みそ汁の中に鮮やかな緑 6/21投稿 6/25掲載
家庭園芸で種からいろいろなものを育てている。
その際に必要悪かもしれないが、込み合った中から丈夫そうなものを育てるために「整理菜」が発生する。
昔は「間引き菜」と言っていたそうだが、言葉が悪いので、私はこの言葉を使っている。 そんな整理菜は、基本的に細かく刻んで、みそ汁づくりに活用している。
みそ汁と一緒に煮込むのではなく、おわんに注いだみそ汁の中に散らすのである。
綺麗な緑色が目にも鮮やかで、より一層おいしく頂ける。
家庭園芸をやっている人だけが味わえるものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
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家電の新機能大きなお世話か 6/17投稿 7/2掲載
リタイア後、家事の分担の一つに2階の掃除がある。
今までは30分前後で終わっていた。先月、掃除機が動かなくなり、買い換えた。
最新の機能に「ごみがあるとランプで知らせます」というのがあり、家内もお気に入りだ。
ところが、大体がズボラだけれど小心者の私には「脅し」としか思えない機能である。
今までは「一か所往復一こすり」で済んでいたが、ランプが消えるまでは「まだだよ」と言われているようで、どうしても今までより時間がかかってしまう。
「まだ有りそうだよ」と言っているだけで、確信ではないようだが、小心者にはかなり効くのである。
新機能も「小さな親切、大きなお世話」になっている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :30
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声を掛け合い朝の楽しみ 投稿日不明 6/20採用
最初の米国出張の時、米国留学を経験された上司から言われたことの一つに、
「エレベータ内では必ず相手に聞こえるような声で、なんでもいいから発音しろ。それで自分は怪しい人間でないことの証明になる」というのがあった。
正直、それでかなり安心することができた。
最近、早朝に散歩しているが、そこでも出会う人には必ず相手に聞こえる声で「おはようございます」と言っている。
相手が返事をしなくてもこちらとしては、朝のボイストレーニングだと思い、声を出すことが気持ちいいのである。
もちろん、返事が聞こえると喜びが倍加する。
人と声を掛け合えるというのも朝の楽しみである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :24
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人間の幸せ快適な目覚め 5/30投稿、6/5掲載
最近、日が高くなってきたせいもあるのだろうが、朝の目覚めが4時少し前になってきている。
トイレのために起こされるのではないので、快適な目覚めである。
些細なことだが、起き掛けから「良いこと」に出合え、何とも心地良い。
以前、ある講座で「朝起きるために寝る。いい気持ちで起きられる。この繰り返しができれば、ほとんどの人間は幸せだ」というような話を聞いたのを思い出した。
まだまだその神髄には到底及ばないが、わずかだが近づいている気がする。
そう思うこと自体も幸せなのである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :06
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孫からの手紙でうれしい誕生日 5/8投稿 5/15掲載
先日66歳の誕生日を迎えた。
今までも孫からは、優しい手紙をもらったが、小学校4年生にもなると、しっかりとした文章であり、国民栄誉賞とは比較もできないが、私にとってはそれに匹敵するものだった。 特に「おこってくれるおかげで、私はだいぶ成長しました」との文章には、「爺馬鹿」でめったに怒らないはずだが、という反省とともに、涙が出そうなくらいうれしかった。
いつの日か一緒にお酒が飲めることを酒飲みの爺は願うばかりである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :19
