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2012 年6 月29 日

漢字のハネとトメ

 「『とわに』と言う意味でのえいきゅう」の「えい」と言う漢字は、漢字が苦手と言う人でも、たぶん関係なく書ける簡単な漢字であろう。
 先日孫が漢字のテストで?をもらって「家で書き直してくるように」との支持だったという。
 答案を見せてもらったが、それが何故?になっているのかが理解できなかった。
 それを横で見ていた孫が「ほら、ここは撥ねて、ここは留めなければならないのだよ」との解説で、ようやく理解が出来た次第である。
 書き写しを初めてもう数年になるが、ひらがなについては「ま」や「ほ」の上下の線の長さなどについてそれなりに注意してきたが、漢字の「撥ね」と「留め」についてはまったく無頓着で過ごしてきた。
 冒頭のフレーズは、以前に聞きかじっていたことが、今更ながら思い出さされることである。
 「永」と言う漢字には、その点がしっかりと含まれていて、それを意識して書けるようになると、殆どすべての漢字に通ずるから、綺麗な漢字が書けるようになる、とのことだった。
 「知識」と言うのは、なんともいい加減である、と言うのは、私だけのことだろうか。
 でも、書き写しを通じて「漢字の意味や読み方」については、それなりに判らない物は辞書を調べたりして楽しんできたのだが、「撥ねと留め」についてはどうも「楽しむ」と言う感覚になら無さそうである。
 それにしても、今更ながらだけれど「負うた子(孫)に教えられ」であるが、それが何よりも楽しいことである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :07 | 学習 | コメント(0 )

2012 年6 月28 日

見頃

 ここ数年友人の案内で「蛍狩り」をさせてもらっている。
 適当な時期に事前に見回ってくれて、彼の都合のいい日取りで、中学時代の同級生が孫などを連れての楽しいひと時である。
 今年も、前夜から朝方に掛けて雨が降っていたのだが、午後から晴れて風も然程強くなく、適当な時節であると誰もが思っていた。
 毎年のように、2箇所を案内してくれて、わが孫たちは最初は手で捕まえていたが、そのうちに向こうのほうから体に停まってくれたのを充分に楽しんだ。
 惜しむらくは、期待よりも気温が下がったせいで、昨年と比べるとやはり少し少なかったようだった。
 蛍の時期は、見頃の条件があり、中々難しい。
 何しろ相手は気候と言うことと、生き物ということで、全くの自然現象なのである。
 蛍もそうだが、「見頃」と言う意味で思い出すのは、桜である。
 在職中の全国の主要地に仕事で出かけたので、結構あちらこちらの桜を見物する機会があった。
 また、リタイアしてからも、主要地以外を訪ねた事もあって、それぞれ見物して楽しんだのだが、「どこの桜が一番お薦めですか」と聞かれても、答えない事にしている。
 なぜなら、蛍と同様に「条件が整えば」綺麗なのだが、そうでな時は「なぁーんだ」と言うことになるからである。
 勿論私たちだって「悪い条件下」でそう思ったのだから、仕方が無いのだが、人にも同じような経験はして欲しくないのである。
 徒然草の中に「雨の景色も良いものだ」とあるが、確かに風情はあるだろうが、やはり晴れていた方が一般的には良い。
 角館の武家屋敷の枝垂桜は、季節も最高で、ちらちらと花びらが散る風情はなんとも堪らなく良かった。
 でも、別の機会に同じ所を同じような時期に歩いたけれど。。。
 見頃を人に紹介するのは難しいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 旅行記 | コメント(0 )

2012 年6 月27 日

相関指数

 表記の言葉は「相関関係」と言う言葉で覚えておられる方が多いのではないだろうか。
 「指数」と言うのだから、その関係を「数」で示(指)している物であり、「1」であれば、確実に「こうならばこうである」と言えるのが基本である。
 統計学や数学の世界では、それは事実なのだろうが、「人間の感情」と言う点からすると、どうもそのまま信用してはいけないと言うことを在職中に聞いたことがある。
 何度か紹介したが、品質管理という、他人様から嫌われる分野にいた時には、兎も角「数値、数値」で追いかけまわり、「従来のK(勘)K(経験)D(度胸)ではなく、K(観測)K(記録)D(データ)で示せ」と「何とかの一つ覚え」で息巻いていた事があった。
 そんな時、ある尊敬する上司から言われたことだった。
 相関指数が70%(0.7)と言うことだったら、君はその関係が「強い」と考えるかね」との設問から始まった。
 勿論即座に答えた「試験で70点を取ったら少なくとも『合格』と判定するでしょう。その程度の確率で『強い』と感じます」と。
 数学的にはそれで良いとしても、現実的には、その二乗で物事を判断すべきだと言われた。
 正直、中々素直には信じられなかったのだが、それ以来も色々な数値を扱うことが続いたので、時々それを加味して考えてみると、意外に上司の言っていることに近く、私が直感的に思っている事から外れたことに気が付いた。
 学問的にそれが合っているかどうかは、調べなかった(多分調べて説明しても、「付け焼刃」で直ぐに化けの皮が剥がれると思ったからである)が、実感として正しそうで、そんな感覚で説明すると案外受け入れてもらえたのだから、今でも結構信頼している。
 0.7と言うのは、二乗すれば0.49となり、半分くらいは当たっているのかな、くらいに考えた方が良いのだろう。
 何故こんなことを今更思い出したかというと、孫から「降水確率」と言う数字について聞かれたからである。
 でも、結局説明したのは「過去30年くらいの間の天気予報から割り出しているのだよ」とだけしか説明できなかった。
 まだまだ小学三年生には、二乗の感覚は的確に説明できない。
 でも、また楽しい「調べること」が出来たことは素直に嬉しい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :09 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年6 月26 日

