12月2日はお休みさせていただきます
町内壮年会の忘年会に参加のため、2日のブログはお休みさせていただきます。
あと20回くらいでこのブログも終わりますが、それまでは、それなりにていねいに書かせていただこうと思っています。
もうしばらくお付き合いいただければ、幸いです。
投稿者:つねちゃん
at 08 :45
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それにつけても
寄席のご愛嬌の一つに、上句をいろいろとつけて、下句が「それにつけても〇〇の欲しさよ」というのがあると昔見聞きしたことがある。
最近の秘密保護法案をはじめとして、評論家という人種がいろいろと啓蒙されていて、それなりに聴衆を集めておられるようだ。
また、何か事あるごとに、官邸前を初めとして多数の人を集めて「シュプレヒコール」もやられている。
正直、何事にもそれほど真剣になれないわが身が何とも情けないが、それだけのパワーがあるのであれば、なぜそれが「選挙結果」につながらないのだろうか、と不思議に思う。
「いろいろ苦情もあるけれど、それにつけても投票率の低さよ」ということでは、いっかな治るものではないと思うのだが。
評論家のセンセイ方よ、ことあるごとに「選挙に行け」とのシュプレヒコールをやってはいかがだろうか。
集まった中には若い人も相当に見られたが、これだって、TV局がそんな人を中心に撮影しているのではないかと思うと、果たしてどんな人が実像なのかわからない。
今こそ「投票率を高めれば、真の『国民の声』になるぞ」ということを老若男女を問わずに実施し、さらに自分だけではなく、近所や友達、ネットを使っての知り合いなどに啓蒙すればいいのではないだろうか。
私のこのようなブログでも構わないと思っている。
かつての西川議員ではないが、「小さいことでもコツコツと」というつもりで継続すれば、「急がば回れ」的に良くなるのではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :03
| 健康
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「楽をする」だけではダメ
そろそろ年賀状の季節である。
自爆とかという物騒な言葉の話題は別にして、かなりの数を電子年賀状にしたけれど、
それでも100枚近くは毎年出している。
使い慣れたPCでの印刷で「楽をしている」のだが、裏面には必ず「ひとこと」を書くようにして、むしろ楽した分でそのひとことに思いを込めている。(つもりである)
電子年賀状も便利で「楽ができる」代物だが、それだけに一人一人に対して賀詞に心を込めているつもりである。
ただ単に「楽をする」だけでは心が覚めていくばっかりで、何とも味気なくなるのではないだろうか。
年賀状もそうだが、もう30年前くらいから車は「AT車」である。
クラッチ操作やギア操作がなくなり「楽になった」。
その分は「安全運転のため」にと気を付けているつもりである。
残念ながら、どれほど「コンプライアンス」を実現しているかといえば、まったく心許ない。
制限速度では、10km以下の速度オーバーが常であるし、一旦停止でも「最徐行」程度で済ませてしまっているのが実情である。
それでも、やはりATで楽した分は自分勝手ではあるだろうが「安全運転」に配慮しているつもりである。
なんでもそうだろうが、一方的に楽をしたり、全くできていないが「蓄財」をしたりしても、そのうちに「溢れてしまう」ことになるだろう。
「〇溢血」という病気に限らず、溢れてからでは取り返しがつかないのだから。
投稿者:つねちゃん
at 09 :19
| 交通安全
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ケチはやっぱり楽しい
先日、チューブ式の練り歯磨きが出なくなった。
捨てようとすると、娘から「振ってみれば」とのアドバイス。
蓋をしっかりとして、振ってみた。
成程まだかなり余っていたと見えて、優に20回分くらいはあったろうか。
それでも、もう出なくなったので、捨てようとすると、今度は家内から「底の方を切ってみれば、出口のほうに溜まっているよ」と言われた。
確かにそうで、間違いなく現在まで3回は使えている。まだ数回は使えそうだ。
(本日時点でこれも使い切っている)
ナント、これだけで約1か月以上(私のずぼらな性格と習慣で毎日の歯磨きはしていないから)長く続け使えられるのである。
