あちらのPCで出来ても
何度か紹介しているが、町内の有志数人から依頼されて、月に4回PC講習会を開いている。
基本的には「質問してください、こちらから『これを覚えなさい』と言う講習はしません」と言っているので、質問がない人はともかく来て、人の質問されたことを傍で聞いたり、質問が思いつくまでゲームで遊んだりしている。
でも、ゲームをしているうちに「そうだ、これを聞いてみよう」と言う気持ちになったりするので、結構有意義に過ごしていただいていると思っている。
そんな中で「あの人のPCで出来て、何でこちらのPCで出来ないのだ」と言う質問で時折出る。
「時折」と言うのは、一度聞いても、人間の特権として「忘れる」からであり、こちらはそんなことは当然あると思っているから、何度でも同じことを実技でだったり言葉だけだったりしながら嫌な気持ちにならずに教えてあげる。
でも、そんな中で、自分が「エッ」と気づかされることがある。
OSも同じ、SPも同じ、メモリや駆動周波数も然程の差が無い場合でも、「あちらで出来て、こちらで出来ない」ことがあるのである。
そうなると「教える」と言うよりは、俄然「昔取った杵柄」ではないが、技術者の端くれだった意識が目覚めて、どんどん突っ込んでいくようになってしまう。
途中で「あっ、他の人からの質問にも答えなければ」と言う意識も働くのだが、干支の精神そのもので「猪突猛進」になっていて、答えていても、私が一番嫌いな「上辺だけ」になってしまっていることに気がつき、愕然とすることもある。
幸いにして、私よりも年長者の方々ばかりなので、それに対する苦情が出ないのだが、ただ申し訳なく思いながらも、「何でだろう」と言う疑問が゛払拭できない。
これは「苦労」ではなく、新たな疑問を「楽しむ」と言う気持ちである。
そんな「未知の楽しみ」を、これからも探し続けるのも、嬉しい物である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :23
| 学習
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選択出来る幸せ
世の中に「良くも悪くも」と言う選択の余地が無いことも結構ある。
しかしながら、リタイアしてから「選択出来る」ことがどんどん増えていることに気がついて楽しい。
仕事をしている時は「少なくとも基本的なこのことは『ネバなら無い』と考えて行え」と言われ、選択の余地などは二の次だった。
これと似たようなことが、至る所であり、自然と「そういうもんだ」と自ら選択する事を回避するようになっていた。
また、係長時代までは、半官半民の体質の組織だったから「前例に無い」と言うことで、検討もされずに拒否された物である。
それが、一転して「民営化」と言うことになり、「自分で考えて行動しろ」と言う掛け声が掛かった。
正直なところ戸惑ったのだが、上手い具合に「課長」と言う立場になったのだから、ある程度は自分の裁量でできた物である。
リタイアした今、漫然と過ごす毎日が続くのだが、時々そんなことを孫の行動を見ていて思う。
母親と婆ぁちゃんである家内は孫と同性(3人とも女性である)なので、それなりに「気づく」事があって「してはいけない」と声を荒げ、孫としては殆ど選択の余地が無い。
それが爺ちゃんの私に対しては、かなり選択の余地がある(無責任な爺ちゃんである)せいか、特別「これをしてもいいか」と言うような発言も無く、かなり自由な選択をしながら過ごしているように見える。
もっとも、私が気が付いていないだけなのかも知れないが。
そんな時、ふと自分を振り返って、かなり自由な選択が出来ていることを幸せに感じる。
選択の初めは、朝食である。
今朝は昨日の残りご飯を自作の蕪の葉のヨゴシと一緒に炒飯にして、辛味もたっぷりと入れ味わい、味噌汁は軽く若布と卵にしたい、あぁ幸せ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :54
| 子育て
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健忘症はボケの始まりではない
その後に続くフレーズは「だろう」とか「そう思いたい」と言ういささか消極的なものである。
加齢のせいだとあまり思いたくないし、少し昔を思い出しても、結構「忘れ物」をしたことが思い出されるので、多分そうではないのだろう。
以前「症」は病気ではなく、一つの性格や性質ではないかと書いたことがあるが、健忘症と言うのもそうではないだろうか、と思っている。
父の最期の頃を思いだすと、昼夜逆転が「ボケ」の典型的な症状だった。
幸いにして(と言うよりまだその年齢までには相当あるのだが)現時点でそのような症状は出ていない。
それにしても、徹底した忘れ物、と言うよりも「確か序にあれもしよう」と思っていたことを忘れてしまうことが多くなっているのは事実である。
ルーチン化してしまったことは「習い性」と言うことで殆ど忘れることが無いが、そうでない「序で」を忘れてしまうのである。
で、先日ささやかな実験をしてみた。
ルーチンとなっていることを初め「今日は全てお休み」にしてしまったのである。
