今年も色々あったなぁ
今日でこのブログの年内発行を終わります。
来年は孫の小学生の冬休みに合わせて、10日までお休みを頂き、11日から再開します。
皆様、ぜひ良い年で終えて、さらに又新しく開ける年をお迎えください。
嬉しい事の最初はまず孫が生まれた事でしょう。現在5ヶ月ですが、丸々と「搗き立ての餅」と言う表現がそのまま当てはまる健康状態で育っている事です。
そして、孫の小学校入学も含めて家族全員が、特別な悪状態にもならず、健康で過ごせたことでしょう。
でも、訃報もありました。企業内研修所で隣室で2年間過ごし、金沢大会で一緒に幹事をやろうとしていた友人の大会直前の死、薫陶を頂いたおじさんやおばさん、色々と叱られたり教えて頂いたりした友人のお母さんも送る事になりました。
改めて、合掌。
新聞投稿を初めとして、世の中に文句を言ったり、感謝したりも自分なりに成果を感じられた事。
中学時代の同級生との楽しい語らい、高校時代のメンバーとの地酒を傾けながらの語らい、そして、前述にも出たように、企業内研修所時代の同級生が全国から集まっての金沢大会を楽しんでくれたことなど、改めて「友達の輪」が徐々にではあるが拡大していってくれていることなども楽しかった思い出である。
個人的なことも、色々な「書き写し」が心配しながらも目標レベルまで遂行できた事である。
般若心経は今日が592回目だったので、年内に600回達成できるので、ひとまず終える。
徒然草、歎異抄、御文(御文章)暦、三名君の遺訓も年内で満足しながら終えるつもりである。
論語は続けるし、正信偈も新たに始め、書き写しだけではなく「音読」も始めてみようと思っている。
ともかくまだまだやること、やりたいことは限りが無いくらいである。
これこそが、「来年も生き続けてやるぞ」と言う気概につながるものと思っている。
来年も、徒然、仄々とお読みいただき、お付き合いいただけることをお願いいたします。
投稿者:つねちゃん
at 09 :26
| 日記
| コメント(0 )
孫はいつでも「真剣」
親としての娘や、程度は少し低いものの、婆さんである家内も、孫連れで買い物などをする場合に決まって言う言葉は「早(はよ)う、しられ(富山弁かな)」である。
買ってやるものの分野はある程度決まっているし、値段の腹積もりは当然あるのだが、孫にはそんなことなど伝わる訳も無い。
孫としては真剣に、今まで言われた事を小さな頭の中で目まぐるしく反芻したりして、散々悩んだ末に「これ」といって持ってくるのだが、殆どの場合母親や婆さんの意向に合わない。
で、結局再度物色になるのだが「早う、しられんか」と「んか」が追加した罵声に近い言葉が飛んでくるので、それにも配慮しなければならない。
挙句は「仕様が無いからこれにする」と言う事になり、妥協点らしきものを選んでくるので、親たちとしては「この辺で手を打つか」と言う事で決着が付く。
この時期に、似たような事が出現するのが「サンタさんへのお願い物」である。
親たちとしては「早う決めてお願いしなければ、サンタさんも持って来れなくなるよ」という説得を使う。
でも、孫としてみれば、目前にある訳でもないので、想像の世界は広がるばかりである。
玩具なのか、食べ物なのか、本などかなど等、自分の想定できるあらゆる範囲を考えるのだろう。
爺としては、これを面白く楽しく眺めている。
つまり、少し考えれば判る事なのだが、悩んでいる事が成長のしるし、だと素直に思えば良いのではないだろうか。
今までは限られた範囲でしか選べなかったのが、その範囲が成長と共に広がっているのである。
子供は、いつまでも親の想定内ばかりで育っていないし、そうなったら少し可哀想であろう。
親や爺婆としては、難しいだろうが、「世間様にご迷惑を掛けないように」と言う範囲に配慮しながら、伸び伸びと成長する姿を見守ってやりたい。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 08 :32
| 子育て
| コメント(0 )
CDなどの音楽の「ランダムプレイ」の面白さ
基本的に音楽であれば、分野を問わずに好きである。
車を新しくしたときに、オーディオ装置が今までとは違っていて、自分で作ったCDやUSBも聴ける様になった。
今までは、最大6枚のCDをセットして、好みに応じて選択してそのアーティストや分野のものばかりを聴く(勿論その内容全てが終われば自然と次のCDを演奏するようにはなっているのだが)ことになっていた。
