部屋の模様替え
以前からお願いしていた大工さんの都合がつき、部屋の模様替えとして「床の張り替え」工事が始まった。
築25年も過ぎてくると、やはりあちらこちら傷んでくるのは当然なのだが、建築当時から、「駄目になって、余裕があったら」ということでやってきたつもりだが、後者の条件が満たされないままに、どうしても修理が必要となったので、ともかく全ての所というわけにもいかず、とりあえず一番傷みの激しいところからやってもらうことにした。
使う材質は、建築当時から大分進化しており、説明によると20年以上は持つといわれる。
もっとも、こちらがそれまで使いきれるかどうかが課題ではあるのだが。
部屋にあるものを一切合切別の所へ移動させるのだが、やっているうちに「ここも汚い」というのが連続で出てくるので、たんに移動だけでは済まなくなってくる。
でも、これもまた楽しみである。
カーテンを外した。
私と息子の2代で染み付いた煙草の脂が手に付く。
もう煙草をやめて7年は経過するが、さすがに匂いだけは残っていないので、手伝ってくれた孫にもそれとは気づかれていないようで「ネバネバする」と言われるだけだった。
工期は2日間だという。
新たになったところで、机の配置なども変えてみたいと、今から楽しみである。
申し訳ありませんが、そんなわけで明日のブログはお休みさせていただきます。
投稿者:つねちゃん
at 06 :54
| 日記
| コメント(0 )
そんなに有名じゃない
時々新聞投稿などを見た人から、「私も書きたいことはあるのだが、知っている人から見られたら恥ずかしいから」と言う言葉を聞くことがある。
確かに私も最初はそうだったが、そんなにそんなに知っている人が矢鱈滅多らいるものではないし、知られたからと言って特別恥ずかしいとは思っていないし、思う必要もないのではないかと思いながら、駄文を編集者の添削を期待しながら行っている。
だって、自分自身がそんなに有名でもないし、勿論常に品行方正で正しいことばかり思ったりやっているわけではないのだから。
そんな事を言う人は、多分「世間に数多くの人が自分を知っているのではないだろうか。中には「あいつがそんな事を言うのはチヤンチャラ可笑しい」などと言う奴もいるだろう。ましてや、反論できないほどの材料を用意して反撃してくるのではないだろうか」などと「あるはずも無い」ことを心配しているのではないだろうか。
確かに時折私も「えっ、あいつがこんなことを書いている」と思う場面に出くわすことがある。
しかしながら、翌日になると殆ど忘れてしまっており、今まで一度だけだが、そんな事を書いている人間と酒を飲む機会があって、「そう言えば」と言うことで話題にしたら、私の投稿も読んで呉れていたりして、侃々諤々の議論ではなく、談論風発と言う和やかな話が盛り上がり、それまでそんなに親しくなかったのについつい三次会まで付き合うことになった。
広く有名であることは、ある意味で必要だけれど、それにしても嵩が知れている。
ある野球選手が、ある表彰を受けるのを断った理由に「そんなことしたら、立ちションベンもできなくなる」と言うのがあった。
なぁーに、そんな有名な人でも、と言う気分でありたい。
投稿者:つねちゃん
at 11 :00
| 興味あること
| コメント(0 )
豆撒きの豆
我が家でも一時期途絶えていた習慣だが、孫が判るようになってから節分の豆撒きをするようになった。
今年は、孫が保育園で作ってきた鬼の面をかぶりながら「福は内、鬼は外」と元気だが、果たして自分の立場を弁えての行動なのかどうか。
昔のように裸の豆を撒くのは流石にその後「拾って自分の歳だけ食べる」ことから衛生面から考えて止めて、十数粒だろうかの袋入りのものにしている。
でも、孫としては、歳以上に食べたい気持ちのようだが、こちらとしては60粒は流石に食べられない。
でも、幸いにして広い家なので、各部屋に撒いて拾ってを繰り返すのだが、袋の数だけで30個以上は無いと撒いたことにならない。
そんなこんなで、当然の結果として「食べきれない豆」が毎年出てきて、今までは寝酒のお摘みとしてずいぶん長い間かかって消費したものである。
ところが、今年は、家内と娘の知恵からだろうか、ある日の朝の朝食の用意(大体早く起きる私の当番になっている)の時に、予告無く炊き込みご飯になっていた。
具は大豆とシラスで、薄口醤油で味付けしてあった。
その時には「ヘぇー、今日はそうなんだ」と思っただけだったのだが、後でよくよく見ると使われていた大豆が豆撒きの豆だったのである。
そのままだと「ポリポリ」か「ボリボリ」と言う食感で、とても主食に混ざるものではなかったのだが、こうして炊き込んでみると柔らかくなって、程よい味が染み込んでとっても美味しくいただけた。
