監督官庁の責任は
在職中「管理職」になったときの研修の一つに「管理者の心得」と言うのがあり、其処ではしつこいくらいに「部下の不祥事は管理者の責任」と書かれていた。
最近の色々な不祥事では、その管理をすべき「監督官庁」の責任は果たして誰が負うのだろうか。
5年で50億円の不正受給、と言っても、支給していたのは、監督官庁だったのではないか。勿論、だからと言って、請求した方が悪くないとは言っていないが、5年もの間、全くそれに気が付かなかったというのは、やはり「監督していなかった」と言う責任があるのではないだろうか。
AIJについても、同じことが言えないだろうか。
世の中全体が不景気なのに、其処だけが突出して運用利益を出していると言うことに、何等の不思議も感じなかったのだろうか。
原発事故についてもその他いろいろのことについても、決して「裏読みできる」だけの知識は備えていないが、なんだか腑に落ちないことばかりである。
そこで、素人ながら「穿った見方」をすると、どうも犯罪者と目される個人や組織と、監督官庁が「ぐる」になっているのではないかという見方である。
そうなれば、台本には「見つかった時はお前が悪者になれよ」と言うことが書かれていて、上手く行けば、そのまま莫大な退職金を何度も頂いて、そ知らぬ顔を決め込む。
露見した時には、数年身を隠していて、その後はしっかりと高給が保障されている団体などの役員に名を連ねていて、「更迭した」後の人事には、監督官庁から派遣されて、また別の形で利を貪る、と言うような仕掛けではないだろうか。
決して、TVのサスペンス物が好きでの類推ではなく、なんだか当たっているとすれば、台本書きのレベルも地に落ちたと言うべきだろうか。
この手の事は、新聞に投書しても、滅多に取り上げられないので、ブログで「仄々」と推理小説を書くかのごとく楽しんでいる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
| 政治への注文
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正夢なら嬉しい
夢を見る、と言うことについては、今まで色々な番組で、レム睡眠とノンレム睡眠の関係だとそれなりの知識はあったので、正直なところ思い出せても、そうでなくとも余り気にならなかった。
ところが、先日何故か妙にはっきりとした夢を見た。
宝くじで「億」の単位ではないが、その下の単位くらいが当たった内容である。
勿論カラーだった。
リタイアしてからの現実だから、もう10年近く前に当選したのが「5万円」だった。
それまでは、入社して2年目だったと思うが、宿直明けで「偶に金沢へでも行って見るか」と出掛け、当時はボックススタンドだった武蔵が辻の宝くじ売り場で買ったものが、1万円当選だった。
当時の給料が確か2万円足らずだったと思うので、かなりの高額である。
勿論、喜んでみんなに話したので、寄って集って飲み代に消えてしまったのは言うまでもない。
それ以外では、ネットで馬券を買った時に、8万円余りの配当があったときだろうか。
その時は、配当金が通帳に振り込まれたのを確認するまでは、誰にも内緒(実は自分でも信じられなかった)で、確認後家内に話し、孫たちにも大盤振る舞いしたものである。
それが、今度の「夢の中」では、その1000倍である。
兎も角、何はともあれ、家内に話し、兎も角今まで「買いたいなぁ、でもお金が」と言う物を片っ端から買うことにした。
洗濯機も斜めドラム式、冷蔵庫も買い替え時、一旦諦めていたGOPANもと、挙げ連ねるけれども、然程には使えないものである。
兎も角、余った分は貯金をしてゆっくり考えようと、パチンコへ行くと、なんともドンドン当たりが続き「もう、いいや」と言うところで目が覚めた。
勿論、今日までその兆候が現れていないので、現実ではないのだが、「正夢」だと嬉しいと思う半面、なんだか恐ろしいような楽しい気持ちでの目覚めだった。
大好きな落語の「芝濱」になって欲しいような、そうでないような。
投稿者:つねちゃん
at 09 :20
| 健康
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近所の店がまた潰れた
時々買い物をするドラッグストアが、完全閉店セールを始めた。
確かに客の数は多くは無かったものの、近くの酒屋へ行った折には大抵立ち寄って、わずかばかりの金額でしかなかった物の、それなりに便利だったのである。
また、店員さんやレジの人の対応も優しく丁寧だったこともあり、それなりに好感が持てた。
街中に同様なチェーンのドラッグストアが出来たのも一つの要因だったのかもしれないし、家内がお気に入りでよく同伴するドラッグストアはこじんまりとしていながらも、活気があつたように思える。
これで心配するのは、市での総合病院で薬局が無くなり、その分業としての薬屋さんが、なんと敷地を出たところに3軒も建ったことである。
