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2011 年5 月31 日

再審無罪に思う

 最近「又か」と思うような判決が出ている。
 長い間無罪を主張してきた人が、再審の結果「無罪」になるのである。
 確かに「強制犯人論」は間違いである事は理解過ぎるほど理解でき、そういう意味で、検察や裁判所が責められるのは間違いないのだけれど、一歩間違えれば、「ごね得」的な無罪獲得か蔓延るのではないかと心配する。
 TVドラマなどでも時折観るが「事実は小説より奇なり」が現実の世界で起こると、なんともいたたまれないのは、私だけではあるまい。
 勿論それがどちらになってもである。
 また、猥褻な行為については、刑が軽いせいもあるのだろうが、会社(特にお役所の場合)が首になる訳でもなく、悪くしても初犯の場合は「訓告」くらいで済ませられているようである。
 「訓告」と言う処分は、半官半民の会社にいた事の延長線上で考えるならば、「まぁ、これで済んで良かったよなぁ」というくらいのものであり、確かに昇進判定時に同じ成績で甲乙付けがたい場合に「こいつは訓告処分を受けた事があるから」という理由で昇進できないと言う事があるくらいで、それにしても「どっちもどっち」「五十歩百歩」と言う事でしかないのが現実である。
 そして、再犯を繰り返して、漸く懲戒免職になるくらいである。
 その間、被害者は溜まったものではない。
 再審無罪になるような事件はでは、そんな程度ですまないだろうくらいは容易に想像が付くけれど、それにしても、再犯が発生した場合、検察なども悪いだろうが、被疑者側に立つ弁護士の罪は本当に問われなくていいのだろうか、と素人考えながら思うのだが。
 いずれにしても、「強制犯人論」と言うものが起こらないように、その時点で双方共に努力して欲しいものである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :29 | お役所 | コメント(0 )

2011 年5 月30 日

時には一切合切休んでみよう

 最近「これも良いなぁ」と言う事で、なんだか「日課」が増えてきているようである。
 さりとて、一度「良いなぁ」と思ったものを無碍に中断するのも気がひける。
 そんなことだけれど、「惰性」でやっているようなものは無いと思っていて、それなりに「なるほどなぁ」と思うことばかりなのである。
 尤も、基本的には「書き写し」であるので、意味は大体が「その時限り」なのだけれど。
 と同時に、と言うか、それだからこそと言うか、逆に言えば「途中で止めた所で、別にどこにどんな影響が出る」というものは一つも無い。
 でも、やっぱり、時々、「負荷を減らそう」と思うことがある。
 ところが、どれを休もうか、という事がかなり難しい。
 別にセット物は何もないのだから、どれでも良いのであるが、なんだか止めた項目が「可哀想」な気がしてしまう。
 そこで、表題のように思うのだけれど、これが中々踏ん切りがつかない。
 だから、阿弥陀くじで止める物を決めようか、とか、順繰りに止め様か、とか色々な考えが出るのだけれど、やっぱり踏ん切りがつかない。
 そのくせ「一切合切」だったらさぞかし気持ちがいいだろうなぁ、とも思うのである。
 でも、そのうちに一度やってみようと思っている。
 勿論このブログもそのときにはお休みである。
 もし何の予告も無く23:59になっても書かれていなかったら、ぜひそのような考えに基づくものだと御理解いただきたい。
 勿論「忘れてたぁ」と言う事もあるし「意識的にサボった」という事もあるので、その日だけでは判断が付かないだろうけれど(自分でも)。

 今日は40回目の結婚記念日であり、例年ならば旅行中でブログは休んでいるのだが、母の入院などなどで今年は旅行が取りやめになっているので、久しぶりにこの日に書いている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月27 日