細々とした年金生活者で、ずぼらながらも「生活必需品」がこれだけのことで長く使えるのであれば、随分今まで「無駄遣い」してきたものである。
1本の練り歯磨きで、今までどのくらいの期間使っていたか、測っていないが、それに対しての約1か月延長は何パーセントくらいになるのだろうか。
仮にそれが3%だとすれば、来年からの消費税上げも、ことこれについてだけは「恐るるに足らず」であろう。
決して消費税アップの推進者ではないが、生活防衛の点で、こんな「ケチ」精神も楽しくはないだろうか。
まてよ、在職中にもこんな「知恵を出せ」と叱咤激励されたのではなかったか。
チューブだけではなく、人間の頭脳というものも、「絞り出す」ということを考えれば、まだまだ使える知恵が出てくるのではないだろうか。
そんなことを思うのも、楽しいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :44
| 日記
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ヤッカミだけれど
自分にはそんな才能がないから、どこまでも「ヤッカミ」なのだけれど、本当にこれでいいのだろうか。
どこかの製紙会社の会長さんが、出入り業者からのお金で遊び呆けて、犯罪に問われて、服役中なのか終わったのか知らないけれど、今までの放蕩の限りを本に著して、増刷に次ぐ増刷だそうである。
著作の印税というのはいかほどのものか知らないけれど、これでまた放蕩三昧をなされるのだろうか。
現在の私には、万万が一にもそんなことはないが、それでも「もしかして」そんなことがあったとしても、残念ながら「三昧」を貪れるほどの体力が持たないだろう。
そんな風に考えると、今年の年末ジャンボの最高賞金は7億円だというが、さすがに上記のことを考えるまでもなく「買わない」ことにした。
3億円くらいまでなら、昔あったという「石動城」を建てて、市内一円を見渡せて、天守閣には天体望遠鏡を設置して、夜空の散歩が楽しめる。
携帯電話の流布で今は「king of hobby」の座を失った、アマチュア無線の設備も設置して、世界中と交信できるような夢を叶えたい。
また、中層階には分る範囲での江戸時代くらいから現在までの「古き良き時代(残念ながら戦争という時期もあり、目を瞑るわけにはいかないが)」をスライド的にみられるように。
これらは、すべて今後の孫以降の時代の人用に。
現在のわれわれ近くの年代の人も楽しめるように、エレベーターなどの施設も備えたもの、というような構想が描けたのだが。
7億円になると、それをしてもまだ余りあることになりそうだから、そんな物騒なお金には近づきたくない。
本を著す人の才能や、当たらない宝くじへのヤッカミだけれど、こんなことを思って過ごしてみるのも、楽しい限りである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :41
| 日記
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万引きは返せば無罪か
この手の話題は、あまり具体的な人物を指さないようにしているが、最近少し自分の意識が変わってきた。
今回の話題は、東京都知事に関するニュースである。
生来、私はこの人が嫌いであるから、そういう意味での偏見が入っているのは、ある程度お許し願いたい。
尤も、この人に限らず、また、最近にかかわらず、幾多の政治屋さんの行動には、「果たして如何なものか」というものが多い。
政治資金が少しでも汚れていた場合は、「返却したから無罪である」というような言い訳をなさっている。
万引きが一つの分かりやすい例ではなかろうか。
いったんポケットに入れて、挙動が不審、もしくはばれそうになったら「お返しします」という態度で「もうこれで私は無罪」と平気で主張する人種である。
嘘か本当かは、あくまでも小説の世界でしか知らないけれど、昔の武士の世界には、自分の行動ばかりではなく、部下の所業についても「切腹」という自刃で果てるほどだったという。
残念ながら、最近そのような政治屋さんにお目にかかれない。
いつも言うが、これは政治屋さんばかりが悪いのではなく、その人を選良に選んだ私を含めて「国民」なのだから、「天唾」の感は免れないのだが。
このテーマを思いついたのは、この件がネットでオープンになった日だが、今日は「切腹」に関係が深い日である。
