2016 年4 月30 日
2016 年4 月29 日
自動運転で油断出ないか(2015/11/10に採用された)
人工知能技術を駆使しての自動運転自動車の開発が進んでいるという話題には、メカ音痴の私でも興味津々である。 だけど、私には現時点でまだ賛成できない臆病さがある。 「水は低きに流れ、人は易きに走る」とは、古今東西を問わない。 車の中でも自由がきくということになると、どうしても油断が出てしまうのは人の常だろう。 そんな時に、いかに高度なAI技術でも完全にカバーできなかろう。 シートベルトもしなくなるだろうし、周りに気を取られたり、逆に周りの状況を無視したりと言う場合に万一の事態に遭遇すると、被害が想定外にならないだろうか。 技術の進歩に水を差す気はないけれど、その辺のところを完全に払拭できるようになってからでも実用化は遅くはなかろう。2016 年4 月28 日
紙ごみの処分
明日から人並みにGWを取らせていただきます その間は今まで未掲載だった新聞投稿の、採用分、非採用分を転記させていただきます。 再開は5月9日からにさせていただきます。 毎朝届く新聞、それに折り込まれているチラシに始まり、ダイレクトメールや要不要を問わない郵便物など「紙ごみ」と大括りにするものが沢山あるのではないだろうか。 それに加えて、過去に読んだ雑誌や本なども「いつか読もう」と思っていても結局「積んどく」だけになってゴミ同然になってしまうのは、決して私だけではないのではないか。 諸姉・諸兄は如何して処分なされているのだろうか。 このブログでも断片的に紹介したことがあるが、出来れば僅かでもいいから、あまり手間を掛けずに「お金」になればと思われるのではないか。 もう半年ほど前になるだろうか、そんなことを実現してくれるところが見つかり、整理しながら持って行っている。 1Kg1円になるのである。 「なんだそれっぽっち」と思われるかもしれないが「チリつも」で勘定してみればソコソコになるし、最もいいのは「スッキリする」ことである。 以前に紹介した「原稿用紙としての利用」もあるし、他人様に見せられないものはシュレッダー処理して、畑などの土質改善などにも使っているが、これだって「換算」してみればソコソコになる。 身の回りの「スッキリ」もあるだろうが、それも「チリつも」でみんなが少しずつでもやれば、大きく言えば「地球全体がスッキリ」するのではないか。2016 年4 月27 日
失敗ではないけれど
植物の種に限らずだけれど、色々な物には「有効期限」と言うのが書かれている。 昨年随分有効に使わせていただいた「サンチュ」の種も今年の3月が有効期限だった。 「せいぜい発芽しても3割くらいだろうか、そのうち育つのがまた3割なら、全体で1割弱になるから」と使い古しのセルトレーに、最後のご奉公をと言うことで、丁寧に撒いた。 それでも粒数としてはかなり余ったけれど、それ以上はどうにもならないので捨てた。 ところが、それがほとんどすべて発芽して成長したのである。 ミニビニポットに、セルを一つずつ鉢揚げして、150個くらいになったろうか。 それ以外は我が家用として、プランターやそれなりの入れ物に定植した。 毎度のことで、塀際に「ご自由にどうぞ」と張り紙をして並べている。 ただ、現在我が家はリフォームの工事が入っているので、散歩をする人たちは塀際を避けて行かれるので、なかなか「売れ行き(決して販売しているのではない)」は捗々しくない。 第1弾の70個ほどのうち貰われて行ったのは20個ほどか。 まだ裏には同じくらいの数がある。 種蒔きと生育は失敗ではないけれど、配ることまでを考えると、種に悪いと言う意味で「失敗だった」かもしれない。 でも、育てばそれなりにサラダででも美味しく食べられるので、無碍に捨てる様なことはしたくない。 せめてそれが成長してくれた植物に対する感謝である。2016 年4 月26 日
「初心に帰る」は難しい
