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2013 年4 月26 日

得した時のことは言わない

 退職金のうち、僅かばかりだが、当時の定期預金よりも金利が良いだろうということで、すすめられるまま投資信託に回している。
 残念ながら、やり始めてすぐに円の暴騰で、評価額は下がる一方だった。
 それでも、「すぐには使う必要が無いから、長い目で」ということで、現在まで置いてあり、最近になって少しずつ評価額と配当でプラスになっている。
 ところが、最近になって円安で、輸入品を初めとして、物の値段が上がりつつある。
 残念ながら、我が国は基本的な資源が無いので、昔から「輸入して、加工して、輸出する」ことで国際収支が成り立っていると、むかぁーし、学校で教わった記憶がある。
 それで、円高の時は、輸入品が安くなったので、物を大量に作ったのはいいが、残念ながら「輸出品としては高価すぎる」ということで、諸外国からそっぽを向かれてしまったのだろう。
 でも、しっかりと儲けた人は黙っているけれどもいるのである。
 それが、今度は円安になったので、今まで輸入していたものが高価になって「何とかしくれ」と泣きついている。
 このことだけではないが、自分が得している時には黙っていて、損した時だけ文句を言う。
 それだけならいいが、そのツケを国民や消費者に(税金だってそうだろう)回して押し付けてくる、という姿がなんとも情けない。
 投資信託は今後どうなるか分からないが、特別おろして何かするという必要もないので、まだまだ長い目でいるつもりである。文句を言ったって、始まらないのだから。

 明日から人並みに「ゴールデンウィーク」を頂きます。
 再開は5月の7日からとなります。

投稿者:つねちゃん
at 08 :11 | 日記 | コメント(0 )

2013 年4 月25 日

「日本語の謎」という本の書き写しを終えた

 書き写しネタである。
 本来の私の目的は「指先を使うことでの老化防止と点検」だったので、正直なところ書き写す内容は、極端に言えば「どうでもいいこと」なのである。
 でも、やはり長く親しんでくると、内容にまでどうしても然程豊かでもない脳細胞が働いてしまう。
 それで、右手ばかりではなく、左手でも始めたのである。
 表記の本は、左手で書く「書き写し」に付き合ってくれた本である。
 本を読んでいて、私の癖だが「そんなバカな」とか「そうそう」とか、書き写しをしていても、なんとなくその本と対話しながらやっているのである。
 おそらく、他人から見たら、いい年をしたおじいさんが、何か変になったのではないか、と思われるのではないだろうかと、時々ふっと気が付いて自分でも苦笑いが出てくる状況である。
 それはともかくとして、結構役に立ったと思っている。
 勿論「雑学」だから、いちか何時か使える、というものでは決してないのだが、やはり「知っている」という安心感のようなものがある。
 また、左手での書き取りは、相変わらず「字を書く」よりも「恥をかく」程度にしか上達していないが、それでも「運筆」ということと「継続は力なり」と思いながら続けている。
 時々は指に筋があるかどうかは知らないけれど、変に指が強張ることがあり、使っている左手ばかりではなく、右手にもその影響が出ることがある。
 そんな時は「しばらく休もうか」という気になり、始めた当初は「休みながらやるのも継続」などと嘯いていたのだが、最近は気持ちは起きるが、休むことがなくなっているのは、
やはり書き写しの内容に興味がわくからだろうと思っている。
 さてさて、いつまで続けられるか、このブログに終着駅があるかのようには目標がまだ定まっていない。

投稿者:つねちゃん
at 06 :39 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月24 日

 「しんにゅう」と「しんにょう」

 先日家族がそろった夕食の時に、小学2年生の孫を中心に「漢字問答」で楽しんだ。
 「右」という漢字と「左」という漢字の書き順の違いから、いろいろと楽しい話題がみんなから出た。
 きっかけは、その孫が「『週』という字を一発で丸印をもらえた」ということからである。
 で、その偏についてが今日のテーマである。
 「週」という漢字の偏(正確には「編」ではないのだが)を何と呼ぶのか。
 諸姉・諸兄はそれをどんな「読みかた」でお習いになっただろうか。
 家内、娘、娘の旦那と私が各々違っていた。
 他の人のことはさておいて、私は「しんにゅう」というのは「ぐにゅぐにゅ」が無いもので、「しんにょう」はそれがあるものと別々のものだと理解していた。
 また、その中の点が二つ物は、どのように呼んで区別されているだろうか。
 また、点が二つになっているものは、確実に「画数」が一つのものよりも多いはずなのだが、果たしてどうなのだろうか。
 結論から先に言うと、最近の印刷物やこのIMEでもそうだが、どちらも同じなのである。
 画数については、4画でも3画でも、同じ編が使われた漢字が出てくる。
 いつもはお父さんの帰りが遅いので、中々全員そろっての夕食の機会はないのだが、みんな揃ってこんな話題で盛り上がれることに、感謝するひと時だった。
 また、これを契機に「まだまだ知らないことや勘違いしていることが多いのだなぁ」と反省と、さらなる「楽しい学習」に意欲がわいたことの紹介である。

