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2013 年2 月28 日

先生や指導者の不始末

 女子トイレの盗撮や、度重なる「体罰」に関する報道がなされているが、頭を下げているのは、当人ではなく校長に代表される「第三者」である。
 リタイア後10年も経過するから、時効だと勝手に判断するが、自分が直接やったことでない場合、って、簡単に詫び易いのは、私の経験からも言えることだ。
 「本人は深く反省しいます」とか「きっちりとした処分を言い渡すつもりです」とか。
 兎も角、間接的に「管理責任」を責められることはあったとしても、いわば「蛙の面に何とか」でしかない。
 また、詫びた人間が「これからは気をつけろよ」と当人に一杯飲ましていることだってある(私の場合だが)。
 本人は、人から見られないところで、舌を出しているかもしれないのである。
 教師とは、真っ先に「嘘をついてはいけない」と教えるとともに、ワシントンの逸話だったか「自分がやった子は自分で詫びる」ということも教えるべきではないのか。
 なぜ当人が出ないのか、出させないのか。 いつまでも「庇ってばかり」いると、庇られるのが当然と「のさばる」教師が増えるばかりではないだろうか。
 それで、しっかりとした子どもが育つのだろうか。
 勿論、だからと言って、責任者が免責だというつもりは毛頭ない。
 まず本人にしっかりとした責任を取らせて、そのうえでの管理責任を取ってもらうべきであり、現在はその順序が反対になっているのではないか、ということである。
 在職中の私はどうしたか、って?
 立派なことは言わない。命じた責任が私にあったということで、詫びてから、本人自身の言葉で詫びさせた。やっぱり逆だったのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :37 | 健康 | コメント(0 )

2013 年2 月27 日

ボールペンを使い切った

 在職中もある意味で、「ケチ」の別称(決して蔑称ではないといまだに思っている)をもらっていた。
地方の組織から、本社組織に行くと、細かいものが無造作に「使いっ放し」になっていたのがきっかけだった。
 シャープペンシルなどは、替え芯の替え方すら知らず(いや知っているけれど面倒くさいという気持ちが先行したのだろうが)次々に新品を使いだしていた。
 今はそんなことはなかろうが、当時は自由に持ち出せる「消耗品」だったのだから、購入費が6掛けくらいだったから、たぶん300円くらいだったのではなかろうか。
 ボールペンも同様だった。
 そんな些細な金額のものに目くじらを立てるほどでもなかったのだろうが、おかげで暫くすると放置されたシャープやボールペンが私の抽斗にずいぶん溜り、善人ぶる訳ではないけれど、もっぱら在庫補充をしていた。
 このブログでも何度か書かせていただたが、先日久しぶりにたまたま同じ時期に、赤と黒のボールペンを「使い切った」。
 上記のように在職中を含め、何度か経験しているが、何度でも気持ちのいいものである。
 「無くなった」という気持ちではなく、「長い間ありがとう」という気持ちである。
 今では10本セットで100均に売られていて、決して金額の話ではないから、たんに「自己満足」と言われてもそうなのだろうから、反論する気持ちは毛頭ない。
 でも、ぜひともお勧めしたいことである。
 書き写しという日課をやっていると、鉛筆も「チビッテくる」小さな鉛筆削りでも削れないほどの長さの物も、なんだか感謝とともに捨てられなく、抽斗の片隅にもう10本近くたまった。
 これは感謝しながら、いずれ焼却処分ということになるだろうが、それにしても私にとってはずいぶんと役立ってくれたものである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :08 | 日記 | コメント(0 )

