方に少し梃子摺ったものの、すぐに理解できて、測定値が131である。(空腹時にしては少し高めであろうが)

 考えてみれば、誰もが対象になれる訳でもないようで、そういう意味では「貴重な体験」に巡りあったものである。
 これを契機にブログネタがまた一つ増えた。
 夏休み明けになるが、「貴重な体験」と言う事で始めようと思う。

投稿者:つねちゃん
at 09 :37 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月13 日

鉛筆とボールペン

 毎朝の書き写しには、裏が白い折込チラシのうち、艶のある紙には鉛筆では書けない(うまく乗らない)ので、専らボールペンを使ってきた。
 鉛筆が載る用紙はプリンタの試し印刷などに重宝していたので、どちらにしても無駄は無い。
 ところが、そろそろ気温も高くなり、ボールペンのインクも熱に弱いようで、出すぎるような時節になった。
 正直、これまで何年もボールペンを使っていたのだが、今までの物は数年前以上に買った物(父の残した物を含めて)だったので、そんなことには遭遇しなかった。
 また、在職時は、ほとんど冷房が完備したところで書き物をしていたし、また、自分が作成する物はほとんどPCを使っていたので、ボールペンを使うと言うのは、他人様の作成した物に「朱」を入れる時くらいだったろう。(なんとも偉そうな事を言っているなぁ、と思いながら書いているが、現実そうだったのである)
 ところが、それらを全て使い果たして、現在使用しているものは、昨年末に10本まとめて買った物である。
 都合よくというか、折り込みチラシの紙質が、艶のあるものが少なくなったこともあって、必然的に鉛筆が乗り易い用紙にならざるを得ないような状況でもあった。
 こんなことから、季節によって、筆記用具も適不適があることを始めて知った事が、なぜだか楽しい発見である。
 付け足しになるが(何もそこまでしてこの欄を埋める必要は無いのだが、ある試験の時に「筆記欄はなるべく埋めろ」と言われたのがいまだに身に沁みている様である)、ボールペンと言うのか無重力の状況では使えないのだと聞いたことがある。ペン先のボールが粘着性のあるインクをその回転力で取り出しているのだと思っていたのだが、重力の作用があるとは思えなかった。すぐに寝転んでやってみたら、書けなくなったので実感して楽しく思った記憶が蘇る。

投稿者:つねちゃん
at 08 :54 | 趣味 | コメント(0 )

2011 年7 月12 日

孫の反抗期の行動

 自分の反抗期に何をしたかは、思い出したく無いからだろうか、余り思い出せない。
 多分他人様から見れば「馬鹿なことを」と思われるようなことだったのだろう。
 最近小学二年生になる孫の反抗的行動(何度目かの反抗期なのだろう)を微笑ましく感じた。
 一年生の間は、雨合羽のみで、傘は持参できないルールで、二年生から、雨傘を持参しても良い事になっている。
 最初のうちは、少しでも雨模様だと、喜んで持って行ったのだが、やはり雨の降らない日は邪魔になるのだろう。
 そんな中のこの季節、梅雨でもあり、天候が不順で、天気予報も中々当たらない。
 母親の娘とバァチヤンである家内が「今日は雨が降るから」と言うので、持参したものの降らずに持ち帰ったことが二度ほど続いた。
 そんな中、午後からの降水確率が50%となっていたのだが、頑として「持って行かない」と言って、持参せずに出掛けていった。
 家内と買物に出掛けて帰宅途中から土砂降りの状況になり、家内は「どうせ借りてくるか誰かに入れてもらってくるだろうから」とこちらも対抗心剥き出しである。
 とは言うものの、入れてもらえれば相手も濡れるだろうし、確実に借りられるかどうかの保証は無い。
 結局「とは言ってもなぁ」と爺馬鹿の私としては、恐る恐る家内に迎えに行くことを申し出る。
 あげく、閉じられない傘が借りれたようで、途中で出会い、どうにか最小限の濡れ方で済んだ。
 ばあちゃんやお母さんに「ゴメンナサイ」と言うんだよ、と諭したけれど、言ったかどうかは確認していない。
 それにしても、小さな身体で、ここまで頑固になる物かと、今更ながら逞しくも健気に思える事態だった。

投稿者:つねちゃん
at 08 :57 | 子育て | コメント(0 )