民放各社(この地方だけかもしれないが)で、「食べ切り(ン)」運動と言うのをやっている。
これに沿った活動の一環として、僅かながらも貢献していることも考え合わせると愉しみが増した。
投稿者:つねちゃん
at 06 :40
| 健康
| コメント(0 )
真っ暗闇の中無音状態で寝る
少し前に「アイマスク」の話をしたが、それはそれなりに効果があったのだろうと思っている。
それに少し慣れたせいで「何とかも煽てりゃ」の乗りで、更にオーディオなども切って寝てみた。
タイトルは、少し言い過ぎで、それだけで「無音状態」になることは無いのだが、今までに無い刺激(無いと言うことが反対に刺激になっている)に少しばかり驚くことになる。
余談になるが、先日の漢字クイズ番組で「闇と言う文字は、門構えの中に音と言う字がある意味は」と言う問題が出た。
私なりに「音を門で締め出すからだろう」と考えたが、正解は「闇の中では音に敏感になるから」と言うものだった。
それと相通ずるものがあるようで、僅かな音が気にかかってくる。
そうなると、アイマスクで視界を遮ったほどの安心感は得られなくなってくる。
またまた余談になるが、在職中に会社の研究所で「無響室」と言うところを経験した。
多分今でも国内でトップクラスの研究施設だろうと思うが、並みの頭では中々考え付かないような研究をしていたので、そんな部屋があったのだろうと思う。
壁面は当然のこと、床や天井の全てが「針山」の状態の部屋である。
中々信じられないだろうが、一切の反響が無く、自分がしゃべっている言葉が全て壁に吸い取られてしまうのである。
話を元に戻して、そんなプチ無音状態の部屋で寝てみたのだが、少し慣れれば、これも時々は良いのではないか、と思った。
朝4時半頃だろうか、朝刊配達のバイクの音が、そんな静寂を破る最初の音だった。
そんな音が聞こえる、と言うことが「今日も元気で生きている」と言う実感に繋がり、ささやかな楽しみを感ずることが出来る。
これ、一日の最初の健康の元である。
投稿者:つねちゃん
at 09 :08
| 健康
| コメント(0 )
政党の素人評論
ここで「政治」と言うと、今まではどうしても「仄々」から遠く離れてしまう論調になったのだが、今日はそんな風でなく、余り好ましいとは思わないと知りつつも、素人としての最近の政党のイメージを気軽に述べてみたいと思う。
与党の民主党は、どこかの笑い話に次のようにあつた。
「民主党には自由がない」(今回の生方氏の話が出る前です)
答えて曰く、「当たり前だろう、自由民主党から自由を取ったのだから」
さぁ、この「自由を取った」をどのように解釈するかで議論も分かれると思いますが。
同じく、与党に小判鮫の如く張り付いている、国民新党。
「郵政の民営化反対以外は、単なる野次馬」としか見えません。
同じく小判鮫の女性党首。
「沖縄からの撤退」だけで代替案など考える知恵がない馬鹿者ばかり。
対して、最大野党の自民党。
「金と政治」を揚げ連ねて、さも「鬼の首を取った」と言うような発言があるが、自分らがやってきたことを振り返ってみる事も出来ない、「物忘れ集団」。
それに加えて、戦後や沖縄返還などの「密約隠し」については、一切触れずに「隠し事が出来る世界よ再び」との妄想ばかりの老いぼれのゾンビから抜けきれない集団。
何を言っても、全く迫力に欠ける。
忘れてならないのは「みんなの党」だったっけか。
言っていることは理解できるが、それを言えるだけの勢力と支持する基盤の確立が先決ではないだろうか。
最後になるが、共産党。
理想論だけの「何でも反対党」だったが、最近は少しずつ現実に目を向け「清濁併せ呑む」気持ちも出てきたようだが、理想論は何時までも持ち続けてもらいたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :34
| 政治への注文
| コメント(0 )
具沢山
先日書いた「汁だく」とは違うだろうが、先日ちょっとした愉しくて嬉しい経験をした。
頼んだのは間違いなく「味噌汁」だったし、伝票にもそのように書かれている。
私も家で「味噌汁当番」になって相当経つが、汁と具の割合には、やはり慣れているとは言え、それなりに気をつけて「おかず」にならないようにと心掛けている。
ところが、出てきた「味噌汁無は私の感覚からすれば、間違いなく「おかず」であり、「汁は何処へ言った(花は何処へ行った、と言うフレーズになぞらえて歌ってしまうほど)」状態であった。
中身は美味しかったので、文句など言うつもりはないが「これで元が取れているのだろうか」と余計な心配をするほどに感謝した次第である。
それでついつい、店の女性に尋ねると「具が多かったですか、汁が少なかったですか」と逆に質問された。