先日、ビデオやテレビの裏の配線が異常に混みあっていることに気が付き、掃除方々一度すべてを外して接続し直すことにした。 外すのは、いとも簡単にできるのだが、私の生来の「おっちょこちょい」が災いして、電源部分については「これはどの装置のコード」と表示してあったのだが、ビデオデッキ2台、CATVチューナーそして壁面アンテナ端子は2口あって、一つはオーディオに一つがTVを初めとしたビデオ関連に接続されていることは、概念的には分かっていたのだが、はてさて、掃除も終わって各機器の空冷のためのファンの周りについたほこりなども綺麗にして「さぁやるぞ」と意気込む前に「お茶を一杯」とやってしまった。 さて、一服もしたし、と取り組んだが、朧げな記憶を頼りにするので、さっぱりうまく接続ができず、挙句に本来のTVまでが視聴できなくなってしまった。 泥縄で探す説明書も見当たらない。 結局「初心に戻れ」と言うことで、朧げな記憶は一切かなぐり捨て(実際はこれが難しいのだが)まずはビデオなどは別にしてTVに直接地上デジタルとBSを接続して、ともかく視聴できるように。 その後午前中いっぱいかかって、ようやくどれもがうまく接続でき、CATVチューナーも以前は見ていたチャンネルも見なくなっていたので必要が無くなり、返す手続きを取った。 これで月額いくらかは低減される。 在職中よく言った言葉に「迷路に入ったと思ったら、初心に帰れ」があったけれど、言う方は簡単だけど、リタイアした今になって「難しいものだなぁ」と実感した。2016 年4 月25 日
春菊の茎
これからは暑くなるのであまり御馳走に並ばないのかもしれないが、やはりなんといっても「すき焼き」は御馳走のトップクラスだろう。 その中ではホンの脇役でしかないだろうけれど、欠くべからざる脇役として、春菊がある。 賛同いただけるかどうかは別としても、私としてはそう思っている。 尤も、ずいぶん昔の「肉食」時代にはさして興味が無かっことも事実である。 いつ頃からだろうか、よく覚えていない。 その春菊はほとんどの場合「葉」の部分しか食べないのではないだろうか。 葉を取った後の茎の部分は如何なされているだろうか。 大概の場合は、残念ながら捨てられているのではないか。 私はこれを大切に保存しておき、得意の炒飯に刻んで入れる。 暫く使わない時には冷凍保存しておくと随分長持ちする。 炒飯の定番で卵は「黄色」人参は「赤」で、緑を何にしようかと言う時に至極便利だし、味と香りも豊富である。 自家栽培の時には時々「花」の部分があることがあるが、それとても気にせず炒りこんでしまう。 炒飯に限らず、何かに混ぜる具材としては重宝すること間違いない。2016 年4 月22 日
他力本願は駄目、自分で切り開け
宗教関係の本を読んでのつけ焼き刃だけれど、これだけはだいぶん前から知っていた言葉である。 明らかに間違った使い方である。 どうも「自分は何もせず、他人様の力だけを頼りにする怠け者」という理解がまかり通っているからだろう。 我が家の宗旨が浄土真宗だからということではなく知らされたのは、在職中の研修期間だった。 自分では精一杯頑張って、とことん頑張り尽してこれ以上頑張り様がないので、後は他人様(お釈迦様)の思し召しにお任せする、という意味であるとのことだ。 辞書にも「もっぱら他人に任せる」という解説もあるが、私としては、それを良しとしたくはない。 同じように「いっしょけんめい」はあくまでも「一所」であって、「一生」ではないと思い続けたい。 今、居るところが「一所」なので、何も一所(ひとところ)に固執せよと言っているのではない。2016 年4 月21 日
自家栽培の気軽な野菜
