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2012 年9 月28 日

元IBM社長が

 一般紙では、本当に小さな記事だったので、殆どの人が気が付かなかったのではないかと思うが、残念至極な記事だった。
 在職中に名刺交換をして、それなりにコンピュータに関する議論もし、懇親会で談笑したこともある人だったが、何を血迷ったか「ipodでスカート覗き」をしたとの報道である。
 名刺交換をしたときには「社長」ではなく、コンピュータはもちろん、ユーモアたっぷりで幅広い知識をお持ちの人だったと記憶している。
 いやいや、自分だって、決して他人様のことを言うほど立派ではないし、犯罪にならない程度、もしくは見つからなかっただけの行為を「全くしたことは無い」と言うほど鉄面皮でもない。
 しかしながら、しかしながら、である。
 よく言われた言葉に「人は職に付く、だが、職が人を作る、と言うのが本当だろう」と。
 そういう意味では、リタイアするまで、かなり上部の懇意にしていただいた人から「お前はまだまだだナァ」と苦言を呈されていた。
 課長になったら、課長なりの、部長になったら部長なりの言葉遣いができていなければならない。
 勿論、オフィシャルでは、それなりに気を使ったが、それでも少しアルコールが回り始めると「育ちが判る」と言うような言葉遣いになったことを指摘されてのことだった。
 言い訳にしかならないし、全てとは言わないが、ある意味で「意識しながら」やっていた面もあったのである。
 「本社」と言うところは、全国からそれなりに「優秀」な人が集まっていて、態度も優秀なので、私のような「野武士」は大体にして煙たがられた。
 だったら、それで通してやろう、と思ったのである。
 件の社長さんは、そのようなことは無かったのだろうが、それにしても、年齢時にそんなに上ではなかったように思うから、全ての職や地位を投げ出すようになったのは、残念なことである。
 本人は、まだとしても、家族などは・・・。

 翻って、今の私は、その程度のことをしたところで、職もなければ地位もないので、後は家族や、特に好きな孫に疎まれるのが怖いだけであるから、決してやらないだろう。

 本当かナァ?

投稿者:つねちゃん
at 08 :37 | 日記 | コメント(0 )

2012 年9 月27 日

孫から「かんぱぁーい」

 子育て、と言うジャンルにしたが、むしろ「爺馬鹿」のご披露である。
 別居している「外の内孫」は、中々懐いてくれなかった。
 それが、つい先日着て、夕食を共にした時に、乾杯をしたのだが、真っ先に少し離れた(近くだと直ぐに泣いてしまうので離してある)その孫が、コップを第一に私のグラスに向けてきてくれた。
 これは、正直、近来に無い嬉しいことだった。
 7月末の母の一周忌にも、カメラを向けただけでソッポを向かれ、近づくと逃げて回る状態だった。
 お盆にも来たのだが、、その時には挨拶は(嫌々だったかも知れないが)「こんにちわ」と割合大きな声で発してくれたので、そろそろ直ったかな、と思ったのだが、エアコンの調整のために10疊の部屋で二人だけになったときに、途端に泣き出されてしまった。
 それが、その後2週間ほど経ってから来た時の行動だったのである。
 背景に長男とその連れ合いがどのように指導したのかは、詮索するつもりは毛頭無いくらい嬉しかったのである。
 これは、決してその孫だけではなく、隣の幼稚園児にもまだまだなつかれていない。
 在職中は、どんな子にでも泣かれたものだったが、リタイアして暫くしてからは、結構小さな子にも笑顔で迎えられたので、「競争して勝つ」と言うことが顔から無くなっていたのだろう、と思っていたのだが、存外そうでもないらしい。
 でも、先日「内の外孫」の授業参観に行った時に、まだお母さんに抱かれた小さな子から、笑顔を向けられた。
 はてさて、爺はどのような態度で臨むべきなのか、悲しみや楽しみが一杯である。
 みんなの将来に「かんぱぁーい」