この作家も私にはついていけなかった。
投稿者:つねちゃん
at 08 :50
| 政治への注文
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食物に異物混入
「自分勝手なことを言う」とお叱りを受けることを意識しながら言うが、幸いにして、孫が通う小学校や市内の学校ではないが、近隣の小中学校の食事に決して食べられない異物が混入されている事故か事件かわからないが発生している。
学校などの機関は「被害はなかった」と言っているが、この感覚がわからない。
被害があったら何か対策をするというのだろうか、その時の被害者はどうなるのだろうか。
きっちりと原因がつかめない限り、いろいろな課題はあろうが、即刻停止すべきだろう。
混在しているものは、とても「偶然に入った」というものではなさそうな気がする。
あくまでも、第三者的に考察すると、「愉快犯」の仕業ではないだろうか。
また、それを「即刻停止」させない機関の諸氏は、例によっての「天下り集団」で構成されているか、もしくは多額の裏金で運用されていたりするので、停止すると責任問題になるので、「調査しながらも注視する」という態度ではないだろうか。
もし被害が出て、それが取り返しのつかないものになったとすれば、加害者はもちろん処罰されるべきだが、それを看過していた機関の諸氏は、それ以上に罰せられるべきだと思う。
停止期間中、家庭などの都合でどうしても弁当持参が叶わない子供たちもいるだろうが、出来れば相互協力で、それが叶わなければ、最後の手段として、コンビニと提携しての供給体制をとるべきだろう。
相互協力では、子供を通じての親同士の付き合いが親密になるだろう。
コンビニでの対処に要する費用は「加害者かもしれない」組織の職員が負担すれば、直接的な被害になるだろうから、犯人探しにも力が入るし、再発防止の直接的な原動力となるだろう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :01
| 健康
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名簿を見て
OB会の名簿が今年も送られてきた。
かつての上司が、勤務先を明記されていないから、悠悠自適なのだろう。
また、部下だった人も同様に勤務先が明記されていないということは、それなりに幸せな年齢を過ごされているのだろうし、勤務先が明記されている人は、年齢を問わず「頑張っているんだなぁ」と思ったりしている。
と同時に、昨年まで掲載されていた人の名前が掲載されていないときは「どうされたのかなぁ」といろいろな思いを巡らしてみる。
逆の場合が時折ある。
そんな時は、決して悲観的な思いではなく、素直に「復活されたのだ」と感激することもある。
もちろん、すべての人について知っている訳ではないから、その範囲はかなり狭いのだが、それでも1冊送られてくるたびに、楽しんだり、いろいろな思いにふける時間を過ごせるということは、とてもハッピーな気持ちになれるのがいい。
東京で開かれる「総会」には出席する機会がない(作らない)が、名簿だけで自分なりの総会を開いているような気分になれるから、何とも楽しいではないか。
そんなに高い会費ではないので、これからもできるだけ長く付き合って、毎年の楽しみを味わい続けたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :04
| 日記
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孫がテンサイに
先日頭の孫娘が「爺ちゃん、私テンサイになったよ」と言ってきた。
知らないうちに新聞に自分の絵を投稿して採用されていたことや、学校での習字大会で表彰され、それが市の展示にも採用されたことも、後で知ったことなので、「また何かそんな類のことなのか」と爺馬鹿は素直に思って、聞くと、そうではないとのことである。
よく聞くと、小学4年生で、10歳の誕生日を迎えたとのことをもじって、10(テン)歳=テンサイということだそうである。
学校の先生も、いろいろと工夫をされているようで、心の中で感謝した。
昔聞かされたのは「10歳で神童、15歳で天才、20歳過ぎれば・・・」という成句だったが、調べると「5歳で神童、10歳で天才、20歳過ぎれば・・・」という成句もあるそうで、これを使われたのだろうか。
