選挙は「権利」ではなく「義務」にしてはどうか
確か小学校の高学年の時に習ったのではないかと思うが、国民の三大義務は「勤労」「納税」と「教育を受けさせる」であり、三大権利は「生存」「教育を受ける」と「参政」である、と習ったような記憶がある。
確かな所はもうほとんど消えかかっている記憶だから、もしかしたら違っているのかもしれない。
在職中組合活動をしている中で、市川房枝さんの講演を聞き、その後懇親会で僅かな時間だが懇談させていただいた。
上記の権利の中で「参政権」がいかに獲得するのが難しかったか、特に女性はなかなか認めもらえなかった、との話を聞いた。
それだけはしっかりと覚えており、以後一度だけを除いて棄権することはなかった。
先日の都議選ばかりではなく、如何に棄権する人が多いのかを毎度愕然とした思いで見ている。
この原因の多くは政治屋にあるのは明白だけれど、やはり「主権」である「民」にも少なからず責任があるだろ。
昨日の論理と同じになるが、ここは思い切って「参政」は「義務」にしてはどうだろうか。
勿論現在の政治屋は「寝ていてもらった方がいい」と言う輩が多いから、おいそれとはならないことは承知しているが、義務を果たさない人間は、どこの遊園地も立ち入り禁止だし、勿論会社でもそれなりのペナルティがある。
例えば税金もそれだけ高くなり、残念ながら上記のように「一度だけ」でも棄権したことがある私は除外されるが、「皆勤賞」の人は税が減免されるというのもありだろう。
そうでもしなければ、この国の政治はどうなるのか、心配で仕方がない。
と、斯様にごまめの歯ぎしりをするのであります。
投稿者:つねちゃん
at 08 :24
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過半数か3分の2か
来る参議院選挙の指標になるか、または衆参同時選挙の物になるかと目されていた、都議会選挙でも結局投票率が過半数を超えなかった。
憲法改正の議論で、表題のことが喧々諤々議論されて、各党それぞれに意図があるようだが、いずれにしても投票率がこれでは勝っても負けても「これで本当にいいのだろうか?」と言う感覚が抜けないのではないだろうか。
尤も最近の政治屋さんは「ともかく勝ったから、あとは自分の好きなようにやればいいのだ」とか、「選挙に関心のない人は家で寝ていればいいのだ」と言う感覚で、そんなことは毛ほども思わない人種ばかりなのだろう。
このブログでも何度か書いたし、再三投書したが、いまだに採用されたことが無い「投票率赤点再試験制度」を取り入れるべきだと常々思っている。
企業内研修機関で一度だけ「赤点再試験」を受けなければならなかったことがある。
分野的には「得意」の分野だった「物理」なのだが、力学と言う分野ばかりが出たので、かなり手こずってしまった。
本試験で45点、再試験(ここまでは無料なのである)で55点。合格点ではないけれど、及第点は60点である。
そして500円の有料(多分収益を上げるとか部外講師への問題作成料ではなく、本人の自覚を促すためのペナルティという意味合いだったと思う)追加試験だった。
何とか70点で及第になったのだが、その時の受験生は私一人だった。
他の科目でそれを2度やり1,500円(2回目は1,000円になったという)払った猛者もいたが、それが私の免罪にはまったくならない。
そんなわけで、政治屋さん(になろうとしている人)は最初から高額の受験料だろうが、再試験となればそれなりに取り組む姿勢が違ってくるのではないか。
それも自分の政治姿勢ではなく、有権者に「投票してもらう」と言う「他人を動かす」ことが必要になってくるのだから、お金以上に大変だろう。
でも、それこそが「政治家」であるべき条件になってくるのではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :42
| 健康
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乾いて候
かつて愛読した劇画に、表題の物があった。
時代劇の劇画だったが、正直漫画は漫画として大好きだったが、劇画となると「重く」なるのであまり好きではなかった。
「子連れ狼」という劇画も最初は「みんなが見ている」的に見たが、途中で飽きてしまった。
ところが、これは確か完結までは見ていないと思うが、随分長く見ていたような記憶がある。
さりとて、ストーリーを覚えているのではなく、この言葉が何だか興味をそそったのだろう。
当時は多分仕事も面白く、遣り甲斐はあったし、お酒やマージャンを通じての人付き合いもそれなりに広範だったこともあって、確かに他人様から見れば「楽しそう」だったろうと思うが、本人としては、決してそうではなかった。
