選挙の要諦は
選挙はネット利用よりも「会って握手」が効果的だとの報道に驚いた。
その候補者はいつまでそれを続けるつもりなのだろうか。
その姿勢自体が自分の「人に伝える能力」の欠如を表明しているものだと自ら証明しているものだと気が付かないのだろうか。
国政選挙は与党の大勝利で終わり、元与党は最近では、ほとんど名前すら出てこないような状況である。
また、隣りの市でも市会議員の選挙があり、これ与党勢力が新人を含めて大躍進だと聞いた。
そんな中での報道である。
今は故人になられたが、前の都知事選挙の時に、ほとんど選挙活動をしないで当選したタレントさんがいたが、流石にそこまでしなくても、正々堂々と自説を説いて回り、有権者の支持を得てほしいものだが、それが、流行の「土下座」ということでは、何とも情けない限りではないか。
いろいろな制限はあるだろうが、「自説を説きまわる」という機会をどんどん増やすためにも、ネット利用が一つの効率的な手段だろうし、残念ながら投票率が低い若年層もこれからは公聴会などには参加せず、ネット情報によることが多くなるのではないか。
そんな世界が間近に迫っていることも知らずに、選挙に挑もうとする姿勢こそが「選挙の時だけの下座、当選したら床柱」という老い先短い議員人生にしがみ付こうとするセンセイの姿であり、そんな人に投票する人こそが国辱ものなのではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
| 政治への注文
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フットケア
加齢によるものかも知れない、多分そうなのだろうが、足に「水虫」ができて、今までは軽い症状で、病院にかかることなく、知らないうちに痒みも痛みもなくなり、気が付いたら跡形もなく完治していた。
ところが、今年はどうしたものか、いつまでたっても痛みと痒みがひどく、とうとう皮膚科の門をくぐることになった。
案の定「水虫で長い間放置していましたね。また、風呂に入った時にゴシゴシ洗ったでしょう。水虫の感染経路を広げたのですね」との診断だった。
原因は分かっていてるのである。
今年のように暑い中でも、趣味というほどではないにしても、畑へ行くときには長靴をはく。
それが「素足」で履いて、汗をかいたままにしていたのだから。
まぁ、いいや。今までは「フットケア」と聞いても「ほっとけや」で治っていたのだが、左足の親指の爪が途中で黒ずんでいて、孫にも「爺ちゃんの爪おかしい」と言われていたので、それもついでに直してもらおうと思った。
水虫は皮が随分と破られていて、まずはその治療から始まり、それが落ち着いてから、本格的な水虫治療ということになったが、「薬がなくなるまで塗っておいて下さい」と念を押されて今も続いている。
ところが、足の爪は「爪水虫」というのだそうで、この完治にはかなりの期間かかるといわれてしまった。
66年使ってきた身体だから、この辺でいろいろと身綺麗にするのも、悪くはなかろう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :59
| 健康
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教職員、市役所などの職員の不正行為
昔は「聖職」にあると思われていた人が、最近いろんな面での不正行為が摘発されている。
どうもこれは、一職員の個人犯罪ではないのではないか。
身内の人への罰則の甘さや、「見て見ぬふり」で見逃されているのではないだろうか。
いくら何でも、億単位の金が一職員だけの裁量で着服などできるわけがないと思う。
返済は、個人だけではなく、組織の前職までを含めた人間で為すべきであろう。
このテーマを思いついたときは、これだけだったのだが、最近はどうも「聖職者」ではないにしても、有名ホテルや大手銀行などが、どんどんと「不正行為」をおなっていることが報道されている。
コンプライアンスという言葉が、どうも「法律遵守」ということではなく、「会社利益や個人利益の順守」ということにすり替わってしまっているのではないだろうか。
これだって、上記の件と同様に「一人だけでできる」ことでは決してないであろう。
社長や銀行にいては頭取という役は、絶対権限を持ってて、部下の生殺与奪をする人間だと思われているが、どうもそうではないのが現実のようである。
会社やいろいろな組織のためには、「トカゲのしっぽ」にしか過ぎないのだろう。
はてさて、その裏で糸を引いているのは、どんな人種なのだろうか。
ひところ「物言う株主」というのがはやったが、どうもそうでもなさそうである。
兎も角、前述のように「過去に遡って」すべての債務を弁済すべきだろう
黒幕が「選良」の中から出ないことを願いつつ、でも分からないだろうなぁ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :44
