速読よりも速聴はどうか
蛙の子は蛙、親に似ぬ子は鬼っ子などと言うことで、これもどうやら親譲りらしいが、父の遺した本には「速読」関係の本が10冊を下らなかった。
蛙か、鬼っ子でなかったかは別にして、また、父がそれをマスターしたかどうかも別にして、速読法については、挑戦はしているのだが、全くと言っていいほど実績が上がらない。
学習も中々継続しないので、中断後始める時は、結局最初から、と言うことになる。
基本的に「やりたいなぁ」という気持ちはあるのだが「必然性」と言うことになると、さほどでもないのがその原因なのだろう。
ところが、「速聴」と言うことになると、これは必然性が先になるので、結構身についている。
道具は「ビデオ」である。
我が家の録画機は500GB程度の容量なのだが、それが逼迫してきているので、どんどん見なければならない。
最初のうちは中々着いていけないのは、当然なのだが、しばらくすると、言っている内容の理解を含めてすんなりと理解できるようになっている。
はじめのうちは「かつて知ったる世界の学習」なので、私ならコンピュータ関係であれば、復習と言うことと、最近の情勢なので、途中聞き逃しても前後の関係で十分つなげられるから、満足できる気分で終わることができる。
また、落語関係の番組は、自分でやることこそとてもできないが、筋が分かっていて、どんなサゲにするのか、いろんなところに聞き耳を立てながらも楽しい。
その他の分についても、「速聴耳」と言うものが育ったせいか、1.3倍ではまだもどかしいほどになってきている。
45分番組なら30分余り、1時間番組でもCM部分を早送りにすれば、40分ほどで観ることができる。
「何をそんなに急ぐのか?」ではなく、早く聴くことで脳細胞が活性化するのではないかと言うことへの挑戦である。
楽しい番組を観ながら脳の活性化ができるのだから、ぜひお薦めしたい。
投稿者:つねちゃん
at 09 :45
| 学習
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変な癖
「なくて七癖、あって四十八癖」という言葉がある。
人から見れば、「あいつ何やってんだ」と言うことになるのだが、最近自分でも「俺って何をやっているんだ」と言うことに気が付くことがある。
先日、今年の断捨離の精神よろしく、多色ボールペンが2本、中途半端な状態で残って放置されていた。
本来断捨離なのだから「要らない」で捨てればいいのだが、都合7色のインクのうち3色が空になっていて、あとの4色はまだ沢山のインクか残っていた。
ペン自体は押し出し機能と、止まる機能が駄目になっていたので、新しく4色のボールペンを買って、古い色のインクを新品の前に使おうと指し直した。
4色のインクを使い切るために、新たなものを買っているって、変な癖である。
でも、そのうちにこれが「変な癖」と気が付かなくなるのではないだろうか、と思うと、少しだけ心配になってくる。
父の介護の期間は、家内や母は別として、私自身はわずか3カ月足らずだったが、昼夜逆転の徘徊と言う一つの「癖」があった。
夕食を終えて、一息ついたところで、会社へ出かけるような気持だったのだろう、それなりに着替えて、靴も履いて出かけるのである。
今から思えば、本人は「いつもの通りの行動」と思っていたに違いないのだが、一般者から見ればやはり「痴呆」的な行動なのであった。
今回のボールペンについてが、その一つの表れなのではないだろうか。
「今からこうするけれど、これで本当にいいのだろうか」と自問自答してから、行動を始めれば、少しは改善するのかもしれないが、「解っちゃいるけど、辞められない」と言う歌の文句が出てきそうである。
自重と自嘲の繰り返しでも楽しく生きたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :33
| 日記
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少子化の責任
少子化の責任が、ほぼ一方的に女性にあるのではないか、ということで女性手帳なるものを交付しようという案が出ていたが、私としては「案の定」廃止になっしまったことは、当然だと思っている。
少し前になるが、これからは男性(精子)が無くても子供が産める時代が来る、という記事を目にした記憶がある。
それが一般化すれば、そのような時代(少子化は女性が原因)も来るかも知れないが、当分は倫理上の問題もあり無理だろう。
