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2011 年10 月31 日

怒るな

 最近は然程「怒る」と言うことが少なくなったように自覚している。
 いくらこちらが怒ってみても、怒られた方の姿勢や態度が変わるものでもないから「暖簾に腕押し」でしかないと思うからだろう。
 いわば、こちらが勝手にヒートアップしても、事態は何も変わらない、と言うことに気がつくからであろう。
 でもしかし、その分の反動と言うか、一度「怒る」とそれがヒートアップどころか、フィーバー的になってしまい、自分でも手がつけられないと思うから勿論家族や他人に収められる訳が無い。
 また、それが長い間続くことがあり、そうなると自分だけが一人でいきまいていて、怒られた当人は勿論他の人も「放って置けば」と言うことになり、それがまた癇癪のネタになってしまう。
 「それじゃ駄目なんだよ」と何度自分に言い聞かせてみても、「理屈じゃ判っていても」と言うことになり、悶々とした日が続く。
 何度自分に言い聞かせてみても直らないなぁ、人間だもの、かぁ、などと納得させることも無いではないのだが、凡人たるものそう簡単に収まらない。
 でも、いつものこのブログのように「仄々」「ノホホン」と「前向きに」解消していければ良いではないか、と何とか治まりをつけるようにしていきたい。
 それでこそ「心の健康」と言うことにつながっていくのだろう。
 でもなぁ、在職中は、自分では「江戸っ子は皐月の鯉の吹流し、口先だけで腸(はらわた)は無し」と嘯いて、翌日には「そんなことあったっけ」とばかり陽気に振舞えたのだが、リタイアした今、そのようにならないのは、加齢ばかりではないのだろうか。
 務めて、そうありたいものだ、と思いながらも今回の「怒りの種火」は到底消えそうも無い。

投稿者:つねちゃん
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2011 年10 月28 日

便利にご用心

 現在の家の建て替え前に使っていた水洗便器が、とうとうあちらこちら痛んできたので、取り替えることにした。
 陶器なのだから、壊れる以外はまだまだ使えるだろう、と思っていたのだが、もう何年も前から暖房便座はその機能を消滅していたし、便座自体も罅が入り、一度カバーなしで座ってとんでもない痛さを経験した。
 それはさておき、新しい便器を選択するに当たって、「便利さ」ばかりを追求しないで置こう、と言うことになった。
 その一つの発端は、もう大分前になるが、孫がある家でトイレを使う際に、「こわぁーい」と言って逃げ帰ってきて、結局お漏らしをしてしまった、と言う話である。
 聞くと、トイレに入った途端に「電気が点く」「蓋が自動的に開く」と言うことが原因で、判らないながらも「幽霊がいる」と思ったそうである。
 「幽霊」と言うものをどのように捉えていたかは知らないけれど、彼女にとっては「摩訶不思議なもの」だと思ったのであろう。
 それで、蓋の自動的に開く機能がついていないもの、というのが第一の条件であった。
 また、便座から立ち上がったり、男子の小便のときは排便が済んで暫く立つと、自動的に水が流れる、と言うのも「不必要」としていた。
 これは、もしそうでないご家庭でトイレを拝借したときに「流さないで」出てしまうことの失礼さを思ったからである。
 この機能は、残念ながら付いていたが、選択で「機能しない」が選べるので、良しとした。
 ことほど左様に、最近のいろいろな機器では「便利だろう」と言うことでつけられている機能が多く、「小さな親切、大きなお世話」と言う気がする。
 これとは少し観点が違うが、先日情報系のニュースに「便利さが自由な発想を阻んでいる」と言う記事があつた。
 興味のある方は、探して読んでいただければ良いが、私自身は「確かにそうだ」と思うと同時に「そうならされている」自分に気をつけなければ、と自戒した。

投稿者:つねちゃん
at 06 :44 | 子育て | コメント(0 )