確かに母の付き添いで毎月訪れていて、薬を待つのが最も長く掛かったので、会計だけを済ませて一旦母を計画されていた養護施設などへ送ってから、薬を取りにいってまだ待たされたこともあったので、それなりに繁忙だったのだろう。
しかしながら、診療科毎に分かれた薬屋という訳でもないようだし、いずれは淘汰されるのではないかと、他人事ながら心配である。
決して、薬屋が潰れることの心配ではなく、その後が「廃墟」になることの心配である。
前述のドラッグストア近くの今では常連になった酒屋のご主人と話すと、「もうあそこと家だけになっちゃった。簡単に誰か買い取ってくれるのなら、今すぐにでも店を畳みたい」と冗談かもしれないが言われた時には「そんなこと言わずに長く続けてよ」と言うしか言葉が無かった。
さりとて、私に何か対策があるわけでも無いのが少し悔しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :52
| 日記
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USATodayを「見る」
インターネットの楽しみの一つである「新聞を読む」ことは、各社には申し訳ないが「ただみ」である。
主要紙と地方紙を主にコラムを中心に楽しく読んでいる。
この2月中旬以降から、「英字新聞」にも挑戦することとして、ポータルページに登録した。
在職時、出張で米国へ三度行ったが、最初は「NewYorkTimes」や「NewsWeek」などをスタンドで買って読んだりしていたのだが、その中の一つが「USAToday」だった。
各々好き嫌いはあるし、自分に合うかどうかは別だろうが、なんだか全体の紙面が気に入ったので、2回目以降の出張では、購読紙はこれに決めていた。
そんなこともあって、それを「読む」ことにした。
しかしながら、実際の新聞紙面と、ネットでの紙面では、やはり印象が違うので、よい意味でも悪い意味でも少し驚いた。
でも、先ずは「主なタイトル」が羅列されているので、その点が改めて気に入った。
実際の新聞では難しかっただろうが、ネットでは「ハイパーリンク」の技術が縦横無尽に使えるので、随分と手軽に「気に入ったニュースだけ」を詳細に読むことが出来るので、便利である。
「読む」と書いたが、実際には「見ている」と言うほうが正解である。
わからない単語の渦巻く中で、知った単語が出てくると、やはり興味が沸くし、前後の関係でどうしても知りたい単語を調べることも、PC上では比較的容易であり、そんな時は「また今日も新しい知識が増えた」と気持ちが良い。
興味のあることは、日本の出来事をこの新聞はどう見ているのか、と言うことである。
国内紙のコラムと比較して見ることが出来ると、米国人の目から見ることの違いに楽しく驚くこともある。
でも、残念なことに、米国内外で「殺人」と言うことが毎日のように載っているのが哀しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
| 学習
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絵はセンス
専門家的なことは一切判らないながらも、少しその勉強をした家内の指導により「好きな物を『綺麗だなぁ』と思いながら見るだけで良い」と言う言葉に促されて、有名無名に拘らず、色々な画展に時折足を運んでいる。
尤も、その大半は家内の「アッシー君」(もうこの言葉も「死語」の世界だろうか)がメインの目的だったりするのだが。
でも、素人ながら、『綺麗だなぁ』と感じる物は、やはり少しばかりの入場料を払っても充分に価値あるものである。
最近になって、徐々に「ハッピーリタイアメント」としての同輩と会って話す機会が増えてきつつある。
そんな中で、「のんびりと絵筆と戯れたい」と言う人が居る。
時折、誘われるのだが、残念で申し訳ないが、「私には『書くセンス』と言う物が完全に欠如しているから」とお断りしている。
全くの「食わず嫌い」ではないのである。
単身赴任のときに、小さな(人に覗き込まれるのが嫌いで、ましてや批評などは聞く気にならないので)スケッチブックを持って、散歩の時に『綺麗だなぁ』と思うような風景に遭遇するたびに、4Bくらいの鉛筆で書いてみたりしたものである。
ところが、散歩から1週間ほどして、また出かけようかとスケッチブックを出して、以前書いたものを見ると、途端に「破って捨てる」と言う行動を惹起せしめるような物が書かれているのである。
多分こんな気持ちは中々理解してもらえないだろうが、間違いなく、それを何度か繰り返して(この辺が自分でも不思議なのだが、気が付いたらまた書いているのであり、そしてまた破っているのである:単なる暇つぶしだったのかもしれない)いた。
