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2012 年5 月31 日

安いPCの謎解き

 現在我が家にあるPCは、そのOSから分類すると、WinMe、WinXPそしてWinVistaである。
 最後のVistaを買ったのは、どうしてもTVを見るデスクトップが欲しくなり、以前のものでは動作が遅くて、耐えられなくなったからである。
 尤も、私がではなく、孫が「動きがおかしい」と言い出したのが切っ掛けだったので、爺馬鹿としては「そうかそうか」と二つ返事で新調したものである。
 そろそろWin7や8がアナウンスされており、小銭貯金でどうにか賄えそうな価格になりつつあるので、7はパスして、今年末に出るであろう8に的を絞っている。
 そんな中で、受講生の方がお持ちのPCもそろそろいろんな意味で限界になりつつあり、相談を受けている。
 で、今までは余り見なかった折込チラシに目を通すと、ナント「0円」とか「500円(ワンコイン)」という表示価格のものがかなりある。
 よくよく小さな文字で書かれている「弊社の〇〇通信に加盟の場合」と言うのが読み取れる。
 これで引っかかってきた客は「飛んで火にいるナントやら」であろう。
 受講生の人には「決してこの価格に惹かれることの無い様に」とアドバイスしている。
 謎解き、と書いたが、要は通信会社からのペイバックがあるからで、途中解約でもしようものなら、想定外の違約金が取られる仕組みである。
 一時期携帯電話でもこのようなことがあったと記憶するが、現在では規制されているのか然程のことは無いのだが、PCでも早晩このようなことになるだろう。
 在職していた会社は、全身が「公社」だったから、このようなビジネスは「決してやってはならない」と研修を受けた。
 現在はそのような精神も殆ど無くなりつつあるようだが、やっぱり「騙し商法」に近いことは止めて欲しい物である。
 尤も、最近の政治情勢でも、似た様な事が散見されるのも残念なことである。

投稿者:つねちゃん
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2012 年5 月30 日

PC教室の謳い文句

 メインカテゴリーを「子育て」としたが、「大人育て」とでもした方が適切なのかもしれない。
 時々新聞の折り込みチラシに入ってくる「PC教室」の謳い文句が、非常に気に掛かる。
 いわく、「PCが出来るようになります」と言うフレーズには、全く何を言っているのか判らない。
 「Excel」や「Word」が出来る様になります、と言うフレーズも判る人には「理解される」だろうけれども、そんな人はそれなりに使っているのだから、いまさら「教えて貰わなくても」と言う気持ちではないだろうか。
 少し気の利いたのでは「家計簿が作れて、無駄が少し減らせます」とか、「お気に入りの便箋が作れます」などがある。
 それなら「習ってみようか」と言う気持ちになるのだろうか。
 私も町内の何人かから請われて月に4回くらいのPC講習を始めて、もう4年くらいになるだろうか。
 そんな中で、切実に希望されているのは、多分「こんなことがやりたい」と言う「その時その時の要望に沿うことではないだろうか。
 また、年齢が私よりも上の人ばかりなので「何回聞いても次の時には忘れてしまうがやチャ(富山便)」と「繰り返し」の連続である。
 PC教室では、たぶん「以前教えたでしょう」と言うことで、同じ事を聞くのにはそれ相応の料金が掛かるようになっているようである。
 兎も角、チラシに書かれている料金は「若い人が一度聞いて覚えておられる」ことが基本になっているようで、何回も同じことをかなり時間を経過して質問することは前提になっていない(追加料金になる)様である。
 私の講習方法が一番とは決して思っていないが、1回当たり500円で約2時間で、「やりたいこと」が少し出来るようになり、「忘れたこと」は何度でも聞くことが出来る、と言う方法は間違ってはいないと思っている。
 尤も、教える方はそれなりの忍耐が必要ではあるが、それにも随分慣れてきている。
 また、この方法では「経営」としては決して成り立たないので、その方面へのアドバイスではなく、受講される方に少しでも理解していただければ、と思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :23 | 子育て | コメント(0 )

2012 年5 月29 日

幼児の「んんっ、もおうっー」

 言葉表現を文字で表すのは、かなり難しいのだが、幼児語に対してはなお更である。
 何とか、表題のニュアンスは判ったもらえるだろうと思いながら進める。
 近所の今年保育園に入った女の子が、お母さんに対して何か要求したのだが、お母さんは手が離せず、そのような対応の返事をしたようである。
 それに加えて、「何々ちゃん、こうしなさいよっ」と言いつけているようだ。
 それに対しての女の子の言葉である。
 お母さんに聞かせることを意識してなのか、自分だけの憤懣から出た言葉なのかは、判る由もないが、なんとも可愛らしいものである。
 その後、どうなったかは知らないが、多分少し後見かけたら、仲良くお出かけする様子だったので、和解が成立したのだろう。
 我が家の孫が、今この言葉を言ったら、果たしてどうなるか、シュミレーションをしてみると、・・・・・とんでもないことになりそうなので、止めて置こう。

