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2011 年12 月22 日

今年はこれでお暇します

 明日から小学生の孫と一緒に「冬休み」を頂きます。
 本日が今年の「下記締め」と言うことになります。

 なんといっても我が家で一番大きな出来事は、「母の逝去」でした。
 でも、7月11日の誕生日をどれだけ意識していたかは不明ながらも、満で90歳の長寿を達成できたことは喜ばしいことでもありました。
 また、母を含めて家族全員が無事に「誕生日を迎えられた」と言うことも、感謝すべきことだと思っています。
 悲喜交々の毎日でしょうが、少なくとも、夜「今日も無事に眠ることが出来る」と感謝し、朝「今日は元気に起きられる」と思うことこそが、幸せの根源なのだろうと思えるようになりました。
 勿論、凡人は凡人で、その一時を過ぎると「貪欲の塊の餓鬼」と変化してしまうのは、致し方ないのだろうと思っています。
 時には「聖人君子」を気取ってみたりしても、結局は凡人なのだから、大晦日の除夜の鐘と共に今年の煩悩を一時でも振り切り、また来る歳の煩悩を積み重ねてゆけることも、また楽しみだと思えば、人生そんなに悪い物ではないのではないか、と「徒然、仄々」とで活きたいと思っています。
 何かの歌にもあったけれど「幸せ数えたら、片手でさえ余る、不幸せ、数えたら、両手でも足りない」とか。
 年の瀬で慌しいでしょうが、この際「不幸せ」は強く意識して忘れ「幸せ」だけを数え上げてみようではありませんか。
 「不幸せ」と思っていることでも、案外「幸せ」だと意識することもあるのではないでしょうか。

 どうか来年が皆様にとって「(今年)より良き歳」となりますようお祈りいたします。

 今年もお付き合いいただき、ありがとうございました。
 来年も相変わらず駄文、拙文ながら「徒然、仄々」を続けたいと思っています、なにとぞよろしくお願いいたします。

投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 日記 | コメント(0 )

2011 年12 月21 日

迂闊だった

 リタイアした現在でも、年末になると「あぁーだ、こぉーだ」言いながら「飲み会」が増えてくる。
 在職中と違うことは、声がかかるところが「想定外」の所だったりするので、少し困惑してしまうのが難点である。
 在職中は、複数の場所も異なり、勿論メンバーや協力会社も異なり、お客様も異なりと言う具合に良い意味でも悪い意味でも「引く手数多」だった。
 幸いにして、現在はメタボのど真ん中で糖尿症との診断を受けているが、当時は毎晩続いても全くそんな症状は無かったので、毎回楽しく歓談できた(むしろそれが私の一つの「とりえ」だったと思っている)。
 大概二次会がつき物で、それなりの「心づけ」を要求されるのだが、それも必要経費と思っていた。
 その道すがら、前後に誰がいて、どんな話題をしているかについては、結構神経を使って意識していたので、翌日もしくはその後その話題をテーマに話を引き出して、仕事に結びつけたこともある。
 勿論、決して自分に対する悪口などはすぐに忘れてしまって、話題にすることはなかった。
 先日の飲み会の帰り、大概は後ろの誰かが判る筈だったのだが、声を数度掛けられるまで全く意識できず、並んで話しながら帰った人との話だけに没頭していた。
 全くの迂闊だった。
 これを加齢のせいにする訳にはいかないが、それだけ注意力が散漫になってきているのだと理解するべきで、悲観するのではなく、もっとゆっくりと回りに気を使いながら行動すべきだと自分に言い聞かせた。
 こんなことも「少しの刺激」と思えば、それはそれだまた楽しみでもある。