漢字と国字

 気が付くと、もう大分長い間続けている「書き写し」だけれど、まだまだ発見(と言うか遭遇)する楽しみがある。
 日本文を書くときに「ひらがな」「カタカナ」「記号」以外は全て「漢字」だと思っていないだろうか。
 漢字は勿論「漢」から来た「文字」であり、中国から教わったものである。
 ところが「国産の文字」があり、それを「国字」と言うのである。
 漢字の成り立ちは、購読している北日本新聞に毎週掲載されており、楽しく読ませていただいているのだが、いくら説明されても「理解できない」物もかなり多くある。
 「道」と言う漢字の成り立ちは妖怪などからの用心のために「生首」を宛ら提灯の様に提げて歩くところ、と言う意味で「首」の字が使われていると聞く。
 読んでて楽しいと思う半面で、何か恐ろしい気持ちにもなる。
 ところが、全てを調べた訳でもないので、これからも折に触れて調べてみたいと思っているのだが、国字には、結構楽しい気持ちでその成り立ちが理解できるものが多い。
 山の途中で、右左がどちらも坂になっているところは「山偏」に「上って行く道」と「下っていく道」という事で、「峠」などは小学生に教えても、一つ一つが簡単な文字で、理解も出来るから、すぐに覚えられるだろう。
 個人的に好きな国字に「凪」と言う字がある。
 広島に出張していた時に、その実感を教えてもらったのだが、確かに「全く風が吹いていない」状態のことだと知った。
 「風が止まっている」と書いての文字である。
 これは単に山風、海風だけではなく、人との交流に置いてでも「そんな状態が望ましい」と言う意味で好きである。
 これ以外は個々人で楽しんで調べていただくとして、嫌いな文字は「嬶」である。
 意味はすぐに理解していただけるだろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 学習 | コメント(0 )

2011 年5 月26 日

デスクダイアリーの使い方

 在職時、焼く付きになったら、なぜか「未決/既決箱」というものと、デスクダイアリーが一時期だけ置かれていた。
 正直、未決/既決箱の使い方は、上司が使っているのを見ていたので、理解はできたけれど、デスクダイアリーがなぜ必要なのか理解できなかった。
 未決/既決箱は、係長時代に「既決」のものは次にまわすべきところへ始業開始前に持っていくのが一つの仕事だったし、未決のものについては、その内容について知っておくべき事だと先輩から教わっていた。
 だけれど、デスクダイアリー???
 時映り、そんなことも殆ど記憶の彼方にあったここ数年、私のデスクにはそれが常に置かれている。
 勿論予定表はPCニも携帯にも入っているので、特別それが必要という事は無いのである。
 ところが、置いてみると結構役に立っている。
 最初は、ページの末行に「箴言」が書かれていたもので、読んですぐに忘れるのだけれど、戒めにも励ましにもなった。
 ところが、それが中々見つからず、翌年には、私の苦手とする「和歌」が書かれていたものになった。
 それはそれで「へぇー」と言ういわば「新しい刺激」になったので、それなりに重宝していたのだろう。
 今年のものは、時刻の区切り線があるだけで、特別何も書かれていないので(そんなものを選んだのだが)「思いつくまま」の事を記入していたが、ここ数ヶ月は、日課の回数とタイトルなどを書き込んでいる。
 ところが、裏が殆どの場合「真っ白」なのである。
 貧乏性としては、これをムザムザ捨てるのも気がひけるので、終わって1ヶ月以上経過したものは「メモ用紙」に使うことにしている。
 専用のメモ用紙もあるのだが、デスクで思いついた時には、極力これを使って、必ず両面を使った後に処分する事にしている。
 けち臭い、と言われようが、これが私の節約術の一つである。

