まだ「遺言状」ではないけれど
最近見たTV番組で「エンディングノート」と言うのがあった。
両親ともに「遺言状」などと言うものは書いてなかったのだが、そのことで然程苦労した訳ではないが、やはり気に停めたことは記しておいた方が良いのだろう。
その番組では、色々なヒントを言っておられたが、どうも今一つピンとくるというか、琴線に触れるものがなかった。
ということは、財産だってそんなにある訳ではないし、必ずしも必要で残しておくほどの骨董品などもある訳ではない。
そこで思い出す言葉が「三代目は家をつぶす」と言うものである。
初代はいわゆる「裸一貫から『家』を確立する努力をして、二代目に引き継ぐ」。
二代目は、その親の背中を見て育っているので、それを超えないまでも、必死に努力して、先代を取り巻く人たちから揶揄されて先代を恥かしめてはならない、との思いで頑張る一方で、次代の子にはそんな苦労を掛けたくないと思って、甘やかす訳ではないだろうが、それなりに保護することになるのだろう。
三代目は、そんな保護環境で育つから、ある程度までは無茶が許される、という思いで活動する結果、初代の努力や二代目の頑張りまでには思いが馳せないで、結果として財産を使い果たしてしまう、ということなのだろう。
でも、これは「家」としての資産の継承ということなのだろうから、初代も二代目も職業こそ違うものの、サラリーマン生活だったのだから、さほど「ねばならぬ」と言うものもない。
従って、三代目の私にも「言い遺す」ほどのことがなくてもさほど気にすることはないのだろう。
葬儀の件など、気軽にエンディングノートの準備をしておきたいと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 09 :01
| 日記
| コメント(0 )
生ごみ乾燥機
昨年暮れのことだから、もしかしたら以前に描いているのではないかと、それなりに捜したが、投稿はしたけれど、このブログに書いて無い様だったので、お気づきの人からは「ダブっているぞ」と叱責を受けるかもしれないことを覚悟しながら書かせていただく。
今までの「チップ式」から「乾燥式」に交換したのである。
チップ式のものは約半年に一度(長く持ったのは9カ月持ったことがあるが)チップを交換しなければならず、いわゆるランニングコストがかかるのである。
交換したチップは堆肥として活用できるのだが、中に入っているバクテリアなどの効果が、そのままでは強すぎて、実際に堆肥として使うには、取扱説明書によると、約3カ月程度は「寝かせ」て置く必要があるという。
また、その交換が、結構大変な作業である。
一旦全てを掻き出し、まだ未消化のものを選別するために篩(ふる)って、新しいものだけでは標準量に達しないので、篩ったもので標準量にまでにする必要があるのである。
畑にすぐには撒けないので、寝かせておくのだが、ネズミやカラスや獣などに食いちぎられないようにしておかなければならない、と言う苦労もあった。
新しい「乾燥式」ものは、まだ使い始めて半年にもならないから、あまりほめ過ぎても駄目だが、同じことは最後の「被害」である。事実、カラスに食いちぎられたので、物置でも鍵のかかる場所に置くことにした。
これは「寝かせ」のためではなく、乾燥しきって量が少なくなる(尤も機械の中にそのまま置くほどではない)ので、ただ「貯め置き」のためである。
乾燥したものをバケツでポンと捨てるだけでいいし、未消化でまだ生々しい物などはまず無いから、掃除も楽である。
ヒーターを使うので、電気料が心配になったけれど、今のところ目立って増えていることもないようだ。
春になったら、堆肥として使えるのだが、乾燥し過ぎて、量がそんなにないのが悩みと言えば悩みか。
贅沢な悩みである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :21
| 健康
| コメント(0 )
パンツは脱いで寝る
自慢じゃないが、まだ「朝勃ち」はする。
勿論「小便までの命」だけれど、それでも、やはり「まだ今日も元気だ」と僅かだけれど、実感する、と言うのが本音である。
しかしながら、流石に「夢精」をすることはない。
だから、数年前から、何かの健康法ということで紹介される記事だったかTV番組だったか忘れたが、それを契機に始めてもうだいぶん経つ。
だからと言って「勃っている」ということではないのだろうが。(ダジャレ)