過去のカセットテープの時代は「順送り」しか出来なかったのだが、CDになるとそれ以外に「自分の好みの順」をセットする機能があることは知っていた。
しかしながら「好みの順と言われても」と言う事で、結局は「ランダムプレイ」を選択するだけだった。
ところが自作のCDやUSBにおける「ランダムプレイ」は収録曲数も格段に多くなると同時に、いろんな分野も混在しての「ランダムプレイ」が楽しめるようになっている。
そうなると又違った世界を体験できる。
今叙情かを聞いていた、次はクラシック、そして好きな歌手(島倉千代子、美空ひばり、都はるみ、天童よしみなど)の歌声で一人の時は大きな声でカラオケ状態も楽しみ、一転して民謡ののどかな祝い歌などを、と言うような具合である。
「なんといい加減な」と言われることも承知であるが、時にはそんな「イージーリスニング」的な世界も格別楽しいものである。
勿論特定の分野(フォルダー)を選択して楽しむことも出来るし、その間でのランダムプレイも出来るのだが、時には上記のような楽しみがあり、ぜひとも諸姉・諸兄にも味わってもらいたいものだと思う。
短い時間で頭を切り替えて、それを楽しむ、という事は僅かではあるだろうが、脳の活性化にもつながるのでは無いだろうか。
騙されたと思って一度お試しになってはいかがだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :52
| 趣味
| コメント(0 )
100均ショップの薦め
この類のテーマは、何度かこのブログでも書いたが、最近は又様変わりしていて面白い。
「100」ばかりではなくなっている事である。
消費税分が乗っかった値段で、私が最も高価だとしてみたものには、10,500円の物があった。
いずれにしても、こんなものがこんな値段???と言うような楽しいサプライズに出会う事が楽しい。
勿論、私が経験している殆どの物(もちろん全てではない)は期待以上の効用をもたらしてくれている。
せんじつも、モノラルラジオのイヤホンで、散歩の時に愛用していたのだが、夏場はそんなことが余り無いのだが、冬場になるとコードが寒さで硬くなり、その影響で耳から外れることが多かったので、民とか耳掛け付きの物が無いかと探していたのだが、耳付きに相当するものは殆どがステレオタイプのもので、モノラルのものが無かったのだが、ようやく探し当てた。
最初の日はジャックのサイズが判らなかったので、後日現在使用中のものを持参して買ったのだが、最初の日には3mのコード付きの物しかなかったのが、買わなかった原因のひとつだったのだが、その日には1.5mのものがあり、当然210円くらいはするだろうと思ったのだが、105円で、お金もさることながら、満足気分がより上回った。
何かの都合での「待ち時間」は今までは本屋を探したものだが、最近は100均ショップを利用している。
「こんな物何に使うのだろう」と言うような物も、自分なりの使い方を考える上で楽しいし、本来の目的以外での自分勝手な使い方をすることを考えるのも楽しい。
お忙しいだろうが、ちょっとの「ブリーフタイム」を利用して回ってみては如何だろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :03
| 興味あること
| コメント(0 )
役者も可哀想なものだ
このテーマを思いついたときには、まだ「加害者」と言う人物が特定できていなかったのだが、最近は「お前がそう出るなら、こちらにも出方があるよ」とでも言いたそうな代理人としての弁護士が登場している。
まぁ、こちらとしてはどっちに転ぼうが、それこそ「舞台演劇」を見ているような楽しさしかない。
で、思いついたときに戻っての書き方になる事をお許し願いたい。
梨園のホープと称される人が話題になっている。
謝罪会見をニュースで見たけれど、言っている言葉がなんとも「台詞」のように聞こえた。
もちろん、感情もこもっているし、さすがに「よっ、千両役者」と声でも掛けたいような気分だった。
でも、自分の言葉でしゃべる事が身についていないのだろう、時々そんな風が覗けたのは、私だけだったろうか。
誰かが考えた台詞を教えられたとおりに、多少の自分の工夫を加えて「演ずる」プロなのだから、観客をその気にさせるくらいは朝飯前であろう。
だけど、自分が考えてアドリブを利かせて感情を剥き出しにしてやってみろ、と言われると、多分殆どの場合、今回のように「しどろもどろ」になってしまうのでは無いだろうか。
こうなると、千両役者も「形無し」である。
