ふんぞり返っている
今日で秋の交通安全運動も終わるが、毎度のことで街頭指導に立っていて気が付いたことがある。
家の事情等もあるのだろうから、中学生を車で送ることを否定はしないが、一人だけだったら、どこに座らせるだろうか。
今流行りの言い方で言うならば「助手席でしょう」。
それが貴賓でも送るかのように後部座席に乗せている親御さんや爺婆がいらっしゃる。
外から見ると、座席の関係から仕方ないだろうが、まさに「貴賓」である。
助手席にいれば、見るものが同じになるから共通の話題も自然に出てきて会話もできるだろう。
昨今私もそうだが、電子メールで面と向かっての会話の機会が少なくなってきている。
そんな時にはうってつけの機会ではないだろうか。
助手席は何かあったら危険だから、という論理もあるだろうが、それならなおさら安全運転に気を付けた運転になるだろう。
これが高じると、お隣の国のように「子供は偉い」というような風潮になりかねない。
子供に限らず、人は「大切」ではあるが「偉くはない」のである。
それは総理大臣をはじめとする国会議員や、税金で飯を食っている能無し役人、体罰をしても「それが教育だ」と言ってのけたり、それを監督する組織の甘い処分しか下さない先生OBなども、決して「偉い」訳ではないのであろう。
些細な事と言われるかもしれないが、昔から言われたり、自戒の念としている言葉に、
「水は低きに流れ、人は易きに走る」がある。
自分の子や孫に親切にして、かつキチンとした行儀を教えなければ、結局はそうした自分が悪いのである。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 06 :46
| 交通安全
| コメント(0 )
半沢直樹ブーム
どうも天邪鬼根性があるようで、「評判の」というものにはあえて顔をそむけるようにしてきている。
家内が薦めるので、録画した物を一緒に見ることになったが、これほど酷いことは経験がないが、「似たようなこと」は結構見てきている。
いや、私だって「責任転嫁が全くなかった」とは言えないだろう。
最終回はかなりの視聴率を取ったと聞いているが、全10話を確か5回くらいにわたってみることになり、次回はいよいよ最終回である。
見たいようでもあり、見たくないようでもあるというのが本音である。
本社組織にいて、一時期人事のお手伝いをしたことがあるが、これほど一人や一組織の横暴までは目にすることはなかった。
ということは、それなりに幸せだったということだろう。
でも、もう20年以上も前のことだから、時効だろうし、膾炙や組織自体が大きく変わっているのだから、「昔話」でしかないが、確かに人事は大変であった。
場合によっては「生殺与奪」の権利(いやいや仕事としての義務だろうか)を与えられるのだから、かなりの責務であり、ドラマほどではないけれど、あちらこちらからいろいろな誘惑があったことも事実である。
私のような「事務取扱」的なお手伝いしかしていない者にも、場合によっては破格な接待を受けたことがあった。
当然上司に判断を求めたり、報告したするのだが、結果として私の判断は間違っていなかった様で、それによって叱責されたり、もちろん罷免されることはなかったが、今にして思えば、相談された上司も困ったことだったろう。
現代版水戸黄門ではないが「勧善懲悪」という筋書きは確かに見ていて痛快ではあるが、少し身に覚えがあるということを考えると、見ていて「疲れる」ドラマだった。
投稿者:つねちゃん
at 06 :38
| お役所
| コメント(0 )
薬には購入日付を
以前にも紹介したかもしれないが、「物」を購入した時には、大概の場合(どうしても書けないものがあるので)目立つところに「購入日付」を張り付けるようにしている。
ところが、心がけてはいるものの、どうしても「他に書いてある」ということで書くのを忘れてしまっていることがかなりある。
まだまだできていないが、今年の目標の一つに「断捨離」がある。
それでつい先日「何が入っているんだろう」とあまり使わなくなっていたボックスをのぞいてみると、ナント数年前に買った薬の類が出てきた。
