物には購入日付を書いておく
表題を思いついたのは大概のものと同じように約1週間ほど前だったと思う。
だから、今書きかけている現在においては、「購入日」に限らずという気持ちになっている。
気がついた原因となったのは、いくつかの電気製品だった。
通常使っている時には、購入日などは殆ど意識していないのだが、故障やトラブル、疑問などに遭遇すると、まずは取扱説明書を探す事になるのだが、いざ見つかってもなかなか簡単に疑問は解消しないので、問い合わせ窓口へフリーダイヤルで電話して、長い間待たされてようやくつながってまず聞かれるのは「いつお買い求めになりましたか」という事である。
白物家電や少し大き目のものには取説に購入時の伝票などが挟んであるのだが、小さいものはとっくに紛失してしまっているのが常である(なんとも情けないのだが)。
で、結局型番などを伝えて、何とか急場を凌ぐ事になるのだが、これではいけないと思い、目立たないようなところに購入日付を書いておく事にした。
ところがこれがひとつの「癖」になると意外な効果を発揮してくれる。
まずは「以前にも似たような事があつたなぁ、何時だったっけ」という時に、「なぁーんだ、そろそろ内部電池の交換時期なのだ」という事になって、あたふたせずにすむ。
また、電気製品ではないが、何度か紹介した「特性ふりかけ」もそろそろ底を尽いて来つつあるのだが、次回にはまた改善を加えたものにしようと思っているが、この製造日が今年の1月だったことから、約1年持つのだということが判り、それによって材料のグラム数を調整する事も出来るのである。
在職中「メモ魔」と言われた素質が意外なところで顔をのぞかせていてくれ、それを感じる事がまたまた楽しみの一つになっている。
何にでも日付をつけてそれを記録しておくと、結構役立ち情報になりますよ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :56
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1票の格差
政治話題だけれど、怒りの話題ではなく、素朴な疑問としてのテーマである。
先般「違憲」という判断がなされた。
「票の重さ」が人権の軽重に値するものだという意味での理屈は十分に理解できる。
だけど、争っている人たちの本来の目的は「格差を無くせ」という事なのだろうか。
極論的に言うと、格差を全く無くしたら、国会議員はどのようになるのだろうか。
首都圏を初めとして、人口過密地域からの候補が大量に当選して、民力度の小さい地方からは議員が選出されない事になるのでは無いだろうか。
そうしておいて、人口過密の地域の大多数が「選挙無関心」かもしくは「棄権者」である場合、それで選ばれた議員は果たしてどのような行動に出るのだろうか。
ここでも「選挙に関心の無い人間は家で寝ていればいい」という論理が繰り返されて、ゾンビのような黒幕ばかりが暗躍する手駒の役でしかないのでは無くならないか。
そしたら今度は地域格差解消、とでも言うのだろうか。
一方的に5:1の格差が良いとは言うつもりは無いが、さりとて、1:1にしよう、という論理にはなかなか同ずる気にならないのは、果たして私だけだろうか。
この問題も、政治もそうだが、殆どの場所で「近視眼」的な判断がなされているのが最近気にかかる。
人様に言えるほど自分が物事を弁えているとは思わないが、それにしても「傍目八目」にも程遠い短絡的な発想しか出てこない事に、果たして賛同できる人はどれほど居るのだろうか。
100年後を考えろ、とは言わないし、余りにも大所高所的な展望で、「寄らしむべし、知らしむべからず」的な政治も願い下げだけれど、せめて10年後くらいの展望を示しながら進めて欲しいものである。
八百屋で刺身を注文するようなものなのかなぁ。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43
| 政治への注文
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孫の姉妹げんか
小学校1年生と年中さんの二人の孫に恵まれている私は果報者である。
また、事情があって内孫だけれど別居している4ヶ月余りの孫も定期的に写真が届くのでこれもまた果報者であると自負している。
自負、と言う言葉はこの際適切ではないというご指摘もあろうが、なぁーに、これも皆私がやったことだと思えば、そう思っても別に罪にはならないだろう。
同居の孫の最近の喧嘩原因は、家事手伝いによるものが多い。
「私これをやる」、「これはあんたに出来ないでしょう、だから私がやる」と言うものから、宿題なのか自分勝手な遊びなのか、母親から言われて嫌々ながらしている後片付けなのかはその時によって違うのだが、お手伝いに間に合わない場合がある。
基本的にそれは自分のせいだとは薄々理解しているようだけれども、腹の虫が収まらずに、「私やりたかったのに」といつまでも愚図愚図して、挙句にその矛先が姉妹に向いて喧嘩になってしまう。