 同じ言葉でも、どれくらいの年齢から受け取る感じが違うのだろうか。
 尤も、年齢だけではなく、相手に対する日頃の感情でも違ってくるのかもしれない。
 「職場でのセクハラ」に関する講習を受けたのは、最初はまだ管理職になる前だったろうか、その後上級職になるにつれ、何度か受講したのだが、「同じ言葉でも相手によってそのように取られることがある」と言うのが、偽らざる受講生の、飲んだ時の愚痴だった。
 幸い、直接そのような場面に出会ったことはないが、それとて、陰でどのように言われているか判らないから、無事にリタイアできたことに感謝すべきなのだろう。
 同様に「パワハラ」と言う言葉に関する講習も受けたが、これは私には全く効果がなかったのではないだろうか。
 「彼の右側には座るな」(言葉より先に右手が飛んでくるから)とか、「なぁーに、明日になったら、そんなことがあったことすら忘れているから気にしないことだよ」との評判は聞いたことがあるが、「パワハラ」までにはなっていなかったのだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :30 | 子育て | コメント(0 )

2012 年5 月28 日

鉛筆は何処まで使う

 昔から「小刀」で鉛筆を削ることが苦手で、鉛筆削り器は便利この上なかった。
 尤も、就職して研修所を出てきてから、システム設計というデスクワークになって、使う筆記用具は殆どが会社から貸与のシャープペンシルだったので、「鉛筆削り」と言う作業からは遠ざかっていた。
 リタイアして数年前から始めた「書き写し」で、最初の頃は「使い差し」のボールペンだった。
 それが殆ど無くなって(思えば随分使ったものである)、次も「少し不具合」だったシャープペンシルを騙しながらだった。
 そんなことをしているうちに、両親の遺物を整理していると、ごっそりと「鉛筆」が出てきた。
 今では二人の子持ちの娘が使っていた鉛筆削りも見つかり、それを使って鉛筆を使い始めた。
 鉛筆削りで削れるのは、大分長い時までである。
 その後は、手で押し込んで削る式のものを100均で買って使っている。
 そんなにして使った鉛筆だが、芯の先まで2cmくらい残した鉛筆は、何故だか捨てられない。
 現在3本そんなものがある。
 そこで、ノホホンと考えたのが「何で最後まで『芯』が入っているのだろう」と言うことだった。
 鉛筆削りで削れるほどの長さまで芯が入っていれば、充分なのではないか。
 余った「芯の正体」のカーボンは別の鉛筆に使ってはどうなのだろうか。
 ネットで調べると、やっぱり同じ考えを持った人が沢山居て、楽しかった。
 諸姉・諸兄は如何お考えだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 16 :43 | 学習 | コメント(0 )

2012 年5 月25 日

提供者の勝手な論理

 実は似たような投稿を、このテーマを思いつく前にして、採用されているので、それは「追記欄」に紹介させていただく。

 最新の携帯電話各社の新製品発表からから、従来の「電話優先」機能タイプが消えてしまったとの報道に驚いた。
 そのくせ、提供者のコメントには「シニア世代の人にも使ってもらえるように」と異口同音の合唱である。
 私自身は、在職中その手の職種(通信とIT)だったので、「新型機器」には結構目敏い方だと思っている。
 だが、月あたり数百円で映画が殆ど見放題、と言われても、映画はやはり「映画館」で観たい。
 一部の報道には、もう何年か後には「映画館」自体が無くなるとの予測があることも知っているのだが。
 機能は確かに便利なのだが、最初は物珍しさに使うだろうが、対価に値するほど「使うか」と言われれば、多分そんなに使わない。
 そんなことから、今のところ電話機能のほかに、予定表、メモ、歩数計などの「通信費の掛からない」機能だけで充分である。
 使うか使わないか判らない機能のために、月額料金を払う気持ちは全くと言って良いほど無いのである。
 「いつでも使えます、使った時に使った分だけお支払いください」というのであれば、まだ納得もするのだが、「使わなかったのは貴方の責任ですから、料金はお支払いください」と言うのでは、「やらずぶったくり」と同じではないか。
 まぁ、そう思うのだから、私は現在の機能で充分である。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :32 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年5 月24 日