目薬、痔の薬、絆創膏、包帯、眼帯、脱脂綿、水虫の薬や虫刺されの薬など、今年も買ったものと銘柄は違うけれど、効能は同じものである。
そうだ、薬には容器が小さいこともあり「喉元過ぎれば」でも「また使うかもしれない、残りもだいぶんあるし」ということで薬箱代わりにしていたボックスに入れておいたものだろう。
価格にすればどれほどの金額でもないだろうから、思い切ってすべて捨てた。
現在、水虫の薬と湿布薬を使っているが、それにはきっちりと購入日付を書いておいた。
水虫の薬は、皮膚科から調合されたもので、袋には日付が入っているが、容器そのものに書き込んだ。
湿布薬は容器が大きいので、大きく書き込んだ。
内科系の薬については、以前胃潰瘍の薬を1カ月分もらって、2か月経っておなかの調子が悪くなったので行くと、女性の先生からこっぴどく叱られ、医局や受付の人たちにも大いに笑われてしまったので、これはきっちりと飲んでいる。
現在は血圧と糖尿の薬である。
そうそう、昨日等々ダメになったレコーダーを買い替えたが、これにも目立つところに張り付けておこう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
| 健康
| コメント(0 )
「完全」は完全な嘘
在職中、品質管理という部門に結構長くいたせいか、人には「性善説」、物には「性悪説」というのがモットーというか、一つの職業病だった。
「今度は完全に大丈夫です」という人には、「それだけで嘘だろう」と揶揄して簡単には受け付けなかった。
私の場合は、ソフトウェアの品質管理だったから、システムが大きくなるとともに、残念ながら必ず「不具合」があるのである。
それを「完全」という言葉で保証できるのは「神のみぞ」という気持ちが常にあったし、自分もそれをリリースする責任者になった時には
「少なくとも以前の不具合の原因は明白になったので、再発は起きないと自負しています」という程度にした。
最近「完全」という言葉を時々政治屋さんの口から出るのを聞いて、「また嘘をついている」と思うばかりである。
勿論、だからと言って「完全」を求めないという訳ではなく、それを言訳の材料にすることなどは思いもつかない。
リタイアして10数年の今でも「できる範囲で」というやわな前提ではあるが「完全」を求めているつもりである。
でも、今回や、以前にもあったような政治屋さんの、やっても見ないうちから「完全です」というような言い方は、いかに国際的なプレゼンの場であろうとも、とても恥ずかしくて居た堪れないと思うのだが。
尤も、残念ながら今の政治屋さんに「恥ずかしい」という気持ちを期待することが、魚市場で新鮮な野菜を求めるくらいに困難なことなのだろうなぁ。
でも、そんな人を選んだのも我々民なのだから、嗚呼。
投稿者:つねちゃん
at 06 :34
| 政治への注文
| コメント(0 )
レトロ問題が解ける
先日NHKで「昭和レトロ対決」というクイズ番組があった。
「早押し」などの参加はできなかったし、その機会があっても参加はしなかっただろうが、驚いたのは、ほとんどの問題が解けて正解だったことである。
やはり解けると楽しいが、それ以上に「歳を取ったのだなぁ」という思いがしてきた。
これは決して「困ったなぁ」ではなく、メタボリックで治療のための病院通いをしてはいるものの、毎晩の晩酌がおいしく飲めたり、適度な頭脳への刺激のための書き写しや音読そして気ままな散歩も楽しめていることへの、感謝である。
同期生には「まだまだ若い者には負けない」という人もいて、それがまた現実でもあるのだからそれはそれで頼もしいが、リタイアして平々凡々、のほほんと過ごしていられる自分も許されるのではないだろうか。
このブログでもよく使う引用だが、「雨にも負けず」の最後のフレーズが大好きである。
「〜みんなから『でくの坊』と呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず」
幸か不幸か、直接「でくの坊」とも言われず、「お前がいると苦になる」とも言われていないから、まだまだそうはなっていないのだろうから、当分はこのままで過ごしてゆきたい。