なるべく手摺を使わない

 まだ父が健在で、時々必要に応じて二階の物置へ行き来するのだが、とはいっても80歳を超えていて、万一のことを考えて階段を初めとして、玄関や廊下の「手すり」をつけてもらった。
 ついでに言うと、トイレの段差など、気が付くところで余りみっともなくない所には、段差解消のスロープも付けて貰った。
 父の逝去後は、あまり使う事も無かったのだが、もともと足が悪い母には有効だろうと思っていた。
 ところが、間もなく母は家でも車椅子の生活になり、手すりは「物掛け」になってしまっていた。
 ところが、先日気が付いたら、私が階段の手摺りを随分頼りにして上がっていることだった。
 勿論、それが無いと上がれない、と言う訳では決してないが、目の前に便利そうにあるだけに、ついつい手が行ってしまっている。
 「これではならじ」と一念発起して、随分気を使いながら階段を使用している。
 このように「目の前に便利そうな物がある」とどうしても「水は低きに流れ、人は易きに走る」でついつい使ってしまう。
 あちらこちらにあるエスカレーターがその代表格ではないだろうか。
 これを契機に気が付いたのだが、まだまだ「自分の持っている力や能力」で行動できるのだから、出来るだけ(この辺がいい加減なところである事は承知している)自分の力を使って、衰え行く分をせめて遅くすることに勤めたい。
 先日も格安のプールで、約1時間(20分やって10分休むを3回)の水中歩行をやってきたが、かなり足が疲れていた。
 でも、寝る前にエアーサロンパスを施したら、朝はまるでそんなこと無かったように軽快だったから、まだまだ回復力があるのだ、と嬉しくなった。

投稿者:つねちゃん
at 08 :46 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月25 日

世論調査

 これまでにも何回か紹介してきたが、在職時に「品質管理」と言う分野を経験してきたので、「統計」が言うことのウソ/ホントは、それなりに理解しているつもりだった。
 それでも、NHKや大新聞社などの「世論調査」の結果には、それなりに関心を持って、結果を「鵜呑み」にしていた。
 ところが、最近になって「なんだか違うのではないか」と思うようになったのは、遅きに失するかもしれないが、気が付いた。
 と言うのは、「貴方は現在の政治を信頼しますか」と言うことに関する結果である。
 想像のとおり「期待していない」「余り期待していない」「全く期待していない」等を合わせると、かなり悲惨な政治状況だと「知らしめる」数字が出ている。
 これは、以前「世論調査の遣り方」について講義を受けたのとは、まるで違うことからきているのではないだろうか。
 講義の内容は大分忘れてしまったが、「設問内容の精査」から始まって、「対象者の精査」にかなり力を入れていることだった。
 ところが、最近は「乱数で選別しております」と言うような状況で、「全く無作為である」ことを強調しているが、この辺が統計の誤魔化しである。
 上記の項目で、無作為に抽出した電話番号に掛けて、多分成人であるかどうか位は確認しているのだろうが、「投票をしましたか」と言う確認はしていないのではないか。
 残念ながら、現在国政を初めとして、投票率が50%を超えることは稀な状況で、一律一辺倒で質問したところで、得られる結果は全く「出鱈目」と言っても過言ではないだろう。
 人は常に「不満」を持っているからそれを解消するために何がしかの努力をして、挫折もし、成功もして成長しているのだから「不満ですか」はそれが政治ではなくても「ハイ」と答えてしまうだろう。
 ましてや「ネット調査では」と言うのもいい加減である。
 興味本位で答えている人間がどれほどいるだろうか、勿論真剣に考えている人もいないではないが。
 統計と言うものの基本は「多分同質だろう」と言う母集団からサンプリングする」のが基本である。
 その母集団を「乱数」と言ういい加減な物で割り出すと言う安易な物は、やはり信用できない。

投稿者:つねちゃん
at 06 :39 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年6 月22 日

責任を問う、のは誰?