| お役所
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天使の微笑み
隣の同級生にこの春できた孫娘。
今朝、初めて「おはよう」と声をかけた。
最初はポカーンとしていたが、そのうちに得も言われぬ可愛い顔で微笑んでくれた。
ナント朝からいいことである。
うちの孫娘は先日学習発表会で、勿論可愛いが、あどけない生後半年余りの娘さんの笑顔が癒してくれる。
いつも誰からも笑顔で接してもらえる人には、あまりそんな感激はないのかもしれないが、在職中ほどではないにせよ、リタイアしてからは随分と柔和な顔つきになったと思っているが、どうしても小さな子供には、懐かれず、大概というより、ほとんどの場合に泣かれてしまう。
だから、最初から接近はしないようにしているし、今回も3mは離れての挨拶だった。
だから、まだはっきりこの恐持ての顔に気が付かなかったのかもしれない。
お嬢ちゃん、それでいいのですよ。
できれば、それがいつまでも続くことを恐持てのお爺さんは願っているのです。
そして、それがすべての人に対してであることを。
メルヘンの町で、メルヘンのような気持ちのいい朝でした。
でも、どうして「恐持ての顔」になったのかなぁ。
そういえば、こちらに来てまだ間もないころに、庭に来てなぜか鎌首をもたげた蛇と睨めっこして、勝ったことがあったが、その「ネンモウ(この言葉を探したが、見つからなかったということは、子供のころの方言だっただろうか)」が50年以上も続いているのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :53
| 子育て
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アルバイトが悪いのか
かつて私もいろいろなアルバイトをした。
しかしながら、父の教え(今となって思うことだが)が「お金をもらう以上、その店のためになるようにしろ」ということが意識の底にあったのだろうから、昨今報道されるような不埒なことはしなかったと思っている。
今のアルバイトには「単なるその場凌ぎの金稼ぎ」という意識しかないのではないだろうか。
勿論生活苦やいろいろな条件下でアルバイトしかできない、という人もおられると思うから、あくまでも私の勝手な判断である。
そんな「金の亡者」は、得てして「この会社のために」という気持ちはないのではないか。
だから、自分の人気取りで、このデジタル社会でのアピールを考えるのだろう。
一部の事件では「賠償責任」を求めているが、ほとんどは「経営者の責任」ということで、アルバイターにはほとんど影響が出ていないから、いつか流行った歌詞の中の「別れたら、次の人」というように次のアルバイト先を探すのだろう。
そして、次のところでも同じようなことをやる。
アルバイターばかり責めるのではない。
そんな人を「使う側:経営者」は果たしてどんな面接をしているのだろうか。
もっと慎重に採用を考えるべきだろう。
それをせずに、単なるロボット代わりの労働力と考えているのであれば、いつまでたってもこれは治らないだろう。
雇われる側、雇う側もきちんとそれなりに責任を持つべきだと思うが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :20
| 日記
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デジカメは楽しい
今更何を、と言われるかもしれないが、最近になってようやく「楽しく撮影できる」という気持ちが少しだけ分かった様になった。
私自身で、昔のカメラを買ったのは、就職して暫くしてからで、それは間違いなく「証拠写真」のためだった。
「どこそこへ誰と行った」(当時は撮影日付や場所などは写真自体には記録されなかった)、「どこそこはこんな状態(景色)だった」というようなものである。
だが、仕上がりは現像を頼んで、焼き増ししてからしか分からないから、果たして自分の思った通りの写真になっているかどうか、また、それを他人様に渡せるようなものかどうかが、ある程度お金を掛けてからしか分からなかった。
だからとんでもない物のためにお金がかかったので、撮影すること自体が「億劫」だったのであると同時に「無駄遣い」としか思われなかった。
それがデジカメで一掃されたのである。
現在持っているデジカメでは、上記のことが全く払拭されたと同時に、「連写」という技術が採用されており、録画もできるのだが、動きのあるものは一枚一枚の写真から選べるのでまったく便利である。
また、撮影してすぐに確認でき、拙かったら撮り直しもできるのである。
デジタルの世界で長い間いたのだから、理屈では、十分すぎるほど分かっていたのだが、いざ実感となるとなかなかできなかった、というのが本音である。
