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2011 年3 月31 日

腹が立つのは何故

 このブログで何度も紹介したが(決して自慢話ではなく)、在職中の飲み会で部下や同僚から「あの人の右側には座るな」と言う「お達し」が出ていた。暫くは気がつかなかったが、意味が判って「ばぁーか、左手も動くのだぞ」と冗談めかして言っていた位「怒る」のが私の一つの性格だった。
 自分でもそれは自覚していた。
 でも、当然「手加減」は心得ていたと思っているし、だからこそ冗談でそう言っているのが周りにいたと言う事だろう(仕方無しだったのかもしれないが)。
 それに比べて、最近は特定の個人には余り「怒らない」様にしているのだが、漠然とした相手や関係ない人への言動に腹が立つことがある。
 それが新聞投稿だったり(勿論投稿には「良かったなぁ」と言う事も多分多いほど書いているつもりだけど)日記にだったり、風呂での呟きだったりしている。
 でも、考えてみれば、自分の思うとおりに行動していない事が原因なんだから、人それぞれと思えば、腹を立てるだけ損だろう、と思うようになった。
 そう考えると、なんだか一人相撲しているように思えて、馬鹿らしくなったり自分が滑稽になったりするので、寸前で止める様にしている。
 もし、いろんな相手が自分の思ったとおりの行動をしてれば、多分全く怒る事が無くなり「時には反発しろよ」と言うような怒りになってくるのではないだろうか。
 そんなことを思っていると、随分昔に映画だったかTVだったかで観たヒッチコックの作品を思い出す。
 タイトルは思い出せないのだが、ある人間が願いが叶って、世の中の全ての事が、自分の思ったとおりになる、と言うストーリーだった。
 最初は痛快なのだが、そのうちに見ている自分も「不気味」を通り越して「もう止めてクレー」と叫びたい気持ちになる、ものすごいものだった。
 どうだろうか、そう思えば余り「怒る」と言う事にならなくならないだろうか。
 血圧が上がるだけではなく、決して良い事は無いのだから。
 そんなことを思った場合には、その力を少し反対から見て、新聞などに投書してみてはどうだろうか。
 上手く採用されれば粗品も貰えるのだから、良い事尽くめである。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月30 日

またまた漢字の面白さに出会う

 書き写しで「論語」を対象にしている事は既に何度か紹介している。
 私が持っているものは、昭和61年発行のものだからそんなに古いものではない。(ISBN番号が振られているものからも判る)
 でも、原文には今では使われないような漢字も使われており、訳文に現代の字があるので、無理に原文の漢字で書き写す事はしていない。
 ところが、今回新たな発見に驚いたと同時にまたまた楽しくなってきた。
 母(ボ、はは)、毋(ブ・ム、なかれ・ない)、?(カン、つらぬく:この字はこのブログ上では表記できないようなので、ぜひ御自分で調べていただきたい)である。
 どこがどう違うのか、お分かりになるだろうか。
 今までは「知らない者の強み」と言うか、知っている人からすれば「なんて馬鹿な事」と思われるのだろうが、この字(と似たような形)が使われているものは全て「母」と言う字だと信じて疑っていなかった。
 毎日の「毎」の下の部分、海のつくりの部分の下の部分などなどがそうであり、母の字の中の点々が、筆運びだけの関係で線になっているのだと思っていたし、そう信じて書いてきて、少なくともそれで「ペケ」を貰った記憶は全くない。
 余談だけれど、小中学校の国語の成績は常にトップクラスだったし、特に「漢字の読み」(書き取りは今一だったのだが)については苦い経験の「適宜」だけが読めなかったことを除いては、多分「ペケ」を貰ったことは無かったろう。
 それが63歳にして知る、初めての経験で、まさに「目から鱗」の状態だった。
 こんな楽しみがあるのだから、やっぱりこの習慣は楽しくて止められないなぁ。
 人間自体が「アナクロ」だと言われる事を承知の上でだが、こんな時に調べる辞書は「アナログ」の代表格である、紙製の辞書である。
 偏や旁が判るだけではなく、「へぇー、これも同類の漢字なのか」とか、画数や書き順についても「えっ、今までが間違いだったの?」と気づかされるのも楽しい。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月29 日