尤も、陰口で言われている分には、気にならないから、それはそれで「人の口に戸は立てられない」のだと諦めるしかない。
すごい、私なりの「諦観」である。
そう思っていれば、身体的な健康は別としても、少なくとも精神的に健康であることには間違いないのだろうから。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 08 :45
| 健康
| コメント(0 )
栗ご飯
我が家には栗の木が4本植えてある。
以前に紹介したかどうか忘れたが、本来は2本植えるつもりだったし、その通りに相性が良いとされるものを植えたのである。
ところが、たぶん「除虫もしなければならない」とあったので、若い木なのに除虫剤をかけたのが多分原因だったのだろうが、1本が枯れてしまった(ような気がした)。
それじゃ「一人では子供ができないだろう」(こんな考え方が助平爺の本音である)ということで、別の種類で相性の良いものを一番い植えた。
今度は「栗は意外と強い木だ」ということを聞いたので、除虫剤を施すことなく育てたのだが、気が付いたら、枯れたと思ったものが元気に復活してきたのである。
一昨年は40個の収穫があり、初めて「我が家産の栗だけ」で栗ご飯を頂いた。
よく言う言葉の通り「桃栗三年」とかで、今後は徐々に多く収穫できるだろうから、昨年目標は5割増しの60個と目論んでいた。
ところが、原因はよくわからない(除虫しなかったことだとは思いたくない)が、ほとんど収穫できず、虫食いだらけで、実も小さいままだった。
そして今年、60個以上の収穫があった。
一つの毬に食べられるのは1個だけのものから、満貫というのだろうか、3個(それも見事なものばかり)も入っているものもあり、大収穫である。
一昨年よりも多くの栗を入れた栗ご飯、茹で栗、生栗(実は私はこれが一番好きなのである)といろいろな食べ方をしたが、孫たちも喜んでくれたのが一番嬉しい。
収穫には「表」と「裏」があるというから、来年はまた少しの収穫になるのかもしれないが、あるマラソン選手のコーチの言葉のように「上に伸びたないときは、下に向かって根を張れ」というような気持ちで、見守りつつ、収穫を喜びたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :41
| グルメ
| コメント(0 )
お掃除スタイル
毎月曜日の朝は私の掃除の時間である。
リタイア後2年ほど経ってから家事の分担ということの一部として家内と相談のうえで始めたことである。
だからかれこれ10年以上になる。
なるべくマンネリにならないように、何月は敷居と鴨居を念入りにとか、それなりに強弱をつけて楽しんでいる。
それなのに、先日から気が付いて始めたことがある。
もう大分前になるが、両足を怪我した時の入院時、当時はまだ喫煙していたのだが、病室では当然喫煙できないので、喫煙所まで車椅子で移動する際に家内が作ってくれた「頭陀袋」を使い始めたことである。
最近の掃除機は機能も高度になったのだろうが、私にはどうしても必需品なのが「隅取り」と「ブラシ」である。
これを持ちながら掃除機も持ってということになると、どうしても無理があり、頭陀袋の活躍である。
家の中だから、誰かに見られるという心配もない。(これで結構体裁を気にするほうなのである)
たぶんこんな姿を他人様が見たら「あぁ、あの人もついにおかしくなられたか」と嘲笑の的になるのだろう。
でも、作業上こんなに便利なものはない。
托鉢のお坊様も「必要最小限」ということで考えて使われているのであろう。
かくして、それからは掃除機とセットにして置いてあり、初めは怪訝な顔だった家内も時々は使っている様である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :25
| 日記
| コメント(0 )
「耳」という漢字と「聞」という漢字
祖父母学習参観と言うのに出席した。
小学2年生の孫と、4年生の孫の掛け持ちであった。
まずは2年生の教室へ。
偏と旁などをバラバラにして組み合わせてできる漢字、という学習だった。
