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2010 年2 月26 日

やっぱり腹が立つ「政治評論家」と言う奸物とマスコミ

 「物言わざるは、腹膨るるが如し」とは、精神的不健康の最大の原因だと思っている。
 そういう意味で、新聞などへの投書で「物言う」をやっているつもりだが、マスコミ批判は中々「暖簾に腕押し」的に扱われるようで、実体がなくなり、実感も得られない。
 で、申し訳ないけれど、本欄の「仄々」情緒をかき乱すが如しの書き込みも勝手にお許しいただき、時折「腹凹まし」にさせていただこうと思っている。
 政権交代が実現したら、すぐにでも結果が出ると思っていたかのような評論が罷り通っている。
 それが新聞や雑誌などの「プル技術」を使わなければならないメディアを通じてなされるのであれば、勝手にやってくれればいいのだが、「プッシュ技術」であるラジオやテレビを通じて「これでもか、これでもか」と押し付けられるとウンザリを通り越して、この書き込みのように「怒り」になってしまう。
 「こうすべきだった」などという言葉は、結果を見て競馬の予測をするかのようなもので、多少の差はあるかもしれないが、素人と同じようなものだろう。
 「こうすべきだ」と言うのであれば、自分が政治家になってやってみればいいのに、それもしないでまさに「無責任アジテーション」でしかないことに気がついて欲しいものである。
 また、面白いや怒りをも超越して、笑ってしまうのは、一芸に秀でたことは認めるが、まるで違った分野について「ご意見」を滔々と述べていることである。
 でも、よく考えてみると、それらにお金を払って「評論家」と言う「称号」を与えているのは、マスコミではないか。
 評論家を「奸物」と罵るのは、表面的にしかものを見ていないのだろうが、その背面で黒幕的に操っているのは、マスコミと言うものではないのか。
 せめて自分だけは、マスコミに操られるのではなく、政治家の実態を直接間接的に見たいものである。
 でも、TVなどで放送されるものは、すでにマスコミのフィルターが掛かっているのだし、かつて総理大臣が「マスコミは出て行ってくれ」と言うような自体を期待しているわけでもないのだが。
 嗚呼。

投稿者:つねちゃん
at 09 :45 | 健康 | コメント(0 )

2010 年2 月25 日

辞書を引くのが愉しくなる

 今年の目標の一つに「調べる」と言うのを挙げた。
 それでも、最初は「電子辞書」を使っていたのだが、的確に結果を求めると言う点では確かに優れているのだが、其処に「面白さ」と言うものが中々見つからない。
 その点、紙媒体の辞書は、その周りものも同時に調べられるから、中々愉しい。
 大型の国語辞書もセコを含めて2冊あるので、もっぱらセコのものを使って、一度調べた語句については色鉛筆で傍線を引いている。
 ところが「えっ、こんなことを前も調べたっけ」と言うものにも出会い、何だか申し訳ないような懐かしいような愉しい気分になる。
 漢和辞典についても、同様に2冊あるので、同じような愉しみを味わっている。
 後生大事に垢もつけずに「積読」の状態にしておくよりも、辞書も喜ぶのではなかろうか。
 「Dictionary」(ディクショナリー)とは、「字を、引く、書、也」だとずいぶん昔に冗談半分に習った事がある。
 単に「字」だけではなく、周りの事もつられて引くと愉しみが倍増する。

投稿者:つねちゃん
at 08 :35 | 学習 | コメント(0 )