社説とコラム

 有料で購読していない新聞社の方々には申し訳ないが、ネットで各社の社説やコラムを読むのが一つの楽しみになっている。
 尤も、最近は「社説」は余り読まなくなっているのだが。
 なぜなら、と言う前に、「コラム」は殆ど欠かさず読んで楽しんでいることを、私なりの「仄々」論で述べさせていただく。
 「コラム」に対しては「ふぅーん」「なるほど」「そんなことを言ってもナァ」などとかなり「仄々」とした気分で読めるし、反論があったとしても、熱が上がるほどの反論は何故か湧いてこない。
 「そんな意見もあるんだろうナァ」で済ませられるのである。
 ところが、「社説」になると、俄然熱を帯びてくる。
 上記に準えた反応を表現するならば「そんなことだったのか、それはけしからん(もしくは、それはもっと推進すべきことだ)、断固抗議すべきだ」、「そうだそうだ、全くそうだ」、「そんなことを言ったって、じゃあ、貴社は具体的に如何なんだ、批判ばかりじゃ物事は進まないだろう、田中角栄ではないが、『反対するなら対案を出せ』ではないのか」とどうしても熱を帯びてしまうので、朝から決して健康によくはないと思うので、タイトルを見て、「仄々となれそうだ」と言う物だけを読むことにしている
 これは、私だけに限ったことなのだろうか。
 そんなことを思いながら、在京時のことを思い出してみると、20代後半頃からそんな癖が付いているようである。
 そうだそうだ、カミさんに「朝から社説は読まないで」と注意されたことがあったことを思い出した。
 当時は今よりももっと激しく熱が上がっていたのだろうナァ。
 でも、新聞記事だけでなく、社説やコラムはもう一歩別の観点から事態を読ませてくれるので、私の永遠の学習の友になるだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 学習 | コメント(0 )

2012 年5 月23 日

地震に対する「朝三暮四」

 東日本震災に関して、まだまだ復旧に「道遥か」という状態ではあるが、今後の対策について色々と議論されている中で、少し変ではないかと思うことがある。
 平たく言えば、「今後100年以内には起こる津波に対して、今100億円の投資をする」と言うことなのだろうか。
 叱られるかもしれないが、「今後50年までの想定をして、ここまでの投資でここまでやっておきましょう。勿論安全は何にも増して重要ではありますが、これ以上は過剰投資になり兼ねません」と言う大胆な発言もあって然るべき出はないのだろうか。
 自体を矮小化するつもりは毛頭無いが、どちらにしても「朝三暮四」の論理を「誤魔化しの道具」として使っているようで、その轍を踏まないような議論も必要だろう。
 上記の考えは、全くの素人考えだが「これ以上は想定できないので、いち早くこの方法で逃げてください」と言う方が現実的ではないだろうか。
 そのための「逃げ方」について投資した方が、より少なくて済むのではないだろうか。
 それでも「想定外は許さない」と言うのであれば「ハイハイ」と聞いておくだけなのだが。
 土台、人知で自然の現象を左右しよう、出来る、と思うこと自体が、自然への冒涜であり、今まで色々な公害や森林破壊などの現実を見てきたのではないか。
 「想定外は許さない」と仰る人々は、今までやってきたことは、全て「想定内」だったと仰るのだろうか。
 だったら、今までの不都合の全てに対して責任を負う方が先なのではないだろうか。
 少しばかり、支離滅裂な論理だと言うことは承知しながらも、時々「想定外」に対して思うのは、間違っているのかナァ。

投稿者:つねちゃん
at 06 :27 | 日記 | コメント(0 )

2012 年5 月22 日

「遊走」と言う言葉はいつからあるの?