メモリ容量の関係で、1回で撮影できる枚数は1000枚を超えるのであるから、ともかく「どんどん撮って」長く楽しみたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 日記
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国会議員は特別なのだ
衆参両院で大勝を占めた与党に「傲慢振り」がまたぞろ顔を出した。
国会内での吉野家で1,200円の「牛重」が販売されるのだという。
しかも、「ここでしか食べられない」という特権階級人間限定だという。
これじゃ、総理大臣という人が「謙虚に」と言ってみたところで、何も変わらないではないか。
今回の増税も「笊で水を汲む」かのごとく、捕らぬ狸の皮算用よろしく、本来の予定から随分とずれていて、復興や福祉は「ダシ」に使われてしまうような体たらくである。
そんなことをしなくても、「国会議員」を初めとして「政治屋」は特殊な人種であることは、残念ながら国民のほとんどがそう思っているのだから、何も現代版和風ファストフードで差を見せつけることもあるまいに。
また、このテーマを思いついた後での報道によると、要求したのが特殊人種からだとのこと、そしてまた、その人種が「これは何かおかしい」とほざいているという。
どうも、朝令暮改、をそのまま行っているような人種である。
もっとも、いつも言うが、そんな人種を選んだのは「主権者」である国民なのだから、これもまた始末が悪い。
選挙、という時期になると、今はやりの「土下座」をするほどの人種が、当選してしまえば、まるっきり立場が逆転して、ふんぞり返るのだから、それに騙される国民が悪いのかもしれないし、騙す側が賢いのかも知れない。
「おらが国さの先生様」はもうそろそろやめにすべきではないだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :43
| 政治への注文
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高齢者向け売春
50,60は「洟垂れ小僧」とはよく言われることである。
だから、まだまだ「性欲」というものは旺盛らしい。
表記の犯罪の記事が目に留まった。
男性は65歳前後だが、女性の中には82歳の人もいるとあった。
諸姉・諸兄はこの記事をどのような感覚でお読みになっただろうか。
60歳は、論語では「耳順」と言われ、「人の言うことを逆らわず素直に聴けるようになる」と言う意味ですね。
果たしてこれと今回の事件とどう関係づけて考えればいいのか。
それとも、七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰(こ)えず」を自分なりの矩を広げて越えなかったのだろうか。
正直に申し上げて、これが「管理売春」だとしたら。暴利をむさぼった人間は厳しく罰せられて当然だとは思うが、そうではなく、「お茶飲み友達」の集いの中からの自然交際ということであれば、特別責められるべきものではないと思う。
福沢諭吉の御母堂も「灰になるまで」と仰っていると聞き及ぶ。
ある種の性病的な伝染病には十分に気を付けなければならないが、そうでなければ、容認してもいいのではないだろうか。
もちろん、すでにベターハーフがいらっしゃらなくなってからのことではあろうが。
「いい歳をして」というような言葉は、むしろ「差別用語」であろう。
妊娠などにかかわる財産分与名とという心配はすでにないのだから、年老いてもおおらかに「性欲」を楽しんでも、罰は当たるまい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
| 健康
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「朝令暮改」
以前にも、言ったと思うが、外交関係については、ほとんど知識がない。
でも、将軍様の朝令暮改は「終わりの始まり」ではないかと思う記事に目が留まった。
在外公人の子女を帰国させよ、という将軍様の命令が、内外の多くの反対によって「将軍様の思し召しにより」撤回されたという記事である。
かつての江戸時代の「参勤交代」を撤回した事情とは全く違うのである。
これなら「反対すれば、もしかしたら通るかも」ということになり、だんだん…。
拉致問題も核問題も・・・怖いような、嬉しいような。
これと似たようなことが在職中にあった。
立場上「こうすれば、少なくともこの件に関する再発防止ができるのではないですか」と提案して、担当課長さんとその上司の方の了承が得られ、その場で全員にその課長さんから決意表明がなされた。
暫くして同様なトラブルがあったので、再度指導に出向き、なぜこれが実施されなかったのかといろいろと調べてみると、「本社のスタッフの言うことは現場を知らないからだ」と私らが帰ったとで、周知があったのだという。