それ以来「絵は見るもので、書くセンスは必要ない」と思うようになっている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 趣味
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日本舞踊
最近「名取り」といわれる方の日本舞踊を見る機会があった。
素人ながら、その身のこなしの流麗なことにはまさに感心するばかりだった。
また、これは震災被害者の慰めとして世界的に有名な方の「ダンス」もこちらは「垣間見た」くらいだったが、ダイナミックさにおいては、日本舞踊とはまた違った意味で、「素晴らしいなぁ」と思った。
後者の方は、また別の機会があれば、それなりの感じを書かせていただくが、前者の日本舞踊には、「出来れば」という意味でお願いがある。
仕種その物は、前述のとおり「流麗さ」という点で見事な物なのだが、その仕種が何を表しているのかが、残念ながらさっぱり判らないのである。
本格的かどうかは判らないけれど、美空ひばりが謡い踊る「車屋さん」や、江利ちえみが歌い踊る「木遣りくずし」などは、その歌詞の文句から「こうなんだろうなぁ」と推測することも出来るのだが、三味線や太鼓の伴奏だけで演じられる日本舞踊は、残念ながら想像すること自体が難しい。
子供の頃、町内の春祭りでは「庵屋台」というのがあって、姉と妹が年頃になって、屋台の上で踊っていたときに、その練習風景を見ていたし、お師匠さんの注意も聞けたので、それなりに「こういう意味の仕種なんだ」と理解も出来たのだが、今はそれも無い。
ちなみに、どちらがどちらだったか忘れてしまったが、「汐汲み」と「藤娘」だったと記憶している。
でも、本当の意味は恋心を歌や舞踊にしたもので、13−4歳の女の子には理解し難かったのではないだろうか。
一々の解説は煩わしいが、何らかの方法で「仕種の意味」が判るともっと楽しいものになると思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :33
| 興味あること
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高校入試問題
もう合格発表もすんだけれど、姪の子供も目出度く目指す高校に合格したとのことである。
リタイアした当時は、大学の入学試験の数学と英語、物理系の問題にも挑戦してみて、採点は別にして「まぁ、そこそこかな」などと嬉しく納得していた物である。
高校入試はそれより少し挑戦範囲を広げてやってみて、これも「まぁまぁかな」という程度に解けたものだった。
ところが、ここ数年は全く挑戦することを忘れてしまっていた。
で、流石に大学の試験にはその気持ち自体が失せてしまっていたので、高校の問題に挑戦してみた。
数学と英語と国語である。
幸いにして、国語は問題数として80%ほどは正解できた。
英語は、勿論聞き取りなどは出来ないので、それは別として30%くらいだったろうか。全く残念である。
数学は、単純計算問題は間違わなかった(かつては良く計算は合っているのだが、最後の答えを書くときに符号が間違って居たりしたので、それには注意した)のだが、元々苦手な幾何などについては全く歯が立たなかった。
答えを見て、学習の楽しみを味わったので、来年はもう少し記憶を蘇らせながら挑戦してみたいものである。
横着なことを言えば「思いつき」が出てこないのが原因だったようである。
先日、現役大学生に質問した物があり「平均」という数字の捉え方が気になった。
「平均身長〇〇cmの集団には、それ以下の人が半数とそれ以上の人が半数居る」ということが正しいかどうか、ということだった。勿論間違いであるのだが、国会でクイズ紛いの質問をしたりするような議員さんも、こんな程度ではないのだろうか。
ならば、もっと基礎的知識をこそ試験すべきだと、極楽トンボのリタイア小父さんはノホホンと考えたりする。
投稿者:つねちゃん
at 09 :21
| 学習
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「囲い込み」ビジネス
今朝も昨日から降った雪で、うっすらと白くなっているが、確実に春先になっており、運動不足解消も兼ねて散歩を始めた。
そんな中で、ある携帯電話会社の店先に「他社の解約料を全額負担します」というのがあり、びっくりした。
在職中の研修の中で、確かに「顧客の囲い込み」というものがあったが、これほどまでのことは議論の中にも無かったように思う。
リタイアして「囲い込み」作戦というのは、基本的に「間違い」だったのではないかと常々思っていたが、これは一線で熾烈な競争社会に居なくなったからだろうと、然程真剣には考えていなかった。
ところが、目の前にこのような「宣伝文句」を見せ付けられると、なんともやりきれなくなってしまった。