 今回の震災に伴う原発事故に限らず、何か事が起きると、善後策よりも、もしくはそれと並行して「責任者の追及とバッシング」が起こる。
 残念ながら、政治屋さんに真っ先にやって欲しいのは、それではないはずだろう。
 責任追及などは二の次、三の次で、現地で困っていることに対する善後策を与野党の域を超えて講ずることではないだろうか。
 何かの映画の台詞ではないが(残念ながらその映画は観ていない)「事件は現場で起きているのだ」である。
 総理が出かけたことをバッシングしているよりも、全員が現地へ出かけていって、その場で「今、何を、何時までに、どれだけ」を解決すべきだったのではないだろうか。
 それを対策本部かどうか知らないけれど、ヌクヌクとした冷暖房完備された部屋で、現地のことも良く判らず(民間放送局などの都合の良い報道画面などを垣間見るだけで)「ああでもないか、こうでもないか」と議論と言う「お喋り」をしているだけでは、何事も解決しないことは目に見えている。
 1年余りも経過して「責任を問う」と言うことにまだ愚図愚図していて、党利党略を考えているのでは、外国から白眼視されてもしようがない。
 誰がいったい、誰に、何の責任を問うているのか?
 「責任を問う」と言って、出てくる答えは何を期待しているのだろうか。
 ひょっとして、こんな時期に「解散と選挙」を望んでいるのだろうか。
 そうなると、現地で困惑している人は、誰に頼ればいいのか。
 表題の?の場所にどのような文字を貴方は入れるだろうか。
 (なのか)か、(が)、(に)、(を) など等。
 幾つも思い浮かぶだろうが、そんな中で、皆を眺めて「何を真っ先に」やるべきことなのかを考えて行動して欲しい物である。
 在職中に、トラブルの真っ最中に「責任者探しとバッシング」をやる輩が居た。
 間違いない正論に、大分堪えていたが、最後には「お前が来てやれ!!!」と叫んでしまった。
 後がどうなったかは、想像にお任せする。

投稿者:つねちゃん
at 09 :15 | 政治への注文 | コメント(0 )

2012 年6 月21 日

262KB

 今は昔の話である。
 65歳にして、まだかもうかは別として、昔を懐かしがる回顧話をするのは、気が引けるが、最近のパソコン事情から推し量ると、どうしても「最初の体験」に舞い戻ってしまう。
 表題を今の若い人は「ナントも馬鹿な」と一笑に付されるだろうが、私の最初の商用システムで使った、コンピュータの内蔵メモリ容量である。
 今、私がこのブログを書いている少し前のXPのパソコンの内蔵メモリは512MBである。
 数字としては2倍だが、単位が1000倍違うので、とてつもなく「雲泥の差」である。
 当時私は業務プログラムは担当せず、制御系と言う「縁の下」の担当だった。
 「先輩システムどおりにやれば、特別な工夫は要らない」と評価されたのか、制御担当は、コンピュータ未経験者2名を含めて3人だった。
 愚痴を言う気は全く無く、今思い返せば、むしろ感謝したいくらいである。
 そんな中で、表題のとおりメモリ量が性能問題を引き起こし、挙句に、端末設置場所を管理するテーブル容量が取れないほど逼迫した。
 勿論、メーカーの技術者や本社にも相談したが、答えは判を押したように「メモリを増やすしかありませんよ」というものだった。
 上司に相談しても「お金が掛かるから、そうでない方法で何とかしろ」と全く素人考えでしかない。
 結局、OSで準備しているエリアを食いつぶすことにした。メーカーからも「責任はもてませんよ」と言われながら。
 そうなると「火事場の馬鹿力」ではないが、猛勉強して、細心の注意(まさに背水の陣で、トラブッても誰も助けてくれない)を払いながら乗り切り、サービスに間に合わせた。
 後任には、ここだけは触らないでくれ、触るのであれば、必ず私に相談してくれ、と引き継いだ。
 転勤して半年くらい相談があったが、その後その件はお金で解決できたので沙汰止みになった。
 ぎりぎりの制限の中で背水の陣を一人で受け持ったことにより、通信、記憶装置などを含めた信頼性設計、性能設計など等兎も角色々勉強させられた数値である。
 現在は、メモリが安価になったので「要らない機能(小さな親切、大きなお世話的な)」にふんだんに使われているが、もう一度「ギリギリ」な経験をしてみるべきではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :09 | 日記 | コメント(0 )

2012 年6 月20 日

報道の「どんでん返し」はいただけない

 昔から「時間貧乏性」とは長い付き合いで、何度か直す努力はしたものの、「これも身のうち」と最近は「仲良く付き合う」ことにしている。
 そんな性分なのに、何故か昔(子供の頃は貸し本屋をやっていた)から「推理小説」が大好きだった。
 時間が足りない、と言うのは、ひょっとしてこれが遠因の一つなのかもしれない。
 スムースに事件が解決する物は、余り無く(結局筋書きが読めるので、飽きられてしまうのだろう)水戸黄門ではないが、3/4くらいのところで「じつはぁー」と言うどんでん返しが用意されている。
 それがどちらに向かうかが実に興味深いのである。
 今日の本題に戻ると、時々マスコミ報道などでもこのような「どんどん返し」に遭遇すると思うのは、私だけだろうか。
 流石に「舌の根が乾かないうちに」と言うほどの間隔ではないが、「エッ、この報道は、以前全く違ったことを言っていたのではないかい?」と思うことに出くわす。
 メインのコメンテーターは変わっていないが、「評論家」とか「その筋に詳しい人」という登場人物が変わっているのが常である。
 残念ながら、TVや新聞などの報道メディアには、めっきり弱く、それなりに「私はこう思う」と主張はするのだが、如何せん「受身」で「そうだよナァ」と思ってしまうことが多い。
 それが、「どんでん返し」をされると、「何だこりゃあ」という気持ちになってしまう。
 政治屋の人々の発言は、残念ながら「慣れっこ」になってしまっているので、驚きもしないが、報道メディアもそうであるとなると、かなりきつい。
 戦時中「大本営発表」という物ばかりが流され(そうしないと報道管制が敷かれたりしたのだろうから、無理もなかったのだろうが)たかの如くなっているとしたら、ナントも嘆かわしいものである。
 だからと言って、自分に何が出来る訳でもないのだが。嗚呼。