年齢的には2歳の差なのだが、事実は1歳と半年くらいだし、体格的には妹もそんなに引けを取らないので、どちらかが一方的に勝つと言う事は無く、その時その時である。
母親としての娘と家内は盛んに「あなたが悪い」と決め付けてしまうので、本人としては判ってはいるのだろうが「何で私だけが」と言う事が悲しくなるのだろう。
爺馬鹿の私としては、静観しているのだが、それが「逃げ道」と思うらしく、一旦けりがついた形になった後で殆どの場合「ジィちゃん」と甘えてくる。
だけれど、やはり自分に非があると思っているの(だろうと爺馬鹿は思っている)だろうか、直接喧嘩の話を告げ口するような事は無い。
絶対安全牌としての「爺馬鹿」にともかく何とか癒されたいと思っているのだろうか。
そんな時には、特別諭すような事はせず、「ウンウン」と聞いてやるだけの爺馬鹿なのだが、そんな人間でいつまでもありたいものである。
尤も、そのうちに「ジィちゃん、臭い」と言われるのだろうが、それまでの僅かな時間である。
投稿者:つねちゃん
at 07 :56
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隠す事が下手な民主党
念願かなって与党となった民主党だが、「情報開示の徹底」という御旗は悉く悪用されているように見えるのは、私だけではないのではないか。
前与党の「寄らしむべし、知らしむべからず」にはかなり腹が立つて、その結果としての惨敗だったのだが、今度の与党はその程度を知らなさ過ぎるのでは無いだろうか。
本来隠すべき事を「自分だけが知っているのだよ」とばかり「王様の耳はロバの耳」を決め込んだつもりかも知れないが、当てにならない「オフレコ」ということで自慢げに話したものが、漏れてしまい、「何でオフレコの内容が漏れるのだ」とばかりの剣幕である。
また、隠さなくても良いことを隠したばっかりに「隠す必要などないと思っていた」内部の人間から「漏れる」のではなく開陳されてしまっているのは、どれをどの程度までと言う事を知らなさ過ぎると思うのが、多くの国民であろう。
戦時中から戦後処理のときの極秘情報を開示したのは、それなりの評価だったと思うが、何でもかんでも開示さえすればよい、というのでは、政治家としての体をなさないであろう。
もちろん、前野党が良かったとは毛頭言っていないのだが、それにしても。。。という感じである。
そして、今朝の新聞では、支持率が30%台になり、前与党と逆転しているとのことである。
果たして、それがそのまま政権の移行になるかというと、私自身は決してそうは思わないが、「やっぱり以前がよかったのか」という人も多くなるのでは無いだろうか。
「行き過ぎはあるだろうけど、基本的に開示する」という事と「知らなくていい奴は選挙に行かずに寝ていれば良い」という事のどちらを選ぶのかが今問われているのでは無いだろうか。
いやいや、久しぶりに少しばかり「怒りの言辞」になってしまった。
決して無責任ではないが、それもまた愉快である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :37
| 政治への注文
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時間は潰さずに過ごそう
在職中は、人からも言われたが「あなたは時間を倍以上に使っている」と、自分でも自負していた。
だから「時間を『潰す』」と言うような表現自体殆ど忘れていたし、もちろん使う事も無かった。
それほど、ブリーフタイムをうまく使っていたのだと思っている。
余談と自慢話になるが、最高時私にはデスクが6箇所にあった。
金沢に3箇所、関東地方に3箇所である。
金沢ではさすがに移動時間をゆっくり過ごす事が出来なかったが、それでも以前紹介したように「ラジカセ」を常時携行しており、自家用車での移動時間に思いついたことを録音しているほどのブリーフタイムの使い方だった。
関東地方への移動については殆どを新幹線を使ったので、出張旅費としては少し持ち出しになったが、グリーン車を使い、ゆったりとしたスペースでPCを駆使して資料作りなどをしたものである。
もちろん、スリーピングに費やした事もあるが、それはそれで完全に「頭休め」として利用していたので「潰していた」訳ではない。
それがリタイアしたら、常に解決すべき課題を抱えている訳では無くなって来たので、何かの待ち時間などは勢い「潰す」ことになっている自分に、日記をつけていて思った。
これではいけない。
たとえ、同じことをして過ごしていたとしても、「良い時間を『過ごしている』のだ」と思うべきで、決して『潰して』いるとは思わないことである。
「物」にはスクラップアンドビルトのように、再構築する事は出来る物もあるが、時間だけは潰すにしても、過ごすにしても、再構築する事は出来ないのである。
「理屈膏薬はどこにでもくっつく」とはよく言ったものであるが、なんでも前向きに考えたほうが良かろう。