そのお店を具体的に紹介するのは、味の好みがあるので、紹介しないが、お店の人の話によると、周りで取れる野菜や椎茸などで、その日によって違うのだそうである。
幸いにして、私が行ったときには「取れ過ぎ」の状態であり、「腐らせるのは勿体無い」と言うことで、振舞われたと言う次第だった。
諸姉・諸兄に置かれては、如何だろうか。
正直を言うと、出されたものはありがたく美味しくいただいた後で、改めて「具少な目」の味噌汁を頼んだ。
具沢山の味噌汁と煮物のおかずは違うだろう、と言うことであるが、我が家でも収穫量の違いによって再現しつつある。
勿論、然程気づかれない程度にではあるが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :37
| グルメ
| コメント(0 )
暦は愉しい
写経に大いに影響を受けて、「書き写し」が愉しくなっている。
その一環で、「暦の書き写し」を先月途中から(思い立ったが吉日と言うことで、特別何かの切っ掛けがあった訳ではない)「暦」の書き写しも始めた。
諸姉・諸兄はご存知だろうが、凡人の私としては、とにかく一つ一つ出会う言葉が面白い。
十二支については、先日も孫が保育園で習って来たようで、空で言えることを自慢していたが、私も何時からか知らないうちに覚えていたものである。
ところが、対で言われる「十干」については、甲子園でおなじみの「甲:きのえ」や八百屋お七で知った「丙:ひのえ」などはまだしも、今年の「庚:かのえ」を初めとして殆ど知らなかった。
良く「干支」と言うが、「あなたの干支は何ですか?」と聞かれて、咄嗟に答えるのは「私は亥年生まれです」と答えるのだが、これだと半分しか答えていないのである。
正確には「丁亥:ひのとい」です、と答えるのが正解であろう。
まだあるよ。
結婚などは大安を選んで、葬式は友引は避けて、というが、その他に使うのは仏滅くらいだろうか。
でも、正規には「六輝」ということで、先勝、先負、赤口がある。
また、「十二直」というものもあり、各々その日の吉凶や時候を表しているようである。
まだまだ、その意味を覚えられるまではとても行っていないが、何度か同じ文言を写しているうちにポツリポツリと思い出してくるのが愉しい。
もちろん、判らない言葉も出てくるので、それを辞書で引き、それも書き写す。
特別何か特になることは全くない。
でも、一つ一つ「覚えられそう」と思いながら指先を動かしていることが気持ち良いのだから、安上がりな愉しみと健康法であると満足している。
投稿者:つねちゃん
at 15 :12
| 興味あること
| コメント(0 )
政治討論会で政治家を評価しよう
テレビで放映される「政治討論会」は、今までは「絶対に見るものか」と思っていたし、これからも積極的に見ることはあまり無かろう。
でも、先日撮り溜めたビデオを整理しようとしていた時に、背景でやっていた番組がそうだったので「仕方なく」見ることになった。
与野党逆転になったのだから、以前の私の認識を変えてくれるほどの議論になっているかというのが、「見る観点」だった。
結果から言うと「なぁーんも変わっていない」ということだった。
でも、仕方なくても見ている内に、この人たちから政治を教わろうという気持ちではなく、政党は別にして、「この人」がどれだけ正しい議論をしているかということを「反面教師」として見ることが面白いのではないかと思った。
「自分の意見をどれだけ時間内に纏めて持論を述べられるか」という点ではどうだろうか、「他人の話をきちんと冷静に聞いているか」ではどうだろうか。
自分の意見をだらだらと纏まりをつけず述べていると、司会者から「時間です」と制止される。
そんな人に限って、他人の発言の時に大声で自分の意見を通そうとする。
それでは発言の順を待っていた人は堪らないので、結局「大声の競争」と言うことになってしまい、「議論の場」ではなく、「大声競争の場」と化してしまい、聞いている当方としては全く堪らなくなってしまう。
そこで、評価が出てくる。
これを選挙権を持った大人がするのではなく、小学生くらいにさせて公開してはどうだろうか。
大人なら恫喝も効くかもしれないし、場合によってはそれ以上のこともできるかもしれないが、子供相手ならそんなことも出来ないだろうから。
投稿者:つねちゃん
at 11 :51
| 政治への注文
| コメント(0 )
目が覚めたら起きる前を楽しもう
少し前に「起きる事に感謝しよう」と書いた。
それと似た様な事なのだが、そろそろ「春眠暁を覚えず」という季節になり、何時までも布団の中から出にくくなるのが凡人の常である。