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投稿者:つねちゃん
at 07 :11 | 学習 | コメント(0 )

2013 年4 月23 日

わずかな差に一喜一憂

 標準BMIには以前した(なった)ことがあるが、そんな時何かの集まりで、温泉での一泊旅行があり、風呂場の大きな鏡の前に立った時、愕然とした記憶がある。
 まるで「地獄絵」に見るようなガリガリ亡者のような体格だったのである。
 それで、数字ばかりを追っているのも考え物として、自分の適切体重は自分で決めている。
 現在はそれよりも約7Kgほど多いので、僅かずつだけれど、減量に努めている。
 毎朝起き掛けに体重計に乗り、図った数字をグラフ化している。
 体重計の精度は0.2Kg単位である。
 そんな時、一目盛りの数字に、現在一喜一憂しているが、何とも楽しい。
 前日は仲間との飲み会があって、馬食鯨飲(こんな言葉は、酒飲みの世界でだけしか使われないだろうが)したなぁ、それにしては増え方がさほどではないなぁ。
 昨日は一日中食事の量には気を付けていたのに、全く減っていないどころか、わずかだけど増えてしまっているのは、やはり身体を動かさなかったせいだろうか。
 等々と昨日の事や最近のことにまで思いを巡らせられることが楽しい。
 勿論、反省ばかりでは、私の嫌いな「後ろ向き」なので、「だったら次はこんなことをして減量に努めてみよう」などと前向きに思うのである。
 数字にしてみれば、わずか0.2Kg程度の差(それも場合によっては0.1上か、もしくは0.3以下なのかも定かではないのだが)なのだが、リタイア後の刺激が少なくなる中、こんなに楽しい刺激も滅多にあるものではない。
 ちなみに、今朝は昨日よりも−0.4Kgである。
 ううーん、昨日はさほど運動をしたわけではないのだが・・・・、そうかぁ、畑で畝づくりをして一汗かいたんだっけ。
 今日はそこに何を植えようかなぁ。

投稿者:つねちゃん
at 07 :01 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月22 日

甘い教職員への処分

 以前にもご紹介したことがあるが、学校での「体罰」には必ずしも真っ向から反対ではない。
 体罰を与える側が、その痛みを体感した上でのものであれば「愛の鞭」だろうと思っている。
 それはそれとして、今日は体罰だけでなく、言葉の暴力をふるった教員に対する処分についてである。
 報道では、戒告とか減給、果ては「再教育」だとなっていて、実質的には「頭を下げている間だけ」の軽いものだ。
 戒告などと仰々しいが、与える側も多少の差と見つからなかっただけの人が「注意しろよ」と言うだけのことで、「蛙の面に小便」以下のものである。
 減給の内容は、10%を1か月。
 時たまパチンコなどのギャンブルで負けただけくらいで、生活に困るほどの額ではないし、それもわずか1か月ということであれば「これで贖罪できた」などとはとんでもないことだろう。
 「再教育」というのは、「暫く大人しくしていろよ」と言うだけで、その間給与も支払われるわけだし、実生活上なにも困らないのである。
 これで「罰を下した」、そしてその期間を過ぎれば「贖罪したのだから、もう何も後ろめたいことはない」では、再発防止はそれこそ「夢のまた夢」で永遠に続くだろう。
 ここは、「民間会社に多く見られる罰則規定」を適用して、戒告や訓告などといういい加減なことはやめて、3年間職場復帰なし(当然給与は支払われない)というような「執行猶予(その間に不埒なことが無ければ現場復帰も可能)、減給ならば、半額を3年間などとすべきではないか。
 再教育などと言うのはもってのほかで、職業選択が間違っていたのだから、教師職を未来永劫剥奪する、位の事であるべきだろう。
 別に「怒り心頭」で言っている訳ではなく、それくらいしないと再発防止にならないと思っているのである。
 これも、品質管理で口が酸っぱくなるほど再発防止を訴えてきた、一種の「職業病」ではないかと、反省と自戒を込めて思っている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :24 | お役所 | コメント(0 )