「気軽な」と表現したのは、さほど日当たりが良くなくても、肥料を少しやり忘れても、こちらの方では雪が一番の難物なので、基本的には防寒や雪対策が必要だけれど、それもあまり気にしなくても、枯れない程度に水遣り(自然の雨に任せていても余程でないと枯れたりしない)などと言う意味である。 それでいて、当然好き嫌いはあるけれども、結構食用として使える野菜である。 幾つも上げられるだろうが、思いつくところでは韮、弦紫、金時草(加賀野菜としての呼び名で、沖縄で確認したら「ハンダマ」だと言われたので、土地土地によって呼び名が違うかもしれない)くらいだろうか。 後者の二つは主に「酢物」として家内の領分であり、私は「栽培(上述のようにほとんど手を掛けていないが)」して収穫するだけである。 韮は健康野菜でも名が知られているもので、私の場合は「快便」に役立っている。 種から育てたので、我が家では「取れ過ぎ」になることが多い。 そして、どんどん増えるのである。 でも、殆ど心配はいらない。 さっと茹でて絞り、寿司の細巻きの要領で海苔で巻き、小口程度に切って醤油とカツブシを掛ければ、ヘルシーな一品になる。 それでも余る場合は、水で汚れを落とす程度に洗ってから、いくつかの長さに切り揃えて、冷凍保存しておくと、かなり長持ちするし、使う時に解凍するのではなく殆どの場合そのまま使えば色も鮮やかに蘇る。 勿論植物繊維も健在だから効果も当然ある。 一般には、最初は苗を数株買ってきて適当なプランターで育てれば、それでOKである。 そうそう、雪の下には強いけれど「霜」にだけは注意しておかれた方が良いと思います。 霜柱の影響ではかなり被害を受けますから。2016 年4 月20 日
山菜や野草の類
蕗の薹、野蕗、行者大蒜、独活など、栽培されている(実は私もいくつかはあまり気にもせず栽培している)人にとっては、それなりに「商品」なのだろうが、どのみち「野草」の類である。 しっかりした栽培管理の元でなら「栽培した山菜」と言うことなのだろうが、私が散歩の途中や、野草取りで出会うものは栽培されているとは到底思えない環境にいるので、一括して「野草」と言う感覚で収穫している。 裏山にも探せばたくさんあるので、散歩で出会う人には教えてあげている。 調理の仕方でいろんな自分好みの一品に仕立てることができるから楽しい。 そうそう、土筆を食べたことがありますか。 袴を取るのに手が真っ黒になりますが、その分ほんのりとした味わいが堪りませんよ。 正直他人の事は言えないのだが、残念なのは来年家で栽培しようと思われるのかしれないが「根こそぎ」取って行かれる方が多くなっていることだ。 それがたぶん原因だろうが、昔「良く取れた」場所には最近殆ど見なくなっている。 家で栽培して上手く行っていればご同慶の限りだが、多分殆どの場合そのまま枯れてしまっているのではないだろうか。 そんなことより、春の散歩を兼ねて自分たちが食べるだけ収穫していれば、長くみんなが楽しめるのに、と思う。2016 年4 月19 日
弛みない改善に驚いた
少し前に「芯が太くならないシャープペンシル」と言うのを買った。 普通の鉛筆が父の使っていたものなどを含めてあったので、新品1本だけを残して(なぜかは特に理由は無いが、一つの郷愁だろう)使い始めたのは2週間ほど前からである。 芯は2本入っていたので、それがごく当たり前のように使っていたのだが、今日ストックが無くなったようなので、持っていた物10本ほどを今まで通りに入れようとしたら何故か入らない。 どうしたのだろうと入り口を見ると、一度に1本分しか入らないように細くなっている。 仕方なく1本ずつ入れたのだが、それでも7本しか入らない。 なぜこんな面倒なことをするのだろうとしばらく考えた。 それで気が付いたのだが、当然のごとく芯入れの蓋の部分に消しゴムが付いている。 この消しゴムは便利なようで、実際使おうとすると芯が当たる部分が黒くなっている場合が多く、結局別の消しゴムを用意せざるを得ないことになる。 それがこの細さだと、ほとんど消しゴムが黒くならない。 シャープペンシル自体はそれほど高価なものではないけれど、それについてさえも日日弛みない改善がなされていることに頭が下がる思いだった。 自分の反省にしなければ。2016 年4 月18 日
白菜や青梗菜の茎の部分