投稿者:つねちゃん
at 08 :05 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月19 日

古い箪笥と新しい箪笥

 そろそろ母の一周忌であり、いろいろな物を片付けつつある。
 そんな中で、箪笥はやはり大物で、母が嫁いできた時の「桐の箪笥」は、小振りでもあったので、「手で」壊して、焼却処分することにした。
 ところが、これが中々手ごわい。
 いろんなところに金具が付いていて、それが三方にしっかりと固定されているので、色々手を尽くしたが、結局電動鋸をレンタルしてきて対処した。
 ところが、その手の込んだ造りに感心してしまった。
 底板も本物の桐を使っており、勿論そんなに広い物は無いのだから、板を木の釘で接いである。それでもしっかりと「平ら」になっている。
 色は剥げており、所々何故か穴などがあいているのだが、焼却して判ったけれど、ベニヤ板などではなく、本物の「木」で作ってあったことだ。
 片や、まだ見た目には新しく「新品」とまでは言えなくても、普及品としてなら充分価値あるように見えた箪笥で、塗りもしっかりしているし、抽斗を閉めれば、他の抽斗が開くほどの密閉さも保持されている物だった。
 ところが、入っていた着物などを取り出してみると、底板は綺麗な「柾」の板、の様に見えた。
 ところが、破壊してみると、ナントそれはベニヤ板にシールが張ってある代物だった。
 一番下の抽斗の底板は、そんなに湿気がある部屋でもなかったのだが、湿気で半分抜け落ちそうになっていた。
 留めてあるのは、接着剤だが、それも20年以上も使っていると剥がれて来ているし、いろんな形の「鉄釘」が使ってあるので、当然湿気で錆が出ていて脆くなっている。外から見える所には使ってないけれど、それ以外のところでは赤錆が全くみっともない。
 小型の物は、それで処分したが、大型の物は結局廃品収集業者にお願いした。
 これから箪笥などを買うことは無いだろうけれど、昔のような品物を求めるとすれば、とても高価な物になるだろう。
 「本物を見極める」と言うことの意味を今更知ったような気持ちであった。

投稿者:つねちゃん
at 08 :36 | 日記 | コメント(0 )

2012 年6 月18 日

やっぱり「後で」は「やらない」になってしまう

 何度か紹介したが、在職時から今現在も「一つの癖」として身についている、と言うより性みたいなものであるが、「メモ魔」と言う物である。
 とにかく、大体の時は「メモ帳」を持参していて、多分他人様から見れば「取るに足りないこと」ばかりかもしれないが、メモをとることにしている。
 そんな自分だけれど、そんなにしていても、ついつい「これは後で良いや」「後で直ぐに出来ることだから」と「後で」と言う言葉に先行されることがある。
 ところが、「後で」思い返そうとしても、滅多に出てこない、と言うのが実情である。
 枝葉末節のことだから、思い出せなくても何か致命的になることでは決して無いのだし、「逃がした魚は大きい」と言うような気持ちでもないのである。
 ところが、これが妙に気に掛かるのである。
 何とか思い出そうと悶々とするのである。
 で、悩むだけ悩んで、結局は思い出せないのである。
 だから「やらない」ことになってしまう。
 ある昔の友人に「お前ほどのメモ魔でもそんなことがあるのか」と驚かれたり、呆れられたりするのだが、ことがそれほど重要なことではないので、笑い話で済んでしまうのだが、これが結構楽しみになったりしている。
 私の持っている携帯電話は、最近は「音声メモ」も取れるようになっているので、メモをすることが億劫だと言う訳ではないのだが、何故か「後で」と言うことがまだまだ発生し、消滅している。
 最近は「思ったことが記録できる」と言う装置が開発途上であるとも聞く。
 高価でなければ、使ってみたいような気もするが、実用になったら「有象無象」のことを思ったりするから、それこそ「収拾が付かなくなって『何もしない』」と言うことになりそうで、やっぱり想像だけの世界を楽しみたい。

投稿者:つねちゃん
at 09 :01 | 日記 | コメント(0 )