それにしても、うまく使われたものである。
英語での数字の数え方は4年生にならなくても覚えるものである。
でも、よく考えれば「誰でも必ずいつかは『天才』になれるのだよ。今の成績などばかりで評価するのではないよ」という教訓も含んでいるのではないだろうか。
つい先日も学習参観日があり、学習風景を写真に収められないかと行ってきたが、参観者でカメラを構える人がおられなかったので、私も遠慮して、その分授業風景を見せてもらった。
よそ見をする子や失敗をする子などを相手に、先生は大奮闘であることに感謝した。
孫よ、子らよ、20歳過ぎるまではすべて天才だと思って、勉強だけでなくすべての物事にめげずに励んでくれよ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :53
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「ピン」でも「キリ」でもない幸せ
よく言われるように、人生には「ピン」と「キリ」があるのだそうである。
幸か不幸か、かつて「ピン」という立場になったことは全くない。
それに近いポジションにいた時期もあったが、それは「近い」だけでピンとの距離は他の人と比べると少し近かっただけで、距離そのものは全く隔たっていたと思っている。
だから、ある意味で「ピン」の人の苦労も分かることができたように思う。
また、幸いにして「キリ」という立場になったこともない。
もう時効だろうが、一時期「ヒッピー」という人種の仲間になったことがあり、シンナー遊びもしたし、新聞紙を服の下に巻き付けて、新宿のガード下で何だか分からない飲み物で悪酔いして、一晩過ごしたこともあった。
でも、それは一つの「麻疹(はしか)」的なもので、決して病的なものではなかったと思っているから、決して、食い詰めての「キリ」だったという訳ではなかった、と思っている。
リタイアする前までは「これから無収入になる」という一種の恐怖感があり、それなりに悩んだこともあったが、家計は家内がしっかりと押さえてくれて、私には在職中ほどではないが(在職中は『交際費は必要不可欠』とかなり多くを天引きしていた)それなりに小遣いもいただけているから、御神さんのご利益でキリの生活ではない。
「上見りゃきりなし、下見りゃきりなし」というから、これで十分満足であるし、むしろこれほど幸せなことはないのではないだろうか。
これからも、こんな気持ちでいきたいものである。
でもねぇ、太田南畝ではないが、「それにつけても金の欲しさよ」という煩悩からだけは逃れなさそうである。
これが凡人の凡人たる所以。
投稿者:つねちゃん
at 07 :58
| 健康
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冬将軍到来
毎年のことだが、これからのシーズン、我が家では灯油ストーブは欠かせない。
オール電化とはいっても、蓄暖設備だけはその調節が効かない、ということで導入していない。
もちろん経済的なこともあるので、そちらの原因のほうが先なのだが。
ともかく、シーズン開始の真っ先は、灯油の給油である。
先日、今シーズン初めて灯油タンクへの給油をお願いした。
460L入りのタンクに446L入ったのだが、積んできたトラックのタンク容量が930Lで、約半分入れていった。
我が家だけではなく、ほとんどの家でもこの程度の家用のタンクはあるのだが、軽トラに積んできて2軒ほどしか回れないのは、なんとも効率的ではないなぁ、と思っていたが、よく考えると、大型の車では小回りが利かないということが原因なのだろう。
この様に考えると、自分の勝手な考え方が、いかに「狭い知識」での愚行なのかということに気がついて、恥ずかしくなってしまった。
いつもは、嫌だなぁ「冬将軍」と思っていたが、こんなことを教えてくれるのも「努々(ゆめゆめ)学習を怠るでないぞ」と言ってくれているような気がして楽しい。
敦盛に謡われる「人間わずか五十年」というほどの昔から、平均寿命が延びて、六十六歳などまだまだ「洟垂れ小僧」といわれるようにいつまでたっても学習を怠らないようにしたいものである。
いつもの逃げ口上だけれど「学習」であって「勉強」はやはり苦手でやる気にならない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :33
| 日記