どこかの市長さんではないし、少し前に現与党のお偉方が「女性は子供を産ま機械」的な発言で、女性を蔑視する気持ちは全くなく、むしろ助平爺としては、いつまでも老若美醜を問わず、女性は常にマドンナであったし、今でもそうである。
最近の「草食男子」では困り、若い時はそれこそ「性餓鬼」のようにギラギラした目で、より良きマドンナの獲得を目指してほしいものである。
ストーカーなどと言うことでなく、三度目までは断られることを覚悟して、どんどんアタックしてほしい。
そして、駄目ならいつまでも追いかけるのではなく、「サァー次っ!」と別のターゲットに向かってほしい。
女性も、男性はそんなものなのだ、ということを理解して、出来るべくは易しく対応してほしいものである。
そして、お互いに無理のない程度で合意して、良き伴侶となれば、「上になったり、下になったり、蝶々は良いなぁ」と言う歌詞のようになり、自然と子供も生まれるだろう。
産む時も、育てる時も「自分たちだけで」と言うことではなく、安心して近隣社会に任せなさい。
今ならまだ、私と同様な団塊の世代の人が多くそれを支えてくれるだろうし、それに甘えてもらいたい。
そうして育った子供たちは、自然と親と近隣社会への恩返しも考えるだろう。
決してそれを求めるのではなく、育てているうちに自然とそうなってゆくことは、我々自身が一番よく知っているのであろう。
投稿者:つねちゃん
at 07 :47
| 子育て
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血圧計
父の遺品を整理(もう今年13回忌を迎えようとしているのに、何とものんびりと言うか、だらしなくいまだにやっているという為体《体たらく》なのだが)していて見つけたものに血圧計があった。
空気を入れる部分を腕に巻いて、右手で空気を送る部分を握って測る方式のものである。
今から5年ほど前に、家内も血圧が心配だということになり、家内には手で押すのではなく、電池によるモーターで測る方式の物を買った。
ところが、つい先日から私のものが測定できなくなってしまった。電池は3月に交換しているからそれではないようで、機械として寿命だと言われてもしようがないと思い、処分することにして、家内のもので測定しようとすると、何故か70くらいまで行って空気が抜けてしまい、エラー表示は「しっかりと差込口に装着してください」という意味である。
見ると、差込口近くのゴムの部分がボロボロになっていたので、少し切り詰めてやってみたが、状態が変わらない。
家内と相談した結果、「やっぱり寿命だろう」と言うことで新しいものを買うことにした。
お店で見ると、手首にはめて電池式でできるものが「お試し品」と言うことで置いてあって、値段も手ごろだったので、試してみた。
ところが何度測っても「測定中に身体が動いたので測定できません」と言う表示である。
店員さんも駄目で、店長さんも対応してくださったが、結局は体が動いたというセンサーが敏感すぎるのだろということで、結局それより少しグレードの低いものを買った。
ところが、以前の物の説明書も読んだけれど、今回の物は「こうしてはいけません」がやたら多かった。
方式が違うことは分かるが、こうなると「面倒くさいなぁ」が先に立ってしまう。
まぁ、もう習慣になったのだから、使い続けるしかないのだが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :07
| 健康
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利き腕でない方での書き取り
毎日(土曜、日曜、祝日を除く)400字以内の文字数での書き取りを左手(利き腕ではない)で行ってきていることは、何度か紹介してきたのだが、ここ数か月、気が付いてみると「書けばいい」になっていて、丁寧さも落ち着きも全くと言っていい程無くなってきていることに気が付いた。
これでは、本来の「綺麗でなくても、人が読める文字」には到底及ばないことに愕然として、何日か逡巡したが、「基本に帰れ」ということに気が付いて、平仮名から始めたのだが、その次のステップの「漢字アイウエオ」からやり始めることにした。
時間がかかっても、本来の目標に到達するようにと継続している。
ある時、学校が休みで、私も何だかのんびりとしていたので、大分時間がずれて行っていたら、孫が横に来て、最初はじっと見ていた。
終わったのを待っていて「何をしているの」と聞くので「左手で書く練習」と言うと、その日の夕方になって、自分も習った漢字を練習するから、用紙を作ってくれと言いに来た。