携帯電話会社もそうだが、あるコンビニチェーン店でも「兎も角相手を潰せ。そうすれば嫌でも客はこちらで買うしかなくなる。その上でその顧客を囲い込み、逃げられなくしてしまおう」的なビジネス展開もあると聞いたし、現実にそれに近い状態も目の当たりにしている。
果たして、これで良いのだろうか。
「ビジネスは競争だ。だから勝たねばならない」という論理は、在職中の長い間そんな環境に居たから、判らないではないが、それも「度を過ぎる」と理解の域を越えてしまう。
かつて復興期の日本では「品質改善で囲い込もう」という意識が高まり、その結果、幾つかの外国語にもなっている「Kaizen」が浸透していると聞く。
本来の「囲い込み」とは、こんなことではないのだろうか。
少なくとも、このような戦略に左右されて翻弄されないようにしたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :28
| 日記
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酒の陣
私はアルコール類で何が好きかと問われれば、躊躇無く「日本酒!」と言う類の人間である。
この土曜、日曜にかけて新潟で開催されていた「酒の陣」と言うイベントに、娘婿の誘いで、孫も連れて家族揃って行って来た。
途中経過はまた別の機会に書くとして、そこでの楽しかった思いを書かせていただく。
出展蔵元は88。パンフレットによると、出品数は約500だという。
同じ銘柄でも「純米」「吟醸」「大吟醸」など、価格的には1,000円未満の物から、私の経済状況からはとても手が出ない6,000円近くのものまである。
でも、そんなのはお構い無しで飲めるのである。
試飲用のお猪口を買って、それに僅かずつ(後で計ると約10数mlだった)注いでもらって、各蔵元の出品作を飲み回るのである。
正に「飲みまわる」と言う表現がぴったりと当てはまる状況だった。
それでも、最初のうちは「名づけのいわれは」「燗で飲むのか、常温や冷が良いのか」「精米度数はどれくらいか」「何が売りか」などと蔵元の人との会話も楽しみながらなるべく今まで飲んだことの無い銘柄を選んで飲みまわった。
そんな気分だったのは、自分の勘定で約50注ぎ(こんな単位は無いのだが、ぜひ理解して欲しい)位までだったろうか。
「空酒だけは拙かろう」と言うことで、地元の名物が並んでいる所で「つまみ」を買い、小休止する。
その後、まだ回りきれていないエリアを回って、約20注ぎほど楽しんでから、今度は少し長めの休息を孫と一緒に楽しんだりした。
最後は、土産などとして買うために回り、全国的に有名だったり、今まで飲んだ銘柄のうちでも「大吟醸」を中心に約10注ぎ位を飲んだ。
都合80注ぎ(実際には多分それ以上だったろうと思うが)くらいを充分に堪能することができて、随分愉快だった。
娘婿に大いに感謝した。
勘定しやすいように1注ぎが15mlだったとして、15X80=1,200ml。
1升が1,800mlだから、7合余りと言うことになろうか。
いやぁー、やっぱり日本酒は美味しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
| グルメ
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物忘れが激しい
かつて漫画の題材に良くあった例で、こんなのがあった。
お爺さんが何か探し物をしているので、お婆さんが、
「何を探しているの?」
「確か近くに置いておいた筈だか、何処にも見つからない」
「だから、何を探しているのですか?」
「眼鏡じゃよ、最近それが無いと新聞も読めなくなってきている」
「お爺いさん、頭の上」
かつては笑い話と思っていたが、現実にわが身に起こっていることに気が付いて、少し愕然とした。
出掛ける時には、免許証(車に乗る載らないではなく、身分証明書代わりになる)、財布(現金やプラスチックマネーは殆ど無いが、色々なポイントカードが入っている)、そして、入りきらない割引や会員カードケースはセットで持ち歩き、車での場所も決めている。
その他考えてみると、結構色々な物の場所を決めているので、上記はまだ「笑い話」の範疇を出ないものだった。
ところが、先日オーディオセットのリモコンが、どうしても見つからない。
これが無いと、CDのランダム演奏が出来ない(本体でやることはマニュアルを読めば書いてあるのだろうが、やったことは無い)ので、楽しみが半減するのである。
結局、仕方なく順次演奏される曲を聴きながら、新聞を読むなどのルーチンをこなして、着替えてから、携帯を持ち歩くのが習慣になっているので、決めてある場所を見ると、その入れ物のなかにあった。
ボケの始まり、と嘆くよりも、講習でよく言っているように「忘れれば、その分新しい事を覚える隙間が出来る」と言う前向きに考えて、笑い話にしていきたいと考えている。