孫は手を挙げているのだが、中々順が回って来ず、4年生の教室へも行かなければならず、少しじれったかったが、ようやく当ててもらって黒板の前に。
「門」という字と「耳」という字の組み合わせで「聞」という字にするというもので、爺としてはそれで十分満足だった。
ところが、先生は「これで注意をしなければならないところがありますね。どこだったでしょうか?」とおっしゃる。
正直、私は「何を言っているの」と分らなかったのだが、孫はしっかりと理解しており、みんなの前で発表した。
「耳の字は下の線が垂直の腺から出ているが、聞の字で中に入るときには、垂直の腺からはみ出さない」というである。
正直「知らなかった」。
夕食のときに、家内に紹介するとともに聞いたが、家内も知らなかったとのことである。
毎朝の書き写しや音読で、たぶん何度もお目にかかっていて、書いている字だろうが、全く無頓着だったことに愕然とするとともに、孫の成長としっかりとした把握をしていることに今更ながら感心し、頼もしく思ったものである。
これを契機に私自身もっとしっかりとモノを見て把握しなければならないと自戒した。
参観だけではなく、自分の学習にもなった。
4年生の学習では、「風呂敷で物を包む」ということに遭遇する。
1升瓶や西瓜に見立てたボールのつつみ方は、まったく覚えていなかった。
ここでも学習になった。うれしい限りである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 学習
| コメント(0 )
学識経験者と言う胡散臭い人間
今回の増税に関する「聞き取り」についてもそうだが、その大半が「学識経験者」という連中である。
どんな基準で選んでいるかは、まったく知らないけれど、現在の立場ばかりでなく、そうなった経歴を少しだけ調べると、結局「ひも付き」の連中ばかりであることがよくわかる。
だとすれば、その経緯と現在の立場から物を言うことになるのだが、それらの組織や団体は、何らかの関係で、政治屋とつながっている場合が多い。
そういう意味で、彼らは決して「庶民の声の代弁者」ではない。
自分や自分の組織、経歴上の組織などの紐の先しか考えていないのだから。
現在問題になっている原発の再稼働についての議論集団もそんな「紐付き学識経験者」で構成されている。
それを選ぶ集団が「我田引水」と「根回し」で走り回って、一部の反対派も入れての「猿芝居」であろう。
そんなことでは、いつまでたっても「庶民」の意見など反映されるものではなかろう。
確かに「一般庶民」の意見は「迎合」という意味での「紐付き」になるかもしれないが、それらの人を納得させてからがスタートではないだろうか。
現在の立場維持や、将来の天下り先の確保などという、「我田引水」を目指す集団がそんな連中を選ぶのだから、一般庶民は堪ったものではない。
尤も、そんな政治屋を選ぶのが、「一般庶民」としての「国民」なのだから、例によって「天唾」論議で、私の言うことなどは「蟷螂の斧」にもならないのだろうが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :21
| 政治への注文
| コメント(0 )
停滞はやはり後退か
先日家内と二人だけで「回転寿司」へ行った。
いつもは孫がたいてい一緒なので、手がかからなくなったという意味ではいいのだが、
やはりそれなりに気が張っている。
それは別として、この店はいろいろと方式が変わるようで、今回は注文した品物が別のレーンで流れてきて、注文した人の所で止まるのである。
今までは、私も何度か経験したが、見逃してしまったり、他人様の物を自分のものと勘違いして取ったりとかなり気を張らなければならなかった。
また、普通の製品と同じに流れてくるので、熱い物(うどんなど)は冷めてしまうのである。
顧客サービスの向上としてだろうが、やはり我々にとっては有難いことである。
「詰まらないこと」と見逃してしまえばそれまでだし、変わったことに気が付かなかったら、これは加齢による感激度が減退したことではないだろうか。