2013 年2 月25 日

デスクダイアリーの活用

 在職中は年末になると使うと使わまいと、毎年支給されたものだったが、私はもらってすぐに部下で使う人間に渡してしまっていた。
 当時流行っていた電子手帳PIMという装置にいろんな予定を書き込んでいたので、不必要だったことと、出張が多いので、デスクに置いておいても全くと言っていいほど役立たなかったのである。
 リタイアしてからは、出張ということも全くなくなり、電子手帳を持って歩くこともなくなったある日、デスクダイアリーの「台」だけがどこかから出てきた。
 で、思い出して使ってみたのだが、最初は「過ぎた日の用紙」がどんどんたまって、年末にはゴソッと捨てることになった。
 暫くは「しようがないなぁ」と思っていたのだが、ここ数年は、その裏紙をしっかりと使っている。
 体重や血圧、週に2回の血糖値、ベランダの温湿度や思い付きなどを書き留めておくのである。
 表には、当然「今日やるべきこと」「やりたいこと」を書いておくのであるが、これで表裏が有効に使えることになる。
 また、裏を使った用紙は、PCに投入するために毎日ちぎるので「ゴソッ」ということもなくなる。
 そういう意味で「無駄になったなぁ」という気持ちも無くなり、スッキリする。
 かつては「電子計算機屋」はラインプリンターという装置でやたら紙を使ったものだが、その時から「紙の無駄遣い」が嫌いだったので、わずかな量でしかないが、このスッキリ感は、私にとっては貴重なものである。

 親戚に不幸があったので、明日のブログは休ませていただきます。

投稿者:つねちゃん
at 07 :55 | 日記 | コメント(0 )

2013 年2 月22 日

孤立無業

 「孤立無援」という言葉は以前からも聞いたことがあるが、在職中数回経験したことがあるので、その悔しさは実感としてまだ残っている。
 昨日のブログではないけれど、まさに「四面楚歌」であった。
 解決法は、幾度かあったけれど、基本的には「自分から話しかける」ことだったと思う。
 幸いにして、母方の伯父から「酒」についてはいろいろと教えてもらっていたし、父からは交際術の一つとして「麻雀での付き合い方」も教わっていたので、それで難を乗り切れたのだと、今でも感謝している。
 酒は「飲めればいい」ではなく、なにがしかの蘊蓄や作法、麻雀でも「勝負」だけではなく、手作りの妙味などの作法があった。
 話を本題に戻して、最近の新聞で、標記の言葉を聞いて驚いた。
 現在の「無業」は「本当に仕事がないのだろうか」。あの仕事は嫌だ、この仕事は自分に合わない、とか、一旦良いと思って入ったけれど、思ったことをさせてもらえないから辞めて次を探す、とかを繰り返して「失業」に甘んじているだけではないだろうか。
 また、そんな子を親は「良いよ、良いよ、暫くなら食わしてあげられるから」と甘やかすから子は親離れできないし、親も子離れができないのではないだろうか。
 また「孤立」という意味では、本当に親身になって心配してくれ、労苦を共にしてくれる「伴侶」を真剣に探して獲得していないからではないだろうか。
 幸い我が家では、息子、娘ともによき伴侶を得ているが、同級生の友人の子息、令嬢にはまだその機会がない人も結構多いと聞く。
 かなり乱暴な言い方になることを自覚しながらも、若い時の男性の結婚観は「結婚すればタダで安心してセックスができる」からでいいのである。
 嫌々ながらでも仕事をしていて、そのうちには実績も僅かかも知れないが認められても、結婚していないということから任せられなくなるということは、自然と分かってくるだろう。
 決して女性蔑視という気持ちはないが、そんな姿勢の男性には必ず寄り添ってくれる、もしくは受け入れてくれる伴侶がいるはずである。
 孤立は結婚で、無業は「石の上にも30年」で頑張ってほしいし、親は「千尋の谷に落とす」くらいの気持ちをもって接してほしい。
 それが子の為、ひいては自分の為になるのではないか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :14 | 子育て | コメント(0 )

2013 年2 月21 日

エステー会長の言葉に同感

 定期購読している新聞というメディアは、地方紙1紙だけである。
 別に最先端を行っている訳ではないが、リタイアする相当前から、主に外国の技術動向を知る必要があったことから、ネット新聞をよく見るようにしていたから、リタイアしてから、見る情報分野は違ってきているものの、結構ネット新聞を活用させてもらっている。
 そんなことから、いろいろ楽しく考えさせられたり、同感を伴う記事に出会うのが毎日楽しい。
 そんな中での一つが今回のテーマのである。
 情報源は日経の記事だった。
 四面楚歌の状況から立ち直った会社の会長の言葉である。

