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2012 年7 月31 日

投稿転記 3/14投稿

(4/10に掲載された)
 台所で楽しむ小さなけち
 原発事故で節電が叫ばれたが、小さなけちを楽しくしてみてはいかがでしょうか。
 私は主夫を努めてもう10年くらいになりますが、湯沸しの時には、やかんの底を乾いた布巾で拭いて、コンロの中心に置くだけでもけちが生きてきます。
 大根や人参などの根菜類は、丁寧に泥を落とせば、殆ど残らず食べられます。
 キャベツの芯や白菜の芯も細切れにして少し炒めれば、歯ざわりなど気にせずに食べられますし、少しスライスして焼けば、今まで気づかなかったおいしさが味わえます。
 家庭菜園で昨年使い残した野菜の種を捨てていませんか。
 今から気温が上がりますから、貝割れ大根を育てるようにすれば、若い徒長させた芽を味わえます。
 「もったいない」を心がけて、けちを楽しんでみませんか。
 勿論それで節約できた分は、スーパー銭湯などでパァーッと思い切って使いましょう。

投稿者:つねちゃん
at 05 :53 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月30 日

投稿転記 2/24投稿

(3/20に掲載された)
 結婚難に地元で親と同居策は
 20代での結婚が理想だけど...という記事が目に付いた。
 私には就職難などへの対策は思いつかないが、「地元で親との同居」と言う方法が一つの解決策になるのではないだろうか。
 その年代であれば、まだ親は現職である場合もあり、少し高齢になっていたとしても、年金から養育費の一部くらいは喜んで出せるのではないだろうか。
 また、たとえば結婚記念日などには、孫を預けて小旅行も可能ではないだろうか。
 必ずしも希望職種に固執しなければ、地元での就職先も見つかるだろうし、育児のサポートを得ての仕事との両立も可能だろう。
 わが家は今年で保育園の送迎は卒業になるが、爺婆だってそれなりに楽しんでいたのである。

投稿者:つねちゃん
at 05 :51 | 子育て | コメント(0 )

2012 年7 月27 日

投稿転記 2/5投稿

(2/23に採用された) 
「傘かしげ」で雪道を通行
 雪は峠を越したようだが、まだまだ道路には両側に除雪した分がうず高く積まれていて、本来の道路幅がその分狭くなっている。
 そんな時の対向車に対しては、雪国の昔からのきれいなしぐさとしての「傘かしげ」の気持ちで対応したいものである。
 スピードを落とし、少し雪の壁をこするかもしれないが、お互いにそうすれば、スムーズな運行が出来るだろうし、何よりも気持ちが良い。
 でも、「あいつはしてくれなかった」とか「こちらがしてやったのにあいさつもしない」とかで腹を立てないようにしたいものである。
 むしろ「してあげることが出来て気持ちが良かった」と思えば、腹が立つこともあるまい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :02 | 交通安全 | コメント(0 )

2012 年7 月26 日

投稿転記 1/18投稿

(2/2に採用された)
 運転でアップライト勘違い
 夜間の交通事故防止のために、アップライト運動が推奨されている。
 ところが、どうもこれを勘違いされているドライバーが多いのではないかと疑問を感じることがある。
 対向車や先行車があるにもかかわらず、アップライトのまま運転している人が多いと感じるのは私だけだろうか。
 ぜひ、いろいろな交通安全教室などで「どのような時にすべきか、するべきでないか」と言うことを徹底してもらいたいものである。
 カーブを曲がった途端にビームライトを浴びると、誰だって戸惑ってしまうだろう。
 ライトのアップダウンは細かく切り替えて行きたいと自戒を込めて思う。