2011 年10 月27 日

散歩スタイル

 リタイア後始めた散歩では、足を怪我して治りつつあるときに買った「杖」が何かと便利で持ち歩くのが一つのスタイルだったが、今までも「どうしたの?」とよく聞かれて「アクセサリーだよ」と嘯いていたのだが、最近になって「爺臭いから辞めれば、決して格好の良いアクセサリーにはならないから」と言われてしまった。
 決して「転ばぬ先の」とか、ましてや足の怪我がまだ完全に治っていないから、と言う訳ではなかった。
 確かに、階段の上り下りの時には「頼る」こともあったが、別に無いから困ると言うほどではなかった。
 最近の「ノルディックウォーク」だとかで、スキーのときに使うストックを使って散歩している人がいらっしゃるが、それほどのものでもなく、単に「持っているから」と言うだけだったのである。
 でも、「あると便利」な品物だったことは間違いが無い。
 道路上のちょっとした物を傍へ寄せたり、行く手に蜘蛛の巣がある場合には、それを払うのにもかなり役立ったのである。
 でも、他人様からそんな風に見られている、それがかなり多い、と言うことは矢張り止めるべき事だろうと思って、今月初めから何も持たないでの散歩にしている。
 最初のうち、矢張り困ったのは蜘蛛の巣払いであった。
 ご存知とは思うが、朝露に濡れている場合は結構肉眼で判るので、避けられもするのだが、「張っているんではないかな」と思うような場合は、かなり気をつけなければ判らない。
 ましてや、まだ朝露が降りる前には、見事に「一網打尽」のごとく顔にへばりついてしまった。
 他人様にみっともなくないスタイルを重んじるか、わが身を守るのか、考えどころではある、と言うのがなんとも楽しい。
 いずれ杖が必要になると思うので、大事に置いておく事にしている。

投稿者:つねちゃん
at 06 :32 | 健康 | コメント(0 )

2011 年10 月26 日

松下幸之助も偉いが

 経営の神様、と言う異名を持つ松下幸之助氏の言行録は在職中も度々図書館などを利用して読んだ事がある。
 この9月から「読む本」として久しぶりに自分のための本を買った。
 父とはあまり馬が合わなかったというか、視点が違っていたのか、沢山残された本の中には殆ど氏の本は無かった。
 で、9月1日から「一日一話」と言うことで「音読」している。
 訓話として、話せばわずかな時間だろうけれど、それが2日おき位になされている訳である(尤も本に記されているのがそうなのだから、実際は毎日だったのかもしれない)から、このブログとは比較にならないまでも、「話すネタ」を考えるのは結構大変だったんだろうなぁ、と思う。
 私自体は、以前にもこのブログで述べたが「本当かなぁ」と言う疑問と「なるほど」と言う感心との両面で読んでいるのだが、それでも、今でも「そうかも知れない」と今更ながら「身に着けよう」という気持ちになるものも数多くある。
 それにしても、それをなさった経営の神様は「偉かったなぁ」と思うと同時に、日頃たぶん直立不動の姿勢でこれらの訓辞を「聞いていた(聞かされていた)」社員も「エラカッタ」だろうなぁ、と思ったりする。
 これほど毎日ではなかったものの、職位がある程度になり、部下も10名を超す(実際には協力会社のメンバーがそれに加わるので、結構な人数になることがあるのだが)ほどになると、何かにつけ「お言葉を」といわれる事があった。
 大概は、そうなることを覚悟して、それなりのネタを探してゆくのだが、咄嗟に言われると、なかなか適当なネタが見つからない時もある。
 そんな時に思うのは「聞いている皆さんも大変だろうなぁ、エライだろうなぁ」と思うのである。
 神様ほどの言葉ならまだしも、言っている方も聞かされている方も「仕様が無い」でやっているのではと思うと、女性のスカート同様に短くしてきたつもりだが、振り返ってみると、このブログのように「長々、だらだら」と喋っていたのかもしれないと、今更ながら赤面するしだいである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :35 | 子育て | コメント(0 )

2011 年10 月25 日

ノーパンスタイル

 メインカテゴリーが「健康」であるかどうかは別の判断とさせていただく。
 「ノーパン」と言う言葉の響きについて、咄嗟に思うのは、もう随分昔になるけれど、どこかのお役所の役人の接待に使われたことだったのではないだろうか。
 発生は関西だったと聞くが、関西のものではなく、東京に居たときに何度か、完全な「助平心」と酔った勢いで行ったことがある。
 ノーパンでパンストをはいた若い女性が、カウンターの上を注文したお酒などを運んでいくところを、座って下から見上げるものだった。
 確かに「ノーパン」なのであるが、股の付け根が仄黒く見えるだけで、二度目以降は勢いと話題の紹介と言うことで、なんだか味気ない「見世物」を見る感覚だった様に記憶している。
 このままだと、そちらのほうにばかり話が反れるので、この辺にしておいて、今回のは、正に健康そのものだと私は思っているテーマである。
 今年も暑い盛りが不規則ながら結構長く続いたのだが、9月から再開した「朝の散歩」では、このスタイルとした。
 勿論「何も履かない」のでは「猥褻物陳(チン)列罪」になるので、外から見たら多分誰も気がつかなかっただろうと思うような、厚手のトレパンを着用していた。
 最初は半ズボンタイプのトレパンだったが、少しずつ気温も下がってくると、長ズボンのものにした。
 それでも、朝の冷気が肝心なところを冷却してくれるので、上半身はそれなりに汗をかくのだが、下半身は蒸れることなく、気分としてはかなり快適である。
 男性としての機能に良いかどうかは判らないけれど、この快適さはなかなか捨てられず、来年も続けてみたいと思っている。
 かつて、和服の時代、男性は褌という物で固定していたが、女性は「吹きさらし」だったと聞く。
 今でも和服着用時の女性にはそれが多いと仄聞するが、正しいかどうかは知らない。
 でも、男性諸君、時々は、犯罪にならない程度にこのスタイルをやってみてはどうだろうか。
 意外な感覚に驚かれるだろう。
 たぶん健康に悪いことは無い、と思っているのだが。