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この地で食べてほしい
昨今の食品偽装の問題がいろいろと言われている中で、グルメ番組というものは基本的に「嫌い」であるし、そんな物をさも実しやかに喧伝する「能無しタレント」も嫌いである。
そんな折に、好きな番組のひとつで、先日表記の発言があった。
基本的にもろ手を挙げて賛成である。
限られた人的資源と材料で大消費地である首都圏などへの販路拡大は「考えていない」という。
また、地域発展のため(言葉には出していないが)の表記の発言である。
これさえ守っていれば、昨今の偽装食品の話題などは出てこないだろう。
一つヒットすると、何とかの一つ覚えで「目標何千店」というチェーンストアが跋扈する世の中で、これぞ!という気持ちで見た。
どこそこで食べたあの食品は美味しかった、というのも、土産として買ってきて然程ではない、という経験は多くの方がお持ちではないだろうか。
美味しいものはその地で食べたいものである。
私は決して「味がわかる」という人間ではないと思っている。
その時々で「美味しい」と思ったものに正直なだけで、不味いと思ったものには評論しないだけである。
だから、イヤイヤ貧乏人の逃げ口上だが、食材の豪華さや名前にはほとんど拘泥しない。
それは「ヨゴシ」が一番好きなことからも分かろう、と自分に言い聞かせている。
味はその物だけではなく、その場所の空気、季節、接客時の人情などによるものだろう。
地域起こし、というけれど、まず地元の人が「ここで食べるこれが一番好きだ」という風になれば、だれもが寄ってくるだろう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :42
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嫌なことは日記に「言いつけて」お終いにしよう
朝、孫が登校する時に「今日は傘を持って行ってね」というと、玄関まで付き添っていた家内が「そんなこと言われなくても持っていくよね」と小さな声で言う。
もっと言い様があるのではないか。
これじゃ「この爺何を言っているのだ」と孫に伝えているようなものではないか。
こんな事は家内ばかりじゃなく、ほとんど毎日いろんなことに「腹が立ったり」「嫌だなぁ」と思うことがあるのは、私だけではないだろう。
諸姉・諸兄はこのような場合の「鬱憤(この漢字は『鬱陶しい』と同様に『読めるが書けない』)晴らし」をどのようにされているのだろうか。
政治屋さんやお役人さんなどに対することは、新聞投書などで行うけれど、「批判投稿」は採用される確率が随分と低いので、あまり鬱憤晴らしにはならない。
このブログもある意味で「仄々」「のほほん」の域を超えることがあるが、使わせてもらっているけれど、あまりにも個人的なことはやはり書けないので、限度がある。
そんな時、日揮は、黙って(当たり前だが)聞いてくれているような気がするので、私にとっては、非常に有効な手段である。
そして、大会の場合、後を引かない。
これは私のもともとなのか、加齢による健忘症のせいか分からないけれど。
大概は「前向き」に考えるようにしている温厚な爺だけれど、時として憤懣やるかたなし、ということもある。
そんなことも、この日記に「言いつけて」お終いにしたい。
そうすることが、すべてにおいて平和につながるのだろうから。
尤も、「王様の耳はロバの耳」や落語の「堪忍袋」のように、漏れることの無い様に十分な配慮が必要だけれど。 (^_-)-☆
投稿者:つねちゃん
at 08 :09
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小学校の休み
孫が学校の先生の研修会のため、平日休みとなった。
例によって「どこかへ行きたい」と言うのが今までの恒例だったのだが、今回はその発言が二人ともない。
聞くと、学校で「家ですること」を時間割のように書いてきているとのことである。
時々の爺婆参観へ行っても、先生方の教育姿勢には、細かいところまで気が届いていて、感心するとともに、感謝している。
今回のことも昨年までは無かったのか、私が気が付かなかったのか分からないが、「家庭での時間割」というものは全くなかったのではないだろうか。
自分で決めるカリキュラムということらしく、2年生と4年生の孫は、それぞれ教科が違うし、体育としての科目も違っていた。