投稿者:つねちゃん
at 06 :01 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月25 日

投稿転記 1/7投稿

 今日から「夏休みモード」に入ります。
 今年採用された投稿の紹介と、ボツ投稿の紹介をすることで、昨日準備完了しました。
 それでは、始まり、始まり

(1/13に掲載された)
 歩き方も社交ダンスの効用か
 社交ダンスが好きで真剣に習っていたのは、もう40年以上も前であり、数年前に誘われて講習会に行ったけれど、まるで体が動かず止めてしまった。
 ところが、この季節、雪の道でも結構シャンとして歩いている自分に気が付いた。
 思い起こしてみると、やはりダンスの効用のように思う。
 当時は本格的なスクールへ行くと、「ともかくウォークを完全に」と言われて、横着して少し上のクラスへ行っても、ウォークが完全でないのですぐに初心者だと見破られて、先生もあまり相手にしてくれないほど厳しいものだった。
 基本ステップだけは体が覚えているようで、それが姿勢の良い歩き方につながっているのだろう。
 これからも「いつも人に見られている」ということを意識して姿勢良く歩きたいと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :18 | 日記 | コメント(0 )

2012 年7 月24 日

「昨日は何時も晴れだった」

 今日で一学期が終了です。再開は9月3日になります。
 その間は、ずぼらで「採用投稿」でつなぎ、足りない分は「ボツ投稿」とさせていただきます。

 今日の表題は、少し合わないけれど、「長崎は今日も雨だった」の調子で歌う様に(作詞のセンスが無いから、無理だろうナァ)口ずさんで頂けると、なんだか楽しくなって来はしないだろうか。
 昨日は色々なことがあり、思い出せば、良い事よりも拙かった事の方が多い日のほうが多いのではないだろうか。
 でも、それでも目覚めれば、全く新しい「今日」を迎えることが出来ているのだから、「無事に過ごせた昨日は『晴れ』だった」と思えるのではないだろうか。
 愛用している毎日の箴言暦の中に「悪かったことを引きずって過ごすよりも、良かったことを思い起こしながら過ごす方が余程楽しい」と言う趣旨の物がある。
 まさにそのとおりで、悪かったことはすっきり「忘れてしまう」ことで、良かったことは、「針小棒大」に誇張して思い出すことが出来れば(もっと言うならば、そう思う癖を習慣付ければ)来る「今日」をもっと楽しく過ごせるのではないだろうか。
 何度か、書かせていただいたが、「生きていた」ことが先ず最初の「良いこと」ではないだろうか。
 それを出発点として考えれば、何とか今日も乗り越えられよう。
 今日が出来れば、後は、その繰り返しだから、嫌でも「習慣」として身に付くようになる。
 少なくとも「過ぎ去った悪いこと」を思い出すよりも、余程楽しく過ごせることだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :12 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月23 日

不埒な政治屋には「無視」で対応

 如何に「仄々」「徒然」としてかなり無責任な書き込みをしているこのブログでも、ことこのテーマについて具体的な名前を揚げ連ねることは、やはり難しいと思うので、読者諸姉の記憶を呼び起こすことのきっかけになるようなことでご推察願いたい。
 まぁ、今まで色々な「政治屋さん」が跋扈してきた世界だから、私の記憶などは取るに足らないことなのだろうが、それにしても少し腹に据えかねる人が多いのに今更ながら憤慨する。
 「興味の無い人は家で寝ていれば良い」との発言をされた元総理は、今朝の新聞報道によると、次期は立候補されないとあつた。
 自分の総理の時にかなり無責任な発言をしていた人が、それを忘れたかのように無責任な外交をなさっている。
 自分はキングメーカーだとでも認識されている人が、次々と自分の意図とそぐわないという事で、「壊し屋」を繰り返している。
 まだ「無罪」になったわけでもない人が、堂々と他人様に自論を説いている。
 まだまだ、枚挙に暇が無いのだが、妙に「怒り」が湧かず、むしろ「滑稽さ」すら覚えるので、なんとも不謹慎ながら愉快でもある。
 でも、そんな人を再度、再再度当選させる選挙人も一緒に滑稽であるし、そんな人の一言一句を取り上げて問題(話題)にしているマスコミも滑稽である。
 「この国民にして、この国家あり」と言う言葉を聞いたことがあるが、確かにそうなのかもしれない。
 そのための「蟷螂の斧」や「ごまめの歯軋り」くらいにもならないけれど、一度そんな人の発言や行動を「無視」と言う方法で抹殺してしまったらどうだろうか。
 多分、今の政治屋さんは、それが一番怖いと思っているのではないだろうか。
 勿論、私は新聞やネット情報で既にそんな人の言動は無視している。