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転記ブログ 占いの考え方(4/13に採用された)
新聞を初め、いろいろな暦に、その日の運勢が乗っていて、それを読むのは楽しみの一つである。
干支、生まれ月、星座いろいろなものがあるが、まずもって「みんな同じ」ということはないので、あてにするほうがおかしい、と言われることが多い。
でも、悪いことがあれば「あれも悪かった、これも」と揚げ連ねることができるだろう。 その時に「あの程度で済んで良かったなぁ」と思えばいいのではないか。
それよりも「良いことがある」と書かれていれば「期待したほどじゃない」というよりも、「そう言えば」という気もちで、小さな「良いこと」を針小棒大に喜べばいいのではないだろうか。
そんな気持ちで、毎日の運勢を読んで楽しもうではないでしょうか。
65歳を過ぎた爺が言うことではないだろうけれど。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
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維持費考え 転載ブログ 4/4投稿、4/6掲載
年金生活だから、経済的にゆとりがある訳では決してないが、「欲しいな」と思ったものは、許せる範囲内で買っていた。
ところが、そんな気持ちが薄らいでいることに気が付いた。
「維持費」を考えると、腰が引けてしまうのである。
「買いたいと思わない、買わなくても困らない」という気持ちが老化の一つの現象だということは、理解しているつもりだが、「維持費」というのはボディブロー的に効いてくるので、注意したい。
行政などでも、「モノづくり」をした際の起工式などは、盛大に行うが、維持費に関する検討が進んでおらず、みすぼらしい姿をさらしているものが多いのではないか。
せめて自分だけはそうなりたくないものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :28
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人の育成には時間がかかる 2/15投稿 2/19掲載
時々、子や孫に「ありがとうは?」や「おはようは?」催促している人を見掛ける。
言う側は、「当然のことだからしっかりと身に付けて」という心だろうから、一概に異論を唱える気持ちはないが、一歩下がって考えてみてはどうか。
自分たちは、「言われて、言ってきたのだろうか」ということを。
「親や周りの人が言って(して)いるから、自分もするのが当たり前」と思ってやってきたのではないだろうか。
私は小学生の登下校時に防犯や交通安全のために当番で立つことを長く続けてきている。 最初はあいさつをしなくても、こちらが根気よく声掛けをしていれば、自然とあいさつをする子も結構多いのである。
いつの日か「言う人」がいなくなったら、と思うと、心寒い思いがする。
子育てや社員教育には時間がかかるのである。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :21
| 子育て
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一つの記事に注目する 来週から、夏休みになります
小学生よりも少し早いけれど、少し夏バテもあり、「老骨には鞭打たない」ということで、夏休みとなります。
いつものことで、採用及びボツ投稿で、埋めていきますので、御用とお急ぎでなく、「たまには読んでみようか」という酔狂な精神をお持ちの方は是非是非お付き合いください。
こうなると、年内まで持たずに2000通になりますが、目標を改めて「年内いっぱい」務めさせていただきます。
では本日のテーマ。
「一つの記事に注目する」
購読新聞を初め、TV及びラジオなどやネットニュース等々ニュースソースは人によって色々とあるでしょう。
また、それぞれの分野でも得意と不得意があるのは、学校の教科と同じではないでしょうか。
そんな中で、どのように各記事をお読みになるだろうか。
私の一つの「読む流儀」が、表題のことである。
スポーツとか、相撲とかではなく、なるべく細分化した記事に注目するのである。
勿論毎日どこかに出ている訳ではないので、途中で尻切れトンボのまま「忘れてしまう」こともある。
それはそれで良いので、深追いはせずに「次の記事」に注目するのである。