2012 年6 月15 日

「無駄」を是認する

 このブログの読者諸姉・諸兄は多分私と同年代か、それほど離れてはいないのだろうと勝手に想像している。
 そんな前提で、かつて多分何処の会社や組織でも叫ばれた「ZD運動」と言うのをご存知であろう。
 当然私も、結構同意してチームリーダー的な立場になったこともあった。
 「人間は行動する、その行動の結果で何かを生み出す、それを組織の生産物として活かし、組織の活性化を図ることが、人間の取るべき行動であり、『何も生み出さない=ゼロ』は徹底的に排除し、ゼロを生み出すような環境を初めとした原因を事前に撤廃させる」と言うような物だった、と記憶している。
 理解の深さは違うかもしれないが、総論としては合っていると今でも思っている。
 今日のテーマは、全くそれとは逆行しているのだから、人間なんて勝手な物である。
 確かに「無駄」と言うことは全体的には排除すべきことだけれど、喩えが良いかどうかは別にして、車のブレーキに「遊び」と言う無駄が無かったらどうなるだろう、と考えてみると「必要な無駄」は不可欠である。
 もう一歩進んで、リタイアしたかつての企業戦士諸君には、「積極的無駄」を作ってみることをお勧めしたい。
 その上で「あぁ、今、自分がやっていることは、無駄なんだよナァ」と思えれば、シメタ物である。
 一番悪いのは「これは無駄ではない」と信じて行う「無駄」ではないだろうか。
 「無駄だと判ってする無駄と、意識しないでやっている無駄では、多分行く末大きく違ってくるのではないだろうか」と思っている。
 何も「お金を使う」ことではないし、そんなに使うお金も無いのだから、それ以外の無駄「是認」しながら「楽しみたい」物である。
 あっ、決して思ってはいけないことは「生きていることが無駄」である。

投稿者:つねちゃん
at 08 :15 | 日記 | コメント(0 )

2012 年6 月14 日

投票は「当選させない」と考えては

 政局が混沌としていて、いつ選挙があるか判らない状況だが、選挙の度に「投票率の低さ」を気にするのは、私だけではなかろう。
 選挙は勿論「信頼する人を当選させるための行動」なのだが、投票しない人は「どうせ投票したって、当選する人は決まっているさ」と言うある種の「諦め」があるのではないだろうか。
 実際、私もそのように思ったことがあり「投票なんて」と思いながらも「権利じゃなくて義務」と思って投票したこともある。
 これから述べることは「不謹慎の極み」と叱声を受けるかもしれないが、それも承知しながら、あえて放言させていただく。
 今上記のような意見で投票しない人や、その他の意見で投票しない人が、まったく反対の意見で「反対の実現」と言う意味で投票したらどうなるだろうか。
 論理が難しい(いやいやわざと難しくしているのだが)と言われるかもしれないが、当選する人が予め想定されているのであれば、当選しそうもない人に今まで棄権していた人が投票すれば、どうなるだろうか。
 数値的に見れば、投票率は高々50%を少し超す位で、それを何人かで奪い合っているわけだから、全体の得票率はごく僅かであろう。 
 棄権者が当選しそうに無い人に投票したら、先ず間違いなくその人が当選するのではないだろうか。
 何しろ40%近くの票が集まるのだから、疑う余地は無い。
 今までは「物言わぬ棄権者」だったろうが、選挙と言う行動が、「物言う投票者」と言うことになれば、馴れ合い政治に一石を投じるのではないだろうか。
 少なくとも「意見のない人は家で寝ていれば良い」と言うような政治家は真っ先に落選するだろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :42 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月13 日

「今あること」に幸せを感ずる

 アントニオ猪木と言うプロレスラー議員は、何が原因かは判らないが、どうしても好きになれないタイプである。
 しかしながら、彼のワンパターンである「元気ですかぁ」と言う問いかけは、好きである。
 私はそれを捩って、「幸せですかぁ」と自分に問いかけるようにしている。
 答えは必ず「ハイ、幸せですぅー」である。
 「ナント極楽トンボで暢気な人だ」と指摘されるだろうし、場合にっては「完全変人」扱いされたり、そんな目で見られたりもした。
 だが、最近はその趣旨の投稿が新聞に採用され、それを見た人から「そうだよねぇ」と共感の言葉も聞かれるようになっているのは、「幸せ伝染病」の発生源としては大喜びである。
 よく言われるように、「上見りゃキリがない、下見りゃ果てが無い」(逆だったかな?)である。
 無い無い尽くしと言う言葉の遊びが、一時期寄席番組であり、結構好きだったのだが、多分その当時は、不満だらけで「不幸」な生活だったのだろう。
 でも、リタイアする数年くらい前から、考えが少しずつ変わっていった。
 以前にも書いたが「まず生きている」ことが「幸せの第一」である。
 それから発想すれば、いろんなことが「幸せ」に感じられる。
 タイトルにあるように「今ある」ことが幸せではないだろうか。
 よく言われる(た)言葉に「自分の悪いと思う所を10挙げてごらん」、多分数分経たない内に挙げられるだろう。次いで「じゃ、良いと思う所を10挙げてごらん」と言われると、中々悩んでしまうのではないだろうか。
 そんな時、「今あること」を見回してみると、結構簡単に挙げられることだろう。
 さぁ、今日も「幸せいっぱい」を感じながら過ごそうではありませんか。
 少なくとも「無い無い尽くし」で悩んで過ごすよりも、幸せを感じられるでしょうから。
追記をみる