投稿者:つねちゃん
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2011 年10 月24 日

全国学力テスト

 先日表記のテストの問題が新聞に掲載されていた。
 いろいろと問題があるのかもしれないが、団塊の世代で常に狭き門をくぐらざるを得ない時代に育ったので、テストとなると「イッチョ試してやろうか」と言う気持ちがどうしても抑えきれない。
 小学校と中学校の問題なので、簡単に解けるし、勿論全て正解を取れると思って臨んだのだが、案外「落とし穴」があるものだ。
 具体的にどれが、と言うことは差し控えるが、自己採点で及第点は取れたものの、残念ながら「満点」は取れなかった。
 間違った問題を正解と比べながら見直すと、自分の弱いところが見えてくるようで、誰が見ている訳でもないのに、何故か周りを見回して恥ずかしい思いをする。
 総じて言うなら「早合点」であり、平たく言うなら「おっちょこちょい」なのである。
 何も時間制限がある訳でもなく、しっかりと問題を読んでいれば、間違うはずが無いのだが、などと言い訳してみたところで仕方がない。
 来年から同居している下の孫が小学生になり、数年先には別居だが、内孫も小学生、そうこうしている内に頭の孫が中学生・・・。
 爺としては、なんとしても中学生くらいまでは「爺ちゃんだって解けるぞ」と言う姿勢を持ちたいものであるが、果たして何処まで追随できるだろうか。
 でも、そんなことを思いながら、改めてそのための問題集を買うことなく、新聞に掲載されるだけの、問題に挑戦し続ける気持ちはいつまでも持ちたいものである。
 なぁーに、その内には呆けも始まり、一つも正解に辿り着けなくなったとしても「挑戦」と言うことが一つの刺激になれば、気分だけでも楽しいのだろう。
 いつまでも「挑戦する」と言う気持ちは持ち続けたいものである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :41 | 学習 | コメント(0 )

2011 年10 月21 日

疎まれても言っておきたいことがある

 在職中の一時期、その組織の最高の地位にある人から、よく叱られた。
 ある意味で「瞬間湯沸かし器」と渾名を取る人で、決して私だけが目の敵にされていたのではない。
 同僚と酒を飲んだ時に、自己弁護ではないが、余り上司の悪口を肴にすることは無かったが、ことその人の話になると意気が上がったものである。
 でも、最後には「だけど、正論だから面と向かって反発できないんだよなぁ」と言うことで終わった。
 決してこれを真似た訳ではないが、これと同様に、部下などに自分の思っていることを「言い聞かせた」ことがある。
 リタイアした今思えば、「どうでも良い事じゃなかったか」と思うことが多いが、それでも第一線に居たときのことを思えば「今言っておかなければ」と言う一種の情熱のように感じていたのだろう。
 ましてや「品質管理」と言う部門が長かったこともあって、周りからは「疎まれる」ことが多かった。
 しかしながら、表題のように「疎まれても言っておきたい」ことばかりだったのである。
 いま、子供や孫に言っていることも、その一つではないだろうか。
 余り言い過ぎると、反発や「そんなことまで言わなくても」と注意されるが、それならば黙って聞いていると、その注意した人が同じ様な事を言っているのである。
 決して「悪気」があって言っているのではなく、大概の場合は「良かれ」と思って言っているのである。
 メインカテゴリーで「子育て」としたが、これは何も「子や孫」などの目下に対してではなく、同僚や先輩にもであるが、結局は「自戒」が最も大きいのではなかろうか、と苦笑いである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :18 | 子育て | コメント(0 )