2010 年2 月24 日

目の前の見えるところだけでも綺麗に

 掃除が我が家での私のルーチンワークの一つとして根付いてもうかれこれ5年余りになる。
 最初のうちは、嫌味ではないのだろうけれど、姑の嫁いびりの如く、家内からの指摘がかなり多かった。
 デモ「石の上にも何とやら」で、流石に最近は殆ど指摘されることはない。
 そうなると、欲が出てくるもので、「ここをもう少しこうしたら」と言うようなことになってくる。
 まぁ、それは良いとして、最近ふと「何故掃除するのだろうか」と思ったりする。
 諸姉・諸兄はどうだろうか。
 義務感から、と言っても、何故その義務が発生するのかが良く判らない。
 かつて母から祖母に言われたことを聴いたことがあるが、当時はいろいろな回顧録を観て見ると、嘘ではないことが判ったのだが、相当に貧乏書体だった様である。
 祖母は、看護婦経験者だったと聞くが、嫁いで間もない母に「掃除をする暇があったら、内職をして、お金を稼げ」と言われたそうである。
 看護婦だったのだから、綺麗好きもしくは綺麗にしていないといけないのだろうと思っていた母としては、かなりのショックだったろう。
 そんな訳で、掃除の意味を改めて考えてみた。
 そして思いついたのは「汚い、もしくは、綺麗でない所」を見るのは、矢張り嫌だから、それは他人様も同じだろう。
 だったら、そんな所を人に見せて気分が悪くなって貰わないようにする、ことではないかと思った。
 そう思うと、何だかすっきりする。
 汚い所を他人様に見せないようにすることが掃除ではないだろうか。
 そうなんだ、自分のために掃除するのではないのだ。
 そう思うと、なおさらすっきりする。
 こと掃除については、人様のためなのだ。
 そう思うと、少しでも目に付くところは綺麗にしておこうと思うと、汚い所を探して掃除することになる。
 うんうん、何だか精神論になっちゃったが、そんな事を思いながら掃除するのも愉しみが増えた思いになる。
 さぁ、次の汚い所を探して綺麗にしよう。
 子供に掃除の意義を聞かれたときの、答えにしようと思うが、聞かれる事があるだろうか、それまで元気で居られるだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 09 :41 | 子育て | コメント(0 )

2010 年2 月23 日

故人の投書

 新聞への投書と言うのは、飽くまでも私の乏しい経験からだが、差し出した日から早いものなら1週間以内に掲載されるが、遅いものはそれこそ「忘れた頃にやってくる」のように2ヶ月近く経ってからの時もある。
 そんな時に限って、自分自身が読んでいなかったりして「先日の投書には同感しました」と言われて、慌ててしまうことがある。
 もう何年も前になるが、請われてパソコン講習会の講師を務めたことがある。
 その時の事務局長をなさっていた方が先日お亡くなりになられたのだが、新聞投稿も良くなさっておられる方で、そういう意味で、初対面から意見が良くあって、いろいろな企画をしながら約2年半ほどお付き合いいただいた。
 葬儀などへの参列は控えたのだが゛、散歩の道すがら、斎場前では両手を合わせて追悼の念をあらわしたものである。
 ところが、その方の投書が今朝の新聞に掲載されていて、正直かなり驚いた。
 新聞社のほうも其処まで気がついていて載せたのか、むしろ追悼の意味で載せたのかは判らないが、これが絶筆なのだろうか、もっと他にも出てくるのだろうか、などと不謹慎なことも考えたりした。
 ずいぶん昔に読んだ推理小説にもこれと似たようなものがあったような気がする。
 私の場合もこんなことがあったりするのだろうかと思うと、何だか気味が悪くも愉快な気分にもなってくる。
 O氏の冥福を改めて祈りながら、何だかいつもよりも愉しい気分で迎えられた朝に対して、さらにO氏への感謝をしたい気持ちである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :19 | 日記 | コメント(0 )

2010 年2 月22 日

全面禁煙に疑問

 時効だろうから本音を言うが、中学2年生くらいからタバコを吸い始めていた。
 本格的に止めたのが、54歳のときだから、約40年くらい吸い続けていた事になる。
 昨日の飲み会でも「酒は止められてもタバコだけは止められない」と言う話が出ていて、大いに笑ったものである。
 先日「公共の場所では全面禁煙にする」と政府の見解が出されたのには、今では完全にタバコと縁が切れているとは言え、矢張り少しおかしいのではないかと思った。
 まだ実現はされていないが、そう遠くない時期に「1箱1,000円」の時代が来るのだろう。
 それはまだ許されると思っていたのは、それで多くなった税金を「喫煙者のため」に使うことが期待されたからである。
 「喫煙者のため」が結果として「非喫煙者のため」になると思っていたからでもある。
 在職時、職場での喫煙が基本的に禁止になり「喫煙室」が設けられ、其処には不十分だったかもしれないが、排煙装置も設備され、喫煙者も副流煙を吸わないようになっていた。
 今回の全面禁煙が、あたかも「魔女狩り」的に実行されれば、うわさに聞く「禁酒法」と似たような結末を迎えるのではないだろうか。
 多額の税金を課した上に、片方では「禁煙法」を制するというのは、本当に「国民の健康のため」の政策といえるのだろうか。
 こんな風に考えると、疑問ばかりが浮かんでくる。
 そのうちに、「当たりや」的に「この人が私の近くでタバコを吸ったから健康被害にあった」という犯罪も生まれるのではないだろうか。
 それとも「貧乏人はタバコを吸うな」とでも言うのなら、それこそを明言すべきだろう。
 果たして禁煙者だけでなく、どれだけの賛意が得られるものか、それも疑問である。