単身赴任で、寮に買っても誰も迎えてくれる人もいない。
確かに人と付き合ったり、仕事で激論を交わしたりしているうちは「相手」がいるからいいのだが、一人になると全く「乾いていた」ので、そのタイトルに魅かれたのかもしれない。
だからこそ、仕事に没頭したり、調べ物などについても国会図書館まで行って調べたり、文部省へも行って教えて貰ったりしていた。
ナントか「乾き」を他人に知られないようにとの「我武者羅」ぶりだったと今でも思う。
これを思いついたのは、そんな事には幸いにして今はなく、最近の物理的な皮膚の乾きや、洗髪した後の乾きで思い出した。
精神的な乾きはなくなったが、加齢による乾きが襲ってくるのだろうか。
なるべく「過ぎないように」楽しく過ごしてゆきたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :47
| 健康
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「饋電」という言葉を知っていますか
「三つ子の魂、百まで」とは言わないが、随分昔におぼえたことが、この歳になっても「フッ」と思い出すことがあるのが、何とも楽しい。
こちらでは北陸新幹線の工事が急ピッチで行われている。
先日ようやく、多分全てではないだろうが、高架に電線が張られた。
散歩の途中で、最初の日は「避雷線」だけだったが、その後2日ほど後に「饋電線」が張られていた。
そう「饋電」という言葉が不思議とすんなりと出てきたのである。
「電車」なのだから「電気を『送る』必要があるので、その為の電線」である。
「それは給電線だろう」というツッコミがあるとは思いながらも、少なくとも私が高校の電気科の生徒だった時に、「電気一般」という科目だったと思うが、教えられたのは「饋電線」だった。
も50年位前に習った記憶、それもさほど成績が良い科目ではなかった(勿論ほとんどの科目が駄目だったのだが)物のほんの一部の記憶が、咄嗟によみがえったのである。
ちなみに、小規模ながら「饋電所」もあって、「こんな小さくていいのかなぁ」と思って、近づいて表示を見ると「予備」となっていたので何となく納得してしまった。
尤も、表示には漢字が使って無く「きでん所」と平仮名が使われていた。
それならいっそ「給電所」と漢字で意味がはっきりと分かるように書けばいいのではないか、と思ったが、そうはいかない事情があるのだろう。
そんな事を思いながらの散歩はナント楽しいことか。
景色や木々や花、そして人と出会うのも、確かに楽しいが、こんな「採るに足らないこと」を思いながらの散歩も結構癒しになるのだと思う。
短時間でもやって見られては如何だろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :21
| 学習
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役所の「罰」
復興庁のお役人がとんでもない発言をして、その処分は「この担当から外す」というだけではなかったろうか。
ことほど左様に「役所の処分」というのは身内に甘い、というより「外には仰々しく発表しておこう」というだけである。
半官半民の会社にいたが、私自身は幸いにして一度も処分されたことが無い。
でも、すれすれになったことがあるので、身近に見ていた。
一番軽いのは「訓告」であろうか。直属上司から「もうやるなよ」と言われる程度で、その上司自体が過去に訓告を受けていたりする。
次が「厳重注意」だろうか。その組織の長というから、「大分偉い人」から「駄目じゃないか」と怒鳴られることになろうか。
でも、その晩には「反省会」や「慰労会」として宴会になり、その組織長も招待される場面にも参加したことがある。
それからは、一応法律上の罪ということで、「戒告」これはもう一つ上の組織長からの「戒め」である。でも、将来の人事上に少し評価が下がるだけで、今回のような上級役人にはまるで関係ない。
「減給」でも10%3カ月は困ることは困っても、生活に影響が出るほどではない。
「停職」となっても、必ず半年くらいのほとぼりが醒めたくらいに人知れず(まず報道されることはない)復職している。
「免職」というのが一番と言われるが、なぁーに、「諭旨免職」などということで、次の職場がほぼ確保されているので、心配もない。
ちゃんと退職金が支給されるのが通例だと聞いている。
「懲戒免職」というのが最たる罰だろうが、これは故意の殺人とかではない限りまずなることはない。
さて、あなたはこれを軽いとみますか、重いと見ますか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :30
| お役所