実際にしてみると「エッ、あれも休みにしたんだっけ」と言うようなことになってきて、結構「覚えているじゃないか」と言う、良い気持ちになったのである。
こんなことで、自分を「テスト」してみるのもたまには面白い。
人様からテストなどをされると、気に食わないが、自分で企画して自分で思い直してみるのだから、誰にも何も言われる必要が無いのである。
また、序でに「一つ時には一つしかしない」と決めたやってみた。
これも、意外と他のことにも気がつくものである、とニンマリしていた。
時々こんな遊びも面白い。
投稿者:つねちゃん
at 13 :31
| 健康
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知らないことは知らないと言いたい
知っていることでも「これだけは知っていますが、これ以上はまだ学習していません」と自信を持って言いたいものである。
と同時に、表記のとおり「(まだ十分に)知らないこと」については、自信を持って「まだ知りません」と言いたい。
勿論、それは「いい機会」とばかりに、辞書やネットで調べて「新たに(追加して)知る」ことが楽しみでもある。
落語の「やかん」ではないが、無理にこじつけて知ったかぶりをすると、そのうちに「嘘八百」の症状を示して墓穴を掘ることになる。
現在、町内のシニア世代の人数人に請われてPC講習会を開いてお小遣いを頂いている。
価格的には、一般の教室よりも格安である(と思っている)から、「知っている、知らない、一緒に学びましょう」と言うことは大いにある。
一般の教室で教える「WordやExcel」などについては、在職中に色々な使い方をしていたので、大概の質問には即答できるが、それでも「今まであることは知っていたが使った事は無い」と言う機能を質問されると、ともかく「それは使った事が無いから知らないなぁ」と答えることにしている。
その上で「こうやったらどうだろうか」と一緒にやってみる。
また、この季節になると「年賀状作成ソフト」と言うものが頻繁に使われる。
生徒さんの中にも3種類のソフトが混在しているので、私自身使ったことの無いものがある。
そして課題が解決すると、お互いに嬉しくなる。
他の生徒さんの中には「そんな機能は私のところには無い」と言うことがあるのも、楽しいものである。
まだまだこれから色々なことにでくわうだろうが「知らないから学習して知る」を続け、
「忘れたからまた学習する」を繰り返したいと思っている。
そうすることで「知識が知恵」になればこれほど楽しく嬉しいことは無いだろうから。
投稿者:つねちゃん
at 08 :28
| 学習
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「何の不自由なしに生きていて」
かつて、よほど悪いことをしたのだろうが、こんな言葉を母から聞いたことがあった。
亡くなったから思い出すのだろうが、今思ってみると確かにそうだったのだろうなぁ。
でも、子供や孫には聞かせたくないし、自分自身が言いたくはない言葉だと思ったが、それこそ母の反面教師としての教えだったのかもしれない。
今でも「そんな事言ったって」と言う反発が先にたつのだが、その次に出てくるフレーズが中々まとまりが付かない。
勿論いつも「気取る」と言うことなど考えては居ないのだが、内実は「俺だった色々と不自由があるのだ」と言うことであろう。
でも、その不自由を書き出してみると、結局は「自分のことだけしか考えていない」と言うことに尽きるのだろう。
リタイアする前は、基本的には「お客様のため」また「お客様の先にあるお客様のため」と言うことを公言してきたが、それだって結局は「自分の業績アップのため」だったと今更ながら反省頻りである。
リタイアした今は、以前とは少し「他人様の為」と言う気持ちが増えてきている、様な気がしているが、それだって「本当か」と三度重ねて質問されたら、全くと言っていいほど自信がなくなってくる。
一度、自分の「不自由だ」と言うことを書き上げてみたいような気分になっている。
でも、何だかそれをやること自体が「自分勝手な不自由」と言うことを思い知らされそうで、怖い、と言うのが本音で中々出来ない。
また、逆に、「なんだ不自由なんて全く無いじゃないか」と言う結論に至ると、それこそ怖いような気持ちにもなってくる。
こんなことを思いながら過ごすことが、凡人としての世界なのだと、笑い飛ばして、漫然と毎日を過ごしている私は、果たして正しいのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :37
| 子育て
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チラシに見るTVの説明
今朝の新聞にも出ていたが、TVの売り上げが激減だそうである。
一時期のエコポイントやアナデジ変換のブームも治まったのだろう。
このテーマを思いついたのは、もう1週間以上も前だから、その時にはそんな想定はしていなかったので、所々違うかもしれないが、お許し願いたい。
現在我が家にはアナログTVが3セット(デジアナ変換で見ることが出来る)とデジタルTVが2セットある。
そんななかで、我が家のアナログTVもそろそろ替え時である。