これからも日記に「潰した」と言う表現を使う気になったときは「良い時間を過ごした」と思うようにしよう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :39
| 日記
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孫の誕生日のカレーライス
先日の頭の孫の誕生日には、彼女の大好きなカレーライスが夕食の献立だった。
もちろん、お母さんである娘の手作りのケーキには、誕生日おめでとうメッセージが添えられ、蝋燭にも「7歳」と言う蝋燭を使ったものでそれなりにたくさんの工夫がされていた。
更にもちろん、サプライズの誕生日プレゼントも数多く、下の孫も一緒に遊べるものだった。
本題に戻すが、今回のカレーは今までのものと少し違っていた。
人参とジャガイモは星やハート型にくり貫いた固形物だったのだが、そのほかの肉(ビーフ)などはその姿形がまるで認識できないものである。
味は決して悪くないのだが、いまいち歯ごたえに物足りなさがある。
政宗の遺訓ではないが「うまからずともほめて食うべし」を旨としているから(出なければ言葉の弾丸が雨霰の如くである)「美味しいね」と言いながら食べて、家内とのナイトキャップの時に聞いてみると、「六歳臼歯」の関係で、固形物は人参とジャガイモ以外はすべてミキサーに掛けたものだった。
7歳にして6歳臼歯とは、と言いたい所をぐっと飲み込んで「大器晩成型」なのだろうと話しておいた。
私自身、いや私らの年代にはそんな事など話題になる事も無かったので、全く知らなかったのだが、一代下がった子供の頃にはすでに小学時代から指摘されていたとのことである。
諸姉・諸兄はご存知だったろうか。
ともあれ、そんな事で一風変わった舌触りのカレーを味わったのだが、これはこれで結構悪くない。
むしろ来年卆壽を迎える総入れ歯の母にもうってつけの調理法では無いだろうか。
そんな中に健康材料だけど、舌触りが悪かったりしてなかなか摂取できないものを入れれば、自然と「食と健康」と言う事につながるのでは無いだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :18
| 健康
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中国の対応
先月くらいから、書き写しの新しいネタとして、随分昔に買った「論語」を対象にし始めている。
そこには、人徳を中心にして君子への教訓が並べられており、今まで断片的にしか知らなかったし、一部には間違って理解していた事もあるので、楽しく新しい驚きである。
これはもともと中国の思想家が述べたものであり、中国の「下人(水戸光圀の遺訓に出てくる言葉で、私としては無知な平民と理解している)」は別にして、国家を代表する人はかなりの理解をなさっているものだろうと勝手に解釈していた。
ところが、そんな最中に、船をぶつけてみたり、反日感情を煽ってみたりの事態に首脳部の方々の発言や態度は、私の理解する限り論語とは程遠いものである。
そんなことから、最近の中国の姿は怒りを通り越して、滑稽ですらある。
自国の政府への反発を「代替満足」のように半日運動に代え、本来の目的を霧散してしまう目的が見え見えである。
随分昔に解決していた(少なくとも沈静化していた)領土問題を海底資源が注目されると、一方的に「わが国のものだ」と言い、さっさと資源開発の基地を作ってしまったり、人や物を送り込んだりして、見苦しい事である。
尤も、残念ながらわが国は「口先だけ」で具体的な行動が遅れ遅れになっている事も事実なのだが。
レアメタルなどについても、日本ばかりでなく、世界を相手に「我一人良ければ良い」との態度は、もしそれに変わるものが発明されたら、そっぽを向かれる事をまったく意識していない「駄々っ子」のごとくで滑稽至極である。
ノーベル平和賞への参列をしないようにと各国に書簡を送っているとも聞くが、まったく「何をか言わんや」で、「裸の王様」の如き愚行であると思うのは、私だけではあるまい。
再び言うが、怒りではなく、一大漫画を見ているようである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :46
| 日記
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除雪機はほしいのだが
新聞の折り込みチラシなどに「除雪機」の広告が出る時節になってきた。
今年は今までと比べてその回数が随分増えているように思うのは、顧客層として私と同年代を狙っているからだろうと思うのは、強ち違っていないのでは無いだろうか。
私自身は、まだ「冬の運動」という事で、「雪すかし」は冬季間の適当な運動であると思っている。
しかしながら、確かにそろそろ腰も痛くなるし、少し多く降るとなかなか億劫になり、それが雪ダルマ式に膨らむのが目に見えるのが怖い。