おかげで、前述のようにせがまれることはなく、その分気分はゆったりだったのだが、なんだか一抹の寂しさを覚えることもあった。
我々のころは、学校が臨時で休みになると、何をして遊ぼうか、ということもあったが、その実「平日しかできない悪さ」に少ない頭脳を働かせたようだと記憶する。
現在の子供と違うのは、やはり上にも下にも子供が多く、ガキ大将がうまい具合に統率をとって、もっぱら外での遊びに夢中だった。
今では子供自体が少ないので、望むべくもないのだが、かと言って、ゲームばかりにうつつを抜かしているのも感心しない。
孫の時間割には「ゲームで遊ぶ」という時間もしっかり書いてあったのには、感心するやら驚くやらである。
こんなことを考えてくださる先生方にも感心し、感謝したい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
| 子育て
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島倉千代子の逝去
大好きな歌手の一人が逝去された。
確か小学3年生の頃まで「貸本屋」をやっていたので、今はもうないのかもしれないが「明星」「平凡」というスターに関する月刊誌が届くと、その付録は我が家のもの、というよりも「自分のもの」になった。
そのほとんどが「歌詞本」である。(駄洒落のつもり)
だから、4歳年上の姉の影響もあったのだろうが、当時のその年齢にすれば、「ませた歌」をずいぶん歌っていたものである。
年齢は私よりも9歳上の彼女は、当時好きだった美空ひばりよりも親近感があって、「お姉ちゃん」という感覚だったろうか。
ちなみに美空ひばりは「姉御」で、笠置シズ子は「おばちゃん」という感覚だった。
それから随分経ってから、野球選手との結婚と離婚、莫大な借金などの度重なる事件は知っているばかりでどうにも助けにはならなかったが、ある時ヒョンナことから彼女の名前を耳にした。
会社のずいぶん偉い人が、飛行機で彼女と隣り合わせになり、譜面を見ながら小さな声できちんと歌っているのに気が付き「素晴らしいですね」と声をかけた時の彼女の返事が「プロですから」というものだった。
それ以来、今までにもまして好きになった。
それ以来は順調で、「人生いろいろ」は自分の身に置き換えても愛唱する曲だった。
女性歌だから、いくら酔ったところでカラオケのナンバーには入らないが、一人で車を運転するときには、これからも大声で歌っていきたいものである。
ありがとう、おねえちゃん。
投稿者:つねちゃん
at 08 :12
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思い込み
そろそろ家での飲み物も「温かいもの」がほしくなった。
今までは「冷たいもの」が氷を入れておくことによって自由に飲めたのだが、温かいものとなるとそんなに急には暖まらないし、いちいち温めるのも面倒である。
ということで、今まで使っていたポットの代用として、「保温が効くもの」ということで、薬缶などの関係から「1.5Lのポットがほしい」と数店探し回ったが、「帯に短し襷に長し」で店員とも話したが、無い様である。
諦めようとしていたが、フト思いついたのが、在職時の教訓である。
当時は「お客様の言っていることをそのまま受け止めてはいけない。なぜそう言っているのか、本質は何かを見極めなさい」というものであった。
そこで、それを今の自分に当てはめて考えてみて、「何もポットでなくても希望している機能のものがあれば」という思いに至った。
気が付いてみれば、コロンブスの卵である。
要は、?容量は1.5L、?お茶が冷めない(できれば冷たいものも温くならない)?簡単に洗える である。
それなら、なにも「ポット」に限らなくて、孫たちが学校に持って行っている「水筒」でいいのではないか。
ということで、1.5L前後の容量の水筒を探すことにした。
果たせるかな、少し値段は思っていたよりも高かったが、容量はきっちり1.5であるし、保冷も効くし、氷の入れる口も十分に大きい。
これなら洗う手間もそんなにかからないだろう、という代物を入手した。
これからも「思い込み」を少し整理して、物を選択したいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
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大曲の花火大会