勿論、負け惜しみであるが。(笑い)
投稿者:つねちゃん
at 09 :37
| 健康
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昨日と違う僕
このブログでも似た様な事を何度か書いたような気がするが、日記を書くコツ、と言う物があるとすれば、表題のとおりだろうと思っている。
かつての私の日記帳は、今は「千年日記」と言うソフト製品を使って拾い集めているが、「三日坊主」の繰り返しだった。
それが、もう数十年も前の物が残っていたりするので「拾い集め」ているのであるが、時々「思いつき」で眺めてみるのも楽しい。
リタイア者との四方山話で「自分史」の話が出るときがある。
ところが、写真は残っているのだが、中々「史」としてまとめるように整理はなされていないのが、本当のところではないだろうか。
そんな時「無理して昔を思い出そうとする寄り、昨日やったことと、一昨日やったことの違いは何だったか、今日やろうとすることは、昨日とどれだけ考え方が違うだろうか」と思ってみれば良いのではないか、とアドバイスするようにしている。
そのうち「そういえば、かつてこんなことがあったなぁ」に繋がり、それから懐かしく昔のことを思い出すことになる。
そんな思い出しは、多分殆どの場合「懐かしく、楽しい」ものであり、よしんば「あの時は辛かったなぁ」と思ったとしても、「今こうしておられるのはあれがあったからこそ」と肯定的に考えられるだろう。
試しにやったごらんになってはどうだろうか。
無理に思い出すことは、大体楽しいことではなく、辛かった、苦しかったことになり、決して「楽しく」はないだろうが、時々「フッ」と「かつては」と思い出すことから繋がることは、殆どの場合肯定的になると思う。
そのためには、今からでも遅くは無く「昨日と違う僕」を日記に残しておけば「自分史」の貴重な資料になることは間違いがない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :17
| 日記
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川柳
ネットで毎日新聞の川柳を楽しんで見ている。
先日見につまされる句を発見して、反省仕切りである。
いわく、
「デジタルで 無駄な写真が 9割超え」
「使わない 多機能分も 払わされ」
先の句は、今までデジタルカメラについて質問されたり、相談されたり、仲間内での話題だったりの時に必ず言ってきたことに「ドンドン撮って、その中から『本当に良い物』だけを選択して、後は捨てれば良い」と言ってきた。
ところが、確かにドンドン撮るのだが、中々捨てられないと言うのが実情である。
どうもこれは、私だけではなく、デジカメを手にした殆どの人がそうなのではないだろうか。
かつての銀塩写真の時には、駄目なものでも現像代が必要だったので、それなりに「選択する」という癖が身についていたのだが、デジカメはそれが無いので、このような句になるのだろう。
次の句は、最近のiPadやスマート本等で見られることである。
PCの世界でも姑スティーブジョブス氏ではないが、ドンドン「次世代」の物が喧伝されている。
今使っているPCはWinMe、XPそしてVistaである。
ところが、Me以外は先日サポート期間の延長が発表されたが、市販ではもうVistaですら店頭に出ていない。
金銭的には買える状況にあるのだが、使いもしない、便利だけれど、通信料と言う継続的な料金が掛かる「多機能」にお金を払う気持ちに今ひとつなれないので、反省と共に考えさせられる句である。
投稿者:つねちゃん
at 07 :03
| 興味あること
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かわいそうな「能無し議員」
このブログでも何度か書かせていただいているが、その殆どは「もっと勉強してよ」と言う議員さんへの要望だった。
でもしかし、最近になってようやく気が付いたのだが、「能無し議員」へ要望することは、「八百屋で鮮魚、魚屋で新鮮野菜を求める」以上に無理なことではないかと思い始めている。
「貴方とは違うんです」と言った総理大臣は「私はみんなから煽てられて嫌々ながら議員になったので、あなた方のように自由に物を言うことなどとても出来ず、私を議員や総理にした人の顔色を伺いながら発言しなければならないのですよ。国民よりもそんな人が最優先なのですよ」と言いたかったのではないか。
議員になれば「誰のおかげでなれたと思っているのだ。俺が一声掛ければすぐにやめさせられるのだぞ」と言うような人に操られなければならないし、「あの時あれだけ頑張ってやったのだから、それなりの見返りはしてもらわないと」と言われて、支援者優先、国民は二の次、三の次にならざるを得ないのだろう。