朝令暮改どころか「舌の根が乾かないうち」の出来事で、残念だけれどその課長さんには転任いただいた。
その後も何度か訪れ、酒を交えながらの雑談の中で知ったのは、このことばかりでは無かったので、決意表明は「単なる儀式」だったという。
幸いにして、後任の課長さんは「是々非々」でやられたので、本音で話ができ、プロジェクトは成功裏に収まった。
こちらは「終わりの始まりではなかった。
投稿者:つねちゃん
at 06 :05
| 日記
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「十五夜」をどう発音するか
猛暑・酷暑の時期も過ぎて、少し遅かったような気がするが、虫の音が賑わしくなって、シャワーではなく、お風呂にすることが多くなってきた。
小学生になった孫娘らとは一緒に入ることもなくなり、家内とも一緒に入ることはもう皆無に近くなっているので、少しぬるめのお風呂にゆったりとして入るのも、極楽至極、という心持である。
そんな時、もう2年ほど前に買った「風呂用(防水ということ)オーディオ」を使っている。
FMラジオが聴けるだけではなく、USBとCDに録音した音楽が聴けるのである。
ジャンルはまさに荒唐無稽というほどテンデンバラバラで、般若心経があったり、英会話までもある。
そんな中、唱歌も当然あるのだが、先日聞いていて「オヤ」と思ったのが表題である。
諸姉・諸兄は「じゅうご」の「ご」をどのように発音されるであろうか。
回りくどい言い方は別にして、鼻濁音で発音するというのが正解のようであるが、果たして私自身は今まで、そう歌ってきただろうか。
まったく無意識だったろうが、いまさら気がついたのが、なんとも楽しくてならなくて、このテーマを思いついた。
このようにして聞く童謡や唱歌には、まだまだ気が付いていないことが多いのではないだろうか。
鼻濁音とは全く関係ないのだが、「テルテル坊主」という歌をご存じだろう。
「明日天気になぁーれ」はもちろん子供の願いだろうが、3番の歌詞では、とんでもない言葉で歌われている。
最近では、この歌詞の部分は放送されないようであるが、調べてみては如何だろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
| 学習
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やっぱり「知らないことは、知ることなり」
論語の書き写しをやっていたころにも紹介したかと思うが、今更調べる気にもならないので、新たな感慨として紹介しておこうとペンを執った。
もっとも「ペンを執る」ということ自体が、現在の私には「書き写し」以外はやらないので、「キーボードをたたく」ということになるだろうか。
本題に戻して、現在「左手での書き写し」をやっている本に「修養365日」というものがある。(昭和24年10月発行)
その中に、また出てきた。
論語と言い方は少し違うと思うが「知るは知らざるなり、知らざるは知ることなり」と思っている。
論語は「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ、これ知るなり」と言っている。
尤もどちらにしても、日本語への翻訳だから、訳者によって書き方が違うから、私の「意訳」でもよかろう。
書き写しや音読を始めたのは、今年の目標の一つに「書き取りで指を動かす、音読で口を動かす意」というのがあって、それに基づいているのである。
だから、そんな効果を求めて始めたのではないのだが、意外にもいろいろなことを考えさせられることが、余禄となってついてきている。
その一つが「これ何だったっけ?」ということである。
その度毎に、電子辞書を繰るのだが、結構「勘違い」で覚えていることに気が付くのである。
所謂「知っているつもり」が「知っていなかった」ということに気が付くのである。
こうなると、面白い。
新たに「知ろう」という意欲が湧いてくるからである。
50,60は「洟垂れ小僧」といわれる如く、まだまだ学習することがたくさんあることに気が付くと、何をやっていても楽しいではないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
| 学習
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「倍返し」はあくまでも「小説の中」だけ
私も見たが、半沢直樹ブームで、「倍返し」という言葉が今年の流行語になるのではないだろうか。
物語自体を非難する気持ちは全くないが、現実にいろんな点での「倍返し」が顕著に表れていないだろうか。
イオンが文春を店から排除した、という現実もそれに近い。
そればかりではなく、枚挙にいとまがないくらいで、中には悲惨な事件も出ているが、詳述するのも怖いくらいである。