 先日の孫の運動会で、姉妹揃って「徒競走」では1位と2位だった。
 私自身は、根っからの「運動音痴」と言われても仕方が無いくらいの体たらくなのだが、義父はサッカーで鳴らした兵だったと聞くし、父も剣道四段の腕前だったと聞くから、ひょっとしたら「隔世遺伝」ではないかと、爺馬鹿は考えたりする。
 なぁーに、「二十歳過ぎればただの人」であることは百も承知なのであるが。
 話を本題に戻して、「遊走」と言う競技では、お姉ちゃんのほうはボール運びに手間取ったりしたので等外だったが、妹の方はここでも1位だった。
 ところで「遊走」と言う言葉は、今回初めて知ったのだが、諸姉・諸兄の児童時代にはあったのだろうか。
 少なくとも、団塊の真っ只中の私の時代には無かったと思う。
 当時の言葉で言えば、「障害物競走」と「借り物競争」の組み合わせである。
 多分「障害」と言う言葉が、場合によっては「差別用語」になると思って変えられたものだろう。
 また、「借り物競争」では、父兄を中心にした人の中から指定された人を選んで、一緒に走ることもあったが、最近は日頃運動不足の人に、「孫のためなら」と力んで、思わぬ事故などがあった場合の責任問題などから、忌避されているのでは、と聞く。
 それにしても、今回「初耳」のことだった。
 其処で調べてみたのだが、広辞苑の第三版では、「ゆうそう」はあるが、該当したものはない。まるで意味が違う解説が並んでいる。
 平成6年発行の「漢語林」には違う意味すらも見当たらない。
 ネットでは「運動会」と組み合わせると該当する解説が得られた。
 しかしながら、IMEでは、結構上位に表示されることに驚いた。
 うぅーん、IMEなぞに負けて溜まるか、とまたまた学習意欲が楽しく沸いてくる出来事だった。

投稿者:つねちゃん
at 06 :21 | 子育て | コメント(0 )

2012 年5 月21 日

終着駅が見えてきた

 このブログは、以前にもお伝えしたけれど、2000通で終わることにしている。
 もう後300通あまりなので、そろそろ終着駅が見えてきた。
 色々理屈をつけては「お休み」を頂いているので、来年いっぱい位が終着点なのかもしれないが、お休みが予定より多くなれば、「今年度末」と言うことになるのかナァ。
 時々「ネタ無しスランプ」に陥ることがあるが、今日現在はまだ2週間分ほど先のテーマが設えてあるので、少なくとも「ネタ無しのため」と言う格好で終わることは無いだろうと思っている。
 少し、自分で「これはいけないナァ」と思うのは、意識的ではなく、「エッ、この意図やフレーズは、以前にもあったぞ」ということの頻発である。
 時々は、意識的に同じことを書いたり、同じ物を論ずる(何をエッらそーに:自分突っ込み)場合でも、違った側面からのものの見方をするのは、あったとしても、それを悔やむことは無いのだが、このブログをそろそろこの頃から、整理しつつあるのだが、時々、全く意図しないでやっていることがあるのに気が付く。
 読者諸氏に置かれても、お気づきの点があれば、ぜひとも指摘いただきたい、と言うのは甘い考え方なのだろう。
 「整理する」とは行っても、決して「本を出そう」などとは考えていない。
 何人かから、その様な話をされたのだが、自費出版というのは結構高価なものらしく、残念ながら印税でそれが賄えるほど価値あることを書いているとも思えない。
 このブログのきっかけになったのは、タイトルでもご理解いただけると思うが「徒然草」を読んでのことである。
 日記としてのそれは確かに貴重な物だろうが、現在書き写し中で、それを入れると4度目になるが、読み続けていると、内容自体は然程重要なことばかりではない。
 だとすれば、自分なりに整理しておくのも、一興だろう。
 徒然草よりも、少し優れているのは、何度か読者からの「コメント」があることだろうか。
 これだけは、少しばかり自慢できるのではないだろうか。
 終着が見えたからと言って、今までと何ほどの心変わりも無く、徒然、仄々、ノホホンを続けてで終われれば、幸いである。
 まぁ、時々でいいから、それまでお付き合いいただけますように。

投稿者:つねちゃん
at 06 :20 | 日記 | コメント(0 )

2012 年5 月18 日

新幹線の防音壁

 父が当時の国鉄勤務だったことも影響があるのかもしれないが、子供の頃から「汽車」が大好きだった。ちなみに、高校通学は勿論「汽車」だった時代である。
 余談は追記欄に書かせていただく。
 こちらでも新幹線の工事がそろそろ終盤に掛かりつつあるのだが、線路の両側に最初はなんだか理解できず、線路近傍の人に教わったのだが、防音壁が張り巡らされている。
 確かに近傍の人には騒音でしかないのだろうから理解は出来るが、延々田んぼの真ん中を走っている所にもそれがあるのが理解できない。
 電車(私の場合は飛行機でもだが)の旅の楽しみの一つに「窓外の景色」がある。
 防音壁はそれを全く無くしてしまう。
 これで飛行機に勝とうとするのは、果たして如何なものだろうか。
 上述したが、飛行機からの眺望と電車からの眺望は全く違うと思っている。
 なんと言っても「今は山中、今は浜」と言う感覚が飛行機に求めることは出来ず、電車ならではの物である。
 難しい話だろうけれど、「窓外の景色が楽しめる防音壁」と言う物が開発されないだろうか。
 防音壁について、もう一つ理解できないのが、「垂直の物」と「逆『しの字』型のもの」があることである。
 素人考えながら、同じ物が並ぶと共振する事を防止しているのではないかと思うのだが、それならそれで、電車の中の人にも、外側で生活する人にも眺望を楽しめるようなことは出来ないのだろうか。
 最近の飛行機には、子供が喜びそうなポケモンなど、色々な装飾が施されていて、人気を集める一つの要因になっているのではないか。
 新幹線の形には「より高速に」と言う技術が多数組み込まれていると聞くが、それと共に「湘南電車」の色の意味合いも持たせるような工夫も大切なのではないだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 08 :47 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年5 月17 日