投稿者:つねちゃん
at 07 :56 | 政治への注文 | コメント(0 )

2012 年7 月20 日

私はお米が大好きだ

 白米は、日本人の健康に「悪い要因」として挙げられることが、以前よりも随分多くなってきたような気がする。
 それなのに、最近の米飯に関する動きが、どうもチグハグな様な気がする。
 TPP反対の多くの要因は、素人判断ながら「日本の米が食べられなくなる」と言う事のようだが、一方で中国の富裕層へ「美味しい日本米」として輸出して消費を拡大しようとしている。
 一時期、国内の生産が間に合わなくなり、タイ米を初めとした「外米」が多く輸入された時期があつたが、その当時でも、我が家では「選り分け」でタイ米は私の大好きな炒飯やドライカレーにして美味しく食べた記憶がある。
 中国へ出張に行った時に、大きなスーパーに立ち寄った。
 そこには、少なくとも10種類以上の「米」が大きな容器に並べられて売られていた。
 中国語は判らないけれども、表示が英語も併記されていたので、何処の国の物かは容易に判った。
 日本米もあるし、米国産の物も、タイ米もある。
 TPPには色々複雑な事情もあるのだろうが、少なくとも「これしか食べてはいけません、それ以外は数倍の価格差がありますよ」と言うような「脅し商売」になることだけは止めて欲しい物である。
 また、最近、私の好きな炒飯は「カロリーの摂りすぎ」と言うことで批判の的になっていたが、それが見直されていると言う記事も目にした。
 米に限らず、なんでもそうだろうが「調理の仕方や食べ方」で健康にも多いに役立つと言う記事を大いに掲載して、米消費の拡大をお願いしたい物である。
 いろいろな物を刻んで炊き込んでのお粥などは、人それぞれ好きな物を入れることによって、カロリーも抑えられ、健康食になり、ダイエットにも効果があると聞くのだから。

投稿者:つねちゃん
at 06 :55 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月19 日

「有り難い」を今一度味わう

 「有り難い」を「ありがたい」と平仮名で書いてしまうと、慣れ親しんだ言葉なので余り気がつかないけれど、なんだか「呪文」のように聞こえてしまって、意味がさっぱり判らなくなってしまうのではないだろうか。
 もし、幼い子供に「なぜなぜ攻撃」されてしまった場合に、果たして適切に判り易く説明できるだろうか。
 「難い」を「難い(にくい)、なかなか実現できない」と漢字から説明すると、比較的判って貰えるのではないだろうか。
 何もこれは、子供に対することではなく、自分自身に言い聞かせることでもあると、最近結構思う機会がある。
 65年も生きていて、決して「良い事」ばかりがあった訳ではないが、今現在「生きている」と言うことはなんとも「有り難い」ことではないだろうか。
 記憶にうっすらと残っているのは、3歳頃に「小児疫痢」と言う病気にかかって、当時は生死の境を行ったり来たりしていたことがあるが、両親ばかりではなく、かつて看護婦だったと聞く、祖母の適切な指導などもあったのだろうが、それから60年余り生きていることは、やはり「有り難い」ことであった。
 それを初めとして、日々感謝している癖を身につけていると、自然に「ありがとう」と言う言葉が口から発せられていることに気が付く。
 して貰った事ばかりではなく、全く偶然に遭遇したことや、「駄目かも知れない」と思っていたことが「案ずるより」と言う言葉の通りすんなり実現できたことなど等、まことに「有り難い」事ではないだろうか。
 震災、原発事故に加えて、最近の豪雨被害による被災地の人には申し訳ないけれど、こちらではそんなことが起こっていないことについても、有り難い事だと思えることが「ありがとう」と心から言えるのだろうと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :34 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月18 日