それが個人ではなく、企業だったり、団体だったり、地域だったりする場合、とても「国会議員」の本質を果たせることなどできるものではなかろう。
ましてや、「どんな質問をすればいいの」と官僚に伺いを立てて、精々3手ばかりを読んだ質問をして、意気揚々となってみたりする。
それをまた支援者が「お疲れさん」と飼い犬にご褒美の餌を与えるかのごとく煽てるので、それが何度か続くと鼻が高くなってしまう。
自分で考えることは「私利私欲、我(党)利我(党)欲」にしか回らないのではないか。
まぁ、よく言うが、そんな議員さんを「自分は選んでいない」としても、結果として当選させている我々国民がそれを「是」としていることも現実なので、私自身あまり立派なことが言える訳ではないが、時々こんなことが言えることが私の楽しみである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :51
| 政治への注文
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「やらんならん」こと
「やらんならん」は富山弁かも知れないが、「ねばならぬ」ことである。
「やらんならんこと」は在職中それこそ「山のように」あった。
先ず「起きねばならん」(そうでなければ何事も始まらない)、「新聞を読まねばならん」(人との話題に遅れてはならん)、「食事せねばならん」(朝食は一日の活力の源)、歯磨きや整髪などの「身嗜みを整えねばならん」(やっぱり人は「見た目」が一番)、電車や車で無事故に職場に「時間通りに着かなければならん」(遅刻は一番の落第事項)などなど、兎も角毎日毎時間が「やらんならん」ことの連続だった。
本音は、最初は「苦痛」だったのだが、慣れてくると「やらんならん」ことが「出来た」と言う快感に繋がり、むしろ毎日が楽しくなってきたことが有るのも事実だった。
リタイアした今、「やらんならんこと」は最近殆ど無いのだが、その半面として「やりたいこと」はたくさんあって楽しい。
とはいえ、このブログもそうだし、HPの更新や日記なども「やらんならん」ことなのだが、それをやらなかったら何かペナルティがあるか、と言えば、何にも無いのである。
在職中はそれこそ「同僚は競争相手」だったから「負けてはならぬ」と言う脅迫感があったから、出来ることなら「より多く、より深く、より、より・・・」でなければ、昇進や給与面で明らかな判定が下されるのだから、ペナルティが怖かったし、「勝った」時の快感も強かった。
今、私の「やりたいこと」と言うのは、かなりルーズである。
いや、多分そうなのだろう。
だって、ペナルティが全く無いのだから。
新聞も購読紙は地方紙だけだが、ネットで全国紙を初め、最近英字新聞も1紙加えた。
孫が小学校へ行く来月からは送迎の必要がなくなるので、早朝の釣りも楽しみたい。
長らくやっていなかったHAMも少しずつ始めてみたいし、まだまだ読んでいない本も一通りは目を通してみたい など等、「やりたいこと」はたくさんである。
在職中「辞めたらこんなことをやりたいなぁ」と言うのとは少し違うのは、それがやろうとすれば「出来る」ことだから、楽しみは間近にある。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
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「負うた子に教えられ」
ことわざの誤用はよくある話である。
一番よく知られているのは「情けは人のためならず」だろうか。
「一所懸命」も本来とは違った意味が既に辞書にも載っていると言う。
表題の言葉は「何を教えられた」のだろうか。
正解(と私が思っている)は「浅瀬」である。
おんぶをしておんぶをしている親よりも少し目線が高いところにある子供から、「お父さん、こっちの方が浅いから安全に渡れるよ」と言われることを指しているのだろう。
逆に言うと「そっちの方は深くて危険だよ」と言われていることになる。
今までは、確かに文章のごとくだなと納得していたのだが、少し穿って考えてみれば、この子供は果たして誰なのだろうか、また、親は誰?と言うことに考えが及んでくる。
花嫁を送り出す時の「長持ち歌」の歌詞のように「蝶よ花よと育てた」子供ではなく、どうか出世して世の中の「民」を良い方向に導いてくださいよ、と言う意味と取れはしないだろうか。
となれば、子供は世の中をよくするために選び育てた人であり、育てた親とは、すなわち「民衆」のことではないだろうか。
そんな風に考えると、果たして選び育てた人が、その役目を果たしてくれているのだろうか。
また、育てた親は「我田引水」的なことばかりを黒幕的に操ってはいないだろうか。
これが私だけの「穿った見方」でないことを祈るばかりだが、腹ばかり立てていても仕様が無いので、「少なくとも私だけは違う」と言う気持ちを持ち、できれば「貴方もそうなりませんか」と誘ってみるのもいいのではないだろうか。