そんな記事の読み方も、私としては「楽しいひと時」である。
今日現在はすでにオープンになっているが、家内が好きだった「ハリーポッター」は善光寺参りではないが、私も大好きになった。
その作者が、最近推理小説を書くようになったとのことである。
その小説がハリーと同様に楽しいかどうかは分からないが、最初はネットニュースのほんのわずかな文字数でしかなかった記事であった。
孫が学校教育の一環でザリガニを育てているが、難かそれに近いような楽しみだった。
それではみなさん、良い夏休みをどうか健康でお過ごしください。
投稿者:つねちゃん
at 06 :55
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エアコンは高くつかない
一般的にも言われているが、今年は「春」からいきなり「猛暑」の季節が来て、それからしばらくしてようやく「梅雨」の「模様宣言」がなされ、それが明けるか否かの判断ではなく、東と西では全く別の「猛暑」と「豪雨」が繰り返している。
そんな中、熱中症で救急車の世話になった方が13,000人を超したとの報道があった。(このテーマを思いついた時には「かなり多くなった」という表現だったが)
老人の中には「クーラーがあっても、勿体無いからつけない」ということで被害に遭われた方も多いと聞く。
我が家でも、家内はもともとの「冷え性」なのかもしれないが、私は「暑がり」である。
だから「まだ過ごせるからつけなくてもいいじゃない」という叱責にたじろいでしまうのだが、家内が出ている間は遠慮なくつけて過ごしている。
我が家のエアコンは一昨年取り替えたのだが、使用を終わるときに「いくらかかりました」の表示が出る機能が付いている。
最初は「そんなのどうでもいいじゃないの」というつもりだったが、一人でのんびりと過ごしていて、次の行動に移ろうとするときに当然切るのだが、その時に表示が10円前後だと、何だか嬉しくなってくる。
我が家にエアコンが初めて導入されたのは、確か10年ほど前だったと思うが、その時も「勿体無いからなるべくつけないでおこう」という申し合わせだったが、今回買い替えた時に「従来の方式とはまるで違うので殆ど心配されることはないですよ」と言われたのをまさに今になって実感している次第である。
老人の人(私らもその仲間なのだが)には少しくらい援助して新しいタイプのものに取り換えてもらい、無駄遣いではないという意識をもって自由に使ってもらうような対策で、少しでも熱中症の被害者を少なくできないものだろうか。
物理的な健康もさることながら、それから得られる精神的な健康にも役立つのだろうと思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :15
| 健康
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平社員に戻りたい管理職
産まれた時から、という訳ではないが、団塊の世代の我々は多かれ少なかれそんな時代から「競争」だった。
先日定期診察のために行った病院の新聞で見た記事が、表題である。
「競争」とは勿論「他人に勝つ」ことだったから、入社してからも「何とかして同期生に勝つ方法はないだろうか」と虎視眈々と機会をうかがっていたような気がする。
それまでは、父の名代で、親戚付き合いをすることも度々あり、苦い、辛いお酒の類は極力避けていたが、今ほど「未成年者には飲ませない」という教育が行き渡っていなく「これくらい飲めないでどうするんだ」と言われて、飲んでいたのだが、会社に入ってからは極力先輩らと付き合い酒を飲んだものである。
勿論最初のうちは「飲む、吐く」の繰り返しだったのだが。
そして「企業内研修所」への入試試験にも合格したころから、「昇進」というのがやはり勝敗のバロメーターだった。
本社勤務から帰るときには、同期生や少し先輩などよりも一クラス上で帰ることができ、当然給料も上がった。
本社への行き帰りを繰り返しているうちに、トップにはならなかったものの、それなりに自分として満足のいく地位になれた。
38歳で管理職になり、その少し前から「予備軍」と言われていたが、予備軍としての仕事のやり方なども教わったり自分で異業種交流会に参加したりしていた。
そして、「管理職とは何をするものか」ということを身につけて、現場の仕事も理解し、人材育成という管理職としての肝要な技術も身に着けたと思っている。