2013 年4 月19 日

楽しい「当て字」

 書き写しと音読をやっていることは何度も紹介したが、そんな中でいろいろと愚にもつかないことに気が付いたりする。
 そんなテーマが、このブログの真骨頂だと思っているので、全く同じ事は書いていないつもりだが、「似たようなこと」は何度か出てきているのではないだろうか。
 まぁ、あまり気にせず、そんな風に思われたらどんどん読み飛ばしてもらって構いません。
 で、今回は「当て字」です。
 意外と「これが正しい漢字」だと思っていたことが、ずいぶん昔にできた「当て字」ということが結構多くあります。
 戦時中に外国の国名や地名、などというのは、その代表的なものだろうし、最近国民栄誉賞を受けることになった「野球」選手も、当て字というと違うかもしれないが、名翻訳語である。
 それは別として、「しあわせ」と言うと、どんな字を思い浮かべられるだろうか。
 また、これからこちらの方でお祭りがあるのだが、その時に特別祝い事(結婚、出産など)があって、山車や獅子に花を打たれた場合の向上に、「おんさけ さかな 『さーわやま』〜〜」というのがある。
 勿論「お酒と、お肴を「沢山(たくさん)」」という意味であり、それをわざわざ「さわやま」と読み上げているのである。
 その他の例は、ネットで調べればわかるので、ご自分でお調べなさることをお勧めするが、バケツはもともと「バケット」をなまらせて、それをわざわざ「場穴」と書くことはないが、「かわいそう」という言葉は果たしてどのように書かれるであろうか。
 「可愛相」か「可哀想」か。


投稿者:つねちゃん
at 10 :06 | 学習 | コメント(0 )

2013 年4 月18 日

初月給は現金で

 最近は、というよりも、今年初月給をもらう人の親の世代から、「給与」というのは、銀行振り込みが当たり前で、アルバイトなどで稼いだものもそれが当たり前になっていることだろう。
 そんな中で、難しいかも知れないが、初月給だけは、明細書付きで現金で渡せないものだろうか。
 私等の年代は、それが当然だったし、約5年間ほど続いた後で銀行振り込みになった。
 現金でもらうと「えっ、聞いていたよりもずいぶん、少ないじゃないか」というのが本音だろう。
 で、給与明細をよくみることで、社会と自分の置かれていることが少しだけ分かるのではないだろうか。
 与える側にとっても、はっきりとした認識を持たせるという意味で重要な事だろう。
 社員教育とは、時間も長くかかるが、それによって経費もかかるのだが、たったこれだけのことで「意識付け」ができるのだとすれば、そのための経費はわずかなもので済むのではないだろうか。
 また、貰う側にとっても当然で、今まで自分一人で生きてきた訳ではないことをしっかりと認識できるきっかけになるのではないだろうか。
 所得額の先頭には、まず入社説明会などで受けた額が記載されているだろう。
 そして、まだ1か月なのだから、勤怠手当を初めとして、いろいろな手当て欄が空欄のままになっているのではないだろうか。
 そして、控除欄に目を移せば、所得税を先頭に、実にいろいろと減額されているはずである。
 そして、最後に「現金支給額」という欄には、大袈裟に言うと、初任給の2/3くらいになっているのではないだろうか。
 それを意識したうえで、今後は空欄になっている「手当」をいかに努力して高額を埋めていくかにかかっていると思えば、俄然やる気も起こるだろう。
 会社ばかりではなく、社会がそれを望んでいるのだから。
 頑張れ、新入社員たちよ。

投稿者:つねちゃん
at 08 :17 | 子育て | コメント(0 )