2011 年10 月20 日

友人から新米を頂く

 今年は震災による原発事故などで、米所の東北地方の被害が大きく、米価が高騰したり、一時期の米不足になるのではないかとの風評が流れたりしたので、米好きな私としてはかなり気になっていた。
 しかしながら、最近の情報では、被災地の心配も無くなり、全国への出荷もされていると聞いて、ホッとしている。
 この時期、米作りをしている友人から「キトキトの新米」を頂く。
 なんとも嬉しいと共に、現在食べている米は別にして、早速新米を炊いていただくことにしている。
 然程口が肥えている訳ではないものの、友人への感謝とともにやはりなんといっても美味しいのが嬉しい。
 新米そのものの味を無駄にすることなく、ごま塩や昆布などで味わっている。
 今年も、この嬉しさを満喫できることについて、孫を含めた家族共々、心から「頂きます」と大きな声で頂く。
 米行政への意見は、いろいろ議論されているが、それはそれとして、やはり「美味い!」ということへの感謝は、別格である。
 日本人の米飯による健康問題が指摘されているが、米国などではむしろ「健康食品」としての評判が高いと聞く。
 米飯に、干鰯などの近海で取れる青魚、納豆に今なら大根の整理菜などの味噌汁、と来れば、典型的な和食の朝食である。
 時々行く旅行では、そんな和食が無料でサービスしてくれるホテルを利用することが多い。
 かつて、農協関係の仕事をしていた影響があるかもしれないが、ここまでくればやはりお酒は日本酒であろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :36 | 健康 | コメント(0 )

2011 年10 月19 日

パイの桁10兆 すごいなぁ、とは思うが

 世の中には必要であるか、無いかとは全く別の次元で研究されている方が結構たくさんいらっしゃるようで、時々「えっ、そんなことをやっていらっしゃる方が居られるのですか」と吃驚すると共に感心することがある。
 今回のパイの桁を今まで自分が持っていたギネス記録を塗り替える記録を達成した件についてもそうである。
 もう何年か前に「パイの値は3で良い」というような乱暴な議論があったが、それと真逆の論法であろうと思うと、その論理を聞かれた今回の方はどのように思われただろうか。
 それにしても、パイには学生時代から随分と悩まされたものである。
 一頃の計算では「パイの二乗は10」と乱暴に覚えて概算値を求めたこともあった。
 そんな経験から今回のことを考えると、まことに頭が下がる思いであるし、必要な機器として48TBのHDDだったことは、コンピュータに少し関心がある身としては、その点でも感心し、頭が下がる思いである。
 でも、ここで水をさすようだが、冒頭にも言ったように、果たしてそれが「必要」だったのかどうかである。
 米国NASAでの宇宙研究では、通常我々が「誤差として無視する」値であっても、月やそれ以上の天文に到達するときには決して無視できないような値になると聞いたことがある。
 それを考え合わせても「必要じゃない」と私は判断するのだが、凡夫たる所以だろうか。
 「男のロマン」と言う意味では十分理解できるのだが。
 それとは全く別に、今回の記事で判った事が、ギネスの認定に1000ユーロ掛かると言うことだった。
 夢を語っているのとは全く別の次元で、自分の愚かさに苦笑いである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :31 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年10 月18 日

褒め言葉も度を過ぎると嘘になる?

 目くじらを立てるほどのことではないが、然程人気の無い(私が知らないだけかもしれないが)芸人(歌手や一般に言うタレントなど)がこちらのような「地方」に来るとなると、その宣伝文句がすごいことになる。
 「ふぅーん」と聞き流せば全く気にならない(今までがそうだった)のだが、ひとつ気にしだすと「本当にそうなのかい?」と突っ込みを入れたくなる。
 「満を持して」わざわざ田舎に公演に来たのだから、有り難く受講料を持って、万難を排して聞きに来るように、というような言い方をされると、???となるのは、私だけではなかろう。
 かつて、GS華やかなりし時、たまたまだが、在京生活をしたことがある。
 当時私らの年代の男女が集まっていた、銀座の「ACB」と言うゴーゴー喫茶では、スパイダーズ、タイガーズを初めとしたグループが、平服のまま出演していた。
 勿論、私も当時はミーハーの一員で、舞台前で大きな歓声を上げていた記憶がある。
 それが数年経って、確か金沢だったと思うが、地方公演に来た。
 少し勢いが衰えたとは言うものの、まだまだ田舎では飛ぶ鳥落とす勢いだった。
 私自身はもう飽きてしまっていたのだが、その時の宣伝文句もすごいものだったし、勿論煌びやかなステージ衣装だったのだろう。
 そんなことを思い出しながら、最近の余り知れ渡っていないタレントなどの紹介記事や、アナウンスには閉口してしまう。
 「満を持した」のはいつごろから?「数々の都合を調整しながら」とは、どんな都合があったの?などなど、そのうたい文句の一つ一つに「突っ込み」を入れたくなってしまう。
 勿論一方的な非難をしているのではなく、そんなことで「褒め称える」ことも現在の芸人さんに必要なのだろう。
 と同時に、子育てにもそれほど大袈裟ではなくとも、「褒めて育てる」と言う意味で少しは借りても良いのではないかと、微笑んでいる自分がいる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :31 | 子育て | コメント(0 )