投稿者:つねちゃん
at 15 :21 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月25 日

「いい事探し」をしながら生きてみよう

 最近読み始めた「正法眼蔵」の影響という訳ではないが、「何か(勿論正法眼蔵では仏教であるが)を見つめ続けていれば、自ずとその境地に至る」と言う事が、薄っすらと理解出来るようになった様な気がするのは、やはり凡人、愚衆と言われる所以だろうか。
 残念ながら、最近(多分そうではなく、昔からそうだったのだろうが、幸いにして恵まれた環境にいたから気が付かなかっただけなのかもしれないのだが)地震、津波、原発事故、近くてでは生肉の食中毒で死傷者が出る、政治・経済も思わしくなく、少ない資金ながら運用している投資信託は、額面がガタ落ちである。
 そんな環境の中で、表題の事を言っても、誰も信用などはし無いだろうが、それでも私はその線で生き続けたいと思っている。
 「泣いて過ごしても一生、笑って過ごしても一生、同じ一生なら笑って過ごそう」と言うような諺らしき事も薄っすらと覚えている。
 まず最初に思いつく「いい事」は「ともかく生きている」と言う事ではなかろうか。
 世の中に不満は数限りなく上げられるけれども、それだって「生きている」から言えるのではないか。
 いやいや、輪廻転生という言葉もあり、あの世とか彼岸に行っても言い続ける事は出来るかもしれないが、そんな先のことなど判らない。
 病気であっても、怪我をしていても、ともかく生きているからこそできる事がある、「死んで花見が」であろう。
 次に「食べている、生活している」ではなかろうか。
 「(少ないかもしれないが)友達がいる」「近所付き合いも(今は仲違いしているかも知れないが)ある」「(高いかもしれないが)スーパーなどに行けば適度に好きなものが買える」など等。
 「そんなことは当たり前」と言われるかもしれない。
 でも「当たり前のことが、当たり前にできる」ということこそが「幸せ=いい事」ではないだろうか。
 そう思いながら、過ごしていけば、少なくとも後ろ向きにはならないですむだろうから、例にって「お金のかからない楽しみ」の一つである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :40 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月24 日

日展を見てきて

 この時期ほぼ毎年の恒例行事になっているのだが、日展富山展に家内のアッシー君(この言葉ももう死語の世界だろうか)として随行する事になっている。
 私自身は展示物を毎年干渉するわけではないので、今年は久し振りに、例によって(大体毎年家内に言われている言葉であるが)「好きなものだけを観れば良い」と言う誘いの言葉に、入場料は家内持ちで鑑賞した。
 例によって余談になるが、最近一緒に出かける時の費用の殆どは家内持ちである。
 なぜなら、純粋に「私の収入」と言うのは、町内の人に?技術を教えて頂く「講習料」だけなのである。
 それすらも、収入があった時には「たまには俺の驕り」と言う事で、その日一度だけ支払うだけである。
 年金やその他の公的収入は、私名義ではあるが、全て「大蔵省(今では財務省なのか)」のBOSSである大蔵(財務)大臣の管理下にあるので、その中から僅かに「お小遣い」を頂くだけなのである。
 さりとて、それが特別苦痛になる訳でもなく、タバコをやめてからはそんなに定期的に支出が無いので、たまのパチンコで負けるくらいである。
 本題に戻って、彫刻の類はまだ「綺麗だなぁ」「素晴らしい細工だなぁ」は感ずるのだが、書に至っては、さっぱりその良さというものが判らない。
 特に受賞作品は「わざわざ素人には判らない様に書いてあるのだろう」と近づく事すらしなく経路にあると仕方なく「通過」するだけである。
 当然私のほうが先に出て待っていて、いつもは家内が「あれが良かった」と言うものに頷くだけだったのだが、私なりに印象に残った作品を家内に言うと、「そんな作品、あったっけ?」と言う。
 印象に残った絵が家内と違う、ということは、私なりに「知恵が付いた」と言う事なのだろうか。
 そうなると、今までは「随行員」だったのだが、それなりに観る楽しみが増えた、と言う事で、喜ぶべきことなのだろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :23 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年5 月23 日