投稿者:つねちゃん
at 11 :20 | 子育て | コメント(0 )

2012 年9 月26 日

そろそろ冬支度

 口を開けば「お暑いですネェ」と言う言葉が決まって出た今年も、朝晩ばかりではなく、日中でも日陰に入ると、涼しいを通り越して、「寒い」と言う感覚になってきている。
 寝具は、タオルケットだけだったのが、毛布1枚を半分に折って掛けていたものも、全体に伸ばしてになり、布団に変わり、している。
 少しでも風通しを良くして開け放つだけでは済まなくて外してしまった部屋の戸も、元に戻した。
 扇風機や冷風扇も感謝して、掃除をして仕舞った。
 家で、日中着ている物も短パン、Tシャツからジャージに変わった。
 これほど寒さを感じるようになったのは、やはり加齢のせいもあるのだろう。
 今朝久し振りに朝散歩に出掛け、小一時間歩いてきた。
 うっすらと汗をかいたが、気化熱が奪われて気持ちの良い散歩だった。
 これからも、季節に合わせて「無理せず、気持ちの良い」気分を味わい続けたいものである。
 こう書いてきて、昨日の記事と合わせて考えると、どうも思考回路が「老人性」に偏りすぎているのではないかと、少し不安になってきている。
 でも、何時までも「若い者には負けないぞ」と言うような強がりは、やはり私には合わないのだろう。
 だって、在職中は社内での「大学制度」を卒業して(成績は兎も角としてだ)それなりに同期生としては標準よりも上の「部長」と言うクラスまで昇進した。
 それだけ、しっかりと頑張ってきたのだから、今更になっても頑張る必要は無いだろう。
 幸いにして、子や孫にも恵まれ、日に日に成長して、反抗期的な行動もあるが、それがまた可愛いのだから、全ての事に感謝しながら「気持ち良い」生活を過ごしたところで、罰は当たるまい、と思っている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :43 | 日記 | コメント(0 )

2012 年9 月25 日

何時までも「男」でいたい

 最近始まった新聞小説が、いきなり「インポテンツ」についての話題になっている。
 勿論、最後までこれだけがテーマになる訳ではないだろうが。
 主人公は70歳代の男性(当然だな)医師である。
 50歳代の女性と、30歳代の女性の二人の恋人(言うならばセックスフレンドである)を平和的に持っていらっしゃる、恵まれた人で、バイアグラの常習者であるとの設定である。
 年齢的にはまだその領域に達しては居ないので、単純に比較はできないが、現時点ではまだその心配は無い。
 もちろん、若い時のように「やたら」ではないけれど、シチュエーションがそうなれば、しっかりと屹立するので、現時点で、幸いにして、私にはそれは当てはまらない。
 ただし、そのシチュエーションになるためには、それなりに「強烈」な刺激が必要になっているから、それがバイアグラ的な効果を醸しているのだとすれば、強ち安心ばかりもしていられなかろう。
 でもしかし、現時点で少し強めの刺激があれば「勃起」はするのだから、まだまだ「現役男性」と言うことでは、通用するのだろう。
 小説の主人公のように70歳まで生きて、これが続くかどうかと言う点については、心許ないけれど、日一日「今はまだ男性」と言う意識を持ち続けて生きたいものである。
 もちろん買・売春と言うような犯罪的な行為は「刺激」ではあろうが、その後のことを考えると、全く手を出す気持ちにならない。
 最近はインターネットでも、その手の刺激的な映像が、気をつけさえすれば、無害で視聴できるので、インスタント刺激剤でもある。
 さて、何時まで「現役男性」を続けられるだろうか、一日一日を大切にしながら、心地良い刺激を楽しみながら「あり続けたい」ものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :10 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月24 日