投稿者:つねちゃん
at 10 :20 | 健康 | コメント(0 )

2010 年2 月19 日

雪の下の大根

 先日スーパーで新鮮な鰤のアラが安く売られていた。
 それなら買い置きの大根もあったはずと買い求めたのだが、冷蔵庫にはすでに消費してしまって存在せず。
 少しだけの鰤大根を作るのに、改めて買出しに行くのも億劫だったので、雪まだ深い(積雪50cm以上はあった)畑で、昨年収穫しないままに放置してあった大根を掘り出しに行った。
 雪が深くて所在自体も判らないままに「確かこの辺だったはず」と見当を付けて数箇所雪を掘って漸く長さ20cmくらいのものを数本収穫して来た。
 私の大好きな葉は残念ながら食用に供するものではなかったが、短くて不出来ながらもしっかりとした大根だったので、ひとまず安心。
 しばらくして、家内が大声で呼ぶので行って見ると、雪の下だった所為か、皮を厚めに剥いたら(我が家では大根皮もしっかりと食べるので常に厚めに剥く)パリパリと「割れる」様な状態だった。
 それはまだ良いとしても、薄く切った物を「食べてごらん」と言われて口に入れると、何とも「仄甘い」味がするのに、しばらくポカンとした後で、何とも美味しいのにびっくりした。
 まさに栽培した人だけが感じられる「取れたて」の味である。
 形が悪いから、とても人様に差し上げられるものではないので、我が家だけのものである。
 夕食に出された鰤大根の鰤は氷見に上がったもので、地産地消であり、大根は自産自消の産物である。
 これが身体に悪い訳が無く、孫達も喜んで食べてくれたのが嬉しかった。
 兎も角、少し大袈裟に言うと、箸で摘むと崩れそうなくらい柔らかく、その分しっかりと味が染み込んでいる大根にみんなで感激。
 またまたやる気が出てきた、早く春になぁーれ。

投稿者:つねちゃん
at 09 :23 | 健康 | コメント(0 )

2010 年2 月18 日

幸せに寝起きする

 「幸せですかぁー」といきなり書き付けると、少し前の新興宗教みたいになるが、これは決してそうではありませんので、「騙された」と思いながら読んでいただけるとありがたいです。
 朝、出来ればまだ、いやもう少しで良いから布団の中にいたい、でも、結局起きなければならないということになっていませんか。
 布団の中で精神的な準備をしてから、「今日も幸せに起きることができたぁー」と他人に聞こえる必要はありませんが、自分には確実に聞こえる声を出して起きてみませんか。
 そして、寝る時にも同じように「今日も一日幸せに過ごすことが出来たぁー」と、声に出してから寝てみませんか。
 なぁーに、多少お酒が入っていて大きな声になるくらいでも構わないのです。
 そうすることによって、何だか本当の「幸せ」が寄ってくるような気がするものです。
 勿論、自分だけが感じられるもので、特別なお金が入ってくるとかというようなものでは決してありません。
 でも、考え方によるのではありませんか。
 別に宗教がどうのこうのという心算はありませんし、私自身そんなに有神仏論者ではありません。
 でも、毎朝「起きられる」ということは、間違いなく、その都度新しい「その日」を生きる権利が得られたわけです。
 同様に、「寝られる」ということも、食事もそこそこ摂れ、場合によってはお酒も飲め、兎も角一日を使い切って生きてきた、訳ですから、幸せだったのでしょう。
 こちの中でぶつぶつ呟く最近のツィッターではなく、自分に聞こえるだけの声で言ってみると、また翌朝の幸せな起床が出来るわけでしょう。
 そんな繰り返しこそが「とりあえずの幸せ」でしょう。
 小さなことの繰り返しが、やがて大きなものに変わることを信じましょう。