仕事人間だった頃には、兎も角朝から自分を鼓舞することに注意を払いながら、起きる時から、洗顔、歯磨き、食事、着替え(服だけではなく、靴や靴下、カフス、オーデコロンもどれをつけるべきか)など気を使ったものだった。
例によって余談になるが、カフスは常用していた。
研修所時代に習い覚えた社交ダンスの影響が大きいのだが、ホワイトカラー族として本社勤務になった頃から、殆どのワイシャツはダブルカフスのものにしたし、シングルのものでもカフスボタンをつけることが前提になっているもの(ボタンが付いていないもの)を着用した。
カフスボタンも高価なものは無いが、今でも多分30種類を超える物を持っている。
長い間やっていると一つの「トレードマーク」になり、私の場合「あの、白髪のカフスをしている奴」と二つ名で呼ばれたりもしたものである。
話を本題に戻そう。
現在は「目が覚めたらすぐに起きる」ということは基本的にやらないようにして、まどろみながら「今日はこんなことをしよう、あぁ、あれも忘れていたなぁ、これが出来ると愉しいだろうなぁ、そうそうあれも中途半端になっていたなぁ」などなど、殆ど無責任に(やらなければならない、と思うと脅迫感に襲われるので)思い巡らしてみることのお勧めである。
これって、しばらくやって見れば、結構愉しくなること請け合いである。
愉しく続ける一つの「コツ」は、前述のように「無責任」であることに加えて、「深追いしない」ことであろう。
そうすれば、私の場合だが、約5分間ほどで愉しく起きることが出来ている。
騙された、と思って明日からでも始めてみてはいかがでしょうか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :39
| 健康
| コメント(0 )
自殺は殺人だ
かなり過激なタイトルで、仄々を旨とするこのブログに適さないのかもしれない。
さりながら、自殺、と言うことを茶化して書くつもりは毛頭ない。
残念ながら毎年3万人を超す自殺者がいると言う統計がある。
タイトルどおりに決め付けることは、無茶だと言うことは判るつもりだが、かつて私自身も、主に仕事のことで悩み「もうこんな俺なんか居なくても良いじゃないか」と言う気持ちになったことが少なくとも2度はある。
今から考えれば「生きてて良かったなぁ」と思えるのだから、本当に自殺しようと言う瀬戸際まで行った事が無かったのかもしれない。
それでも、現象面だけからいえば、数日の出社拒否(誰も電話も掛けてこなかった)、自分で思っていただけかもしれないが、結構重要な会議を無断欠席して、2日間「行方不明」になっていたこと(実は信越の某温泉で「ボーッ」としていた)などである。
単身赴任、と言う状況だったことが幸いしたのか、会社側でも悩んでいることが薄々感じてくれていたのか、再出社して行った時にも怪訝な目で見られたり、直接それを詰る様な事が無かったのには、当時は「やっぱり居なくても良かったのではないか」と相当ショックだったことを思い出す。
しかしながら、2度目の行動の後で、直接の上司ではないが、飲み会などで結構意気投合する上役から「飲みに行かないか」と誘われて、付いて行った時に言われたのが、タイトルの言葉である。
あれから約20年ほど経ち、すっかり忘れていた言葉だったのだが、最近このブログでも時々書かせていただく「少しだけ宗教」のお陰で思い出したのである。
殺人というのは、世間一般には「他人を殺す」ことだと言われているが、「自分を殺す」ことだって殺人に変わりは無い。
何人も「人間の生命」を終わりにする権利など無いのだ、と上役の言葉だった。
それ以来、深く悩んだ時ほど自分で自分の気分をハイにするように勤めたものだ。
ドラッグなどはやったことはないが、ハイの状態では自殺は考えないように思う。
投稿者:つねちゃん
at 09 :22
| 健康
| コメント(0 )
結局嘘吐きだった自民党政権
核の持込や沖縄返還における「密約」はやっぱりあったのだなぁ、と今更ながら思っている。
歴代の自民党が選出した、総理や外務大臣は、知っていてもおくびにも出すことは許されず、野党や報道などのメディアに対しても隠し通さなければならなかった苦労は、大変だったろうなぁ。
また、具体的なことは忘れてしまったが、漏れそうになった言葉を隠すために、あらぬ「嘘」で誤魔化し、結果として「嘘八百」を繰り返しそうになった人も居たように思う。
民主党がこれらを白日の下にさらけ出したのを、「全て良し」とは思わないけれど、矢張り進歩だったろう。
でも、これで自民党に政権が戻るのは殆ど無理になったのではないだろうか。
最近の自民党の「野党ぶり」は「ものを言うほど評価が低くなる」様な気がするのは私だけだろうか。
だからだろう、自民党を「細切れ」にする離党、脱党、新政党などの話題が盛り上がっている。