習った漢字を10文字書いてきたので、Excelで作った臨時の原稿用紙に「なぞり書き」できるように各文字5個ずつをプリントして渡した。
夕食の時に見ると、書いた文字の順番(画数が少なく易しい漢字の順のようである)と開始時間と終了時間が書いてある。
それよりも驚いたのは、彼女は左利きで、右手での書く練習をしていたというのである。
全く私と同様である。少しだけ言ったつもりがきちんと聞いていたのである、ということに驚いた。
日頃は半分ほど聞いて「わかった」と言ってちぐはぐなことをしがちなのに、とのことが驚きを倍増させたかのようである。
ジジイ、カンゲキ!!!である。
投稿者:つねちゃん
at 09 :58
| 健康
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老人による誘導
先日あるショッピングセンターの駐車場で、バックして出ようとすると、真後ろで、見た感じでは70代の後半と思われる男性が、手をまわしている。
正直、何をされているのか分からず、バックライトをつけたまま動かないでいると、運転席側へきて「バックするんだろう」と仰る。
それならそれで、何か声を出してくださればいいのに、ただ黙って手を振っているだけでは、さっぱり要領を得ない。
「あんたが邪魔なんだよ」と思わず怒鳴ってしまった。
自分では気を利かせたつもりなのかもしれないが、正直なところ迷惑千万である。
これで、もしかして接触でもしようものなら、こちらの責任である。
バックしようとしているのは、バックライトとバックホーンで分かっているはずなのに。
ともかく暫くの間、孫も同乗していたのだが、腹が立ってならなかった。
でもしかし、これは自分でも気が付かないうちにやっているのではないだろうか、と気が付き、腹立ちは収まった。
良く「老婆心ながら」という言い方があるが、若い時は間違いなく「ババァ(ジジィ)は黙っていろ」と言っていた。
口に出して言わないまでも、腹の中は煮えくり返るほどだったことを、いまだに思い出して赤面する。
実年齢は66歳で、「船頭さん」の歌詞ではないが、間違いなく「お爺さん」なのである。
せめて、手伝いと思うのであれば、一言「させてもらっていいですか?」と断りを入れるようにしたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :09
| 日記
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帽子を選ぶ
今月から久し振りに「日課」としての早朝散歩を始めた。
今までも、散歩自体はそれなりにやってきていたのだが、何時かのブログでも書かせていただいたと記憶するが、「減量エクササイズ」としての散歩とは、もう随分前に離縁して、楽しみ散歩にしていたのである。
それはそれで十分楽しかったのだが、メタボ自体は自然の状態だと然程気にしていなかったのだが、ある人から「歩いている姿勢は良いのだが、それだけにお腹のでっぱりがみっともない」と言われてしまった。
このことは、自分でも少し(いやいや、大分だろう)気になっていたので、それならば天気や気温も良くなってきたし、年齢も6歳若返った(還暦から自分は若返ってきているのだと、勝手に理解しているのである)のだからとそれなりに外見にも気を付けて始めた。
おっと、また本題からずれそうだ。
「外見につを付ける」うちの一つに「帽子」がある。
別に散歩のために買ったわけではないのだが、現在冬用のものとしての3種類はしまい込んでしまったが、これから冬を迎えるまでには、4種類(畑作業のものを入れると6種類)の帽子を持っている。
それを選ぶのが、最近楽しくなってきている。
早朝散歩でも、Gパンの場合と、普通のズボンの場合では、被る帽子を替えている。
昼間帯に出かけるときにも、車から出歩く距離の長さや場所によっても分けている。
勿論そんなにスタイリスト的な感覚は持っていないので、それが合っているかどうかなどにはまったく関心が無く、自分の気儘なのである。
畑作業の時も陽ざしの強さによって分けている。
昔のエノケンが歌った歌に「洒落男」と言うのがあったのをご存じだろうか。
感覚はそれとほとんど同じだが、別にそれを自慢する気持ちではないのが全く違うことである。
ただ、自己満足の「楽しさ」を謳歌しているだけなのである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :13
| 日記
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PCが使える