一般的には「葉物野菜」と言われるもので、存外「茎の部分」と言うのはぞんざいに扱われていないだろうか。 2度目の単身赴任時代は、寮生が若い人が多く、何かイベントがあるとその後はBBQパーティになったものである。 私などはやはり「そろそろ50」という年齢だったので、長老として扱われていた。 決して阻害する訳ではなく、結構モテた長老だったと思っている。 そんなある時「キャベツの芯もこうすれば食べられるよ」と一部は刻んでビニール袋に入れて簡単に塩揉みして出した。 若い人だから塩を少しきつめにしたが、結構喜んでくれた。 また他も薄切りにして、焼いたものに少しお酒で溶いた味噌をつけて食べることを提案して喜んでもらった。 そのうちそれが一つの定番となって若い人が同様に調理(?)して出していたが、お酒が入ると「キャベツの芯の甲羅焼」という代物にして出していたが、これは流石に食べられなかった。 このように芯の部分も細工次第で美味しく食べられる。 白菜の芯などは少し気が利くラーメン屋には大量に使われているし美味しくベジタリアン的な気分で健康にも良い。 チンゲン菜なども同様で、逆に女性を中心にしたハイカラな料理教室ではむしろ捨てられるほどに扱われている。 少し「硬い(こちらの方では「コワい」と言うが)」位の方が歯触りが良いので、サラダ感覚でも食べられるし、柔らかくしたいのであれば過ぎない程度に茹でれば(茹ですぎると栄養分が抜けてしまうから)塩やマヨネーズを掛けるだけで美味しく頂ける。 でも、結局は「自分が食べる」と言うことだから、どうするかは「自己責任」でどうぞ。2016 年4 月15 日
激辛唐辛子(その3 全3のうち)
辛さにもいろいろな種類がある。 本社にいたころ、新入社員の育成に少し携わったことがある。 直接的な指導・育成は男女各1名だったが、部に配属されたのは確か6名だった。 皆大学卒で、それぞれ特徴があって面白かった。 ここでの話題はそのうちの何人かが「辛いもの」にも好き嫌いがある、ということだった。 お寿司の山葵、納豆などに使う芥子、勿論唐辛子もあるが、「タイで食べた青唐辛子」と言う強者もいた。 特別グループ分けした訳ではないが、部長(この人は下戸なので若い人との夜の付き合いは殆ど無かった)と昼食会と言うことで何度か出掛けた。 今ほど「回転寿司」が無かったころで、さすがにお寿司屋さんは無かったが、カレー屋さんだけではなく、韓国料理、中国料理、タイ料理、テックスメックス料理など下戸の部長は海外旅行の経験が豊富な人だったので、新橋界隈でいろんな店をご存じだったので、その点で私が苦労することは無かった。 でも、私はどれもこれもそれなりの味の辛さがあり、みんな好きだったが、中にはやはり苦手な若いい人もいた。 内容はすべて忘れたが、その表現が面白かった。 このシリーズはこれで終わるけれど、リタイアしてから、中国へ再就職した仕事の関係で出かけたことがある。 その時に四川の本場の麻婆豆腐と言うのを食べたが、これが今までになかった激辛だった。 ところが、しばらく経ってからよく考えなおしてみると、「辛さ」と言うよりも「痺れ感」ではないかと思っている。 原因は「花山椒」である。 それだけでも売っているから、試してみたい人は買って、磨り潰して入れてみたら如何だろうか。 私は好きだけれど、自己責任で。 忘れてはいけないのは、米国出張で「テキサス・ダラス」へ出かけた時に食べた「テックスメックス料理」である。 日本でも食べたけれど、とても比較にならない。麻婆豆腐とは違った辛さであり、多分ハバネロベースではなかったろうか。2016 年4 月14 日
激辛唐辛子(その2 全3のうち)
辛いものが好きになった要因の二つ目が「絶えない刺激を求める」である。 「辛い物ばかりが好き」と噂されていて、それが「甘いものは嫌いな人」に変わるのが、正直なところ残念である。 正直なところは「甘いものも大好きな人」なのである。 次回に書くが、辛さにもいろいろな種類があるのは御存じだろうが、基本的にはどの「辛さ」も大好きである。 甘いものについては別の項に譲るけれど、辛いものが好きになった初めとして想い出されるのは、ある食堂の豚汁だった。 一緒に入った先輩が「洒落」で卓にあった唐辛子を掛けてくれたのだが、何故か(この辺が後になって「洒落」だと聞いたのだが)中蓋が無くなっていて、ほとんど1本が丼の豚汁に入ったのである。 