勿論人にはその人なりの立場と考え方があるので、無理強いはしてはいけないが、ノホホンとそんなことを考えるのも、偶には良いのではないか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :48
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新聞が読めることに感謝と楽しみ
毎朝配達される新聞だが、最近富に「感謝する」と言う気持ちが強くなっている。
中学生の頃だったろうか、友人と一緒に新聞配達のアルバイトをしたことがある。
当時は、中学生と言うこともあってなのかどうかは判らないけれど、確か朝は5時頃に出勤して、自転車で約200部くらいを配達したようだった。
季節も春先だったから、もうかなり明るくなっていた記憶がある。
それが、ここ数年、加齢のせいもあるのだろうが、結構早くに目が覚めて、時間を持て余す(最近はやることが多くてそんなことは無いのだが)ことがあり、新聞の来るのが待ち遠しいくらいだった。
ところが、早い時は3時過ぎに届くことがある。
はるか昔の短い経験からしても、驚くべきことである。
そこで調べてみると、面白いことに気が付いた。
11時頃に最終ニュースなどを見てから寝るのだが、その内容が新聞に反映されていないことがあり、大分早くに締め切った内容なのだろうと思った。
でも、情報の収集、選択、編集、印刷、発送から区分けして配達までが、約4時間余りで為されるのだから、兎も角感謝することが先ず最初である。
まだ覚めやらぬ頭脳でベッドに横になって読んでいるが、なんとも申し訳ないような気がする。
そんな気持ちで今日も楽しく新聞を「読ませていただいている」。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
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「上を向いて歩こう」
大好きだった坂本九氏が謡った歌詞を言うのではない。
「最近の若い人は歩く姿勢が悪い」と言う指摘をよく聞くようになった。
尤も「最近の若者は」とは太古の昔から言われていることで、それ自体自分が「歳をとった」ということに他ならないのだが。
そうではなく、自分も果たして「俯き加減」で歩いてはいないだろうか。
それを「姿勢良く歩きなさい」という言葉で諭しても駄目で、思いついたのがテーマである。
俯き加減に歩いているとどうしても「上が向けない」ことになってしまうから、意識して「上を向いて歩きなさい」と言うことである。
今時分が歩いている姿勢で、素直に「上を向く」ことが出来るだろうか。
「前方」ではなく「上=空」を見上げるのである。
意外と変なところに力が入りはしないだろうか。
それは、やはり「悪い姿勢」で歩いていると言うことであろう。
慣れない内は、極端に言うと「足元など見ないで、空を見て(出来ることならば45度以上前方の)歩く」ことをお勧めする。
加齢と共に足元が心配になるので、どうしても下を向きがちだが、それならば、多分どの地区にもあるのではないかと思うが「歩こう会」に入って、体育館などの足元の心配が無い場所で慣れる事をお勧めする。
そうすることによって、半年もすれば、自然と「上を向いて歩こう」の姿勢になる。
健康法などは、いずれも「つまみ食い」的にしかやっていないが、これをやることによって、多分呼吸して吸う空気だって、今までより少しは多くなるのではなかろうか。
とすれば、それだけ体内に「良質な酸素」が取り込まれることになる。
これが体に悪い訳が無かろう。
今日の天気は「曇り」だが、孫の保育園送迎は「上を向いて」歩いてやろうと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 08 :12
| 健康
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後出しじゃんけん
「後出しじゃんけん」は誰が見ても「インチキだ」と攻めるものだろう。
でも、なんだか有識者だとか、事後解説みたいなことが、さも「実しやか」に行われて、挙って「悪者や犯人探しとその責任追及」に貴重な時間を浪費しているのではないか。
原発事故報告やAIJの監督そして、いろんなところで事後開かれる「有識者会議」などは、どれもみんな「後出しじゃんけん」で、言ってることは「正しい」事ばかりだが、果たして「その時」そんなことが出来たのだろうか。
確かに「陣頭指揮」として国政を投げ出して現地へ行った総理大臣の行為が正しかったかどうかは、意見が分かれるのではないだろうか。
事故が起きてから、それこそ「泥縄式」な監査をしてみても、見つかっても見つからなくても救われない。