車庫から融雪装置が施されている道までの僅か10m余りの区間の除雪は、娘などが出勤する上で欠かせない日課であり、母のデーサービスなどに出る玄関先の除雪も欠かせない事だから、積雪が僅か10cm程度でも、必要不可欠の「朝飯前」の作業である。
まだまだ出来る、と言う気持ちはあるが、一旦腰を痛めると、除雪機すら操作できない事になっても仕様が無いと、煩悶する毎日である。
そこで機械の力を借りる事を思いつくのだが、冬季の数日間のためにあんな大きな機械を保存しておく事を考えると二の足を踏んでしまうのは私だけではなかろう。
以前農家の人に、必要の時だけ使えるように共同で耕耘機などを使えば負担が減るのでは無いだろうかと言い、年間限られた期間だけで後は大きな物置にしまっておくだけだが、やりたいときが同じだったり調整が難しかったりで出来ないと言われたのを思い出す。
しかしながら、一般家庭では、やはり使わない時期にそれだけのスペースを割いておくことは現実的でない。
強度的な要因や、安全性という要因もあるだろうが、使わない時にはコンパクトにしまっておける除雪機があればもっと売れると思うのだが、私だけの発想だろうか。
そうだ、これをここだけで呟いていないで、メーカーに提案してみよう。
案外瓢箪から駒で実現できるかもしれないし、無償で景品としてもらえるかもしれないと、相変わらず能天気な事を考えている。
それにしても、酷暑の年の冬は豪雪だと真剣に心配している。
投稿者:つねちゃん
at 06 :22
| 日記
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マイパン
とうとう「マイパン」が支給になった。
決して「私専用の辛いブレッド」という意味ではない。
Pan=鍋、である。 当たり前か。
ハバネロを中心に「辛味」を使ったパンはどれだけ洗っても鍋自体に染み付いた辛味は完全には取れず、先日孫が余りの辛さに大好きな玉子焼きを吐き出してしまったからである。
もちろん我が家として新調して貰った訳ではなく、IHになってから鍋底が丸いために殆ど使われなくなっていた中華なべである。
いってみれば、「中華鍋幽閉」の身になったので、あるいは悲しむべき事なのかもしれない。
でもこれで、使い初めから洗い上げるまでの必死の努力も少しは減るので、私としても安心である。
勿論だからと言って、洗い上げ作業を疎かにする気は「自称グルメ」としては毛頭無い。
ハバネロの辛味、唐辛子の辛味、大蒜の辛味、最高はジョロキアの辛味と、おのおのそれぞれ味が違うのだから、意識して混合する場合以外は純粋にその味を堪能したいのだから、出来る範囲で(この辺がかなりいい加減であるのは認めるのだが)事後の鍋洗い作業に手を抜く事は無い。
尤も、今までもそうだったののに孫の舌が肥えていたのだろうから、あまり威張って言えることではない。
それにしても、単身赴任時代には、中華鍋一つでいろいろな調理を楽しむ事が出来た事を思い出す。
少し工夫をすれば、ご飯も炊けたし、てんぷら料理も揚げたてが楽しめた。
あれからもう30年近くになり、マイパンが与えられたのだが、これから独自の工夫にさらに磨きをかけられる楽しみがある。
投稿者:つねちゃん
at 08 :24
| グルメ
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あの時でなくて良かった、この時で良かった
今でも他人様から「相変わらずだなぁ」と言われる事がある。
でも、そう言われている内はまだ許される範囲内ではないかと思っている。
人様から言われる事は、それで済ませられる場合が多いので、あまり気にしていることはなく、健忘症が幸いにして利いている。
ところが、自分で感じるのは、タイトルとはまったく逆で「あんな時であれば良かった、のに」とか「何でこんな時になってくれなかったのだろう」とかの反省ばかりが以前は殆どだった。
いわゆる「否定的回想」である。
ところが、最近は、殆ど表記のような感情に変わってきていることに自分自身驚いた。
いささか尾篭な話であるが、糖尿の薬を服用しているせいで、それだけでは便秘症になるというので、弛緩剤も同時に服用している。
なので、時々「下痢症」の様な事に見舞われるのだが、医師によると「薬のせいで特別なことではない」とのことなので、今ではある意味で「習い性」になっている。
ところが、定期的に襲ってくる訳ではないので、その時は突然やってくるので始末が悪い。
でも、幸いにして、いまだにその時は「避けられない時」ではないので、タイトルのテーマを思いついたわけである。
そんな訳で、マイナス思考がプラス思考に自然的に変わってきている自分を意識する事が楽しい。
それが「自然にそうなっている」というのが楽しさを倍増してくれるようで、それを意識すると尚更である。
在職中を含めた以前には「努力して」ということでやったことがあるが、結局長続きはしなかったことが、今は自然体でできている。
これからも、嫌な事が無い訳ではないが、自然体で物事に拘らない様にしてプラス思考を心がけたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43