投稿者:つねちゃん
at 09 :21 | 健康 | コメント(0 )

2010 年2 月17 日

徒然草を読み終えた

 このブログのタイトルにも借用している「徒然」だが、先日漸く全ての段と訳者の
解説文を含めて読みきった。
 私にしてみれば、大体本と言うものは「必要な部分だけを読む」と言う論理だった
ので、今までの経験からして、徳川家康(山岡荘八)と「吾輩は猫である」(夏目漱
石)くらいだろう。
 どちらも「小説」なので、それなりにストーリーを追う、と言う興味があったのだ
が、今回は殆ど「脈絡が無い」と言っても良いものだろうから、私にとっては一つの
快挙である。
 書き取りは、今日が第240段だったから、後3段を残すだけである。
 全ての書き取りを終えた後、読後感を書くと共に浸ってしばらくを過ごしてから、
今度は書き取りを改めてやろうと思っているが、実はもう一つ書き取りをやりたいも
のがあるので、現時点では二つともやるか、徒然を止めて乗り換えるか少し迷ってい
る。
 でも、今終わって思うことは、兼好法師は確かに文学や宗教を基にした知識におい
ては、並外れた知識を有していたことは認めるとしても、このような「エッセイ」と
言う意味ではこのブログと相通じるものがあるのではないかと言う感じである。
 自分のことだけではなく、他人の無様なさまや立派な行動に書き及んだり、直接的
ではないにしても、政治的な面についても及んでいる。
 笑ったり、怒ったり、悲しんだりもしている。
 そういう意味で、今更ながらだが、このブログのタイトル付けは必ずしも間違って
いなかったろうと一人ごちて居る私が居て、それを右肩の後ろから(大体天使と悪魔
の精神的第三者は右側が天使であろうから)揶揄したり微笑んだりしている私が居る
という姿だろうか。
 これに意を強くして、もう1000回も過ぎているこのブログをまだまだ続けよう
と思っている。

投稿者:つねちゃん
at 09 :15 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年2 月16 日

「後で」と言う時は殆ど来ない

 私は何度か紹介したように「メモ魔」である。
 そんな私でも、「これは後でやろう」と思うことはしょっちゅうある。
 メモ帳を持って(最近では携帯電話のメモ機能があるが、矢張り「咄嗟に書く」と言うことは無くせない)簡単で短時間に出来ることでも、その対象になり、結果として「忘れた」と言うことになり、臍を噛む思いをすることが往々にしてある。
 仲間内でもよく言う言葉に「じゃ、今度また」と軽く言うが、その時想定したであろう「今度」は決して来ないのではないだろうか。
 かつて「ウッチャン、ナンチャン」の掛け合い(漫才だとは思えない)の中で、「今度って何時だよー」と言うのがあった。
 このコンビ自体は余り好きになれなかったのだが、このコントだけはかなり鮮明に覚えていると言うことは、それほど脳裏に焼きついたことだったのだろう。
 だからこそ、ここで書けるのかもしれない。
 「後で」とか「今度」と言う言葉ほど不明なものは無い様で、殆どの場合「もうこれでお終いよ」と言っていることと同義ではないだろうか。
 そういえば、以前関西弁だったかで、「ホナ、コンド」と言われた場合の理解に関西人でしか判らないニュアンスがあり、「今忙しいから、後にして」なら脈がありそうで、殆どの場合「もう来んといて」と言うことだと聞いたことがある。
 実際にその時に実施できることは中々無いし、それをやると今やっていることが中途半端になったり「虻蜂取らず」と言うことになったりするのは否めず、結果として「後で」とか「今度また」と言うことが多いのも現実である。
 それを少しでも防止するために、今日もまた散歩には「メモ帳」を持参することにしよう。
 せめてメモくらいは「その時」に書き付けられるようにして。
 勿論そのメモの殆どは無駄になることも承知の上で。

投稿者:つねちゃん
at 08 :36 | 日記 | コメント(0 )