「反省してみる」ということをもっと習慣づけたほうがいいのではないだろうか。
「目には目を、歯には歯を」では、仇討ちと同じで連鎖は断ち切れなのではないか。
「歴史」という学科には残念ながら、あまり得手だった記憶がない。
それでも、父譲りかもしれないが、雑学的にいろんなことを断片的に覚えている中に、明治の初期くらいだったろうか「仇討禁止令」というものが出たという記憶がかすかにある。
仇討が美談化された、最大は「赤穂浪士」だろう。
でも、これを繰り返していたら、と思うだけで寒気がしてくるのは私だけではなかろう。
団塊の世代の真っただ中で、「勝った、負けた」は日常茶飯事だった。
それを一々恨みに思って「倍返し」と力んでいては、はたして新しい発想ができるのだろうか。
半沢物語を忌避するものでは決してないし、あそこまでひどい人事は経験がないが、「恨まれそうな人事」というものには、何度となく見聞きしてきた。
「倍返し」はあくまでも「小説の中」だけにしてもらわないと、実際にそれが横行すれば、そうした人に対して世間から「倍返し」されてしまうのではないか。
実際にそれを真似た事件が散見されている。
正直、怖い話である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :12
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ブログのネタ
先日も紹介したが、「ブログを始めてみたいけれど、あなたのように毎日ネタを探せない」という方がいらっしゃる。
私も「ネタ探し」にはそれなりの腐心をするが、それは「なるべき、機会に捕らわれず」を心掛けたいからである。
で、そんな人にはこのように伝えている。
「朝、新聞を読まれるでしょう。ネットニュースなどでもいい。ともかくその中から気になったものを手当たり次第紙に書き出す。読み終わったら、その中から3つに絞り込む。
その中で『俺だったらこう思う』というものに対して意見を箇条書きにする」と。
そして、出来れば文章にして、「一夜漬け」にする。
翌朝それを読み直して、適当に加筆修正すれば、それでよし。
また、こんなことも言う。
「あなたは多分、昨日のあなたとは違っている。どこが違っているだろうか」と。
リタイアした連中は「毎日同じことの繰り返しだよ」と言うが、そんなことができる訳がないのである。
朝起きた時間、その日の天気、その日の温度、ベターハーフの機嫌、子息や孫はどうか。
朝食には何を食べたか、美味しかったかそうでもなかったか、自分ならどんな味にしたいか。
そんなことを、ぼんやりとした時間に思い出してみるとよい。
必ず「ぼんやりと」が肝心である。
真剣に思い出そうとすると、長続きしないし、嫌になるから。
このブログの精神のように「仄々」「徒然」に思い出してみればいい。
必ず「昨日と違う自分」が見つけられるだろう。
何もブログにする必要はなく、「今が過去」と思って違う自分に気が付くことが楽しくなってくるから。
投稿者:つねちゃん
at 06 :22
| 日記
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嫌なことは伝えない
朝、庭などを見回るのが一つの日課になっている。
ところが、先日せっかく種まきをしたプランターに猫だろうと思う糞がしてあった。
先日も家内が見つけたといっていたので、処分したのだが、またしてもである。
で、憤(糞)懣やるかたなしで、処分したうえで、家内に言おうとしたが、思い留まった。
誰でもだろうが、朝から「好い話」なら聞いても良い意味での共感を持てるだろうが、
この手は自分の胸の内にとどめておくほうがよいのだろう、と思ったからである。
そんな風に考えると、自分がそうだが、意外と他人様も「言わずもがな」というようなことを、たぶん無意識だろうが、伝えていることが多いのではないだろうか。
小学生の頃から、先日も吐露したが「内気で、陰気で、内向性、おまけに加えて、赤面症」というのが私の根本的な性格だったし、たぶん今でも基本的なところではそれが深層部にあるのだろう。
そんな私が「冗舌家」になったのは、たぶん高校生も3年生くらいだったのではないだろうか。
ともかく、照れ臭さと恥ずかしさを覆い隠すために、やたらと冗舌になったような気がするし、それが就職して研修所に入った時から「他の者に負けられない」とばかりに、自分の意見を主張することが習慣になってしまった。
それからもそれが続いたが、ある時、尊敬する上司(残念ながら数人しかいないのだが)から「ものを言う前に十数えてから発言しろ」と厳しく注意された。
でも、本来の性格を意識しながら捻じ曲げているのだから、いかに尊敬する上司からといえども、なかなか治らなかった。
リタイアして10数年経って、ようやくそのことに気がつく自分がなんとも楽しい。
投稿者:つねちゃん
at 05 :37
| 健康