表題の原因の多くは「部下が言うことを聞いてくれない」というものだそうである。
間違いであろう。管理職になったら「自分の言うことは上意下達で部下が聞くものだ」と思っているのではないだろうか。
その為のことを自分がやっているのだろうか。
その時よく言った言葉に「昇進したのは、今までの実績が認められたのではない。これから上位職としてやっていけるだろうという期待からなのだ」と。
管理職として「責任ある仕事」を自分で探し開拓することが、苦しいけれど楽しみになってくる。
ぜひ期待したい、と極楽トンボは思うのである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :46
| 子育て
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センセーショナルな記事の見出し
さすがに新聞やラジオ、TVは然程ではないけれど、それ以外の紙メディアによる報道のタイトルには、今更ながら驚くことが多い。
週刊誌というものは、リタイア後は買って見るものではなく、時折のラーメン屋などの外食をする時の待ち時間に置いてあるものを見る位である。
だから、ほとんどは新聞の「広告欄」でタイトルばかりを見るにとどまっているし、ラーメン屋にしても、中身を読むほどの待ち時間はないので、せいぜい読んでもタイトルの次に大きな見出しを見るくらいでしかない。
それにしても、新聞の広告欄は聞くだけの話だが、まるで落語に出てくる「見世物小屋」を彷彿とさせる代物である。
「身の丈六尺の大鼬(いたち)」の正体は、六尺の板に血が塗られたもの、というあの類である。
「内幕を吐露する実名談義」などとあり、それなりに読んでみるが、どうもどこが実名なのか分からないし、それらしい名前があっても、それが本当に書かれた肩書きなのかどうかも確かめようがない。
だから、週刊誌を買わなくなった、というのは貧乏人の言訳に過ぎないのだが。
在職中、それなりに名の通った雑誌や新聞の名前を名乗っていた週刊誌は、記事によっては買っていたのだが、ある時私が属している会社と組織の記事があったので、勿論買って精読した。
私だって自分の会社の隅々まで知っている訳ではないので、「へぇー」と思うような記述内容があった。
ところが、どうも肝心なところが「違うよなぁ」という感覚になったし、発言している人は思い当たらない。
話に嘘を交えるということにおいても、「ニッパチ論理」というのがあると随分昔に聞いた。
実はもう時効だから吐露するが、私もこの論法を結構使った記憶がある。
「八割は事実で、二割の嘘を交える」と全てが事実のように受け取られる。
どうも週刊誌はそれを地で行っているようである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 報道
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アマチュア無線を再開する
明日のブログは「臨時休業」になります。(理由は興味があれば「追記」をご覧ください)
在職中はさすがに出張先までハンディ機を持ってゆくことはなかった(同僚にはそんな奴もいたのだが)が、金沢までの通勤時には、モービル機を車に積んで、知人や見知らぬ人との交信をしながら、勿論安全運転にも気を付け乍ら、アマチュア無線を楽しんでいたので、無線局免許状の更新は滞りなく行っていた。
随分以前になるが、今のように「旧コールサインの復活」という制度が無かった時に、全く新しい「JR9〇〇〇」というコールサインをもらい、しばらく続けていると「復活制度」ができたので、やはり高校生時代に取ったものに復活させることができた。
今回は無線機は車に積んであったが、専ら「受信機」だったので、局免許状の期限が切れていたのだけれども「違法」ではなかった。
で、先日から昔の申請書の写しなどを見乍ら手続きをしようとしたのだが、すでに「手書き」の物ではなく、オンラインでの申請が可能になったいたので、文字があまりきれいでないわが身としては、助かったのだが、10年ほども前の物と随分変わっていたのには面喰ってしまった。
一番違っていたのは「電波形式」と「変調方式」の表現だった。
兎も角何度か指摘を受けてようやく書類自体は整って申請準備を終えた。
これだけ携帯が氾濫しているのに、相変わらずHAM人口はさほど減ってもいないようで、手続きにしばらくかかるだろうとのことだった。