投稿者:つねちゃん
at 08 :23 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月20 日

私の正信偈

 年初めの目標の一つが「正信偈」を100回書き写す、だった。
 11月最終週にその目標は達成できたので、小さいことかもしれないが「目標達成」は私にとって快哉の出来事だった。
 正信偈については、随分昔に買ったカセットテープをCDに焼き付けて、お風呂の中でも読みながら唱えた物である。
 大体2日に1度入浴するので、旅行や何かで抜けた時があったとしても、多分100回以上は唱えていたのだろう。
 風呂では、同時に「仏説阿弥陀経」と言う物を「聞いて」も居た。
 だからこれも100回を越して「聞いて」いたのだろう。
 読み、書き、と言う点で私の「正信偈」は一応完結させた。
 だからといって、決して信心が深まった訳でもなく、「帰依する」などとは縁のない生活様式は全く変わっていない。
 少しばかり変わった点を無理に思い起こせば、月忌参りに来られた若いお坊さんが、時折唱えられる時に、とても着いてはいけないけれど、ブツブツと呟く程度に唱えることがあることだろうか。
 かつて、「般若心経」も同じように書き写して読み唱えたことがある。
 これは600回で完了とした。
 これとて「無」を得知した訳ではなく、相変わらずパチンコや宝くじ、競馬と「現世の欲」を丸出しにしている自分が滑稽である。
 しかしながら、無信心である事を承知しながらだけど、何かの時に「フッ」と思い出すことがある。
 私の信心や仏教とのお付き合いはその程度でいいのだと思っている。
 冥土へ行った父から「バカヤロウ」と叱られそうだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :57 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月19 日

映画はやっぱり劇場で

 映画を観るのは基本的に「大好き」である。
 しかしながら、やっぱり「時間貧乏性」なのだろうが、観る時には「構えて」観なければならず、その間は没頭しなければ、今度は「(お金)貧乏性」と言う顔が出てきて、しっかり観なければ折角お金を払っているのだから、と言うことになり、自分自身混乱してしまう。
 で、先日家内と久し振りに「邦画」を観に行った。
 今まで家内と一緒に見るのは「ハリーポッター」だけだったように思うが、それも「字幕物」だった。
 別に英語が堪能な訳ではないが、なんだか吹き替え版だと、一つの「緊張感」と言う物が削がれてしまっている様な気がするからである。
 TVで放映される時には、勿論吹き替え版で観るのだが、原語版で見た記憶がその裏打ちをしてくれるので、緊張感を思い出すので、それはそれで楽しい。
 話を本題に戻して、題名は「Railways」。
 富山地方鉄道が舞台であり、矢張り地元の人間としては親近感を覚える。
 個人的には、自分が退職したときのことが思い出され、どうしても涙腺が緩んでしまった。
 私なりの理解でしかないのだが、線路は2本で意味を為し役に立つ。1本になってしまっては、鉄屑でしかない。さりとて、その2本がクロスすることなく、寄り添って生きていかなければならないし、それが幸福なのだろう。
 しかしながら、時には左右に分かれてそれぞれの役に立ち、それが過ぎればまた寄り添って役に立つ。
 英語にした一つの理由は、最後の「s」ではなかろうか。
 線路はお互いに繋がってはいるのだけれど、各々複数の「線路」が各々の「行(生)き方」をしているのだろう。それで複数なのではないか。
 それにしても、矢張り映画は劇場で、映像の迫力と音響の迫力で観るべきだろう。
 TV放映は、その思い出を持って反芻する、と言う意味では楽しいのであるが、逆順になってはお互いにつまらないのではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 07 :22 | 趣味 | コメント(0 )

2011 年12 月16 日

今年の振り返り 人に教える

 リタイア後、格好良く言えば、最初は完全ボランティアで、頼まれて「PCサポート」を行ってきた。
 年末のこの時期、大抵申し出があるのは「プリンターが上手く動かない」とか「写真が綺麗に出ない」など年賀状関連のトラブルである。
 今は加入していないが「ボランティア保険」と言うのがあって、たとえば行く途上での事故などの場合補償してくれるものだったので、その点は大丈夫だった。
 でも、ガソリン代は勿論、そのための資料づくりなどは完全に「無償」だった。
 保険適用はそれが条件だった。
 その後は、ボランティアではなく来て欲しい、ということがあり、約2年半ほど続けただろうか、正直「良い小遣い稼ぎ」になったものである。
 在職中も「借役教官」として何度か「教壇」に立ったり、品質管理を中心にいろんなところで「教育」をしてきたので、ある程度の時間配分や、話をはぐらかすようなテクニックも身につけていたつもりだった。
 今年それが役に立った出来事があった。
 一つは孫が通う小学校からの依頼で「昔の遊び」を教えて欲しい、と言うことだった。
 いくつかの種目の内で割り当てられたのは「メンコ」である。
 餓鬼の頃「賭けメンコ」をやっていたが、まさか小学校で「賭け」は出来ないので、「めくり」と「飛ばし」を話と実演を交えながら、45分間を2コースやった。
 書かせられたのだろうが、感想文では「またやってみたい」とのことだったので、それなりに満足した。
 もう一つは「寿大学」で「便利で楽しいデジタル生活」と言うことでの講演を頼まれた。
 聴講生としての会員は65歳以上と言うことだったので、全て年上の方ばかりだった。
 (伯父の葬儀の時に「あのときの聴講生だった」と言われた方がいらして、恐縮したのだが)
 講義時間の目安は「1時間半」と言うことで、その後質問時間は別、という設定である。
 幸か不幸か質問は出ず、でも、昔とった杵柄だろうか、きっちりと1時間半で拍手に送られながら終えることができたのは、久し振りに約50名を相手に喋れ、それなりに声も出ていたとのことだったので、満足だった。
 来年は依頼が無いだろう(続編を全く意識していないので)が、何かの機会に大勢の前で話すことがあれば、積極的に恥を曝しに行きたい物である。
 これも、一つの健康法だろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :42 | 子育て | コメント(0 )