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引責辞任
昨日のテーマに関連するが、何か問題が発生すると、マスコミが先頭だって「引責辞任」を取らせようとする。
組織として不埒な点があれば、組織内部から引責辞任を求められるか、どこかの会社であったように「臨時役員会」などで強制的に辞めさせるとか、監督官庁が強権で辞めさせることが、多分正常な姿なのだろうが、結局「野次馬」でしかない「マスコミ」がやることに疑問が残る。
確かに不行跡を不行跡と思わずに蛙のションベン的にか、頭を垂れていれば風は通り過ぎるとか思って、留任している人も残念ながら大いに見かける。
しかしながら、マスコミは辞めさせて「次はどうしよう」としているのだろうか。
適任者がいるのであれば、「あんたが辞めてこの人を就任させろ」というべきではないか。
頭をすげ替えて、事件をただ「楽しく」して、次の人になったらまた「粗さがし」をして、針小棒大に不祥事を「楽しく」するだけが目的で、決して「その組織を良くするために辞めろ」と言っているのでは無いのではないか。
以前「撮り鉄」の無謀についても書いたことがあるが、「マスコミ」という腕章をつけていれば、人の迷惑など全くお構いなしに、どこだって割り込んでしまう姿を見たことがありはしないだろうか。
そんなマスコミが、なんか「私こそが正義なのだ」とばかりに、紙面で論評しているが、この姿を見ると、怒りよりも可笑しさがこみあげてくる。
例によってのマスコミ批判だから、新聞への投稿などしても全く相手にされないので、ここらで「ごまめの歯ぎしり」をしているだけなのだが。
このことは、徒然草にも通じる精神だと思っている。
さりとて、このブログ内容が後世に残るとは決して思っていないが。 ( ^)o(^ )
投稿者:つねちゃん
at 08 :39
| 健康
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評論家の正体見たり
野球音痴だから、今回のボールの件はよく分からない。
でも、何人かの評論家(私は知らないけれど、それなりに野球については一家言お持ちの有名な方なのだろう)が異口同音のようにおっしゃった言葉に疑問を感じた。
「みんな知っていたのに、隠す方が悪い」と。
「みんな」の中にはもちろんその評論家も入っていたのだろうけれど、その人はなぜこれが発覚する前に問題の指摘をしなかったのだろうか。
在職中私もこれと似たようなことをした経験があるので、あまり他人様を非難ばかりする訳ではないが、いわゆる「尻馬に乗る」という行為である。
在職中の経験は確かにそうだったが、その場合「自分が言いました」とはっきりと言っていたつもりである。
だから、その論理が正論で現実解だった場合には、素直に正面から謝った。
ところが、評論家という人種はことが露見してから「そら見たことか」と言い放ち、今回のボールの件はそうならないだろうが、正論で現実解だった場合には、「我関せず」を決め込んでしまっているが習慣化している種族なのだろうか。
いやいや、評論家ばかりを責めるのも違っていて、そんな人種を「評論家」として登場させるマスコミが間違っているのだと思う。
こんなマスコミ批判は、新聞投稿などしても、絶対と言っていいくらいに採用されないので、ここで、ボソボソと、徒然なるままに、意見表明するだけだから、言う方は楽しいし、誰彼に甚大な迷惑をかける訳ではない。
リタイア後「賛成」の場合は多いに尻馬に乗ったことはあるが、「反対」の場合は無責任任に四里馬に乗ったことはない、と思う。
投稿者:つねちゃん
at 09 :05
| 健康
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散歩で血圧が下がる
先月からサボりも入れながらだけれど、早朝散歩を楽しんでいる。
血圧は基本的に毎朝欠かさず測定しているのだが、最近面白いことに気が付いた。
散歩で血圧が下がることは、むしろ逆で「運動をした後は血圧が上がっているものだ」と随分昔から聞かされていたのか、勝手にそう思っていただけなのか分からないが、次のような勝手な判断基準を自分に課していて、人にもそのように言ってきた。
職場に入ってからの定期検診の時に、前夜の酒を慎むことは、「通常にしていて異常が出ればそれで良し、その時だけ節制して良い結果が出た所で、全くあてにならない」と嘯いていたのだが、血圧だけは運動後は診察を控えるか、運動をしないようにしていた。
ところが、前記のように現実に血圧が下がったのである。
そればかりか、少し余計に歩いた時には、翌日はさぼりとしていたのだが、それでも血圧が数日は下がった状態になっていたのである。