従事者免許は、基本的に「何でもできる」という「一級」を持っている。
無線機自体は、周波数帯は1.9から1200MHzまで運用できるものを持っている。
一般の「夏休み」には開局できるだろうが、さすがに暑いのでやらないだろうが、秋になり、涼しくなってから少しずつ再開してみようと思っている。
雑音から抜け出して、インターネットに傾注していたのだが、もう一度「雑音の中に宝物を見つけに行きたい」と思っている。
まずは整備せずに放置してあるアンテナの整備から始めなければならないのだが。
それもこれも楽しみの一つである。
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投稿者:つねちゃん
at 08 :30
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東電社長ばかりではないが
東電社長が新潟県知事と会談したが物別れになった。
報道で伝えられたことしかわからないが、社長さんは「論破ないしは了承される」と思ったとは到底思えない対応だった。
このことは、裏を返して考えると「俺(程の偉い者)さえ行けば、解決できる」という思い上がりがあったのではないか。
いや待てよ、どこかから「ともかくお前が行って来い。後は俺(程の偉い者)が行って解決するから」という「神の声」が聞こえたのだろうか。
実は、この方法は、在職中に一度だけだがお願いしたことがあるから想定できるのである。
こちらは金沢にいて、お客様の東京へは直ぐには行けない。
在京の部長にひとまずお詫びに行っていただき、後で改めてお詫びに参上した。
もちろん、上記とは全く違い、私は「偉い人」ではなかった。
でも、当事者が行ってお詫びするのは当然なのだが、ともかく今はお客様の怒りをいくらかでも軽減させることが必要だったのである。
幸いにして、お願いした部長さんは私と同郷だということ、お客様の部長さんとは大学は違うけれど、同期入社だったことなどを何度かの「飲み会」で知っていたからである。
話は元に戻って、でも、多分選挙後にこれは有耶無耶のうちに解決するだろう。
登場人物が誰かは分からないけれど。
県知事さんも一度は県民の前に、いやいや国民の前に報道を使って怒って見せた。
東電は「平身低頭」演じた。
最高の登場人物は多分総理大臣という偉い人が「お詫びした」ということになるのだろう。
でも、結局黒幕は決して姿を現さないで終わるだろう。
その裏でどれだけのお金かどうかは知らないけれど、何かが動くのだろう。
しこうして、県民や国民は電力の恩恵を受けることで、「忘却の彼方」へ追いやってしまい、「忘れた頃に」また被害を蒙るのではないか。
何かミステリー小説のようになってくる。
なぁーに、極楽トンボが徒然に語るだけである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :38
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残り物で調理
最近の私の「料理」は「味噌汁」だけは「家族のため」の物だが、それ以外はほとんど、いやいや、完全に「私の趣味」になっている。
味噌汁は、小学4年生の孫は催促してくるほど好きだが、小学2年生の孫は、具が好みなのかそれ以外の要因があるのか分からないが、日によって飲む場合と飲まない場合がある。 「趣味の世界」だから極力経費を抑えることになるのだが、それがまた楽しみを倍加してくれるので嬉しい。
従って、出来るだけ「残り物」や「端物」を使うことになる。
この季節「冷しゃぶ」と言う料理が出てくることがある。しゃぶしゃぶの要領で自分の好みのたれをつけて美味しく食べる。
これは家内と娘の作品であり、私は、昔のコマーシャルではないが「食べる人」に徹している。
その翌朝には必ず「脂」が残っている。
これを使うのであるが、得意の炒飯が多くなるけれど、それ以外にも「端物」の野菜炒めを私流に味付けをして仕上げると、ナントも美味しい。
今ならインゲンの形の悪いもの、表面だけが虫食いになった茄子、曲がりに曲がった胡瓜等々、せっかく世話して仕方が悪かったのだろうけれど、美味しさはそんなに変わらないものだから、お詫びをしながらも感謝して食材にしている。
何かの番組のパクリになるが、「残り物万歳!!!」である。