ハングル、中国語の学習を止めた

 人間の「小ささ」を表す言葉にも色々あるが「偏狭」や「狭量」は上品な言葉だろうが、やはり私には「尻(けつ)の穴の小ぃせえ奴」と言うのが、そのことを適切に表し、私と言う人間にあった言葉であろうか。
 今回のテーマも、まさに私自身の「尻の穴」の小ささから来た物であると思いながら物ことである。
 毎朝の日課にしていたハングルのワンフレーズの書き写し(同じフレーズを3日間続ける)と、以前市の教養講座で習っていた中国語の会話本の音読を今回の領土問題の出方を見聞きして、その傲慢さに「もう決して行く機会も使う機会も無いだろう」と言うことで止めてしまった。
 領土問題については、私自身直接関係はしないし、したくも無いが、議論があるのであれば、それなりに国際法に則ったやり方と言う物があるはずなのに、長い間沈静化していた(多分水面下では色々な協議があったのだろうが)課題に、人気低迷で、その座を終われたら逮捕が目に見えている大統領が、一時期の人気取りのために煽ったり、地下資源のあることが判明されると、途端に勝手な領海ラインを敷き、領土だと言い張ったり、兎も角賑やかしいことである。
 それはまだ、百歩譲って「見ぬ振り」をしていたとしても、自国の人が愛用していた日本製品(特に車など人が見てすぐにそれと判る高価な品物)を破壊してみたり、日系というだけで、デパートを破壊して略奪し、その損害賠償責任はは日本にある、などと言うに至っては、全く同意する気にならないし、その群集も政府筋が動員費を支払って煽っていると聞くと、やはり国としての信頼がなくなってしまう。
 そんな訳で、尻の穴の小さい私は学習をやめてしまった。
 もちろん、在日でそんな自国の人を冷静に見たり批判したりしている人がいることも聞くので、全て「一蓮托生」とは決して思っていない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :37 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月21 日

島根旅行(5)

 楽しかった旅も、もう終わりの工程である。
 部屋のカーテンを閉めて寝ていたせいもあるし、前夜はさほど飲み過ぎない程度だったことも、心地良いエアコンのせいもあつたのだろう、気が付いたら6:30をはるかに回っていた。
 最終工程は、全て電車(いやいや、山陰線はまだ電化されておらず、ディーゼルカーだった)である。
 一応特急列車だが、単線のことゆえ、本来の停車駅ではない駅で「行き違い待ち」があった。
 相手のせいか、こちらのせいなのかわからないが、すこし遅れが生じた。
 当然乗り継ぎが発生する駅でのアナウンスは、その時間を計算して案内されるはずである。
 ところが、弘法も筆の誤りか、乗り継ぎ電車の発車時刻が到着時刻より早いアナウンスがされていたことに気が付いた。
 何ともなしに聞いていたのだが、二度アナウンスされたので、間違いなかった。
 僅か1分の間違いなので、誰も気にしなかったのか、それとも「良くあること」だったのか判らないが、正直「エッ」と思ってしまった。
 でも、思い起こしてみると、自分が直接遭遇した訳ではないけれど、確かにそんなことは以前にもあったような気がする。
 決して誰彼を攻める訳でもないし、それで誰かが直接迷惑を蒙った訳ではないので、楽しかった旅の最後の笑い話である。

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投稿者:つねちゃん
at 06 :42 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月20 日

島根旅行(4)