基本的にはリアルタイムで録画したのだが、見たのが季節はずれだったけれど、つい先日だった。
27組の人たちが競い合う形での競演で、細かいことは分からないけれど、どれも見事という他ないくらいで、2時間45分を楽しんだ。
花火自体も見事だったけれど、一番印象に残ったのは、すべての花火が終わってからだった。
観客席の人たちが、手に手に最近はやりの明かりをもって、対岸の花火師たちに感謝の意を示すためだろう、振っているのである。
一部の人ではないようで、ほとんどの方だったのではないだろうか。
また、対岸の花火師たちも赤い明りを振っている。
たぶん「見せて貰ってありがとう」という気持ちと「見に来て下すってありがとう」というお互いの感謝の気持ちだったのではないだろうか。
人のことを言えた義理ではないが、私も近くの花火大会や少し遠出して長岡の花火も見に行ったことがある。
でも、終わり近くになると、帰りの混雑を避けるために、最後まで見たことはほとんどなかったが、お互いに感謝するという、こんなことが果たしてどこでも行われているのだろうか。
長岡の花火のときは、観光バスで行ったこともあり、終わり近くになるとガイドの人が急き立てるように引率されるので、感謝などということではなく「綺麗だったねぇ」という感慨だけで慌てて帰ったような気がする。
これからは、日々に感謝するだけでなく、他人様のなさったこと、してくださったことに感謝してゆきたいものであると、反省した。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
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意識しながら生きる
我が家は東本願寺の系統にあるとのことである。
そんな事は父の逝去までは、ほとんど意識もしていなかったし、それ以後もさほど意識しての行動をしていたわけではない。
意識していたならば、般若心経などを読誦したり、写経的に書き写したりもしなかっただろう。
その教えの中に「今命があなたを生きている」というのがあるそうだ。
今回のテーマは、決してそれに触発されたからではなく、むしろ日々の生活の中から思ったことである。
世の中には立派な業績をあげられて、文化勲章などいろいろな褒章を受けられている方がこの時期発表される。
私は今までも、これからもそれに浴することは幸か不幸かは分からないけれど、無いだろう。
でも、思うのである。
毎日「のんべんだらり」と生きてはいるのだが、少しだけ今までと違っていることは「意識しながら生きている」ということだと思っている。
こう思うと、苦悩(と言うほどの事でも無いが)やハッピーな事を含めて、殆ど全ての事が楽しく感じられるのである。
苦悩は無いにしくはないけれど、残念ながら出会ったときには「これが私への試験問題なのだな」と思えばいいのである。
息をすることを意識されることはあるだろうか。
歩いたり何か動作をすることはどうだろう。
ほとんど「無意識」になっていないだろうか。
それを「今息をしている」「今歩いている」「今何かをしようとしている」というように「意識しながら」やってみたらどうだろうか。
最初は「そんな面倒くさいこと」と思われるかもしれないが、慣れると意外に「意識」が楽しくなってくる。
そうなると、やっていることは勿論、生きていることが楽しくなってくる。
いやいや、これは私の行動指針であり、決して強制するのではなく、もちろんお勧めするものでもないのだが。
のほほん、仄々、である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :38
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コンプライアンス担当
「今は昔」の話になるが、在職中の一時期「ソフトの不正使用」に関する調査に遭遇した。
当時、直接その業務に携わっていたので、ある程度の不正コピーがあることは、認識していて、いろいろな「検査」に対応した経験から「見解の相違」に持ち込めるだけの自信はあったのだが、一向に私にお呼びがかからなかった。
そのうちに、調査も終わり、あろうことか「この会社では一切不正コピーのソフトは使っていない」という証明書と表彰を受けることになった。
果たしてだれが対応したのだろうか、私にはまるで分らなかった。
でもしかし、正直ホッと胸をなでおろしたのは事実である。