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将棋棋譜をトレースする楽しみ
30代後半頃までは、将棋もそれなりに強かった。
これは、まだ生まれた町内で、縁台将棋がそれなりに盛んだったころに、同級生はもとより、大人とでも平手で打って、勝率は決して良かった記憶はないが、それなりに戦えたと思っている。
「三つ子の魂」ではないが、それ以来将棋を勉強したことなどなかったのだが、本社勤務になった時のある時期、将棋ブームが起こった。
生来「内気で、陰気で、内向性」(自分ではそう言っていたから、本音ではない)の私は、「岡目八目」で、楽しんでいたのだが、ある時どうしても相手がいないとのことで引っ張り出された。
その時のことはよく覚えていて、最初の一番は「まったく相手にならない」くらいに負かされてしまったのだが、短時間だったので「もう一番」とやると、ナント今度は逆にこちらが簡単に勝ってしまった。次の番が一番よく覚えているのだが「成金趣味」と言っていたが、どんどん歩がと金になって、意地悪い勝ち方をしてしまった。
その後それも下火になり、忘れかけていたころに、大卒で研修を終えたのが入ってきて、また将棋を少しだけやることになっが、その人間が勉強好きで、最初は全く相手にならなかったのだが、3か月もしないうちに平手から連続負け続けることになり、相手が駒落ちというまでになってしまった。
それからもう20年以上もたつが、いまだに新聞にっている将棋の棋譜をPCにコピーしながら楽しんでいる。
特に解説欄にある「こうしていたら」というフレーズを共に再現してみることで、より一層楽しくなってくる。
勿論プロの指し手だから、いちいち納得できてはいないのだが「なーるほど」ということがなんか「頭脳に刺激」を与えてくれているのでは、と思いながら楽しんでいる。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
| 趣味
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リピーター率が低い
先日、ある報道で「北陸は旅行者のリピーター率が低い」と出ていた。
正直「そうだろうなぁ」と思った。
その報道では「三県で『見どころ』を連結してリピート率を上げよう」と提案されていた。
私は「違う」と思う。
いろんな所へ行ってみて、いろんな店へ入ってみれば分かることだが、「おもてなし」の度合いが極端に違うことである。
ある店では「あなたは大切なお客様、ぜひ次の機会にもうちへ寄ってください」と一見の客だとわかっていても、そんな対応をするところがあると思えば、「どうせ一見の客なんだから」と出てくるものばかりでなく雰囲気でわかる店もあるのである。
最初にそんな店に入ってごらんなさい、「絶対に二度と来るもんか」ということになるでしょう。
ところが、殆どのところは「テナント商売」だから、だれも注意できないようであるし、あの店はそんな店ねと「触らぬ神に祟りなし」という状態である。
概して、そんな店は、宣伝だけが際立ってうまいのだから、お金もかかっているのだろうが、「高かろう、悪かろう」である。
それを共同体としてレベル上げを行えば、そしてそれが連結されれば、リピーター率は嫌でも上がろうというもののはずだが。
どことは言わぬが、「○○の通った後には、ペンペン草も生えぬ」といわれるところがある。
「旅の恥は掻き捨て」とは、旅行者がする愚行のことだが、それを一過性の商人がやっているのだとすれば、リピーター率は上がるはずがない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :13
| 旅行記
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ブログの楽しみ
もう2000通を超えて書いているが、一頃は何人かから非難や激励、異論を含めてご意見をいただき、「読まれているんだなぁ」と感激したものである。
ところが、最近は殆どそんなことはなくなり、「飽きられちゃったかなぁ」と思うことがしばしばだった。
ところが、先日から数回「広い意味での仲間」とお酒を入れて集うことがあり、今まで思ってもみない人から、意見や異論をいただいた。
いわゆる「物言わぬ読者」がそれなりにいらっしゃることに驚くとともに、ある意味感激した。
このブログの精神は、何度も書かせていただいているが、「仄々」「徒然」が基本であり、これを書く前に二度「徒然草」を読んだ。
兼好法師もただ「徒然に」書いていたばかりではなく、時には批判もあったり、自省もあったり、いろいろなことに触れていることが気に入った。
正直「なぁーんだ、こんなことでいいのなら俺にも書けそうだ」と思って始めたのである。
政治屋さんへの不満や、世間一般への提言(と自分では思っている)もあるが、大半は基本的な考え方に則っていると思っているが、読者の評価はどうであろか。