孫の運動会

 同居の外孫の下の子も今年から小学校。
 連休明けの先日、運動会があり、3年生の頭の子も、1年生の子も良い天気だけれど風が結構涼しいので、まさに「運動会日和」で、猛烈に頑張った。
 全員入場のときのアナウンスで、「全校生徒が504人」と紹介されたときに、正直「エッ」と思った。
 当然のことだが、6学年合わせての生徒数である。
 私らのときには、今の学校と違って「多すぎた」こともあって、いくつかに別れてはいたものの、それでも1学年でそれくらいはいたように思う。
 「少子化」と言う言葉は意識しているし、今回の入学式のときにもその生徒数の少ないことは、意識していたつもりだが、これほどまで少ないと言う現実には、やはり今更ながらだけれども驚いた。
 昔の私らのことと比較するのも、いろんな意味で違うだろうから、致し方ないのかもしれないけれど。
 
 話は、とんでもない所に飛び火するが、やはり「遊郭」と言う物が必要なのではないだろうか。
 管理売春と言うピンハネ犯罪行為は勿論除外すべきだが、若い人に「性交の喜びやその技法」などを教えるところがあって、その喜びのために「結婚する」と言うスタイル(決してそんな打算ばかりではないと言うことは理解しているつもりだけれど)を通じて、子供が出来育てる苦労をしていくと言うことが本当に人生なのだと教える必要が無いだろうか。
 そんな教習所は勿論、女性にも必要である。
 と、こんなことを考えるのは、やはり「極楽トンボのスケベ爺」なのだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :57 | 子育て | コメント(0 )

2012 年5 月16 日

無責任な「政治評論家」

 連日の「政治ネタ」になるが、昨日も行ったように「ノホホン」とした気持ちでお読みいただければ幸いである。
 なぜなら、幾らここで(時には新聞投稿で)喚いて見たところで「人は変わらない」のだから。
 率直に言えることは「貴方もすぐに政治評論家になれる」と言うことである。
 先日、同級生近傍(年齢がプラスマイナス2歳くらいの人を私はこう呼んでいる)の人たちと話す機会があり、たまたま私の投書を読んでくださっている方が居て、「政治評論家になればいいのに」と言う話題になった。
 即座に答えたのが、上記の言葉だった。
 残念ながら、私の狭量な視野と知識では、「まともな政治評論家」にはなれないと自覚しているし、とてもあのような「厚顔無恥」な連中に肩を並べる気にはならない。
 では何故相手にそう言うかというと「批判ばかりをしていれば、そのように聞こえるから、尤もらしくなるよ」と言うことであり、これも「揶揄」の一種であると、笑い話にしてしまった次第である。
 事ほど左様に、今TVやマスコミで、それを生活の糧にしている「政治評論家」の言葉をよく吟味して読んだり聞いたりしてみれば、「自分勝手な側面だけからの評論」にしかなって居ないのである。
 本当にそう思うのであれば、自ら進んで政治家になればいいのに、決してそうはなさらない。
 落語の「かぎや」の1節に声を出しては直ぐに人の影に隠れる野次馬を揶揄するところがあり、私は好きである。
 それほどまでとは言わないが、現在の殆どの政治評論家がそうである。
 かつて、マスコミを賑わして政治家になった人は、今はいずこに生息されているのやら。

投稿者:つねちゃん
at 06 :30 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年5 月15 日