「やってるかい」「やってる、やってる」

 確かジミー大西さんのギャグだったと思うが、最近思い出して一人でニヤニヤしている。
 また、これもそうだったと思うが「頑張れよ」「お前もな」と言うものも同時に思い出す。
 これは今回の震災に対するものではなく(勿論それも思い出すきっかけにはなったと思うが)最近の自分に対する自問自答である。
 自分では、ともかく生きている、と言う事で感謝の毎日ではあり、特別のことをやっているわけでも、頑張っている訳でもない。
 さりとて「世捨て人」と言うほど世間離れしている訳ではなく、政治に怒ったり、身近な事に感心し、出来る範囲での協力をしたり、「それなりに」やったり頑張ったりしている、と思っている。
 だからと言って、他人様から「やってるかい?」と聞かれれば「いや別に特別な事はしていませんよ」と言い、「頑張れよ」と言われれば「そんなに頑張るようなこともしていませんが、それなりにやらせていただいています」くらいしかいえないのが実情である。
 でも、決してそれは「後ろ向き」な事ではなく、むしろ凡人(最近仏教系の書き写しをやってるのでこの言葉がすぐに出てくるのは、良い意味でも悪い意味でも毒されているのだろうか)としてそれなりに生きていると言う事なのだろうと思うことにしている。
 そんな私に「これをやってくれ」と言われると、とたんに拒否反応が出る。
 その善悪を考えるのではなく、言う人がその言葉の裏に「暇なんだろうから」とか「以前こうだったから」と言うように気配を感ずるからである。
 暇だから、わざわざ忙しくすることもないし、貴方に言われたくは無い。
 以前がどうだったかは、今は関係が無い。
 私もやるんだけれど、出来れば力を貸して欲しい、と言われれば、「やったるぞ」「頑張るぞ」と言う気持ちになれるのだけれど。
 まぁ、そんなことを行って来るほどの太公望でもないのだからしようが無いか。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月28 日

丸首のシャツ

 最近の流行なのだろうか、丸首のシャツの前後を判別する表示のないものがある。
 かつては、サイズを表示する布片が付いていたりしていて、容易に前後が判断できたのだが、家内の言に寄れば「それが首に当たるのが嫌な人がいる」からの対策だそうである。
 しからば、と次に登場した(少なくとも私の衣類の中に存在した)ものには、その部分に印刷が施してあり、それを探す事によって判断できたのである。
 ところが、最近目にしたもの(大概は家内などが流行のユニクロなどで買ってくる場合が多いし、私自身に特別な「好み」や「拘り」などが無いから、箪笥に入っているものを順次着ているだけである)には、それすら無いのである。
 判断は首の部分の縫い目でやるのだろうが、これって、意外とちょっとした頭のトレーニングになるかもしれない。
 腕を通して首の部分を見ると、僅かではあるが、前に当たる部分が広くなっているので、それを見極める必要がある。
 ところが、朝起きて余り時間がない場合には、完全に脳細胞が活性化していないせいだろうか、見間違える事は時々ある。
 ところが、それも良くしたもので、かつてのものはすぐに「前後ろだ」と判ったものだが、この手のものになると、見た人でもすぐには気がつかないようである。
 余談になるが、最近は殆どの場合、起きて地方新聞2紙を読んで、正信偈の書き写し(1/3)を行うので、着替える時には、それなりに脳細胞は活性化しているはずなのだが、これも加齢による脳細胞の弱体なのだろうか。
 ともかく、そんな訳で、すべての丸首シャツがそうではないが、時々それに当たると、少しどきどきする。
 良い刺激であることは間違いなさそうで、それもまた楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :56 | 健康 | コメント(0 )

2011 年3 月25 日

老害以外の何物でもなし

 予定では、このテーマではなかったのだが、余りにも憤慨を通り越して、滑稽だったので、急遽思いついたものにした。
 今朝の新聞に、石原都知事がコップの水を飲んでいる写真が載っていた。
 奇しくも昨日都知事選の公示日だったそうだが、その一つのパフォーマンスだったのだろうか。
 かつて、現総理が貝割れ大根を記者会見で食べたパフォーマンスをしたのと同じであるが、今回は、自分のところ以外では「天罰」と発言していて、幼児にも安全と言われたタイミングでのパフォーマンスだったから、唖然として、次に「耄碌もここまで来たか」と言う思いで、笑いを誘ったと私には思えた。
 そう思って、昨日の出馬宣言を読み返してみると、「東京(だけ)がしっかりしていなければならない。」と言う論旨である。
 ここでも、日本の首都と言うことでの知事発言は到底感じられない。
 かつて、駿馬だったかどうかは評価が分かれるところだろうが、「駿馬も老いては駄馬に劣る」との喩えもあるが、年齢ばかりではなく、小説と言う非現実的な世界で世迷言ばかり語っているうちに、とうとう脳細胞もそのようになってきたのではないだろうか、と滑稽から又通り越して、哀れささえも感じられる。
 我が子に頼まれて、当初の主張を曲げて再出馬するというのも、自分では判断できなくなっているのだろうし、今回の「(安全宣言された後の)水飲み」だって、周りから言われて、自分で判断できなくなっていた結果だろうと思うと、噴飯ものでしかない。
 尤も、私には選挙権が無いが、この人を選ぶ都民の責任こそが問われる事になろう。
 愛息子の政党のおかげで当選したとしても、駄馬にも劣る人が判断して済むような御時世ではないような気がする。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月24 日