 楽しい同窓会も終わり、心地良い朝風呂で気分一新し、バイキング方式の朝食を摂って、ホテル内でのお土産も見繕って、みんなと別れて、今日はレンタカーでのドライブである。
 目的地は、先ず世界遺産になった石見銀山、以前一度訪れたが、家内の希望で足立美術館と水木ロードの境港である。
 結果から言うと、石見銀山を散策して車に戻ったところで土砂降りになった。そんな中を足立美術館へ向かったのだが、知らない道でもあり、土砂降りだったこともあって、随分遅くなったので、境港はパスした。
 でも、雨に祟られなかったことに充分感謝である。
 で、今日の話題だが、同窓生の中には石見銀山などへ路線バスを使う人もいらっしゃったのだが、多少経費的には高くなり、身体的にも疲れるのだが、私はレンタカー利用派である。
 路線バスは、あたかも「無駄なくそこへ行く」ということから、デジタル辞書のようである。
 その点、レンタカーは、ナビが付いているとは言うものの、寄り道や回り道を楽しむことが出来、予定外の標識などを見ると、「一寸だけ」と立ち寄ることも出来る。
 また、今回もそうだったが、「道の駅」でその土地の名産や珍味などの購入も出来、思わぬ「拾い物」に出会うことも楽しみの一つである。
 ホテルやみやげ物店でもお目にかかれないような安価で私らにしては珍味と思うものが結構ある。
 最近字が小さく、重くなったのでアナログ辞書は隅に追いやって、国語辞典や英和辞典、漢和辞典などはすっかりデジタル辞書に頼っているが、運転が出来る間は、アナログの旅を楽しみたいと思っている。
 勿論、交通安全第一であり、今月も21日から秋の交通安全旬刊が始まり、当番で街頭指導に立つ身なのだから、事故だけは起こさないように。
 少しくらいの速度超過は、マァ良しとするか。

投稿者:つねちゃん
at 07 :57 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月19 日

島根旅行(2)

 同窓会は、夫婦同伴(私もそうだった)組みが、今までよりも多い10組で多いに盛り上がった。
 全体では4組みあったのだが、2組合同での会である。
 残念ながら、私のクラスの担任教官は既に故人だが、もう一組の担任教官は78歳で、まだ現役だとのことである。
 この前に金沢での会のときも参加いただき、今回も直前まで参加の予定だったが、残念ながらどうしても外せない事情があっての欠席だった。
 メッセージが届いていて、幹事が読み上げて紹介されたが、先生の日頃を髣髴とさせる思いが込められていて、大いに感心した。
 各地域毎に、各自の近況報告がなされ、ボランティア活動、農業従事、趣味の世界、ゴルフやテニスの継続活動などなど、糖尿などの心配は各々持ちながらも、ここに出てくるのは精神的健康の証とばかり、自慢げに満足しての紹介だった。
 一次会もそろそろ酣(たけなわ)で、次回開催場所は信越と言うことに決まり、次回の世話役などの紹介になったが、在信越者は僅か1名だけで、それ以外の4名は在関東だった。 しかしながら、元々はみんな通信屋だったのだから、通信は距離を克服する、と言うことで、協力して取り組むとの意気が示されたのは、何とも心強い。
 その次は卒後50年、ということが提案された。
 後8年後であるが、私の年代が一番若いのだが、それにしても古稀を完全に超えた年齢である。
 果たして参加できるのか、という疑問はあるが、精神的健康は勿論だが、メタボながらも肉体的には参加できるだけの健康を維持したいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :49 | 旅行記 | コメント(0 )

2012 年9 月18 日

島根旅行(1)

 在職中の研修所で2年間「同じ釜の飯を食って」過ごした同窓会が島根の玉造温泉で行われ、家内共々参加した。
 久し振りの「電車利用」の旅行だったが、随分と変わったものだと驚いた。
 一つは「全車両禁煙」だったことである。
 嫌煙もここまで来たか、と言う感じだった。
 在職中はヘビーではなかったと思うが、ほぼ1日に1箱の愛煙家だったし、出張がかなり多かったので、当然電車内でも喫煙していた。
 そのうち、少しの持ち出しでグリーン車に乗れることがわかり、初めのうちはグリーン車だけは禁煙だったが、そのうちに喫煙できるグリーン車が現れたので、広々とした席でパソコンと向かい合いながらだけれども、喫煙しながら仕事が出来た。
 禁煙の時でも、デッキには灰皿も備えてあったので、そこで吸う事が出来たので「全車両」という訳ではなかった。
 喫煙の習慣を止めてもう10年以上になるが、愛煙家の気持ちは判らぬでもない。
 なんだか可哀相な思いである。
 それともう一つ、驚いたのは、これも在職中E電(まさに死語だろうが、現在はどう読んでいるのだろうか、よく知らないが「国電」のことを一時期こう読んでいた)で試験採用されたけれど、結局ボツになったと聞いている「女性専用車両」に準じたのか、「女性専用席」と言う物が設置されていた。
 女性専用車両は今あるかどうか知らないが、痴漢防止対策だったという噂を聞いていて、納得したのだが、専用席は何が目的なのだろうか。
 席の数としては8席だけなのだが、その目的と効果はどうなのだろうか。
 いずれにしても、「時代が変わりつつある」ということは、行動範囲を広くして経験しないと判らない、ということが判ったのも楽しいことだった。 