毎月診察を受けている医師の話では「交感神経と副交感神経が なんやらかんやら」と説明されたが、よく理解できていない。
ともかく、身体を動かすことは「基礎代謝」が増えるのだそうで、それが結果として血圧の降下にも良い影響が出ているのだろうと思っている。
毎日欠かさず、雨の日も風の日も、照る日も我が家の前を散歩する方が少なからずいらっしゃる。
その見事さには感心するが、リタイアして暫くは私もそうだったのたが、現在はそのようなことはせず、「長く続けるコツの一つは、適当にサボること」だと思いながら続けている。
それでも血圧的には(自分としては)十分な効果が出ているのだから、決してこれが悪いとは思っていない。
先日受診したら、医師から「血糖値は順調に下がっているから、今後は低血糖にならないように注意をしなさい」と言われた。血圧ではないけれど、体調が改善されているようだ。
投稿者:つねちゃん
at 07 :58
| 健康
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蚊取り線香の匂いが好き
先日にも書いたし、HPにも書いたが、この時期いろいろな「匂い」に出会う。
野菜のうちでも大根の収穫の時の匂いは、夏大根の習性らしいが「辛い大根の匂い」が私にとっては食欲をそそるものである。
苺の匂いも新鮮で採れたての物は、孫の口に入るのだが、匂いだけは私が頂けるのである。
トマトも脇芽取りや剪定などでその中に入ると、何ともいい匂いを感じることができる。
玉葱や葱もそうだし、少しだけ植えている薔薇の匂いも好きである。
それらを調理する時の匂いもたまらなく、ダイエットを志向しているにもかかわらずどうしても過食気味になってしまう。
そんな匂いとは、全く異種の匂いで好きなものに、「蚊取り線香の匂い」がある。
蚊の「ブーン」という音が気になって眠れない季節がやってきているが、蚊取り線香を少しつけるだけで、蚊は寄らないし、安眠効果抜群である。
勿論、これは私の場合に限ってだろけれど、同好の人も少なくはないだろうと思っている。
昔のよう「蚊帳」を釣ることも今ではなく、一張りだけある蚊帳は押入れの隅にうずくまっているはずだが、カビなどで汚れているだろうと思うと、取り出す気にもならない。
寝る時だけでなく、畑作業の時にも首からぶら下げて使っていて、ほとんど蚊に悩まされることが無い。
匂いばかりでなく、その効果抜群である。
でも、時々我が家の畑近くに出没する「獣」があちこちに「糞」をして行く。
その臭いだけは残念ながら防ぎようが無く困っている。
投稿者:つねちゃん
at 07 :51
| 健康
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「想い出日記」
諸姉・諸兄は日記をお付けになっていらっしゃるだろうか。
最近流行りかどうか知らないが、「自分史」を書いてみようというような風潮があるそうである。
決してそのために日記をつけている訳ではないが、PCを使って、このブログ同様「徒然なるままに」書いている。
そんな中で、今年の目標の一つで、断捨離を「思いついた時」と言うズボラさでやっている。
先日、中学生時代に、日記とはとても言える代物ではないが、走り書きメモが出てきた。
私の日記は、以前にも紹介しているが、シェアウェアの「千年日記」と言うものである。
断捨離でそのまま捨てるのも何だか勿体無いような気がして、その日と思しき所に書き込んだ。
内容から「ここら辺でのことだったろう」と想像はつくが、月日は書いていないので、明確ではない。
こんなことも、若かりしときの一ページである。
「変しい、変しい」ではないが、誤字がやたらと目立つので、スキャナで撮ってそのイメージをそのまま残そうかとも思ったが、そこまでしても誰も難読は読まないだろうから、止めにした。
でも、転勤族だったため、引っ越しというのは何度となくやったが、畳の下の古新聞の記事に目を取られて、能率が悪かったように、この手の走り書きもついつい読みふけってしまう。
はてさて、この走り書きの書き写しを次に読む機会はいつになるのだろうか、などと思いながらも楽しく断捨離と日記の継続を行っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
| 日記
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役人の本音
このタイトルを思いついたのは、決して昨日今日の復興庁のお役人のツィッターからではない。
余りにもタイミングよく復興庁の馬鹿役人が登場したので、何だか気が引けるのだが、タイトルを前後しても影が薄くなるだけなので、予定通り書かせてもらうことにする。