渥美清

 確か、いやいや間違いなく、随分昔だけれど買ったCDが、長い間見つからなかったのだが、色々と身辺整理しているとヒョット出てきてくれた。
 渥美清のCDである。
 没後何年になるか判らないけれど、最近は殆ど見つけることが出来ない代物だったので、ワクワク気分である。
 幸いにして、全曲が無事に再生できたので、早速デジタル録音して残した。
 でも、一つ残念だったのは、「あったはずだが」と思っていた「浅草の唄」が入っていなかった。
 昔のTVバラエティ番組で関敬六、谷幹一と一緒に愉快に歌っていたのが楽しかったのだが(夢で会いましょうだったかも)。
 調べてみると、本来の歌は藤山一郎が歌っていたと始めて知った。
 勿論最も好きで多くの人に愛された「男はつらいよ」の同名主題歌がトップに来るのだけれど、私個人としては、最も感情が入り、歌っている時についつい涙が出て困るのは「泣いてたまるか」と言う唄である。
 「俺が泣いてもなんにも出ない」と言うところは、何度唄っても、声が震えてしまうのである。
 多分このCDを買った場所は、新橋駅の地下鉄への連絡路だったと思うのだが、その当時、具体的には思い出せないけれど、何か仕事上などでそんなことがあつたのではなかろうか。
 でも、終わってみれば全て「素晴らしかった事」「楽しかった事」としか思い出さないから素敵である。
 ジャケットには、フーテンの寅の姿ではなく「見返り愚人」としてのしの写真が載せられている。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月23 日

改めて知る「津波」の怖さ

 以前「アインシュタインの眼」と言う番組で、知識としては知っていたつもりだけれど、今回の東北太平洋地震でそのすさまじさを眼にして、いまさらながら怖い思いをした。
 また、インデペンデンスデーと言う映画で、津波のシーンを見たのだが、その時の海水が「綺麗な水」だったのに対して、今回の押し寄せる海水の色は、さながら原油のごとき真っ黒だったのにも驚いた。
 津波は、通常の「波」のように周期が短く繰り返すものではなく、さながら「水の壁」が押し寄せるようで、行く手にいる物、ある物を悉く破壊し飲み込んでしまうことをまざまざと見せつれられた。
 幾人かの証言にもあったが「そんなに大きなものが来る事も無いだろう」というのがひとつの「常識」だったようで、まさに押し寄せている画像の中で、一つ横の路地では、商店主と立ち話をしている御婦人の姿も捉えられていたのが、痛ましく、「早く逃げてっ!」と意味の無い叫びをTVの前で上げたものだった。
 幸いにして、我が家は標高的には100mくらいに位置しているし、海岸や河川からもかなり離れているので、直接津波の被害に遭う事はないと思うのだが、どんな天変地変が回りにあるか判らないものである。
 山崩れなどもあるかもしれないし、鉄砲水も無いとは言えない、ましてや地形的にはある活断層の上に位置しているとも聞く。
 過度に恐れる事は無いのだけれども、それなりに「平時の備え」は忘れないようにしておかなければならないと、今回の件で思いを強くした。
 津波の影響が、海岸線だけでなく、河川付近でもあることは、新たに知ったことだったが、恐怖をさらに増させるものだった。
 被災者の方々には、改めて今後の一日も早い復興を祈るばかりである。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月22 日

姑息な選挙運動

 ここ富山県では、来月に行われる県議選が、まだ公示前だと言うのにもう「終盤戦」だとの事である。
 そして、私が住む町では、県議1期の現職と、市議1期の新人との「決闘」状態である。
 どちらにしても、町部、村部出身と言う事はあり、地域的なものもあるが、今ひとつ「知名度」と言うものに心許無いのが実状である。
 そのため、知名度を上げるためだろうが、県議選立候補者と見做される(あくまでもまだこの段階では「見做される」状態なのである)人の「議会報告」と言うようなポスターがあちらこちらに貼られている。
 選挙期間や事前のこういう会は選挙違反になるのだそうで、日付は選挙が終わった後になっている。
 でも、果たしてこんな行為が許容されていいものだろうか。
 法律的な難しい事は判らないけれど、たぶん「抜け道のない法律は作れない」と言う事をかつて習った事があるので、その狭い隘路を見つけての行動だろう。
 どちらの候補予定者もやっているのだから、それだけで評価は出来ないが、「法に触れなければ良い」と言うような姿勢では、どちらにも投票したくなくなり、結局は「政治離れ」を促進する事にならないだろうか。
 尤も、マスコミもこれに一役買っているのも見逃せない事実であり、公示日にいきなり立候補でもしようものなら「後出しじゃんけん」と言われてしまうのだから、し様が無いのかも知れず、そういう意味では「必要悪」なのだろうか。
 いずれにしても、投票率がどんなに低くても得票数が多い人が当選するのだから、その辺の選挙方法にも異論があるのだが、「気づかれないような選挙違反擦れ擦れ」と言う行為をする人は極力選びたくないものである。
 一時期の青島幸男が当選した時の選挙を全く知らないわけでもあるまいに。