私自身も孫にも「見たい番組は録画してみるように」と言い聞かせているので、録画機能は欠かせない。
時には放送時間が重なるものもあるので、出来ればWチューナー内蔵のものが欲しい。
そんな時、チラシに見る謳い文句で少し「おかしいな」と思ったことがある。
外付けHDDのタイプなのだが、小さい文字で「現在視聴中の番組しか録画できません」とある。
見たい番組を繰り返して見たい、と言う人も確かにいらっしゃるだろうが、私の考え方とは少し違う。
そんなことから、この機能は私にとっては全く無意味である。
また、わざわざ小さな文字でしか書かれていないことが問題ではないだろうか。
価格的には外付けHDDのタイプが倍半分とまでは言わないが、相当の差があるから、何も知らない人はそれを求めて使ってみて違うことに気がつくのではないか。
また、電気店の「人寄せパンダ」のごとく、来た客に「実は」と説明して高い物を買わせるのが目的ではないだろうか。
何だか有名電気店でもそのようなことをやっていると気が付くと、よほどこちらの気持ちをはっきりとさせて出向く必要がありそうだ。
おとり商法や「ここに書いてあったじゃないですか」と言うような騙し商法だとは思いたくないのだが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :10
| 興味あること
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巡り会えたチャンス
私自身は、家庭でのインターネット導入は結構早かった、と思っている。
仕事で、インターネットと言う技術を知らなければならない事情もあったのだが、当時は単身赴任という事情もあって、公私混同が激しく、寮に帰っても「何か使える技術が無いものか」とネット上を下手な英語を駆使しつつ、探し回ったものである。
とくに、当時の通信速度は2400bpsと言うようなものであり、ともかく最初はつなぎっぱなしで見ていたけれど、電話料の請求書を見て慌てて「見るのは後、まずはダウンロード」と言う具合だった。
そんな中で、勿論仕事を離れてのんびりと使っていたのが、ネットの懸賞や学習になるクイズや懸賞つきのものなどだった。
当時はネット利用者と言う人が少なかったのだろう、焼酎や缶ビール(尤も私自身はあまりビールを飲まないのだが)簡単なアクセサリーやクーポンや割引券などが結構高確率で当たった。
自宅に戻ってからは、ISDNを初めとする高速回線などは、その技術的学習も兼ねて早速に導入したものである。
趣旨が外れてしまったが、今でもかなり多くの会社がプレゼントなどの提供をしてくれている。
それは「探す」と言う必要が無いくらい巡り合うものである。
かつてほど当選率は良くないけれど、それでも巡り会ったチャンスには、出来るだけ挑んでみたいと思っている。
挑むことによって溜まるポイントで思わぬ景品が当たったりするのも決して夢ではない。
怪しげなものには手を出さないけれど、それなりに有名な会社などのものは、当選確率こそ低いけれど、結構良い景品が並んでいる。
秋の夜長、のんびりとそんな「チャンスに巡り合う」と言うグータラ生活も楽しいのではないだろうか。
ちなみに、全く意識しなかったのだが、今日11月21日は「インターネットの日」だそうである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :59
| 趣味
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読めない字
9月から、松下幸之助発言集を読んでいる。
これからもこの著書からヒントを得た、と言うより共感した話題が時々出現することをお許し願いたい。
今回はその1回目として、このテーマを取り上げた。
氏がかつて高名な人の手紙を見る機会があり、皆が盛んに感心していると言うのだが、氏にはさっぱり読めなかった、と言う話である。
「いくら高名な方の立派な文字でも、一般の人に読めないのではまずい」と主張されて今まで感心なさっていた先生方の共感を得た、と言うものである。
時期的には少し過ぎたが、芸術の秋にいろいろな所で展示会があり、私もその本来の良さは判らないながらも、家内に「好きなものだけを見れば良い」と言う指導で写真や絵画を見て回る。
ところが「書」の部だけは敢えて見ようとはしないし、通路の順で掲示してあっても、むしろ急ぎ足で通り過ぎるくらいである。
それくらい「判らない」のである。いやいや「読めない」のである。
書いてある文章や詩などがその意味は理解できないまでも「読める字」で書いてあれば、それなりに「見ても良いかな」位にはなるのだろうが、全く判らない文字らしき墨蹟であると、「見て感じる」こと(当然決して良い感じは持たないだろうから)自体がその人にとって罪悪のように感じるからである。
我が家にも、父の時代に元県知事だった人の書額「正直第一」というのが、座敷の長押に掛けてある。
元県知事の書だから大事にしている訳ではないが、書いてあることは誰にも読める(尤も右から書いてあるので孫には解説しなければならないが)ことばであるから、そのまま掲示してある。
中国へ旅行した際に、「寒山寺の住職の書である」と言うものを買って来た。