| 日記
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マンネリは嫌だ
たとえ小さな刺激でもいいから、毎日刺激を求めている自分を意識する事がある。
まだまだ若いということか、それとも別の意味で「餓鬼の様」なのか。
いずれにしても、日記に「昨日と同じだった」と言うような表現だけはしたくなく、僅かなことにも刺激を受けて、それを愉しみたいと思っている。
勿論「楽しみ」ばかりではなく、「悲しみ」なこともあるし、「腹立たしい」こともあるのだが、いずれにしても「良い刺激」として感じたいと思っている。
要するに「マンネリ」が嫌なだけで、特別取り立てて言うほどの事でもないのだろうが、「停滞は後退」と言う言葉を一つの箴言として感じている。
どだい、毎日が「昨日と同じ」と言うことはないのだろう。
同じ事に遭遇したとしても、昨日と今日では受け止め方が違うだろうから、それは「新しい刺激」であり、マンネリとは程遠い事になるのではないか。
先日から、友人の突然の逝去があり、その悲しみを受け止めながら全国からの同級生との懇親を愉しんだが、それとても悲喜交々のかなりの刺激だったし、親戚の四十九日(納骨)の法事で新たな親戚との親交が得られたことも刺激だった。
今週は孫の誕生日があり、まだ保育園の孫の学習発表もある。
その間に町内の壮年会の研修会(忘年会)もあり、そこでも色々な話題が喧々囂々なされるだろうし、お酒が入った勢いで喧嘩腰になる場合もあるのだが、それとても新しい刺激である。
そんなことばかりではなく、相変わらずの病院通いで、血糖値を示すHbA1cの値が6を切ったとか、血圧は相変わらずだが、どうにか投薬で安定状態だとかという「すれすれ」という刺激も受けて、マンネリを感じる暇もないのだが、それでもこんなテーマを思いつくということは、まだまだ「もっと刺激を」という若気の至りだと思うとなんだか毎日が楽しい。
投稿者:つねちゃん
at 09 :44
| 健康
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江戸時代に持ってゆきたいもの
かつて「無人島へ持ってゆきたいもの」では「辞書」というのがあったが、現代では何だろうか。
あるバラエティ番組で、表記の事が話題になっていた。
何人かが答えていたのだが、その中に何と「PC」と言う答えがあった。
辞書と同じように「何でも引ける」と言う意味では、PCが俄然便利であろう。
そういう意味では、大いに同調できるのだが、これも笑い話で、登山するのに電気釜を持参すると言うようなものであろうか。
世の中には「何も知らないで」と言う批判を浴びる答えと言うものが数多くあるだろう。
上記のPCでは「電気が無い、ネットがない」と一笑に付されてしまうし、電気釜だって同様な指摘を浴びるのだろう。
でも、長時間持続する電池が現在でも研究開発されているし、ブルートゥースを初めとしたユビキタス社会は徐々に実現されているだろうから、時空を越えたネットワークもまんざら嘘でも無いのではないか。
鉄腕アトムの誕生日はとうに過ぎたし、ドラえもんの誕生日も近々らしいから、かつての「冗談」もそのうちには実現するのかもしれない。
何より「そんな馬鹿な」と言う前に「ひょっとしたら」と考えるほうが夢があって楽しいだろう。
年齢を重ねても、いつまでも「ひょっとしたら」と言う考えは持ち続けたいものである。
で、「あの世へ持って行きたいものは?」ときかれたら何と答えるのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :52
| 興味あること
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FDに続いてMDも整理処分に
もうずいぶん以前に子供のためと言うことで、我が家にも「パソコン」を導入した。
NECのPC6001と言うもので、外部記憶装置としてはまだFDもなく、カセットテープレコーダーだった。
私自身はその時は大型コンピュータを使ってシステム開発に携わっていたので「ホンのおもちゃ」程度にしか考えていなかったが、家庭に入り息子といっしょにプログラミングをやっているとそれなりに真剣になったものである。
時代は移り、先日我が家でのカセットテープはその大半の300本余りを「ブラゴミ」として整理処分する事にした。
そうこうしている内に、各社はFD対応から完全に脱却するとの報道があり、現在残すべきデータを整理している途中である。
そんな中、長い間リブートをしていなかったPCを雑誌の記事に触発されてリフレッシュのためにやってみると、今まで「当たり前」のように使っていた「MO」ドライブが認識しなくなっているのに気が付いた。
ドライバを再インストールしても何等の反応もない。
メーカーに聞くと「そのバージョンのOSには対応していない」と言う。
代替製品はないかと尋ねたが、無いとのことで困ってしまった。