そうなると、マスコミの悪い癖で、過去の悪い事を洗いざらい、それこそ重箱の隅をつつくような様子で、針小棒大にあげつらう。
私のような下世話な野次馬はそんな「無料(多駄)の演劇」を楽しく見物するだけである。
多くの日本人に余り馴染みの無い「歌舞伎」を日本人の殆どが知っているような吹聴をして、その役者が、元々は「川原乞食」であるにもかかわらず、世間知らずのままに煽て上げた結果であろう。
そういう見方をすれば、役者も可哀想なものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :24
| 日記
| コメント(0 )
孫が「こんな事も出来るよ」
家内も留守で、頭の孫が帰ってきて、暫く二人だけになっていた時に、得意げに開脚前転等体が柔らかいことを示す動作をいろいろとして見せてくれた。
私にはとても出来そうも無いのだが、それが孫の自尊心をますます増幅させたようである。
うまく私が出来なさそうな事を見つけて次々と「技」を展開してみせる。
もう随分前になるが、一時期「やっぱり柔軟性が必要だろう」ということで、真向法と言うものを、体のあちらこちらの筋肉(と言うか筋ではなかったろうか)が拗けて七転八倒しながら暫く続け、それなりに顎が床に付くくらいまではやったものだが、結局それ以上までにはならず、辛さの方が勝ったので止めてしまっていた。
その後は、整体法が良いよ、と言われたりして、それなりに独習書を買ってやってみたものの、結局は「積んどく」になってしまっている。
それはそれとして、どうも孫は自慢に加えて、仕返しも目論んでいたのではないかと思う。
時折宿題のお付き合いをさせられることがあるのだが、殆どの場合私は何か別のこと(読書だったり、書き物だったり)をしながら付き合うのだが、孫のホンのちょっとしたミスも見逃さずに指摘することが出来る。
孫はそれなりに「羨ましい」と思ったりしているのでは無いだろうか。
それはまだまだ(そう言っている内に追い越されるのは目に見えているのだが)その能力には到達しそうにないので、その腹いせと言う意味ではなくとも「私は爺ちゃんと違ってこんな事が出来るんだぞ」と言う気持ちがあったのでは無いだろうか。
爺の欲目といわれようが、ぜひそうであって欲しい、そしてそのことを伸張させ、出来ない事を悲観せず、出来ない人を非難せず、と言う態度で成長して言って欲しいものである。
それが完成するまで、私なりに「出来る事を伸張させて」付き合いたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :29
| 子育て
| コメント(0 )
昨日したことを忘れる
在職中から「メモ魔」と言われるほどメモと言うものは大切にしていて、リタイアした現在でもその癖は直っていないと自負しているつもりなのだが、日記を書く段になると「ロストリング」があることに少しがっかりしてしまう。
もちろん日記に事細かく、細大漏らさず書こうという気持ちは無いのだから、「忘れた事は、忘れても良い事」と思ってはいるのだが、事実をトレースすると言う意味ではなく、「あの時確か何か思ったよなぁ」と言う事を忘れてしまうのが残念なのである。
花を観て思うこと、景色を観て思うこと、めったに観れない場面を見て思うことなどがその大半なのだが、その時にはさすがの「メモ魔」も「観る」ことに集中してしまい、しっかりと堪能して、その上に暫くは反芻までしているのだから、とてもメモを残す気分ではないのだろう。
だから、そんなことの殆ど全てが「良いものを観たなぁ」と言う感じがして、川柳や俳句などは嗜まないのだけれど、何かそんな気持ちになってしまっている。
そんな気分のまま暫くの時間を過ごして、後日日記をつける段になって、その場面自体は朧気ながらだけれど思い出すのだが、その時の感情がなんとも思い出せないのである。
父の日記を整理していると「事実」だけが述べられており、それはそれで貴重なのだろうけれど、何か物足りない。
それが背景にあるのかもしれないが、私は「その時何を思い、感じたか」を書きとめようと思っているのだから、そのロストリングがものすごく歯がゆいのである。
余談だけれど、老化で記憶力が弱った事は否めないとしても、若い時には「酒を飲んでのロストリング」は枚挙に暇が無いほどあった。
ある時には、冬のボーナス(まだ当時は現金支給だった頃)をコートのポケットに入れたまま新橋駅のホームでまさに「ごろ寝」していて、一番電車の時に気がつき、駅員に聞くと「何度も起こしたけれど駄目だった」と聞かされたことがある。