余りにも詳らかにするのも気が引けるが「公社」と言う「半官半民」の会社にいて、当時はそんなに偉くなかったから、ある意味フランクに相当偉い方とも雀卓を囲んだこともあったし、そんな雀荘に出入りもしていた。
そんな時には、少しお酒も入るし、そんな会社の偉い人は、場合によっては「コッパ役人」と言う言葉が口をついて出てくることがある。
またその逆もあり「あの人に目を付けられると…」と言うこともある。
そんな会話から、良く知らない私は「何とも役人と言うのはしようのない者だ」とおぼろげ乍ら思っていた。
そんな役人の末はどうなるか、を考えたことがあるだろうか。
多くは天下り組織の長、過去の肩書だけがほしい団体の長、仕方がないから故郷の小さい首長等々がある。
どのみち「つぶしが効くほどの知識」を持ち合わせていないから、名前貸しでしかなく、問題が発生すれば「責任を取って辞任」と言うことで、ほとぼりが醒めたら(最近は醒めない内も多いが)また天下りで、何もしないのに高給が得られる。
大概の団体は、何がしかで国の補助金を得ているから、黙認はできないのだが、トチ狂った輩およびそれを祭り上げる企業団体などが持ち上げて「議員さん」になることには腹が立つ。
でも、いつも言うがそいつらを当選させるのは民であるのだから、「天唾」である。
そんな役人が吐く言葉は、常人とは違うけれど「本音」なのである。
「失言」ではなく本音なのだから、これは消しようが無いように民は覚えておくべきだろう。
そして、決して当選させないようにしなければ、いつまでたっても良くはならない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
| 政治への注文
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向日葵
昨年種から植えた「切花向日葵」が綺麗に咲いて、沢山の種が採取できた。
春先にセルトレイに撒いて育てたのだが、発芽率は良かったものの、実際に「モノになった」物は数十株だけだった。
それでもビニール鉢に2株ずつ育ったものを、10数個、久し振りに「ご自由にどうぞ」と塀際に並べておいた。
聞き耳を立てていた訳ではないが「向日葵なら要らんわ」「でも切花用で、背が1m位だと書いてあるよ」と言う会話の末、2個貰われていったのを初めとして、夕方並べたのだが、翌日の午前中にはすべて嫁がせることができた。
どうか、いろいろな所で花を咲かせ、その種を又いろいろな人に分けて広がってほしいものだ、と言う思いである。
それはそれとして、向日葵の花は「陽を巡る」と聞いていたが、あまり実感としては経験が無かった。
ところが、畑の余った所に植えた10株が、そろそろ花の元が大きくなりつつあるので、最近の猛暑と日照りのため朝夕水遣りが欠かせなくなった。
で、今更ながら気が付いたのだが、まだ花は咲いていないのだが、朝は東を向き、夕方には西を向いているのである。
その為だけに、日中畑へ行くほどの興味は持ち合わせていないのだけれど、「向日」と言う意味が少しだけ分かって、何だか思いがけない「儲けもの」を得たような気がした。
植物は嘘を吐かない、とよく言われるが、経験からすると意外とそうではないのは、自分の技術を棚に上げてそう思うが、結構しっぺ返しにあっている。
そんな中での体験だから、猶更嬉しい。
朝顔、オクラも種が採れるが、いつまでもの繰り返しは、どうも難があるようで、何度かには一度新品の種を買う必要があるが、子育てにつながるようで楽しいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :31
| 健康
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「入れ!」
私はゴルフはやらないけれど、この話を聞いて、納得するとともに大いに反省させられ、この話を聞いての在職中はそんなに長くはなかったけれど、なるべくそのように努めようと思った。
残念ながら、思っただけで、殆ど実行が伴わなかったのも事実である。
ご存じのない方も少しはいらっしゃるだろうから、本来の意味が伝わるかどうかは別にし、あらましをご紹介させていただく。
プロゴルファーのタイガーウッズが、最後の二人だけのマッチになった時、自分のことではなく、相手のボールに対して祈った言葉だと聞いた。
相手がベストコンディションの時に勝負して勝ったことこそが価のあることで、相手の不運に乗じて勝ったって価値が激減してしまうのだという。
トルコで反政府運動が激しくなっているとのことで、オリンピック誘致に真剣になっている方がは、口にこそ出さないけれど(出すとまた以前のことがぶり返すからだろうが)内心ほくそ笑んでいらっしゃるのではないだろうか。
なんともはや、と言う思いがする。