投稿者:つねちゃん
at 08 :57 | 政治への注文 | コメント(0 )

2011 年3 月18 日

目標2000回

 このブログを書き続けて、気がついたら投稿件数が「1,300回」を超えていた。
 今後も、幾日かの休みはあるとしても、原則的にほぼ毎日書くとして後3年くらいで2000回に到達する。
 それまで書き続けられるかどうかと言う疑問はあるが、もし達成できたらそれを契機に止めようと思った。
最近気に入っているCMで、タクシーに乗り込んだ客に運転手が「お客さん、どちらまで」と言う決まり文句(昔の流行歌の歌詞にもあった様な気がする)で尋ねるのだが、声としては若い人のようで「行ける所まで」と言う返事が戻る。
 運転手が「エッ」と言うのに対して、件の客は「ともかく行ける所まで、行き着く先を特定するのは嫌なんです」と答えるのである。
 運転手「お客さん、やるねぇー」で終わるのだが、スポンサーは全く記憶に残っていないのだが、その意気や良し、であろう。
 そんな訳で、このブログも「仄々」「徒然」ながらも、思い立ったが吉日と言う事で始めて、「何時まで」などということは全く気にもしなかったのだが、思えば1300回と言うのは、自分ながらも驚く回数である。
 大体日記などというものは長い間「三日坊主」で終始していたのだが、このブログはほぼ休みなくよくここまで続けられたものだなぁ、とつくづく感心する。
 日記の三日坊主は「蛙の子は蛙」で父の残されたものを見ても大体そうだった様であるから、トンビが鷹を産むようなことではなかったようである。
 このテーマを思いついてからだけれど、身辺整理の中で、昔の(昭和62年頃の)仕事で使っていた「控え」「覚え」などと書いたノートが数冊出てきた。
 ペラペラ捲っているとやはりなんだかそのまま捨てるのが勿体無いような気がして、スキャナを使って「自炊」したのだが、昔日の面影と言う事でこんなところからもネタを拾えるのではないだろうかと思っている。
 まぁ、あと3年、お付き合いいただければ幸いです。

投稿者:つねちゃん
at 08 :11 | 日記 | コメント(0 )

2011 年3 月17 日

天罰

 国会議員時代からを含めて、いささか発言に問題が多い東京都知事の今回の地震災害に対する発言である。
 長期にその蝕にとどまる事は、良くない、と言っていたのも忘れて、息子から言われたから、適当な後継者が見当たらないなどとの詭弁を並べて、再選出馬のようである。
 今回の発言についても「いったはず」の言葉がどこにも残っていないことを突きつけられて、仕様が無いから「前言撤回と謝罪」というような事態になってしまった。
 どうも、そろそろ「老耄」を感じた方が良いのではないだろうか。
 また、そんな人間を、新たな人材を探そうとしないで、縋り付くようにお願いする政党も果たしてどんなもんだろうか。
 (このテーマを思ったのは発言があつた日であるが、今日の新聞には宗教政党も相乗りするとの報道があった)
 天罰は、全く責任のない不特定多数に対して行われるものではなく、このような二枚舌偽員(敢えてこの漢字を使いたい)や無責任政党に対してこそ行われるべきものであろう。
 この人には、かつて「だから平民出身の奴等は」と言うような発言もあつたのだが、自分はどんな出身なのだろうか。
 たかが、小説と言う「ありもしないこと」を面白おかしく書いて、たまたまそれが評判になっただけで、そういう意味ではM−1グランプリになった人と同じ、「芸人」ではないか。
 その空威光を笠に来て、弟を無理やり俳優にし、親族を議員や芸能人にごり押ししているだけではないか。
 もっとも、そんな人を選ぶ「都民」と言う人種にも疑問を感じてしまう。
 今回の原発での色々な発言の中で「首都圏の電力を危険ながらも賄っている地域が困っているのに、首都圏では買占め行動なのか」と言うのが強く残っている。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月16 日

論語を読んで「自分」に気づく

 「だからどうなんだ」と言われても困るのだが。
 「論語読みの論語知らず」をそのまま地で行っている様な「書き写し」のメニューに入れてもう2ヶ月は経った。
 勿論全ての事が当てはまるわけではなく、「そんなことを言われても」と言うほうが圧倒的に多いのだけれど、時々「そうだよなぁ」とか「うん、俺はこのようにやってきているし、やっているよなぁ」と言うような文章に出会う事があり、なんだか楽しくなってくる。
 論語は、言うまでも無く、孔子が説いている相手と言うのは「君子」もしくは「君子になるだろう人」なので、私のような凡人で、小人(閑居して不善をなしている、かな?)が呼んだところで、特別な事は何もないし、ましてやリタイアした今では、ますますこの意味合いは無いのだろうが、まぁ、「鰯の頭も信心から」という言葉もあるのだから、そんな気持ちでの書き写しである。
 そんな気持ちで始めているのだから、僅かでも「自分」と言うものに気づかせてくれる文章に出会ったときには「儲けもの」なのである。
 それはそれとして、在職時に「自分に気付け」と言う事で新入社員を約2年間指導(OJT)したことがある。
 そのときには「言うだけ」の上司だったが、それから約15年経つけれど、今論語と言う上司に言われているようで、それもまた楽しい気持ちである。
 反発する文章は「文字の練習」のみということにして、気付きを与えてくれるような文章はそれに加えて、来し方を振り返り、行く方を思考して見ると、君子ならずとも何か得られるものがあるのではないかという気持ちである。
 なぁーんだ、結局は「何か徳を探そう」と言う打算だけなのか、と思い気付かされるのも、一つの楽しみだったりする。