でも、今までの経緯を省みると、細切れにしたものは、ほとぼりが醒めたら徐々に結合していって、結局名前はどこかへ置いていったきりで、中身が全く変わらない「新政党」が誕生するのだろう。
そういう意味では、現在の民主党だって、結局その一部でしかなかろう。
ここで考えなければならないのは、我々国民が「嘘ついたら針千本飲ぉーます」と言う具体的な行動に出ることしかないと思っている。
でも、所詮は「ごまめの歯軋り」でしかないことは理解しながらも。
投稿者:つねちゃん
at 09 :47
| 政治への注文
| コメント(0 )
汁ダク
牛丼の注文の仕方に「ツユダク」と言うのがあり、家内はもっぱらそれである。
それを注文したからと言って、値段が上がる訳ではないので、正直何時頃から家内が、またどんな情報源で注文し始めたか全く記憶に残っていない。
この辺には、名門(だと思っている)吉野家以外に松屋そのほかの和風ファストフード店が少ないので、どうしてもそちらになってしまうが、「ツユダク」で通っているようで、家内のほかにもそんな注文をする女性を見かけることが間々ある。
そのほかの店では果たして通用するのだろうか。
牛丼屋の無料サービスで私が良く利用するのは、「生姜盛り放題」と「唐辛子掛け放題」である。
どちらも公言してやれば「お客さん、チョット」と声が掛かるかもしれないが、現在までお店の人から声を掛けられたことは無い。
もっとも、家内が小声で「チョットォ」と嗜めることがあるので、最近は独りで入る時意外は余りやらないことにしている。
でも、辛い物好きな私にとって、あの七味唐辛子は程よい味(多分混合加減が程よいのだろうが)ではあるのだが、辛さと言う点だけが不満足なので、どうしても「量」で勝負となってしまう。
また、生姜は牛丼の脂気で一杯になる口の中をさっぱりさせてくれた上で、唐辛子とは違った辛さがあり、こちらも「止められない、止まらない」である。
でも、タイトルにも書いたように「汁だく」では駄目だったのだろうか。
そんな注文の仕方がネーミングとしてのパテントだとは思わないが、どこかの店で今度試してみたいと、内心愉快に想像してみると、思わず微笑が浮かんでくるのは、私だけ、この例だけではないのではないか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :21
| グルメ
| コメント(0 )
縄跳び
孫が二人共に保育園で縄跳びを習っているようで、天気の良い休みの日には盛んに「見て見て」と言ってくる。
連続で飛べる回数はまだ10数回でしかないのだが、真剣にやっている姿を見るとその成長振りが愉しい。
このタイトルを思いついた数日前に、いよいよ春めいて、玄関先の落ち葉など「冬の残骸」を掃除して、ついでに玄関も掃除すると、まるで「お前もやってみろ」とばかりに目の前に縄跳び用の繩がぶら下がっていた。
一見すると跳んだ回数がカウントできて、消費エネルギーも表示できる代物だった。
ところが、息子か娘がずいぶん前に使ったものか、電池は無いし、どう見ても動く代物とは思えなかったのだ。
でも、天気は良いし、時間もたっぷりあるので、結局ロープからの指令に従った。
20数回くらいは出来るのだろう、と嵩を括っていたのだが、トンでもない思い上がりだとすぐに思い知らされる羽目になった。
孫のことを笑っては居れない位10数回が平均で、最高が19回と言う惨憺たる結果だったのである。
矢張り運動不足だなぁ、と感じながら、午後からいつものように散歩と言う名のウォーキングに出掛けた。
歩行距離はいつもと同じ位なのに、なぜか帰宅するとぐったりとなってしまった。
多分縄跳びの運動量を考慮していなかったのだろう。
幸いにして、その日は風呂の日だった(我が家は夏以外の間は1日置きにすることになっている)ので、「洗う」ことよりも「浸かる」ことを重点にゆっくりと入り、孫に「大丈夫?」と聞かれるくらいの長湯を愉しんだ。
うん、時々は縄跳びもしなければ、と言うと家内が「しっかり準備運動をしてからにしてね」という。
縄跳びで怪我などしたら跳んだお笑いものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :37
| 健康
| コメント(0 )
チョコレート
タイトルを見てたいていの人は「バレンタインズデー」を思われたことであろう。
はい、間違いなく、このタイトルを思いついたのはそれが契機でした。
以前にも書いたような気がするが、在職中は数少ない女性社員の団体から「義理チョコ」ならぬ「仕方ないチョコ」をあてがわれて、苦笑いしながら(一時期それこそが「虚礼」だと廃止論をぶっていた)一応そのグループの長として受け取っていたものである。