以前にも似たような紹介をしたが、紫蘇やバジルの種は撒いてもとても消費できるものではない。
そんな「残り種」はぜひ「若葉」を使ってみませんか。
ティッシュペーパーに水を含ませて、状況にもよるけれど、2週間ほどすれば若くて綺麗な「本葉」が出てきます。
その時点で収穫して、パスタや冷麦・ソーメンなどの冷麺に使ってみては如何ですか。
目にも綺麗で、鮮やかな香りが楽しめますよ。
投稿者:つねちゃん
at 08 :14
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アルバイト
富山県だけの教育方針なのかどうか知らない(調べればそれなりの解決が見つかるのだろうが、そうなると今回の主旨がぶれそうなので、書いてしまってから調べることにしたい)
最近になって、身近に「14歳の挑戦と」言う活動が行われていることに出会った。
お金をもらっているのか、受け入れる方にしてみれば、迷惑料との相殺なのか知らないが、一つの教育活動であることには違いない。
これが「より早い社会活動の実地体験」ということであるならば、昔のアルバイトと同じだろう。
今の時代「お金のためのアルバイト」と言うと、方々から非難の嵐に遭うのだろうから、本音がそうだったとしても、それこそ「口が裂けても言えない」だろう。
そんな事から、自分のアルバイト遍歴を思い出す。
小学生の5−6年には、新聞配達と集金。さすがに勧誘はなかった。
中学1年生の夏休み、折から地域に大型の病院建設があり、その配管業者でアルバイト。
これはかなりきつかった。多分今ではできないのではないかと思うが、2間長さの鉄パイプ3本を担いで約100m位を何度往復しことか。
中学2年生の時には、ヤクルト配達。36豪雪の時季で、年末には元日分と2日分を配達しなければならない。当時は入れ物は今のプラではなく、ガラス瓶だったから、配っても瓶を回収しなければならず、重さはちっとも減らなかった。結局途中で親にも話し、4歳下の弟にも手伝ってもらって泣いたことも思い出す。
また、蒲鉾屋のアルバイトもやった。今では時効だが、無免許でバイクを運転して、担任の先生に見つかったが「事故を起こすなよ」と注意されただけだった。これには余禄があり、注文数よりも数本余計に積んでゆき、途中でパクつくことが許されていた。何しろまだ出来たて(当時はまだ真空パックではなかった)なので、湯気が出ていて「暖かい蒲鉾」だったのである。
高校時代には、頭脳労働として「家庭教師」を半年ほどやったことがある。幸いにして、学科としての英語と数学及び国語はそれなりにできたので、英語の辞書も国語辞典、漢和辞典を持っていない中学生を教えるのはたやすいことだったし、その甲斐あってかどうか知らないけれど、目的の高校合格が成就したので、終り。
いずれにしても、目的は「お金」だった。
貰った物はすべて母に渡して、小遣いがそれまでよりも少しだけ多くなったことが喜びだった。
今請われてPC講習をやっているが、これはお金が目的ではないことだけは自分の中で理解している。
当時14歳の挑戦があったら、果たして世の中の母親は納得してくれただろうか。
多分「お金優先のアルバイト」と「それよりも勉強」となっていたのではないだろうか。
どちらがいいとは言えないが、ほろ苦く楽しい思い出である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
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階段の縁
ここでも何度か紹介しているが、「二階の掃除」は私の定例作業である。
ところが、最初のうちは「階段」はどこに属するか、で家内と相談(と言うか、裁定)をした(された)結果、二階の私の担当となった。
10年少し前からそうなのだが、孫も成長したこともあり、階段の利用が随分と激しくなったこともありで、蛍光塗料のついた階段の「縁」が相当痛んできた。
貼るときは、両親は時々使うくらいで、殆どは私と家内だけだったので、痛みもそんなに気にならなかったのだが、もうそろそろ10年以上たつので張替え時期なのである。
ところが、この辺のホームセンターでは、定数の物しかなく、3本足りなくなるのである。
まぁ、さほど遠いところではない所へ行けばいいのだが、剥がすのがとても難しいことに気が付いた。
我が家は築28年なのだから、多分最初は大工さんにやってもらって、その後もやってもらったのではないだろうか。