尤もこれは、オリンピックだけではなく、政治などの世界でも同様なことが言えるのではないか。
いつも言うが、そんな政治屋を選んだのは、私も含めた「民」なのだから、大いに反省しなければならないだろう。
また、時に忘れがちになるのは、そんな民を産み育てたのも私等の年代の現在の親世代なのである。
今から取り戻すのも難しいかも知れないけれど、せめて孫世代には、「昔の古臭い」と言われようが、道徳や躾(しつけ:この言葉と漢字が大好きである)を伝えてゆきたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :39
| 政治への注文
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音読の効用
好きな番組の一つで「ためしてガッテン」がある。
郷土出身の立川志の輔師匠の喋りも好きな要因の一つである。
先日「脳梗塞」に関する放送があった。
要点は「FAST」だとのことで、そのうちの一つのSが「Speech」だとのことである。
音読はそれに対しての効果があるのではないだろうか。
そんな事とは全く知らずに、今年の目標の一つに次のことがある。
「書き取りで指を動かし、音読で口を、散歩で足を動かす」と言うものである。
現在のところ、結構順調に遂行できている。
勿論「長続きのコツは、適度に休む(サボる)こと」を信条としているので、毎日ではないのだが。 ( ^)o(^ )
でも、音読だけは、土日、祝日関係なく、続けている。
時には、「溜め読み」や「残り読み」もあるのだが、今のところは数回しかないから、自分としては、かなり順調だと思っている。
カラオケ、と言うものはあまり好きではないが、自分の声と言うものは「他人が聞いている声」とは違うもののようで、最近映像が撮れるデジカメもあり、時々酔って歌っている自分の声が送られてくる。
照れ臭いというよりも「これがほんとに自分の声???」と思ってしまうくらいに違っている。
と同時に、どれだけ呂律が回っているのか、そうでないかと言うのも分かる時がある。
音読を録音してまで確認しようとは、現時点で思っていないが、これから呂律が怪しくなってきたら、それもやって見るべきかな、とも今から思っている。
尤もそう思うようになる時には、自分は羽化登仙の認知症の直中にいるのではなかろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :42
| 健康
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虫歯の日ではない
今日は「時の記念日」である、何も特別ここで宣言することはないのだが。
先日の6月4日は、御存じの通り「虫歯予防デー」だと記憶ており、ここから「虫歯予防週間」が始まったのではないかと記憶している。
ところが、その日いろいろと出掛ける必要があったので、何局かのラジオ放送局を聞くことになった。
そこで、耳を疑ったのは「今日は虫歯の日ですよね」と言うアナウンスが数回耳にしたことだった。
最初は「聞き流し」だったので、あまり気にもならなかったし、アナウンサーだって、時には「言い間違い」もあるだろうと思っていたのだが、度重なると何だか「耳障り」になってきた。
「予防」と言う言葉が付くと付かないでは、雲泥の差であることは、言葉のプロとしてのアナウンサーは当然ご存じたと思うのだから、むしろ私の方が間違っていて「最近はそういうようになったのかなぁ」と思ってしまった。
それでも帰宅して、いくつかの暦を見てみると、やはり「予防」と言う言葉が付いている。
まさか「虫歯奨励の日」ではないから、分かりそうなものじゃないか、と言われれば確かに間違うことはないと思うのだが、それでもやはり正しく使ってほしいものである。
別に誰彼に文句を言うつもりはないのだが、運転に真剣になっていても、やはり耳慣れた言葉が、違って聞こえてくると「耳障り」になるものだ。
さて、この記事はもちろん気が付いたのは6月4日なのだが、この日に書くことになるとはあまり想像していなかった。
差し詰め、上記に倣うと、今日は「時の日」なのだろうか。
止まったりずれたりしている時計は、せめて今日だけは一時かもしれないが、合わせてみよう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :48
| 日記
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当たり前と思わず感謝
先日66歳の誕生日を迎え、先月末で43回目の結婚記念日を迎え、不幸にも子供は一人亡くなっているが、長男、長女ともによきベターハーフに恵まれ、女の子ばかりだが、孫も3人に恵まれている。