 最近の元気のなさの原因は「買いたいと思わせる商品を考えられない」。

 まさに諸手を挙げて同感である。
 先日のこのブログでも、似たようなも趣旨で書かせてもらったような気がするが、加齢による購買意欲がなくなったのは事実だとしても、それ以前に「買いたい」と思うようなものがないのではないだろうか。
 どんな分野でもそうだろうが「革新的な商品」を考えて、提案しても、大概が「悲観論」が先行して、「駄目だろう」ということになってしまうのが現状である。
 これは勿論今に始まったことではない。
 在職中に「全国支社、支店をLANで結ぼう」と提案したことがある。
 「LANの「L」は「Local」の意味を分かって言っているのか」と一笑に付されてしまったが、その後実現したのである。
 今それがどのような形で残っているかどうかは知らないが、少なくとも現在のWindowsUpdateと同様な思想だったのである。
 「やりたいことを実現する」というの同様に「買いたいと思わせるものを作る」と必ず売り上げアップにつながるのだ。
 勿論独り善がりに思い付きばかりではダメなのは言うまでもないのだが。

投稿者:つねちゃん
at 08 :33 | 興味あること | コメント(0 )

2013 年2 月20 日

些細なことに感謝が楽しい

 無神論者ではないが、さりとて「熱心な信者」という訳ではないという、たぶん多くの日本人の標準的な位置にあるのだろうと思っている。
 両親の逝去が一つの契機となったのは間違いないが、父の蔵書の中から残しているのは、健康法と宗教関係のものにほぼ絞られつつある。
 そんなことからなのかもしれないが、自分でも、「落ち着いているなぁ」と思うことがある。
 勿論、凡人なるが故にも幸か不幸か、色欲をはじめとして、食欲、酒欲等々数えればきりがないくらいの欲望に取り巻かれているのが現状であるから、聖人君子になどなれる筈もない。
 そんな煩悩は別にして、表題のように思うことが最近多くなってきている、というより、多くしている、といったほうが正しいかもしれない。
 以前にも書いたが、まず朝「起きられる」ということへの感謝から始まって、天気(降っていても晴れていても)、血圧測定(高くても)や血糖値測定ができると意識すること等々一つ一つの些細なことに感謝しつつ過ごしている、というかそう思うことにしている。
 結局打算なのだが、そう思うことによる「得」が得られる。
 概括的には「ありがとう」と発音するたびに「気持ちが良い」のである。
 嘘と思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実際に「些細なこと」を見つけて「ありがとう」と声に出して(誰に聞かせる訳でなく、自分の耳を通じて聞かせる)ことを1週間ほど続けてごらんなさい。
 必ずやその効果が表れてくること、請け合いである。
 洗浄、ある新聞記事だったと思うが、身体的にハンディを負われている方は、私らが何気なく行っていること(靴を履くときは無意識的に足指を細くしている)ができないことを健常者が理解してほしい、とあった。
 そう思うと、一挙手一投足を「動かせる」と思うだけで「ありがとう」である。

投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 健康 | コメント(1 )

2013 年2 月19 日

トイレの心配せずに散歩

 まだまだ「早春賦」の歌詞ではないが「春は名のみの」で、今後の天気予報にも雪だるまのマークが散見される。
 とはいうものの、確実に季節は春になってきていて、時折折る道の梅の木の先には、蕾がしっかりと膨らんできているのが判り、日を追って大きくなっているような気がするのも楽しいものである。
 という訳で、季節は「散歩の季節」である。
 加齢のせいばかりではなく、まだ気温もそんなに高くはないから、冷えから来るのかもしれないし、特別健康茶という訳ではないが、大好きなほうじ茶を飲んでいるからかもしれないが、以前から比べるとおしっこの周期が短くなっいるような気がする。
 ところが、最近の散歩では、特別其処を選んだわけではないが、わが町には「街角トイレ」が程よく配置されている、と思うようになってきた。
 以前は、何も買わないのにコンビニで、少し恥ずかしく、申し訳ない思いをしながらトイレを借りたりしていたのだが、それには大分慣れた。ところが、街角トイレはそんな思いをすることは全くないし、大体において空いている。
 予防洗浄ということで、適度に水洗がなされているのだと書いてあるが、一頃の公衆便所のように汚くもない(いやむしろ綺麗なくらいである)し、匂いだってほとんどしないくらいである。
 従来は、コンビニまでたどり着けないときには、申し訳ないが「軽犯罪法に触れる」行為で、用を足していたので「堪える」ということも然程なかったのだが、最近は「あそこまで行けば」という気持ちがあるので「堪える」という辛抱もできている。
 おしっこを辛抱するのが健康法かどうかは知らないけれど、散歩に加えての健康法の一つだろうと思っている。
 経験からだが、出かける前には「寒いと思うほどの薄着」をお薦めする。