2013 年4 月17 日

海自発注の地図に「東海」表示が

 在職中、多くの協力会社と一緒に仕事をした。
 その時に最も気を付けたのは「人との付き合いは性善説で、製品の納入検査については、性悪説で」ということだった。
 最近、「そんなことも弁えないで仕事をしているのか!」と怒鳴りつけたくなるような記事が、表題のものだった。
 言い訳が、また「とんでもない、みっともなさ」で、「十分注意して見なかった」ということだった。
 在職中、自分の仕事なのに、発注先からの報告が遅れていて、その原因も掴まないままに「そう言っていますから」と説明した課長に、その直属の上司がいる前で、技術サポートとして出向いた私が、怒鳴りつけた。
 出張先が大阪だったのだが「『沖縄方面で風が強くなっているようです』というようなことでは、管理職として何を見ているのだ、言いにくい事情があるなら、即刻その会社の責任者を連れて来い。俺が直接そいつと話をする。その代わり、君はこの担当から外れてもらう」とそんな権限などないのだが、当時の私は短気だった。
 このテーマを思いついたのは、この記事を見た時だったが、その後最近になって、問題になっている東京電力でも、同じようなことがあったのには、正直「お役所仕事だなぁ」と思った。
 そんなことでも、お金は流れていくのでは、税金や準税金のような金を使っているところの体質は、根本から見直さなければならないのであろう。
 そういえば、上記のかなりデフォルメされた私の体験談は、民間会社になってからの話である。
 少しではなく、大いに悲しい。
 出来れば、是非とも、懲戒措置を講じて「見せしめ」にしてもらいたいものであるが、多分そうはならないだろうなぁ。
 隠して、再発はまたすぐ起きる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :50 | お役所 | コメント(0 )

2013 年4 月16 日

 「目の当たりにする」をどう読むか

 勿論「まのあたり」であり「めのあたり」ではない。
 ところが、最近というかしばらく前までは「間違いです」と悩まずに判断していた言葉が、若者言葉の流布が多くなってきたせいかもしれないが、それも「強ち間違いではない」という風な風潮になってきているような気がするのは、私だけだろうか。
 そんな言葉を、決して調べる訳ではないが、なんだか最近多く目につくようになってきている。
 これは、誰かに注意しようという気持ちからではなく、本当にこれで良いのだろうか、と悩むことでもないのだろうし、ずいぶん昔に、英語を習った時に聞かされた「Living English」という教本で、先生が言われた言葉を思い出す。
 「教科書の名前は『現在使われている英語』という意味ですが、それとは別に『生きていて成長している英語(言葉)』だという意味もあります」ということだった。
 成長しているのだから、「昔通りの常識」は通用しなくなってくる、というのは、至極当然のことなのかもしれない。
 でも、どこかで、誰かが、「これは本来はこう読む(使う)のだよ。それがなまって、現在はこうなっているのだよ」ということをやはり伝えるべきではないだろうか、と中幸年の小父さん(もうお爺さんだけど)は思うのである。
 「なさけはひとのためならず」とか「いっしょけんめい」の意味も「人のためにならない」とか、「一生」では、もともとは違っていたのだと、やはり伝えたいなぁ。
 ここのブログでは、あくまでも、基本精神が「のほほん」「仄々」で「徒然」だから、目くじらを立てる気持ちは毛ほどにもないのだが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :50 | 学習 | コメント(0 )

2013 年4 月15 日

交通安全教育

 今シーズンも、春の交通安全ということで、当番として2日間朝の学童の登校時に街頭指導に立った。
 小学生も、中学生も、中には少し時間が早く登校するのだろうか、高校生もいた。
 いずれの中にも「ピカピカの一年生」がいて、小学生はランドセルカバーが真新しいのでわかり、ちゅうこうこうせいは、やはり新調して汚れが全くと言っていい程無い制服でわかる。
 なんとも楽しい季節である。願わくば、いつまでも元気な声で「おはよう」とあいさつしてほしいものである。勿論こちらも続けてゆきたい。
 そんな中で、ついつい行わなくなってしまうのが「右側通行」の順守である。
 そこで、素人として考えたのは、多分本旨に悖るだろうが、子供にも、いやむしろ大人に対しての教育は「そうだったら損をするよ」という趣旨で教えたらどうだろうか、ということだ。
 決してあってほしくはないが、重大ではなくても、万一事故に遭遇した場合、保険での保障ということとになるのだろう。
 そんなときに、右側通行をしていなかった、という事実があったら、保証の額も違ってくるのではないだろうか。
 また、横断歩道でない所を渡っていた場合もどうだろう。
 世の中「何でも金」とは決して思いたくはないけれど、最終的な調整ということになれば、やはり行きつくところはそうなるのだろう。
 単に「右側通行」「横断歩道を渡ろう」というのも大切に違いないが、それをやらなかって事故に遭った場合は、こんなことにもなり兼ねないよ、という教え方も必要ではないだろうか。
 勿論、先にも述べたが、子供だけではなく、大人に対してもそうである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :27 | 子育て | コメント(0 )