2011 年12 月15 日

今年の振り返り 不幸が多かった

 今日からいよいよ師走も後半に入るので、思いつくままに一年を振り返ってみたい。
 勿論細かいことを揚げ連ねたら、とてもこの日数では足りないし、思いつくままの話題も入れるから、僅かにしかならないだろうが、例によって「ノホホン」とお読みいただければ幸いである。
 というながら、最初の話題が「不幸」と言うのはいささか気が引けるのであるが、少しばかりの救いは「年長の人」だったことだろうか。
 昨年収穫させてもらった園芸高校での同級生の奥さんが、本当の年末になって逝去された。
 具合の悪いことは知っていたが、新聞で訃報を知り、年賀状も届いたのには、正直何度かしかお会いしていないが、涙がこみ上げてきた。
 年始早々の葬儀でも、彼の顔がまともに見られなかった。
 また、防犯の街頭指導でよくお会いする町内の方のお母さんも100歳の長寿を全うされて逝去された。
 でもやっぱり、大きかったのは、母の逝去である。
 7月11日には90歳の誕生日を迎えたのだが、その月の晦日に無くなった。
 意識が朦朧とする中「頑張ってね」と言っていたが、最後には「もう頑張らなくて良いよ、あっちへいってお父さんとまた喧嘩しながら仲良くしてね」と思うと同時に、介護の精神的な疲れから開放された安堵感も覚えたのが本音である。
 園芸高校の地区懇談会の開催も言われていたのだが、その矢先に母方の伯父さんが逝去された。
 直接何かをしなければならない、と言う訳ではないが、通夜、葬儀、四十九日などへの参加は当然のことながら、細々とやることがあるもので、懇親会を失念してしまっていた。
 懇親会の相棒と思っていた人から「こちらも色々と事情があって」と言われた事も失念の言い訳でしかないのだが。
 年賀欠礼の挨拶を頂いて、ようやく理解できたお粗末を演じてしまった。
 来年はあまりこのようなことが無いことを願うが、少なくとも一休禅師の言うが如く「親が死に、子が死に、孫が死ぬ、目出度いことだ」と逆順にだけはならないことを切に願いたい。

投稿者:つねちゃん
at 07 :03 | 日記 | コメント(0 )

2011 年12 月14 日

質問されて気が付く楽しさ

 ここでも何度か紹介したが、町内の有志の方々に週一程度の頻度でPC講習を頼まれてやっている。
 毎回同じ質問をされる方もいらっしゃるが、大体は「質問を持って」お越しになるので、こちらとしても思わぬ学習になることがあり楽しい。
 実は随分前になるが、多い時で4−50名の方を相手にやっていたことがあり、ここでも同じ質問が回を変えて人を変えて為されるので、正直かなり苛々した物である。
 でも、考えを変えて「同じ質問でもどんどんしてください。なぁに、同じことを10回も聞けば大概覚えますよ」と相手に言うと共に自分にも言い聞かせた物である。
 話を本題に戻して、この時期は年賀状ソフトについて質問されて、自分の持っていないソフトについて質問されると、一緒に学習することになる。
 また、自分の持っているソフトでも「そんな使い方したことが無い」と言うこともあり、それなりに苦しく楽しい時期である。
 先日も二つの質問をされて、その場ではそれ以外の人の迷惑にもなるので「宿題」にさせてもらった。
 家で参考書を読んだり、ネット情報を漁ったりして、何とか解決のめどが立った。
 一つは「宛名は手書きで(非常に達筆な方である)書きたいが、差出人は自分なので印刷したい」と言う物である。
 もう一つは「宛名の外字の扱い」である。その場でヘルプを見てもどうにも今ひとつ要領を得ない。
 前者は明日の講習のときにその人のソフトで試してみるが、手持ちのソフトではスイッチ一つで可能なのである。
 後者は、少し梃子摺ったが、資料を渡した後で聞くと「やっぱり出ない」ということで、訪問対応して判ったが、選択フォントが違うので、それを適応させて解決した。
 こんなことが繰り返されて、自分の学習になるので、こちらも随分と楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :29 | 学習 | コメント(0 )