たぶん本物ではないだろうし、印刷だろうから、そのもの自体に価値がある訳ではないのだが、「知足常楽」と書いてある。
五行律詩、と言う掛け軸があるが、これは全く読めない字が並んでいる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
| 日記
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ギリシャ、イタリアの二の舞にならないか
経済学、と言うものは、在職中の研修期間で週1回(1時間半の講義)で約半年学んだだけで、とても高尚なことを言うつもりはないし出来ないが、表記に挙げた国の昨今の事情を考えてみると、あながち「対岸の火事」とばかりとは思えないのではないか。
わが国でも一部の官庁職員は、天下りを初めとしてトータルとしての高給取りだし、見せ掛けだけの一流企業の一部の社員もバブル掬いで、取るだけ取ったらすぐに転職してしまい、後は知らぬ存ぜぬの態度が目に余るのは私だけではなかろう。
国内は支払う給料や社会保障費が高いから、発展途上国に安い労働力を求める。
最初は中国や韓国だったのだろうが、それが発展してしまうと、タイやベトナムなどへと触手を伸ばす。
そのうちそこも発展すると今度は何処へ行くのだろうか、世界中を嘗め尽くしてどうにもならなくなったときに「やっぱり日本が良いや」と思っても、今まで空洞化させて来た日本で満足な労働力が得られると思っているのだろうか。
そう考えれば、表記の国の二の舞で「現在の給料などを初めとした待遇を低下させることは出来ない。全て国の責任で保障すべきだ」と言ってみても、「国」と言う組織体がお金を持っている訳ではなく、結局「国民から巻き上げた(おぉっ、かなり過激な発言だ)」税金と言うものに頼るしかなくなり、それまでの高給取りだった官僚や閣僚などは、身銭を切ることなく、税金と言う国民へのしわ寄せになり、いかに忍耐強い日本国民も暴動することになりはしないか。
そうならないうちに、政治屋と天下りに代表される官僚などは叩き潰し(おおっと、またもや過激発言だ)二度と立ち上がれないようにしなければならないのではないか。
そのためには、微力だけれども度々の選挙でしっかりと人を見据えて投票するしかないのだろう。
このことは決して「蟷螂の斧」や「ごまめの歯軋り」ではなく、着実な一歩になるのではないか。
何だか、このブログの趣旨「仄々」「ノホホン」から大分離れてしまったようだが、齢64歳にしてまだまだ世間に物言う、と言う姿勢が吾ながら天晴れだと、自画自賛である。 (^。^)
投稿者:つねちゃん
at 08 :08
| お役所
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飲み屋のエゴ
在職中は、出張と言うこともあったが、実に様々なお店でお酒を飲んだ。
現在の「パブ」と言う所はあまりよく知らないが、バリバリの一線戦士として活動していた(こう言うと格好良く聞こえるが、実は仕事の憂さを酒で晴らしていただけだったのだろう)頃によく言った「パブ」では、結構客の言い分を聞いてくれたものだった。
今からの季節、鍋料理が恋しい時期になるが、一人前の鍋を食べると、それだけでお腹が一杯(勿論お酒も飲んで)になり、いくつかの鍋の味を楽しみたいと思っても食べ切れないので我慢してしまうのだが、「あれとあれを半分ずつ」と言う注文をしても、気軽に出してくれた記憶がある。
最近の鍋では、それが当然のようになっているものもあると聞くし、何年か前には、孫たちと一緒に行った時には、むしろ「そうしてください」とばかりに区切った鍋が出されて、1種類の鍋を注文するほうがおかしいのだ、と言うような設えだった。
そうなると「みんなで同じ鍋をつつく」と言うような楽しみが失われてしまうので、これもちょっと押し付けがましいので、妙な気分になってしまう。
このテーマを思いついたのは、TVのグルメ番組(私自身は決して好んで見る番組ではないのだが)で、「店主の出すものを素直に食べろ。最高の味付けと舌触りの変化を最高に楽しんでもらうように専門家が考えて出しているのだから、素人はそれに従って食べればいいのだ。お酒もそれに合うものしか出さないから」と言うような乱暴な店の紹介に出会ったからである。
確かに、九州で、東北で(特定の市の名前は敢えて出さない)そんな店に出くわしたことがあって、吃驚した事もあったが、決して後味が良いものではなく、二度と行く気がしなかった。
その反面「今日はこんなものがお勧めですよ」と黒板に書いてあるのではなく、さり気なく言ってくれるお店は、感じが良い。
日本酒が好きな私だって、時にはビールを飲みたいときもあるし、焼酎にしたい時だってあるのだから、飲み屋のエゴで「出されたものを食え」と言う態度にはとても付いていけない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :50
| グルメ
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街角トイレ
まず最初にクイズである。
必要で探す時に中々見つからず、そうでない時には「こんなところに?」と言うものの最たるものは何か?