2013 年4 月12 日

小心者

 この季節、本来ならば「春眠暁を覚えず」ということで、なかなか布団から出られない「症候群」が老若男女を問わず、というところが通り相場のはずである。
 ところが、ここ数日は何故か、いつも以上に「目覚めが早くて良い」状態が続いている。
 いろいろと原因を考えていたのだが、特別これと言ったことも思いつかずにいた。
 でも、ようやく「多分これだ」というのに思い当たったのが、表題のことである。
 私自身、昔から「内気で陰気で赤面症」というのがキャッチフレーズだったはずである。
 でも、それが「治った」というよりも、意識して「糊塗した」というのが当たっているかのような、表面上の態度になったのは、高校生も3年になった頃からではないだろうか。
 先日も書いたように「激しく向かってくる戦車」の如く、自分の臆病さや小心者であることを見透かされないように、意識して「そうではない」と表していたのだろう。
 ところが、やはり本来の性質というのはなくなっておらず、また、在職中のように「競争すべき相手」がいなくなったリタイア後は、それが地金として出てきたのであろう。
 回りくどい言い方だが、このところ、毎日のように「しなければならないイベント」が詰まっているのである。
 だから「寝てなんていられない」という小心者としての根性が表に出てきているのではないだろうか。
 何だかそんな風に自己分析してみると、意外と簡単に自分での解決方法が見つかりそうである。(現時点ではまだ見つかっていないのだが)
 でも、少なくとも、前述の如く「良い」状態で起きられるし、だからと言って昼間寝不足で困るようなこともないのだから、必要な睡眠量は取れていて、健康を維持できているのだろう。
 そんな風に思えること自体が、「今日も元気だ、お酒が美味しい」につながっているのだろう。
 そういえば、気がかりの一つが今晩の飲み会だが、明日になれば確実に要因が一つ減っているのだから、シメシメ、である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :38 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月11 日

音読記

 音読していて、過日「仏教なるほど事典」というのを読み終えた。
 書き写しや音読で、宗教関係のものは、大体これで終えたと思っていたのだが、この本を読んでいて、「これも読んでみようか」というものに出会ったので、まだしばらくは続きそうである。
 以前にも紹介したが、父を見送る前までは、無神論者ではなかったものの、お寺さんやお経については「お付き合い」としか思っておらず、お寺さんとの付き合いもほとんど母に任せていたのだが、その母も認知症になったりで、「しようがない」と思いながらお付き合いを始めたのである。
 在職中に「お経」というものに少しだけ触れたとすれば、部下を叱責するときの言葉の一つに「理屈はそうだろう、それはそれでっばな学問だが、現実とは些かの乖離があるのではないだろうか。言うならば、どんなに立派なことが書いてあるお経でも、現実にそれができるかどうかは、やはり体験で裏付けなければ、何の意味も持たない」と言っていた。
 その信念は、今でも変わっていない。
 また、ブームになっては消え、また起る「般若心経」については、「色即是空、空即是色」をさすがに「色」を「色気」とまでは勘違いしない程度には学習し、「無」ということについても、少しだけ読み聞き齧ったことがある程度だった。
 リタイア後、チラシの裏を使ったりしての「ずぼら写経」を通じて、「門前の小僧」程度にはなっただろうか。
 いまだにその神髄などは解る筈も無かろうが、一つだけ違って来ているのではないか、というのは、「お経」の文字面に接しても「つまらない」と思わなくなったことだろうか。
 一応は「なるほど」と理解し、その言わんとするところを汲んでみる、という姿勢になったのではないだろか。
 そのうえで、自分の意見はこうだ、と主張するようになっことだ。
 以前は、罵声で、相手の話の途中に蔽い被せて激論していたので、ある研修会で「向かってくる戦車」と言われたが、それは大分少なくなったのではないだろうか。
 勿論、加齢のせいでその元気がなくなったことも大いに影響しているのだろうが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :33 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月10 日

下手な落語

 落語はどんなものでも好きだ。勿論「演じる」ことなど思うこともないが、それなりに沢山の演者の沢山の話を録画や生放送、二度だけだが、実際の高座で聞くことがあったし、今でもTVでそれに関する番組があれば、ほとんど見ていると自負している。
 だから、あくまでも下馬評でしかないが、「あいつは上手かったねぇ」がほとんど話題である。
 ところが、先日、まことに残念ながら下手な「死神」を聞いた。
 素人の私なりに、この話の「勘所」というのがあ。
 まずは、死神との出会いの切っ掛けではないだろうか、ぼんやりとして「死にたいなぁ」というので遭遇できるのであれば、自殺者が3万人にも及ぶ時代で、数人は遭遇しているではないだろうか。それでは、現実すぎるので、非現実を現実のように感じさせることが必要だろう。
 まだまだいくつもあるのだが、サゲが誠に詰まらなかった。
 「消えるぞ、消えるぞ、消えると死ぬぞ」という死神の言葉に対する反応をびくつきながらも懸命につないで生きようとする、そんな中で「消えた!」では、余りにも「とたん落ち」なのかもしれないが、詰まらなかった。
 地元出身の志の輔師匠のサゲは、一旦は点くのである。
 暗い洞穴からせっかく注ぎとめた蝋燭を持って出てきて、あまりの明るさに必要ないと思って、吹き消す、というものだった。
 さすがにそれほどまでの奇抜さを求める訳ではないが、大好きな「芝浜」の最後の所で、好きな酒を長い間絶っていて、いざ飲めるというほどの喜びに近い演出がほしかったなぁ、と思うのである。
 決して「真打の粗製乱造」とは言わないが、やはりいつまでたっても時分の噺を反芻してほしいと思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 08 :15 | 日記 | コメント(0 )