2011 年12 月13 日

甘い物も辛い物も好き

 このブログでも何度も紹介しているが、私は滅法「辛い物」が好きである。
 自家栽培で、最初は「唐辛子」。これにも色々な辛さの物があり、大振りの「韓国唐辛子」も結構好きだった。
 それから「ハラペーニョ」次いで「ハバネロ」。
 当時はこれがギネスに記録された最高の辛さだった。
 次いで、ギネス更新と言われて「ジョロキア」これは流石に激辛だったが、栽培した分はすでに全て平らげた。
 TVで「辛い物特集」のような番組を見つけると、ほとんど見て、まだまだ上には上があるものだと思ったりする。
 だからだろうか、「辛党は甘い物が嫌い」と思われているようだが、決してそうではない。
 先日、娘の連れ合いから、大好物の「かりんとう」を貰った。
 甘さを適度に抑えた物だが、これはこれで好きな味である。
 最近の「スィーツ」と言う代物は、なんだか「ゲテモノ」のような気がして、食指が殆ど動かないが、純粋な黒糖を使った物や、蜂蜜を使った物などは、辛い物と同じくらいに好きである。
 家内は「お父さんは辛ければ味はどうでも良いのだろう」と言うが、決してそうではないのである。(勿論口論は好まないので『あぁ、そうだね』と聞き流しているのが波風を立たせない処世術である)
 辛い中にも不思議な甘さを感じたり、元になっている出汁はカツオなのか、昆布なのか、アゴ(トビウオの事)なのか、コンソメなのかは、結構判っているのである。
 残念ながらいまだに再会できていないのが、最初で米国出張で食べたとっても辛いがとっても美味しかったチャーハン(名前は度忘れした)である。
 辛さの元はハバネロらしいのだが、何度挑戦したり、紹介された店でもあの味には再会できていない。
 さりとて、そのためにダラスへ行ってみる気も無いし、その店の場所などもまったく覚えていないのだから、仕様が無い。
 いつまで経っても再会できない、初恋の人のようで、それを思うのもまた楽しみなのである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :59 | グルメ | コメント(0 )

2011 年12 月12 日

至福の時

 加齢のせいばかりではないが、前日の夜どんなに遅く寝ても、逆にどんなに早く寝ても4時過ぎにトイレに起きて新聞を取りに行き、4:30にはクラシックを中心にしたCDが静かに流れ出し、5:30にはファンヒーターがつき、その頃からまどろみながら新聞を読み出す。
 これが私の殆ど毎日訪れる至福の時である。
 特別なことではないが、これを「至福」と感じられる自分がまた楽しい。
 よく言われるように「健康な人は言葉で健康に感謝するが、本当に健康に感謝することは無い」と。
 不健康な時にこそ、真の意味で「健康に感謝」と言う気持ちが明らかになるのだろう。
 勿論、凡人の凡人たる所以で「喉元過ぎれば」と言うのも間違いない事実である。
 同様に「幸福でないと嘆く人は真の幸福を知らないのではないだろうか」と思うのである。
 かつての私も当然「もっと幸福に」と願っていたものである。
 でも、リタイアして大分経ってから「幸福」って何だろう、と思うようになった。
 で、冒頭のことになるのだが、心地良い音楽に包まれながら、排便も順調に済ませ、昨日までの出来事を「徒然なるがままに」新聞を読むことで少しばかり理解し、部屋が少しばかり暖かくなったときに、手足指伸ばしをして、起き上がり、一日を始められる、これこそが本当の「幸せ」なのではないだろうか。
 勿論、それが過ぎれば、普通の凡人として、好きなパチンコで僅かかも知れないが、プラスになれば「なんという良い日だろう」と思い、逆であれば「なんと不幸な日であろうか」と思うのである。
 でも、一日の始まりを「至福の時」で始められれば、それだけでも幸せではなかろうか。
 今日は新聞の休刊日であるが、その分布団の中でのまどろみの時間が長くなると言う幸せがプラスされている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月9 日