まぁ、結論から言えば、正解はその人それぞれなので、何であっても良いわけなのだ。
クイズには常に「一つの正解がある」と言うのは、間違った考え方だし、そんな固定観念に捉われては成長がない、と言うのは、在職時の研修中に覚えたことである。
でもしかし、散歩中のトイレ(特に大の方)はこの答えに最も適したものではないだろうか。
男性の場合、小の方は、細かく言えば軽犯罪法に触れるし、これ見よがしにすれば「猥褻物陳列罪」にも当たろうが、少し人目に付かないところでやる「立ちション」は大体の場合「仕様がないなぁ」くらいで済まされるのが常である。
かつて野球選手が「そんな表彰を貰ったら、立ちションも出来ないから要らない」と断ったと言う話も聞くにつけて、頷けるものである。
散歩の途中では特に実感する。
でも、昔と比べて街角トイレは、随分と多くなったような気がする。
大体のコンビにでも「コンビニエンス(重宝)」という意味でトイレを開放(店員さんに断るのが礼儀ではあるが)してくれているし、わが町では、結構手頃な所に設備されている。
でも、表記のクイズではないが、「必要な時」には中々見当たらないものである、のは私だけの経験ではなかろう。
先日も「大丈夫だろう」と出掛けたが、少し寒くなってきたせいか、お腹が冷えてきて急に催してきた。
「そうだ、あそこにあったはずだし、施設の中だから清掃も行き渡っているだろう」と思いながらも、時間がまだ早いので「開いていなかったらどうしよう」と思いながら何とか堪えてたどり着いた。
結果は「助かったぁ」であった。
大袈裟かもしれないが、正に「地獄に仏」の感じだったのである。
話を発展して考えれば「あって当たり前」のものでも、無かった場合を考えれば、常に感謝して過ごすことが必要なのだろう。
空気や水だってそうであろうし。
そういう意味で、自分が生きていること自体が「有難い(有り得ないこと)」なのである、とは少し仏教色に染められ過ぎているのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :30
| 健康
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もう64歳なんだなぁ
団塊の世代真っ只中の年代だが、殆どの同級生(比率的には8/12位)はすでに64歳になったのだろう。
年齢相当、とは言わないが、私の場合は、若い時からの無茶の結果が今出現していて、高血圧、糖尿病と腹囲の三拍子揃ったメタボリックシンドロームの正会員になって久しい。
退職寸前まで「健康診断とは、今まで通りの生活をしていて、診断してもらうのだから、特別前夜節食、節酒して受けたのでは全く意味がない」と嘯き、飲酒を伴う会合があれば、むしろ積極的に参加し、鯨飲馬食とまでは行かないが、飲み食いかつ歓談、議論したものだった。
そこへ加えて、出張族だったから、ホテルへ帰ってバタンキューだけれど、翌朝は朝シャワーを浴びてきちんと(辞める前には殆どの場合バイキング方式だった)朝食をとって、電車や飛行機を乗り継いで健康診断を受けるような状況も度々だった。
ところが、一切上記のような指摘を受けたことがなかった。
それがリタイアして、三食を決められた時間にむしろ少なめに食べていた、加えて運動不足解消のために1日10000歩も3年間確実に継続していた、のにである。
話を本題に戻して、リタイアしてもう10年になるが、気がついたら64歳と言う年齢になっている。
この年齢で思い出すのは、かつて大好きなコメディアンだった「八波むと志」と言う人である。
氏の芸名は九九の「はっぱ」から来ており、浮世の儚さという意味だったと、昔何かの番組で当時の仲間だった由利徹だったかの話しで聞いた。
仏教的なことからすれば、此岸自体が儚さなのだから、妙に感心したものである。
氏は残念ながら若い時に亡くなられたのだが、この歳まで生きていられる私としては、妙に感慨にふける年齢である。
今まで何度も書いたが、儚いながらも、人に迷惑を掛けないようにして(生きていること自体がすでに大迷惑なのではあるが)120歳を目標に仄々と生き続けたいものである。
勿論無理は承知の上なのだが、夢は大きく。
投稿者:つねちゃん
at 09 :12
| 健康
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突然の停電、犯人はゴキブリ
先日鍋を囲んで、少しお酒(孫はジュース)を飲みながらの夕食も楽しく終えて、9時からのTVドラマを家内と楽しんで居て、そろそろ終章に掛かろうとした時に、何の前触れもなく突然停電した。
近所を見るとどうやら我が家だけなので、何事だろう、とそこは少しばかり電気の知識があったので、ブレーカーの所へ行った。
見たところメインのブレーカーは落ちていないし、子ブレーカーも全てONの状態である。
その間には、これは私の知識外のものだが「漏電ブレーカー」と言うのがあり、これが落ちていた。
何かの拍子に漏電を感知したのだろうと気軽に上げたのだが、すぐに下がってしまう。