それにしても、ここまでやってこれたのも、「物言う読者」は勿論だが、時折評価を聞く「物言わぬ読者」の支えであったろう。
年代が、上にも下にも少し離れた人から「あんたけ?」と驚かれたりするのも、またそれなりの楽しみである。
もうあと二か月余りで閉じようとしているが、もう少しですから、お付き合い下るとともに、今までのおつきあいに、あらためて感謝申し上げます。
投稿者:つねちゃん
at 06 :53
| 日記
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「聞く耳持たないサイト」は自滅する
先日、苦い経験をした。
特定するのは、個店攻撃になるので、なるべく特定できないような表現を心掛けて話を進めるが、ある道の駅に入って、その店、いやいやその地区の特産物をフィーチャーした食物が出ていたので、食べることにした。
土曜日のことで、かなりの繁盛ぶりで、座る席を探すのも大変なくらいだった。
番号を呼ばれて取りに行く(最近こんな店が多くなっている)と、確かにそれらしき麺が入っていて、横にはあまり見かけない調味料が小さな皿に盛られていた。
「これでいいんですね」と確認すると「ハイ何番の方ですね」と渡された。
でも、普通の麺類ならば、こちらのほうでは、厚いか薄いかは別にして、蒲鉾が入っており、ネギも当然のように入っているのだが、それも無い。
立て込んでいるようだったので、声をかけるのも気が引けて、そのまま食べた。
出るときになって、食券販売機の横にある写真を見ると、間違いなく蒲鉾と葱と、フィーチャーしたい野菜が乗っている。
混雑している店で言っても迷惑だろうからと、ネットのサイトで苦情ではなく、「こんなことがありましたよ」と改善を求めようとした。
ところが、間違いなくサイトはあるのだが、「お客様の意見」というところがどう探してもない。
いわゆる「聞く耳を持たない」という代物である。
これでは、「役人商売」と言われても仕方がなかろう。
あと何年も持たないばかりではなく、それが契機になって「あの地区は」という烙印を押されて、ほとんどの店がそのようにみられるのではないだろうか。
そして、結局「みなこけた」という様相を呈するのではないか。
自ら自滅の道を突き進んでいるように思えた。
もちろん今後あの道の駅、いやいや、あの店ではものを食べないようにと誓った。
投稿者:つねちゃん
at 06 :38
| 旅行記
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ついに増税
当時の与野党合意だったから、今更驚くことはないが、増税路線が確立した感じである。
このブログでも、何度かの採用された投書でも言ってきたことだが、決めたからには細大漏らさず「無駄遣いの徹底排除」をやってほしい。
増税するかしないかの判断がついていないのに、予算は空前絶後ともいえる「大盤振る舞い」である。
穿ったものの見方、という言い方はもうすでに何の意味も持たなくなっていて、流れた金の一部はきちんと政治屋の懐を潤すために還流することが、当然の如くになっている。
また、会計検査院の「無駄遣い」指摘についても、「見解の相違」ということで、その結末について報道はめったに聞かれなく、有耶無耶のうちに「噂話」になってしまい、75日も経たないうちに、さも「そんなことはなかった」かのごとくである。
総理大臣の言っていることは「清言」であるが、なぁーに、還流した金の一部は確実に回ってくるのだから、全く心配はいらないのだろう。
その証明のごとく、お隣の国ほどではないけれど、やめた途端に「悪事の露見」になってくるのが、今までの実例である。
まぁ、そうなっても「蛙の面に小便」ほどにも感じない人種なのだから、困ったものである。
尤も、いつも言うように、私のように「あの人には、あの党には、投票しなかった」と言っても、まったく意味のない発言でしかない。
こうなったら、生活必需品以外は、なるべく買わないことにして防衛するしかない。
そう言っていても、たぶん「のど元過ぎれば」ということになるのは、まったく自信をもって言える自分が辛い。
投稿者:つねちゃん
at 07 :54
| 政治への注文
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ロストリング
正直「またやってしまったぁ!」という感じである。
先日ある会合の後で懇親会になった。
お腹が空いていた時に、大好物の日本酒と刺身が目の前に出てきた。
懇親会話題にも、大きく発言し、呵々大笑で楽しんで、大いに飲食も楽しんだことは間違いなく覚えており、その時の話題も、勿論全てではないが、大体覚えている。
会場は、歩いて5分ほどの、近くだったので、微酔(???)と思って帰宅したのだろう。
気が付いたら翌日の朝である。
外で飲んだのだから、夕食後の薬は飲んでいないはずと思って、探すがどこにも見つからない。