メタボリックは加齢とともにしようが無いと諦めつつも、きちんと定期的に診療を受け、楽しみな毎晩のお酒も、決して上等の物ばかりではないが、美味しく飲めている。
両親とも三代目の当主として、見送ることができ、今月末には、父の十三回忌と母の三回忌を行う準備もほぼ整った。
一人の子供の五十回忌があと六年後に無事努めることができれば、あとは孫と一緒にお酒を飲みながらお付き合いさせてもらえることを望むばかりである。
基本的に幸せなことであるが、一面で言えば「当たり前」な事でもある。
先日、友人と話していると「毎日当たり前のことばかりで、リタイア後が詰まらない」と言っていた。
咄嗟に「当たり前が一番良いんじゃないのか」と素直に言うと、「お前は良いよなぁ」と反駁されてしまった。
特別それで仲違いになるような仲でもないし、ましてや激論になることもない仲である。
帰宅後、「俺はそんなに良いことばかりなのかなぁ」と考えてしまったが、冒頭の通りやはり「良いこと」が比較的多いのではないかと、素直に感謝した。
同じことを悲観的に考えれば、66歳になっても何もしていないじゃないか、特別仲が良いという訳でもないかみさんとナントこれからも付き合っていかなければならないのか、なんで男の孫が生まれないのか、孫が少な過ぎないか、もっと金があれば贅沢にもっと美味しいお酒がたくさん飲めるのじゃないか等々、いくらでも言い方があろうというものだ。
でも、「当たり前に過ごしている」ことこそが幸せそのものである。
そう思うと、毎日、毎時が感謝ばかりである。
そう思いながら過ごせれば、それこそが幸せの連続なのだから、何とも楽しいではないか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :30
| 健康
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年寄は年寄りなのだ
赤塚不二夫のマンガじゃないけれど「これで良いのだ」のパクリである。
先日、いやいや、最近と言った方がいいのだろうが、「老人」と言う言葉や「老年者」と言う言葉が色々な報道で使われているような気がしてならない。
自分がそんな歳だから、なおさら気になるのかもしれないのだが。
先日も、予備軍を含めると4人に1人が認知症患者になる、と言うような記事が目についた。
確か「高齢者」と言う書き方だった様に思うが、当然「後期高齢者」と言うことで、75歳以上の人を差しているのだろうから、両親もそうだったなぁ、と思いながら読んでみると、あにはからんや、65歳以上の人が対象になっているのだという。
とすると、時折中学時代の同級生とおゃぺりを楽しむ会を開いていて、大体8人前後が集まるのだが、その中には、あくまでも確率論だけれど、という希望的観測からだが、2人はそんな人がいるということになる。
それは当然のこと、私かも知れないのだ。
そんな危惧を抱きつついろんな記事を見てみると、どうもほとんどの場合65歳以上が対象のようである。
でも、そこで考えなおした。
間違いなく、私の場合は65年間を大過なくかどうかは別にして過ごしてきて今があるのだ。65歳以上が「年寄」と言うのであれば、それはそれでいいじゃないか。
「まだまだ若い者には負けない」なんてことは言う気もないしそれに向けて頑張ることもしない。
年寄には年寄りの楽しみがあり、それは多分ほとんどの場合、若い人には真似ができないことなのである。
そんな風に思と、随分気が楽になる。
さぁ、今日も66歳と1カ月を経過したわが身を愛おしく、日の終わりにはそれを秘かに祝っての晩酌を楽しみたい。
年寄は年寄りで良いのだ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :27
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みんなに挨拶
先月から始めた朝の散歩で、会う人ごとに「おはようございます」と声をかけている。
勿論大体の人は返事を返して下さるから、気持ちがいい。
また、返事をしない人も間違いなくいらっしゃるのだが、そんなことは、防犯で登下校する子供で慣れているので全く苦にはならない。
父が亡くなる前後から始めたことだが、果たしてその時にはこのように相手に聞こえるような声の大きさで挨拶していたかどうか、記憶が無い。
多分していなかっのではないだろうか、今思うと、変なおっさんが何かつぶやいて通り過ぎるのは、気持ちが悪いことだったのではないだろうか。
それで思い出したのだが、最初に米国出張を命じられた時に、米国留学経験があった?部長と飲んだ時のことだ。
英語が堪能ではない私に、いくつかのアドバイスを頂いたのだが、挨拶、と言う意味では「エレベーターに乗って、先客がいたら「ハァーイ」でも何でもいいから大きな声で声を掛けろ」と言うものだった。