政治家の「本音」

 メインカテゴリーを「政治への注文」としたが、どうも過去の同じカテゴリーもそうだけれど「注文」はよく言うように、「八百屋で鮮魚を求める」類のことなのかもしれない。
 とすれば、「揶揄」とでも理解していただければ、もう少し面白く、私自身も、ヒートアップしないで済むのだろう。
 かつて材教示に組合活動の一環で、当時の野党である政治家と飲み会で結構打ち解けて「先生、それを言っちゃあ、お仕舞よ」と言いながら談笑したこともあったが、思い起こしてみれば、その時だって「本音」ではなかったのだろう。
 でも、考えてみれば「本音だよ」と思い込ませるのが、今の政治家よりも相当上手かったのではないだろうか。
 最近の与党や野党の政治家は「これが本音だよ」と言って嘘を言い、「これはオフレコで冗談だよ」と言いながら本音を漏らしてリークされてしまっている。
 でもしかし、それをどう読み取るかは、有権者である我々なのだろう。
 「自分に都合のいいことを言ってくれる」のは「本音」なのだろうなどと思っていると、とんでもないしっぺ返しが待っている。
 またまた「でもしかし」であるが、いつまでも有権者が「言葉をそのまま信じている」と思っている政治家が果たして、いつまで生きながらえているのだろうか。
 当の政治家は、そんなことなど思っていないのだろうが、それこそが墓穴だと早く気が付いて欲しいものである。
 いえいえ、決して「注文」ではございませんよ。
 かつて流行った「わっかるかナァ、わっかんねぇだろうナァ」と言うフレーズを思い出す。

投稿者:つねちゃん
at 06 :53 | 政治への注文 | コメント(0 )

2012 年5 月14 日

草食系?

 メインカテゴリーを「子育て」としたが、正直「親育て」としたいくらいである。
 65歳を過ぎた今でも、「あわよくば」と言う気持ちには、殆ど衰退は無いくらいの「助平」だと思っているほどの馬鹿を自覚しながら、「さればとて」という身体的な衰えも感じながら、このブログを綴っている。
 昨今、表題の如く「草食系男子」と言う言い方が流布しているが、これは獲物(性的対象としての女性)を狙う(やり方は色々あるが、決して暴力的なことは全く意識していない)ことに怯えているという事ではないだろうか。
 それは、我々年代の「親の責任」がかなりあるのではないだろうか。
 我々年代は、男子も女子も、数が多いから「いつでも選べる」状態だったが、半面「競争相手が多い」と言う焦りというか脅迫感があったと思う。
 だから、何度振られても、場合によっては「臆面も無く」いろんな相手にアタックして行ったのではないだろうか。
 勿論、多くの人が「理想と現実」のギャップを知りながら、「妥協」して相手を選び、「生涯の伴侶」として、現在は、一見「仲睦まじく」過ごしているのだろう。
 その反動から「子供にはそんな思いはさせたくない」と思うのだろうが、いつまでも「パラサイト」を許している結果ではないだろうか。
 「可愛い子には旅をさせ」ではないけれど、やはり「小離れ、親離れ」しつつ、させつつ「自分で相手(獲物)」を確保させるように仕向けるべきではないだろうか。
 高齢化は科学の推移で喜ばしいことではあるが、少子化は、色々な優遇策を示して、「子供が安心して産める」状態を作るのも大切だとは思うが、その前に「親離れ」させることが必要だろう。
 残念な事ながら、東震災で、無理矢理離散した若者が、自然と相手を見つけることに目が向いていると聞くのも、私の意見は乱暴だけれども、強ち間違っている訳ではないと思うのだが。
 尤も、冒頭のとおり「助平な老人」のエロ空想かもしれない。

投稿者:つねちゃん
at 06 :29 | 子育て | コメント(0 )