結果としては何とか誤魔化してデータを吸い上げたのだが、再度使用する気にはならず、取り外すしかなかった。
こんなわけで、MOも整理対称にする事になってしまった。
現在結構多くなっているCDもDVDに取って代わられ、そのDVDもBDに取って代わられてしまうのも、そんなに遠い時期ではないのかと思うと、今更ながら隔世の感がある。
アナログレコード盤もまだ100枚程度処分に困っているのだが、捨てるに捨てられない思い出深いものもあるので、ダラダラと保存しているのが実情だが、父の遺品整理などを考えると、矢張り早急の処分が必要なのだろう。
新しい課題に、困ると言うより感慨深い楽しみもある。
投稿者:つねちゃん
at 08 :26
| 興味あること
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大型TVにはラジオ機能を
もう一昨年になるだろうか、地デジ化に備えて我が家にも、大型TVを導入した。
そんな間使っていて、何だか不便を感じるのは、一家団欒の夕食時にTVを見ると、誰かが背中になるので、和を乱してしまう、ということである。
従って、以前は(余り良くないとは思いながらも)「親の特権」とばかりに親だけがTVを見ながら食事をして、孫は「行儀が悪くなったりこぼしたりするから駄目」と言う誠に親の勝手な論理で、夕食を摂っていた。
しかしながら、TVのサイズも小さかったのと孫が「面白くない番組:ニュース番組など」だったので文句も出なかったのだが、40型ワイドになり、無視できないサイズとなったことと、孫も「私も見たい番組がある」と主張しだすと、結局不公平無しに(親の尊厳は脆くも崩れ)TVを見ないで食事する事になった。
これ自体はむしろ歓迎すべきことだった。
孫は小学校や保育園での出来事や予定などを話してくれるし、こちらも楽しく相槌を打ちながら聞く事が出来て楽しい会話の時間が得られるからである。
ところが、矢張り全くBGMが無いのは何だか味気ない。
そんな時、視覚を奪わずにイージーリスニング的なラジオやCDなどの音源が立派な音響設備持ったTVから流れてくれるとありがたいと思った。
これからX’masや孫、娘の誕生日が来る。
そんなときにも便利に使えるのではないだろうか。
楽しい会話も妨げずに、その場にあった雰囲気の音楽や、BGM的に聞こえるニュースなどがあれば、より便利で快適な夕食タイムが確保できると思うのだが。
以前にはラジオ機能がついたTVが確かにあったのだが、最近は店員に聞いても「そんなものは無い」と言われるばかりである。
消費者の論理よりも、会社内のセクト意識が優先する結果なのだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 09 :07
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四大節
決して「古い人間」だとは思っていないが、書き写しの一つに「暦」があり、先日の現在では「文化の日」が、昔は四大節のうちの一つ、「明治節」だったので、このテーマを思いついたわけです。
明治節、天長節と紀元節は思い出すのだが、後一つが思い出せなかった。
そこで例によってアナログの辞書で引いてみると、もう一つは「〜節」ではなく、「四方拝」と言う新年を寿ぐ記念日である事が新しく判った。
調子に乗って言うと、
四方拝は、現在では天皇家だけで行われる皇室行事のようである。
難しいことはさておいて、元日の寅の刻に天皇が四方を拝して万民の安寧を祈る儀式のようである。
天長節は、現在の天皇誕生日であるが、もう少し正確に言うと「今上天皇」の誕生日であるそうだ。
従って、昭和時代は4月29日だし、平成の現在は12月23日と天皇がお代わりになるたびに代わるそうだ。
では、明治時代はどうだったのだろうか、疑問の残るところである。
紀元節は、現在の「建国記念日」に当るが、我が国初代の天皇である「神武天皇即位の日」だそうである。
この日を基点にして、時々聞く言葉に「紀元(皇紀)は二千六百年」と言う言葉は御存じないだろうか。
昭和15年をさして言う言葉だそうであり、私はまだ生まれていないのだが、職場の先輩にこの年生まれの人が居られて、「それは盛大だった」と聞かされたが、果たして生まれたばかりの人が知る良しもないだろうと「話題」として聞いて、内心は全く信じていなかった。
大正時代だけは天長節は制定されていなかったようであるが、これも何処まで本当か確認のしようが無い。
投稿者:つねちゃん
at 15 :21
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他人の失敗を望んでいる自分
「他人の失敗は蜜の味」と言う。
特別聖人君子を気取る訳ではないが、在職中を含めて、他人様をその様に見た記憶が殆ど無い(全く無い訳ではないのだが)。
基本的に「人は人、自分は自分」と思ってきたから、年少でも上司に立てばそれなりに敬い、部下として精一杯の事をしてきたように思う(美化しすぎかも知れないが)。