最近では、家内が「ウィスキーボンボン」状のチョコレートを呉れるのが通例になっているのだが、家内もそれなりに気を使っているのか、それとも自分の趣味の一つで買い求めているのか知らないが、毎年違ったものを貰うので素直に嬉しい。
今年は、娘に教えてもらったのか、元々は外国製品のものをインターネットで買い求めたようである。
「お酒が入っているからお昼には食べては駄目」と釘を刺されながら、寝る前のお酒を飲む前に、量としてはほんの僅かなのだが、珍しいお酒が入ったものを美味しく愉しく毎回一粒ずつ頂いている。
もっとも、その度に家内も「私も一つ貰って良い」と言いながら(許可する前に)つまむのだから、全体量の半分くらいが私の取り分であるが、それでもそれなりに愉しい気分である。
高校生の時には小遣いが僅かで、とてもチョコレートを買う分に回らなかったので、その反動としてか就職しての最初の給与でかなりたくさん買って食べた思いがある。
まだ、青春真っ只中だったので、案の定ニキビがプツプツと湧き出たのは、多分チョコレートの所為ばかりではなかったろうが、今で言う「大人買い」をしたことを思い出す。
時々行くパチンコの景品もタバコを止めた今、時々「お菓子」を注文すると端数によってチョコを貰うことがある。
糖尿が気になって自分で買うことは殆どないが、そんな時少しだけ愉しい気分になれる自分が可愛らしい。(還暦を過ぎた人間には余りにも似合わないか) (^。^)
投稿者:つねちゃん
at 11 :36
| 健康
| コメント(0 )
些細なことにも感謝
般若心経を書き写したり、少しばかり「お経」と言うものに近づいたりしている所為かも知れないが、どうも精神論に偏った内容になることが、少しばかり自分でも不思議である。
在職中よく言った言葉に「立派な正論はお経の文句だ。だが、それでお客様から仕事をもらえたり、出来たものの品質向上や生産性の向上に繋がるものでは決して無い。より具体的な課題を把握し、お客様に提案し、実現策を模索して『定量的』に論理を作り上げろ」と言うものがあった。
例によって私自身の耳学問だったろうが、それを自論にして自らにも課してきた心算である。
そんなことなど「忘却の彼方」であり、最近はもっぱら精神論になっている。
どんなに些細なことにでも感謝する、と言うのが今日の論理である。
そろそろ春めいてきて、道端に小さな花が咲いているのを見かけることは無いだろうか。
例えその花の名前などは知らなくても「可愛く咲いているねぇ」と思うことができることに感謝しようではありませんか。
かつて「花とおじさん」と言う歌を思い出して、呟きながら思っていると、仄々とした幸せを感じられるでしょう。
散歩の途中で全く初対面の人に声を掛けてみませんか。
「暖かいですねぇ」「寒いですねぇ」どちらでも良いのです。
無視されることもあるでしょう、怪訝な顔をされることもあるかもしれません。
でも「声を掛けることが出来た」と言うことを幸せと感じてはどうでしょうか。
政宗の遺訓に「美味からずとも褒めて食うべし」と言う節がありますが、大好きなフレーズの一つです。
例によって全く俗なことだが、そんな幸せを感じるのに全くお金が掛からないことです。
そういえば、今日は「3月9日」で、サンキューの日だそうな。
たまたまこの話題を書く事、それ自体が嬉しく、まったく「サンキュー」であることにも大いに感謝である。
投稿者:つねちゃん
at 09 :26
| 健康
| コメント(0 )
ブルーレイディスク
パソコンばかりでなく、電子機器も「趣味」として扱えるようになっている自分に何だか愉しくなっている此の頃である。
今の所パソコンでブルーレイディスクの読み書きは出来ないので、理屈的には理解していたのだが、実際に使ったことが無かったので「机上の空論」だった。
それが、最近導入したデジタル録画機器で使えると言うことで「兎も角使ってみよう」と言ういつもの癖で電気店で物色することにした。
BD−RとBD−REと言うものがあり、容量も25GBと50GBのものがある。
25GBと50GBの差はDL(Double Layer)であることは容易に理解できたが、RとREについては繰り返し使用が可能と不可能とある。
何故DVDではRとRW/RAMなどの標記なのにBDでは変えているのだろうか。
で、例によってネットで調べてみた。
難しい理屈の解説サイトが多いのだが、それは独学で理解しているのだが、ネーミングについての解説は中々見つからなかった。
どうも矢張り技術者のエゴからのネーミングらしい。
REはREwritableの略のようである。
結局何度でも書き消し出来るのがREで、一度こっきりの物がDVDと同じネーミングのRらしい。
でも、これで一応「BD経験者」の仲間入りが出来た。