難読漢字の楽しみ

 相変わらず、暇に任せていろんな本を読み漁っている。
 書き写しから入った、仏教関係の本や、何か自分に合った箴言などが無いかと読み拾ったり、勿論大好きな落語本や、少しエロチックな笑話本など、ジャンルを問わないくらいである。
 そんな中でも「難読漢字」は、向こうから「これはどうですか」と言うように「飛び込んでくる」のがなんとも楽しい。
 
 簿記は「外来語」だった、と言うことをご存知だったろうか。
 もともとは英語の「Book Keeping」だったそうである。
 「Book」の発音は「ぶ」ではなくむしろ「ぼ」に近いのが実感としてあるから、なるほどと思う。
 でも、当時の訳者は相当な知識を持っていたのだろうと、今更ながら感心する。

 灰殻は読めるだろうか、何故この漢字を当てたか判ると面白い。
 答えは「ハイカラ」である。
 勿論これも英語の「High Collar」(高い襟)らしいのだが、これにこの漢字を充てたという謂れが頗る面白い。
 実態、そんな格好を当時としてした人は「灰」や「殻(燃えカス)」のように軽佻浮薄な人が多かったのだろう。
 イヤイヤ、私だって、一頃は常にカフスボタンを身に付けていたのだから「灰殻さん」だったのだろう。
 勿論羨望と言う意味ではなく、嘲笑の種だったのだろうが。
 いやはや、やっぱり「本を読む」と言うことは、いろんな意味で楽しいことである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :43 | 学習 | コメント(0 )

2011 年12 月8 日

薬を正しく飲んでいる

 かつて「胃潰瘍」と診断され、2か月分の薬を頂いたが、仕事が不規則だったり、飲み会が多かったりして、3ヶ月ほどしてまたお腹が痛くなり、診察に赴いた。
 その間に「もう薬も無くなっているでしょう」と電話が掛かってきたが「はい、そのうちに伺います」と言って延び延びになっていたのである。
 診察するまでも無く「いったいどんな薬の飲み方をしているのですかっ!」と顔を見るなり担当の女医さんに叱られてしまった。
 結局症状としてはそんなに悪くはなっていなかったので、散々叱られ、薬局の人や事務の人にも笑われて、再度2か月分の薬を貰ったのだが、流石に今度はきっちりと飲んだので、2ヵ月後に診察(投薬の必要の有無の確認を含めて)に出向いた。
 内視鏡での検査の結果「一応完治」しているとのことで、その夜件の女医さんと品川近辺を飲みに出かけた。
 ちなみに「アルコールと胃潰瘍との因果関係は認められない」と言う主張を持っていらしたので、お互いに好きな日本酒をたっぷりと楽しんだ。
 ここ数年間「高血圧」と「糖尿病」で投薬を続けているが、上記のことが気になっていたのと、然程不規則でない生活だから、結構きっちりと飲んでいるつもりである。
 この7月から「治験」と言うことで、新薬の実験台になっており、最低週3回の血糖値測定を義務付けられているが、現在は毎日行っている。
 それと同時に、食前の薬と食後の薬も、きっちりと守って飲んでおり、血糖値については、測定結果をPCに記録して、医師の見立て予想よりは遅いながらも順調に下降傾向が見て取れている。
 こうなると、むしろ薬をきっちりと飲んでいる、と言うことが「苦痛」よりも「楽しみ」になってきている。
 ご存知のように糖尿病は、以前も言ったが「症」なのだから、完治はしないだろうが、こんな楽しい状態で長く付き合えれば、それはそれで楽しみである。
 それにしても、「薬は一つ間違えば毒」と言うとおり、これからも楽しみながらきちんと薬を飲んでゆきたい物である。

 