2010 年2 月15 日

写経をしていて、少し変更だが、大きく変更に

 私の写経は、仏教信心とは多分ほど遠く「手を動かして書くことによるボケ防止」と言うものでしかない。
 それでも、一応「日課」の一つとして、年末始の1週間を除いて続けている。
 今日は288回目だった。
 使っている用紙は、折り込みチラシの裏の白紙部分に、もう何時駄目になっても良いプリンターの最後の奉公ということで、20X20の原稿用紙を印刷してやっている。
 最初は、教本どおりに(その教本が正しいかどうかなどは疑うことなど出来ないから、勿論していない)言葉の区切りなどは一升目空けてやっていた。
 250回を越した今年になってからだったと思うが、判らないながらも「どうもここはやっぱり一升空けた方がしっくり来るのではないか」と言う勝手な判断の元に、一升空けることにした。
 一文字ずれるだけ、と思っていたのだが、その行の最後で丁度終わっていたところが何箇所かあったので、結果としては3文字分ずれてしまった。
 それはそれで良いのだが、上下の文字の相対位置で忘れた部分を思い出していたこともあり、思った以上に記憶の混乱を招いた。
 でも、これは「残念」と言うよりも逆で「やったぁー」と言う感覚になれたのは自分でもおかしいくらいに愉しかった。
 諸姉・諸兄にもその様な事が無いだろうか。
 チョット変更することで、その影響が思った以上に大きく、それが酷いことではなく、微笑ましいことに繋がる、なんて。
 これは正直「大きな儲けもの」と言う気持ちである。
 今年こんなことが幾つ現れるか、実現できるかが今からまた楽しみである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :12 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年2 月12 日

掃除機の調子がいいと

 毎週月曜日の2階部分の掃除機掛けを家内から委嘱されて、もう大分の期間が経つ。
 自分から言い出して委嘱されたものの、最初のうちは「四角い部屋を丸く掃く」を地で行って居て、家内から何度も「そんなんなら二度手間になるからしなくて良い」と怒鳴られ(?)ながらも何とか今まで続いている。
 今でも気分が優れない(特別体調が悪い訳でもなく、妙に苛苛する事が我々男性にもあるようだと思いませんか?)時には、気づかれないように手を抜くことはある。(^。^)
 昨年末から、愛用の電気掃除機がフィルターを綺麗にしても、すぐに「フィルタ交換ランプ」が点灯し、1回の掃除の間に何度もフィルター掃除をしなければならなかった。
 時には「水洗い」もしたのだが、継続時間は僅かに伸びただけであった。
 そろそろ掃除機自体が駄目かと思いながら、散々苦労して取扱説明書を探し出して熟読すると、3年間くらいで交換すべし、と書いてある。
 早速電気店で注文してもらって交換したところ、なんと「一度も停止しない」と言う素晴らしい事態になった。
 試しに、ゴミ貯蔵部分(サイクロン方式で外から見える)に書かれてある「ここが限度」と言うところまで使ってみたが、それを少し超えたところでランプが点灯した。
 これで掃除機自体はまだまだ大丈夫だと言うことに安心した。
 そうなると、掃除自体が楽しく思えてくる。
 今までは余り気にも留めなかった(と言うより見てみぬ振りをしていた)戸の敷居や鴨居、棧などについても、月に一度は綺麗にすることにした。
 挙句に、掃除機の口の部分についた糸くずなどのゴミも定期的に掃除することにもなった。
 今年から、掃除と言う「作業」が、私の新しい「趣味」に加わった。

投稿者:つねちゃん
at 09 :53 | 趣味 | コメント(0 )

2010 年2 月10 日

政治家の資産公表

 先日も行われて、報道各メディアはそれなりに報じたのだが、もう誰も本気にしていないのか、「言っただけ」と言う扱いだったように思う。
 毎年行われるが、当初はそれなりに「ヘぇー」とか「嘘でしょう」と言うように関心を持ったものだが、現在いろいろな「裏」が見え隠れつつしてくると、何の意味があるのだろうかと、疑問を持たざるを得ないし、ひいては政治家不信、政治不信に繋がり、結局「政治とは特定の人だけのもの」と言う主権在民とは大きくかけ離れてしまうのだろう。
 で、またぞろ「関心の無いやつは投票せずに寝ていれば良い」という訳の判らん言葉を吐く政治家が出て、それを総理大臣にする政党が出現する。
 どうも、「転んでもただで起きない」連中が考えそうなことで、二百年も前の「寄らしむべし、知らしむべからズ」の政治を生み出そうとしているのだろうか。
 その透明性を揚げる為だろうか、今後は普通貯金も調査対象ににすると言うが、与党の代表が土地購入に使った「箪笥預金」はどうなるのか。
 どの道「隠せるだけ隠した後」の資産公表などなんらの意味もなかろう。
 税金で生活している「議員」や「お役所の役人」は誹謗中傷の類を別にして、「疑わしきは即罰すべし」と言う論理で計って欲しいものである。
 尤も、その法を作るのが議員だったり役人だったりするのだから、望むこと自体が無理なのかもしれない。