2011 年10 月17 日

有識者会議に疑問

 何か問題があると、召集されるのがこの手の会議である。
 最初のうちは「よく知っている人がいろいろな面から議論して、より良い結果を求めるのだろう」と思っていたが、事実はかなり違うのではないかと気づかされるこのごろである。
 これは、在職中にいろいろな議論の場に参加したが、参加メンバーの中に「ひも付き」の人間が含まれていたことを思い出す。
 その結果、一般人がとても賛同できないような結論が発表され、長い目で見ると結局「ヒモ」がバックヤードに居て、何らかの利権に近いものがもたらされているのではないか。
 また「有識者会議の意見を反映して」と言う言葉を政治屋さんの口から漏れるが、尊重するにも反映するにも、それを十分に理解するだけの知識や見識があるとは思えず、結局は自分の都合のいいところは採用し、都合の悪いところは排除するだけである。
 そんなことならば、むしろ「有識者」などといわず、賛成者と反対者を真っ向から対抗させて、その折衷案に落ち着かせたほうがよほど良いのではないだろうか。
 勿論、議論が暴走することはあるだろうが、それはそれで是認すべきであろう。
 自分は蚊帳の外に居て、理論ばかりを並べて、実態を見つめないような「有識者」は何人居ても、現場で苦労に直面している人の気持ちは到底汲み取れないであろう。
 勿論、そうすると、今回の「やらせ発言」や「やらせメール」のようなことが出現するだろう。
 それが発覚した場合には、厳罰として「その意見は完全に抹殺する」と言う姿勢が必要だろう。
 「それもあるよなぁ」と言うような曖昧な態度では、決して「現場の意見」が反映されることは無く、いつまでたったも「曖昧模糊」の結論しか出なく、結果として誰もが喜ばない集約になるのではないか。
 そうだ、政治屋さんだけが喜ぶのか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :11 | 政治への注文 | コメント(0 )

2011 年10 月14 日

大銀行と信用金庫の対応

 あなたはどちらで呼ばれるのがお好きでしょうか?
 先日信用金庫と地銀大手の銀行をはしごして回った。
 僅かだが、母の逝去に当たって、一旦全て母が最も預金高が多かった信用金庫に集めて、兄弟姉妹協議の上で分与することにした行動の一環である。
 当然のことながら、信用金庫は「預金が少なくなる」のだから、直接的には余り歓迎はしない客だったのだろう。
 それでも、若い行員が細々とした対応を「会話」しながら行ってくれて、正直感謝した。
 その一環で、地銀大手にも僅かばかりだが、定期預金をすることになった。
 
 そんな環境の中で、窓口でのこちらの呼び方が、大きく違っていることに気がついた。
 信用金庫では、少し顔見知りと言うこともあり、客数が(私が行った時には)そんなに多くは無かったのも原因の一つだろうが、誰に対しても「〇〇さん」と呼んでくれる。
 片や地銀大手は受け付けたときに番号札を渡してくれて、呼ぶときには「〇〇番のお客様」と言う呼び方である。
 客の多さは比べようも無いのだが、だんだん聞いているうちに「俺は囚人か何かか」と思われてきた。
 人を番号呼ばわりすることに、「能率」が優先しているのだろう。
 また、個人名を呼ぶことは昨今の「プライバシー保護」と言う観点から禁止されているのかもしれない。
 それにしても、である。
 いずれも「地元密着」と言う点では考え方が同じだろうが、資金力などが現在では勝っている地銀よりも、お客を名前で呼んでくれる信用金庫のほうが、将来的には好まれるのではないだろうか。

 

投稿者:つねちゃん
at 06 :46 | 日記 | コメント(0 )