しかしながら、ある場所で(当時流行っていた異業種交流会という場所での名刺交換の時だったと思う)「貴方の処でしたか」と驚かれて、賞賛され、その手法などに話が及んだ時に、今更「いやいや多少はありますよ」と言う訳にもいかず、何とか少しの自慢を含めて話したが、冷や汗ものだった。
それ以来、標記の言葉を聞くと「会社のための嘘つき担当」だなという感覚が払拭できていない。
その担当は、対外的には、たぶん一番信用できないのではないだろうか。
今回の銀行や食品偽装などもまさにそうではないだろうか。
本来「盾」になるべき担当が罰せられているのは、いうなれば「人身御供」であろう。
残念ながら、企業人という人間は「正直だけでは生きてゆけない」のである。
リタイアして10余年、正直ばかりではないが、「許される嘘」も含めて楽しくこれからも生きてゆきたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :16
| 日記
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法律の文章
かつて会社の研修機関で「法学概論」というものを習った。
その時直接だったかどうか思い出せないが、「法律の文章には必ず『穴』がある」ということを聞いた。
穴がなく作ることは不可能に近いし、もし出来たとしたら、ちょっとしたことでも抵触するから、結局は守られない、というような論理ではなかったろうか。
もう40年近い前だから、違っていたらごめんなさい。
最近いろいろな法律が矢継ぎ早にできつつある。
果たして、作る側の人はそんなことを知ってか、知らずか。
今ではそんなことはないと信じるが、在職時の「就業員規則」の文章の一節を思い出す。
「会社内では、みだりに飲酒酩酊してはならない」と書いてある。
これは「会社内で酒を飲んではいけません」と理解するのではなく、「みだりでなければ」「酩酊しなければ」飲んでも良いのである。
ガマの油売りではないが「みだりとそうでないとはどこで判断するのか」「酩酊しているかいないかはどこで判断するのか」
酔って吐いたことはあるが、酩酊はしていなかった。
淫らな猥談をしたけれど、酔ってはいなかった。
理屈膏薬はどこにでもくっつくものである。
さて、諸姉・諸兄はこれからできる法案をどのように解釈されるだろうか、また、その基準を決めるのは誰なのだろうか、ということにどのような判断を具されるのだろか。
難しいなぁ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :14
| 政治への注文
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グルメが聞いてあきれる
私自身も出張の際に一度だけ泊まったことのあるホテルで、食材に偽りがあったとの報道である。
泊まった時は外で二次会まで終えて「寝るだけ」だったのと、高額の夕食は懐に合わないし、口にも合わないので食べなかった。
ひところ「グルメブーム」で高級食材を次から次に紹介する番組が多かったが、そんな時「フカヒレほとんどは偽物」という報道もあった。
今ではそんな番組は一頃から見ればだいぶん減ってきているような気がするが、それでも「大食漢」を売りにしている「タレント」と称する「芸人」が出ている番組は、ほとんどの場合見ないか、飛ばして見ないようにしている。
今回のものはそれを「他人様がやっているのだから」ということでの行動だったのか。
感覚が鈍っていた、という弁明は、お客様に「あんたの味覚は何にもならないんだよ」と言っているようなものではないか。
まことに接客業としては、とんでもない話である。
このテーマを思いついたときには、このホテルのほかに一つだけだったのだが、今日までに、まぁ「出るわ、出るわ」の状況である。
この際に言っておけば「その他大勢の一人だから、そんなに罪は重くないだろうし、あちらさんから見れば、さほど名門でもないから、『人の噂』にもならないだろう」というつもりなのだろうか。
監督官庁(この言葉は嫌いな言葉のひとつなのだが)は「何時いっかこのホテルではこんなことがありました」と今後5年程度は大きく張り出させるくらいの罰則が必要ではないか。
もちろん「言い訳付き」で。
投稿者:つねちゃん
at 05 :50
| グルメ
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