まして「以前の通りが良かった」と言う保守性は、自分自身が「変わらないでおこう」と言う、これも加齢による仕業で、決して健康的ではないのだろう。
在職中にもよく言われたし、自戒の言葉としても使っていたが、「停滞は後退」である。
世の中が日々進化しているのに「自分だけはこのままが良い」と言うのでは、アインシュタインではないけれど、「相対性後退」である。
「昨日のままで良い」と言うよりも「昨日と少しだけ違う僕」と言った方がいいことは自明の理だろう。
自分が変わることに気が付いたり、努力したりすると、相手や周りの変化にも自ずと気が付き、感動したりするそんな若々しい健康的な感覚を持ち続けたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :46
| 健康
| コメント(0 )
着潰す
在職時制服の一つとしてワイシャツは毎日交換が当然だった。
単身赴任時でも、必ず毎日洗濯が済んでアイロンもそれなりにかけたものを着用していた。
だから長期の出張時でホテルを転々とする時には随分困ったものである。
滞在型であれば、そのホテルへ頼めばいいのだが、会食などで酔って帰ると、それも忘れてしまい、近くのコンビニなどを探さなくてはならなくなる。
ところが、リタイアした今、慶弔時のほかは殆ど着ることはない。
それも必ず「白いワイシャツ」ということになっているので、3枚ほどあれば、必ず洗濯に出したものが押し入れに掛っているので、慌てることもない。
そんなわけで、少しストライプの入ったものや、カラーのワイシャツなどは今ではほとんど着ることが無い。
年に数回の少しフォーマルな時のための物も数枚は「準備OK」の状態で掛っているから、それ以外は「用済み」の物なのである。
先日、パジャマ代わりの物が無いかと家内のいない時に探さなくてはならなくなって、あちらこちら探していると、そんなワイシャツが10枚ほど出てきた。
勿論洗濯はしてあるが、アイロンなどはかかっていない。
でも捨てるのも勿体無い(この辺が断捨離と違っているのだが)ので畑仕事などにどんどん使っている。
所謂「着潰し」である。
ワイシャツは単身赴任の時に経験しているので、洗うこと自体は殆ど洗濯機任せなので、然程苦にならないのだが、後のアイロンかけが大変である。
どんどん着て、着替えて、洗ってもらって、また着る。
「潰す」と言うが、在職中は少しカレーでも跳ねてシミが付けば、すぐに「捨てていた」が、今は多少の汚れでも誰かから見られること気にする必要もないから、随分長持ちである。
でも、これも楽しい「断捨離」だろうと勝手に思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :50
| 日記
| コメント(0 )
PC講習会
町内の有志から請われてやっているPC講習会だが、もう足かけ4年になる。
常に新しい課題を持って来られる人、何度も同じことを繰り返して質問される方など、様々である。
また、「特に今聞くこともない」という方もいらっしゃる。
今年ですべての方の所でインターネットが繋がるようになったので、最近のニュースから質問される方もいらっしゃる。
PCやIT関係の話題ならこちらも負けてはならじと学習しているので、大体は付いて行けるのだが、一般論になるとさすがに「年の功」である。
時にはそれにも飽きて一人でゲームを楽しんでいる方もある。
私はそれでも良いと思っている。
いや、それこそが一つのコミュニティだと思っているからぜひこのまま進めたい。
そんな中で「この機能は便利ですよ」と言うものを紹介すると、一頻りそれを駆使しようと集中される。
先日は「読み上げ機能」だった。
以前のPCはWindowsXPだったので、その時にも紹介したのだが、新しくなってWindows7になった時には、これが標準装備で無くなっていたので、ネットからアドインをダウンロードして組み込んだのである。
上記のように皆さんの家でネットが繋がったので、「ネット(インターネット)」という言葉は理解いただけるのだが、アドインやダウンロードと言うカタカナ言葉はやはりまだ抵抗があるようであり、これらの所は代行して差し上げている。