その時にもボーナスをもらった事自体を忘れていて、その日一日仕事をして帰宅した時に家内から「ボーナス出たんでしょ」と言われた事があった。
幸いにして、封も切らずにポケットから出てきたので、家庭騒動までには至らなかったのだが、その時からロストリングはいわば「癖」になっているようである。
まぁ、「忘れる」ことは「新しく覚えるための場所作り」とかつて聞いたことがあるから、そんなことにしておこう。
投稿者:つねちゃん
at 08 :19
| 日記
| コメント(0 )
僕は出来た、だからあなたも出来るはず
表題を見て「そんな馬鹿な」と思われる方も多いのでは無いだろうか、又、このフレーズを言った途端に多くの場合反発の言葉を頂いた。
でもしかし、私はこれは「常に正しい」いわば「真理」だと思っている。
しかしながら、反発の多くの場合は「目的語」が明確になっていないからであろう。
日本語はもとより「文法」と言うものにはトンと縁がないと言うか、学習の時にも「憎むべきは文法」とばかりにしか思っていなかったのだが、コンピュータの世界に入って「目的(語)」をはっきりさせる事がどれだけ大変な誤解を生むかと言うような事に気がつかされた。
話が横道にそれたが、人それぞれで目的が違うし、それを無理に合わせる必要も無いのだから、表題の言葉は「真理」なのである。
ひところ米国の大統領(誰だったかは忘れた)が、尊敬する日本人にあげた、植えすぎよう残を出すまでも無いが、「為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、為せぬは人の、為さぬなりけり」であろう。
余りにも低い目標を設定する事は自分に対して「勿体無い」と思うべきだし、思いついた目標を「2割アップ」と言う事に設定し直せば、案外と出来るものである。
そういう意味で「真理」は常に存在し続ける。
戸は言うものの、、、と言われる事も無くは無いし、私自身今まですべて「目標達成」ができたかと言われると、まことに心許無いのではあるのだが、目標達成が出来なかったと気が付いた時点で「立ち止まって考える」ことにしている。
何故出来なかったのか、と「何故何故問答」を繰り返すのである。
その結果「出来るパス」を見出す事が出来る。
そうして、目標達成時期が少し遅くなったとしても、「出来た」と言う事に成るのである。
あなたの身の回りにもそんなことがありませんか。
「為せば成る」を信じましょう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :10
| 健康
| コメント(0 )
誰もがみんな有名人
梨園の有名人が「被害者」としての事件が報じられている。
これで思い出すのが、まだ若い頃上役に連れて行ってもらった六本木のラウンジでの出来事である。
こちらも数人で大分盛り上がっていたのだが、突然私の知らない「有名人」が闖入して来た。
当時はカラオケが盛りではあったものの、今でもそうだが、私は余り好きでなかったので、そのラウンジはそんなものが無く賑やかだけれど、それなりに落ち着いた雰囲気で飲める店だった。
ところがその闖入者は「俺みたいな有名人と飲めることはあんた方にとっては光栄の事だろう」とばかりに一人で騒ぎまくっている。
ところが、私らのグループの一人だけしかその人を知らないで、その彼が、一生懸命に宥めて他の席へ行くように言っているのだが、なかなか埒があかない。
結局、私等らの座は完全に白けてしまったので、それがきっかけになってその「有名人様」は去って行かれたのだが、そのまま其処で飲むのもつまらなくなり、結局いつも行く安酒での二次会で再び盛り上がってから帰った。
後でその有名人を知っているという彼に聞くと、演劇の世界でそれなりに活躍しており、映画にも何度か出演しているとのことだったが、観る映画の分野が違うのか、私はそれを聞いても全く知らなかった。
でも、これは有名人を責めてばかりいるのではなく、むしろ「自分にもそんなことが無かったろうか」と言う反省からの感想である。
退職直前には一応「部長」と言う肩書きであり、限られた範囲ではあるが、それなりに「有名人」と思っていたし、声が掛かれば飲み会にも数多く参加させてもらった。
しかしながら、参加者全員が私のひととなりを知っている訳ではないので不愉快に感じた人もいたことを後で聞かされたことが何度もあった。
その度に「冷や汗三斗」の思いをしたのだが、なかなか懲りない自分だった事を思いだしたりする。
表題のとおり、誰もが有名人なのだが、その範囲を知る事が必要なのだろう。