ところが最近になって、改めて気が付いてみると、結構そんな気持ちになっている自分に気が付いた。
学歴偏重を憎めば「あなただって勉強すれば出来たはずなのにやらなかっただけでしょう」と言えるし、間違いなく実績を上げた人を見れば「良かったね」と思うばかりである。
半面で失敗した人を見れば「転んだ分だけ転ばない方法を身につけたのだから儲けものだったね」と言えるようにもなっていた。
とは言うものの、「蜜の味」と思うほど憎く思っているわけではないが、自分のやってきた「スレスレ」と似た様な事態を見聞きすると羨ましい半面でそのように思う自分がいる。
尤も少し許せるな、と思うのは「自分とは全く違う世界にいる人」のことばかりだから、それはそれで全く気が楽であり、1時間も経たない内に忘れてしまっているので、全くと言って良いほど罪が無い。
むしろそれが失敗に終わったとしても「羨ましいなぁ、そんな事に挑戦できたのだ」と思う度合いのほうが強くなっている。
還暦を過ぎたので「若い者には負けない」と言うような気持ちは極力持たないようにしているが、やっぱり色々なことには挑戦してみたいと思っている。
勿論殆どの場合「失敗に終わった」と言う事になるのは火を見るより明らかなのだろうが、それでもまた今日も新しい挑戦の種を見つけて取り組んでみたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :25
| 日記
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改めて丁寧に文字を書いてみる
乱読ならぬ「乱書き写し」を続けている。
そんな中で気が付く事が、以前にも似たようなことを書いたと思うが、「丁寧に、基本に忠実に」書いているだろうか、と言うことである。
「吾、糸偏、を」などと言う文字を丁寧に書いているだろうか。
五という文字を画数どおりに書いているだろうか。
一画目と二画目を続けて書いている事に気がつき、何度も直そうと努力しているのだが、気をつけていないとどうしても続けて書いてしまっている自分に苦笑いする。
結局四画の文字を三画にして書いてしまっているのである。
単純に「五」と言う文字だけの場合はそうでもないのだが、「語る」や前述のように「吾」と言う組み合わせ文字の場合は特にそうである。
糸偏についても一つ一つ区切っているだろうか。
これも組み合わせ文字になると勢い繋げてしまっている自分がいる。
ついでに「を」と言う文字も流して書いていないだろうか。
孫が習ってくる文字の書き方と言うプリントで、眼から鱗の状態になる事がある。
そんな事を思いながらなるべく気をつけながら書き写しを行っていると、時々書き順どおりに書いた文字が「格好よく」見えてくるときがある。
勿論根っからの文字下手が直った訳ではないが、不思議に「格好よく」見えるのである。
先日好きなクイズ番組を見ていて、「文字で書いて示す(答える)」と言うものがあり、その過程も映していた。
女性(タレントと言う言い方は嫌いだし、最近の出場者は覚える前に居なくなってしまうので、覚える気にもならないので、こんな言い方になってしまう)が書いた「語」は書き順どおりで、それなりに綺麗だったが、男性が書いた「を」の字は私と同じ様に「繋がり文字」で、矢張り格好よくなかった。
書き写しはまだまだ続けるつもりだが、一つ一つ思いついたことを思い出しながら少しでも「格好よく」書きたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :26
| 学習
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生きていた曼珠沙華
昨年秋に廉価の曼珠沙華の球根が売られていたので、早速買いに行ったのだが、店ごとに配布数が決まっていたようで、残念ながら最寄の店には売切れてしまっていた。
それでも何とか無いものだろうかと、店員さんに相談すると「取り寄せ可能」であるとのことでお願いして手に入れた。
この花には、この名前以外は余り良い名前が付いていなくて、店員さんも「何で今この花が(売り切れほど)人気なのか良く判らない。昨年は全く売れなかったのに」と言われていたが、私にしたところで、妙にこの花を「植えたい」と言う感情になったのが今年初めてである。
彼岸花はまだいいが、「葉見ず、花見ず」に始まり、究極は「幽霊花」とまで名づけられている。
でも、「曼珠沙華」と言う名前は、読み方こそ違うが、山口百恵の歌にもあるし、何よりも「”天上の花”という意味。おめでたい事が起こる兆しに、赤い花が天からふってくるという仏教の経典による。」というのが好きな所以である。
感情や雰囲気的なことはそれとして、実用としては「モグラ忌避」である。
我が家の畑は何度か述べたかも知れないが、山際にあり、(まだ熊は出ていないが)狸や鹿が闊歩し、野菜などには防獣ネットが欠かせない場所で、地中には蛇やモグラも格好の住処にしているようである。