でも、始めた頃は、確かに寝ている時の腰回りの締め付け(さりとてもちろんパジャマだから、そんなにきついものでは毛頭ないのだが)から解放されている、という感じが肉体的にも精神的にも安堵感をもたらしてくれたようで、なんとも楽しい気分だったことを覚えている。
尤も、こんな「健康法」と言うものを意識していなかった在職中も出張でホテルに泊まる時には、パンツだけではなく、殆ど全裸で寝ていたからそのことも考えあわせると、ずいぶん長い間続けてきていることになる。
「朝勃ち」が続いているということが果たしてその成果かと聞かれれば、「そうだ!」と言うほどの自信はないが、決して悪いことの要因ではないのではなかろうか。
前にも書いて紹介したが、今年もカレンダーに「〇」を付けることは継続している。
その証の一つになっていることは、やはり何となく気持ちが良い。
諸姉にはお薦めすべきものかどうか判らないけれど、諸兄には是非ともお勧めしたい。
決して卑猥な考えがあってではなく、結果として卑猥な行動につながれば、それは私の責任ではないが、それにつなげられること自体は、やはり健康の元、だと考えれば、それはそれで…。
投稿者:つねちゃん
at 07 :01
| 健康
| コメント(0 )
出生率向上に台湾を見習え
「子は国の宝」とは昔から言われていることである。
中国の「一人っ子政策」の弊害がいろんなところで顕在化している。
いろいろな政策はとられているのだろうが、この際「ピンスポット」的な取り組みとしてもいいのではないだろうか。
「あれもこれも」ではなく、幾つかに絞って「真剣に」実施するとして、その中に「出生率向上」を盛り込んではどうか。
決して「即効性」ではないだろうが、確実に必要なことなのだから。
最近の報道によれば、台湾での出生率が格段の向上を見せているとあった。
その対策のうち、育児の関するものや出産費用補助などの幾つかはわが国でも行われているのだろうが、結局「中途半端」なことにしかなっておらず、実を結んでないというのが現実ではなかろうか。
太古の昔からの「今どきの若いものは」と言う老人の愚痴ではなく、上記のように「ピンスポット」としての対策に注力してみてはどうだろうか。
確かに、色々な課題はあるだろうが、聞いている話で「産めよ増やせよ」と言う戦時中の「戦力増強のため」の政策ではなく、将来の我が国の活力(これは決して相手国を脅かすという意味ではなく)を充実させるためのものであることを念頭に置いて、取り組むべき、先生方が良く言う「喫緊の課題」だと思うのだが。
年配の方も、最近は「歳の差婚」ということが増えているそうだし、私の大好きなウィスキーの銘柄の元になっている、オールドパーに肖って、率先垂範してみてはどうだろうか、と、種無しブドウのロートルは思うばかりである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43
| 健康
| コメント(0 )
マンガ総理の本音
かつての総理大臣だった人が、「平大臣」として復帰なさったが、本音は変わらないし、言うべき場所も、全く反省の色が見えないのは、やはり「何とかの七光り」でしかない「ぼんくら大臣」なのだろう。
「年寄りがさっさと死ねるような政治を」と言うような発言をかつてのマンガ総理がなさったことだ。
その後「あの部分は撤回します」とのことだが、何も撤回することはなかったのではないか。
「失言」ではなく「本音」だったのだろうから。
また、そんな人を選んだのが国民だったのだから。
なにも「カッコ付け」だけの発言ではなく、本音でなされるべきだろう。
人から指摘されたり、揶揄されたからと言って引っ込めるような発言「そんな発言『だけしか』できない」をする人を国民が選んだのだから、どんどん「本音」を言ってもらおうではないか。
でないと、かつて「総理大臣」になって非難された人の多くがそうだったように、そんな人を権力のトップに座らせたという国民の常識が治せなくなるだろう。
そのたびごとに「選挙だ、選挙だ」と賑やかに言って、税金をジャブジャブ使われたのでは、堪ったものではない。
そんな人には、どんどん今のうちに本音を言っていただいて、「私はこうなんです」と主張してもらったうえで、選挙に出ていただこうではないか。
当選してしまってから、「実は私の考え方はそうじゃないのです」と言われるより、よっぽどましだと思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
| 政治への注文
| コメント(0 )
ふかひれ料理
世の中には、ナント「嘘つき」が多いかを知らされる記事だったし、「味音痴」にもかかわらず「食通」と言う輩が多いのかにも気が付いた記事だった。