町内の有志の方にPC講習をしていることは、前に何度か書いている。
そんな事を聞いているらしい人から「PCなんて誰でも使えるんじゃないの。そんなことでお金を取っているなんて、相変わらず阿漕なことをしているなぁ」と冗談交じりに言われた。
その人は、PCについてどれだけの知識をお持ちなのか知らないが、あるときその人が作った資料を見た。
正直、「よくこれでPCが使えているなぁ」と思って、憎むよりも以前に可笑しくなってしまった。
収支報告書では、多分Wordを使って表を作っておられるのだろうが、微妙に数字の縦位置が違っている。
また、そんな文書だから、当然数値(お金)を書いてあるのだが、一つ一つ入れられたのだろうか、位取りのために入れるコンマが時々2桁と3桁の間に入っていたりする。
こんな風に、ただ単に「使える」だけでは何の意味もない。
頑張っているなぁ、とは思うものの、残念ながらこんなことでオフィシャルな資料として出すようでは、とても「使える」とは認められない。
でも、実はこれと似たようなこと(でもないかと今でも思うのだが)をやって色々と注意された経験があるからである。
地元でそれなりに技術者として成果を上げて、本社勤務になり、技術という面では経験が裏付けしてくれてそれなりの成果を上げたのだが、ある時「上申書」というものを書くことになった。当時はまだワープロなどなく、すべて手書きだったのだが、投資額が1700万円なので、それなりの人の目に触れる文書である。
何度も訂正を指摘されて、どうにか承認されたのだが、その後の飲み会で「あの文書はいかにも『田舎くさい』ものだったなぁ」と言われて、嘲笑ではなく談笑のネタになったものである。
最近見た箴言に「頂上と思うと、あとは下るだけ。いつまでも頂上を目指せ」(うろ覚えである)というのがあった。
人を謗るよりも、我が身を振り返る癖を学習によって付けたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :01
| 学習
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擬宝珠を食べる
擬宝珠を食べられたことがあるだろうか。
唐突にこう聞かれても、橋の欄干や神社の渡り廊下などにつけられている金属製のものでは勿論ない。
我が家でも、昨年始めて食べてみた。
いや、今年初めて「意識して」食べたのだが、家内に言わせると「去年も出したのに」と言うので、今更ながら気が付いたというものである。
植物の擬宝珠については、守備範囲は家内のなので、良くは知らないけれど、あまり日が差さないジメジメした所が良いというので、両親がどれだけ手を入れてきたかは知らないけれど、ずっと長い間裏庭に存在していた。
そのままにしておくともカタツムリの餌になってしまうのだ、とのことで、昨年から気が付いて家内も食卓に並べるようになったとのことである。
味的には、結構淡白な味であり、それ自身で存在を主張するようなものではないが、さりとて、僅かではあるが、薄い味付けの時には「私はここにいますよ」的な控えめな主張をしているので、フット気が付くことがあり、何だか微笑ましい。
煮ても炒めてもそんなに色は変わらないので、結構彩としては重宝する場合がある。
また、油で炒めても、薄口醤油などで煮てもそれなりに馴染んで、同居の食材と味で喧嘩するほどではないのも、心地良い。
擬宝珠に限らず、新緑のこの季節、しっかりと選別しなければならないけれど、気を付けてみれば、身近にいろいろな食材が生えているものである。
蓬も乾燥させてお茶にしたこともあるし、ドクダミは、結局はだめにしてしまったけれど、それなりの効用があると聞いている。
散歩のついでに、最初は少しだけ「お試し」にやって見られればいかがだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 11 :42
| 健康
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外交官
確か、高校生になってアマチュア無線(以下ハムと言う)を始めた時だったろうと思うが、なりたい職業の一つに「外交官」があった。
ハムで外国と交信する場合の「標準語」は英語で、少しだけ自信もあった。
きっかけは、当時は中国とは交信できなかったが、ソ連と交信する局の流暢な英語以外の言葉に憧れたからだったろう。
最近の状況を見ると、とても無理だということが無理矢理理解させられた、という思いが募る。