ことほど左様に、「自分にあった講習時間」を楽しんでもらっているのだが、何しろ「PCを使っている」ということに抵抗が無くなれば、一つの成功なのだから。
投稿者:つねちゃん
at 05 :30
| 健康
| コメント(0 )
仲の良い老夫婦
先日、何とも言えない事件の報道が目についた。
近所の人からは「仲の良い夫婦」と目されていた人たちが、殺人と自殺を起こした、というものである。
詳報は分からないが、多分旦那さんの「堪忍袋」の緒が切れたのではないだろうか。
リタイア後10数年たつが、常に「かみさんの掌で遊んでいる孫悟空」だと意識するようにしている。
在職中は単身赴任(2度、足かけ7年)を含む転勤族で、家から通勤できる場合でも、出張族(ほぼ毎週のように週に3日は出かけていたように思う)であり、地元のことにはとんと疎く、殆どは家内任せだった。
このことは、育児面についても、大学進学や日頃の相談にもほとんど乗ってやれずじまいだった。
また、両親の面倒を見ることについても、殆ど無頓着と言うか、たまに家内から相談があっても「聞き流す」くらいにして考えず、全く申し訳がなかったと反省している。
従って、リタイアしてからは「今浦島」とまでは行かないが、極力家内からの情報を聞き、従ってきたつもりである。
また、家内が運転できないものだから、アッシー君の役目もほとんど「断る」ということを知らないかの如くに努めてきた。
だから、はた目には「仲の良い夫婦」と映っているのではないだろうか。
上記のご夫婦の場合も、勝手な想像だが、これに近いものがあったのではないだろうか。
でも、そんな私でも、場合によっては私の「緒」も切れるかもしれないのだが。
そのために「心の病」ということが起こらないように、乱読ではあるが、精神修養に近い本も読み漁っている。
決してそれが「緒を強くする」ことになっているとは思わないが、爆発の未然防止て、精神的な健康につながっているのではないかと思っているし、思いたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :38
| 健康
| コメント(0 )
結構良いことを言っているんだけどなぁ
夏休み中は「ボツ投稿」で少しのんびりさせていただいた。
でも、ボツにはなったけれど、それなりに「良いこと」を言っているのではないかと思ってしまった。
確かにもらえる図書カードは魅力ではあるが、それよりも「皆にこう考えてほしいなぁ」ということの方が採用されることの最大の喜びである。
確か、かつて愛読した、サトウサンペイ氏の本だったと思うが「結構良いこと言っているんだけどなぁ」と言うつぶやきが出てくる。
諸姉・諸兄に置かれてもそうではないだろうか。
決して自分本位ばかりではなく、我田引水的な教唆ではなく、京都弁で言う「はんなり」とした意見として、言っているのではないだろうか。
尤も、投書したものすべてが採用されたとしたら、これはこれでまた他人様への迷惑になると思えば、打率的には3割をキープできれば、野球選手でもそれなりの成績が残せるのだから、まぁいいとするか。
でも、そんな中、投書内容にクレームが来ることがある。
憤慨するよりも、「果たして自分の言っていることが勘違いからではなかったか」と思い知らされることがある。
また、「同感です」と直接電話を受けることもある。
一つ一つを上げることはできないし、したくはないのだが。
新聞社側でも、ある一定の期間を置いてだが、まるで反対の意見を載せている場合があり、これはこれで「なるほどなぁ」と思ってしまう。
これからも「いいこと(だと思っている)」を言い続けていきたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
| 日記
| コメント(0 )
同じ仕事でもなぜ地域によって差がある
先日の記事に表記のことが載っていた。
地域の人は「これでまた若者が都会へ移動してしまう」と嘆かれているとのことである。
しかし、これは是認するしかないのではないだろうか。