2011 年7 月11 日

トイレに扇風機

 トイレ、と言っても尾篭な話題ではなく、いかに快適にトイレ時間を過ごすかの一つの解決法である。
 我が家には3箇所のトイレがあるのだが、1階のものは両親の高齢のために一通りのバリアフリー対策が施してあり、スペースもそれなりに広く取ってある。
 それ以外のところは、多分今では「昔の」と言う言葉がつくほどの「半畳」のスペースの物であり、夏場のこの時期に「大」を足すという事になると、座ったたけで汗が噴出してくる状態である。
 そんな状態だから、出るまで堪えるのも大変なので、勢い満足できるような状況にならなかった。
 ところが先日から、扇風機を持ち込んだ。
 狭いところではあるが、扇風機の1台位は何とでもなり、特別それがあるから窮屈になることも無かった。
 これが思った以上に快適なのである。
 当然汗が噴出すような事も無く、出るまで本でも読んで、気長にゆったりとした気分で待つことが出来るのである。
 言ったり書いたりすれば、単にそれだけの話なのだが、これで毎朝の「快便」が励行できるようになったのだから、私としては十分に満足である。
 また、今までは「出たっ」と思ったら、ここを先途とばかりに「これでもか、これでもか」ともう出ないだろうとは思うが「この機を逃してなるものか」と汗を噴出しながら頑張ったのだったが、今では「今日はこれまでで良いんだよね」と結果としてトイレ時間が短くなり、出た量に関わらず、気分も爽快である。
 正直、現在糖尿と血圧抑制の薬を飲んでいて、その副作用防止で便通が良くなる薬ももらっているが、それと相俟って毎朝の排便が楽しくなってくる。
 これこそが「快便」の醍醐味なのかもしれない。
 外泊やデパートなどの空調完備のところでも、温度的な安心感はあるのだが、やはり枕と同じで、出来れば自分のスペースで過ごしたい物である。
 扇風機の使い場所の、私としては新しい発見である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :46 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月8 日

やっぱり蛍の明かりは心の癒し

 新聞の投稿記事を見ていると、今年は結構あちらこちらで「蛍の見所」があるようで、読んでいて楽しい。
 ここ数年恒例行事になった中学同級生での蛍見物が、今年も行われた。
 以前は、案内してくれた同級生に迷惑がかかっては申し訳ないと思い、場所を明らかにしなかったのだが、逆に「村おこし」の一つの契機にもなってくれれば、との思いだと聴き、昨年の新聞投書に場所を明らかにした物が採用されていた。
 そんなことで、ここにも改めて紹介しておくが、小矢部市内の、道坪野および千石地内である。
 それ以上の詳しい情報は夜道だった事もあり、私自身よく判らないので、近くの土地の人に尋ねてもらえれば、親切に教えていただけると思う。
 日中に結構な量の雨が降り、かなり心配していたのだが、待ち合わせ時間の8時頃には幸いにしてチラホラ星が見えるようになった。
 風も然程無く、絶好の蛍見物日和になった。
 道坪野地区では、昨年よりも多くの蛍が、車のウィンカーに刺激されて集まってきて、孫たちも身体に付いたと喜んではしゃいでいたし、同級生の女性たちも年に似合わず(失礼だったかな)キャーキャーと喜んでいてくれたのが嬉しい。
 千石地内では、よく見ると蛍の明かりに大小がある。
 聞くと、源氏と平家が今では仲良く混在しているのだと言う。
 ちなみに源氏は車のウィンカーでは集まらないのだそうである。
 約1時間を蛍に癒されて過ごしたが、帰る頃には土砂降りになった。
 雨も我々が鑑賞する間気を利かしてくれたのだろうと思うと、それにも感謝である。
 来年に向けて我が家の近くの水の流れを清掃して、蛍見物が出来るようにしたいと、何から手をつければよいか思案中である。