投稿者:つねちゃん
at 06 :20 | 旅行記 | コメント(0 )

2012 年9 月13 日

「期待」は良いが「し過ぎ」はやっぱり駄目だろう

 もうとっくに時効だが、小学生時代から、中学生、高校も余程「必須」でない限り、夏休みの宿題や課題と言う物は、殆ど完遂したと言う記憶が無い。
 高校は、発・送・配電と言う科目が、「それをやってこない限りは、この科目は落第」と言われ、それが先輩でも適用されたと聞いたので、仕方なく、形だけは「やったこと」にして提出した。
 そんな記憶の中で、今年から小学生になった下の孫と一緒に頭の3年生の孫も、夏休み完了前の登校日にはすべて提出したようで、それなりに喜ばしいことだった。
 頭の孫は、観察日記で優秀賞を貰い、下の孫は絵を描いて優秀賞をもらってきたので、これは「鳶の孫が鷹になった」のではないかと、ほんの少しだけれど思ったのは、爺馬鹿の最骨頂ということだろう。
 でも、これからの伸びについては、別居の内孫についても同様に「何かの才能」が発揮されるであろう将来に大いに期待したい。
 しかしながら、決して言わないことがある。
 「貴方はこれが上手だから、将来はこれを生かすようにしたら」と言う言葉である。
 それは「期待し過ぎ」と言う事になり、言い続けると、本人にとっては「重荷」にしかならないということだと思うからである。
 「良く出来たね」と言う褒め言葉で、現時点では、言った方も言われた方も満足しているのだから、それで良いと思っている。
 何かの拍子に、大人気を博して、マスコミなどに追いかけられるほどの人気者になった(ノー)タレントが1年もしない内に消え去ったことは、枚挙に暇が無いだろう。
 これと同様というと失礼かもしれないが、現在、大いに人気を集めて、言われた方も「有頂天」になっている方々がいらっしゃる。
 果たして、一時期の現政権がそうであった様に、数年後どういうことになっているだろうか、贔屓の引き倒し、という言葉もある。
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投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 子育て | コメント(0 )

2012 年9 月12 日

封じ手

 将棋の世界には「封じ手」と言うのがあるそうだ。
 最近いろんなところで「世論調査」と言うことがなされるが、そのうちの一環だろう「原発依存度」の調査があった。
 「三つの中から選べ」と言う事だったから、どれだったらどういう対策をとろうという「封じ手」があつたのではないだろうか。
 勿論、それを最初からオープンにしたのでは「誘導」と言うことになるから決してやるべきではないが、期日が来たらオープンにすべきだったのではないだろうか。
 将棋自体は、今では殆どやらなくなったが、今でも新聞の棋譜は将棋ソフトで記録して、時折再現して、プロのやることだから、判らない差し手ばっかりなのだが、それでも楽しくひと時を過ごすことがある。
 単身赴任時代に、寮生と対戦して、それなりに戦ったことがあるので、当時は然程弱くは無かったのだと思う。
 将棋で、絶対に勝てるハンディ、と言うのがあるのをご存知だろうか。
 3手だけ先に差させてもらう事である。
 角先の歩をあげて(1手)、相手の歩を取り(2手)、王将を取る(3手)である。
 それはさておき、将棋の世界では、「3手、先が読めれば、相当強い」と聞いたことがある。
 それと同様に、今回(ばかりではないのだが)の調査のように、予め答えが3種類しかないのだから、そうなったらどうするくらいの「先読み」が用意されていて、結果が出たところでオープンにすべきであろう。
 結果が見えて、それが想定外だったら、封じ手を変更するような体たらくでは、何のための調査だったのか、やられた方も判らないが、やっている方も判らなくなってしまっているのではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 10 :03 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月11 日