在職中の「交渉事」については、「常に相手と自分のお互いに『良しとするところ』を明確に主張しあって」妥協点を見つけ出し、合意することだと、かなりしつこく研修させられた。
これが大分経って「WinWinの関係」と言われるようになった、と思っている。
「あなたはあの時それを言わなかった」というようなことで、あとになって(最悪の場合)破談になることを防ぐ意味でも必要だということだ。
半官半民の会社組織から、民営化ということで、かなり執拗だったので、今でもその痕跡が残っているようである。
そんな事から、外交官の夢はかなり最近の状況で瓦解させられることになった。
「胸に一物、手に荷物」というような優しいものではなく、また、「顔で笑って心で泣いて」というようなことでもなく、言葉の一つ一つに「魑魅魍魎」のような考え方を持ちながら当たり、決して騙されたり、あからさまに騙したりせず、必ず「勝つ」と言うか、悪くとも「引き分け」に持ち込まなければならない、ということだろう。
これでは、当初「外国語が話せる」という興味だけで外交官を目指さなくてよかった、という思いがする。
でもなぁ、国同士ばかりではなく、どんな場合でも「胸襟を開いて、WinWinの妥協点を見つける」ような外交にならないものだろうか。
無いものねだり、とは分かっていても、そんな外交官の出現を望みたいものだ。
投稿者:つねちゃん
at 09 :08
| 日記
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真説か珍説か
何で見たのか思い出せないが、最近見た「説」に驚くとともに、そうかもしれない、というのがあった。
白虎隊が立てこもった鶴ヶ城は、なぜ落ちたか。
歴史を知らない私は、当然「戦乱の結果」だと思っていたのだが、そうではなく、排泄物の始末に困った末だったという説を聞いた。
なるほど、山城であれば、それもある意味正しいのかもしれない、と思った。
と同時に思ったのが、原発である。
原発の排泄物の処理がきちんと整理できる目途がついていなければ、外国へ輸出しようとしても白虎隊の二の舞になるのではないだろうか。
在職中にも似たようなことが幾度かあった。
当時は「コスト対効果」を求めることが最優先で、終末処理にかかる経費などは「二の次、三の次」であり、ほとんど無視された。
あるお客様とその議論になり、私の受注はできなかった。
その後上司が取り成してくれて、受注はできたのだが、プロジェクトリーダーに任命された。プロジェクトは完成したが、最後までお客様との仲は気まずいものだった。
その後の評価は聞いていないが、さほどのこともなかったのだろうか、それとも後任以降の人が「尻拭き」をしたのだろう。
このことは、家を建てる時も同様であろう。
トイレを設置しない設計図を提案しても、昔の「厠」がある訳ではなく、到底受け入れてもらえないだろう。
こんな卑近な例だと誰もが分かるのに、原発になると分からなくなるのだろうか。
はてさて、どちらが真説か珍説か。
投稿者:つねちゃん
at 08 :13
| 興味あること
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自分の為、は長く楽しくない
自ら楽しむ行為は、今までもいろいろやってきたし、現在もそれなりに楽しく続けているものがある。
自慰行為というとマスターベーションということになり、元来助兵衛な爺さんにとっては、「あのこと」しか思いつかないのだが、それも含めて「自らが自らの為だけ」にやる行為と言うのは、最初は間違いなく楽しいのだが、そのうちに何だか「嫌悪感」に近いものに感ずることはないだろうか。
そんな時、僅かでもいいから「他人のためになっている」と思うと、面白さが少しだけ増加して、長く続けるほど楽しくなり、続けられるのではないだろうか。
このブログが「他人のため」になっているかなどと不遜なことは考えないが、本当に「僅かなこと」「些細なこと」でも、自分が「他人のためになっているのではないか」ということでもいいのではないだろか。
今月から不定期だけれど、ぽってりお腹の解消、いやいや、「僅かな」減少のためにと早朝散歩を始めた。
犬を連れての散歩ではないので、糞尿の始末袋などは持っていない。
そんな悠長な散歩の中でも、拾えるゴミ、は拾って捨てるべきは所があればそこへ、無ければ自宅へ持って帰り、我が家所定の場所へ捨てている。
「なんだそんなこと、やるならっとしっかりとやれば良いじゃないか」というお叱りの声も聞こえてくると思うが、このブログと同じ考え方で「できることをできるだけ、出来る範囲で、ノホホンと」である。