投稿者:つねちゃん
at 10 :01
| 子育て
| コメント(0 )
書き写しで「叱られた」
現在朝の日課としての書き写しは「般若心経」「暦」「三名君の遺訓」に「論語」がある。
先日、特別急ぐ必要も無いのに、「走り書き」になっている事に気がついた。
「そんなに急いでやらなければならない事があるのなら、特別功徳も無いのだから、止めれば」と叱られたように気になった。
そうなんだ、何をそんなに急ぐ必要があるのだろう。
結局「やればいい」と言う「やっつけ仕事」になっているのではないか、と大いに反省させられた。
在職中は最も嫌いな仕事のやり方だったのに、今それを自分が自分で決めた事なのにもかかわらず、馴れ合い的なことになっている。
気がついてすぐに、文字の巧拙は長い間の癖的なもので良くなる訳ではないものの、一文字一文字ごとに丁寧に書く事にした。
効果は意外と早く訪れたような気になっている。
小さな点や、線もはっきりと書くようになり、撥ね、留などもそれなりに意識して書く様になってから「何もそんなに急ぐ必要は無いじゃないか」と言うきもちになると、なんだか全体的にゆったりとした気持ちになれるのだ。
朝(最近は布団の中が恋しくて寝坊をするので、必ずしも「起きてすぐ」と言う訳ではないが)から、そんなゆったりとした気分になれるのは、結構良いものである。
少なくとも、在職中には考えられなかった事である。
「今日は何時から誰と会って、どんな話をして、そのための資料はどこまで出来ていて、依頼した事の結果がそれまで来るだろうか」など等単身赴任中は特に最も感じたもので、電車での移動中も無駄にさせないぞ、と言う意気込みだったように思う。
リタイアした今、朝からの「ゆったり気分」は大正解である。
もちろん「今日やること」のお浚いはベッドの中でやるようにはしているのだから、遺漏は少ない、と思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
| 学習
| コメント(0 )
グー、パー
天気の良い日には孫を歩いて保育園へ送ってゆく。
約15分ほどの距離で、孫も楽しそうに歩いてくれるので、いろいろな話をすることが出来る。
先日「お手手が冷たい」と言うので、一頻り揉んでやったが、随分昔に習っていた合気道を思い出し、「グー、パーを繰り返しやってごらん」と教えた。
先日家で「ジィちゃん、グーパーだよね」と言うが、シチュエーションが違う事もあり、全く理解できなかった。
その翌日だったかに、やはり良い天気だったので、歩いて保育園へ行く時になって、「お手手が冷たいときは、グー、パー」と独り言のように言っている孫の言葉を聴いて、「そうだっ!」思い出した。
「ごめんね、ジィちゃん忘れとったよ」と謝ると、喜んで「グーパー」を繰り返して「ちょっとだけ暖かくなったよ」と言われたのには、本当に涙が出るほど嬉しかった。
まだ5歳半ばだけれど、ほんのちょっとした事も覚えてくれているのだ、と嬉しい驚きと共に、これからは下手な事を言っては末まで覚えられてしまうのではと、心掛けを更にしっかりとしなければとも思った。
実際、この季節の朝は、陽が当たる所では然程では無いが、日陰に入ると風の冷たさが厳しく感じられる。
それが一番感じるのが、素手である。
合気道は僅かの期間だけしか習わなかったが、基本は「筋を伸ばす」事だと教わった記憶がある。
そんな中での寒稽古の時に、先生がひとつのコツとして教えてくれた事がこれだった。
グーとパーを繰り返すと、指先の血流が良くなり、自然と暖かくなってくる、全くお金のかからない暖房法である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43
| 健康
| コメント(0 )
自分と競う
われわれ団塊の世代は、在学中、在職中は意識するとかしないとかではなく、常に「相手(特定の場合ばかりではなく不特定の場合もあるが)と競う」のが自然と身についていたように思う。
それは悲観論ばかりではなく、励みにもなったりしたものである。
富山と言う、都会から見れば田舎の工業高校卒と言う学歴で、企業内研修機関を卒業したとはいえ、部外学歴と言うものは殆ど無視に近い状態だったので、それなりに頑張り甲斐があり、時折ヒットすれば、「相手に競り勝った」と言う気持ちが楽しかった。
ところがリタイアしてからそれは殆どと言っていいくらいに無くなってしまった。
このブログも、その乗りでやっているのだが、つい最近になって気がついたことが、やっぱり今でも「競っている」と言う事である。