こんなやからには「酢豆腐」でも食わせておけばいい。
高級食材であるとの「ふかひれ」の殆どが「偽物だった」という報道があった。
また、「ふかひれを取った鱶は海に帰す」と言う報道もあった。
どれだけ信憑性があるかは知らないけれど、私の様に「食材音痴(ただ日本酒だけは違うと思っているが)」の人間でも、かつて「高級ふかひれ料理」と言うものを食べた思いがある。
招待だったので「これがあの評判高いものですかぁ」と驚きと感激の声を上げたが、正直なところ私の口に合う(価格も含めて)ものではなかった。
あれも多分偽物だったのだろう。
テレビ番組は録画して観ることは何度か紹介したが、食べ物や貴金属類などの品定めをして、価格を決める番組があるが、その部分は必ず飛ばすことにしている。
日本酒については、それなりに一家言持っていると思っているが、それとても、あまり人には吹聴することはない。
色々な酒蔵で、経験を積んだ杜氏が精いっぱいの努力をして作り上げたものである。
口に合うか合わないかはあるかもしれないが、賞賛こそすれ、非難などは決してすべきでないと思っている。
釣りは好きで、いわゆる外道も釣り上げたものは持ち帰って、感謝しながら戴くことにしている。
返された鱶は、その後ひれが回復するのだろうか。
何ともやりきれない話である。
鱶にも人にも。
投稿者:つねちゃん
at 08 :18
| グルメ
| コメント(0 )
散歩で見かけたタンポポ
諸姉・諸兄は刺身のつまとして乗っているものをお召し上がりになるだろうか。
雪の晴れ間、散歩に出かけた。
大寒が過ぎて、天気は良いけれどまだ指先が悴むほど寒い。
そんな中で、黄色いタンポポの花が目についた。
それから思い出すのは、食い意地の汚い奴と言われようが「刺身のつま」になって出てくる黄色い菊の花である。
私は基本的に「刺身のつま」は残らず食べる方である。
大根や人参、パセリなどが色鮮やかに添えられるのは、「目で食べる」ということでもあろうか。
ところが、最近スーパーなどで売られているものには、プラスチック製のものが時折ある。
刺身のつまは、消化を良くしたり、解毒作用を持ったりする「立派な食物」なのだと聞いたことがある。
是非とも、生のものを使ってほしい。
保存方法で課題があるとすれば、別包みにしてでもつけてほしいと思うのは勝手なのだろうか。
決して「腹の足し」になるほどの量ではないが、和食には、口で味わうだけではなく、目でもしっかりと味わい、そのうえで僅かかもしれないが、健康にも良いということがあると聞く。
刺身のつまはやはり「生もの」であってほしいし、食べる方も「残さず」食べるようにしたいものだと、散歩の徒然に思った。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
| 健康
| コメント(0 )
橋下市長の茶番劇
過ぎる16日は「禁酒の日」だったそうだ。
起源は「米国での禁酒法」が制定された日だとか。
過去を振り返ってみると、これも大きな茶番劇だったのではないだろうか。
今回の大阪の高校の悲劇である。
体罰問題で市長が学校に乗り込み、説明したという。
生徒代表が、多分事前にいろんな人からアドバイスを受けて発言した(というか作られたセリフを喋らされた)という。
多分市長は、説明の最後に「どうか忌憚のない意見を言ってください」とでも言ったのだろう。
市長も学校も、教育委員会もぐるになって、生徒代表を抱き込んでの茶番劇としか見えない。
これで残るのは、在校生には運動での進学が絶望的になったこと、新入学を予定していた人や親たちにも同様な絶望感を与えたことだろう。
私だって具体的な意見はないけれど、もっといろいろな議論を重ねるべきではなかったろうか。
禁酒法の結果生まれたのは、アル・カポネを代表とする地下組織としてのギャング団だったろう。
権力で押さえつけられて、そのまま引っ込む様なことは、私の様にあまり歴史に詳しくない者でも、容易に推測できる。
政治家としては、もっと広範囲に時間をあまりかけずに熟考して、調整もして結論を出すべきだろう。
投稿者:つねちゃん
at 08 :01
| 政治への注文
| コメント(0 )
怒る前に考える
わが家では、ストーブ用の灯油タンクに汲み置きしておいて、いつもはそれから給油しているのだが、当然空になった状態に出くわすことがある。
家族でそれができる人は数人いるので、お互いに申し合わせているで、次の人が困らない程度には残しておき、足りないとわかったらその時点で満杯にしておこう、と。