30数年デジタルの世界で生きてきたので、着いて行けるまでは「体験者」と言う意味で新しいものに参加してゆきたいと思っている。
それが結構お金が掛かるものなのだろうが、それも大蔵大臣の目が釣りあがらず、小遣いの中で賄える範囲で、と言う条件付きなのだが。
一つのボケ防止になるだろう、と思いながら。
投稿者:つねちゃん
at 10 :40
| 趣味
| コメント(0 )
雪の下でがんばった野菜たち
少し陽当たりが悪い我が家の畑の雪もすっかり消えて、昨年そのままにしてあった大根や白菜が無残な姿を曝け出していた。
今までなら、もう少し待って勿体無いと思いながらも「漉き込んで」しまっていたのだが、よく見るとそれなりに食べられそうな部分があることに気がついた。
加賀野菜の源助大根を昨年はじめて栽培したのだが、そんなに長く伸びるものではないのだから、土から掘り出してみると、20cmは十分にあり、太さだって十分とはいえないけれどそれなりに食べられる太さである。
中にはひび割れしているものがあるが、それとてその部分だけを取り除けば十分食用になるものである。
また、そのままでも新鮮さがなせる業か、とても「甘い」のである。
白菜は、よその畑には「ピン」と屹立しているものが殆どで、我が家のものは雪で倒されていた所為で、「ピン」どころか「こんもり」すらしていなかったのだが、表面の数枚を取り除けば、中には素晴らしい(自画自賛は承知の上である)紛れもない白菜が存在していた。
形は悪いし、決して他人様に差し上げられる代物ではないが、自産自消であれば、誰にも迷惑が掛からないばかりか、真っ先に経済的であり、健康的である。
こちらが「ズボラ」だった所為で、十分に成長しなかった(させなかった)のにも拘らず、雪の下で精一杯頑張った野菜たちに対して、食べてあげる、食べさせてもらうと言う気持ちで報いたいと一杯である。
また、まだ食べられるまでにはなっていないが、イチゴや玉葱、大蒜の芽が確実に生育しているし、梅や栗の木等にもしっかりとした芽が育っている。
さぁ、本格的な春に向かって、出来るだけ手入れしてあげるから、元気で美味しい実をつけてくれよ、と勝手な思いを微笑みながらしている。
投稿者:つねちゃん
at 10 :17
| 健康
| コメント(0 )
避難場所
タイトルだけだとチリ地震のことかと思われるかもしれないが、全く関係ない孫との話題である。
保育園も年長さんになる頃から上の孫は余り部屋へ寄り付かなくなっていたので、そろそろ女の子を自覚し始めたのだろうか、そうなると一緒にお風呂に入ることも無くなるんだろうなぁ、と楽しみと寂しさがない交ぜになっていたこの頃だった。
ところが、最近特別用事がないのに、時々「ジィチャン、△△して」といって作業の邪魔に来るようになった。
最初のうちは、上記の状況だったので「愛いやつ」とばかりにホイホイと相変わらずの爺馬鹿をやっていたのだが、観察しているとどうも、やって欲しいことが本来の目的ではないのに気がついた。
これを下の孫も上手い具合にお姉ちゃんとかち合わないタイミングで真似てくる。
来るタイミングが、丁度夕食の時間近くだったので「もうお食事の用意が出来たの?」と聞くとそうではないと言う。
それでも、そろそろ私も手伝いしないといけないとの思いで台所へ行って始めて事情がわかった。
本来手伝って欲しいと母親や家内に言われたのだが、どうもその作業はお気に召さないようで、何かと理由をつけての「避難場所」だったのである。
女性特有のヒステリックな高い声に辟易しての避難だったのだろう、こちらは叱ったところでそんなに高い声が出る訳ではないので、もしかしたら耳に優しく響くことが原因だったのだろうか。
それが判ってからは「今度はなぁーに」と聞いてやることにしている。
こちらの聞き方が優しい所為か、二人とも正直に話してくれる。
話し終わると、何事もなかったかのように言われた事をやっているようだから、満更私の存在も無駄ではなさそうで愉しい。
投稿者:つねちゃん
at 11 :25
| 子育て
| コメント(0 )
記者会見での愚問に失笑
今回のチリでの大地震には、関係者の方々にお見舞い申し上げます。
国内では、小学生の時にもあったチリ地震による津波報道を今回は興味深く見聞きした。
だが、どうしてああも「馬鹿な質問」をするのだろうかと考えさせられることが多かったのは、決して私だけではないのではないか。
「何時来るのか」「どれだけの大きさなのか」「具体的な対応はどうするのか」などは、発表時点で言われているにもかかわらず「何時」については何時何分までを求め、大きさについても「何処に何センチ」と言う具合の質問である。
しっかり相手の言うことを聞き、自分の知識(地震と津波に関する)も総合して的確な質問をするのか「記者」なのではないだろうか。