政治報道のいい加減さ

 これを書くときまでには、日韓、日中の領土問題はどうなっているだろうか。
 (テーマを思いついたのが夏休み期間中だったのでこのような書き出しになっているが、残念ながらどちらも良い状態にはなって居ない様である)
 オスプレイの問題や原発の意見集約や解散はどうなっているのだろうか、全く凡人には計り知れない。
 しかしながら、このテーマを書くきっかけになったのは、如何に政治報道がいい加減であるかと言うことであった。
 何も「大本営発表」だけを報道しろとは言わないが、揚げ足取りや挑発することで、政治家から不規則発言を待つような質問攻め。
 いかにも自分だけが「民衆の代表」的な発言をするなどは、聞いていて極めて不愉快にしか思えない。
 挙句に、以前と同じ主張を聞くと「新味無し」、少しでも違った発言だと「方針にぶれが」と。
 「秘策は何ですか」と聞くのがあたかも正論のように声高に叫んでいるのは、みっともないだけだろう。
 政治家も政治屋なら、報道に携わる人はそれよりも以上に自分を確立すべきではないか。 そのためには、もっと一般常識は勿論、少なくとも扱う案件に関する周囲状況を自分で充分に咀嚼してから臨むべきだろう。
 そうすれば「秘策は何ですか?」と言うような質問は絶対に出ないだろうし、揚げ足取りのような一方的な報道はなくなるだろうと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :57 | ニュース | コメント(0 )

2012 年9 月10 日

アナログ辞書との決別

 持ち運びが便利と言うことで、在職中から電子辞書は常に鞄の中に入っていた。
 リタイアしてからは、持ち運ぶ必要がないから、広辞苑や新英和大辞典、漢語林などの大型のアナログ辞書を愛用してきた。
 ところが、段々「重さ」が応えるようになり、ついで文字が小さくて点眼鏡が必要になってきたことなどから、机の上の整理を契機に決別することにした。
 しかしながら、長い間使ってきたので愛着もあり、目の付かないところに仕舞い込んでしまっただけではあるのだが。
 それにしても、基本的にはアナログ辞書の方が好きである。
 デジタルは、上記にあるようなアナログ辞書の欠点「重い」「字が小さい」と言う点を確かに解決してくれるのだが、「ピンポイント」と言うことで、それだけしか目に入らない(入れない)ようにしているのである。(注)
 アナログ辞書の場合、調べようとしている単語などの回り、其処へ行きつくまでの間に「寄り道」ができる(誘われる)事が何とも楽しい限りである。
 そんな中で、時々「エッ」と思うような単語やフレーズに会うと、散歩をしていて、思いがけない事物に出会ったような気がしてならないのである。
 私の場合、本来調べることよりも、そちらに気がとられて回り道的な時間を過ごしてしまうことが、今でも間々ある。
 だからこそ、在職中はそれを避けるためにデジタル辞書にしたのである。
 決別したとは言っても、捨てられない、のはやはり天眼鏡を使ってでもその楽しみを断ち切るだけの気持ちの整理が出来ていないからだろう。

(注)「入る」と「入れる」で常に思い出すことがある。昔は「穴があったら、入れたい」だったが、今はそんな昔のことを思うだけで「穴があったら入りたい」である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :59 | 学習 | コメント(0 )