投稿者:つねちゃん
at 07 :03 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月7 日

不思議な「株主総会」

 在職時、「公社」と言う会社組織から「株式会社」と言う組織になり、それから数年した時に「お客様誘導」と言う事で、株主総会の要員として動員がかかったことがあった。
 初めての経験でもあり、興味津々と出掛けていったのだが、残念な事に「余人をもって代え難い」(すごいなぁ、こんな事もあっのだぞぉ)ということで、急遽呼び出されて別の人間と代わる事で、会社へ戻り本来の職務に付いた事があった。
 だから、現在までに「株主総会」というものには、陪席であれ、株主としてであれ。参加した事は無い。
 あっ、そうではなかった。陪席として一度だけ参加したのは、株主が一人、と言う総会だった。
 細かいことは、幾つか差し障りが考えられるので省略するが、10数人の役員が並んで、株主が一人だけと言う姿は想像が付くだろうか、誠に奇妙な物である。
 と言う事はさて置いて、株主総会には、基本的に「出たくない」のである。
 今回の東電の総会もそうだが、大株主の金融関係の人が、出席して、反対意見を出すことは、よほどの事が無い限り考えられない。
 ということは、事前に根回しとかが全て整っていて、「委任状」と言う形でほとんどの場合「賛成」をとっているのである。
 だから、総会は、少数意見者の「ガス抜き」の場でしかない。
 少し前に「物言う株主」と言う事で、残念(だと私は思っている)な事に「有罪」判決を受けた人の記憶もまだ消え去っていないだろうが、本来はそうであるべきなのに、「体裁だけの意味の無い株主総会」がマスコミも含めてニュースネタになるほうがよほどおかしい。
 そういう私も、現在2社の株を有しているが、すべて「議長一任」と言う葉書を投函している。
 一社は、在職中のお付き合いでの「持ち株会」で積み立てた物で、退職を機に1株を個人所有にしたのだが、額面上は約1/3くらいに目減りしているが、一種の「交際費」だと思っているので一喜一憂などはしない。
 もう一社は、額面上は2万円くらいの目減りではあるが、毎年1万円の株主優待を考え合わせると、十分に「儲け」になっているので、満足している。

投稿者:つねちゃん
at 09 :05 | お役所 | コメント(0 )

2011 年7 月6 日

美空ひばりの最終ステージ

 林檎忌と言う言葉を御存知だろうか。
 歌手は沢山いらっしゃるが、その中で最もと言っても過言ではなく私の好きな歌手「美空ひばり」の忌日である。
 今年もその時期がやってきて、TV局は大なり小なりその特番を組んでくれる。
 ファンの一人としては、ひばりのパチンコ台ではないけれど「待ってましたぁ」と言うほど嬉しい。
 で、そのほとんどの番組でのフィナーレは、東京ドームで行われた最後のショーである。
 正直、毎年このシーンで涙が出てくるのである。
 もう既に何度も見ているのだが、何度見ても、涙が出てくる。
 特に最後の花道を観客に応えながら、精一杯の笑顔を見せて、最後まで歩く姿に対しては「もう歩かないで、もう休んで」と言う気持ちになる。
 彼女としては、「これが自分の生きる道」と言う事で、最後の花道を飾っているのだろうが、一ファンとしては、細々とでも良いから、もっと自分を大切にして、長く生きていて欲しい、と願うからの涙であろう。
 何度か紹介したが、カラオケ嫌いの私でも、気が付くと口から出ている歌は、圧倒的に彼女の歌が多い。
 佐渡情話のような物、カッパブギのような物、股旅物、初代三人娘の物などなど、どれをとっても「好きな唄」である。
 特集番組は兎も角長いので、録画しながら、何度にも分けてみるのだが、一シリーズ(大概複数の局でやるので、幾つかの番組を一通りと言う意味で)終わると「もう来年は見ないで置こう、少なくとも涙は流さないで置こう」と言う気持ちになるのだが、結局林檎忌の季節になるとどうしても録画番組に組み込んでしまう自分が何だか楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :47 | 趣味 | コメント(0 )

2011 年7 月5 日

犯人捜し、よりっと大事な事があるはずなのに

 メインカテゴリーを設定したけれど、よく考えてみると、どうも政治の世界に限った事ではないようである。
 在職中、品質管理という分野が長かったせいもあるが、何かトラブルがあると「品質管理担当は何をしていたのだ」と言う嵐の中に(大袈裟かもしれないが)しょっちゅう巻き込まれていた。
 いわゆる「犯人は品質管理担当だ」と言う事で、製造担当が直接不具合を作りこんだにも拘らず、兎も角あらゆる所からの罵声を浴びた。
 最初のうちは「担当者」だったこともあり、当然の如く言い訳をして反抗したのだったが、長じて副責任者から責任者になるに従って、考え方を変えたせいで、今もこの世に生を受けているのだろうと思う。
 落ち着いて考えれば判るし、当時の情報処理の問題にもあったが「トラブルが生じた時にまず何を為すべきか」を罵声の中で考える事にした。
 まずはトラブルの修復である。技術的なことやお客様対応などの事務的なことなど、兎も角(当時良く使った言葉だが)「逃げ道」を探して慎重にその道を歩いて、罵声のトンネルを抜け切ることである。
 その場合、場合によっては「上司などは糞食らえ」というような気持ちで無ければならない。
 抜けきった後で、犯人探しではなく、「真の原因探索」を行うべきであろう。
 そして、論理的で尚且つ実現可能な対策を講じて、再発防止に努めるのである。
 犯人探しなどは、最後の最後、場合によっては必要ないのかもしれない。
 今回の原発事故についても、東電だ、政府だ(原発の推進をしたのは現野党の自民党ではなかったか)というよりも、現場の人がより動きやすくして「修復と逃げ道」の探索に最注力すべきであろう。
 少なくとも、政治屋さんよりも技術的に数段優れた判断が出来るのが、現場の人なのである。
 何が大事で、何は後でも良い、と言う判断こそが今求められているのではないか。
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投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 政治への注文 | コメント(0 )