2012 年5 月11 日

電気は「発・送・配」をセットで考えて

 このテーマは、政治への注文と同時に、全国民への注文でもあると思うのだが、それは言い過ぎだろうか。
 原発事故(決して事件ではないと思っている)に起因して、殆どの人がヒステリックに「原発反対」「再利用エネルギーでの発電で事足れり」としている。
 果たしてそうだろうか。
 高校は「電気科」を専攻したが、思っていた「弱電」は全体の30%くらいで、主に「強電」の分野だった。
 思いが違っていたこともあって、成績は下から数える方が早い順だった。
 しかしながら、強電に代表される「発送配電」という教科の基本的なことは知ることが出来、卒業後、幸いにして好きだった、通信と言う弱電分野の会社に入ることが出来たのだが、強電の基礎知識は結構役立ったものである。
 再利用エネルギーの代表としてソーラー発電があるし、それなりに大規模な「発電所」が形成されているとも聞く。
 また、家庭でも屋根などを使っての「発電」が出来、余剰電力は電力会社へ売れ、正直なところ我が家でも結構真剣に考えて入る。
 ところが、それはその規模でのこととして、それまでは良いとして、それで現在の原発に相当する発電所を作ると言うことになると、果たしてどうなのだろうかと強電ぼんくら生ながら考える。
 何歩か譲って、「発電」は出来たとしても、それを遠隔地までに効率的に「送電」するということになれば、当然ロスを少なくするために「高圧」での送電が必要になる。現在の「特別高圧」と言う電圧は、22KVというものになり、それなりの絶縁設備や安全設備などが必要になってくるが、その手当てを忘れていないだろうか、勿論安全対策を含めてである。
 また、それを家庭に「配電」する訳にはいかないから、所々で「変電所」が必要になってくる。そのためには、強力な電磁波を発生させる「トランス」と言う設備も安全対策を含めて必要である。
 「安全は全てに優先する」と言う論理は、何も原発に限ったことではなく、そんな電磁波や送電のための鉄塔などにも当然議論されなければならない。
 そんなことを充分に踏まえての比較検討にならなければ、ただヒステリックに原発反対を唱えるのは、果たして如何だろうかねと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :19 | 政治への注文 | コメント(0 )

2012 年5 月10 日

安全は「無料で付いて来る」物ではない

 高速道路での居眠りが原因で傷ましい事故が発生した。
 直接の加害者は間違いなく運転手だが、世間では、バス運行会社を非難し、旅行企画会社も非難の対象になっている。
 しかしながら、被害者やその家族さんの立場を思いながらも、敢えて言いたい。
 「兎も角安ければ安いほど良い」という感覚が、お客の側に無かっただろうか。
 旅行企画会社は、いわば「無店舗販売」で、トンネル会社だから、金額を示して「これで応じてくれる会社」を募集する。
 応募する会社としては、その中で少しでも利益を上げるべく、安い運転手を募集する。
 庸車(者)としては、多少安くとも、稼がなければならないので、ギリギリの状況で運転する。
 結果として、このような事故はなくならないのではないだろうか。
 とはいえ、野放しで良いという訳では決してなく、何らかの「証」をお互いに求めるべきではないだろうか。
 その根本としては、お客側にも「安全はどうなっているのか」も求める姿勢が必要だろう。
 旅行時の契約事項に必ず書かれている「安全条項」と言う物に目を通されたことがあるだろうか。
 正直、私もその指摘を受けるまでは、全く気にも留めなかったのだが、初めて海外出張で米国へ行く時に、ある先輩から指摘されたのである。
 人によって読むところは違うだろうが、旅行会社の「免責事項」にだけは目を通して置かれることをお勧めしたい。
 そして、残念ながら「それでは足りない」と思われる(決して会社としてそれを訂正することは無いので)場合には、自動販売機による簡易保険にでも加入しておくべきであろう。
 誰も「起こそう」と思って事故を起こす人は居ないのだから、自分で出来る限りの安全は確保しておくべきだと思っている。
 それにしても、旅行企画や運行管理会社が「無店舗販売」ではやはり心許ない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :02 | 健康 | コメント(0 )

2012 年5 月9 日

漢数字の書き方

 書き取りをやっていて、長い間疑問だったことが解決した。
 徒然草では「第百六十一段」と書くのだが、憲法では「第一〇三条」と表現する。
 お気づきだろうか、「百」や「十」のあるなしである。
 これが解決するまでは、どちらも「百」や「十」(尤も憲法は其処へ行くまでに気が付いたから、現実的には「百」は使わなかったのだが)を入れて書いていた。
 調べるのに少し骨を折ったが、このサイトで基準があるのだと知った。

 http://www004.upp.so-net.ne.jp/s_honma/sugachan6.htm#数字の使用規則

 書き取りで久し振りに楽しい気分になった。
 諸姉・諸兄は当然のこことしてか、習い性としてかは別として、「そんなの当たり前」と思いながら使われていたのではないだろうか。
 私も、色々なジャンルの本を読むのが好きだったのだが、読んでいるだけでは、中々気が着かなかったことであった。
 それが「書き取り」と言う習慣で、今更ながらかもしれないが、気になった、そして「解決できた」と言うことがなんとも楽しい限りである。
 上記のサイトの規則が全てについて普遍的であるかどうかは、正直なところあまり興味が無いので、それ以上は突っ込んで調べることは無いのだが、考えてみると、以前英語表記で「NO.1」と書いているのを「No.1」だろうと指摘したことがあった。
 何が違うのかと言えば、「o」が大きい文字と小さな文字である。
 ところが、ご存知のように英語の「Number」には「o」と言う文字が無いのである。
 米国へ出張に行ったときに、日本で言う「番地」が各建物の全て(だろう)につけられていたが、其処へ物を送ろうとするときには「No」はつけないのが通例だと聞いた。もし番地に「No」が付いていたら、それは特別の意味を持つということである。
 どうしても時間があって仕方がない、という場合に少し調べて見られてはどうだろうか。
 こんなことを調べてみるのも、楽しいのではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :56 | 学習 | コメント(0 )