2012 年9 月7 日

嘘つきは巧妙に

 このブログを書くときには、全て公開されていると信じたいが、東電の事故時の会議模様である。

 残念ながら、私の知る限りでは、会議模様の好評が1ヶ月間に伸びたことだけしか進展がないようである。

 弁護士という人が、色々な理由をつけて一部を隠していたのだが、すべてを明らかにしない限り「原発撲滅」の嵐は止まないだろう。
 
 それにしても、今だから言えるけれど、私も在職中に軽重を問わず、色々な嘘をついてきた。
 だからこそ、部下や同僚、場合によっては上位職にあるプロジェクトリーダーの嘘は良く見抜くことが出来た。
 そんな時、よく言った言葉に「直ぐにばれるような嘘は吐(つ)かない」だった。
 大分経って「あの時は上手くごまかされたナァ」で済ませられるような嘘を吐いて欲しい物である。
 最近は「一億総評論家=総白痴化」で有象無象の輩が、聞きかじりの知識をさも「これが正義」とばかりに振り回すのだから、相手をするのにも骨が折れるだろうが、逆に質問の一つ一つに丁寧に答えることで、相手を論破できることだろう。
 2030年には原発を0にする、と言う世論はあるが、私個人としては、節電にはこれからも努力するけれど、高校時代に僅かながらも発・送・配電を学んだことから、残念ながら資源の乏しいわが国では必要なのだろうと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :41 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月6 日

感謝は「八百万の神仏」へ

 殊更信心深い訳ではないが、毎朝起きると、1年で1枚の暦に「昨日も無事に過ごせました、今日もまた一日よろしく」と言う意味で、それを声に出しながら昨日の日付に丸印をつけることにしているのは、既にご紹介した。
 8月も終わり、1年の2/3が丸印で埋め尽くされている。
 始めた時は然程にも思わなかったが、ここまで来ると「何とか一年過ごせますように」と言う気持ちが湧いてくる。
 ところで、何気なくやっていることだが、丸印をつけるのは、やはり「感謝」と言う事の表れなのだろうと、今更ながら気が着いた。
 それでは、誰に感謝するのか、また、何に感謝しているのだろうか、となんだか昔研修所時代に半年ほど習ったがまるで身に付いた記憶が無い「哲学」と言うような世界に入ってるような気がする。
 我が家には、仏壇も神棚もあり、父が存命中はその世話は殆どすべて父が主導でやっており、時折私と家内が盆暮れの仏具磨きと、暮れの神棚掃除をやっていたくらいだったので、然程信心と言うような気持ちはなかった。
 父を見送ってからは、リタイアしていたこともあり、その分を私が引き受けることになった。
 少しだけかじってみると、神様や仏様と言うのは、数知れずいらっしゃるということだ。
 それぞれに、色々なお役目があるようなので、どうも一つや二つに絞りきれないし、そうすると「片手落ち」どころか、千手観音などになれば、殆ど漏れてしまうことになる。
 果たして「八百万」で済むのかどうかは定かではないし、それを挙げつらなう事もできないのだが、兎も角基本は「今日、元気に生きている」ことに対して、すべての神仏に感謝である。
 尤も打算的なのは、口だけの感謝ではお金も要らないのだから、気が楽だと言うこともあるが、これでは罰が当たるだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 07 :03 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月5 日