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月12 日

何故か日曜日は目覚めが早い

 日曜日は、このブログを初め、日課としている書き写しなどを含めて、殆どが「お休み」にしているので、
 基本的には、その分の約1時間ほどは「寝て曜日」で良いことにしている。
 ところが、天気が良いとか、悪いとか、何か楽しいかそうではないかは別として行事があるわけでもないのに、何故か日曜日に限っては「早起き」してしまう。
 他の日は、ブログも「書かなければ」「書き写しもしなければ」と言うある意味で自分に与えた「切迫感」で、起きているので、基本的に起きる時間は然程変わらないのだが、これでは「寝て曜日」になっていないのが、少し残念なのである。
 思い起こしてみれば、この事は今に始まったことではないようで、在職中からだったように思う。
 それに気が付いたのは、研修所時代だった。
 どうにも睡眠時間が短いので、医務室で、睡眠薬を処方してもらうようにお願いに行った。
 担当されたのは女医さんで、聞くだけ聞いてから「お酒は飲みますか?」と聞かれたので、「人よりも少し多く飲むでしょうね」と答えると、「薬にお金を使うより、お酒にお金を使いなさい」と言われて薬は処方してもらえなかった。
 聞くと「睡眠面積(私の造語である)」が充分なのだから、気にすることは無い、とのことである。
 睡眠時間だけで測るのではなく、睡眠の深さ(これは測れない)との掛け算で、得られる面積が長い人と同じなら全く問題なし、とのお見立てである。
 でもなぁ、折角、いろんなことを「お休み」にしての「寝て曜日」なのだから、ウトウトでもいいから「長い時間」寝ていたいナァ。
 とはいうものの、余り長いと「腰が痛くなる」と言うことが出てくるので、それも嫌なのではある。
 まことに勝手な者である。

投稿者:つねちゃん
at 08 :42 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月11 日

健康雑誌の記事

 やはりメタボ・シンドロームのど真ん中であるから、時々は気になる項目で、素人考えながら比較的効果が期待できる記事などがあると健康雑誌を購入する。
 ところが、大々的に宣伝している物は、やたらとカタカナ用語が出て来て、正直「本当かナァ」と言う眉唾的な気持ちになってしまう。
 そしてメインテーマはは殆ど期待に背いて「駄目だ、こりゃあ」といかりやさんの口癖の如くあきらめてしまうのだが、それでも、なんとも捨てきれずに、トイレの読書に回している。
 そんなことで気が付いたことがある。
 メインテーマ以外の記事が結構「出来易かったり、理解できる論理(正しいかどうかは別である)」が載っている場合があるのだ。
 先日も、現在TV番組に教えられてやっている「咀嚼」についての関連記事を見た。
 なんだか、「転んでもただでは起きない」と言うような得をした気持ちになって楽しい。
 こんなことは、在職中にも何度かあって、大袈裟と言われるかもしれないが、本人にとってはまるで「天の啓示」を受けたようないい気持ちになったものである。
 遮二無二探しているときには、見つからずに、なんともリラックスしたときに「ふと」遭遇するようなものである。
 在職中ほど我武者羅になることは無いので、これからも「ふと」の気付きを大切にしていきたいものである。
 そして、いつの日か「ふと」宝くじで高額が当たったり、予期せぬ楽しいことが起こったりなどなどと遭遇したい物である。
 尤も、「良いこと」ばかりではあるまいが、そんなときにも、少しだけの動揺で居たいものである。
 よく言うではないか「吉凶は糾(あざな)える縄の如し」と。
 そして、「ふと」この世に別れを告げることも当然あるのだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :27 | 健康 | コメント(0 )

2012 年6 月8 日

「早飯、早〇〇、芸のうち」

 今どきこんなことを言う人はいないだろうし、私らの年代でもこれで鍛えられたのは、そんなに多くないだろう。
 〇〇には、それぞれ思いつく言葉を入れてもらえればいいのだが、現実的には甚だ尾篭な言葉が入った。
 そんな「現場の社員教育」を受けた私(多分私一人ではないだろう)が、その後本社に勤務して、これを高言していた。
 正直なところ、高学歴で入社し、優等生教育を受けた周りの多くの人には、驚きと、嘲笑とある意味で(自由に物が言えるという意味での)羨望があったのか、これに限らず破天荒な「物言い」が結構受けた物である。
 勿論、言葉だけではなく、「野武士、荒武者」ながらも、現場で「学問」だけではない行動で実績を上げたことも自負できる。
 だからこそ「あいつが言うことだから」とある意味で評価もされたのだろう。
 そんなことで、慣らされて数十年、先日「痩せるためには『よく噛む』ことが最も効果的」との報道に出会った。
 本来の「時間貧乏性」とも合わせて、兎も角食事は「食べる」というよりも「馬飲鯨食」という言葉がそのまま当てはまるのではないかと、自分でも思うほど短時間で済ませたものである。(別の自慢ではないが、当時の食事時間をある先輩が測って教えてくれたのが、2分だったそうである)
 人が食後のんびりしているのが、時間の浪費と考えていたし、前述のとおり「学問」では周りの人に相当劣っていたことも自覚していたから、そんな時間も無駄なく使って及ばずながら学問をする時間を作り出していた。
 それがついつい「習い性」になり、結果として健康に悪い影響を齎していたのだろう。
 「よく咀嚼」を聞いてから、然程苦労もせずに出来ることだからと始めたら、今まで食べていた量の2/3位で満腹感が来ることだった。
 また、便通も良くなり、冒頭の〇〇も健康的に出来るようになりつつあるのが実感できる。
 食べる量が少なくなり、便通が良くなれば、栄養は取りつつ痩せられるのではないかと、かなり期待している。