偏った報道に疑問

 最近だけではないのかもしれないが、私自身の基本的な考え方として「報道は中立」と信じていた。
 ところが、どうもそうではないことに、遅蒔きながらだろうが、気が付いた。
 ゴルフのトーナメントでは、必ず「人気者」が優秀を狙っているかのごとく書かれているし、相撲でも野球でも、スポーツについては殆どそうである。
 どうもこのことはスポーツだけではなく、政治面でも、国際的外交問題についても、ある一つの事に付いてセンセーショナルに書かれていて、それが外れると、まるでダークホースが現れたかのごとき書き様である。
 だから、だんだん新聞を初めとして「報道」には眉唾で視聴するしかなくなる。
 昨今「(紙ベースの)新聞の退廃論」が時折聞かれるが、勿論私は反対である。
 相変わらず余談になるが、朝目が覚めて寝ぼけ眼で新聞を取りに行き、配達している人に感謝しながら、ベッドで横になって読む時間は、至福のひと時の一つであり、絶対に無くなって欲しくは無い。
 ところが、新聞に載っている記事が「偏重」になっていると感じたら、ウトウトしながらの至福のひと時が、疑問視に目をギラ付かせながら読まなければならなくなる、ということになると、起床する前から疲れてしまう。
 優勝を狙っているのは人気者の選手ばかりでなく、参加者は全てそうであるはずだし、政治も外交も、経済も全て(頑張り方は違うとしても)「精一杯」にやって「覇権(言葉が適切ではないような気がするが、意思は然程違わないであろう)」を握ろうとして頑張っているはずである。
 報道が、偏重して、実感は無いが、戦時中の「大本営発表」ではないけれど、意識誘導と言うような事が無いように、是非ともお願いしたいものである。
 米国では「新聞を読んだ?」と言う言葉は、アナクロの嘲笑する言葉になりつつあると聞いたが、デジタルばかりではなく、何時までも紙ベースの新聞の存続を祈るばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :07 | 報道 | コメント(0 )

2011 年5 月20 日

過激な一時的活動ではなく持続的な活動が

 これは今回の東日本の震災などばかりについての話ではない。
 むしろカテゴリーをそうしたように、「政治への注文」なのである。
 在職中にある大きなプロジェクト(実はその元を作ったのが私だったのだが)を担当した時に、何度と無くトラブルに見舞われた。
 その時に多くの人が解決のために「我も我も」というように会議に参加したり、議論百出、百家争鳴の如くに意見を出すのだが、そんなに簡単に短期に結論が出るものではなかったので、当事者としては翻弄されるばかりであつた。
 そのうちに又別の事態が発生すると、またぞろ「我も我も」という事で、人が集中する。
 そんな事の繰り返しだったあるときに、プロジェクトのトップから、大声で叱られた事があった。
 「『餓鬼サッカー』のような真似はせず、自分の場所を心得て、意見を求められた時だけ発言しろ」という事である。
 今回の震災もNZの地震被害も、もっと最近で言えば(私は食べないが)「ユッケ事件」も、マスコミをはじめとして、まるで「餓鬼サッカー」の如き様相である。
 過激な活動が一概に悪いというのではないが、当事者として最も怖いのは、今回の津波の如く「引いたら終わり」というような活動ではないだろうか。
 そうではなく、「継続、持続的な活動」が最も望まれているのではないだろうか。
 病気でも「即効薬」は確かに必要だろうが、その後は即効的な効果は望めないものの、持続的効果が長く続く、薬が求められよう。
 政治も同様にヒステリックになるのではなく、即効的な措置はやるとしても、その後は持続可能な安定した対策を当事者と共に考えて徐々に実行すべきだと考えるのだが、甘いのかなぁ。

投稿者:つねちゃん
at 10 :40 | 政治への注文 | コメント(0 )

2011 年5 月19 日

エリートだったのかなぁ

 先日家内と何時ものようにTVを見ながら、飲みながらの話題で「お父さんはエリートだったの?」と聞かれて驚いた。
 田舎の工業高校卒で、然程成績が良かった訳ではないから、エリートである訳が無いのである。
 家内も専攻科こそ違え、同校の同級生であり、おまけに入学と同時に退官されたのが、私の専攻科の先生だった人が父だったと言う事から、成績も自ずから知れているほど「下から数えて」と言うのが早かったほうである。
 その話題の元を、良く聞くと、最初の転勤で住んだ所が、会社のアパートだったので、近所の奥さんとの話で、そんな話題になったのだそうである。
 確かに会社内の研修機関としては「大学」と名が付いているだけあって、企業内では最高学府を卒業したのだから、そうでない人から見れば「特別な人」だったのかもしれない。
 今はそんなことは無いだろうが、当時はやはり「学歴尊重(決して偏重ではないと今でも思っている)」で昇進などが決まっていたから、一般大学を卒業した人はそれだけで「エリートもしくは準エリート」と言うコースである。
 次は短大や高専卒が続く。
 その次位に「部内学歴」が付いて回るのであった。
 そんなことは、その後随分経って、人事のお手伝いをする頃になって始めて知ったのだから、当時はエリートとは全く関係なく意識せずにいろんな行動をしていた(と思っている)。
 仕事はシャカリキにやったし、それなりに成果も上がり、昇進もしたので、当時同じアパートにいた人の上に立ったことも確かにあったのだが、それでも「エリート」と言うのではないと思っている。
 「エリート」=「良い所のお坊ちゃまで良い大学を出た人」だと思っていたから、品行方正で、当時で言うと「若大将」くらいにいろんな事に長けた人、と言うのが印象だった。
 だから、当然そんな人間ではない。
 でも、今にして思えば、やはり「会社のアパート」に住むと言う事は、時々TVドラマにもなるが、そんな些細な事でも順位を決めるところだったのだろう。
 大酒飲みで「右横には座るな」と言う曰く付きで、怒る時には場所も弁えず大声で怒鳴り散らし、虚勢を張りながらもそれなりの成果を上げている、と言う自分(少し美化し過ぎだろうか)はやっぱりエリートとは縁が無い。