お掃除ロボット

 最新の家電を紹介してくれる番組が好きである。
 今やPCも家電の一種であり、主夫も10年を過ぎると、白物家電のほかの家電にも興味が出てくるし、コンピュータと照らし合わせれば、ユビキタス時代にもその知識が必要になってくるから、学習もあるが、何しろ楽しい。
 先日、表記の商品が紹介されていて「これは買いだな」と瞬間思ったけれど、直ぐに駄目だと判断した。
 男性諸氏は大概経験がおありだろうが、「掃除機の邪魔」な存在になったことが。
 リタイアして以来、週1回の掃除は私の役目になった。
 最初のうちは「嫌々」だったから、自分でも後でわかるくらい「四角い部屋を丸く掃く」状態だった。
 ロボットは確かにしっかりとしたセンサーに寄り、確実に綺麗にはしてくれるが「邪魔な物を除けて、掃除した後で元へ戻す」ことはしてくれない。
 結果「四角い部屋を丸く掃く」ずぼらな道具でしかない。
 どうもこれは、奥方様から「掃除の邪魔だ!」と怒鳴られたことのない、その癖桟を撫ぜて埃を探すような潔癖症の男性が考えた道具ではないだろうか。
 また、その製品に女性の意見を全く取り入れない、男性社会(会社)の製品ではないだろうか。
 残念ながら「四角い部屋を隅々まで、掃除するために、そのとき退けて、終わったら元の所へ置いてくれる」くらいの機能がなければ、捨て去られる道具でしかないのだろう。
 「思いついたら直ぐにやってみる」と言う事は大切だが、考え足りないという指摘に耳を貸さない、と言うのは、一時期私等が馬鹿にした「パソコンボーイ」の域を出ていない物作りになっている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :55 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年9 月4 日

「報道番組」も「娯楽番組」

 先日偶々重なったのかもしれないが、複数の報道番組で、「この事は決して忘れてはいけないことです」と言う趣旨の発言に出会った。
 政治の問題と事件の問題だったと記憶するが、そのとき思ったのは、明日もこの話題を取り上げてくれるだろうか、いやいや、何らかの解決がなされるまで取り上げ続けてくれるだろうか、と思って、ある意味での期待感を持って見続けたのだが、残念ながらかけらも話題にならなかった。
 結局「人気取り」と言う意味での「娯楽番組」なのだと今更ながら思い知らされた。
 果たしてこれでいいのだろうか。
 コメンテーターとかパーソナリティーとか、カタカナの意味不明な「話し手」が、その時だけ熱っぽく語ったとしても、明日には全く違った事件などだけを取り上げていて、何か目新しいことが起きた時だけ、「(忘れていたことを)思い出して」熱っぽく語っても、果たして真にその問題の解決を目指しているのだろうか。
 そんなことを、今更ながら思って憤る私が馬鹿なのかもしれないが、なんだか芯が通っていない、現在の議員さんの態度に通じる物があり、苦々しい。
 しかしながら、いつも思うことは、自分も含めて「この国民にしてこの議員あり」と同様に、「この視聴者にして、この番組あり」と言うことであれば、それを見ている私の責任も全く無い訳ではなかろう。
 いわば「天唾」なのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 07 :23 | 健康 | コメント(0 )

2012 年9 月3 日

「来年」はあるのだろうか

 今までは、何の疑問もなく「今回はこうだったから、来年はこの轍を踏まないようにこうしよう」という事を言って来たり、やって来たりした。
 でも、最近「待てよ」と言う気持ちになることが時々ある。
 まだまだ平均年齢というまでには20年近くあるのだが、あくまでも「平均」だから、それより長い人がいれば、当然短い人もいるのである。
 自分がどちらか知る由もないが、そんなことを思うと「来年」は果たしてあるのだろうか。
 さりとて、今でも「それなり」に努力はしているつもりで、いろいろなことをしているつもりである。
 だけど、決して「背水の陣」的な境地ではないので、「今日は今日、明日は明日の風が吹く」的に反省を加えながらも「来年」に期待する毎日であるのも、それなりに楽しいことではないだろうか。
 この事は、何も「来年」で無くても「明日」「今度」と言うのも同じことである。
 決して、悲観的に考えるのではなく「明日」「今度」「来月」「来年」と言えること自体がまだ希望があると思えばいいのだろう。
 まだまだ「来年はこうしよう」と思いながら毎日希望を持ちながら過ごして行きたいものである。
 むしろ、それがなくなることが、本当の「老年」になるのだろうから、せめて意識があって生きている間は「来年は」と思い続けたい。
 でも、一抹の不安を持ちながら、出来るだけ健康に。なぁ、ご同輩諸姉・諸兄よ。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 09 :34 | 健康 | コメント(0 )

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