そんなことでは他人様のためにはならない、と仰るかもしれないが、それはそれで正しいと思う。
でも、私はそれで良いのである。
昔のある薬の宣伝ではないが「やらないよりやった方がいいじゃないか」である。
勿論これだけではなく、思いつたときに、やれることをやればいいのである。
これで、精神的な健康につながれば、これで良いのだぁ。
投稿者:つねちゃん
at 08 :22
| 健康
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素地が同じ様でも、みんな違う
畑では同じ畝に同じ時期、同じ品種を、出来るだけ(この辺から違ってくるのかもしれないが)同じ深さで植えつけているつもりだが、発芽から成長の度合いがずいぶんと違ってくる。
同じようにしているつもりでも、決して同じではなく、それでもそれぞれがしっかりと育ってくれている。
もちろん、残念ながら原因不明で萎れていくものもある。
今年は、決してサボった訳ではないのだが、大根の整理(間引きという言葉は好きになれないので、この言葉を使っている)が随分遅れてしまい、いつもの整理菜ならば、若いのだから、お味噌汁の具に二度ほどすれば、無くなってしまうくらいの量だったのだが、今年は各株で各々がしっかりと「(細いけれど)大根です」と主張する程に育ってしまっていた。
これでは整理後が心配になるのだが、それはそれとして、大根の部分は漬物にして、少し筋が残るのかと心配したが、全くそれはなく、葉の部分も「こわく」なったかと思ったが、逆によごしにするには若くて柔らかだった。
今から期待と不安がない交ぜになるのは、3年前に買った牛蒡の種である。
発芽試験をしたらまだすべて発芽したので思い切って植えてみた。
30数粒植えたものが20弱発芽してきている。
同じ畝で、同じ条件なのだから、楽しみである。
うちの孫も、1歳半(学年で2年)違うのだが、最近その違いが結構な差になってきているのが、何とも楽しい。
金子みすずではないが「みんな違って、みんな良い」となってくれるのを祈っている。
投稿者:つねちゃん
at 09 :20
| 子育て
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都知事の相手批判
このテーマは、現時点では「一応」火が消えたかのようになっているので、蒸し返すつもりはないから、あくまでも一般論である。
競争相手を批判するということは、どんな場合においても、自分に自身が無くなったりしかけている場合である。
在職中私もいろいろな批判の的にさらされた。
基本的には、今思っても「学閥」のなせる業だったのだろうか、個人的に攻撃することはないが、田舎の工業高校卒の人間が、企画投書で650億円のシステム提案をして、何度かのダメ出しはあったものの、了解され、一つの大掛かりなプロジェクトになったのだから、やっかみもわかる。
勿論、それまでには私のスタンドプレーもあったのだから、一概には根のない批判ばかりとは言えないと思うのだが。
今度の五輪誘致合戦の一環のつもりだつろうが、ライバル国を批判した。
小説家評論家か知らないけれど、結局は「口先だけの人気取り」なのだろう。
それがみっともないのは、当初「真意が伝わっていない」と言っていて、あくまでも自論が正しいと言っていたのに、その舌の根が乾かない間に、謝罪したことだったろうか。
自論が正しいというのであれば、それなりに頑張って、結果として論破されたら、素直に謝るというのならわかるが。
私はゴルフはやらないから、実体験としては分からないけれど、タイガーウッドが対戦相手のショットに対して「入れ!」と思うことだと聞いたことがある。
相手の弱みに付け込んで(今回の場合は、勝手な思い込みだったが)買ってみても本当の嬉しさはないだろう、ということは分かる。
政治ばかりではないけれど、政治屋さんにはせめてこの気持ちを持ち続けてほしいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :11
| 政治への注文
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撮り鉄ならぬ「撮り曳山」
先日と言うか、此の頃新聞をある意味で賑わせている「撮り鉄」の行儀の悪さだが、先日わが町でも、11基の曳山が出るお祭りがあった。
そこで「撮り曳山」族の行儀の悪さを目の当たりにして、かなり残念だった。
子供に限らず、大人、特に女性に対して「そこ退けそこ退け、俺様が通る」と言う態度である。