結構好きな先輩だったので、怒る訳にも行かず、渋々ご飯をお替りして食べたのだが、今までに経験の無い「味の刺激」だった。 これは「七味」だったのだが、当然次には「一味」になり、徐々にエスカレートして行く。 しかしながら、単身赴任時代はある程度自由だったが、家族と一緒に暮らしたときにこれをやると「変人」から「変態」呼ばわりされる。 本格的に自分で選んで辛いものが食べられるようになったのは、リタイアしてからだった。 最初は「鷹の爪」「激辛唐辛子」「日本で一番辛い唐辛子」となり、沖縄へ行って「島唐辛子」。 次はやはり世界だろう。 「ハラペーニョ」「韓国唐辛子」「ハバネロ」そしてその後ギネスでトップになった「ジョロキア」を栽培することになった。 刺激と言うのは、ある種「麻薬」の様なもので、どんどんエスカレートするが、最後のジョロキアで「打ち止め」となっている。 その年の天候のおかげだろうが、結構上手に成長したくさんの実が虫の被害もなく収穫したが、数個はハバネロと同様に少量ずつ気を付けて食べたけれど、ギブアップとなった。 残ったものは、その頃畑で獣害(私自身は実物を見ていないが、鹿、狸、猪、ハクビシン等らしい)があったので、木酢液に混ぜて噴霧したら、季節がそうだったのかどうかわからないけれど、それ以降全く被害が無くなったので、有効に使うことができたので満足している。2016 年4 月13 日
読書感想文
就寝前読書として、「日本の民話 8 乱世に生きる」を読み終えた。 ところが、この本は以前に年は分からないけれど、9月30日から11月8日にかけて読んだようだ。(読んだ日付を記してあった) そんな意味で、所々想い出すところはあったけれど、加齢のせいかほとんど忘れてしまっていたので、「新鮮な感覚」で読むことができた。 日本の民話では、これが最後だけれど、嫌だから最後にしたと言う感覚である。 落ち着いて読んでみると、さほど嫌気がするものではなかったので、正直安心した。 それにしても、やはり乱世と言うものは絶対に来てほしくない。 米国では、有力候補が、その再来を示唆しており、隣国では「絶対君主」や「偉大なる国家」を形成するために陰に陽に武力を誇示したりしているが、果たしてその子供や親、親戚の人などが乱世による被害者には絶対にならないとでも思っているのだろうか。 何も評論家的な発言をするわけではないけれど、これだけは絶対に譲れない。2016 年4 月12 日
激辛唐辛子(その1 全3のうち)
辛いもの好きは何度も紹介したから、「耳蛸」の方もおありだろう。 それでも、好きなものは好きだからしようがない。 でも、ここで取り上げるのは、多分普通の人はとてもじゃないけれど口にしないからである。 何を持って「普通」とするかについては、大いに異論があると思うけれど、それはまた別にしよう。 最初は私もそんなではなかったと思う。 でも、決して「嫌」ではなかったのだから素質としては幼いころからあったのだろう。 でも、現在になっていろいろと考えると、要因としては二つあるのではないかと思っている。 一つは「どんな味でも辛さでごまかせる」ということ。 二つ目には「絶えず強い刺激が欲しい」と言うことではないだろうか。 一つ目は、やはり単身赴任の経験からだろう。 幸いにして「寮生活」だったから、普通の日の朝夕食は賄いがあった。 でも、金曜日夕食から日曜日の朝食までは無し、帰宅時間が食事時間内に帰れないときは「欠食」の申し出をして、自前である。 最初は自前もどこかの店で賄えるけれど、好みが偏り、お金もかかるので、簡単ながら自炊と言うことになる。 最初から美味いものが作れる訳ではないので、味が乱雑になる。 そんな時に「辛さ」でごまかすのである。 マンネリの辛さでは楽しくなく、それがエスカレートすることになった。 もう一つは「刺激」であるが、これは次回にする。2016 年4 月11 日
我が家の花見