想定最大津波

 研究機関の発表では、東日本震災の影響もあって、今後北海道で想定される最も高い津波の高さは34.6mだという。
 そのために防波堤を作るような投資が考えられていると言うが、そんなことを論じている人は、まだ人間は自然を征服できる、とでも思っていらっしゃるのだろうか。
 自然を必要以上に恐れることは無いと、素人ながら考えるが、でも、その裏側には「どの道勝てっこない」と言う心理が私にはあるからだ。
 確かに、一面では「自然に抗して」近代があると言うことは否めないが、山崩れに遭遇した人の話では「山がそのまま動いてきた」と言うように、「山が崩れて流れてきた」と言うのとは、大きな違いなのである。
 そんなことを考えると、やはり自然災害には「兎も角安全な場所に逃げろ」と言う事を最優先に考えるべきではないだろうか。
 あくまでも素人考えだが、30mを超える高さで「海が動いてくる」と言う状況だと、「何処まで」「どういう手段で」逃げるかを考えるべきではないか。

 どうも、次第に興奮してくるので、文章が纏まらないけれど、私は「臆病者」と謗られても良いから、そんな場合は「先ず逃げる」ことを考えたい。
 勿論、そのときには、有無を言わせず家族諸共である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :41 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月17 日

「相手の立場になって考えてみる」

 政治家に表題のことを望むのは無理なのだろうか?
 在職中、ある研修で、研修仲間から「貴方はまるで向かってくる機関車の如きだ」と半分やっかみ、半分冷笑で言われたことがあり、大いに反省させられた。
 そのときの研修内容が、どんな物だったかは忘れてしまったが、その言葉だけが強く印象に残っている。
 正直なところ、田舎の工業高校卒で、大卒の人間には「議論で負けたら自分自身が駄目になってしまう」と言うある種の劣等感があったのだろう。
 でも、その研修以来、表題の言葉を「出来る限り」尊重してきた(勿論、全てにではなく、大いに踏み外すこともあっただろうが)つもりである。
 今回の小沢造反で、如何にこの時の私の論理が出ているかを今更ながら思い知らされた。
 異議はあるだろうが、国会と言う正式な場で決定されたことに不満だから、袂を分かつ、と言うのであれば、今後どんなことに対してでも今回のようなことが起こりうるのだろう。
 しかしながら、私の失敗を通して考えれば、多分何時の日か「お山の大将」になっているつもりが、周りには誰も居らず「一人ぼっち」と言う状況に陥ることだろう。
 先日、ある番組で「常に前向き、プラス思考」と言う意志を持った若い方が紹介されていた。
 失敗しても「ここで失敗したから、大きな被害を出さずに良かった」と言う考え方である。
 見習いたい物だが、中々難しい。
 しかしながら、リタイアした現在では、在職中よりも大分「楽に」表題の言葉を実行できるように思うし、やっているつもりである。
 尤も、そうやって入れぱこちらが楽である、と言う打算の結果かもしれないのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月13 日