確かに都会へ出て同じ仕事をすれば収入は上がるだろうが、自分の家から通うよりもいろいろな経費がかさむことは間違いないのである。
単純に消費物価だけを比較すれば、都会の方が安いこともあるだろう。
しかしながら、居住費を初めとしての「固定的費用」は決して安くはないのである。
それと、根本的に違うのは「同じ仕事でも利益が違えば支払う賃金が安くなる」のは企業としての当然の論理である。
異論もあろうが、出来るだけ寄り添って自分の家を始め、地域を大切にして「お金ばかりじゃないさ」というくらいに過ごせばいいのではないだろうか。
これと似たような話、と言うか揶揄されたことが何度かあった。
ここでも何度か紹介しているが、私自身は「転勤族」で本社と出身地を何度か往復してきた。
幸いにして、少しずつではあるが「昇進」ということにもあずかり、出身地の同期入社の人間との飲み会もあったのだが、そんな時に言われたことである。
「ただ往復しているだけで、随分偉くなって、給料も俺らと随分違う」と。
初めのうちは「そんなでもないよ」と言っていたが、繰り返されると、もともと短気な人間本性が出て、「羨ましいのだったらお前にも平等に機会があったはずだ。自分でやらなかったくせに何を言うか」と返すことにした。
大きな家を構え、3ナンバーの車に乗り、家族と苦楽を共にし、仕事は二の次、とまでは言わないけれど、それなりに楽しんでいるじゃないか。
軽四に乗り(当時)子供の進学時にも単身赴任だったりと、それなりに苦労はあったのだ。
なんでも平等、という考えはやはり違うと思う。
投稿者:つねちゃん
at 06 :03
| 日記
| コメント(0 )
梅干しは美味しい
今年友人から大量に梅の実をもらったので、家内も一念発起で梅干しづくりすることになった。
我が家の梅の実は1.5Kgくらいしか取れなかったので、それは孫も大好きな「梅シロップ」に回った。
8月に入って暫くしてようやく「土用干し」ができる天候になったので、これからが楽しみである。
さて、出来たものを入れる容器を探していたら、ナント多分父が存命中でまだ認知症が激しくない時見たことのある容器が物置の隅から、かなりしっかりと包まれて出てきた。
中を見ると、梅干しが3/4ほど詰まっている。
父の13回忌も終えたのだから、多分10数年は経っているものだろう。
恐る恐る舐めてみたけれど、懐かしい美味しい物だった。
我が家産の梅干しができるまでは十分楽しめる。
これを思いついたのが文中にもあるが、8月に入って暫くしてからのことだった。
家内が作り、孫も手伝いした、我が家の梅干も完全に出来上がっていて、時々孫の「お出かけ」のお弁当に入っていたりする。
また、母の手作りの物は、家内の作ったものよりも、少し塩分が強いようであり、孫には今一つ馴染まないようである。
でも、私はどちらも好きであり、その日の気分によって使い分けている。
また、途中でできた梅干し汁は、毎日僅かずつ約10倍に伸ばして飲んでいる。
これも口の中がすっきりする様で、爽快な気分になる。
友人から貰ったので、然程お金もかからず、手作りな健康食品で楽しんでいる。
そうそう、一番のグルメな食べ方は、熱々のご飯に梅干しの紫蘇を乗せて食べることである。
来年は我が家の埋めももう少し多く収穫できるだろう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :46
| グルメ
| コメント(0 )
プログラムを作った
コンピュータを生業にして34年間過ごしてきたが、「プログラム作り」という経験はほんのわずかしかない。
主に方式関係のシステム設計、試験を始めとした品質管理、気が付いたらプロジェクトマネージャという状況だった。
この夏休みの間に、本当に久しぶりに「プログラム作り」をやった。
会社の研修所時代に課題として作らされたプログラムは、人の出来上がりまでの時間よりもずいぶんと遅れた。
私には、プログラマーと言う職は似合わないのだとつくづく思い、転職が出来ないかとの相談も幾度か当時の教官にしたものだったが、すべて却下されてしまった。
「よそ見」「脇道」「趣味の世界」に迷い込むからである。