投稿者:つねちゃん
at 06 :38 | 健康 | コメント(0 )

2013 年2 月18 日

がれき処分「絶対大丈夫」と言うなら

 最近になっても、まだ原発事故でのがれきの処分場所が問題になっている。
 また、政権が代わってから「原発は安全性を見極めて進められるものは進めよう」という風潮になってきて、またぞろ「安全だ」と言わしめるかのような言動が漂ってきている、と思うのは私だけだろうか。
 建設のほうはさておき、推進派の方々は「がれき処分はいろいろな場所で、その無害性が証明されていて、絶対に安全だ」と仰っていらっしゃるようだ。
 在職中の長い間、品質管理という分野の仕事に携わってきたが、その経験から言うと残念ながら、世の中に「絶対」ということはないと思っている。
 繰り返しになるが、各地で議論を読んでいる「がれき処分」で、押し付ける側は「絶対に大丈夫」だと主張している。
 ならば「隗より始めよ」で、自分の身の周りにまず処分すべきではないだろうか。
 まずは出身地をはじめとして、自分の居住地の近くでの処分をやってもらいたい。
 勿論そのためには、自分を応援してくれている(であろう)近隣の人の賛同が必要であろう。
 「そんなことをしたら、次回の選挙には猛反発を買って当選できなくなる」というのであれば、結局「絶対ではない」ということの証明だろう。
 人を説得するという意味では、沖縄の米軍基地につてもそうだが、自分の所だけには負担をかけたくない、という政治屋さんばかりである。
 そういう意味では、評価の面こそ違うかもしれないが、地方の首長さんがいろいろと地元住民を説得して処分地を模索設定している姿には、一定の評価をしたい。
 尤も、それでも反対の人は言うだろう「自分の家の庭に埋めろ」と。
 それも反対ではないが、やっぱり「魁より始めよ」の精神を持っていただきたいと願うばかりである。
 そういえば「魁」という政党があったのではなかったろうか。
 今はそんなことを忘れてしまっているのか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :51 | 政治への注文 | コメント(0 )

2013 年2 月15 日

筆記用具

 当然のことだが、書き写しをやっていると筆記用具を使うことになる。
 ちなみに現在やっている「書き写し」は次の三つである。
 ・ 養生訓
  ご存度の通りの貝原益軒のものである。現在では「嘘」とされているものも多いと聞く が、ともかく一通り写してみて、自分に都合の良いものをいくつか取り入れてみようと思 っている。

 ・ 日本語の謎
  何気なく使っている日本語にも、まるで勘違いや面白い謂れがあるものだ。
 
 ・ 日本のしきたり
  これも「当たり前」と思っていることが、出鱈目とまでは言わないが、まるで嘘だとい うことがあり、その逆もあるから面白い。

 話を本題に戻して、筆記具は使う紙によって変えている。
 基本的に使う用紙は、折込チラシの裏面である。艶々の物もあれば、普通紙のものもある。艶々の物にはボールペン、普通紙には鉛筆としている。
 ところが、例に寄っての鈍ら者から、削る必要がないボールペンをどうしても多用してしまう。
 さりながら、父の残した鉛筆も相当使い切ったり、ボールペンも安物ながらだけれど、もう30本近くを使い切った。
 鉛筆は、キャップをつけて使えるところまで使い切る。
 ボールペンはインクがなくなるまで、ケチもここまで来ると自分ながらなんとなくいい気分になる。
 ボールペンはそんな訳にはいかないが、鉛筆は、今あるものを使い切っても、今ではほとんど使わなくなった、シャープペンシルがまだ数本残っているので、当面困ることはない。
 これだけ使っていれば、筆記用具から文句を言われることもなかろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :21 | 日記 | コメント(0 )