人一人がそうであるならば、さほどの迷惑にもならないのだろうが、おそらくカメラの付属品がたくさん入っているのだろうと思われる、大きなバッグを抱えて、あまつさえ、長い三脚を折りたたみもせず、という状況で、人ごみの中ばかりか、式典などの邪魔になるだろうし、見ている人の邪魔になることも全く考えていないのである。
また、それらの人が、66歳の私よりも年長者で、常識は当然弁えているはずの人たちなのである。
このことは、我が町だけだったのだろうか。
この時期、高岡、城端、砺波を初めとして、いくつかの地域で、絢爛豪華な曳山が出る。
そんな中で、「撮り曳山さん」の行動はどうなのだろうか。
祭りに人出は当然、むしろ歓迎すべきこと、多少の行儀の悪さは大目に見て、という開催主体の意見であるならば、こちらは所詮「野次馬」でしかないので、口を出すいわれはないのだが、そんなことの一つ一つが祭自体の衰退につながっていくのではないだろうか。
昔のことばかり言ってもしようがないが、曳山に登らせてもらえる子供たちは、それなりに祭法被を着て、威儀を正したものである。
それが普段着で、およそ祭りの威厳などはみじんも感じない子供が、上から友達を見つけてはピースサインをしているのでは、祭りの意味が失われるだろう。
子育ては、こんな日頃の中からでもできる、いや、すべきことを守らせるということから始まるのではないだろうか。
撮り曳山のオジサンたちは「反面教師」としての意識なのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :00
| 子育て
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国会議員は地方議員のなれの果てでは困る
地方でそれなりに業績を上げた議員を国会議員にしようとするコースが垣間見える。
立つスタンスが全く違うということを、議員はもとよりだが、応援する側がしっかりと認識することが必要だろう。
「オラが故郷(くに)さに良いこと」は「(日本)国として必ずしも良いこと」ではないからだ。
市議会を初めとして県政や国政に立候補される方の応援には参加しないようにしている。
それでも、こんな私に「ぜひ無色で中立な態度のあなたに参加してほしい」と言われて、リタイアしてから2度だけ参加したことがある。
また、応援ではないが、演説会にぜひと言われて参加したこともあるのだが、いずれにしても上記のことばかりが目や耳について嫌であり、ここ数年は、幸いにしてそんな機会もないからかもしれないが、出席していない。
ある意味で、県議会までの立候補者は「オラが故郷」に何らかの貢献をすべきだろうが、国政に立候補される方にだけはそんな期待をしてはいけないと思っている。
立派な意思をもって国政に立候補される方が、確かに応援団が多い自分の地域への貢献もあるだろうが、大所・高所に立って「日本国を立派にすることが、ひいては故郷にも良い影響となる」という信念で頑張ってほしい。
また、応援団も、近視眼的な期待よりも、「まずは国を立派にしてほしい」ことを最優先してほしいものである。
上記のように、何度かの少ない経験かも知れないが「誰のおかげでなれたと思っているのだ」という、恫喝や場合によっては脅迫的な言葉を吐く応援団がいる。
これでは、傀儡でしかなくなるのではないか。
国会議員さん、不正は許されないけれど、頑張ってください。
投稿者:つねちゃん
at 08 :56
| 政治への注文
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和歌は分からない
時折博物館などに行き、本来見たいものについての学芸員の解説は、詳細は別として、ある程度理解を助けてくれるので有難い。
ところが、そんな中で時折和歌を引用されることがある。
そんな時、大概言われるのは「よく情景を歌いこんでいて、素晴らしいですね」というのが常套文句のようだ。
残念ながら、殆どと言っていいほど、こちらとしては理解できないのである。
シャレではないが「和歌は分からない」のである。
でも、それを面と向かって言うことは、一つには相手に失礼だと思うのと、二つには「こんなことも理解できないのなら、こんな所へ来るな」と言われそうなのが怖いからである。
それをこちらが理解したものとして畳み掛けられるのには、全くと言っていいくらい閉口してしまう。
なんでもそうだが「美しい」と感じたものは、他の人が何と言おうとも、自分が「美しい」と気持ちよく感じればいいのではないか。