パジャマに着替えていたから、その前に着ていたものはそこら中に「兵どもが夢の跡」の様に散乱していると思いきや、ズボンは所定の場所にかけてあるし、確かに下着の類は足元にあるが、「兵どもが夢の跡」のような乱れ方では全くない。
恐る恐るいつもより少し早く起きて、今日の薬を用意するとともに、確認に行ったら、ナントしっかりと飲んでいたようで、1週間分の入れ物が抜けなく、しっかりと納まっていた。
その後、家内との会話なども普通に過ごせて、嫌味なども言われなかったから、それなりに平静に就寝したのではないだろうか。
昔は、単身赴任の時も、家族と一緒の時もそうだが、深酒をした後は、上記のような為体が殆どだった。
そして、どこかにロストリングがあり、記憶が全く飛んでいるのだった。
幸いにして、年齢的なものもあるかもしれないが、数時間のうちに繋がっていたから、特別差しさわりがなかったのだから、無事に勤め上げられたのだと思う。
それにしても、ますます反省の必要があるなぁ、と思うのは、今だけだろう。
今日も午後から「酒話会」があり、参加する予定である。
まったく「懲りない輩」である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
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エリート官僚の匿名暴言
政治屋さんの暴言は今に始まったわけではないし、昨日の増税発表も震災被害者や年金生活者の苦労には何らの配慮もなく、行われた。
前にも言ったが、必ずしも増税反対論者ではない。
それならそれで、政治屋や役人の無駄遣いをきっちりととめてからやってほしいということだ。
先日から表記のことが話題になり、その官僚が罰せられた。
でもしかし、停職2か月、とはなんと軽いことか。
停職中でもそこそこ給料はいただけるのだし(もちろん税金からだが)その後の処置についても、「エリート」という肩書が付けば、何度かの天下りで、税金が回りまわって何らかの形で、その人たちに供給されるのである。
暴言を吐いた人間が処罰されるのは当然として、それを管理監督し、罰則を与える人間をも罰を受けるべきではないか。
評判の半沢直樹というドラマでも、常務という立場の人間と次長という立場の人間の措置には、いろいろな思惑があって決められたものだろう。
これでは「百年河清を俟つ」という言葉通り、いつまで経っても同様なことが行われて、際限がなかろう。
もちろん「再発防止」などは考えておらず、「トカゲの尻尾切り」としか思っていない人には、「蛙の面に小便」にも感じられないのだろうが。
そうそう、これは暴言ではなく、ほとんどの役人や政治屋さんの「本音」なのだから、仲間内で非難などしても、この程度の罰で済んでしまうのが、この世界の常識なのかもしれないが。
嗚呼。
投稿者:つねちゃん
at 06 :17
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メモ用紙が増えたり減ったり
以前このブログでも何度か(いやいや何度もしつこいくらいに)紹介したが、在職中から、良い意味でも悪い意味でも「メモ魔」と渾名され、一種の職業病的に身についた癖が、リタイアして10年以上の今も続いている。
在職中は、暫くしての「自省の時間」に殆どのものは無関心に、いくつかのものは苦笑いとともに捨ててしまっていた。
現在は、百均で分厚いメモ用紙を買ってきて(これはメモ用紙代に気兼ねをしないためである)ともかく一言でもいいから「思いついたこと」を書き留めておくのである。
あれもしたい、これもしたい、これはしなければ…ということが山の様に思い付くことが諸姉・諸兄にもおありではないだろうか。
そんな中で、百に一つ、千に一つ、いやいや数万に一つくらいは役立つもの」があるはずである。
またまた話が横道にそれそうだから、本題に戻して。
今年のように猛暑・酷暑の中ではぼんやりしている時間が結構あった。
「何もしたくない」のである。
でも、そんな時って決まって「あれもしなければ…」というようなことが頭を過ぎりませんか。
で、メモにそれを残すと、また次の別のテーマが過ぎります。そんなことの繰り返しで、メモ用紙がどんどん溜まってゆきます。
それが最近になって、気候のせいが大きいでしょうが、どんどん消化されつつあるのです。
これは何といっても快適で、精神衛生上健康的です。
在職時と違って、捨てる敷居が高くなって、なかなか捨てられませんが、その分「やり遂げた」ということで消化するのですから、何とも言えません。
やっている最中に「そういえばあれもやりたいなぁ」ということが出てきて、メモ用紙が増えます。
増えたり、減ったりが楽しいです。
投稿者:つねちゃん
at 09 :50
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