おならの匂いが変わった

 春先からこの頃にかけて、家庭菜園の整理菜や不出来の物は先ず自分で消化する「自産自消」をしている。
 家族にも「これが生産物だ」と言えない様な不恰好な物は、私の得意料理である炒飯の具として使って、無駄なく消化している。
 そのため、特別ベジタリアンではないが、野菜が多い食事になる。
 意識して肉類や魚類などの動物性の具材を避けている訳では決してなく、そちらは家内と娘が主婦として作ってくれるので、今までどおりだろう。
 そんなときに気が付いたのだが、おならの匂いが今までと違ってきている。
 考えられる幾つかの要因のうち、やはり「菜食」の割合が多くなったことが一番の物ではないだろうか、と思い当たった。
 自分のおならなのだから、嫌ってみても仕様が無いので、匂いを感じてみている。
 他人様にとっては、決していい匂いである訳は無いのだが、よくよく感じてみると、結構食事や食材に影響されているのが判るから、なんとなく面白いし、健康管理にも少しは・・・、と考えるのは行きすぎだろうか。
 いずれにしても、今までとは全体的に、確実に違った匂いである。
 もう一つ考えられる要因は、「よく咀嚼する」様になったことだろうか。
 今までは、食事の時間は、以前に紹介したこともあるが「早飯」の得意技で、大体5分くらいで、食べるというよりは飲み込むと言うようなものだったが、好きな番組の一つ「試してガッテン」という番組で紹介されていた健康法に影響されて、徳川家康ではないけれど、「良く噛んで」食べるようにすると、15分くらい掛かって食べる様になった。
 こちらは、「快便」という格好で現れているので、それはそれで快適である。
 先日の診断で体重は2Kg程減少して、おなか周りも2cmほど減少している。
 

投稿者:つねちゃん
at 06 :44 | 園芸 | コメント(0 )

2012 年7 月12 日

粘着テープクリーナー

 デスクマットの上に、特別邪魔にはならないごみだけど、気になり出すとどうしても取り除きたい気持ちが募り、それが気になって他の事をやっていても身が入らないことってありませんか。
 ところが、ふけ等の小さなごみは簡単に手で取り除こうしても、摘めず、どうにかして掴もうとすると、やるべきことを「そっちのけ」にして格闘することになり、まさに本末転倒の次第になる。
 こんな時に便利なのが、表題の物である。
 100均ショップで買ったものだが、もう数年使っている。
 小型の物で充分にこのような時の役に立つ。
 デスクの上の全体の掃除は、1ヶ月に一度くらいしかやらないのだから、まさに鈍ら者の喩えで言われる「四角い部屋を丸く掃く」と言う状況でしかないのだが、それでも「目の前のごみ」を放置しておくよりも気持ちの整理が付き、本来やることが阻害されることがないのが何よりである。
 部屋の床に強いてあるカーペット用の大型の物でやると、粘着力が強すぎてまことに使い勝手が悪いので、デスクの上などは小型に限る。
 汚れたら、粘着シートを1枚剥がすだけで除去能力が復活する。

 こう書いていて、ふと思い出したのは、新入社員の時、出社して先ずやらなければならなかったのは、先輩や上司の机の上の拭き掃除だった。
 当時は、パソコンなどは当然無く、デスクを持っている人々は帰る時にきちんと片付けてあったものだ。
 こんな小細工をするよりも、そちらの方が良いことは判っているのだけれど。

投稿者:つねちゃん
at 07 :00 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月11 日

何かそのまま〇〇するのも何だった

 日本語を初めとして、言葉における「文法」と言うのは、「国語」と言う教科は全体的にはそこそこ成績が良かったのだが、動詞や名詞は判るのだが、助動詞や助詞などとなると、全くと言って良いほど理解できない。
 ましてや、その応用なのだろうが、連体形や連用形などと言う言葉が出てくると、もうそれだけで嫌になってきてしまう。
 かてて加えて「枕詞」などという類の物は「ハイハイ」と理解する気持ちにもならなかった。(過去形である)