投稿者:つねちゃん
at 09 :39 | 日記 | コメント(0 )

2011 年3 月15 日

餓鬼道

 最近、政治家ばかりでなく、いろんな人がいろんなところで「あれもこれも」と言う要求を矢継ぎ早に出しているのが、どうにも気になって仕方が無い。
 最初は、例に拠っての与党いじめか、と思っていたのだが、その勢いたるや「自分たちはどうしていたのか」とむしろ反対の感情を持ってしまう。
 「何も大臣を辞めさせるのが目的ではない」と言いながら、次々と問責決議案なるものとを持ち出して、本来の審議をまともにやろうとしていないのがミエミエである。
 大臣を自分たちが調べたネタではなく、マスコミが煽り立てたネタで辞任に追い込んで与党を弱体化させたいとの目論見だろうが、今までの政権政党だった時のことを完全に忘れてしまって「あれもこれも」という要求のようである。
 どうも、このことは、なにも政治家に限らないようである。
 市民運動としている「一票の価値」問題についてもそうではないのか。
 極論だけれど、そうすれば容易に理解できるから、敢えてその論理を使うけれど、全ての票の価値を同じにすれば、民力度の低いところの要求は悉く排除され、ただ単に「馬鹿ばかりで構成された民力度の高いところ」の要求だけが、税金の殆どを使ってしまうことになりはしないのだろうか。
 それでも、その高いところの人が挙って選良を選ぶのであれば、まだ救いもあるだろうが、そんな所はえてして投票率たるや30%を切るようになっているのが現状では、本当に「一票の価値」と言う事になるのだろうか。
 そんな奴等が「あれもこれも」と言う要求を突きつけて「民力の低いところは無視せよ」とばかりの勢いである。
 いずれにしても、どれだけ物を充足させても、「あれもこれも」と言うのを餓鬼道だと聞いたことがあるが、程々にしておかないと痛い目を見るのは本人なのだろう。
 勿論これは、他人様ばかりに言える事ではなく、自戒の念を常に持ちながらのことである。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月14 日

次工程は自工程

 東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)に被災された方および親戚を初めとした知人の消息を御心配なさっている方に、少しでも良い結果になることをお祈りいたします。

 標記のタイトルについては、このブログでも何度も使ってきたのだが「言うは易し、行なうは難し」に今更ながら気がついた。
 この標語に出会ったのは、初めての単身赴任だった、昭和62年の管理者単身寮のトイレだった。
 決して「落書き」ではなく、さりげなく架けてあった簡易掛け軸だった。
 それ以来、自分はもとより部下にもこれを使ってよく行動における精神論を説いたものだった。
 リタイアした今でも、折に触れこの言葉を思い出して自戒と反省をしているつもりだった。
 ところが、先日、ここ数年来の月曜日の日課になっている掃除機による掃き掃除をやって、孫を送って行ったりのルーチンをこなしていると、家内が使い始めた掃除機の音がおかしい。
 えっ、さてはと思って、家内に叱られる(?)前に、割り込んで調べると、案の定「もうごみを捨てて」と言う信号が出ている。
 次に使う人の事を考えて、自分が使った後では必ず掃除をしておき、次の人(自分だったかもしれないのだ)が心地よく使えるようにしておくべきだったのである。
 これは精神論ではなく、現実の行動に当てはめる事を忘れてしまっていた事に原因があったのだと、反省すること頻りである。
 その後、今日の月曜日までわずか3回だけだけれど、しっかりと「後掃除」をしている。
 その成果は、今日になって家内が使っている間、好調な掃除機の音で満足する事が出来た。

投稿者:つねちゃん
at 10 :24 | 健康 | コメント(0 )