だからしっかりと張り付いているのだろう。
で、今度は「これくらいなら」と思っているのだが、剥がすとその「跡」が残り、それをみっともなくないようにしなければならない。
また、そうなると、縁だけではなく、階段の板自身の塗料が剥げていたり、が目につくことになり、「それも」ということになると、中々簡単に行きそうにないと思って躊躇している。
でも、こんなわずかな事にも目に行くようになっている自分に気が付くことが、何とも可笑しく楽しくなってくる、ということが、嬉しい。
こんなわずかな楽しみを今後も見つけ続けていきたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :03
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口内炎か
在職中の少なくとも今よりは10数年前にも同じ事象があったけれど、加齢によるものなのか違うのか分からないが、時々揚げものなどを食べた時に、突然口の中に「血豆」ができることがある。
「など」と付けたのは、大好きな揚げ物ばかりに罪がある訳ではなく、何かお菓子などを食べているときなどにも突然それが起こるからである。
最初はほんとに気が付かない位なのだが、その成長が物凄く速いのである。
見る見る(嫌々見られないからこの表現は適当ではないのだが)うちに膨らんできて、ひどい時には指先大になることもある。
これは、以前たまたまトイレが近くにあったので、駆け込んで鏡で確認したから、大袈裟ではない。
で、口から吐き出すと大変なことになるのは、目に見えているので、暫く中座して口の中で「噛み潰す」のである。
そして、唾を吐くこともなく「飲み込んでしまう」のである。
痛いのは瞬間だけで、その後は少しの間「ヒリヒリ感」は残るものの、それが収まると、また席に戻り、何事もなかったかの如くに振舞える。
諸姉・諸兄に置かれてはこんなことはないだろうか。
また、そんな時はどのように対処されているだろうか。
表題のように、一種の病気かと疑ったが、ネットで調べる限りは、どうも「病的」なものではなさそうであり、今のところは安心している。
でも、これからの季節ざる蕎麦、ざるうどん、冷麦、ソーメンと冷たいものが美味しい季節になるが、そこで何か一品付け加えるとしたら、やはり私は「野菜の掻き揚げ」が大好きである。
価格的にもそんなに高価でなく、そこそこ栄養価もあるのではないだろうか。
なるまでは、この現象は思い出すこともなく、なってから思い出すのだが、何とも反省が生かされていない知能に情けなくなることがある。
投稿者:つねちゃん
at 07 :58
| 健康
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見られていないようで見られている
リタイアして父を見送り、その後1年余りしてからの市の健康診断で「高血圧、糖尿」の診断をされたのが、大きなきっかけだったのだが、市内は「寝るだけの所」と言うことで、管外勤務や管内勤務でもそのほとんどを出張で過ごしたことから、地域のことを知らなさすぎることに気が付いて、散歩を始めた。歩ける範囲を結構くまなく歩いて、数年(多分6年位)続けて、少し飽きたので、ついついやめてしまった。
前にも紹介したが、体調自体は薬を飲んでいて定期的な診察も受けており、数値的にもさほど悪くないのだが、加齢で少しずつあちらこちらの筋肉が動きにくくなっているのに気が付いて5月からまた歩き始めた。
こんなオジサンをだれが見る訳ではないから、さほど服装にも気を付けないし、今まで使っていた物をとっかえひっかえして、自分が「これで良し」と判断して、他人の目などは殆ど気にしていなかった。
ただ、歩く姿勢だけは随分昔のダンス教習が身についていたのだろう、背筋を伸ばし、さりとてタンゴの様な反り身ではなく、当時得意だったルンバのように、両足にかける体重の移動にも気を付けて、顎を引いて歩いていた。
「誰も見てなんかいないよ」と言うつもりだったが、団塊の世代と言うこともあり、残念ながらこちらはほとんど顔を覚えていないのだが、女性の同級生から見られているようで、良いにつけ(勿論割合は少ないが)悪いにつけ耳に入ってくる。
そんな事があると「見られているのではないか」と言うことで、服装のセンスは決していいとは思っていないが、それなりに気を付け、立ちションなどは余程のことが無い限りせず、公衆トイレのあり場所もわかっているのでショートカットしたりする。