 あぁーぁ、また「ボヤキ節」になってしまった。

投稿者:つねちゃん
at 08 :58 | 政治への注文 | コメント(0 )

2010 年2 月9 日

ツィッターをご存知ですか

 「流行に後れまじ」という気はリタイア後ほとんど無いのだが、オバマ大統領やおぼっちゃま総理も「呟いて」いるというから、それなら一つ参加してみようか、と言う軽い気分で参加した。
 まだ特別の呟きもしていないのだから、現時点ではもっぱら「野次馬」的傍観者でしかない。
 また、結構沢山の呟きがあるのだが、現時点で然程興味をそそられるものも無いので、自然と傍観者になってしまうのが現実だ。
 でも、インターネットが本格化する前に流行ったBBSなどの掲示板方式には、かなり広範囲に参加していたことからすると、余り散乱せずに、分野が広範囲なこんなことがあってもいいとおもう。
 現時点でも富士通が主導しているNIFTYも、NECがやっているBiglobeもあるのだろうが、どちらも少しばかり「肩が凝る」様な気がするのは私だけだろうか。
 かと言って、時々不埒な話題に上る「2チャンネル」と言うのも、時々見るのだが(決して書き込みはしていない)あそこまで無責任なっては仕様が無いだろうと思う。
 こちらも、今は「ワッチ」だけになっているが、昔は盛んにやっていたHAMの世界でも、許容バンドを外れたところで、「アンカバー」と称する人類がいた。
 其処での話題も勝手気ままで、無責任この上ない話題ばかりで、無線機の仕様上その周波数で送信することはできなかったが、参加する気は全く起こらなかった。
 そういう意味からすると、このツィッターというのはどうなのだろうか。
 博打でもよく言われるのだが、「見だけでは本当の意味を理解することは出来ない」のだから、しばらくは時々呟いてみて、他の人の呟きにも聞き耳を立ててみたいと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :24 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年2 月8 日

孫の思いやりに少し微笑む

 「爺馬鹿」でしかないだろうが、今年小学校に入学する上の孫と、2歳下の孫が最近似たような行動をとる。
 優しい(?)爺の私に対しての「注意」である。
 それも「嗜める」のではなく、ものすごく(言い過ぎだろうが)示唆に富んだ思いやりの言葉なのである。
 正直なところ、これを家内や娘に言われると、多分「ダマットレ!!!」とばかりにぶち切れてしまう(尤も最近はそんなに怒ることも無くなっているのだが)ことだろうが、矢張り孫と言うのは別物のようで、以外に素直に聞き入れてしまっている私に気がつき、思わず微笑んで従ってしまう。
 具体的な例を挙げることは、各々で事情が違うだろうから、書くことを差し控えるが、そんな風に思いながら、孫の言葉を落ち着いて聴いてやれば、勿論全てではないが、十分に聴くに値する言葉を言っているものである。
 これは、矢張り保育園の先生方の指導によるものだと、改めて感謝する気持ちがわいてくる。
 2度目の反抗期(1度目はすでに二人とも過ぎたようだが)がいつ来るかは判らないが、その時には立場を逆にして、落ち着いて聴いてくれるような言葉をかけてやりたいものである。
 この話題は、子育てと言うより、爺育てと言う方が当たっているだろうか。
 しかしながら、可愛い子(孫)には旅をさせよ、では無いが、娑婆に出て清濁を正しく理解しながら併せ呑むように逞しく育って欲しい、と願うのは欲張りなのだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 子育て | コメント(0 )