2011 年3 月11 日

PCでの楽しみ

 似た様なテーマを何度か書いたような気がするが、今回はちょっと視点が違った事ではないかと思っている。
 「パソコンを使っての話をしてくれないか」との相談を受けたのだが、受講生と言う人は、殆ど「私とは関係の無い世界」と良い意味でも悪い意味でも割り切っているような人たちだと言う。
 そんな方々にPCでの楽しみ、と言うテーマは多分およそにつかわないのでは無いかと思うし、最悪は「やっぱり自分には関係が無かった」と思われるのが怖い。
 でも、そんなことを考えているうちに「果たして本当にパソコン(を通じたインターネットなど)の楽しみ」とは何なんだろうか、と自問自答する気分になった。
 正直「嫌々ながら、だけど飯の種」と思いながら従事したこの世界だけれど、今では滑稽な位の規模(メインメモリーが262KB、総ディスク容量が28MB X 8デッキ)のコンピュータだったけれど、それなりに信頼性や運転性、リカバリー技術などを研究すると没頭してしまった。
 そんな延長線上で、色々な上申書を書くことが必要になり「字より恥」と笑われるのが辛くて、ワープロに飛びついたのがPCへの取り掛かりだったろうか。
 だから、あくまでも私にとっては「道具」だったので、それで楽しもう等とは考えた事も無かった。
 その時流行っていた言葉に「面白くなければTVじゃない」をもじって、「楽しくなければ仕事じゃない」と言うやつらには「楽しくなりたいのなら入場料を払って会社に来い」と怒鳴り散らしていたものである。
 そんなことを思いながらも40年余り経過した現在、やはりデジタルデバイドの人は出来る範囲で救ってあげたい。
 そんな人がこれからも多くなるだろうから、改めてPCでの楽しみと言う事を追及して説明してあげられるように、まだまだ自分自身の学習を楽しく続けたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :23 | 学習 | コメント(0 )

2011 年3 月10 日

「本当かなぁ」と思いながら本を読む

 基本的に私個人は「性善説」人間であると思っている。
 リタイアして、それにさらに磨きがかかっているのではないかと思い、時には危うい事までも「そうだろうなぁ、君(あの人)が言うからそうなんだろう」と早合点的に納得してしまうような傾向にあるのでは無いだろうか。
 尤も、これが政治家になると「なんだか裏がありそうだよなぁ」と一変してしまうのも私個人である。
 ところが、長いシステム経験のうち、品質管理に携わってきた期間がある程度長かったのも原因だろうが「生産物」に対しては、常に「性悪説」を取る習慣がいまだに抜け切っていない。
 そういう意味では、一種の職業病なのかもしれない。
 表題の通り、毎朝の「書き写し」ばかりではないが、やはりそれなりに色々な本を読む機会があるのだが、常に頭から離れないのは「本当かなぁ」と言う気持ちである。
 時々、そんな自分に気がついて「それなら読まなければいいのに」と俯瞰する自分がいて、苦笑いする事もある。
 でも、結局は読みきってしまうのだけれど、読後感は「あの部分はやっぱり疑問だ」と言うものである。
 でも、よい意味での健忘症が、そんなことを完全に忘れ去ってしまってくれるのである。
 その上で「あの部分は良かったなぁ」と(勿論読んでいる時に気がついたもの全てではないが)思い出すことばかりであり、そんな中でも印象の強かったことだけが残ってくれているので、それが私にとっての「読書の功」であろうか。
 でも、もし仮に、何にも疑問を待たずに読んでいたならば、その「良かった点」にも気がつかないのでは無いだろうか。
 そういう意味では「性悪説的読書」もまんざら捨てたものではない。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月9 日

HDLとLDL

 医学的に詳しい訳ではないのだが、先日同級生との飲み会に行った翌朝のNHK−TVでこの話題をしていて、見るともなしに見て気がついたことである。
 メタボで血圧や血糖値、それに体重しか気にしていなかったし、先生からもこの点で指摘を受ける事が「全く」無かった。
 だから「私には関係ない」と思っていたのだが、同じに見ていた同級生の皆さん(全て私よりも年上の方ばかりである)が、「へぇー」と言う溜息を漏らされていたので、帰宅後過去9回分(しか見つからなかったので)について、調べてみた。
 大体1ヶ月に一度は血液検査を行っているので、ざっと9か月分である。
 あくまでも「平均値」であるが、LDL(70−139)が80、HDL(40−77)が48という結果だった。
 善玉悪玉と言う言い方は少し違っているようだとのことで、どちらも適量は必要なのだと言う事のようである。
 でも、善玉は最高が58であり、悪玉は最高が99だったから、先ずは安心なので、先生も何も言わなかったのだろうと、愉快になった。
 それにしても、家内からよく言われる「脂っこいものは駄目」と言われるほど「コツテリ系」のものは好んで食べているのに、これだけは在職中からもほとんど改善などされていないのに、こんな数値である事に十分満足である。
 TVでは「定期的な運動」が改善に大きく貢献しているから、京都の仏教系の大学での活動が紹介されていた。
 啓蟄も過ぎたので、そろそろ「外運動」も必要だとは思っているが、外は今日も雪模様であり、なかなかエンジンがかからず、運動とは疎遠になっているのだが、もしかして「書き写し」で仏教系のものを対象にしているので、その御利益なのだろうか、などと考えるのも、又楽しからずや、である。
 今日も背脂たっぷり、大蒜もたっぷりのラーメンを今日の昼食にしようか。 (^。^)