投稿者:つねちゃん
at 09 :15 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年5 月18 日

「やらけた」思わず出る方言

 先日朝の着替えの時に立って靴下を履いているときに「ビリッ」と音がした。
 相変わらず余談になるが、現在まだ「たって」靴下を履く事が出来る。
 僅かな時間だから、特別よろけるような事も無く、無事に履くことが出来るのだが、先日同年輩の人と話していると「とても今では出来ない」と言う声が多かった。
 これも若い時に社交ダンスをしていた所為および、リタイアしてからでも(尤も最近はサボり気味だが)散歩で約1万歩を歩いており、人から「姿勢が良い」と言われるほどの姿勢で歩いていたせいかもしれない。
 まぁ、何時まで続くか判らないけれど、一つの自慢ではある。
 本題に戻って、音がした途端、無意識に口から出た言葉が「あっ、やらけた」だった。
 在職中は何度も紹介したように、半分くらいは関東地方での本社で、北陸に帰ってからの勤務地は基本的に金沢だったが、2/3位は本社を中心の「出張族」だったから、はるか昔の、子供の頃に覚えた「方言」は出る幕が全く無かった。
 勿論本社にいても、時折もとの所属の北陸のメンバーと電話で話す時に、後で周りから「何を喋っていたのかさっぱり判らない」と言われた事はあったが、それでもそんなに酷い(少なくとも自分が意識するほど)方言は使っていた記憶がない。
 それが、リタイア後まる9年も経つと、完全に「こちらの人」にってしまったと言うのか、還暦を過ぎたらから「本家帰り」と言うのか、昔の地肌が言葉にも出てきているようだ。
 これは決して「嫌な事」ではなく、私自身「ホッとする」気持ちだった。
 依然書いたような気がするが、人間も「やはり野に置け」で生まれ育ったところが一番性に合うようだ。
 もっとも、「やらけた」と言って気がついた後で、誰も聞いている人間になどいるはずもないのがが、思わず周りを見渡してしまったのは、「方言は直しなさい」と言う教育を受けた事も同時に記憶にあるからだったろうか。

投稿者:つねちゃん
at 10 :26 | 子育て | コメント(0 )