2010 年2 月5 日

無接触型充電器

 IHはもう大分前から使っているが、その原理については、高校が電気科だった所為もあり、渦電流の活用によるところだと知っていた。
 この渦電流については、結構興味があった分野だったので、人一倍興味を持って勉強したと思っている。
 それもすでに40年近くも前だから、IHに出会うまでは、全く忘れてしまっていたのだが、ある時誤って家内が、IHの上に金属製の皿を置いていて、もうチョットで火傷をする事態が起こり、改めて気がついたのである。
 尤も、その後はそれも「喉もと過ぎれば」と言うことで忘却の彼方だったのだが、先日TVのクイズ番組を見ていて「無接触型充電器」と言うものに出会い、改めて思い出した次第である。
 私の身の回りにあるそのタイプはと探してみると、電動歯磨きであった。
 殆ど毎週その恩恵にあずかっているのに、興味すらわかなかったのに、クイズ番組が引き金になって、それに類するものが無いかとネットで調べてみると、この辺では使われていないがSUICAもその応用だと知ることができた。
 尤も、勉強で習ったのは「渦電流の応用」と言うことではなく、「渦電流は熱として無駄になるので、なるべくそれを発生させないように」と言うのが、確か「発電」と言う分野での論理ではなかったろうか。
 それはもうどうでもいいのだが、人生120年説での還暦という折り返し点を過ぎても、まだまだ古くて新しい知識を思い出させる興味ある点に気づかされたことの嬉しさが何とも心地良かった。
 そういえば、最近は「慣れたもの」に寄り添いすぎていたのかもしれない。
 今年は一つでも多く、「慣れない」ものへの興味も広げたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :41 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年2 月4 日

デジタル放送をアナログテレビで見る

 今月から我が家もデジタルテレビの本格導入となった。
 とは言っても、全てのTV受像機がそうなった訳ではなく、ケーブルテレビ経由で地デジ対応TVが1台そうなったのである。
 また、アダプタを付けて私が書斎で使っているアナログTVもデジタル放送が見られるようになった。
 我が家に最初に入った地デジ対応TV画面で世界遺産の番組を見た家内が「素晴らしい」と絶賛していたのだが、昨年暮れ位に買った40インチのテレビで見ても、輪郭が少しも乱れず、はっきりしているのが画像の鮮明さを際立たせているようである。
 で、一方のアナログTVの方だが、残念ながら、やっぱり画質が大分落ちる気がする。
 特に今までのアナログ放送ではそんなに気にならなかった細かい文字が、デジタルにしたものをアナログに変換していることが原因なのかどうか判らないが(残念ながらその方面の学習をしていない)拡大しないと読めないくらいに乱れてしまうのである。
 昔から言われるように「新しい酒は新しい皮袋に入れろ」と言うことのようである。
 ホームセンターや家電スーパーなどで、アナログテレビの延命策としてデジタルチューナーと言うものが、5000円くらいで販売されているが、こんなことから考えると、果たして有効なものかどうか疑問である。
 確かに一時的なお金は掛かるのだが、近視眼的に考えるか、行く末を考えるかによっても違うだろうが、画質だけに限って言うならば、絶対にTV自体を買い換えるほうをお勧めする。
 もっとも、我が家にはまだ対応していないTVが、書斎の分を含めて4台もあるので、資金面からの計画も頭が痛いところではあるのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :36 | 興味あること | コメント(0 )

2010 年2 月3 日

草食系男子

 いまどきの「流行り言葉」には正直なところ殆ど関心が無いくらいである。
 でも、なぜかこの言葉には妙に引っかかるところがある。
 「スケベ親父」と言われればそれでお仕舞いなのだが、今でも「われ木石にあらず」と煩悩だらけであり、とても年末の除夜の鐘などでは払えるものではない。
 その中でも、食欲と同時に性欲は若い時ほどではないにしてもそれなりに旺盛である。
 「草食系」と言う定義にはいろいろなものがあるらしいが、「異性(勿論正規の女性)に対して性的にガツガツしない」と言うのもあるそうだ。
 就職するまでは「学」と言う意味での幾つもの「狭き門」に汲々としながらも、スケベ根性だけは旺盛で「機会があれば」と常に窺っていたのは、決して私だけではなかったように思う。
 ただ、それをどう表に出さずに過ごすかが上手いか下手だっただけではなかろうか。
 でも、男だけになれば、猥談(近所の親父さんなどが良く「大人の話」と言いながらも話してくれたものだ)やエロ本(本屋に平積みにして特別の境界等が無く、本屋のおばさんなどに睨み付けられたりはしたものの、邪険に叱られることは無かった)の立ち読み、滅多に無かったが、温泉旅行などで買って来たのだろうエロ写真(モノクロの絡み写真で、当然暈しなどは無く、そのものズバリが写った物)なども見て、盛んに性欲を旺盛にしたものである。
 しかしながら、勿論その捌け口等が簡単にある訳ではなく、五人組に頼らざるを得なかったのではあるが。
 そんなことを考えると、草食系というのはそんな努力(?)もする気が無い「不甲斐無し」になってしまっているのではないだろうか。
 イヤイヤ、そんな子供を社会全体として育てているのではないだろうか。
 極端に「赤線復活」などとは思わないが、普通に性欲もあり、若い時はギラギラした思いを持ちながら、「事あれば」という事態に備えられるように育って欲しいものである。
 尤も、肉食系女子、がそうだとすれば、男性としては少し怖い気もするのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :07 | 子育て | コメント(0 )