こうなると、私の知識を外れてしまうので、電力会社へ電話すると、同様の指示をされたので、「それはやった見たのだけれど」と思いながらも指示通りにやってみたが、結局埒が明かず、「手配するから1時間ほど掛かる」とのことだった。
私の兄貴分に当たる従兄弟が、まだ現役で電気関係のことをやっているので、早速電話して来てもらったが、漏電ブレーカーと言うのは、責任分介点以降であるので、それが故障しているときは、我が家で取り替える必要がある、とのことだった。
でも、まだ数年しか経っておらず、見た目も新品同様である。
電力会社から手配の人も来て頂いてから、漏電ブレーカーと言うものを取り外して調べようとした作業中に、なにやら黒い物体が2個落ちてきた。
見ると結構大きなゴキブリの死骸である。
最近のブレーカーボックスは、配線に銅の「板」が使われており、その板の間に挟まって漏電していたのだが、これも私にとっては初めての見聞だった。
従兄弟や電気会社の人に聞くと「蛇が挟まっていた」と言うことがあると言う。
判ってみれば、笑い事だったが、もう夜も遅い10時近くの椿事の解決に感謝、感謝だった。
また、私個人としてみれば、新しい知識習得が出来たことも感謝であった。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
| 日記
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まだまだだなぁ
このテーマは、以前にも書いた記憶があるが、ひょっとしてそれは新聞への投書だったのかもしれない。
以前のきっかけは、般若心経を600回書き写した後の感想としてだったと思うが、そのときも今回と同じように「手で書く」と言うことに主眼を置いていたのだから、精神修養というのは二の次、三の次のズッート後だった。
今回も似たような気持になったきっかけは、年初めから今年の目標の一つとして始めた「『正信偈』の書き写し100回」で、先日ようやくそれを達成した。
このときも精神修養は後のことだと思って始めたが、矢張り「何かしらそんなものに対する期待」があった、と言うより途中から芽生えたのだろうが、残り僅かな時になって意識するようになって来た。
ところが、般若心経と同様に、どうしても腹が立つことが発生してしまった。
「怒るまい。人が自分の思い通りになることは有り得ないし、あつたとしたらそれは天国と言うよりも地獄なのだ」と自分に言い聞かせていたつもりだが、矢張り凡人の凡人たる所以か、どうしても怒りが収まらなかった。
そういう意味で「まだまだだなぁ」と言うタイトルになった次第である。
でも、ある本で読んだ逸話で、偉いお坊さんが、自分の死に至って、何事かぶつぶつ呟いているのを、弟子のお坊さんたちがよくよく耳を澄まして聞いてみると「まだ死にたくない」と言う言葉だったと聞くと、吾も凡人、彼も凡人、と笑いたくなる。
そんなわけで、齢64歳になっても、武田鉄也の歌ではないが「いまだ旅の途中」であることを感じる。
尤も「旅の終わり」と言うことは成長の終着点であるという意味では「悟りの境地」と言えるかもしれないが、それは「此岸での終わり」を示しているのだとすれば、まだまだ、イヤイヤ何時まで経っても、「旅の途中」であって欲しい。
目標は以前にも言ったが、120歳である。 (^。^)
投稿者:つねちゃん
at 08 :25
| 健康
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本が売れた
父の蔵書や随分昔に私が買った本の殆どを処分しつつある。
そんな中、Amazonと言うところで高値が付いている本があったことに気がついた。
それならば、と言うことで初挑戦してみたところ、3ヶ月ほどたった先日、「買い手が付きましたので発送してください」と言うメールが届いた。
あたふたしながら送ったところ「売り上げを振り込みたいので銀行情報を設定してください」との連絡。
早速設定したところ、金額が振り込まれた。
勿論高価なものではなかったが、それでも購入時の価格とほぼ同額が振り込まれた。
父が買った時だろう定価が480円であり、それに近い価格で販売された。
尤も、送付用の袋(100均で2枚入ったもの)、それを買いに行く時間とガソリン代(近くの100均では売っていなかったので)、肝心の郵送料(郵便局で普通郵便で送った)などを考えると、決して「儲け」にはなっていない。
でも、何時頃からつけられたのか知らないが、最近の本には当然のごとく付いているISBNという番号が付く前の代物である。
希少価値というほどではないだろうが、ともかく古くて、目新しいものだったのだろう。
買い手は以外に近くの方だったのにも驚いた。
高価なものは(買い手が付くかどうかは知らないけれど)40,000円とのことであるが、私としては販売価格を20,000円として出品した。
それだけのものが売れれば、たぶんプラスにはなるのだろう。
それにしても、いまさらながら「ネット商売」と言うものの、楽しさと怖さを感じた出来事だった。