2013 年4 月9 日

運勢の読み方

 新聞を初め、雑誌やネットのポータルサイトなどその他いろいろな所に「今日の運勢」が出ている。
 月単位で出ているものもある。
 生まれ月、干支、星座(これにはいつからか知らないが、新星座というものもある)などいろいろな側面から占ってくださっている。
 若い時は、ずいぶん気にしたこともあり、半面全く「見もしない」時もあった。
 でも、最近は、楽しく面白く、必ずと言っていいくらいに読んでいる。
 勿論、それで一喜一憂する訳ではないが、良いにつけ、悪いにつけ「そんなこともあるかもしれないなぁ」と思いながら。
 良いことが書いてあれば、知論期待するし、悪いことが書いてあれば、それなりに(あくまでもそれなりであって、真剣になることはないというよりも、忘れてしまっている場合が多い)注意もすることになる。
 で、機会があれば、いやむしろ作って、朝読んだものと同じものを夕方や寝る前に読み直してみると楽しい。
 そして、これからが本意である。
 良いと書いてあったことに、わずかでも触れることに気が付いたり、嫌々、むしろ一日の行動から根掘り葉掘り掘り起こして、針小棒大に喜ぶことである。
 また、悪いことに触れることを探し出して、「あぁ、この程度で済んだ、良かった、良かった」と思うことである。
 これで、夕食前ならお酒が一層美味しくなるだろうし、寝る前であれば、安眠できること間違いないだろう。
 これこそが「健康日記」となるのではないだろうか。
 例によって、お金もかからず、時間もそんなにかからず、ただ「思うだけ」で健康に良いとすれば、騙されたと思ってもやってみる価値はないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :21 | 日記 | コメント(0 )

2013 年4 月8 日

書き写しでの「エッジ処理」

 「書き写し」をしていることは、このブログでも何度も紹介しているが、最近また「新たな発見」というか「気づき」を経験した。
 文章の段落を改めるときは、一文字分下げて書くのは、当然のルールとしてやっていたのだが、その書き出しが『「』で始まる場合は、どうなさっているのだろうか。
 いくつかの印刷物をみると、どうも『「』は下げて書かれていないようである、ということで、私もその場合は先頭文字の所に書くことにした。
 また、その行の末尾の文字の所に『「』が来る場合はどうだろうか。
 これも印刷物を見ると『「』の次の文字を少し窮屈だが、一枡に埋めているようであり、それに倣うことにした。
 また、文末が句読点の直前で終わるときはどうだろうか。
 まさか、次の行が句読点で始まることはないだろうし、みっともなかろうから、欄外に書くことにしている。
 Wordの自動的な文末処理では、単語毎次行に移したりしているのだが、原稿用紙という文化がないのだろうからかな?
 いずれにしても、多分まだすべてを理解、納得している訳ではないだろうから、これからも新たな発見があるのではないだろうか。
 ボケ防止のためのとして始めた「書き取り」だけれど、思わぬ発見ができることで、何とも楽しくなってくる。
 右手の書き取りで気を付けていることは、「枡目一杯の大きさで文字を書く」ことであり、小学生の孫にも注意されないように、書き順を間違えないようにすることである。今でも時々間違う「右」「左」がそれに該当する。
 また、「わ」「れ」の左をずるしないで書くこと。
 指先だけでなく、結構頭のトレーニングにもなる。

投稿者:つねちゃん
at 09 :22 | 学習 | コメント(0 )