それまでの私の経験では、全く考えられないことだった。
でも、最初のホテルは45階建てで、3棟建ての物であった。
当然エレベータの乗り降りがあり、先客がいることもあったので、このアドバイスが随分役に立った。また、随分昔NHKの英会話講座で覚えていた「お先にどうぞ」もスムースに口から出た。
「After you (Miss)」である。勿論男性にはMisterである。明らかに私と同年代と思われる女性に対してでも、思った以上に喜ばれるのである。
余談になったけれど、相手に聞こえるほどの声で挨拶することは、「私は怪しい人間ではありませんよ」と言っていることであり、相手が返事しようがしまいが、ボイストレーニングと考えれば、散歩のプラスアルファとして健康に悪いことは無かろう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :21
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余計なお世話 パートX
表題のパート「X」は今までいくつかの要因を同じ様なタイトルで紹介したといううろ覚えの記憶があるからである。
今回は、電気掃除機である。
先月末に、今まで使っていた電気掃除機が、まるでヒューズが切れたかのごとく、全く動かなくなってしまった。
当然何かの原因でヒューズが切れたのだろうと、安易に考えて、カバーなどを外してみた。
ヒューズと言うものは、大概の電気製品で、電源コードの引き込み口のすぐ近くにあるものだが、全くそれらしきものが見たらず、結局はあきらめて買うことにした。
で、新しいものは、いろいろな機能が付いているのだが、家内が推奨する機能は「ごみセンサー」であったので、そこは主婦の知恵だろうと同意して買った。
最初のうちは確かに汚れていそうなところで赤いランプが点くので、それが消えるまでやっていた。
ところがもう1カ月程度も過ぎて、どうもおかしいと気が付いた。
赤ランプが点くので点かなくなるまでやるのだが、同じ所へ戻るとまた点くのである。
そうなると、もともと気が小さい自分としては、点いていると気持ちが良くない。
で、結果として今までの掃除時間と比べると、随分と長くかかってしまうのである。
確かに優れた機能ではあるのだが、時には「ずぼら機能」と言うものがあって、「一度やったところは安心してくれていいよ」と言うようなことにならないだろうか。
そんな事を考えながらやっていて、そのうちに「Z機能」と言うのが付く掃除機が出るのではないだろうか、と思った。
あたかも5月30日で「ごみゼロの日」である。
今まで通りの昨日で「ごみZero機能」はそれでいいのだが、「Zubora機能」と言う意味でもあったりするのだが。
投稿者:つねちゃん
at 09 :17
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花壇に名札
畑の一部分を昨年から「花壇」にした。
畑の中では一番日当たりが良い所なのだが、父の時から「畑」にしている部分との間に「通路」がしつらえてあるので、狭いので、今までは唐辛子くらいしか栽培できなかったので、思い切って花壇にしたのである。
50cmほど掘り起こして、ドクダミやヤブカラシなどのしつこい根っこは相当除去して、それなりに土も入れ替えて設えたのである。
昨年は確かに植えたものがきれいに咲きそろってくれたのだが、さて今年になって…。
はっきりと分かるのは「ノコギリソウ」くらいで、どれが本来植えた物か(確か宿根草ばかりだったはずなのだが)どれが外草(何度か紹介したが「雑草」と言う言葉は嫌いなのでこの言葉を使っている)に類するものは、さっぱり分からなくなってしまった。
そこで、手での草むしり作業を延べ二日間掛けて行い、「どうもこれは植えたものだ」と言うもの以外は大分綺麗にしたのだが、それにしてもかなり数が減っている。
というのも、しっかりと名札を付けていなかったからだと大いに反省している。
売っているときには、氏名札が付いているので、それを傍に埋め込んでいくのだが、冬の雪の下では到底持つものではないようである。
多分本来植えたものも外草として摘み取ってしまったのだろうから、これからまた宿根草を買ってくるつもりだが、一緒に大きめの名札を買ってきて、冬でも持つようなものにして、来年の草むしりにはしっかりと残して綺麗な花を楽しみたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 10 :46
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