2010 年2 月2 日

低価格温泉ホテル

 昨年末に知人と今話題の表記温泉ホテルで歓談の機会を設けた。
 「持ち込み可」ということだったので、宴席での「飲み放題」の料金を払うより、お酒は各部屋で自由に飲むほうが安上がりだと言う結論になった。
 途中の海産物を中心にした大型スーパーで、新鮮な刺身を沢山と、差し入れの日本酒だけでは足らずと、ビールはいうに及ばず焼酎やウィスキーなども買い込んで繰り込んだ。
 到着して、好きな浴衣を選び、好き好きに風呂に入ってから、宴会前に酒を開けることになった。
 ここまで書いていて、何だか自分が第三者的になっている文章に気がついたが、トンでもない。
 館内巡回(私の一つの癖で、新しい施設に入ると兎も角出来るだけ館内を見て回ることにしている)をしていたおかげで、お酒のスタートはみんなより少し遅れたものの、其処はピッチでカバーして、宴会前には皆に負けないくらい、程好い酔い心地になっていた。
 宴会はグループごとにテーブルを設置してもらって、後はバイキング方式である。
 メタボが心配になっているので、肉系の料理には余り手を出さず、その反動としてか魚類と野菜中心に、何度もお代わりに行き、鱈腹満足できるほど飲み食いすることが出来た。
 部屋に帰ってからも、話しに花が咲き、深夜まで話して飲んで、乾き物を食って程好く酔っ払って寝た。
 朝食もバイキング方式で、やはりメタボが気になり、少し軽めに済ませた。
 兎も角愉快に過ごせた。
 低料金になっているのは、やはり人件費だろう。
 従来のように部屋つきの仲居さんもいなければ、案内などしてくださる方もいない。
 それが「自由気ままに過ごしてください」と言う歓待なのだろう。
 今までは、言葉では「ご自由に」と言うが、中居さんなどから監視されているようで、それが気になったものだ。
 諸姉・諸兄は勿論経験なさっていらっしゃるだろうし、嫌々中居さんのサービスは不可欠だという意見をお持ちの方もいらっしゃるだろうが、私にはこれが非常に気に入った。
 今月中にカミさんと一度行ってみようと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 08 :28 | グルメ | コメント(0 )

2010 年2 月1 日

仕事と私生活

 リタイアして「サンデー毎日」の生活にも飽きて、家内のお手伝いからどうにか家事における「自分の仕事」も確保できている。
 そんな今頃になって、感じたのは「仕事は効率性が最優先だが、私生活は情緒的な活動目標が第一」だと言うことだろう。
 こんなことを言うと、プロの奥様からお叱りを受けることは覚悟の上だが、企業の第一線の人間として約30年くらい(それ以外は殆ど「受身仕事」だったと思っている)やってきたのは「生産性重視」だった。
 その使命を果たそうと思いながらも、独自なアイデアで人間同士の触れ合いを構築してきた心算である。
 しかしながら、私生活では、人間同士の触れ合いが「最優先」で効率性や生産性などは二の次、三の次である。
 これからハッピーリタイアメントを迎える、人はぜひともこの「大きな差」を認識して家族や近隣との付き合いをなされると良いのではなかろうか。
 「こうしたほうがもっと良い」と言う言葉は、どちらでも通用するのだが、「良い」の意味合いがまったく違っていると言うことに気がつくべきである。
 そうすることによって、より早く家族(特に奥様)や近所付き合いが上手く行く。
 

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 日記 | コメント(0 )

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