 そんな中で、先日、表記のような表現がラジオから流れてきた。
 もともとの文章には、〇〇に入るのは、「帰る」である。
 これは富山便に似通った言い方なのだろうか、それとも優柔不断な私自身の性格から出る言葉なのだろうか。
 ラジオのアナウンサーと言えども、結構富山弁を使う人が言っているのだから、何も私に限ったことではないし、年齢的には私よりも二周りほど下の若い人であるから、加齢による言葉の呂律の問題でも無さそうである。
 でも、自分も同じフレーズを使って日記を書いていることが振り返ってみると度々あった。
 最初の「何か」は多分言い出そうとする時の「枕詞」的な物だろうか、最後の「南だった」は文法上の整理は判らないが、「言い訳」をするために使われている言葉ではなろうか。
 改めて自分の言葉を「標準語」(これ自体が理解できない言葉なのだが)に直してみると、「特別何をしたい訳ではないけれど、単純に〇〇するのは気が引ける」と言うようなことになるだろうか。
 いやはや、自分の言葉自体に解説が要る様だと思うと、なんだか情けないのか、それとも楽しいのか複雑な気持ちである。
 尤も、そんな言葉を聞いている人にとっては、なんとも「不可解」なのかもしれないが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月10 日

水中歩行の種目

 5月から民間のプールを市民に開放する施策がなされていたのを市報で知って、何時もなら夏場だけしか行っていなかった水中歩行を少し早めに始めた。
 これを始めたのはもう数年前になるが、最初は「兎も角水中で歩けば、汗も気にならないし、夏場のウォーキングとしては最適である」との意識だけだった。
 従って、「歩き方」などは全く気にせず、プールの使用要領で、小学生などの子供と同じペースで、20分入っては、10分の休憩をする。
 それを3回でそれなりにいい運動になっていた。
 暫く経ってから、NHKの教育TVだったろうと思うが、「水中歩行の要領」と言う番組を見つけてそれを真似することにした。
 ところが、中々年に夏だけということで、忘れてしまうのが常だった。
 この市民開放の機会を捉えて、断片的だった記憶をつなぎ合わせて、私なりのルールを作った。
 後ろ向き歩き、蹴り上げ歩き、足を交互の横歩き、膝上げ歩き、肩まで浸かっての前歩きそして、通常の前歩きで終わり。
 これを各10分間で、20分遣って10分休み。
 これを続けてみると、結構疲れるし、その分「いい運動」になっているのだろう。
 そこへは車で往復するのだが、帰宅すると随分昔に買った「足マッサージ器」で揉み解すことが必要なくらい足に適度なストレスが加わっていることを自覚する。
 最初は「歩いて往復すればいいや」と思っていたが、やはり車にして正解だったと思っている。
 その種目のうち、体が歪んでいるナァ」と気が付く物が「足を交互の横歩き」である。
 やってみると判っていただけると思うが、両足共に180度横には運べない。
 これが今年の改善目標である。
 何にしろ「目標を持つ」と言うことはやっぱり楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月9 日

「私が」と「私の」では大違い

 黒田節の替え歌の「猥歌」として、よく知られた文句に次のようなのがあるのは、ご存知だろう。
 「裏の畑に/山芋植えて/太くなれ/長くなれ/毛も生えよ/そしたら「私の」すり鉢で/とろろになるまでこすりましょう」
 この「私の」を「私が」に変えると猥歌でもなんでもなくなる。
 ということは、適切な場所で言い換えられる、と言うことである。
 「私が」であれば、子や後輩の成長を祈り、行く末は、私が世間の荒波に負けないように色々と教えて立派に成長させてあげましょう、との理解になるだろうから、「祝い歌」であろう。
 「私の」と言うことになると、「私の持ち物で」と言うことになり、「すり鉢」と言うと、女性の局部の隠語にもなっているから、山芋の正体が、なにやらそれに見合うような代物に思えてきて、「猥歌」と言う次第になるのだろう。
 さてさて、日本語と言う物は、面白い物だと言うことが、最近改めて気が着いた話題である。
 今は余りTVでやられないが、寄席演芸の一つで(正確には覚えていないが)「付くと付かぬで大違い」と言うゲームと言うか余興があるのをご存知の方も多いだろう。
 どちらかは「なんでもない」ことなのだが、反対側は「飛渡も無い」様なことにもなる。
 当時は、それをまねて、余り卑猥にならない程度に、職場の飲み会などで披露もして、爆笑だったり、哄笑だったり、冷笑だったりを受けた思いがある。
 今は余り思い出せないし、思い出すのは「卑猥極まりない」物が一つ二つ思い出されるくらいで、とても紹介する訳には行かない。
 結果は紹介できないが、設問(?)の例は「濁点が付いたり付かなかったり」とでもしておこうか。
 こんなことを終日考えて悦に入るのも楽しいではありませんか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :34 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年7 月5 日