今朝、入れようと思ったら、半分程度で空になってしまった。
「あれほど申し合わせたのに」と腹が立ったが、そこで今年の行動指針に気が付いた。
自分はそんなことにしたことが全くなかったのか、凍えるほどの寒さではないのだから、次の人のために満杯にしておけばいいじゃないか、と。
最初の単身赴任時、トイレにあった落書きを思い出す。
「次工程は自工程」、在職中はそれを行動指針にしていた。
尤も守られていたかどうかは、他人が判断することだろうが。
今でも、できるだけこのことは守りたいと思っている。
わが家では、個食で、朝食は一人ひとり食べるものが違うのだが、最終的に食器を洗い片付けてくれるのは、家内である。
口に出しては言わないけれど、そんな時のために、特に好物の納豆を食べた時には、味噌汁の上澄みで丁寧に粘り気を落として、片づけることを励行している。
これも自分が単身赴任の時に経験したことで、お茶や水で後で洗おうとしても、なかなか粘りけが落ちない。
味噌汁は納豆と同じ大豆だということがあるかどうかよくは知らないけれど、私の経験則からすると、結構きれいに落ちてくれる。
勿論、だからと言って、洗う段になって全く粘りけが残っていないか、と言われると、決してそうではないことは知っているのだが。
でも、そこは「気は心」でやり続けたいと思っている。
そうすれば、怒る原因が一つだけでも減るのだから。
投稿者:つねちゃん
at 06 :52
| 日記
| コメント(0 )
母校が表彰
卒業後、同窓生としてほとんど何もしていない身の上だが、それでも母校の良い知らせが新聞などで報じられると、人並みに嬉しいものである。
先日、母校が「キャリア教育優良学校」として表彰を受けたとの記事を目にした。
工業高校だったので、基本的には「専門技術者」を目指しているのである。
ところが、その専門以外に、同じ学校でやっている別の専門科目の授業も知ってもらって、幅広い知識を身に着けて、より一層実社会に出た時に役立ててもらおう、ということなのだろう。
理解は少し違っているかもしれないが、趣旨には大いに賛成である。
でも待てよ、私らの世代(今から約50年前)は、表彰などされなくても同じようなことがなされていたのではないか。
私は「電気科」だったが、木工科の授業で「鉋(かんな)掛け」がほろ苦くも懐かしく思い出される。
約5cm位の厚さ板を渡されて、鉋を掛けて水平な面にしろ、と言うものである。
少し削っては、金尺を当てて調べるのだが、中々水平な面にはならず、ようやく教官から「まぁ、良いだろう」とのお許しを得た時には、厚さが1cm以下になっていた。
機械科の授業でも同様に、旋盤を使って指示された直径の円柱を作るのだが、太すぎたり、細すぎたりと何度もやらされた。
窯業科では焼き物、金工科では金型作りから鋳物の形成など、結構色々なことをやらされた思いがある。
決して「嫌な思い出」ではなく、私の場合、実際にそれを使うことはなかったが、「そんなことをした」ということが話の繋ぎになったりして、お客様との会話がうまくゆき、商売に少しばかり役だったように思う。
山中鹿之助ではないが、若い時の色々な経験は、必ず後で生きてくる。
そういう意味で「艱難辛苦我に与えよ」という意気込みを常に持ってほしいし、私自身もまだまだ65の洟垂れ小僧であるから、その意気込みだけは持ち続けたいと思う。
投稿者:つねちゃん
at 06 :59
| 日記
| コメント(0 )
今年の行動指針 「動かす」
今年の行動指針の最後である。
何も天下国家を「動かす」などと言う大それたことは考えていなくて、ちっと気を付ければできることである。
「指を動かす」今までもやってきたことの継続だが、朝起きたら、幾種類かの書物の「書き取り」をやっている。今までも、「いろは」から始めて、「以呂波」「般若心経」「歎異抄」「論語」「正信偈」等々いろいろなものを手掛けている。利き手の右だけではなく、左手でも同様なことを続けている。
指先を動かすことは脳の活性化につながると聞いていて、これならお金もさほど時間もかからずできることで、ボケ防止にもつながるし、漢字だけでなく「文字」と言うものにも興味が増す。
「口を動かす」これも継続事項であるが、上記の書き取りが終わった後で、色々な本を「音読」して口を動かすことである。いい加減に読んでいた単語が、読み方が違っていたことに気が付いたり、全く違った意味でとらえていたりしていたことを辞書とともに改めて正しく認識していくことは、なんとも楽しい。