投稿者:つねちゃん
at 06 :37 | 子育て | コメント(0 )

2012 年6 月7 日

節約のための節電であって欲しい

 福井県・大飯原発の再稼動が事実上認可されて、電力会社が挙って叫んでいた「節電」が緩やかになりそうである。
 それはそれで良いのかも知れないが、電力供給量の不足に対する「節電」は止めて、やはり家計節約のために心がけたい。
 子供の頃、親から「勿体無い」教育を受けていたのは、確かに当時の家計は決して裕福には程遠いものだったせいもあるだろうが、何に付け「節約大事」という事だったのだろう。
 特にそんな中でも「電気は小まめに消せ」とよく叱られた記憶が、今でも生々しく思い出される。
 いわゆる「出来ること」で「必要でないこと」は徹底してやるように躾けられたのである。
 勿論、だからといって今の自分がそうしているか、と問われれば、甚だ心許ないのだが。
 話を本題に戻して、あれだけ声高に叫んでいた「節電」が原発再稼動の容認ということになると、途端に消えはしないまでも下火になってきているのではないだろうか。
 多分、これからの夏は冷房がそれなりに強くなり、一方で「快適さ」を求めながら外では「劇熱地獄」という体たらくを示すのではないだろうか。
 また、ネオンなどの消費は、不景気の中で何とか客を呼ぼうと煌びやかになるのではないだろうか。
 電力会社としても、「発電した物は(貯めて置けないのだから)消費して欲しい」と色々な消費策を薦めるのだろう。
 でも、やはり「家計の節約」として「出来る範囲で出来るだけ」の節電は、常に忘れないで実行していきたい物である。

投稿者:つねちゃん
at 06 :45 | 興味あること | コメント(0 )

2012 年6 月6 日

業界の「組織票」

 現政権もなんだか右往左往していて、いつ選挙があるか判らない状況だと判断するのは、政治素人の私の見方で、違っているのかもしれない。
 で、各政党の「偉いさん」は、その準備のためだろうか、いろいろな団体の会議や懇親会に参加して、協力を取り付けるのに大変なことである。
 その姿は「個人票はどうでもいいのです。あなた方が『団体としての票』を取りまとめてくれればいいのです」とでも言いたいようである。
 また、頼まれる方も、「魚心あれば水心」で、「まとめてあげるから、こちらの言い分も聞いてよね」と言う態度である。
 こんなことは、もうそろそろ止めたほうがいいのではないだろうか。
 いや、この事は政治家にも言うべきことだし、企業の代表や各団体の「偉いさん」にも言うべきことなのだけれど、最も言うべき人は「個人」ではないだろうか。
 親方の言うことを聞いていれば、企業は安泰、と思っている人はもう殆どいないだろうし、もし居たとしたら、そんな人こそ真っ先に「肩たたき」の対象になるのだろう。
 「あんたさえ辞めてくれたら(もしくは何処其処へ出向してくれたら)会社は安泰なのだから、無理は承知だけれども従ってくれないか」という論法だろう。
 政治は団体による物ではなく、個人によるものだと今更ながら思って欲しいものである。
 「そうは言ってもナァ」という感覚は中々抜け切らないだろうし、もし指示通りの人に投票しない事が、判ったら、後からの締め付けがどれだけ怖い事だろうか、という心配もあるのだろう。
 でも、そんな心配は皆無であろうし、もしあったとして判明したらそれこそ「選挙違反」になってしまう。
 偉いさんが言うのは「単にお願い」だけなので「ハイ」と聞いておき、自分の信ずる人に投票するべきだということに早くみんなが気がついてほしい、と願うことはやっぱり無理なのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :21 | 政治への注文 | コメント(0 )