一時期は、少し神経質なくらいになったこともあるが、「そんなこともあるさ、人間だもの」と相田みつお氏の言葉の如く感じるようになると、そんなことも気にならなくなってきている。
「見られている」のは間違いが無いが、さりとて「そんなでもないし、あんたが誰だかを知っている人はそんなにいない」と思うと、妙なバランスが楽しくなってくる。
投稿者:つねちゃん
at 08 :27
| 健康
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老人はお金を使わない、と言うけれど
この件は以前にも書いたような気がするけれど、いまだに納得がいかないから、再度書かせていただく。
さりとて、「怒り心頭」と言うほどのことではなく、相変わらず「のほほん、徒然」の気持ちは変わらない。
生前贈与、と言う意味ではないらしいけれど、老人はお金を溜めこむだけで使わないから、子供や孫の教育費としてどんどん使ってもらおう、と言う意味のようだ。
その為だったら税金面で優遇しますよ、と言うのだというが、全く意味が分からない。
確かに最近の私を振り返ってみると、何度かここでも紹介したが「購買欲」が一頃よりもずいぶんと減退している。
「買いたい」物が無いのである。
いやいや、「無い」のも確かにあるが「買ってどうする?」「本当に欲しいの?」と言う自問が湧いてくるのである。
ある友人に随分昔になるけれど「お金が有り余ったらどうしよう」と冗談で言うと、「私がすぐにいくらでも使ってあげる」と言うが、それで私が楽しいかと問えば多分そうではないし、昔何かのドラマで見たように「一日自分の為だけに100万円(額は明確に覚えていないが、ともかく当時でもかなりの額)使うのなら与えよう」と言う神様お告げがあり、それを受諾した男が、結局使えずにノイローゼから自殺してしまう」と言う「天国と地獄」物語を思い出す。
それほどのお金を持っている訳では毛頭ない(いやいやそれすらも夢のまた夢の世界である)が、老人が「買いたい」と思うものを売ってください。
もう新製品ではないけれど、老人に「スマホ」が売れますか?
家電製品だって、若者向きの機能ばかりで、略語ばかりでは使えません。
自分が良かれと思って作った路線に乗ればいいんだよ、と言うような論調では、老人のお金は回らないと思うのですが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :37
| 政治への注文
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挨拶の順序が違う
韓国の大統領が米国の次に従来日本に来たのに、今回は中国へ行った、と言うことが大騒動の如く報道されている。
「日本軽視だ」と言う論調である。
しかしながら、その根底には「かつて日本が支配していたのだぞ」と言う意識があり、ある種の優越感を否定された、ことからくるのではないだろうか。
だとすれば、とんでもないことであろう。
そう言うことが、戦後年60数年を過ぎた今でも、日本人の「蔑視外交」の根底にあるからではないのだろうか。
むしろこちらが激昂すればするほど、相手の「思うつぼ」であろう。
向こうには向うの事情がったのだ、と素直に思えばいいではないか。
在職中の経験だが、やはり似たような指摘をされたことがあった。
幸いと言うべきなのだろうが、関東圏に3件、関西圏に1件、北陸圏に2件のお客様がおられた。
関東圏のお客様を転任あいさつに回った時だった。
あるお客様を回って、次のお客様へ行き、その日の懇親会を夕方やることになっていたのだが、「次」のお客様からの指摘だった。
いわく「なぜ僕の所が、あっちよりも遅かったの?」と言うことである。
懇親会の時にそのお客様の上司の方がわざわざその件に触れられて、まったく気にしていないと話されたのには頭が下がった。
相手はどちらもお客様で、こちらはバイヤーなのだから、取引額の多いところを優先すべき、と言うのが本来だと思われたのだろう。
でもアポイントを取るときの調整でそうなったのだから、仕方が無く、転任の後もその上司の方からの信頼も得られ、特別問題になることはなかったと、後任から聞いた。
投稿者:つねちゃん
at 07 :35
| お役所
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