最後は「足を動かす」である。リタイアし、父を送った後は、まだメタボの症状は出ていなかったものの、就職以来殆どこの地のことを知らなかったことに気が付いて、歩き回ることでいろいろな発見をしたり、旧知の友人にも会うことができた。身の回りの自然の花をはじめとした景色も、「こんなに素晴らしいものだったのか」にも気づかされた。
それが一通り回りきると(それでも3年くらいは継続して楽しんだのだが)何だかマンネリしてきて、ずいぶん中断していたのだが、メタボの解消とまではいかないけれど、現状維持程度にはしたいと思いながら、散歩による「足を動かす」ことに努めたい。
決して「人のため」にはならないことばかりだが、凡人は凡人としての行動指針である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :28
| 健康
| コメント(0 )
今年の行動指針 「四苦八苦」
「四苦八苦」はどなたもご存じの言葉だろうが、なぜこの言葉を今年の指針に選んだのかと言うと、できれば毎日感謝し続けたい、と思ったからである。
何故、なにゆえに「苦ばかり』なのに感謝するのだ、と訝られるかも知れないし、場合によっては、罵声を浴びるかもしれないのだが、それでも考え方を説明すれば判って貰えるのではないだろうか。
「四苦」はご存知の通り「生」「老」「病」「死」の四つの苦である。
「生きてゆく、生活してゆく」ことは楽しいことでもあるが、そこには避けて通れない「苦」もあるだろう。「老」も「正月や/冥土の旅の/一里塚」と言うように避けがたい苦しみである。「病」は「一病息災」と言ってみても、所詮は「苦」である。「死」も同様に、最大の苦でもあろうか。
八苦のあと四つは「愛別離苦」好きな人や物との別れ、「怨憎会苦」憎たらしい人や会いたくない事象にも会わなければならない、「求不得苦」求めて求めても得られないそして最後は「五蘊盛苦」考えていること(薀)と行動していること(盛)が一致しないもどかしさである(と私は思っているが、理解によっては違っているかもしれない)。
毎日がこの様な「苦」の充満している中で生きていかなくてはならないのである。
でも、よく考えてみれば、そんな苦を「何となく」かも知れないが、やり過ごしているのが現実である。
ということは、「まだこの程度なのだ」ということに感謝すべきではないだろうか。
くよくよ考えないで、このブログの精神のように「仄々」「徒然」「ノホホン」と過ごしていける毎日に感謝すれば、殆ど全ての事に感謝できるのではないだろうか。
そんな感謝ができる日を一つ一つ積み重ねてゆきたいという考え方である。
はてさて、本来短気な私がどれだけ続きますことやら。
投稿者:つねちゃん
at 07 :08
| 健康
| コメント(0 )
今年の行動指針 「断・捨・離」
遅ればせながらだけれど、今年の行動指針を掲げた。
大きな項目として三つ挙げ、その気持ちを紹介させていただこうと思う。
まず一つ目は「断・捨・離」である。
父の本などを含めて、それなりに努めてきたつもりだが、気が付いてみると、今度は自分の60年余りに好むと好まざるを問わず、あたかも「塵・芥」とは言わない(そういうと自分が情けなくなるから)が、いい意味でも悪い意味でも「澱」の如くに溜まっているものがある。
それをきっちりと極めて、基本的には「すべて捨てる」ことで「断・捨・離」を実行したい。
目指す完了形は、不要なものに場所を取られることなく、広々と部屋をはじめとして家を使いたい。
とはいうものの、昔を思い出して「温故知新」は昔からの基本的な考え方だから、思い出したり、懐かしんだりできるようにもしておきたい。
急がず、焦らず、落ち着いて、でもしかるべく迅速に、と言うのが思いである。
そんな気で、周りを改め眺めてみると、結構「今もこの後も」不必要なものが相当ある。
また、すでにデジタル化したものでも、CDに窮屈に収まっていたり、そのために枚数が多くなって「どこへ行った?」と言うような状況もある。
DVDや最近のBDなどへの転記をして、見出しもきっちりと付けて整理したい。
まだまだやることはたくさんありそうだ。
これで楽しみながら、目標を達成して一年を過ごしたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :11
| 日記
| コメント(0 )
孫の質問
小学校3年生の孫から質問された。
「1月は何で『お正月』というの?」
諸姉・諸兄はスラットお答えできるだろうか。
残念ながら、私は「年の初めの月だから」と説明にならない答えしかできなかった。