友人を自慢する(出来る)

 今晩から泊りがけで飲み会に行きますので、明日はお休みさせていただきます。
 だから、次回は月曜日の9日になります。

 私自身の自慢は余りしていないのだと思うが、他人様から見られれば、評価は違ってくるだろう。
 でも、先日「良いお友達を持っていらっしゃるねぇ」と各々別の友人を各々別の人から褒められて、大いに気分を良くして改めて自慢したが、これはナントも気持ちが良かった。
 自分自身は、然程の能力も増してや人徳なども持ち合わせておらず、友人を初め他人様から「これどうでしょう」と言われると、素直に綺麗なもの等に反応し、自分だけが知っていては世間様に申し訳ない、という気持ちから、然程多くは無いけれど友人知人に薦めている。
 そんなことが、巡り巡って「良いお友達を沢山知っていらっしゃるのね」と言うことに繋がっているようだ。
 これは、勿論後日その友人に「評判が良かったよ」と伝えることにしているのだが、それ以前に「あの人から聞いてきた」とわざわざその人に私の名前を告げられたこともしばしばであり、それもまたなんとも嬉しい限りである。
 私が「やっている」ことが素晴らしいのではなく、その友人がやっていることが素晴らしいので、私自身は宣伝担当なのだろう。
 でも、人からそのように言われると、「私も良い友人知人を持っているのだナァ」となんだか誇らしげになってくる。
 でも、自分のことじゃないのだから、それで有頂天になることも無いので、「天狗」になることもないから、罪の無い幸せである。
 こんなことが、各々の人が感じ、スパイラル的に発展してゆけば、楽しいだろうナァ。

投稿者:つねちゃん
at 06 :34 | 子育て | コメント(0 )

2012 年7 月4 日

遣りたいことは書き出してから遣る

 在職中には、確か我孫子市だったと思うが、市役所に「すぐやる課」というのが設置された影響もあったのだろうが、生来短気だったこともあって「思いついたら直ぐにやる」ことを一つの身上として持っていた。
 勿論失敗と成功の度合いを考えれば、7:3くらいで失敗の方が多かったと思うが、その影響度合いを考えれば、逆に7:3くらいで「良い影響」があったと、自画自賛している。
 勿論「今は昔」の話であるから、ここでどれだけ言って見たところで、今更誰に影響ある訳ではないので、自慢話と受け取ってもらって結構である。
 ところが、最近気が付いたことなのだが、「思いついたら、先ず『書き留める』と言う習慣が身についてきている」。
 例に拠っての「メモ魔の習性」かもしれないが、「出来なかった事」「やらなくても良かった/良くなったこと」などの整理をしながらだけれど、それは殆ど毎日増えていく。
 そんな中で、起きて暫くして少し頭が冴えてきた(中々冴えないのだが)時に、「今日したいこと、やるべきこと」を「書き出して」からやると、一日が終わった時点での「達成感」が相当違ってきていることに気が付いた。
 勿論、すべてが出来る訳ではない日が多いのだが、それはそれで「良い意味での積み残し」で、その分明日したいことが増えると言う楽しみにもなる。
 時々「全て出来て、全て結果が良好」という日があると、晩酌もより一層旨く感じられ、日記にもそれが伝わっているようで、読み返してみてもなんだか楽しい気分になるから、「一石何鳥」にもなる。
 自分のことばかりではなく、家内の買い物エスコート、孫の買い物のお付き合い、町内や仲間内の行事参加など等まさに種々雑多かもしれないが、それで今日と言う日がまた楽しく過ごせると言う、「お金の掛からない楽しみ」である。