満開の後の一雨で心配していたが、雨が逆に花付きを良くしたのか、そよそよと吹く風にちらちらと降る花吹雪が心地良い夕方から、娘婿も早めに帰り、一家6人で夜桜見物に裏山へ出かけた。 6時過ぎからだったが、そぞろ歩きする人は僅かずつだけれど、年々多くなってくる。 7時頃には数組の「飲み物食べ物付きの夜桜見物」も出てこられた。 まだ子供の頃ほどの人出ではないけれど、それでも確実に「夜桜見物」の人が増えていることは歓迎すべきである。 この程度ならば、多少のお酒が入っても「高歌放吟」と言うようなことはなさそうで、安心である。 この地に移り住んだころ(中学から高校進学になったころ)は10時近くになって我が家の前を高歌放吟する人が少なからずあったことを思うと、微笑ましい。 孫はジュース、大人はペットボトルに詰め替えて行った日本酒で、コップに運良く散ってきた花びらを受けて、和やかにひと時を過ごすことができた。 孫も今年から中学生、あと何年か経てば一緒にお酒を酌み交わせるか。 それまではしっかりとしていなければと、細やかな幸せな時を過ごした。 忘れてはならないのは、畑の際にある桜の古木も、今年は見事に花をつけてくれた。一度は台風の被害ですべて切り倒そうかとも考えた木だけれど、私が手入れできる間は大切に育てていきたい。2016 年4 月8 日
ブロッコリーの茎
ブロッコリーは、友人がかなりひどい胃腸病になった時に大量に食べて回復したと聞いた。 私自身も胃潰瘍と言う病気には3度罹ったが、幸い3度とも内服薬で大事に至らなかった。 正直、それまではあまり好んで食べるものではなかったが、友人の勧めもあって、茹でたものに軽く塩を振って、よく噛んで食べると、それなりに美味しく、最近では「好物」の一つになっている。 我が家では、野菜などのクズは「生ごみ処理機」で堆肥化している。 ある時太いブロッコリーの茎が「生ごみ処理機行き」のかごに入れてあったが、 これでは処理機も負担が大きかろうと思って、縦半分に切って捨てようとしたら、ナント外皮の硬い部分はしようが無いけれど、その部分をそぎ落として、齧ってみると、ほんのりと甘く、美味しく感じられた。 それならと、その後はピーラーなどで固い部分は除いて、お得意の炒飯の具材として利用している。 味も食感も悪くはないし、栄養的にも十分なものを含んでいるとある。 もっとも最近は、家内も娘もゴツゴツした所を除いて、十分に茹でて食しているようで、なかなか私には回ってこなくなっているのだが。2016 年4 月7 日
貧しい、裕福は誰が決める
世界一貧しい大統領が来日されているとの報道である。 その人のインタビュの一部を聞とこの人はものすごく「裕福なのではないか」と思ってしまう。 元々裕福か貧乏かは誰が決めるのか。 結局自分でしかないのだろう。 よく言われるように、お金持ちは1億円自由に使えても「貧乏だ」と言うし、貧乏人は1万円あれば「裕福だなぁ」と思える、というたとえ話を聞く。 若い時は「そんな嘘っぱちな話がある訳がない」と思っていたが、リタイアしてさほど食うことにも飲むこと(私の場合これが優先することが多いのだが)にも困らない程度に生活していると、結構「裕福感」に浸れる場合が多い。 結局は「餓鬼道」に堕ちればどれだけあっても「まだ欲しい」と言うことになり、それが満たされないと「なんと俺は貧乏なのだろう」と言うことになるのではないか。 冒頭の大統領や如来や菩薩様ほどのことには成れないし、成りたくもないけれど、いつもいつも「餓鬼道」を巡る様なことにだけはなりたくないと思う。 と言う意味では、現在の私は「裕福」である。2016 年4 月6 日
人参の皮