2011 年5 月17 日

リタイアの後悔はしていない

 リタイアしてからもう丸9年が経過した。
 辞める経緯については、色々あるが、結果として「自分が決めた」ことだから、誰から何を言われようと決して同様などはしないつもりだった。(過去形である)
 介護に努めるつもりだった、父が他界した後は、それでも「もう一度勤めに出ようか」などと思ったら、今度は母が認知症(父の事が契機になっていることはいうまでも無いが)となり、家内だけでは手が足りなくなった事から、それも断念した。
 とは言うものの、「昔取った杵柄」と言う訳ではないが、PCの講習を引き受けてくれないかと言う話があり、新興企業に対する助けをしてくれないか、リクルートのための契約社員としてやってくれないか、などの話があり、各々短い期間ではあったが、出来る分だけでやってきている。(現在形である)
 また、中学や高校時代の同期会などがあり、今のところは「皆出席」である。
 なぁーに、単に飲み会が好きなだけなのだが。
 最近同年代の人がどんどんリタイアしてきて、「どうして過ごせば良いか」などと尋ねて来るが、私だって模範解答など持ち合わせているものではない。
 でも、「これだけは言える」と言う事があるとすれば、「無理せず、頑張らず、ノンビリ」と周りを見回しながら季節の移り変わりを楽しめば良いのではないか、と言う事であろう。
 団塊の世代の我々は、何時でも何処でも「競争」に巻き込まれてきていたのである。
 ならば、いろんな柵から解放された今、今まで見向く事も出来なかった、身近な草花を眺めて過ごしてみれば良いのではないか。
 お金もかからず、散歩すれば、健康維持にも繋がる。
 一時期、他人様から「そんなに早く辞めて勿体無い」と言われたが、今では全く後悔などしていない。
 こんな気持ちで、お迎えが来れば「もう少し早いんじゃないの」とやんわりと断りながら、最終的なお迎えが来るまで過ごせれば、これが本当の極楽往生なのであろう。

 ん、ちょっと最近仏教系の書物を読んでいる影響が出ているのかな。  (^。^)

投稿者:つねちゃん
at 08 :27 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月16 日

それでも原子力発電は便利

 この時期になれば「原発反対」のシュプレヒコールも徐々に低くなってきているのではないだろうか、と期待しながら。
 残念な事に、この期待はメルトダウンと言う事態が明らかになったことから、見事に外れてしまっている。
 とはいうものの「原発反対」と言うフィーバー的な運動について、少し水を差す事になり、非難を受ける事を覚悟の上で書かせていただく。
 基本的に「電気」と言うものは簡単に、大量に、長期間、貯蔵しておく事は出来ないものである。
 だから必要な時に必要な量を、そうでないときには最小限度の発電をする、という制御が必要である。
 一説では「原発の発電総量よりも、太陽熱や風力、波力を使ったりすれば、総電力量は賄える」というのもあるだろう。
 しかしながら、猛暑・酷暑の時に太陽はまだしも必要な風が吹いてくれるだろうか、必要な波力が得られるだろうか。
 そんなことを考えると、火力や原子力は「人間の勝手な制御」が可能な電力である。
 今回話題になった「想定外」の事まで想定した安全策などは不可能だけれど、それでも精一杯の安全策をとった上での推進も必要であろう。
 地域住民の意見を十分に聞いたうえでの安全対策を行いながらも、避けては通れない発電施設であると思う。
 尤もその前に、どこかの都市のように「不夜城」の如き照明はやめるべきだろう。
 それほど必要とするのであれば、自分の地域内での発電施設を建設すべきで、安全と危険も一緒に負担すべきだろう。
  便利さだけは自分たちで享楽し、危険は別の地域で負担する、その分「金を払えば良いのだろう」と言うような考え方だけは排除したいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :00 | お役所 | コメント(0 )

2011 年5 月13 日

入力と出力

 高校が電気科だったせいで、表題の言葉には随分と悩まされたものである。
 就職したら、電話伝送についての仕事だったので、やはり同じように悩まされ、企業内教育では伝送路網の解析のために「四端子網」と言う難しい論理でも、表題の言葉が使われた。
 コンピュータの職種になって、暫くはその言葉を使うことは無かったのだが、HIPOと言う当時では最新技法には積極的に飛びついたらこの言葉だった。
 四端子網もHIPOも内容については殆ど忘却の彼方だが、言葉だけは覚えているのは、「恨み辛み」と「使い切った」と言う両面からだろうか。
 今回はそれとは全く関係なく、メインカテゴリーの如く「健康」についてである。
 先日、同窓会で親しく役もこなして、賑やかに楽しいひと時を過ごした同級生から「入院した」との連絡があった。
 余りにも突然で、予期できなかったので吃驚した。
 見舞いに行くと、気づいた切っ掛けに話が及び「小便の色がコーヒーのような強い褐色」だったことだと知らされた。
 それを気に色々自分の身体を観察してみると、代弁のほうも色が変わっていたり、僅かながらだけれど、痛みがあることで「検査のつもり」で診察を受けると即入院との診断だったと言う。
 我々は色々なものを食べる(入力)時には、色や匂い、見た目や味(勿論お値段は言うに及ばずだが)など等、色々な事に気を配るのだが、果たして、排泄(出力)と言う事についてはどうだろうか。
 最近は水洗トイレが多く、おまけにトイレ洗浄と消臭の目的で色の付いた洗浄剤で、終わったらすぐに流してしまう事が多いので、「見ぬもの清し」とばかり殆ど気をつけていないのではないだろうか。
 時折は、出力についても気を配りたいものである。
 決して、「手遅れです」などと言われないように。