ここにも「インスタント社員」がもたらす滑稽図が示されているようで、最初のうちは腹が立ったが、そのうちに「ひょっとして、掛け合い漫才風な質問で笑いを取ろうとしているのではないか」と可笑しくなってしまった。
そんな風に最近の記者の対応を見聞きしていると、まんざらそれが冗談ではないような気がする場面が多い。
在職中に公の場での質問にはかなり気を払ったものである。
それが引っ込み思案の原因になるのではないかと、最初のうちは質問できなかっのだが、ある時思い切ってした質問に対して「良く其処を聴いてくれました」と言う言葉に始まって丁寧に解説していただけた。
それを契機に、質問する際にも「聞き漏らしたかもしれませんが」とか「勉強不足で申し訳ないが」とか「私の理解ではこうだと思いますが」とかの言葉を添えて積極的に質問したものである。
記者と言うことであれば、それなりにその分野での知識を持っているのであろうから、決して「掛け合い漫才」や素人の質問などはしないようにしてもらいたいものだ。
投稿者:つねちゃん
at 09 :17
| 報道
| コメント(0 )
アイマスクの効用
アイマスク、と言うもの自体をご存知だろうか。
少し前になるが、TVでやっていた睡眠についての番組で、常夜灯の薄暗い明かりでも、良い睡眠のためには邪魔なものだとのことである。
何でも、余りお金を掛けないで「少し良くなる」というものであれば試したいのが癖で、そういえば以前米国出張のときに旅行中の便利グッズの中に「アイマスク」と言うものが入っていたことを思い出し、ガサゴソと探して漸く見つけた。
貰った当時は「何のために使うのか」と訝しく思ったし、説明を受けても「酒を飲んで気がついたら寝ていた」と言うのが理想だと思っていたから、全く使う気にならなかった。
尤も、それが最初の米国出張で、そんなに長い時間飛行機に乗っていることが不安で堪らず、幸いにしてウィスキーが無料のサービスだったので、殆ど寝ないで飲みっぱなしだった。多分寝たのは米国本土上空の3時間くらいだったろうと同行した人間から聞かされた。
話を元に戻して、早速アイマスクを着用して寝たのだが、最初の日は矢張り「邪魔なもの」が顔に張り付いているようで、気になって仕方なかったのだが、二日目には素直に順応して、気のせいかいつもよりもぐっすり眠れたような気がし、三日目には「あると便利」だと思うようになった。
常夜灯を消していると、家内が不審がるのと、夜も更けた頃にまだ時々部屋に忍び込んでくる孫も困るだろうから、それからもう2週間くらい継続して使用している。
今のところ「目に見えるほど」の効果が現れている訳ではないが、「良さそう」な気がしていることだけは確かである。
投稿者:つねちゃん
at 11 :54
| 健康
| コメント(0 )
臆病だなぁ
子供の頃からの「臆病者」の精神は還暦を過ぎてもまだ根深く残っているものだと最近気がついた。
第一線で、他人の評価はどうであれ、自分なりに「怖いものなし」で頑張っていた時には、全く気がつかず、それこそ落語の「饅頭怖い」を地で行っていた気持ちだった。
気づかされたのは、今回のオリンピックである。
スポーツ音痴の私でも、種目などの詳しいことは判らないが、他人様と同様に「応援したい選手」と言うひとが何人かいる。
みんなが認める、浅田真央もその一人だし、そのほかにも数名目立つ/目立たないに限らずひそかに応援していた。
残念ながら、その殆どの人は頑張ったけど入賞すら出来ずに帰国することになったのに、「次回は頑張ってね」と同時に「よく頑張ったね」と言う気持ちでアリスの歌う「チャンピオン」の歌詞を思い出してしまう。
話を本題に戻すが、彼ら彼女らの「本戦」をリアルタイムで観る勇気がないのが臆病の症状である。
何だかリアルタイムで一体感を持って観ている事で、目標とする位置が獲得できないのではないか、と思うからである。
そんな馬鹿な、あんた一人くらい、それも現地に行った訳でもないのに 等々の意見は当然あろうし、事実自分も一っ時はそうも思うのであるが、それが中々踏み切れない。
これから類推すると「臆病連鎖」と言うのはどうも中々断ち切れていないのに気がついて、ますます臆病が増大するのである。
競馬、最近また興味を持ち始めた将棋などの色々な「勝負事」についてもその連鎖は止まらない。
でも、今日でオリンピックも終わり、私の臆病連鎖もこの辺で一旦(どうせまた何時の日かぶり返すのだから)終わりにしよう。
でも、たまにはこんな臆病があって、自戒するのも考えてみれば愉しいことである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :31
| 日記
| コメント(0 )