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月8 日

シャープの芯

 毎朝の「書き取り」で使用する用紙は、以前にも紹介したように、折り込みチラシの裏面に原稿用紙をプリントしたものである。
 それでも、紙の質によって、鉛筆が載らないものがあり、その紙の場合はボールペンを使用していたのだが、「鉛筆使用可能」なものが大分溜まったので、シャープペンシルを使っているこのごろである。
 ボールペンはインクの残量が見えるので、今までにも紹介したように「とことん使い切る」ことを旨として実際にやってきた。
 諸姉・諸兄はシャープの芯はどこまで使い切っていらっしゃるだろうか。
 今までは、押して連続して出なくなった場合は、指で抜いて約1cmほどのものは捨ててしまっていたのだが、先日「とことんまで使ったらどうなるか」という疑問が湧き、(この響きが良いなぁ)ノックして次の芯に押されて出てくるまで使って、どうにもならなくなったものを集めて計ってみると、殆どが5mm弱である。
 シャープペンシルのの構造にも寄るだろうが、ここまでやると、ボールペンのインクが無くなった、と同様な感激になる。
 世の中にはもっとそれを活用する知恵をお持ちで実行されている人がいるかもしれないが、現時点でこれが私が出来る限度である。
 でも、単純な「書き写し」と言う作業をやっていても、次から次へといろんな疑問が湧いてきて、出来る範囲で「極める(かなり大袈裟だなぁ)」ことが出来るのも、新しい楽しみの発見である。
 「湧いてくる」「発見する」「極める(やっぱり言い過ぎかなぁ)」などという言葉は、なんとも「前向き」ではなかろうか。
 いつも言うが「お金もかからない楽しみ」と言うのは、挫折や失敗があったとしても、「許される範囲」なのだから、いつまでも続けて行きたいものである。

投稿者:つねちゃん
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2011 年3 月7 日

クラウドコンピューティング

 現場からリタイアして相当になるが、技術的な興味だけはいまだに持っている。
 そこで、私見的なつぶやきになるが、最近の話題について述べさせていただく。
 PC講習を依頼されて月に4回プラス臨時呼び出しにも時々応じている。
 そんな中で、色々な話が出るし、特別話題にならなくても、最近のソフトは、インプリシットではあるが、どうも「クラウド」を意識しているとしか思えないようなものが出現してくる。
 実は、このクラウドと言う発想は、元来横着で、人の知恵借りに頼りがちだった私が、コンピュータの世界に入ってすぐ位に思った発想にかなり近いものである。
 勿論、当時はそんなに論理を構築できるほどではなかったので、日を見ることは無かったし、時々酔っ払いの「与太話」的に言っても、馬鹿にされるどころか、「自分で新しい発想やプログラム作りをしたくないための暴論」とばかりに罵倒されたものである。
 勿論当時は、ネットワークと言うような発想ではなく「特定地点間をつなぐ」だけの「ワイヤ」だったし、「ナレッジ共有」と言うような事は、紙ベースの本でしか出来なかったから、特定の人だけのものだった。
 それがいまや、「クラウド=雲」と言う発想の基盤の上で、実現されつつあるのである。
 われわれクライアントは「こんな事がしたいけど、誰かそれに応じたプログラムを知らないか、それとも作ってくれないか」というリクエストをクラウドに向かって言えばいいのである。
 もちろん、それに必要なデータだった要求できる。
 かくして、そんなに遠くない時期に「こんなん出来ましたけどぉ」と少し前の占いのおばさんのようなご託宣があり、要求が満たされるのである。
 なんと素晴らしい事では無いだろうか。
 勿論、まるっきりの素人ではなく、それなりの経験をつんだ身だから、それまでに到達する経路には、まだまだ深山幽谷があるということは知っているつもりだし、合意を得るというような技術以外の課題があることも感じているのだが、解決にそれほど時間は掛からないだろう。
 いやいや携わったコンピュータ業界だけれど、今こうしていると「これからもまだまだ楽しみが大きくなる」と言う思いがして、つくづく「良かったなぁ」と思う次第である。
 今後も時々、こんな話題に触れてみたいと思う。