このテーマを思いついた時点では、勝手な憶測だった「どうせOBが寄って集って人の金を勝手に使ったのだろう」との思いは、最近になって現実化してきている。
こんな「後出しじゃんけん」ですぐに思い出すのは、在職中に、お世話になり、尊敬もしていたI部長と企画して始めた「システム建設評価会議」である。
目的は「色々多難なこともあっただろうが、兎も角完遂したのだから、その苦労を今後のシステム建設に生かして、そのPM(Project Manager)の苦労を讃えよう」と言うことだった。
最初の2回までは、トップの締めの言葉で「よくやった、お疲れ様でした、そしてありがとう」と言う言葉で終わり、I部長と乾杯した物だった。
ところが、1回所用で休んだ4回目では、全く雰囲気が違っていた。
「だったらどうしてこんな工夫をしなかったのだ。連絡や相談が遅すぎたのではないか」など等、叱声ばかりが乱れ飛んだのである。
結果としては、その回でその会議は止めることになった。
4回目のPMは私の1期後輩で、よく知っている人間だったが、彼の言葉が今でも耳に残っている。
「その場にいて一番よく知っている私が、責任を持って判断した。報告して、会議を開いて、結論が出るまで待っている暇は無かったのです。結果として期日までにシステムが完成したのは、私の判断が正しかったと思っています」だった。
後出しじゃんけんで遊んで、犯人探しをしているほど、現実には時間は待ってくれないのである。
I部長との乾杯の席には、勿論そのPM他数名が参加していた。
投稿者:つねちゃん
at 10 :12
| 政治への注文
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今日も「お休み」させていただきます
昨日から家内と小旅行でしたが、ブログだけは書こうと思っていました。
でも、3時頃になって帰ってきたので、すっきりお休みさせていただきます。
明日は確実に書きますので、呆れてしまわないで、お付き合いください。
投稿者:つねちゃん
at 15 :19
| 健康
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今日はお休み
今年からこのブログに限らず、「今日は〇〇だからお休みにしよう」と勝手にしていることが多くなってきているようだ。
まぁ、今日は昨日から園芸高校の同窓会で散々飲んだので、と言うことでの朝帰りで、ある意味「理屈が通っている」と思うのだが。。。
でも、後300回あまりで2000回になるので、それまで続けることの一つの秘訣なのだと思っている。
どうかご寛容の心でお許しいただきたい。
投稿者:つねちゃん
at 10 :43
| 日記
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パチンコは「博打」じゃなくて「娯楽」
趣味の一つで「止めた」と宣言した後、なんだか自分でも「知らないうち」に始めている物に、パチンコがある。
今までのそれは、金銭的にも景品的にも、何より精神的に「博打」そのものだった。
ところが、最近になって気が付いたのは、いつでも「この辺で止めて置くか」と言うことが出来るようになったことである。
一つには「1パチ」と言う物が多く出現してきたことがあり、どれだけ玉を出したところで、換金は元にならないのが常だからでもある。
だから「まだ確変中ですよ」と言われても「疲れたから」とが「時間が無いから」と簡単に止められる。
で、ようやく「娯楽」と思えるようになってきたのである。
最近良く見られるパチンコ台には、「ただ揃えて稼ぐ」式のものではなく、「当たる」までの演出と当たってからのストーリー展開に興味が沸くものも出てきている。
もうあまり置いている店は少なくなったが、韓流ドラマで評判を呼んだ「冬ソナ」では、4時間余りかけて全ストーリーを読みきったことがあり、たくさんの演出にも出会えることが出来たのは、全く「娯楽の極地」だった。
また、歴史的に前後するかもしれないが、仕事人、隠密捕り物帖、黄門ちゃま、などが「ストーリーを楽しむ」的なものだったし、最近また新しい機種として出てきたが「花満開」は演出が楽しめる物である。
さりとて、「博打」に熱を上げていた頃ほどは通っていないので、最近の物はあまり知らない。
「熱く」ならないで「気軽な娯楽」と心がけて楽しんではどうだろうか。
昨日散歩の途中トイレ休憩に立ち寄って、トイレ借り賃、として弾いたところ、とんでもない派手な演出に遭遇し、結果として1万円あまり「お返し」を頂くことになった。
でも、こんなことで味を占めるほど若くは無いので、今まで通りのペースで「娯楽」を長く楽しみたい。
投稿者:つねちゃん
at 09 :23
| 趣味
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