「年の初め」がなぜ「正」なのかの説明ができなかったわけである。
私の持っている国語辞典の「大辞林」にも「正」に「初め」という意味は載っていないし、漢和辞典の「漢字林」にも載っていない。
結局、正しいかどうか判らないけれどネットにすがる事にした。
結果、「正」には「新たに始める」という意味があると出ていたので、それを孫と一緒に見て合点した次第である。
これだけでは、「頼られる爺」と思っていることに水をさすことになるし、私自身も残念至極で、何とか名誉挽回と無い知恵を絞る。
すぐに出てくるのは、「睦月」「如月」という呼び方であり、特に「神無月」については、出雲地方だけが「神有月」となる謂れを伝える。
また、「如月」は別の書き方で「着(衣)・更・着」とも書くこと、「綿貫(わたぬき)」と書いて4月をあらわすのだと、教える。
でも、如月は説明して納得はしてもらったものの、綿貫、については「着る物の「袷(あわせ)」と「単(ひとえ)」という概念がうまく伝わらなかったので、聞いている孫もなかなか理解できなさそうだった。
もちろん最近では、袷から綿を抜いて単にして着るなどという行動は、多分どこでもやられていないのだろうから、これからも理解するとは多分無いであろう。
言ってみればうまく「煙に巻いた」格好だが、改めて「物知らずだなぁ」と楽しく思った次第である。
投稿者:つねちゃん
at 10 :20
| 学習
| コメント(0 )
航空管制官
子供のころになりたかった職業の一つに「航空管制官」というものがある。
きっかけは、近所のたぶん5−6歳年上の人が、ラジオを細工して、色々な放送を受信したり、電波を発信したりしていたのを見た時だったころだろうと思う。
主に「短波」という放送を受信して、時には英語(だろうと思う)らしい言葉や、兎も角日本語ではない言葉もいくつか聞こえてきて、ワクワクしたものだった。
電波の発信は、どう間違えたのか、近所のラジオが一斉にその先輩の話す声で鳴ったことだった。
多分、今では電波法違反の行為だったのだろう。
ある時、それを借りてきて、バリコンを回していると、「放送」ではないやり取りが聞こえてきた。
何だろうと聞き耳を立てていたが、当然判る筈もないのだが、どうも英語らしい。
当時のことだから、そんなに飛行機が飛び回ることなかったのだが、それからまたしばらくして同様の音を聞く機会があり、先輩に聞くと「航空無線だろう」ということで、表記の仕事を知った。
高校に入る時にも、そのことが契機になったのだろうが、電気科に入学し、中学生の頃から少し英語に興味があったので、「英語で通信」できる仕事があればいいなぁ、と思っていた。
残念ながら、管制官の仕事には就けないほど成績が悪くて、断念するしかなかったが、通信という仕事にだけは就くことができた。
3度の米国出張で、なんとかその場しのぎの英語も使えた。
いまでも、富山空港の無線はたまに聞くが、やっぱり楽しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :58
| 健康
| コメント(0 )
購買意欲が減退
最近、家電量販店やホームセンターなどのチラシを見ても、何も買う気にならないようになっている。
購買意欲の減退は、老化現象の始まりだと聞いたことがある。
確かに、以前は「これ欲しいぁ」といろんなものに対して思ったものである。
ところが、最近は、それ以前に「これだけの値段なら期待できないなぁ」と思ってしまうのである。
たとえば天井直付けのLED照明。
ピンスポットなら今の家にも何か所もあるが、都合80Wの蛍光灯で照らしている部屋に、56Wで同様な明るさは値段を考えるとそんなに必要ではない。
明るさが何段階にも切り替えられたり、照明色がそんなに変わっても、クリスマスや誰かの誕生日などのパーティの時には有効かもしれないが、普段は必要はないと思う。
まぁ、価値観の違いだから、欲しい人はそれぞれだろう。
でも、考えようによれば「気持ちにゆとりができて、『何でも欲しい病』にならなくて済む」ということでもある。
そんな風に思うと、気が楽である。
それでは、全くの購買欲がないのかと問われれば、そうでもない。
宝くじの6億円は夢のまた夢と消えたが、それだけあれば、元気なうちに本物のオーロラを見に行きたいとも思っている。
そのためにはそれなりの滞在費もかかるだろうから、お金が必要だなぁ。
もっと凄いと思っているのは、石動城を建てたいとも思っていることだ。
天文台的な機能やアマチュア無線ができることなど、いろんなことを思うとナントも楽しくなってくる。