相手は、自分である。
僅かな事でも目標を設定し、それをうまく超える事が出来れば、慢心することなく、「目標が低かったのでは無いだろうか」と悲観的というよりも、より意欲的に考える。
大体の場合は、目標未達と言う事になるので、これに対しても「駄目だなぁ」と思うのではなく、未達の原因は何だったのか、その原因を除くためにはどうすれば良かったか、今後どうすれば克服できるか、など等、決して「目標を下げよう」とは考えない事にしている。
とは言うものの、全てがそんなにうまく整理できる事ではなく、「水は低きに流れ、人は易きに流れる」と言われるが如くの連続である。
しかしながら、(と大体は思えるようになっている自分が楽しいのだが)その流れにこそ「競り勝ってみよう」としている自分に気がつくと、それもまた楽しい気分になってくる。
お金のかからない「楽しみ」と言うものは、そんな訳でどこにでも転がっていると思っている。
少し意味が違うかもしれないが、在職中の「PDCA」をここでも生かしている自分が楽しい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :33
| 健康
| コメント(0 )
師と帥
漢字の学習は相変わらず楽しい。
漢検の資格取得を目指した事もあったものの、主催機関の不祥事などによって、もっぱら「学習」のみとなってからは、ますます「楽しさ」が募ってきている。
今回のテーマもその一端で、気がついたことであるが、諸姉・諸兄は「いまさら何を馬鹿なことを」とお笑いになるかもしれないが、それはそれでいいのであると思っている。
歳の最後の月「師走」で、暦の書き写しをやっていて気がついたことである。
表題の二文字は「同じ文字」で「同じ意味」だと思っていたが、統率する事はあってる様だけれど、まるで違う文字だった。
恩師や教師の場合は「師」を使い、元帥や総帥の場合には「帥」を使うと言うような「使い分け」だけだと浅はかな知識だった。
この類には、今までも「えっ、違う漢字なの」と言うような経験はそこそこあるにはあるが、これほど似たような物には初めて出会った気持ちである。
思い返してみれば、この両方の文字を「使い分け」だけだけれど、それなりに今まで多用してきたのだが、「使い間違い」による失態はまるで記憶に無い。
ということは、それなりに正しく使ってきていたのか、それとも判らないところで嘲笑を受けていたのか、はたまた、見た人自体が気がつかなかったかのどれかであろう。
落語の枕などでよく使われるフレーズに「在ると無いでは大違い」というのがあるが、ホンの短い「一」と言うようなものが在ると無いとでは、意味こそ「大違い」とまでは言わないけれど、やはり「全く違う漢字」である事になる。
こんな漢字二文字で、これだけ楽しめるのだから、やっぱり漢字学習は楽しく、いつまでも続けて生きたいものである。
父の本の整理がまだまだ残っているが、父も似たような楽しみをしていたのか、漢字に関する本がまだまだ数多く残っている。
結局「蛙の子は蛙」である。
投稿者:つねちゃん
at 10 :20
| 学習
| コメント(0 )
電気ブラン
表記の名前のお酒をお飲みになった事があるだろうか。
今回全国から企業内研修所時代を共に過ごした同級生が集まった時に、東京からの友人が持参したものだった。
その名前の「飲み物」に対する私の記憶は、20代に入ったばかりの頃、池袋の「ションベン横町」と呼ばれていた路地で、大分酩酊した後に「最後の一杯」と言う事で、普通のお酒よりも刺激の強いものを求めて飲んだ随分と安く、怪しげな物だった。
「電気ブランデー」と言うのが名前の起源だと酔った頭で聞いたことがある。
でも、本当は「残り酒を集めて混合したもの」というようで、洋酒ばかりを集めたのが、
そう呼ばれていたのだと随分と後になって聞かされた。
ともあれ、相当酔っていたのに、それがまた新鮮なお酒と感じられたものだった。
「電気」がまだ珍しかった頃に「新しいもの」と言う意味と、「ピリピリと来る(感電する)」と言う意味から、ウィスキーと言うといろいろなブランド物が独特の香りを持って飲まれていたので、名前が上品で余り人が飲んだ事のないものと言う意味で「ブランデー」と言う名前をつけた、と言うのがどうも通説らしいとも聞いた。
ともかく、それから約40年たっての再会だったが、瓶のラベルには、銀座の名門デパートの名前が付けられており、味も上品なもので、少し甘口の飲み物である。