2012 年5 月8 日

小銭貯金は継続するけれど

 PCを時代に合わせて買い換えることにした目的を追加して、日に200円プラス100円以下の小銭貯金をし始めてもう何年かになる。
 勿論それがそのまま溜まっている訳は無く、PC関係では、プリンタの新調やソフトの購入などに当てているし、それ以外の予定外の交際費などにも使用しているので、自分の判断だけれど「適正残高」を維持して収支を合わせている。
 ところが、新しいPCはWindows7と思っていたのだが、この冬にwindows8が出現すると聞くと、半年くらいの差で新しくする気持ちが生まれず、結局貯めたお金は8に回ることになるのだが、それにしても、まだ余りそうである。
 7にしても8にしても、技術的に優れているし、8に至っては「よりiPadに近づこう」と言うような、私にしてみれば、全く不要な技術傾向であるから、何か買う気にならないというのも本音である。
 良い事かどうかは別にして「脱技術屋」になった気分でそれはそれで気持ちが良い。
 と言うことから、毎日の小銭貯金は継続するけれども「浪費」と言うことに配慮してもいいのではないだろうか、と思っている。
 幸いにして、家内が頑張ってくれているので、当面の生活費に汲々することはないし、牛丼など、決して贅沢ではないけれど、時折の外食や年に二度くらいの旅行と外泊などもしながら、過ごして行けているので、私の小遣いの中で楽しむ分には誰からも後ろ指を差される心配は無い。
 そうそう、一番大きいのは、在職中のボーナスで家のローンを払い切ったことと、早いうちの結婚と教育費に掛かる育児費が、退職時には殆ど皆無になっていたことだろうか。
 そんな訳で、浪費と言うパイプの太さと、小銭貯金と言うパイプの細さのバランスをとりながら、「出来る範囲」での「自分のための楽しみ」に使うことで、少しだけ生活をより楽しみたいと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :53 | 日記 | コメント(0 )

2012 年5 月7 日

来年はあるのか

 「今年出来なかったから、来年やろう」とか、「今年は、こうやって上手く行ったから、来年はもう少し改善してもっと上手くやろう」というようなことは無いだろうか。
 オリンピックへのカウントダウンが英国で始まったとのことだが、「より高く、より早く、より強く」というオリンピックへ臨む選手の方々の思いではないが、誰でもが「来年こそ」と思うのだろう。
 でも、最近、決して「後ろ向き」敵ではないが、「果てさて、来年はあるのだろうか」と思うようになってきている自分に気が着いた。
 まだまだ「鬼が笑う」時期ではあるが、一つ気になり出すと、中々払拭できなくなるのも、自分の性である。
 決して、「だから今を精一杯に生きよう」などとの掛け声をする訳ではないし、のんべんだらり、仄々、徒然とした毎日ではあるものの、それなりに「精一杯」生きているのだから、これ以上自分に鞭打つ気持ちは無い。
 この連休中に65歳の誕生日を無事に迎え、孫たちからも嬉しいプレゼントを貰い、家内と二人水入らずで、焼肉外食と久し振りに、昔で言う「特級酒」のサントリー角瓶を飲んだ。
 思えば、晩酌が角瓶になったのは、昭和60年に「管理職:課長」になった時からだった。
 平社員時代は二級酒の「サントリーレッド」、一級職になってからは一級酒の「サントリーホワイト」と現在飲んでいる「ニッカブラック」になった。
 そして、係長から主任になった時に、少し高くついたが、最も好きだった日本酒ブームだったこともあり、日本酒(むしろ地酒の二級酒が口にあった)になったり、焼酎の味を覚えて甲種、乙種を色々飲んだ。
 そんな時には常に「来年こそはもっといい酒を飲もう」と思っていて、「来年は必ずある」と疑うことなど無かった。
 65歳は「前期高齢者」だと言うが、これからは「来年があるように」とささやかに祈りながら、楽しく生きて生きたいと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :09 | 健康 | コメント(0 )

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