2011 年7 月4 日

常に「出来る範囲で」「見える所だけでも」という気持ち

 最初にお断りしておくが、この論旨は「横着者の言い訳」なのであるから、同様な行動指針にはなさらないほうが良いのかも知れない。
 何かをするということを思い立つと、まずその原因となった所に手をつけて、それが上手く完了すると、それを一つの行動指針として自分自身で確立させて「他にもどこかにその対象がないか」と探し回る事がある。
 多分最初のうちは、「ここにもあった。ここにもあった」が続くのであるが、そのうちに近くで目に付く物が容易に見つからず、中々「探す時には見つからない」ということになり、挫折してしまう事がよくあるのは私だけではないのではないか。
 最初は「また新しい物を考えよう」と余り気落ちがしないのであるが、何度か続くと、結局「その場限りで良いじゃないか」という気持ちが先に立ち、行動指針がなくなってしまう。
 ましてや、そんな時に、他人様から「あこにもあるじゃないか」とさも揶揄的に言われると、「ほっといてくれ」と言う気持ちになってしまい、折角良い事をしようと思っても「もうやるものか」と言う気持ちにもなってしまいがちである。
 そんな時の「抜け道」が表題である。
 他人様から「それならあそこにその対象があるよ」と言われても、それは私の出来る範囲を超えている、と言い訳できるし、「あそこにもあったじゃないか」と言われても「目に付かなかったなぁ」と言い訳できるのも、便利この上ない。
 そうすれば、自分が気が付いた時に、目に見える所だけを行動指針に基づいてやればいいのである。
 勿論、端から誰かに「褒められよう」などとは思っていないのだから、貶された所で気にもならない。
 何しろ、自分勝手に決めた行動指針なので、それが長続きすれば、自分の気持ちが良く、良い気持ちが長続きするのだから、こんなに良いことはない。
 在職中は、目標設定とPDCAの繰り返し、と言う事で取り組んできたし、部下にもある意味で強制してきたのだが、リタイアした今「気ままな行動指針」の「気持ちよい長続き」はお金もかからない道楽と心得れば良いと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 09 :14 | 健康 | コメント(0 )

2011 年7 月1 日

抜け道の無い法律は作れない

 震災の後で、やることが沢山あるにも拘らず、相も変わらず「政争のお遊び」で、国会議員の方々は忙しい。
 そんな中で時々出てくるのが、新たな法律作りであり、その穴をまるで重箱の隅をつつくような議論で「笊法」論争である。
 それならいっそ「1000年(今回の震災が1000年に一度と言うからで、私自身特別な根拠のある数字ではない)変わることの無い法律」と言うのを作ったらどうだろうか。
 全くの冗談である。
 かつて「法学概論」と言う物を約半年受講した事がある。
 当時は法律を判り易くする本、と言うのが一つのブームだった。
 「強姦された場合でも、お尻の下にハンカチを置いてあつた場合は「強姦罪」は適用されず、和姦が成立する」と言うような類である。
 これも冗談の類であったろう。
 その講義の中で、講師の方が言われたのが、表題の趣旨であつた。
 法は人間が作るので、一切の抜けが無いはずが無い者が作るのだから、探しようによって「抜け道」を探すのは簡単なものだ、と言う論法である。
 だからこそ、判例、と言う物が尊重されるのだろう。
 そんなことくらい、聡明な政治家さんならとっくに御存知だろうに、相変わらずの水掛け論で、ぬくぬくと議論を楽しんでいらっしゃるのは、やはりどうしても看過できないのではないだろうか。
 もっとも、最近は官僚も加わって(というかむしろそっちが主管のようだが)「我利(省)我利(党)亡者」が作る法律なのだから、最初から意識された抜け道を用意した法律作りではないかと疑ってしまう。
 とは言え、毎度同じことの繰り返しだけれど、そんな人を議員にさせたのも我々国民なのだから、反省しなければならないのだろう。

投稿者:つねちゃん
at 09 :58 | 日記 | コメント(0 )

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