残ったものを頂いてきたが、とても40年前の飲み物ではない。
ビリビリとは来ないし、アルコール度数だってさほど高いものではないようである。
でも、大切に、名前を偲びながら飲みたいものである。
かつての電気ブランは、現在ではとても市場に出回るものではなく、衛生面からも許されるものではなかろう。
時折、TVのコントなどで浮浪者がそんな飲み方をしているものがあるが、そこまでして飲みたいとは思わない自分がなぜか面映い。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
| グルメ
| コメント(0 )
表彰の時期は終えたが
文化勲章を初めとして、その前後には様々な功労賞の授与シーズンがあり、年齢的には同年齢の人が受けておられ、中には知っている人もおられるのは喜ばしいことである。
多分、決して今後を含めて「表彰」されることは無いだろうと思うと、案外気が楽である。
かつてどこかの野球選手が「表彰なんか要らん。そんなのもろたら、立ちションベンも出来なくなる」と言う笑い話のような話しを聞いたことがある。
軽犯罪法に触れる立ちションは勿論褒められるべきではないが、なんだかその気持ちが判る様な気がする。
在職中は、私もそれなりに「出世欲」と言うのがあり、ある後輩であり部下だった奴から「私はあなたほどのスタンドプレーはやりたくない」と苦言を呈せられた事があった。
それほどまでして表彰に値する「昇進」や「昇給」を得たかったのかと、言われれば、苦笑いして誤魔化すしかないのだが、確かに途中で自分を冷静に見る自分が居るような気がして(特に単身赴任中に多かったような気がする)嫌悪感を覚えた時もあったが、そんな時は意識して深酒をして、翌日はすっきり忘れてしまうようにしていたように思う。
でも、企業内研修機関を卒業して、私なりに「ここが頂点だろう」と思っていた約5年間には前述の野球選手ではないが「もう要らん」と言う気持ちが常にあったし、「むしろそれならあの人に」と言う発言も意識してするようにしていた(様に思う)。
リタイアする少し前までは、いつか書いたと思うが、関東地方と金沢にいくつものデスクがあり、複数の仕事が常に目の前にぶら下がっていた(追いかけられていたと言う感じは殆ど無かったが)のだが、移動時間の合間で、時々(意識するしないに関わらず)「ボッカリ」と穴が空くような時間がある。
そんな時には、やはり「魔がさす」のだろうが、不埒な行動(決して犯罪行為ではない)をすることがあったが、それとても余り人から注目されるようになると出来なくなり、精神的なスポイル状態に陥ったのではなかろうか。
悠々自適な現在でも、何やかやでいろいろなお手伝いをさせていただいているが、それだけでも「よく知っていますよ」と言われると、時々「ハッ」としてしまう時があるので、これからも表彰には無縁でありたいと(あたる事も無いのに)思っている。
投稿者:つねちゃん
at 09 :01
| お役所
| コメント(0 )
民主がだめでも自民ではない、と知るべきではないか
発足後約1年を経過して、民主党政治(この言葉自体が嫌いだが)がいろいろな情報リークが原因で、かなり責められている。
しかしながら、今までの約50年間の「隠し通せ」的な自民党政治に果たして戻していいものかどうか、大いに疑問である。
どうも判らないのは、相手が倒れたら、自分が政権を取れる、と勘違いされての政争の連続のようだ。
民主がだめになって倒れたら、自民党が政権を取れるかのようなものの言い方がどうにも鼻についてならない。
では、隆盛の波に乗りつつある「みんなの党」か、と言われれば「それもあるまい」と思えてならない。
どうもこの背景には「政党第一」の思想があるのではないか。
国民は、各々の議案に対して「賛成」「反対」であるはずだが、政党所属の議員になってしまうと「政党として『反対』『賛成』である事が第一」となってしまい、国民の意図など雲散霧消してしまっているのが現実である。
議員は「選良」と言われるように、国民が選んだ人なのだから、それを背景にして賛否を表明して欲しいものだが、「数は力、数は金」と言う論理ばかりが罷り通っている娑婆には望むほうが無理なのだろうか。
今年の大河ドラマは竜馬がテーマだけれど、「我あり」と言うような行動をこそ見習って欲しいものだ。
さりとて、「私が」と言う気持ちも無いのにごまめの歯軋りでしかないと言うのは十分理解しているのではある。
あぁ、自重、自嘲。 (^。^)
投稿者:つねちゃん
at 08 :13
| 政治への注文
| コメント(0 )