2013 年2 月14 日

実感を呼び起こさない首相発言

 このタイトルを思いついたのが、少し前なので、現在の時勢とは少し時点が違っているが、何とか今のことも含めて書いていくことをご承知願います。

 再登場でも「新」になってまだまだ3か月までは「ハネムーン月間」ということで、余り辛辣には言わないけれど、何だか「軽佻浮薄」の非現実論にしか聞こえないのは私だけだろうか。
 アルジェリアの件について「軍事的解決以外になかったのか」、「テロと戦う意識を強くした」との発言がなされている。
 今回の北朝鮮の核実験でも、形式論的な言葉ばかりが先行していて、具体的にやったことと言えば、国内の関係団体の偉い人の再入国禁止、ということだけである。(尤も、このことがどれだけ重いことなのかは全く知らないけれど、素人目には何の役にも立たないと思っているのは、私の無知のせいである)
 面白いというよりまさに「噴飯もの」とはこのことかと思うのは、経済団体に対して「賃上げ要求」をしたことであろう。
 巷間言われている「アベノミックス」のせいかどうかは判らないけれど、威勢の良い掛け声で確かに株価は復調しているが、果たして単純に「良いこと」なのだろうか、将来へのつけ回しでしかないことにどれだけの人が気が付いているのだろうか、と思うと、まったく心許ない。
 確かに総論的には賛成できる面もあるが、「具体的にどうするの?」と問うても多分何の具体策も出ないのではないだろうか。
 二世議員によく見られる「俺が言っているのだから、その通りにしろよ」という我儘がいつまで通るのだろうか。
 かつての漫才家の議員さんではないけれど「些細なことでも一つ一つをコツコツと地道に」やっていってほしいと思うのは、やっぱり二世大臣には望むべくもないのか。

投稿者:つねちゃん
at 07 :01 | 政治への注文 | コメント(0 )

2013 年2 月13 日

腹に一物

 「腹に一物、手に荷物」という言葉をご存じだろうか。
 管理職になって、今までの技術一点張りではなく、営業と言う仕事もやることになった折の話である。
 お客様には「誠心誠意、嘘隠し事なく」と言う「誠実」な態度で接してきた。
 お客様側も、一緒に努力していいもの(システム)作りをしよう」という意気込みだと、真っ正直に思い込んで、良いことは勿論だが、デメリットを含めて拙いことも十分に説明して、交渉していた。
 ところが、お客様側は「最大の利益を最小の投資で」ということで臨まれている、とは正直気が付かなかった。
 挙句、殆ど受注に至らなかった苦い思い出がある。
 ある時、営業の上司と一緒に行き、表記の「心得」を教わった。
 勿論「一物」とは男性のシンボルの事ではなく、「隠し玉」のことである。
 また、それを持っていることを相手に悟られないようにする、ということも大切なことである、と。
 「嘘」をつくわけではなく、順にそれを小出しにしていく、と言う論法である。
 最近の外交を見ていると「誠心誠意」が先に立って、「一物」が全くないように思えてしまう。
 その結果が、現在の与野党(以前は攻守所を変えていた訳だが)の外交ではないだろうか。
 勿論「常に『何でも反対党』を是とする」訳では決してないが、もう少し婉曲な言い方で「一物」を目立たせず、最後には「抜いてはならぬ『殿下の宝刀』を抜く」くらいの覚悟で臨んでほしいと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :46 | お役所 | コメント(0 )