話を元に戻して、エアコンの無い扇風機だけの環境で、見つけたのが「没頭する」ことであると気が付き、数十年ぶりに慣れない「プログラム作り」に勤しんだのである。
やってみると、間違いなく「没頭できる」のである。
それも楽しく脇道に逸れ、全く別の(例えばこのブログのテーマ)ことに気が行ったり、本来でない「体裁の調え」と言う趣味の世界に入り込んだりしていても、ひととき暑さを忘れられるのである。
これは楽しいこと、この上ない。
一通りの物はできたが、まだまだ「やりたいこと」が一杯あり、これからの秋の夜長も楽しめそうである。
「やらねばならぬ」ということでないのが楽しさを倍加させる。
趣味とは言わないけれど、それなりに頭脳も働かせるので、お腹も空くし食べ物も飲み物も(当然こちらが優先だが)も美味しくなる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
| 健康
| コメント(0 )
ぐうたら「生きる」
「老後はこう生きるべきだ」とか、激しいのは「目標を持たずに生きることは無駄だ」というような、老後HowTo物の本が書店で目に付く。
これは我々団塊の世代をターゲットにしているのだろう。
パラパラとめくってみると「うん、確かにそうだなぁ」という点はある。
しかしながら、「ほっといてくれ」と言いたくもなる。
ぐうたらで、目標もなく、単に「生きている」ということが決して非難されることではないだろう。
気が向いたら「ミニボランティア」をやっても良いし、思い出して昔やり掛けた趣味を再開しても良い。
ともかく「元気で生きている」ということが肝心ではないだろうか。
以前にも書いたと思うが、「なんにでも食いついてみる」「嫌になったら三日経たなくても辞める」ことこそが「ともかく生きている」ということの証であろう。
勿論、他人様に迷惑をかけるようなことはあってはならないが、さりとて、考え様によれば、「生きていること自体が他人様に迷惑をかけている」ということにも気を付けておくべきだと思っている。
「雨にも負けず」の一部ではないが、
「みんなにでくのぼーと呼ばれ 褒められもせず 苦にもされず そういうものに
わたしは なりたい」
さぁ、今日も下校時の防犯児童見守りがあるし、出来る限りだけれど、自分なりに「ぐうたらでも良い ともかく 生きていよう そして 寝る前に 少しばかりの お酒を 戴き 一日に感謝して 眠りに付こう」。
他人様から「無駄だ」と言われようが、「小市民」と蔑まされようが、これこそが、私の天国である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :01
| 健康
| コメント(0 )
「日本のしきたり」という本
夏休み少し前に、表題の本の「書き写し」を完了した。
(学陽書房刊 なるほどッ日本のしきたり)
いろいろなしきたりがあり、知らないものも多かったり、勘違いして覚えているものもあったので、書き写すことでに指の運動にもなったし、それはそれだ楽しかった。
巻末に「付録」として「モノの数え方」があったので、それには結構驚いた。
今ではそのものの存在自体も知らないものもあるので、いくつか列記してみたい。
鐙(あぶみ) 一足、一掛け、一具(そろえ)
行燈(あんどん) 一張
衣桁(いこう) 一架
烏帽子(えぼし) 一頭(かしら)
まだまだたくさんあるが、単純に「読んでいて楽しい」。
上記の物は、衣桁以外はすでに我が家にはない。
鐙以外は、かつてはあったので、その物自体を手にしたことはある。
何故か烏帽子までもがあったのである。
さりとて、神職に携わったようなことなど聞いたこともないのだから、何かの余興の時にでも使ったのだろうか。
こんな本の書き写しをしていたって、特別自分の知識に役立つという訳ではないのだが、同じ「書き写し」でも「苦痛」よりも「楽しみ」が付いてくれば、それだけで仄々という気分になれるのである。
在職時には考えもしなかった、のんびり気分もいいじゃないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :29
| 学習
| コメント(0 )