投稿者:つねちゃん
at 12 :48 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月7 日

電飾を点灯

 母が逝去して「お正月」祝いはないから、年末年始は少しだけ気が楽である。
 慌てずに掃除もして、それなりに小奇麗にはするものの、正月飾りや宮参りは全くしない訳ではないものの「喪中」と言うことを意識しながらしめやかに行うことにしている。
 そんな中、昨年は少し故障箇所があったので、取り替えてもらった電飾を今年も点灯させることにした。
 母が、何処まで理解していたかは別にして、デーサービスなどから夕方帰る時には大抵点灯させていて「綺麗だねぇ」と言っていたことを思い出してこれだけはつけることにした。
 隣の同級生は飾りつけは毎年やるのではなく、少しずつかもしれないが増えたり変化させているので、とても太刀打ちできないが、ささやかに塀際で点灯している。
 玄関脇のクリスマスツリーを模したものには、もうすでに5年くらい前から設備しており、こちらはリズムを変えながら点滅するので、見ていてもそれなりに華やかである。
 それにしても、最近はあちらこちらにこの電飾が増えてきて、それなりに楽しく感ずる。
 今更ながらLEDの威力には感心する。
 かつてこの手の電飾を設備するとなれば、豆電球の数だけではなく、電力量(料)の心配が付きまとった物であるが、この節電のご時世でも、それは殆ど心配することもないようである。
 もう何年前になるだろうか、神戸のルミナリエを家内と見に行ったときは、確か殆どで電球だったように思う。
 それを見たときの感動は今でも忘れられないが、同時に感じたのは、ENIACと言う電子計算機のことである。
 勿論見たことはないが、広大な面積の中に18000本の真空管と聞くと、入社時に出張に行った所で多分数千本の真空管を具備した設備が動いていたことを思い出す。
 聞くと、毎日何本かの取替えが必要だと聞いたが、それにしても物凄い暑さだったことを思い出す。
 どうも、一緒の職業病的な感想である。

投稿者:つねちゃん
at 09 :34 | 日記 | コメント(0 )

2011 年12 月6 日

それでも宝くじを買う

 メールマガジンを初めとして、「今日の運勢」と言う物を日々5通ばかり愛読している。
 大体恋愛運などを初めとして3から5種類くらいの運勢が載っているのだが、必ず載っているのが「金運」である。
 大体は5段階位の表示で、解説があるものも無いものもある。
 だが、もしもあなたが該当する星座や生まれ月、干支など、それら全ての金運で「5」表示だったらどんな期待をもたれるだろうか。
 ましてや、暫く確認していない宝くじが手元にあった場合は、どうだろうか。
 先日、本当に珍しく、そんな日があったのである。
 でも、「ひょっとして3億円」が当たっていたら(まずもってそんなことは無いのだが、買っている以上は『当たるかもしれない』のである)と思うと、とても確認してみる勇気が無い、と言うのが本音だった。
 かつて、良く麻雀をしていた頃に、普通の「役満」と言うのは何度も上がったが「九蓮寶鐙」と言う役は残念ながら上がったことは無い。
 一緒に卓を囲んでいて、上がった人は居たが、それとて「純正」ではなかった。
 本題に戻して、役満を聴牌した時には、別に腰痛があった訳でもないのだが、妙に下腹から腰に掛けて鈍痛のような痛みが伴い、結果としてそういう場合は上がれたのである。
 今度のときも、鈍痛を感じたから、なおさら怖い気がしたので、結局確認はしなかった。
 もし、3億円が当たったら、親しい友人には話しているのだが、「石動城」を造りたいと思っている。当面のその心配はなさそうだけれど。
 そして年末ジャンボが発売された日に、軍資金として少しでも役に立たそうと思って、換金したのだが、残念なことに、期限切れが3,000円もあった。
 でも、そんなことの繰り返しや、計算上の期待値がどんなに低くても、これからもまだまだ買い続けるだろう。
 いつの日か、石動城が建設できることを「夢見て」。

投稿者:つねちゃん
at 08 :20 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年12 月5 日