投稿者:つねちゃん
at 09 :33 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月12 日

野菜版ホルモン

 焼肉屋へ行っても必ず注文するのが「ホルモン」である。
 就職するまでは勿論、就職してからも、こちらに居た時には食べられなかったし、食べさせてもらえなかった、と言うのが本当である。
 ところが、関東地方に勤務して、その味を覚えたら、調味料を含めての味だけれど、まさに絶品だった事から、それ以来のことである。
 物にも寄るが、カロリーも然程気にする事は無いものを選ぶし、何しろ安価である。
 尤も、昨今話題になっている「生肉」はどうしても好きになれず食べないので、今回の被害にも遭わずに済んでいるのだろう(この辺が、過去に思いついたテーマ、という事に少しの証拠になるのではないか)。
 今回の話題は、「肉」ではなく「野菜」である。
 「ホルモン」と言う命名の由来は幾つかあるらしいが、関西弁で「ホオル(捨てる)物(モン)」と言う説があり、その意味合いが結構好きである。
 私の調理は、勿論正規(?)の材料をきちんと整理して拵える物も知っているのだが、それでは家内や娘には到底及ばないので、それはそちらに任せて、野菜の「ホルモン」をなるべく無駄にせずに使って作るのである。
 これなら家内や娘は作らないし、競争して負ける事も余り無い(時々はあると言う事である)。
 キャベツの芯はどうですか、ブロッコリーの芯は如何ですか、大根や人参の皮は捨てていませんよね、勿論葉を買う時に切り取って買っていませんよね、煮干の粉になったものはどうしていますか、など等、周りを見渡してみれば、「食べられる」ものを「放っている」現実が結構あるものです。
 決して「他人様に食べていただく」と言う調理ではなく、自分で楽しんで食べて、味も何も全て自己責任、と言う事で調理して食べてみては如何でしょうか。
 結構思わぬ発見に出会えますよ。

投稿者:つねちゃん
at 08 :14 | グルメ | コメント(0 )

2011 年5 月11 日

クイズは一過性で楽しむ

 短気なのか飽きっぽいのか判らないが、PCでのメルマガやTV番組でのクイズは好きで大いに楽しんでいる。
 でも、その答えを「覚えていよう」と思ったことは殆どない。
 「そうだったのかぁ」と言う事で、極端に言うと、次の問題が終わった頃には忘れてしまっている。
 そんな事の繰り返しだけれど、「エッ、この問題と似たようなものが過去にもあったぞ」と思うと、俄然「記憶の抽斗」をゴソゴソと探し回っている自分に気が付く時がある。
 基本的には「完全一過性娯楽」と楽しむだけにしているつもりなのだが、それでも「澱」の如く記憶に残っている場合があると、本当に楽しい。
 だからと言って、物理的な抽斗の整理すら、ゴチャゴチャのままなのに、論理的な抽斗が整理されている訳も無く、思うように引き出せないのも現実である。
 気持ちとしては「娯楽」を「苦しみ」にする気は全く無いので、引き出せなければそれはそれで良い、と思っているのである。
 先日も今話題の脳生理学者(こんな言い方が正しいのかどうかは判らないけれど)が「思い出そうとすることだけでも、脳の活性化になる」と言われていた事が記憶にあり、専らそれに委ねてしまっている。
 赤塚富士夫ではないが、「それでいいのだ」と思っている。
 新聞のクイズでも同様で、読んだ時には「へぇー、そうなんだぁ」と思っていても、午後になったらさっぱりと忘れていて、家内に「ある記事に出ていたでしょう」と言われても思い出すのは中々難しい。
 だから、残念ながら「知識」として身に付くものは最近どんどんと少なくなってきているようである。
 でも、「それでいいのだ」を今日も繰り返しながら、クイズを楽しんでいる自分が楽しい。