2013 年4 月5 日

歌舞伎熱に浮かれない

 新歌舞伎座ができて、老いも若きも、猫も杓子もフィーバー状態の如くの様に報じられている。
 果たして、現在「歌舞伎」そのものにそれだけ国民の関心があるのだろうか。
 さりとて、どこかの市長さんのように「解らないから『好きではにレベル』ではなく『嫌い』そんなものに市の財源を振り向けるのは嫌だ」などと言うつもりは全くない。
 古典芸能、だと言われれば、それなりに大切に保存することは必要だと思う。
 研修所時代に二度だけ歌舞伎座で歌舞伎を見た記憶がある。
 一般教養のとして最初は、正直「全く分からず、つまらない」時間だった。
 大体、題名自体が分からず、途中から「お富さん」だな、というくらいが分かっただけ。
 「与話情浮名横櫛」と書かれてあったが、「余は情け浮名の横ぐし」と果たしてほとんどの人が読めるのだろうか。
 「源氏店」と書いて「げんやだな」と読むのは、やはり春日八郎の「お富さん」のほうが分かりやすい。
 次は、友人のお父さんが上京されて、誘われたのがきっかけだった。
 さすがに、それまで約1年ほどあったので、図書館で「読み齧った」程度の知識はあり、題名は「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし はなの にしきえ)だった。
 大体、諸姉・諸兄に置かれては、読めますか?そして、その粗筋などが想像つきますか?
 平たく言えば(尤も後にこうタイトルが変わったとか)「白波五人男」である。または、「弁天小僧菊之助」である。
 ことほど左様に、一般知識としては「知っていても困らない」程度であるのだが、「何とかの助」などの「お練りにフィーバーする気にはまったくならない。
 そのうちに、大向こうから掛ける「掛け声や」さんも少なくなるのではないか。
 歌舞伎以外で人気を取り、歌舞伎に人を寄せる、という手も勿論ありだろうが、もう少しわかりやすくすべきだと思う。
 もっとも、今回は題名や筋書などは手元に表示されるというから、それなりに改善されているのだろう。
 でも、肝心の舞台を見なくなるのでは、と余計な心配である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40 | 日記 | コメント(0 )

2013 年4 月4 日

大根菜

 昨年園芸の残りとして、大根の種が余った。
 雪国のため、畑に撒くことは叶わず、プランターに植えつけるしても、大根としての収穫は思いもよらなかったので、今までは完全に諦めて捨ててしまっていたのだが、「葉だけ利用できないか」ということで、冬期間使わないプランターにかなり乱暴に「ばら撒いて」置いた。
 しかしながら、水分だけは毎週欠かさずに薄い液肥として注いでおい。
 雪がかからないように物置という屋内に置いたので、ほとんど日の光に浴することはなかったのだが、気温が少しずつ上がってくるこの頃は、なんだかずいぶん元気になり、少し齧ってみると、柔らかく、特別えぐみもない。
 で、満足そうな数株を収穫して、漬物の彩や、味噌汁の具材として僅かずつだけれど、楽しく味わうことができた。
 また、同時にたくさん余ったのは、小蕪の種であったが、これもプランターに10数株も「小蕪です」と主張して育っている。
 煮物にも良いのだが、私が好きなのは、本当に簡単な、一夜漬けである。
 きれいな葉とともに、細かく刻んで、私なら「ビニール袋に塩と唐辛子」を入れて空気をいっぱいに入れて膨らませ、十分に振って混ぜ、その後十分に空気を抜いて、新たに塩を加えて一晩おくだけで、美味しく食べられる。
 多分これだけ収穫できたのだから、家内が、より美味しく、尤も私にとっては辛みが少ないのだが、孫を含めて食べられるように細工するだろう。
 どちらにしても、これで「余り種」を有効に活用できることが分かったので、今度は、少し丁寧に、欲を出して、もっと多く食べられるようにしたいものである。
 体の健康に、貧乏性の防止にも「健康的」ではないか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :28 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月3 日