2012 年6 月5 日

結婚記念日

 長男は、同居はしていないが、今年「初老祝い」と言う本厄を数え年で迎えた。
 可愛い孫も、プレゼントに自転車が欲しい年頃になって元気に成長している。
 長女も今年大台になり、こちらは同居の孫が二人とも小学生で、元気活発である。
 そんな中で、42回目の結婚記念日も無事に迎えて、過ごすことが出来た。
 思い出せば、新婚旅行から帰って翌日から出勤しようと思っていたところへ上司から電話が掛かり、「明日から1ヶ月の出張になる、切符などの手配は全てしてあるので、駅のホームで待つように」と言うことで、甘ぁーい新婚生活は挫折。
 その後は土日亭主の繰り返しで、約3年間。
 「今度は本社で頑張って」とまだ1歳だった長男と身重の家内を連れ立って慣れない関東地方暮らしが7年間。
 その後もそんなことが繰り返されたが、子供の大学進学などの時には、長い期間の単身赴任生活で、家内任せでまるっきり無責任な父親だったし、夫だったのだろう。
 と言いながらも、何とか「離縁」と言う事態にはならず、現在に至っている。
 トータルとして言えば、「可も無し不可も無し」の状態であると、(家内はどう思っているか判らないけれど)私は「これもまた人生さ」と満足している。
 でも、考えてみれば、ある意味で「我慢できる程度の我慢」をしながら、が一番平和なのではないかと考えている。
 そして忘れてならないのは「家内への感謝」だろう。
 不満を挙げ連ねれば、幾らでも出てくるだろうし、在職中にも言って来たし、自分にも言い聞かせてきたのだが「むしろそれこそが成長への道しるべ」ではあるのだが、リタイアして幸いにも大きな病気もせずに過ごせていることは、やはり家内の「内助の功」によるところが大きいのだろう。
 ぜひとも、来年もまだこのブログが続けられているようなら、同じ文章を書きたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :53 | 日記 | コメント(0 )

2012 年6 月4 日

矛盾だらけ

 宝くじは、在職中には「おっ、そうだ」と目に付いた物を買っていたが、現在は年に数回の「ジャンボ」に限っている。
 ところが、何度かここでも紹介したが、「もし本当に1等が当たったら」と思うと、楽しくもあり、なんだか怖い気持ちもする。
 まさにこのこと自体が「矛盾」であることは、充分に自覚しているのであるが、それでも「一度で良いから『ん億円』と言うのに当選してみたい」と思いながら買っている。
 そんなことから、色々類推すると、なんだか今やっていることの全てではないにしても「矛盾だらけ」の生活をしているのではないだろうか。
 いやいや、これは決して「駄目だナァ」と言う思いではなく、むしろ逆に「なんとも楽しい生活をしているナァ」と思える。
 全く矛盾と言う物が無かったら、それこそ毎日が「反省と苦痛」の繰り返しになってしまい、なんともやりきれなくなるのではないだろうか。
 諸姉・諸兄におかれては「そんなことは決して無い」と思われるが、私は斯くの如くである。
 ときどき「これって以前やっていたことや行っていたことと矛盾していないだろうか」と気が付く。
 「何故なんだろうナァ」と言う考えが楽しい「原因追求」になり、一頻り「思い出し笑い」に興ずることが出来る。
 メインカテゴリーを「子育て」としたが、むしろ「自分育て」であろう。
 在職中には決してやってはいけないことだったが、リタイアした現在、多少の「矛盾」は「楽しみ」である。
 最初から目論んでやるのではなく、後で気が付く、他愛のない矛盾を今日も楽しみたい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :13 | 子育て | コメント(0 )

2012 年6 月1 日

「仕様通り」と言うバグ

 最近購入した家電製品で「こうならないのだが」と言う質問をメールでした結果、返ってきた答えが「それは仕様通りです」というものだった。
 諸姉・諸兄も不具合だと思ってメーカーや家電店に同様な問い合わせをなさったことがあるのではないだろうか。
 大体は、不満ながらも「ふぅーん、そうなんだぁ」と渋々納得するしかないなと思ってしまうのであるし、私もこのトラブルに遭遇するまでは、殆どの場合がそうだったような気がする。
 家内と娘に数年前の「父の日」にプレゼントとしてもらったお風呂で聞けるCDプレーヤーと言う物が、CDのケースを留めるところが少し壊れて、防水性が乏しくなったことと、1枚のCDだと精々10数曲しか入らないので、もう少し多くの楽曲が入る物をと言うことで捜し求めていた。
 で、MP3方式で最大32GBまでのメディアが使える「防水型」音楽プレーヤーをネットで見つけたので、値段も手頃だったので注文した。
 私の好きな「ランダム演奏」が可能だったのも、私の好みに合っていた。
 ところが、いざ使ってみると、全部の曲を対象としたランダムで、折角歌手ごとやジャンルごとに整理してフォルダーに納めてみたのだが、全く意味を成さなくなってしまっている。
 曲にも寄るが、大体1曲2-3MBくらいなので、最大だと1万曲ほど入る計算になる。
 それを全体を対象にしたランダムしかサポートしていないと言うのは、やはり「使い勝手」を想定していない「仕様」なのであろう。
 在職中に言われた「そんな仕様自体が間違っている」との指摘そのものだと思った。
 黎明期に携わった計算機では、メーカーの仕様が犯し様の無いものだったのだが、長ずるに至って「それはおかしい」と言えるようになるとともに、そういわれることにもたびたび遭遇した。
 これからも「仕様通り」と言われたら「少なくともそれは私の希望する仕様とは違う」くらいのことは良い続けたいとおもっている。
 勿論直ぐに直ることは期待できないけれど、「Here I am」と言い続けよう、それが実現することがあれば、なんとも楽しいではないか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :50 | 興味あること | コメント(0 )

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