投稿者:つねちゃん
at 05 :58 | 健康 | コメント(0 )

2012 年7 月3 日

韮は美味しい

 いつまで経っても「素人」の域を出ないが、日々不出来ながらも新鮮さだけが取り得の家庭園芸、いやいや「家庭」ではなく「個人」なのかもしれないのだが、を楽しんでいる。
 そんな中で、私が好きなものの上位に「韮」がある。
 一昨年、種から植えた韮が、今年はどうにか「食べられる」くらいに成長している。
 商品として出ている物と比べれば(家内から「比べられるな!相手はプロなんだから」と言われているのだが)長さも短いし、幅も2/3くらいでしかない。
 だから、大量に採れても、他人様に差し上げる訳にも行かないので、せっせと「自産自消」している。
 形は多少貧弱だけれども、味は決してそんなに劣っているとは思わない、と言うのはまさに自画自賛ではあるのだが。
 勿論、これで満足している訳ではなく、来年は、もっと肥料などを豊富に与えて、幅広の物にしたいと思っている。
 それにしても、いろんな調理法で楽しめるのが嬉しい。
 ここでも何度か紹介しているが、私の得意料理の一番は「炒飯」である。
 それに「緑」として刻んで入れると、卵の黄色、人参の赤と程好い色加減になる。
 簡単なのは「お浸し」だろうか。茹でてきつく絞って、鰹節と醤油を少し振って食べると、実に美味しい肴の一つになる。
 同じ要領で、これは在職中若い人らと新橋の飲み屋でよく食べた「韮の細巻き」である。
 言葉どおり、お浸しの要領で作った物を海苔でお寿司の細巻き風にして、食べるのである。
 掻き揚げの具や好き嫌いはあるかもしれないが、味噌汁の具としても重宝である。
 食物繊維が多いものなので、臭いさえうまく抑えれば、快便の健康食品として女性にも人気があるだろう。
 これからも、ドンドン成長させていくが、成長につれて他人様に差し上げられる物にしなければ、今の量が製品版になると埋もれてしまいそうだ、と言うような「取らぬ狸」の心配で楽しんでいる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :38 | グルメ | コメント(0 )

2012 年7 月2 日

湯飲みの代替わり

 以前にも同じような趣旨で書いた気がするが、またまた愛用の湯飲みが新しくなった。
 今度の物は、直前の輪島塗のものと比べると、大きさも手頃だし、一番嬉しかったのは、熱い物を入れても冷たい物を入れても手にその感覚が直接伝わらないと言うことである。
 これは想定外のことだった。
 先月の父の日に娘がプレゼントしてくれた物である。
 価格は知らないし、調べる気持ちも無く、純粋に感謝している。
 構造的には、ペアガラスと一緒で、真空層が設えてあり、熱が伝わり難いことになっているのである。
 これから夏に向かって、お茶も冷たい物が欲しくなり、注いで暫く置いておくと、表面に結露が出来て、置いた所が水浸しと言う状態には、今までも悩まされてきたのだが、これが全くではないにしても気にならなくなり、お茶自体も外壁から熱の放射(吸収)が無くなる事から、温まり難く冷め難い状態になる。
 在職時から使っていた湯のみは、家内がプレゼントしてくれたもので、大きさは何度も注ぐ必要のないほどでそれなりに良かったし、リタイア後もそれを使っていて、罅が来て駄目になり、父が作ったものが大きさ的には適度だったのだが、素人細工のため重さが辛くなり、竹製の物から輪島塗と変わってきたのだが、家内と「やっぱりお寿司屋の湯飲みくらいが適当だナァ」と話していたところだった。
 外見はステンレスの色そのままで、そういう意味では「味気なさ」を全く感じないではないが、実用上は全く問題が無い。
 罅が入ることもないし、落として割れる心配も無い。
 生涯物にしてゆきたい一品である。
 改めて娘に感謝する次第である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :24 | 健康 | コメント(0 )

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