2013 年2 月12 日

昨日のことは忘れて新品の一日を

 最近気が付くことは、些細なことに腹を立てたりして、それが後を引くことだろう。
 確かに、リタイアしてからは、在職中の様に「怒りっぽく」は無くなっていたと思う。
 でも、最近はどうも「怒りっぽく」なっていることに気が付いた。
 それも、在職中の怒りとは違って、私自身の周りのことに対してである。
 在職中は、それなりに体制や組織のことについてであったが、最近は完全に「個人の怒り」である。
 それが、一般的な政治などに対することは、「怒って」もそんなに長続きせずに、すぐに「忘却の彼方」へ行ってしまうので、まったく精神的な苦痛を伴わない。
 そうでなく、本当に身近な、後で気が付いてみると「何故、そんなことにそんなに怒っていたのか」と自分でも失笑するしかないことをうじうじと後を引いていることである。
 その殆どは、周りの家族や自分自身に関することなのだから、始末が悪い。
 ということで、なるべくそんな感情に陥ったら、いくつかの「秘密兵器」で感情というか「憂さ」を吹き飛ばすことにしている。
 「秘密兵器って何」などという質問は、このブログをお読みいただいている方はなさらないだろう。
 そして、表題の通り「新品の今」を感じるように努めている。
 何かの本で読んだが「今は過去、未来が今」という禅問答のような言葉が、結構好きである。
 「今」という時点自体を指摘していても、言葉が発し終わるときには、すでにそれは「過去」である。
 そして、その時自分はすでに「未来」にいるのである。
 どんなタイムマシンでも追いつかないくらいの時間空間を旅しているのである。
 勿論「引き返すためのバックギア」は備えていないのだが。
 さぁ、今日もまた新品の一日を楽しもう。


投稿者:つねちゃん
at 06 :57 | 日記 | コメント(0 )

2013 年2 月8 日

好色話

 「音読」でテーマが「好色譚」に入った。
 ずいぶん昔から好きな話が次の二つである。
1.代わりの物
  外国の話であるが、許嫁の娘の家に向かう途中に、尿意を催した若者。
  誰も見ていないだろうと、立ちションで用を済ませた。
  恋人が来るのを今か今かと望遠鏡を使って道を見ていた件の娘がそれを目撃。
  お母さんに「あんな人は大嫌い」と訴える。
  訳を聞いたお母さんが「必要な時には小さなものも持っているから、そんなに怖が ることはないんだよ」でようやく納得。
  結婚後暫くして「あなた、もう大きなものを使ってもいいのよ」
2.好きなもの
  確か中国の話だったと思うが、ある男「一番好きなものはなんだい?」と聞かれ  て、「やっぱりあれだなぁ」と答える。
 「それじゃ、その次に好きなものはなんだい?」と重ねて聞かれ、ずいぶん迷った後 で、「やっぱりあれだろうなぁ」

 この話は、日本では次の様になっている。
 聞かれた男、ずいぶん迷って「はい、二番目は酒です」

 何と奥ゆかしいことだろうか。
 でも、今の私は…。
 でもやっぱり、できるかどうかは別にして、「あれ」のほうが一番かなぁ。マケオシミ!(^^)!

投稿者:つねちゃん
at 08 :00 | 健康 | コメント(0 )

2013 年2 月7 日

勘違いにお詫び

 以前このブログで「枕を高くしても安眠できない」と書いた。
 先日、このことがとんでもない間違いだと、TVのクイズ番組で知らされ、改めてネットなどで調べてみると、確かに間違いだったことがわかり、お詫びしたい。
 すでにご存じで、当時のブログを見て「なんて馬鹿なことを思っているのだろう」と思っておられた方も多かろうが、改めて調べた意味を紹介させていただく。
 昔の武将は戦の毎日、戦にならなくとも絶えず周囲の状況に耳を立てていなければならなかった。
 現在のように核兵器や長距離爆撃などない時代では、やはり敵が近くに来ていることをいち早くキャッチして、対応を考えなければならなかった。
 そのためには、地べたに耳をつけていれば、敵の足音などを素早くキャッチできるので、枕など無く、そのまま地べたから聞こえる敵の足音に注意していなければならなかった。
 周りを信頼できる腹心に任せて、地べたにする耳の役を任せられれば、無理ない枕の高さにして安眠できるというものだ。
 確かに、ずいぶん昔、通り過ぎた汽車の線路に耳を当てて、その音を聞いて遊んだことがあるので、地べたの耳、という感覚は十分理解できる。
 また、ある時森をよく知る人から聞いたことがあるが、静かな森で大きな木に耳を当てると、その木の中を流れる水の音が聞こえるとのことで、実験してみると、確かにそうかどうかは判らないけれど、それらしい音が聞こえたような気になったこともある。
 判らないことは、調べる、判ったことは伝える、間違っていれば、遅れないようにお詫びして訂正する、という基本姿勢だけは今後の色々な学習においても続けたいと思っています。
 今回は大変失礼をいたしました。