一昨年山際に植えた大蒜は途中まで順調だったものの、そのほとんどが収穫以前に根絶やしになってしまった。
目撃したわけではないので、何の被害だったのか、それとも施肥などの手入れに問題があったのか定かでなく、一方的にモグラと決め付けることは出来ないのだが、近所のベテランのおばさんに聞くと多分モグラの被害だろうとのことだった。
本題からそれたが、それがこの秋には1輪しか花が咲かず、「安物買いの〜」と思って殆ど諦めていた。
ところが、最近になって雑草の中から明らかに曼珠沙華の葉が伸びている事に気が付いた。
「生きていてくれたのだ」と言う感激である。
これで冬を越して、来年の収穫時期にはモグラも除けてくれ、秋には綺麗な花を咲かせて、天上の花が咲くような良い兆しに肖りたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :18
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結婚式
昨日に引き続きの話題で恐縮である。
息子は神式だったが、娘は教会式の物だった。
何故か最近は別にクリスチャンでもないのに、教会式のものが流行るのは何故だろうか。
これを機に洗礼を受けたりするものではないだろうし、娘たちにしてもそんな素振りは全くない。
私自身は、家で行ったので、特別「何式」と言うことはなかった。
一頃は「お金がなかったので」と言っていたのだが、むしろ最近の式場方式のほうがお金が掛からないようになっているのではないだろうか。
少なくとも家族や近所の人に賄いを頼んで、その後のことを考えるとよほど簡潔になってしまっているのは間違いがない。
友人も殆ど神式か協会式だったが、最近流行り(なのだろう)人前式というものにも立ち会った事があった。
直接参列した訳ではないが「仏式」と言うものを見かけたこともあるが、これは見ているだけで「大変だなぁ」と思ったものである。
神式も教会式も、全て段取りが決まっていて、両家および新郎新婦の名前などを「空欄を埋めよ」式になっているようである。
披露宴も特別なサプライズなどは殆どの場合無く、僅かにあるとすれば新郎の友人などにより寸劇で笑いを取ることくらいだろうか。
だからかも知れないが、新郎新婦は安心して注がれた飲み物を半分くらいにこやかに何の心配もせずに過ごす事が出来るのだろうから、安心ばっかりである。
そんな中で「今後波風も立つだろう」的な挨拶を聞いたところで、耳に入るものではなかろう。
むしろ一番大変なのは新郎新婦の御両親であろう。
是非とも新郎新婦は、後になって撮られているビデオの御両親に目を注いでもらいたいと思っている。
そこには、「子を思う親」として苦労なさっている御両親の気持ちがたっぷりと映っているはずである。
決して、仏様でも、キリスト様でも八百万の神様でもなく、具体的に苦労なさっている人の姿が見えるはずである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :27
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カメラ持参せず
昨日のことである。
(どうも最近、ネタ切れではないが、記憶が新しいことを先に書いてしまわないと、だんだん薄れていってしまい「結局何が言いたかったの」と自分でも判らなくなる事があるので、直近のことは順を入れ替えて書くようになってきた)。
従兄弟の娘さんの結婚式に招待されて、列席した。
今までは、このような時には必ずカメラを持参して取り捲ったものだが、今回は忘れた訳ではなく、意識して持参しなかった。
何故、と言われて述べられる理由などはないのだが、披露宴などで「ここが撮りどころですよ」と言われてパシャパシャとなるシャッター音やフラッシュに嫌気が差していたのかもしれない。
ましてや、式場で従兄弟が娘の腕を引いてバージンロードを歩く姿は、基本的に撮影禁止(これは式場の独占体制にも問題があるのではないかと思っているが)であるにもかかわらず、パシャパシャ、ピカピカの連続である。
イヤイヤ、誰彼を悪く言う訳ではなく、たぶんカメラを持参していれば、私も同様な態度をとったことだろう。
どうも「持っていると使いたい」そのためには自分勝手もある意味許容されると思ってしまうのが人の常であろう。
これはカメラだけではなかろう。
とはいうものの、やっぱり綺麗で可愛い娘さんのイメージは、何故か脳裏だけに残しておくのが勿体無くて、結局携帯のカメラ機能を使って数枚撮らせてもらった。
でも、其処で心掛けたことは「撮ったらすぐに位置を変える」事と「決して他人様の邪魔をしない」と言うことだったのだが、果たして他人様からの評価はどうだったか判らない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :12
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