2011 年10 月13 日

人為ミスは原因ではない

 ANAの背面飛行や中国の度重なる電車事故など、原因は「人為ミスだった」とされそうだ。
 在職時に、品質管理を結構長く経験していた、一種の「職業病」かもしれないが、原因を「人為ミス」にすることに対しては、かなりの危機感を持っている。
 本当にそうならば「故意」であって、「過失」ではないのではないか。
 果たして、故意に事故を起こしたり、危機状態に持っていく人が本当に居るだろうか。
 いるとすれば、9.11ではないが「自殺行為」でしかない。
 人為ミスとされた場合、「勘違いだった」「見落とした」などの言い訳で終始してしまい、絶対に(余談だけれど、この世の中に「絶対」と言う言葉は余程の場合以外は使わないようにし続けている、これも一つの職業病なのかもしれないが)「真の原因」が改善されず、必ず(この言葉も絶対と同様に余程の場合以外は使わない習慣である)再発するのである。
 人為ミスを犯すのには、システム的な欠陥があるのである。
 それを見つけ出して、改善しない限り絶対に必ず「再発」するのは疑う余地が無い。
 在職中に、部下が当時流行っていた小集団活動で、名づけたグループ名が、「トリプルクエッション」だった。
 これは、私がいつも言っていた「何故は3回繰り返せ」と言うことからとったものだと聞いて面映い気持ちになったものだが、少なくとも原因究明はそれを基本にすべきであろう。
 その「何故」に選択肢が各々二つ(YESかNO)あれば、その各々について絞ってゆけば、最低でも8つの選択肢が出てくるのである。
 このことは、結構いろいろな場面で使えると、今でも思っている。
 不具合が起きた場合「失敗しちゃったね、今度からうまくやろうね」は孫が通っている保育園レベルでは許されるとしても、一般社会では、特に人命を預かるような場合は決して許されるものではない。
 憤慨しているのではなく、何時まで経っても素人園芸への自戒を込めてである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :47 | 興味あること | コメント(0 )

2011 年10 月12 日

本に読んだ日を記入する

 諸姉・諸兄は読んだ本に「読んだよ」と言う何らかの「印」を残されているであろうか。
 在職中の私は、そんなことなどすること自体意識になく、濫読、乱読の連続だった。
 そんな中で、当然のこと「ビジネス書」と言うものも数多く「読んだ」記憶がある。
 しかしながら、それを何時読んだか、どんな契機で読んだかなどは、朧気ながらは思い出すものもあるが、殆どは記憶にない。
 リタイアして、暫くは「もう本などは読まない」とのんべんだらりとしていたのだが、それでもやはり「蛙の子は蛙」で父の残した本の中から面白そうなものを読むようになった。
 余談だが、こんな時くらいから「自分の本」と言うものを買うことが殆ど無くなった。
 それでなくとも、いろいろな分野の本が父の逝去後、徐々に整理処分(ユネスコと言う組織が古本を受け取って、それを売ったお金で奉仕活動をしていると聞いているので)しているものの、まだ3つの書架に満杯の状況である。
 だから、昔は良く「時間つぶし」のためには本屋へ良く寄ったのだが、今では100均の店に変わってきている。
 本題に戻って、そんな頃から、読んだ本には、読んだ日付を書くことにしている。
 勿論、一度きりのものも数多くあるが、何度も読み返す本も少しある。
 このブログのタイトルにも使わせていただいている「徒然草」もそのうちの一つである。
 書き写しのネタも一つ一つ終わってゆくのだが、当然新しいものを探して、それにチャレンジする。
 先日三度徒然草に遭遇することになった。
 最初の日付は「読んだ時」のものであり、次の日付は「書き写した時」の日付である。
 そして、今は「左手で書き写した日付」になっている。
 だからどうなんだ、と言われれば、特別何かが変わった訳でもないのだが、1冊の本でも何度か読んでいれば、愛着が沸く、と言うところだろうか。
 決して、「何かの徳」になる訳ではないから、無駄と言われればそれまでなのである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :38 | 学習 | コメント(0 )

2011 年10 月11 日

久しぶりにスーツを着て歩く

 在職中、一般社員として「作業に没頭」している時は服装などには殆ど無頓着たったし、それが当然のこととして、何かの拍子にスーツなどを着ていこうものなら「今日は何の日」と揶揄されたりしたものだった。
 ところが、職位もあがると、どうしても「お客様対応」が必要となり、当然のことながら、スーツが「制服」のようになったもので、それで過ごすのが当然だった期間が相当長かった。
 真夏でも、当然夏服だったものの、都心を結構長い時間歩いても、それなりの「消夏法」があり、お客様の前ではハンカチで汗を拭うような事は殆ど記憶がないし、それをして相当上司から叱られた経験がある。
 それがリタイアしてからは、親戚や知人の不幸に参列するとき以外は殆ど着用することがなかったスーツである。
 また、参列する場合も殆どが車だったので、「歩く」と言うことはかなり少なかった。
 ところが、先日親戚の法事に際して、娘も仕事だったし、会場では「飲む」ことが当然だったのでそんなに遠くない距離だったし、気温も然程高くなかったので歩いて出かけた。
 距離としては、約1.5Kmくらいなので、在職中のことを考えればなんと言うことはない、と考えていたのだが、何せ久しぶりのことなので「暑さ消化法」というのが身についておらず、会場へ着いたときには汗びっしょり、とまでは行かないけれど、相当な汗で、洗面所でハンカチを濡らして、出来る限り体を拭いた。
 歳とともに体が鈍った事は当然あるだろうが、それ以上に「動作が身に着かなくなった」ということのほうが大きいのだろう。
 今週も「飲みに」行くことがあるが、やはり一種の同窓会であり、退職当時の職位相当の席に座ることになるので、スーツは欠かせない。
 今更そんなことを「身につける」と言う必要はないと思うが、時にはそんなことをして歩いてみるのも「健康」と言う意味ではあってもいいのではないだろうか。