投稿者:つねちゃん
at 07 :00 | 健康 | コメント(0 )

2013 年2 月6 日

改めて知る、父の思い

 今年の目標の大きな項目の一つに「断捨離」がある。
 寒いこともあって、中々思ったほどには進んでいないのだが、先日「リサイクル資源ごみ」の回収の日に合わせて、重い腰をようやくあげて、ともかく狭いところから始めよう、ということで行動を始めた。
 両親の分は、写真の整理がまだ残されているのだが、「モノ」としての処分は殆ど済んでいたと思っていた。
 ところが、私の「いつか使う」と思って残しておいたモノの陰に、見たことのない箱が二つ出てきた。
 一つには、メガネをはじめとして装身具というようなものがいっぱいに詰まっていた。
 まさか、残したメガネを息子が使うとは思っていなかったのだろうが、処分に困った果ての「いつか使う」だったのだろう。
 もう一つには、以前私がまだずいぶん若いころに借りたことのある、ネクタイがいっぱいに詰まっていた。
 そのうちの10本近くが、クリーニングから帰ったままのものだった。
 また、ひもネクタイというものだろうか、生前出かけるときによく身につけていたものが数本出てきた。
 残念ながら、現在の私が身に着けるほど、年齢相当のものではなく、今でもかなり「派手目」のものだった。
 尤も、だからこそ私が若い時に拝借したものだったのだろう。
 そんなことを思うと、なんだか、最後のころには邪険にしていた父が、可哀想になるとともに、悪いことをしたなぁ、という思いに駆られてしまった。
 親孝行、したいときには、親は無し、さればとて、墓に布団も、着せられず
 今更ながら、父への思いが身に染みる。

投稿者:つねちゃん
at 08 :08 | 子育て | コメント(0 )

2013 年2 月5 日

やっぱり散歩は楽しい

 このテーマを思いついたのは、まだ「春前」の「寒中」である。
 この季節の言葉ではないことは理解しているつもりだが、まさに「三寒四温」というような言葉が似合う日が幾日か続いた。
 冬の「こたつむり」とは言わないまでも、外出が億劫で、出かけるときは距離に関係なく「車で」だったのだが、さすがに体重も医者に言われるように増えつつあったので、一念発起とまではいわないまでも恐る恐る散歩に出かけた。
 リタイアした頃から、休んだこともあったが、それなりに散歩をエクササイズという意味も含めて行ってきて、要領は心得ていたつもりだが、ともかく始めるには「寒い」が先に立ち、上も下も3枚着て出かけたが、いかに「寒中」と雖も、まだまだ「枯れすすき」ではない身なのだろう、予定の半分も行かないうちに、上半身は汗びっしょりになってしまった。
 ここで休憩などしようものなら、一気に冷えること間違いなし、と思ったので、「フーフー」言いながら、予定の約10,000歩を完遂して帰宅。
 シャワーこそしないが、お湯に浸したタオルで、全身を拭き、ストーブを背に、ちょうど3時のおやつの時間だったので、好みのお菓子を2個食べながらお茶を啜り、録画番組を楽しんだ。
 これを契機に、天気の良い日には上下各2枚で散歩に出かけるようになった。
 最初は確かに寒いが、10,000歩を超すころには適度な状況になるので、気分も大分解放される。
 そうなると、この時期にも「小さな春」をいろんなところで見かけることができ、楽しくなる。
 父を見送った後で始めた頃のように、知らないもの、判らないものは携帯のカメラやメモ帳に残して、帰宅後辞典やネットで調べて納得する。
 これもまた楽しいことである。
 残念ながら、休憩(トイレを拝借するときのパチンコ)を時々はさむので、エクササイズとしての減量にはつながっていないが、楽しさだけは間違いなく得られている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :11 | 健康 | コメント(0 )