投稿者:つねちゃん
at 08 :31 | 健康 | コメント(0 )

2011 年5 月10 日

顔は広くない

 ある友人から「あんたのような顔の広い人にお願いしたい事がある」と言われた。
 高校は電車通学で、地元の同級生とはどうしても縁遠くなっていた。
 就職後は家は寝に帰るだけ、と言う状況であり、就職後2年間は自宅から通勤していたものの、宿直勤務が多く、みんなが休日の時には勤務、勤務の時には休日という事で、やはり縁遠くなっていた。
 その後は在京での勤務となり、36年間の勤続で、自宅からの通勤は約16年だけれども、やはり家は寝る場所と言う生活だった。
 本社勤務と言う事で、会社の中での全国的にはそれなりに「顔が広い」といわれても「まぁ、そうかもしれないな」と言うくらいにはなったけれど、リタイアしたら「全く知らない人」になってしまっている。
 別に悲しくともなんとも無いし、あえて自分から擦り寄ろうとは思っていない。
 尤もそれでもいまだに年賀状やメールでの親交がある人はいるのだから、強ち敬遠されていたわけでもないのだろう。
 そんな訳で、地元での「顔」は全くと言って良いほど「狭い」のである。
 でも、リタイア後「顔の広い人」と言われる知人を数人知る事になったので、そのような誤解に繋がったのかもしれない。
 むしろ遅まきながらだけれども、ありがたいことであると感謝している。
 頼まれれば、同調出来る事はそんな友人を通じて引き受けるけれども、自分自身の顔は決して広くなるものではない、と自戒を込めて思っている。
 半年に一度くらいの割で開催する事になった同級会でも、「顔の広い」人や「顔役」と言われる人も時折見かける。
 でも、上記の通り、そうなりたいとは全く思っていない。
 いうなれば、昔からそうだった様に「人見知り」と「引っ込み思案」の自分なのである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :09 | 日記 | コメント(0 )

2011 年5 月9 日

生返事の大煩い

 先日の記憶力と一線上にあるのだが、孫の話が時々面倒くさくなってしまって、いい加減に受け答えしているうちに「生返事」が出る時があるようだ。
 先日も「あの時じぃちゃんが言ったじゃないか」と言われて、記憶を辿っていくと確かに言ったような気がする。
 以前に頭の孫に「ハイは一回」とかなりしつこく言っていたのだが、まだ在職中のある時、かなり疲れて出張から帰ったときに、家内が町内会のイベントについて相談(その時には「強制」と聞こえたのだろう)話しかけてきたのだが、「ハイハイ」と聞き流していると、すかさず「ハイは一回」とはっきりと孫から言われて面食らった覚えがある。
 そのときはかないも何時所になって「そうだよねぇー」と孫に協調するものだから、流石に「こんなに疲れてきたのに」と怒鳴り返す事も出来ず、苦笑いで聞くしかなかった。
 それからは、極力聞く時には、喩え話し方の要領が悪くて回り道になったとしても、質問しながら(なるべく)真剣に聞いてる事にしている。
 勿論、それがかなり辛くなる時があるので「爺ちゃんは今他の事をしなければならないから(事実は何もない場合が多いのだが)」と言って納得してもらい解放してもらうのだが、それとても「あの時の続きはねぇ」と言われると、中断した時の事を思い出すのに又掛かってしまうのがなんとも辛い。
 一般的なことは然程では無いのだが、友達の名前が出てくると大変である。
 子育てにおける、生病法は怪我の元、とならないうちに「今は会話できない」とはっきり言うようにして、会話できる時には真剣に会話してあげようと思っている。
 でも、「辛いなぁ」と言いながら(書きながら)実は孫自慢だったりする自分に気が付き、なんとも面映い。
 まだ孫をお持ちでない、同輩の諸姉・諸兄も今からでも遅くない。
 息子や娘に早く結婚させて、孫の顔を見させろくらいの子育てをやって、孫を持つ幸せを感じてみませんか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :26 | 子育て | コメント(0 )

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