捕らぬ狸の皮算用

 政治の世界や金融の世界ばかりの話ではないだろうし、国際間のいわゆる「外交」についても、どうも素人目には、表題の通りになっているのではないかと思えてしようがない。
 「言っただけ」での影響で、いろいろなものが、表題通りに動いてしまう。
 また、「言われただけ」でも同じような様相を呈している。
 昔からあまり好んで読むほうではなかった本の種類に「歴史物」がある。
 武将などの名前を覚えて、それを引きづり乍らストーリーをたどっていくのが、苦痛だったから、というのが根本原因だったし、ましてや、その前後関係や土地を離れた武将などの動きの同期合わせが苦手だったからである。
 それが、本社勤務になって、片道の電車の時間が1時間ほどあり、幸いに乗ってすぐの駅が乗換駅だったので、容易に座れた時に、最初はビズネスものを読んだのだが、人から勧められた「徳川家康」を読んでから方向が大きく変化した。
 秀吉、太閤記、信長、信長記、二代将軍の秀忠(あまり捉えられていないことから)、水戸光圀(黄門ではなく)等々思い出せないほどたくさん読んだし、徳川家康は3度は読んだだろうか。
 そんな中で、武将が考えることは「果たしてこれは『本当のこと』なのだろか」と熟考しての決断だった様に思う。
 それも当然で、それによって常に「生きるか死ぬか」の背水の陣での判断が必要だったからだろう。
 それが今、政治家は「どうにかなるだろう」だし、投資家は「最低の被害にとどめられれば、他人がどうなろうと」だ。
 ましてや、危険な玩具としてしか捉えていない「核」を脅しの道具に使い、それによって戦々恐々とする外交も甚だ心許ない。
 情報が大きな武器となっている現在、もっと熟考を重ねて判断すべきだと思うのだが、ごまめの歯ぎしり、蟷螂の斧でしかないのが残念だ。

投稿者:つねちゃん
at 08 :29 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月2 日

素直が一番

 最近少し気になるのは、「素直さ」がだんだん少なくなってきていて、むしろそうする人や事が人気を集めているような気がする。
 全体的に「不景気」なのに、掛け声だけで景気浮揚を煽ったり、そうすることが「良いこと」だと持て囃されたりしていないだろうか。
 僅かなお金だが、退職金の一部を当面使わなくてもいいから、ということで、普通の定期預金などの金利よりも少しはいいのかと思って、投資信託に預けてある。
 残念ながら、現在の「時価」は当初よりも大分盛り返したとはいえ、まだまだ投資額までは回復していない。
 でも、日経平均株価の上下に連動している場合は、どうなっても、みんな同じなのだから、と納得してしまう。
 これが「素直」なのだと思っている。
 円高の時には、息をひそめていた物価が、円安になると「これでもまだ足りませぬ」とばかりに値上げを公言する。
 これは、果たして「素直」なのだろうか。
 毎日のように新聞に入ってくる「安売り」の折り込みチラシで、そこまで出かけても安い場合は、所要時間をあまり気にせずに買いに出かける。
 これは素直なのだろう。
 でも、主夫感覚もある程度身についてくると、冷蔵庫の貯蔵量と今までの使い方、これからのイベントなどを考えて、判断することになるので、「もっと素直」になってくる。
 在職中に、信頼できて好きだった上司から「お前は素直すぎる」と窘められたことがあって、注意していたら今度は「もっと素直になれ」と言われたことがある。
 この時は、終業後その上司を誘って飲みに行き、散々こぼしたが、その時に言われたのは「中庸を弁えろ」ということだった。
 果たして現在リタイアして、何のしがらみもない私は、本当に中庸の素直さをキープしているのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 健康 | コメント(0 )

2013 年4 月1 日

漢字の読み

 よく見るTVのクイズ番組で、特に「漢字の読み」については興味深く見て「楽しい学習」を楽しんでいる。
 そんな中でも、知りすぎているものについては、今更「この漢字どう読みますか?」と聞くのは、よほどの難読漢字でない限り、質問するほうが「馬鹿じゃない?」と言われそうだ。
 でも「描く」はどう読みますか、それは本当に正しいですか?
 また、「記す」は如何ですか?
 こんなに易しい漢字でも、そのように聞かれると「???」となってしまうのではないでしょうか。
 そうです、二通り(漢字によってはそれ以上のものもある)あって、そのどちらも正しいのです。
 要はTPOによる使い分けなのです。
 「絵を描く」の場合でも「かく」と「えがく」で、必ずしもTPOばかりではないようですが。
 「日記を記す」場合は、少しだけ違うような気がします。
 諸姉・諸兄はどのように使い分けられますか。それとも全く同じように使われますか?
 基本的に、土・日・祝日を除いての毎日書き取りと音読を少しずつ続けています。
 そんな中で気が付いたことなのですが、これが結構面白く感じられたのです。
 「えがく」「しるす」と一辺倒で読んでいたのですが、どうも「語呂」が良くないのです。
 そして、私なりに「ここはこのように読むほうが筆者の意向に沿うのではないだろうか」と判断しながら読むと、単に字づらを読んでいるのとは、今一つ楽しみが増えるように感じられます。
 つまらないこと、と一笑に付されるでしょうが、それでも「私の楽しみ」だと思っているのです。

投稿者:つねちゃん
at 09 :54 | 学習 | コメント(0 )

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