逆もまた真なりで、特にアブストラクトと称される作品には、あくまでも私の評価であるが「見るに堪えない」物も無くはない。
説明の押し付けや、自分が知っている和歌などを引き合いに出されるのは「もういいです」と断ることもできるのだが、断りにくいのは、取材に来てのインタビューである。
「素晴らしい作品ばかりですねぇ、どんな作品が印象深かったですか?」と聞かれて、他に人がいない場合、逃げることもできず、曖昧に適当に答えるしかなく、内心はハラハラドキドキなのである。
こうなると、まだ見ていない作品を見ることも憚られてしまい、そそくさと出てしまう、そんなことが今まで3度ほどある。勿体無かったなぁ。
でも、この歳になると、あまり相手のことを考えなくなっている自分に気づいて、それはそれで申し訳なく恥ずかしくなってしまう。
可愛い年寄りである。( ^)o(^ )
投稿者:つねちゃん
at 09 :53
| 興味あること
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「直すより新品を買った方が安い」
表題のことは、現実としては分かっていたつもりだが、目の前に突き付けられると「変だなぁ」と思ってしまった。
父の時に買ったものだから、来年が13回忌になるから、ずいぶんと長持ちした「高枝切狭」が、故障してしまった。
でも、完全に用をなさなくなってわけではなく、最も長く伸ばした場合は、それなりの切れ味で十分に用をなすのである。
短くした場合に、何ともだらしなくなってしまうのである。
これは素人目にも「短くした場合力の伝達機構」が悪く、錆びたかスプリングだとすれば、交換すれば大丈夫だろうから、工賃はかかるにしても、新品を買うよりは安いだろうと思って、修理依頼に行った。
店員の人が一目見るなり(何時買ったかなどは全く質問もせず)「これは直すより新品を買った方が安いですよ。直す価格で3台くらいは買えますよ。それに力も強いですし」と仰った。
で、新品を見ると、ナナナァーント2,000円弱である。
実用としては、当然ほとんど逡巡することなく、新品を買って当面の作業(栗の木の剪定)としては随分と捗った。
それにしても、これで良いのかなぁ。
前のものは、長くして使う場合は、前述のとおり役に立つのだから、捨てるのもなんだか気が引けてしまうので、今年の「断捨離」には背くのだが、「いつか使える」として物置の飾り的に置いてある。
これだから「断捨離」は難しい、と今更ながら思うのだが、来月の資源回収にはやはり出すことになるのだろうなぁ。
でも、再度言うが「これで良いのかなぁ?」
投稿者:つねちゃん
at 08 :51
| 日記
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「安売り厳禁」
このテーマを思いついたのは、連休に入る前だったので、今日になると少し時間軸が違っていることをお許し願いたい。
最近面白い報道に出会った。
「消費税還元セールの禁止」というものである。
正直、目と耳を疑った。
消費する側である国民の事よりも、徴収するお役人のための論理ばかりである。
これで「ははぁーん」と思ったのは、徴収する側は別のルートでその対価がもらえるからだろう。
なんともうまい仕組みを考えるものである。
そういえば、政治屋やその予備軍にも「寄付還流」と言うのがあるそうな。
そんな人は、当選させないばかりか、現職ならば次は落選させる「お灸」が必要だろう。
腹立ちを覚えるのは当然だとしても、その次には何だかそれを唱えているお役人が「馬鹿」に見えてきて、可笑しさすら覚えてしまう。
もう随分になり、ここでも何度か紹介したと思うが、「中国笑話集」(現代教養文庫 村山吉廣訳編)を朝の音読の一つにしている。
色々な分野(譚)があるが、役人を風刺している部分が現在進行形の部分である。
昔はこんなだったのかなぁ、と思いながらであるが、どうも昔ばかりではなく、現代でもこのまま通用しているのが面白い。
このことは、何も中国に限ったことではなく、世の中の「お役人」のすべてに当てはまるようである。
お役人を選ぶことは、残念ながらできないが、それを弾劾する立場の議員さんは選挙で選べるし、選んでいるのだが、それでも「この国民にして、この議員、国家がある」と言われれば、天唾なのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :07
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