投稿者:つねちゃん
at 05 :55 | 健康 | コメント(0 )

2011 年10 月7 日

歴史を地域振興に使うというが

 地元で戦勝祈願をして、勝った戦武者を大河ドラマにしようということで、市が推進している。
 落ち着いて考えてみると、果たして大河ドラマになるものか、万が一なったとして、子供にどのようにして何を教えるのか。
 「牛の角に松明をつけて谷から追い立てて落とし(動物虐待)、寝ていた武者どもを悉く負かして(戦争では非道なことも許される)地獄絵図を描いた」とでも伝えるのだろうか。
 それが完全に独自の戦略だったとでも言うのだろうか。中国の古戦法に倣っただけなのに。
 どうも、歴史が苦手だったのだが、こうまで悲惨なことをクローズアップして、大河ドラマに仕立てて、観光客を呼び込んで地域の活性化につなげようとする魂胆が判らない。
 そのために、歴史的に果たして本当にそうだったのだろうかと言う、大きな疑問があることに対しても、いろいろな「塚」を立てて、「そうだったのだ」と言うように言うこと自体にも理解が到底及ばない。
 源義経の伝説も、土地土地の古老による言い伝えだって、何人かに聞けば違う論理が展開されるし、隣県の「安宅関」の現実の場所だって、今はすでに海中だったと言う説も聞いたことがある。
 それよりも、もっと「これだけ物を大切にしていますよ」と言うことをアピールしてはどうだろうか、と言うことのほうが、過去・現在・未来について誇れるものだと思うし、子供の教育についてもより良い方向なのではないだろうか。
 縄文の昔(鉄製の武器も無かったから、血なまぐさい戦争などは無かったと聞くし、思いも寄らない遠方との交流には、言語の差をどうして克服したのかなどの経験が尊いのでは無いだろうか)に思いをはせることはまだ良しとしても、戦国乱世の血なまぐさい歴史を売り物にすることには、やはり無理があろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :39 | 子育て | コメント(0 )

2011 年10 月6 日

「痛飲」という言葉が通じない

 治験者になったことは以前にもこのブログに書いたが、担当の人と1ヶ月に一度「問診」がある。
 そのときに、それまでの約1ヶ月の血糖値測定結果ノートをお渡しするのだが、私自身のメモも兼ねて、どんな状況だったかを欄外に書くようにしていた。
 大体は「ウォーキング60分」とかであるが、ある時、前夜あるイベントで鱈腹飲んだので、「前夜痛飲」と書いた。
 で、聞かれたのは「お酒を飲んでお腹が痛くなったのですか、処置はどうなさったのですか?」と言う質問だった。
 「エッ」と思った。
 いやいや、そうではなくてひとつの謙遜と言うか、表現の一つで「鱈腹飲んだ」ということだよと説明をしたので、その時には納得してもらったのだが、担当の彼女はやはり組織の人だから、上部へ報告したのだろう。
 次回「本当にお腹が痛くなったのではありませんね?」とまたしても聞かれた。
 多分上部の人も若い人なのかもしれないが「痛飲」と言う言葉を理解してもらえなかったのだろう。
 私自身、漢字が好きでいろいろな言葉を使って、人を煙に巻いたり、それを愉快がったりしている悪い癖があることは承知しているが、「痛飲」と言う言葉はその範疇に入る言葉ではなかろうと思っていた。
 で、最後には「具体的にどれだけの量を飲まれたのですか、上司が聞いて来いと言うもので」と言われた。
 仕様がなく「たぶん日本酒で5合位かな」と答えたが、今度は「合」が判らない。
 ここでも、1合は180mlのことで、日本酒のアルコール度は大体14%くらいかな、と解説しておいた。
 大体「痛飲」した時に飲んだ量なんて覚えているくらいならそういう言い方はしないものだ、と言っても理解されないであろう。
 酒飲みのひとつの楽しみだろう、とお笑い頂きたい。

投稿者:つねちゃん
at 06 :33 | 健康 | コメント(0 )