でも、やっぱり購買欲の減少には気を付けなければ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
| 健康
| コメント(0 )
やはり朝はカーテンを開ける
部屋の温度が逃げるのは、窓が一番だというので、この時期朝になっても防寒のために窓のカーテンは閉じたままにしていた。
外側にレースのものがあり、内側はそれなりに分厚い生地のカーテンがかかっていて、防寒としてはそれなりに役立っいるようだ。
朝まだ早い時間に開けると、硝子戸の下の方だけに結露した水滴が浮かんでいる。
ストーブは5時にはタイマーで点くことになっているのだが、大体自分が起きるのは5:30を回ってからであり、窓の操作もそのような時間である。
余談だが、実際は大体4:30には新聞を取りに行き、ベッドの中でまどろみながら新聞を読んでいるので、この時点ではまだ半分は夢の中である。
本題に戻って、話を続けよう。
でも、結局暫く続けてやめてしまった。
暗さは電灯をつけるのでさほど苦にはならないが、やっぱり鬱陶しいのである。
わが家の窓外の景色は、晴れていれば立山連峰が見えるので、それなりに綺麗なのである。
先日もどんな加減か知らないけれど、東の方からぼんやりと明るくなってきて、暫くすると、今まで見たことのないような「淡い茜色」に立山連峰が映し出された。
本当に何とも言えない色で、ほんの少し楽しんでから家内に伝えに行ったのだが、その間わずか数分もなかっただろうけれど、「淡い」ものが色濃くなっていて、感動は薄れてしまった。
その光景を魚津市の方が写真に撮られていたと新聞に載っていたが、私の感じた「淡さ」というものとはやはり少し遠かった。
そんな光景が見えるのだから、少し防寒はストーブに任せ、朝はカーテンを開けていたい、と思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
| 健康
| コメント(0 )
おやつに「昆布」
本日から本格的に開始させていただきます。
遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。
今年が皆様にとって、より良き年になりますよう、お祈りいたします。
従来血糖値を気にしながらも、10時と3時にはおやつとしてお菓子を食べていた。
一頃薬の効き過ぎで「低血糖」の症状が起きたことがあり、なんとも不快になったもので、医師に相談すると薬は当然軽めのものにしてもらったのだが、再度そんな時には甘めのお菓子を食べても差し支えない、いやいや、むしろ食べ過ぎにならない程度に摂った方が良いとのことだったので、それ以来の習慣である。
でも、必ず2個だけにしている。
昨年中頃から、お菓子と「昆布」を交互位に使うことにした。
結構堅めの昆布なので、お菓子ほど無くなる時間が短くなく楽しめるので、楽しい。
勿論、これも「食べ過ぎ」にならないように、1-2片だけである。
随分昔に、あるお客様のトップの方が昆布を常用しているとの話を伺っことがあるが、考えてみれば私も地位こそ何にもないが、年齢だけはそんな年になっているので、健康法の一つになるのではないだろうか。
低血糖の特効薬にはならないだろうが、お菓子の代用としては、単なる糖分ではなく、健康食品としてのおやつということであれば、無難なのではないだろうか。
そんなことをしながら、今年も健康に留意しつつ過ごしたいものである。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 11 :24
| 健康
| コメント(0 )
投稿転載 恥ずかしくない言葉で論戦を
選挙の前哨戦が、本戦のごとく激しくなっている。
論戦は大いに結構だが、あまりにも言葉が軽率を通り越して「みっともない」様相を呈していないか。
「嘘つき」は子供でも分かるあからさまな「けなし言葉」だが、果たして政治家に向かっていう言葉だろうか。
「ペテン」という言葉や「野合」という言葉も果たして子供に聞かれて恥ずかしくない言葉なのだろか。
揚げ句には、「じゃんけんで決めればいい」という発言は、本当に「政治家」を選ぶ方法なのだろうか。
だったら選挙などは民意の反映でも何でもなくなろう。
いずれも公党のトップの言葉である。
激論は大いに結構だが、子供に聞かれても恥ずかしくない言葉で行っていただきたいものである。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
| 健康
| コメント(0 )