やっぱり「早起きは三文の徳」

 「冬」と言う言葉を聞いたからか、体感温度が「寒い」になったからか、ともかく布団の中が恋しくてならないこの頃で、どうしても朝起きるのが遅くなってしまう。
 目は覚めているのだが、気持ちの良い音楽がジャンルをまたがってランダムに演奏されるので、まるで「子守り歌」代わりに眠気を増進させる。
 今までは、大体音楽が鳴り始める4:30頃には目を覚まし、手足指伸ばし運動(?)を布団の中でやって、5時前には新聞を取りに行き、ウトウトしながら読んで始める一日だったのだが、最近は上述のとおりで、新聞を取りに行くのが約1時間遅れになっている。
 そんな中、先日何が原因か(実は判っているのである。このシーズンで忘年会や懇親会などの名目で開かれる「飲み会」で鱈腹(たらふく)日本酒を飲んだからだろう。)、以前の通り4:30少し前に起きてラジオが鳴り始める頃までには手足指伸ばしも終え、日頃よりも1時間余りも早く一日を開始することができた。
 日課になっている「書き写し」も順調に終え、このブログも、治験の血糖値測定などもすっかり終えることが出来た。
 幸いにして、天気も良く、立山の山並みから登る太陽にも感謝と今日の無事を願ったりする、なんとも気持ちのいいものである。
 これが「三文」だとは思えないくらいの価値である。
 こうなると、一日中気分が良い。
 多分、脳内に全てを「前向き」に思考する回路が出来上がるからだろう。
 家内の多少気になる言葉も、「善哉、善哉」と聞き流したりすることが出来、一向に気にならない。
 私の場合「偶々(たまたま)」なのだが、時には「頑張って」早起きしてみてはいかがだろうか。
 実は昨日、一昨日と飲み会が続いたので、今朝も4:30コースだった。

投稿者:つねちゃん
at 09 :24 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月2 日

今為すべき事を為す

 昔からよく言われる言葉だが、中々「為す」ことが出来ないのも昔からの常習犯的なことである。
 だからこそ、この言葉が出現していて、いまだに持て囃されている(私の世界だけかもしれないが)のではないだろうか。
 最近、何か全体的に「箍(たが)が緩んできている」ような気がしたので、思い出した言葉である。
散歩はかつてのエクササイズ的ではなく、文字通り「散策」的に行っているが、これとて決めてやってるのではなく、気分次第である。
 いくつかの書き写しは「日課」と言うかルーチンワーク的な行動であり、これも「為すべきこと」には該当しないのではないだろうか。
 決して、大きなことを「為そう」などとは思っていないが、少なくとも「今日」と言う単位で「為すべきこと」をきちんと整理して、一つ一つをこなしてゆきたい物である。
 しかしながら、色々な事情で「出来ない」こともあるだろうから、それはメモとして残して「明日やる」ことにしている。
 ところが、そのメモがどんどん消化できずに溜まっていくので、これもまた悩みの種である。
 と書くと、いつもの「前向き」ではなく、「反省ばかりの後ろ向き」と受け取られそうだが、自分としては決してそうではなく、むしろ「まだまだやらなければならないことが沢山ある」と言う意味で、その時その時で「考える」のではなく、ヒント帳だと思っている。
 時折、ポカンと時間が空いた時に取り出して、出来る事を「為す」と言う意味では、貴重なヒント帳である。
 「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 為せぬは 人の 為さぬなりけり」
 さぁ、今日も沢山「為すべきこと」を為して、年内にはヒント帳をせめて1/3位に減らしたい物である。
 でも、増える要素もあるので。。。
 まっ、良いか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :08 | 健康 | コメント(0 )

2011 年12 月1 日

さぁ、師走

 11月が終われば、12月が来るのはごくごく自然のことなのだが、それにしても、毎年「ようやく今年も終わりの月を迎えることが出来たなぁ」と思うのは、決して私だけではあるまい。
 さりとて、然程気合を入れて何かをする、と言う訳でもなく、逆に、何の感慨も無く漫然と過ごす今までの月とは矢張り何か特別の感慨を持つのも然りではないか。
 今年の一大出来事は、矢張り母の逝去だったろう。
 生前の最後に書けた言葉は「もう頑張らなくてもいいよ」だったし、逝去に当たっては「ありがとう、お疲れ様でした」だった。
 訃報が続き、母の兄だった伯父さんも逝去された。
 四十九日の法要には、小謡の「田村」を伯父さんの長女と甥(どちらも私とは従兄弟である)が朗々と、かつて好きだった伯父さんに手向けたのが印象的だった。
 今月は、今まで来たことを振り返りながら、また後半には、来るべき歳の「したい事」を揚げ連ねてみたいと思っている。
 師走、なんとも感慨深い言葉であると思っている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :33 | 健康 | コメント(0 )

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