投稿者:つねちゃん
at 09 :19 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年3 月4 日

全てに感謝

 時々思うことだけれど、世の中決して良い事ばかりではなく、苦々しく思うことのほうが多いものである。
 だから「そんな状況で何に感謝するというのだ」と叱られそうだけれど、それでも敢えてこれを言い続けたいと思っている。
 いろんなことに文句や苦情を言えることも、口が利けたり、物に書けたりする機能が損なわれていないという事に感謝してはどうだろうか。
 いやいや、そんなことを考えられるという頭脳についても機能が損なわれていない(完全なんてどこにも無いのだから、そんなことを求めるほうがおかしいのだと思えば良い)ことに感謝である。
 世の中の箴言に「目標を持っていない生き方は、生きている事自体が虚しい」という様な物があるが、私は決してそうは思わない。
 勿論、在職中は全く逆で、年間目標を立てて、それを季次に落とし、月次に落とし、週次に落とし、毎日の目標に落として、毎日PDCAサイクルを回せと自分にも言い聞かせ、部下にも指示してきた。
 だからこそ、リタイアした今「目標など無くても、感謝ばかりで十分」と言えるのでは無いだろうかと思う。
 勿論「目標など持つな」と言うのではなく、苦痛になるくらいなら、それを感謝という言葉に代えてみてはどうか、という提案である。
 間違いなく「楽ですぞ」。
 そして、間違いなく、毎日が「ありがたく」感じられますよ。
 朝目覚められた事に先ず感謝し、どれだけ酔っていても、寝る時にも感謝して、それを短くてもいいから、自分にだけ聞こえる声でも良いから口に出して言って見る事である。

投稿者:つねちゃん
at 10 :30 | 健康 | コメント(0 )

2011 年3 月3 日

スーパーのタイムサービス

 先日家内と「タイムサービス」で安く買えるから、と言うので、「遅れてはならじ」とばかりに30分以上も前に到着して、虎視眈々と注目していた。
 ところが、今までの私の乏しい経験ばかりではなく、経験豊富な家内も、時間が迫っているにもかかわらず、一切のアナウンスがなされないので、「ガセ情報だったか」と持参したチラシを再確認したが、間違いが無い。
 いち早く気がついたのはさすがに家内であるが、「お父さんも一つ買ってきて」と言うので、言われるままにゲットできたので、一応は納得できた。
 目的のものは「先着100名様限り、一人1本」というサラダオイルだったのだが、気がついてヤレヤレである。
 この時だけなのかもしれないが、最近のタイムサービスはこうなのだろうか、何か目新しい発見が出来た事が妙に嬉しかった。
 単身赴任のとき、風邪などで休み、午後から回復した時に平日の買い物にこの「タイムサービス」を狙っていった記憶がある。
 その時には、耳を劈くほどの大音響で全館アナウンスされ、その上に店員さんがハンドマイクを使って「ここですよー」とがなり立てていたと言う記憶がある。
 狙っていった割には、さすがに女性陣のパワーには圧倒され「残り物にこそ福あり」と負け惜しみを自分に言い聞かせながらも入手したことばかりだった。
 先着100という事でパニックになるのを恐れての仕業だったのか、それとも別の目的だったのだろうかは定かでないが、「密かに値札の値が変わっていた」というような行動だった。
 でも、こんな事は何度か行われている方法なのかもしれないが、確実に品物がはけていて、私が取ったときには残りが1/3位になっていたから、知っている人は知っているのだ。
 常連様やチラシを丹念に見た人向けだけのタイムサービスだったのかもしれない。
 妙に楽しい気分だったが、後で気がついていたら苦情の一つも言いたくなる事だったろうか。

投稿者:つねちゃん
at 10 :22 | 日記 | コメント(0 )

2011 年3 月1 日

同級会

 年に一度、園芸高校の同級会が行われる。
 今年も無事にこの会を迎えられる事に感謝しながら、参加させていただく。
 老若男女と言う言葉がそのまま当てはまるのだが、還暦を3年も過ぎた私が下から数えると5本の指に入るくらいの年齢構成である。
 週に1回の登校日で、普通科生徒同様に夏休みや冬休みがあった2年間だけど、卒業してからもう5年を過ぎた。
 開催日は、卒業式である1日に決めてある。
 幸い今年は、同級生自体の訃報が無いので、賑やかになるだろう。
 在校時、副級長と言う役だった事もあり、同級会でも同様に副会長を命じられ、旅行企画担当ということになった。
 先輩方やしばらく後の後輩方は、在校時に「修学旅行」で中国へ行ったのだったが、我々の時に「鳥インフルエンザ」と言う事件があったので、中止になってしまった。
 その腹いせと言う訳で、卒業後すぐに有志だけで中国旅行を計画したのだが、その時に企画した中心が私だったこともあるので、そんな役回りになってしまった。
 有志とは言っても、全体で47名のうち32名の参加だから、修学旅行のようなもので賑やかだった。
 その時に「今後は隔年で海外旅行をしよう」という事になり、わたしが役員を辞めた後でも前回は参加こそ出来なかったが、台湾旅行を挙行した。
 で、今年もメインの話題は「今年はどこへ行く」である。
 昨年は参加できなかったのだが、今年は国内になるはずなので出来れば今年は家内と一緒に参加したいものである。
 ともあれ、今晩は楽しい話題と「二次会は強制参加」という幹事の呼びかけで美酒を飲み、楽しく過ごす事になっている。

 で、明日のブログは休ませていただく。

 (今月が始まったばかりだけれど)来月には中学時代の同窓会があり、その後は桜祭りが予定されている。
 美味しいお酒が飲めるように身体を鍛えておかなければ。  (^。^)

投稿者:つねちゃん
at 10 :41 | 日記 | コメント(0 )

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