2011 年10 月5 日

親戚と家系図

 以前父の逝去に当たっても同様な趣旨のことを書いたような気がするが、今回の母について初めて知った「原戸籍(はらこせき)」というものから、いろいろな人との繋がりを否応なく知ることになった。
 いやいや、父の時は初めてのことだったので、必要最小限だけ知っていればいい、ということで、そのほかのことは見逃していたのだろう。
 それに加えて、父方の祖母の実家での葬儀などがあり、正直なところ代が一世代移っているのだが、父の時代から日頃懇意にさせていただいているので、親族としての付き合いをさせてもらうことになった。
 ところが、こちらは我が家のほうも覚束ないのに、殆どが判らない状態で、昔話などをされ、こちらの両親の若い時のことまで話が及ぶと、まったく知らない話もで出来て、対応するのが侭ならない。
 そこへ、そろそろ両親のものを整理しても良かろうと、今まであまり触ったことのないものも開けてみると、私と同様(というよりも私が知らず知らずのうちに父と同様のことをしているのだが)に新聞の折り込みチラシの裏に、見慣れた父の筆跡で、家系図が書かれている。
 それを辿ってみると、「なるほど」と思ったりすることが楽しい。
 折角父が残して行ってくれたので、まずはデジタル資料として整備して、今までの死亡、出生も書き加えて出来る限り最新のものに維持していき、加えて私自身が世間に恥じないように付き合いもし、昔話などにも淀みながらでも楽しく付き合って行きたいと思っている。
 それにしても、13人兄弟の末っ子だった母の系図を整理するのは、なかなか大変ではある。

投稿者:つねちゃん
at 07 :57 | 日記 | コメント(0 )

2011 年10 月4 日

報道を鵜呑みにしない

 「ニュース」という言葉の起こりの幾つかの説に「新しいもの(new)」という意味と「東西南北からの知らせ(North,East,West,South)」というものがあると聞いている。
 放送メディアが従来の新聞・ラジオから、TV、インターネットなど多彩を極めているのだが、「そうかそうか」と無批判に聞いていはしないだろうか。
 全てのことについて疑問をはさむつもりもないし、それだけの知識もないのだが、時折「本当にそうなんですか」と疑って見聞きしてみてはどうだろうか。
 最近、そんな目で見聞きしていると、良く「一般の人に聞きました」というのが気に掛かる。
 TVで放送する場合は「顔は見られたくないけれど言いたいことがある」人の意見はまずもって採用されることはないだろうし、要点はついているが、言葉がすんなりと出てこない人の意見もまずは収録されたとしても、編集されてその真意や真剣さが伝わらないのではないだろうか。
 結局「放送局の主張したいこと」だけが「実しやかに」報道されているのが実態ではないだろうか。
 政府がある指針を打ち出すと、報道するためには多分10人を下らない人に取材をして、そのうち「自局好み」の意見を80%、異論や反対意見を20%くらいで報道しているのではないか、と思ってしまう。
 挙句、大体は「反対意見」が大勢を占めているのが世論である、とばかりの報道である。
 果たしてそうなのだろうか。
 発表する側の政府も一辺倒に信ずるわけではないが、それを自局好みの変調を掛けた報道も「鵜呑み」するわけにいかないだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25 | 報道 | コメント(0 )

2011 年10 月3 日

生徒さんから教わる

 請われてPC講習の先生をやっていることは、何度となく紹介したのだが、講習料が欲しくてやってるわけでは決してない。
 勿論頂けるものは有り難く頂くのは、凡人たる所以ではあるが、それに倍加して嬉しい要因がいくつかある、と言うのが本音なのである。
 タイトルのように「生徒さんから教わる」ことがその第一であろう。
 WordやExcelを始め、PowerPointやこれから良く出てくるのが「年賀状作成ソフト」などについては、私自身が持っているソフトは1種類しかないのだが、今まで対応したことや、判らなかってネットで調べたことなどを集積して、教えてあげられることも、そこそこある。
 時には、見たこともないソフトのやり方を請われて、一緒に学習しましょう、とやったこともあるが、そんな時にはどうしてもその人に掛かりきりになるので、団体講習の場とは別の機会にさせていただくこともあった。
 でも、慣れ親しんだソフトでも、勿論全ての機能を知っている訳ではないので、往々にして「先生、こうやったらこんなことになったけど、何でこの方法を教えないのですか」と聞かれることがあった。
 正直、年齢的にももう10年近く前だったから、50歳代後半になりかけで、短気の性格もまだ残っていたから、「それならそれでやってください」と怒声に似た言い方をしたこともあった。
 しかしながら、その度ごとに「あぁーぁ、またやってしまった」と後悔頻りだった。
 その反省の積み重ねが「なんて素晴らしい事を教わったものだ」と言うことである。
 勿論PCの操作ばかりではなく、ほとんどの生徒さんは私より人生を長くやっていらっしゃる方なので、思わぬ人生訓を教えられることもある。
 そんな時は、人知れず「小躍りして」喜んでいる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :30 | 学習 | コメント(0 )

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