リタイア後通った「園芸高校」で「人参は泥さえ綺麗に洗い流せば捨てるところはない」と聞き「わが意を得た」気分だった。 正直なところ、昔から好きな野菜ではなかったのだが、単身赴任時代に「免疫力を格段に増す食物」と言うことで紹介された本(当時はよく図書館に通った)を見てからだった。 当時は糖尿病や高血圧などとは全く関係なく、出張族で各地で美味しいものやお酒を不規則に大量摂取していたのだが、そういう意味での健康食ではなかったが、唯一「風邪の予防」と言う項目があったからである。 いくら健康だからと言っても「風邪」だけは残念ながら当時は「防ぎようがない病」で、引いたら「誰も看病などしてくれない」状況だったから、それだけは避けたかった。 また、薬を飲みながら飲む酒など美味しくても「かっこ悪い」ものだった。 もう一つは足の臭いがかなり強かったこともあった。 それで自炊の材料の中に結構幅広く使った。 葉は乾燥させて靴の中に入れることによって、かなり効果があった。 勿論「ヨゴシ」としても味噌味、醤油味などで楽しみ、時には好みの味付けで少し炙った揚げと一緒に和えて一品にもした。 でも、やはり「皮」だけはピーラーで剥いて捨てていた。 園芸高校での一言で、家内や娘にもお願いして冷凍保存してもらっている。 炒飯は得意だし好きなレパートリーの一つだが、緑は野菜で、黄色は卵で取れるのだが、赤は中々無いので、そんな時に刻んで混ぜるのである。 これで三色整って、味はともかく見た目だけは美味しそうに仕上がる。 そんなことで栄養もあると言うのだから、安価で最適な食材であり、本格的に炒飯の具材にするために微塵切りにするのは結構大変なのだが、冷凍の皮なら簡単に刻んで混ぜられる。 今では大好きな食材の一つである。2016 年4 月5 日
「生きている」か「生かされている」か
起きて最初にすることの一つに「カレンダーにありがとう丸印」を付けることにしている。 もう何年続いているだろうか。 たぶん10年以上になると思う。 丸印をつける時につぶやく言葉は始めた時から変わっておらず「昨日まで良い日に過ごさせてもらってありがとうございます。今日もまた一生懸命頑張ります」と言うものである。 何が「良い日」だったのかを問う人が以前に数人いらしたが、これにも決まって「今日生きていることが良い日だったことに証明」と答えている。 また、「一生懸命」なのか「一所懸命」なのかを尋ねた人もいるが「自分が『これはこっち』と思えばそれでいい」と答えている。 話が脇にそれたが、最近「生きている」なのかどうなのかについて表題のように考える時がある。 「人は簡単には死なない」と言うのは大病に掛かってもなお精神的にも元気でおられる方が良く言われる言葉だ。 逆に「こんなに簡単なことで死ぬなんて」と言うのは、元気だった人が事故などで亡くなった場合の遺族の人の言葉である。 はてさて、自分は積極的に「生きているのか」はたまた、決して宗教めいた話ではなく「生かされているのか」。 諸姉諸兄はどうお考えなのだろうか。 自分はカレンダーに向かって、一日一度・瞬間だけだけれどそれを考える。2016 年4 月4 日
大根の皮の続き
大根の皮の部分には、素人考えだけれど「繊維質」がほかの部分と比べてかなり含まれているのだと思う。 これに限らず、今後も出てくると思うが、野菜の繊維質は「快便」にかなりの効果があると実感している。 快便は「痩身」に繋がり、それはまた血圧や糖尿の改善にも大きく働く。 それよりも私自身が思っているのは「格好良さ」である。 血圧や糖尿は外見からは分からないけれど、格好の良さは即わかる。 最近の本で(読んではいないが)「人は外見が90%」と言う趣旨の本があった。 「人は見かけによらぬもの」と言うのは、少し古いものの見方で、最近はそうなのだろうと思う。 そういう意味でぜひこれからも積極的に使用していこうと思っている。 幸いにして、20代のころに、かなり熱心に社交ダンスを習い、基本が大事ということで、「ウォーク」という練習にそれなりに時間もお金も使ったので、ダンス自体のアマルガメーションなどはほとんど忘れてしまったが、今でも「歩く姿」はすっきりしていると思っているし、人からも時々言われる。 だからこそ「お腹出っ張り」は避けたい。 幸いにして大根の皮の効果ばかりではないけれど、年初から3カ月で腹囲は−5cmくらいになっている。 まだあと5cmは縮めたいのだが。 明日は、別のテーマを設定したので「人参の皮」についてはまた別の日に書かせていただく。2016 年4 月1 日