IT業界に居た人間として、恥ずかしいような出来事だった。反省。
投稿者:つねちゃん
at 08 :23
| 興味あること
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私は犬が嫌い
「嫌い」と言うよりも「怖い」と言うのが本音だろう。
幼児期に噛まれた経験がトラウマになっていることは自覚しているが、今でもその傷跡が右足に残っている。
散歩していて、結構狭い道で犬を連れた人と出会うことがあり、どうしても恐怖心が出てしまう。
そんな時殆どの人が「何もしませんよ」と言われるのだが、それはあなたに対してであって、恐怖心を露にしている私に対しての保障は何処にも無いのである。
勿論大型犬は、最も怖い存在なのだが、小型犬は別の意味で怖い。
諸姉・諸兄はそんな経験はお持ちで無いだろうが、昔よく川原へ魚釣りに行ったとき、いろいろな蛇に出会った。
蛇も怖いものの一つであるが、だから咄嗟に「殺してしまえ」と言う発想が沸き起こってきた。
勿論私だけではなく、共にいた友人も一緒になって「殺してしまえ」と言うことになるのだから、棒や石などで徹底的に殺してしまった。
それと同様なことが、小型犬に対して起こらないだろうか、と言う自分の内面を見る怖さである。
織田信長の歌ではないが「鳴かぬなら、殺してしまえ〜」というようなものである、ちょっと違うかな?
ともかく幼児時代の「トラウマ、刷り込み」だから、還暦をとうに過ぎた今でもこれは直るものではない。
ソロソロ孫が生き物を飼いたい、と言い出している。
表向きは「飼っていて死んだら可哀相だろう、自然の中で思い切り遊んで死んだら、虫も満足なのではないか」と言っているが、どうも本音は「気に食わないで殺す」と言う自分の内面を見るのが怖いだけになのかもしれない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :14
| 日記
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投書と同時進行になってきている
ブログネタは、以前にも紹介したように、大体1週間分を目処に記録しておくのが、今までの常だった。
そして、なるべく、新聞投書のネタとは違うものにしようと思っていた。
ところが、先日からどうもそれが同期を取りつつあることに気がついた。
ということは、そろそろネタ探しにも疲れが出てきたと言うことだろうか。
新聞投書の打率は相変わらず3割程度だが、時々「どちらに書いたんだったっけ」と思ってしまうことがある。
これではいけないなぁ。
そう言えば、孫を保育園へ送った後の「ついで散歩」にばかりなっていて、「楽しみ散歩」になっていないことに気がついた。
だから、なんとなく発想が豊かにならないのではないか。
これからは、もっとたっぷりの酸素を吸入して、然程出来は良くないかもしれない脳細胞にも行き渡らせたいものである。
このブログを思いついたときには、このように考えていたので、その反省の成果かもしれないが、本日時点では10日分くらいのストックがあるので、暫くはこの考えから離れることが出来るのではないか。
かつて坂本九が歌った「涙君さよなら」と言う歌詞の一節を思い出す。
「また会う日まで」というフレーズだが、出来ればその時がもっと先であることを祈ると共に、それだけ自分でも精進しなければと反省したりもする。
これがまた楽しみの一つでもある。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
| 日記
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建物平面図を見る
新聞の折り込み散らしに入っている、建売なのか、モデルルームなのか知らないけれど、最近の家は「格好良さ」だけが先行して、維持作業などが全く無視されているように思うのは、素人だからだろうか。
昭和38年にこの地に引っ越してきたのだが、それまでは町の中の間口4間半、奥行き7間くらいの家だったが、最奥部の間口は約3間という、台形の土地に立っていた、棟割長屋風の家で、隣とは壁1枚と言うものだった。
祖父が結婚したときに「建売」として買った物だと聞いていた。
話を本題に戻して、格好良さは、美人の嫁さんと一緒で、そのうちに鼻についてくるものである。
動かないところには蜘蛛の巣が張るし、動いているところにも埃は積もるので掃除が必要なのである。
吹き抜け、と言う空間は人間を確かに成長させるだろうし、発想も豊かになるかもしれない。(天井の高さが発想力を豊かにする、と言う話を聞いたことがある)
シーリングファンと言うのも、冷暖房の省エネになるのだろう(私自身はあまりそう思わないが)が、四六時中動かしているものではないし,もしそうだったとしてもファンに積もる埃は除去しなければならないのに、手が届くのかしら。