2013 年2 月4 日

孫と豆まき

 今年も無事に孫と豆まきをすることができた。
 「鬼はソトー、福はウチー」とまだ頭が小学校3年生だから、無邪気に大声をあげて、窓を開け放って、豆をまき、一頻り持っている豆をまき終えると、「ソレッ、拾えー」で拾うのである。
自分としては、孫と一緒に始めた時から、心のうちでは「鬼さんも入っておいで」という風に、何かのおとぎ話で読んだことから、思いながらである。
 良いこと(福)ばっかりだったら、その有難さを忘れて慢心になる。
 あまり大きなことはもちろん願うことはないが、時々(許される範囲の)悪いこと(鬼)があってこそ、本当に感謝できるのだろうから。
 それを各部屋ごとに繰り返す。
 勢い余って窓から外にまいてしまうものもあったり、家具や何かの物陰に隠れてしまって、決してまいた数通り拾うことはできないのが大体常である。
 勿論それはそれで良いのだが、それを姉妹で競っていることが、爺には一つの楽しみでもある。
 でも、ふと「来年もまた元気に豆まきができるだろうか」と思ったりする。
 まずは「(私を初めみんなが)元気か」ということである。
 ほかにいくつかあるけれど、最後は「いつまで孫が無邪気に、真剣に」大きな声で厄払いをしてくれるだろうか、ということである。
 今年から、頭の孫は4年生になり、上級生になるのだが、中学に行ったら果たしてやるだろうか、高校生になったら、まさか成人してまではやらないだろう、などと考えると・・・。
 成人になって、一緒にお酒を飲みたいなぁ、とも思っているのだが。
 そして今日から「春」である。
 まだまだ元気で一日一日を精いっぱい生きていきたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :33 | 日記 | コメント(0 )

2013 年2 月1 日

取材を受けて放映された

 いつものように「児童見守り隊」ということで、下校時の小学生が事故や事件などに巻き込まれないようにということで、毎日ではなく、火曜日と金曜日の約1時間、街頭に立って指導している。
 とはいうものの、然程偉いことをしている訳ではなく、信号をきちんと見て渡る様に
(大人でもやるように「駆け込み横断」をする子供がいる)と元気な声で「お帰りぃー」と言う挨拶をするようにしているだけである。
 でも、考えてみれば、始めた頃に新一年生になった女の子が、今はもう中学2年生で報道部に入っているというから、8年以上もやっていることになる。
 先日、何気なく声をかけてこられた若い男性と四方山話をしているうちに「少し話を聞かせてもらえませんか」と言うので、よく聞くとTV番組の取材だという。
 当日は元会長も長老もおられたので、そちらで対応してもらうように話したが、結局「長い」という理由でこちらに振られた。
 ところが、犬を連れた女性が色々なところを見て回るという趣向である。
 こちらは子供の頃に犬に噛まれたことがトラウマとなっていて、大の苦手であるから、再度お断りをしたのだが。
 放送されるのは約1分くらいだからと言うが、何だかんだでスタッフ6人と犬と私で、10分以上も取材されただろうか。
 後日放映を見たら、犬が主人公のはずなのに、殆ど私の顔がアップで映し出されていた。
 余り格好の良くないネックウォーマーや、歯のすけている所や、ラジオを聴くイヤホンなどがやたらに気にかかった。
 でも、あれだけのスタッフと時間をかけて約1分程度にまとめるのをやる仕事も大変だなぁ、と正直感心した。
 まぁ、諸姉・諸兄のお目に留まるようなこともないだろうから、話だけと思召し下さい。

投稿者:つねちゃん
at 08 :23 | 日記 | コメント(0 )

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