広いリビング空間も若いうちは子供の行動範囲を広げて、教育的にも良いだろうが、北陸の冬季間の暖房を考えると、果たしてどれだけ温められるのだろうか、その灯油などの費用はどうだろうか、とみみっちいかもしれないが考えてしまう。
何も「四畳半で炬燵でのんびり」とまでは言わないが、畳の上で思い切り手足を伸ばして、誰にも邪魔されること無く転寝をしてみたい、と言うような場所は想像できない。
住宅会社も「人目を惹く」と言う魅力は必要だろうが、長い目で見て住みやすい」ことも十分に考えるべきではなかろうか。
何処からも自然たっぷりの中庭が見られます、と言う謳い文句には、豪雪時の除雪はどうするのか、草木には時として害虫が寄り付くが、そのときに駆除はどうするのか、などと嫌なことばかり思ってしまう。
何も金沢の忍者寺の井戸のようなことは必要ないだろうに。
投稿者:つねちゃん
at 08 :17
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小玉電球も消して真っ暗にして眠る
諸姉・諸兄は寝る時に部屋の明かりはどうされているだろうか。
私は昔から臆病だったせいか、時々深夜に目が覚めるせいか(決して頻尿と言うほどではないのだから、若いときからの一つの癖だろう)、どうしてもどこかに明かりが無いと寝られなかったものである。
たびたび書くが「出張族」と言うこともあって、ホテルでもそうだったし、大体ホテルでもフロアライトとか、ベッド下、クローゼットの前などには、常夜灯のように薄暗いけれども、必要最低限の明かりが灯されているのが、私の感覚では「普通」だった。
そういう意味から、最近まで、部屋の灯具にある小玉電球は点けて寝ていた。
ところが、先日何かの勘違い(だったと本人は言っている)から、孫が部屋の外にあるスイッチを切ってしまったようである。
いつもは4時半頃に自動的にラジオからの音楽が静かに流れ、ウトウトしながらも徐々に頭がすっきりしつつあるのだが、その時には「まだ真っ暗じゃないか、たぶん昨日消し忘れたのだろう、まぁ、このままでも良いじゃないか」くらいに思い、全く起きる気持ちにならなかった。
幸いにして、トイレの用事も感じなかったので、そのまま二度寝、三度寝になってしまった。
気がついたら、もう6時近くであった。
まぁ、サンデー毎日なのだから、慌てる必要は無いものの、明かりが無いことがこれほど、熟睡に寄与するものとは知らなかった。
別段寝不足が続いている訳ではないが、昔から睡眠時間が短く、心配して睡眠薬を処方してもらいに保健室まで行った事があるが、「お酒を飲むんだったらそれが一番の薬」と言われて、納得したことがあるくらいである。
勿論一番の薬はいまだに欠かしていないが、二番の薬が「完全消灯」だと言うことに気がついた次第である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :30
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ほんの少しだけ寝ると
読書は受身だけれど、「読む」と言う積極行動が無ければ実現しないのだが、TVドラマは好きなんだけど、こちらは一方的に「見る」だけということで、殆ど積極性が無く、どうしても途中で眠くなってしまう。
大体の場合、9時からの2時間番組を家内とストーリーの邪魔にならない程度の会話をして、ウィスキーのお湯割り(寒くなってきたので、夏ならば当然オンザロックか水割りであるが)を飲みながら見る。
そして、肝心な結末頃になると、睡魔が襲ってきて「もう寝れば」と家内に言われるままに、ベッドで太平楽になってしまうので、後でビデオ録画でその部分だけを見ることになる。
時々は、そうならずに完全に結末まで見て、その後に続くニュースなども半分くらい(構成にも寄るが、天気予報を見たら後はスポーツになるので、スポーツ音痴の私はそれで一日が終わる)みて、ご就寝である。
何故その差が出るのかを少し考えてみたら、日中に「少し眠る」こと、もしくはそれに近いことをすることで、持続力が可能になっているのではないかと思った。
そんな分析を行った後で、それを試みることにしたのだが、現実的にはなかなか日中にそんなことは出来ないので、TVドラマが始まる少し前に10分ほど寝ると、これが完全に解消された。
そういえば、と言うことで思い出したのが、在職中の「小睡眠」だった。
出張の多かった私は、電車の中でも資料作りや、部下の資料点検、要点のメモとそれの構成などと大体がノートPCとの道連れだった。
そんな時、頭がボーっとすることがあり、小睡眠を行うと、かなりすっきりしたものである。
会議中は、誰にも悟られないようにそれを行うこともあったが、不思議に会議内容だけは頭に入ってくるので、途切れで困ったことも無かった。
諸姉・諸兄はいかがだろうか。
一度試して見られてはどうだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
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